長門有希の忘却 後編
高校に入ってから何度目だろう。結局長門との思い出の核はここにある気がする。 だが、どう見ても入り口に長門の姿は見えなかった。もう遅かったか…… ……いや。 いつぞやの閉鎖空間の壁のようにうねっている図書館の扉。だが、これは通り抜けられる。まるでゼラチンの中に入っていくようだ。 図書館の中は静寂に満ちていた。 電気もついてないし当然か。俺の闊歩する音がかん高く聞こえて不気味ですらある。俺は奧のソファーがある場所へ足を進めた。 そして、ため息をつく。大きいため息。 やはり眼鏡はないほうがいいな。 でも、正直よく見えない。号泣とはいかず、ちょっと頬をつたう程度なのだが。 「……長門」「ありがとう」 第一声がそれか。「頼みたいことって、なんだ?」 黒くて何とも言えぬ深さを持つ目が俺を見つめる。「本」 本? これかこれがどうした?「読んで。」 いや、もう読んだんだよ。俺の趣味にはちょっと合わなかったけどさ……はは。 お前はこういう小説が好きだったのか?「よく分からない。」 そっか。他に何かはな「読んで。」 え?「本……読んで。」 なんと答えればいいんだ? 今からこれを……文字通り、音読しろってことなのか? それほど厚い本じゃないが、それじゃ明日になっちまうぜ。「しおり」「ん?」「しおりのところからでいい。」 そういうことか。それなら…… ガタッ とっさだった。 長門は糸が切り崩された操り人形のように崩れ落ち、俺はそれを間一髪で抱える。「大丈夫か! 長門!」「……わたしが……今の現実世界のわたしが、対消滅への過剰反応を起こしている。」 過剰反応?「あと30分でわたしは消滅するが、わたしとあの『わたし』は同じ時間軸にリンクしている。」「私が消滅する際は、あの『わたし』にも負荷がかかる。その兆候。」 それは、さっき駅であった長門が顔を赤らめていた原因なのか?「そうかもしれない。一時的な、いわゆる風邪のような症状。そして、わたしにも……」 ……なんでこいつは消える前にも苦しまなきゃいけないんだ。そして何の罪もないあの長門も……!「情報統合思念体は私に忘却プログラムを植え付けた。わたしはわたしを消す。これはさけられないこと。」「……いいのか? お前はそれで」 長門は首をかしげるような動作。瞳はこれ以上ないぐらい黒く黒く澄んでいる。「…………そのような問題ではない。避けられな――」「――お前はいいのかって聞いてんだ!!」 静寂の図書館に、感情にまかせて放っただけの俺の声が反響した。 物語は佳境に近づいている。 いや正確なページ数は分からんからどこまで続くのかは分からないが、『そちら』の宇宙人も三日目の夜を謳歌しているのだから、多分クライマックスが近づいてるんだろう。 「そして~は……」 そう言えばさっきから長門はずーっと俺の顔を見ているな。俺が字に夢中だからかは分からんが、瞬き一つしていないような気もする。「なに」 俺の方がちょっと見つめすぎてたみたいだ「ああ……なんでもないよ。続きいくぜ?」 「……そして、~は」 ……そう。ここで切れているのだ。事実上、ここでおしまい。「……」「……どうだった、俺の音読。俺、小学の時から国語はぜんっぜんできねぇからなぁ。つたない読み方かもしれないけれど、」「まだ終わっていない。」 え?「まだ続きがある。」 それはどういう……「あなたが、続きを作る。」「主人公Kには、最後の選択がある。」 俺はさっきも言ったように、国語力は皆無だ。ましてや小説なんか……「いいなずけと仲間達とこれまで通りの幸せな生活を送るか――」 長門の目は、澄んでいる。肌は人形のように無機質だ。「――宇宙人に解毒の秘薬を口移し、自分も宇宙人になって二人で銀河へ逃げるか。」 …… 第一、第一に、だ。 それは作中で示唆されている選択だぞ。