涼宮ハルヒの感染 6.《神人》
6.《神人》 機関の本部ってのは始めて来た。何の変哲もないオフィスビルの一角だった。普通の会社名がプレートにはまっている。「もちろん偽の会社です。機関の存在目的を世に知らしめる訳にはいきませんから」古泉はそう言って笑った。しかし、何の仕事してるかわからん組織に良くオフィスを貸してくれたよな。「このビルは鶴屋家の所有物ですから」なるほど。 俺の計画は簡単だ。《神人》を通してハルヒに話しかける。ハルヒの元に声を届ける場所が他に思いつかない。「どうでしょう。《神人》に理性があるとは思えません。 あれは、涼宮さんの感情の一部が具現したものだと思われますが」古泉は疑わしげだ。無理もない。閉鎖空間については古泉の方がよっぽど詳しい。何度も訪れているんだからな。俺だって確証なんか何もない。だがな。「お前は閉鎖空間でハルヒが俺を呼んでいる、と言っただろう」前に古泉が言ったことを持ち出した。この言葉が俺を決心させた要因の1つだ。「確かに閉鎖空間に入るとそう感じますが……」古泉はまだ納得行かない、という顔をしている。「俺はこの1週間、何度もハルヒに話しかけたんだぜ。でも全く反応がなかった」当たり前っちゃ当たり前だけどな。「現実世界ではハルヒに声は届かない。 閉鎖空間でハルヒが俺を呼んでいるなら行ってやるしかないだろう」俺としては、古泉始め機関がこの可能性に思い当たらなかった方が意外だ。「なるほど。解りました。どのみち、僕はあなたに委ねたのですからね」誤解を招くようなセリフはよせと言っているだろうが。どういう意味だ。 朝比奈さんも一緒に閉鎖空間に行かないかと誘ったのだが、古泉が止めた。朝比奈さんは、病院でハルヒと長門についている、と言った。「今回は神人に近づかなければいけません。危険ですからね」ハルヒなら朝比奈さんに危害を加えるわけはないと思ったが、結局俺が折れた。「万が一と言うこともあります。僕としても、1人ならともかく、2人も守れるか自身がありません」そう言われたら仕方がない。「わたしも、長門さんも気になりますから病院に行きますね」朝比奈さんはそう言った。 長門は相変わらず眠ったままらしい。こんな状態じゃなければゆっくり休んでくれ、と言いたいところだ。俺は朝比奈さんに2人をよろしくお願いしますと言うしかできなかった。「まず、あなたにお礼を言わなくてはなりません」「お礼?」何のことだかわからん。俺はまだ何もしていない。これからしようとはしているがな。「いえ、橘京子のことです。1回目の接触で、ある程度目的は予測できていました」まあ、あいつが俺に用があるとしたら1つしかないよな。「ですが、そのときはまさかTFEIがすべて活動を奪われるとは予測していませんでした。 前日に連絡を取った際には、何も起こってなかったんですからね。 今朝の時点で、機関内部でも佐々木さんに頼るという案すら出たくらいですよ」まじかよ! 機関はハルヒを神としているんじゃなかったのか。「その案を指示したのはごく一部の人間です。でも情報のつかめない宇宙存在よりは 佐々木さんに力を託した方が安全。そういう考え方もあります」胸くそ悪い、と思ったが俺も人のことは言えない。一瞬でも、そっちに気持ちが動きかけたのは事実だ。「結局、我々はあなたに選択を委ねたのですよ。 何とか最後まであがいてみるか。この場合、危険が伴います。」古泉は大げさに首を横に振った。「──それとも、佐々木さんに世界を委ねるか。 機関としては好ましくないのですが、仕方がありません」そう言って肩をすくめた。「結局、機関は何とかできるのはあなただけだという結論に達しました。 それが涼宮さんに選ばれた鍵の役目だと。 世界がどうなるか、それを決めるのはあなたです」 おいおい、勘弁してくれよ。そんな大げさなことを考えていた訳じゃないぜ。だいたいそんな大事なことを俺個人の感情で判断していいのかよ。だが、もう俺は選択しちまった。「僕個人としては、やはり最後まであがいて見たかったので。 ですからお礼を言わなくてはなりません。ありがとうございます」お前のためにやったんじゃねぇよ。勘違いするな。「やれやれ」もうそれしか言うことがない。「とにかく、今は少し休んでいてください。今のところ閉鎖空間は発生していませんから」「時間までに閉鎖空間は発生するのか?」これが一番の懸案事項だ。他にハルヒと話せるかもしれない場所はない。それすらできるのかどうか怪しいもんだ。古泉だってそんな経験はないんだからな。いっそ、去年の5月にあったあの閉鎖空間を作ってくれりゃいい。だが、そう上手くは行かないだろうな。「実をいうと、最初の頃より発生頻度は下がってきてはいるんですよ。 その分、僕の感じる涼宮さんの不安感は増えているんですが。 それにしても、まもなく発生しますよ。単なる勘ですけどね」「お前がそう言うなら間違いないだろうさ」閉鎖空間のスペシャリストだろうからな。俺のセリフに古泉は苦笑した。「しかし、発生する数が減ってるってのはどういうわけだ? それで不安が増してる?」長門が言うには、この探索とやらを実行中は、ハルヒにかかっている負荷が大きく変わる訳ではないらしい。だったら、閉鎖空間も同じ頻度で発生するもんのような気がするが。「はっきりとわかってるわけではありません。ただ、苦痛は慣れるということではないかと」思案げな顔をして、古泉が言った。俺がここで考えたってわかるわけもないか。 時間だけがただ過ぎていった。俺はイライラしながら閉鎖空間の発生を待った。朝1で来たってのに時間は10時半を回っている。わざわざ車を回してもらう必要もなかったな。橘から簡単に逃げられはしたが。古泉は何かと用事があるらしく、俺は通された部屋で1人待っていた。森さんが顔を見せてくれるかと思ったが、かなり忙しいらしい。「まだかよ」もう何度目になるかわからない独り言をつぶやく。まさか閉鎖空間の発生を心待ちにする日が来るとはね。あんな灰色空間は好きになれないはずなのにな。 だいたい、上手く行くのか? 何の確証もないんだぜ。橘の戯言に乗った方が確実なんじゃないのか?後のことは後で考えればよかったんだ。 1人で考えていると、どうもマイナス思考になる。 いかんいかん、俺は首を横に振った。長門の診断と予測、古泉の言ったこと、朝比奈さんの忠告。俺は全部信じているんだろ? だったら──俺は俺にできることをするだけだ。「お待たせしました」やがて、古泉が俺を迎えに来た。「来たか」待ちわびたぜ。 今行ってやるからな、ハルヒ。 閉鎖空間が発生したのは、前回と反対側の県庁所在地のある都市だった。全国的にお洒落な街というイメージがあるらしい。同じ県内にもかかわらず、俺は数えるほどしか来たことがない。街に出る、というと前回の大都市に出る方が多いからだ。 駅前から続く花の通りとか名付けられた道の海側から、閉鎖空間は広がっていた。ん? この位置だと、東側から入ればもっと早かったんじゃないのか?「なるべく《神人》が現れる場所の近くから入りたかったので」なるほどな。「それでは行きます。目を瞑ってください」あのときと同じように、古泉は俺の手を取った。そういやどうして目を瞑らなければならないのか聞いてないな。朝比奈さんとの時間旅行のように目が回る感覚などない。何か違和感を通り過ぎる、という感じか。──キョン── 一瞬、ハルヒの声が聞こえた気がした。いや、聞こえた気、じゃない。はっきり聞こえる。「もういいですよ」古泉の言葉で目を開けたが、相変わらずハルヒの声が頭に響く。──バカキョン!────バカ! いつまで待たせんのよ! 罰金!!── えーと、ハルヒ? うるさい、お前の怒声は頭に響く。いや、文字通り響いているんだが。俺は決死の覚悟でここに来たんだが、歓迎の言葉がこれか?思わず溜息をついてうなだれると、古泉が心配そうに顔を覗いてきた。「大丈夫ですか? どうかしました?」古泉には聞こえてないのか。「何がです?」「ハルヒの声」 古泉は目を見張って俺を眺めた。