それを決めることのできる権利があるのは、このカバーに書かれているよく分からん横文字の作者だけじゃないのか? それに、これと同じ本にはオリジナルなその結末は書いてあるんじゃないか? それを他人が……俺が決めるのは冒涜的すぎる。「この本に筆者いない」 は?「正確に言えば、これはわたしの……」 二秒の静寂の後、「わたしのあなたへの問いが具現化されたもの。あなたは答える権利を持っている。」 昨日の本の話からのことがすべて合点がいったと同時に、俺は重すぎる選択をしょいこんだ。 どうすればいい? 原作中の誰が誰を表しているか、なんてことは、さすがの俺でも分かる。長門はもうすぐ消えてしまう。 ならばせめてそちらの選択を選んでやるべきなんじゃないのか? ……俺は …………俺は「Kは……」「……」「そしてKは、宇宙人となってしまう解毒の秘薬を口に含み、」「…………」 無意識かもしれない。俺は長門を抱きしめていた。 いや、ちょうどさっきまでも抱く体勢だったのだが、それとは根本的に違う、 強い、本当に強い抱擁。どこにもやりたくない、というような、そんな…… しかし、俺の唇は薄幸の肩口を抜け、空を切っている。「そして……」 ちょうど、俺は長門の右肩に頭を寄せた体勢。ここでつぶやけば、まさに耳元へ届くように―― 「Kは秘薬を飲み込んだ。」 長門の口が、おれのつぶやきと同時にぽっかりと開いたような気がした。「そしてKは宇宙人Yの唇を奪い、こう言うんだ」 俺は長門への腕を解き、直視する。「自分を捨てることはできても、あいつらは捨てられない。ごめんな。本当にごめん」 俺は長門と唇を重ねた。 図書館は静寂に包まれていたはずだ。 しかし、なんだろう。再度長門の腕を解いた俺には、教会の鐘が何十にも鳴っているかのような……そんな騒音が聞こえてきた。 同時に、たちくらみのようなものが襲ってくる。なんだこれは。長門はどうしたんだ。 俺の目の前の長門は……いない? どういうことだ。景色がうねっているぞ。 まさか、またリアルな夢の出来事なのか? 待て、なら今までの流れた三日間の現実は…… 薄れゆく意識。ハッと気がつく。 俺は何をやってる? ここはどこだ? 歩けるか? 長門は? 閉鎖空間のような、でも一面は真冬の夜のような澄み切った空だ。まるでプラネタリウムの中を歩いている、そんな空間。 ふと、しんと白いものが降ってくる。「……雪か。」 まさにパウダースノー。スキー場や北国に行かない限り、そうそう見られるものじゃないよな。こういう雪って。 しかし、何故か雪はあたたかかった。ぬくもりがあった。 ……なんだ? なんなんだ、この空間は。どうすれば……「……!」 俺は絶句した。 いつの間にか俺の前には数人の高校生が立っていた。そこにいたのは、何を隠そう、SOS団の面々である。 小綺麗なニヤケスマイル。花も恥じらう可憐な乙女。そして黄色のリボンが映える少女。「お前らどうしてここに!?」 口ではそう言っていたが、目下の関心はそこにはない。 長門が、いない。「お、おい! 長門はどうしたんだ?」「ふふ、そう一度に複数の質問を投げかけないでくださいよ。」 そのニヤケを崩さず答えたのは古泉。「わたしたちがここにいるのは、必然、ですよ?」 口を開いても、まぁぶっちゃけ何していてもかわいい朝比奈さん。「有希はね。もう消えちゃったの!」 我らが団長、ハルヒが元気な声を出す。顔はあまり見せない満面の笑み。「長門は、もう消えた?」「そうですよ。長門さんはもういません」「長門さんはお空に……」「そう! 有希はこれよ!」 ハルヒが空を仰ぐ動作をする。「このすっごく綺麗な雪になっちゃったの!!」 ………… 俺は混乱している。何がどうなってる? 何でこんなことになってる? こいつらが答えた答えから、また新たにつきない疑問が湧いてくるだけじゃねぇか。