「俺の頭がどうにかなっちまった、って可能性もあるけどな」そんな目で見られると自信がなくなってくる。「そうではないでしょう。 前に言ったとおり、僕にも涼宮さんがあなたを呼んでいるのは感じられます。 ただ、感じているだけで聞こえている訳ではなかった」そう言うと、少し考えるようなポーズを取った。わざとらしいが様になる。「どうやら、あなたが正しかったようです。涼宮さんはあなたを閉鎖空間に呼んでいる、 それで間違っていなかったようですね」悔しいがこいつにそう言ってもらえると安心する。 そんな会話をしながらも、俺の頭の中にはハルヒの怒声が続いている。バカだのアホだのマヌケだの罰金だの死刑だの、ほんとに勘弁してくれ。「呼んでいるっていうかな、さっきからずーっと怒鳴りつけられている訳だが」俺が溜息をついて言うと、古泉は少しだけ笑顔に戻って言った。「それはそれは。こういう状態になっても涼宮さんは涼宮さん、ということですか」まったくだ。「おい、ハルヒ、いい加減にしてくれ!」俺たち以外誰もいない灰色の空間に向かって呼びかけてみる。だが、何の返答もなかった。俺の頭の中には、さっきからハルヒの罵声が響いてて、いい加減嫌気が差してくる。なんつーか、今朝の俺の決意をすべて喪失させる気か、この野郎。今朝まで深刻に悩んでいた俺がバカバカしくなってきた。後で朝比奈さんに、今朝あたりの俺宛にでも伝言を頼むか。 『悩むだけ損だぞ、俺』なんてな。そうは言っても、俺がそんな伝言受け取っていないことが既定事項ではあるが。 俺がそんなげんなりした気分になっていると、古泉の真剣な声が聞こえてきた。「始まりました」 何度見ても現実感がない光景が広がった。青い巨人──《神人》がゆらりと立ち上がった。相当距離があるのに、その巨大さからかなりはっきり見える。あれは新幹線の駅の辺りだ。 そして、前に見たとおり、周辺の建物を破壊し始めた。「……………」 俺が無言なのはその光景に飲まれたからではない。──このバカキョン!──ズガァァァァン──こんなにあたしを待たせるなんて許し難いわ!──ドカァァァァン やれやれ、間違いない、あの《神人》は確かにハルヒのイライラそのものだ。《神人》の動きと俺の脳内音声が、完全に一致している。しかも、俺に向けられているらしい。「古泉、何でか知らんがあの《神人》は俺にむかついているらしい」溜息とともに吐き出すと、古泉は一瞬不思議そうな顔をしたが、フッと笑って言った。「なるほど、それがおわかりですか。ならあなたの計画も上手く行きそうですね」 しかしハルヒ、ずるいぞ。俺にだけ一方的に声を届けるなんてな。お前に声を届けたいのは俺の方だよ。「かなり遠いな。まさか歩いて行くのか?」「いえ、それでは時間がかかりすぎますから。ちょっと失礼します」そう言うと、古泉はいきなり俺を羽交い締めにするように抱えた。「おいっ! 何しやがる!」思わず反論した俺に、古泉は軽口で返しやがった。「おや、正面から抱き合った方が良かったですか?」「ふざけんな!」アホなやりとりをしている間に、目の前が赤い光でに染まった。古泉が例の赤い球になったらしい。内部はこうなってるのか。 なんて考えた次の瞬間、ものすごい勢いで飛び立った。「うおぉ!?」早い、何てもんじゃない。生身で飛行機に乗っているようなもんだ。ただし、赤い光のおかげか、風圧は全く感じられない。眼下に流れていく景色を見て、思わず身震いする。古泉にばれたな畜生。しかしこれはかなり怖い。こいつはいつもこんなことをやっているのか。 《神人》の近くにたどり着くまで、1分とかかっていない。時速何キロだったのか、誰か計算してくれ。俺は考えたくない。《神人》は、手近な建物から破壊を始めていた。近くで見ると大迫力だ。映画みたいだ。 そんなのんきなことを考えている場合じゃない。 あの《神人》がハルヒの精神と繋がっているなら、声が届くのはここしかない。 《神人》の少し上を飛んでもらいながら、俺は大声で叫んだ。「ハルヒーーーーーーーーーー!!」 しかし、俺の声は全く届いていないように、《神人》は破壊活動を止めない。俺の脳内音声もますます活発だ。いくらハルヒの怒声に慣れていても、さすがに凹んでくる。 時折少し離れて休憩を入れながら、俺たちは何度も《神人》に近づいた。俺は何度かハルヒを呼んだが、《神人》は変わらず、何も起こらない。周りの建物を殴りつけ、蹴倒し、踏みつけている。閉鎖空間も広がっている、と古泉が言った。畜生、やっぱりダメだったのか!? だんだん焦ってくる。──何やってるのよキョン! このへたれ!──あーもう、ハルヒ、うるせぇ少し黙れ!お前どっかで見てるんじゃないだろうな。俺が何をしたっていうんだよ。「すみませんがそろそろ限界です。これ以上《神人》の破壊活動を放置すると厄介です」古泉が焦った声で言った。ここで《神人》を倒してしまっては俺がここまで来た意味がない。次の閉鎖空間を待つ時間もない。もしかしたら、次の閉鎖空間は生まれないかもしれない。 どうする? 俺は悩んだ。ハルヒは俺を呼んでいるくせに、俺がここにいることに気がついていない。いや、識域下では気がついているのだろう。だから俺に声を届けている。今回は表層意識に残らないと意味がないのか。 仕方がない。一か八かだ。無理矢理意識を引っ張り出すほどのことが必要だ。 俺は最後の賭けに出た。「古泉、最後にもう一度《神人》の頭の上を飛んでくれ! これが最後でいい!」「承知しました」 《神人》の上に来ると、俺はもう一度頼んだ。「古泉、俺を離してくれ!」「何を言っているんですか!?」「いいから離せ!」「無理です!」「大丈夫だ、ハルヒが、俺が死ぬことを望むわけがない!」俺だけじゃなくて、お前もな、とは言ってやらなかった。「わかりました」しばらく悩んだ古泉が苦しそうに言った。「ただし、あなたを離したら僕も一緒に下ります。危険と判断したら助けますから」「悪いな」 確かに、古泉の飛行速度を考えたら、自由落下より先に俺の下に回り込めるだろう。「たたきつけられて潰れるのは俺もごめんだ。頼んだぜ、古泉」古泉に助けられなくても大丈夫だと思いたい。 古泉が俺を離して──俺は落下を始めた。 ハルヒ、信じてるからな! 恐怖を感じている暇はなかった。俺は目一杯大声で叫んでやった。「聞こえてんなら俺を助けやがれ、ハルヒーーーーーー!」 俺の体は更に落下していく。背筋がぞくりとした。このまま落ちたら、体なんか残らないんじゃないか──? ふわり。 衝突の衝撃もなく、いきなり俺の体は止まった。ふぅーっと溜息が出る。さすがに緊張していたらしい。汗びっしょりだった。 今どこにいるか、確認するまでもない。足下も、俺の目の前も青く光っている。俺は神人の手のひらの上にいるらしい。まるでお釈迦様の手のひらにいる孫悟空だな。差詰め古泉はキン斗雲か。 気がつくと、俺の脳内ハルヒ音声もストップしていた。聞こえていた方が会話しやすいから好都合だったんだがな。それとも、こいつとまともに会話ができるようにでもなったのか? 俺は目の前にいる《神人》を見上げた。結構怖いのは秘密だ。古泉は赤い球になったまま、俺の隣に来た。「まったく、あなたは無茶をしますね」ああ、自分でも驚いてるぜ。「よう、ハルヒ」俺は目の前の《神人》に普通に話しかけてみた。……ハルヒも《神人》も無言。「なんか、俺が遅くなって怒ってるみたいだな。わりぃ。俺も色々あるんだよ」相変わらずの無言。「腹が立ってるんだったら、こんなとこで暴れてないでいつも通り俺にぶつけてみろよ」我ながら恐ろしいことを言っている。こんなことをハルヒに言ったら最後、俺はどうなるか誰にもわからん。 そして、やはり俺は言ったことを少しだけ後悔することになった。 《神人》が、さらさらと崩れ始めた。そう、俺を襲った朝倉が長門によって情報連結を解除されたときのように。俺は呆気にとられてそれを眺めていたが、状況を悟ってめちゃくちゃ焦った。おい、俺の足場も崩れてるぞ!!!!