「どうして?」「なんで不思議そうな顔をしてるの? 有希をそういうふうにしたのは、キョンじゃない」 え? ……俺が? 俺が長門をこの空に変えた?「どういうことだ?」「どういうことって……有希はあんたの選択を聞いて、一番いい方向に自分を持っていったのよ」 選択。 「この雪はあったかいでしょ~? 有希は一生私たちに影から奉仕してくれる存在になることに決めたのよ!」 選択、か。 「あなたがそれを望んでたんでしょ? っさ、こんな話はおしまいにしてSOS団の今後の活動計画を話し合うわよ!」 長門は…… 「サッカーってのはもう決まってるわよね! あたしがFW、みくるちゃんはDF兼チームマスコット、古泉くんはGKね!」 俺の選択を受けてこういう世界を望んだのか? 「あんたは……そうねぇ、まぁ、FWやりたいなら、やらせてあげないこともないわよ!」「長門はどうした」「え? 有希はもう居ないわよ? 私たちを見守ってくれる存在になったの。」 いいや。「長門のポジションが決まってねぇぞ」「……え?」「監督でもやらせるのか? 長門の運動神経はすげえんだぜ? 選手として使わないのはもったいない。」「ですから、長門さんはもう……」「キョンくん、ちょっと変です……」「そうよ。今日のキョンちょっと変だわ。なんかトンチンカンなこと聞いてきたり……」 違う。お前らが変なんだ。俺からしてみればそうだ。 なんだ? 何が「見守ってくれる」だ。あほらしい。 長門は長門だ。古泉にも朝比奈さんにもハルヒにも、俺にも干渉できない一つの存在なんだ。 ふざけるな。 俺はこういう世界を望まない。 長門がいない世界なんざ、いらない! 俺はまたまた幻覚を見ているのか? さっきまで俺の目の前にいた三人集はすべて消え、かわりに―― 「長門……」 雪は止んだようだ。「…………」「…………」 長い、長い間。 形容では無く、本当に長い間。一分ぐらいだろうか。その間、俺はずっと長門を直視していた。「……そう」 その一言が発せられた後、俺についさっきと同じような、立ちくらみと鐘の音が襲った。 ――さきほどまでの図書館。 まだ夜のようだが、時間は…… 2時、2時半?「な、長門は!」 …… 俺は白痴にでもなったのか? 長門は今俺が抱えてるというのに。「……」「長門……。大丈夫だったのか? どうしたんだ? 何が」 表情の薄い宇宙人が口を開くのを見て、俺は次の言葉を飲み込んだ。「わたしに数え切れないほどのエラーが発生した。」「エラー?」 長門はコクリと頷く。この動作は、けっこうレアなものでも無くなってきたよな。「……本来ならば、今ここにわたしはいない。わたしはあなたを含めた特定の人間の記憶を改竄したのちに自ら消滅するはずだったから。」 ああ。パソコンの説明通りだ。「しかし、わたしになんらかのエラーが発生した。エラーの元となったバグ思念はわたしのプログラムと記憶を改竄し、正常な本来の動作……」 一瞬だが長門は口をつむぐ。俺は間髪を入れなかった。「まぁ、どうでもいいことだよな」 疑問の表情。「……どうして?」「記憶を改竄、と言うことは、お前は昨日までのことを覚えているのか?」「…………覚えていない。三日目からの記憶はすべて、おそらくそのときのわたしが生み出したバグ思念が消去してしまった。」「なら、いいだろ! 別にさ、どうだって……」 長門はなおも納得がいっていないような表情だ。「じゃあ。」「……?」「お前は、今のお前自身やSOS団、俺に、何か不満があるか?」「……」「無いなら、別にいいじゃないか。そうだろう?」「……」 ホントに、全然レアな代物じゃなくなったよな。 エピローグへ
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