古泉があわてて俺の腕を掴んだ。 しかし、俺の足下の青い光がなくなっても、俺はその場に留まっていた。古泉は腕を掴んでいるが、ぶら下がるわけでもなく、まるでそこに立っているように。すげぇ、俺も宙に浮いているぞ! この空間は何でもありか??「《神人》と我々超能力者の存在だけ考えてみても、何でもありでしょう」古泉が言った。 《神人》が完全に消え去ると、俺の目の前に──── やっとだな。 たった1週間とは思えないほど長かったぜ。 一気にいろんな感情が俺を襲う。 いろんな思いが混じり合った溜息をひとつついて、俺はそいつに声をかけた。「久しぶりだな、ハルヒ」 目の前に現れたのは、間違いない。涼宮ハルヒだった。 感慨にふけってる暇もなく、俺は先ほどまであった脳内音声の続きを聞かされることになった。「こんの……バカキョン!!!!」やれやれ、再会の第一声がそれかよ。ま、声はさっきから聞いていたんだが。「遅いのよ、遅い!!! あたしがどんだけ待ったと思ってるのよ!!」「いや、だから悪かったよ。さっきも言ったけどな、俺も色々あるんだよ」「うるさいっ! あんたは団員としての自覚が足りないのよ!!!」だから悪かったってば。しかし何だって俺はこんなに怒られてるんだ?そもそも、ハルヒは今の状況を疑問に思っていないのか? 古泉に聞こうと思って振り返ると、そこには誰もいなかった。 ──逃げやがったなあの野郎。「凄く怖いんだから、不安なんだから! 何でだかわかんないけどっ!」ハルヒは言いながらぼろぼろ泣き出した。俺は黙って聞いているしかできない。「あ、あたしが、あたしじゃなくなるみたいで、凄く、怖いんだから……」「……もしかして、今もか?」ハルヒは過去形でしゃべっていない。今もその恐怖と闘っているのか。「そうよっ! でも、あんたがそばに居れば何とかなる気がして、ずっと待ってたのに……」いや、俺はできる限りそばにいたんだよ。それが伝わらない場所でな。俺だけじゃない。長門は文字通り四六時中そばにいたし、朝比奈さんもできるだけ一緒にいたんだぞ。伝えられなかったけどな。俺もどうすればいいのかわからなかったんだよ。やっと今朝、ギリギリになって気がついたんだ。遅くなってごめんな。 しかし、こんな素直なハルヒを見るのは初めてだ。どんなに怖い思いをしても、それを誰かに悟られるのを何より嫌いそうな奴だ。 今回のことはよっぽど怖かったんだろう。 辛かったんだろう。「悪かった、ハルヒ」そう言って俺は、泣いているハルヒを抱きしめた。誰だってそうするだろ? こいつは不安と恐怖相手に独りで闘っているとき、俺にそばにいて欲しいと望んでくれたんだぜ。それに答えないのは男じゃない、そうだろ? いくら俺がへたれだと言われても、それくらいはできるさ。 しばらく俺はハルヒが泣くままにしていた。今まで我慢していた分、目一杯泣けばいい。いや、閉鎖空間でストレス解消していた訳だから我慢はしてないのか?ま、でも泣けるなら泣いた方がいいのさ。 しかし、大事なことをまだ伝えていない。ハルヒを助けるためには伝えなければならない。この時点で、まだ俺は悩んでいた。ハルヒの力を自覚させる俺の切り札。『ジョン・スミス』をここで使うか?それとも、今ここで使うべきではないか? 近い将来、この切り札が必要になるかもしれない。もし、ここで俺が『ジョン・スミス』だと言わずに話ができれば、それに越したことはない。俺は脳の普段は使わない部分まで動員する勢いで、急いで考えをまとめた。「ハルヒ。聞いてくれ」ハルヒは涙目で俺を見上げた。「これは夢だってわかってるんだろ?」さすがにこの異様な空間で異常な状況だ。なんせ俺たちは宙に浮いているんだからな。夢だとでも考えなきゃおかしい。「そうね……こんな灰色の世界、前にも夢に見たこと……」そこまで言って顔を背けた。何か思い出しやがったな。「俺は現実のお前と会いたい。だから、願ってくれ。現実の世界で俺に会いたいってな」「キョン……?」不思議そうな顔をして俺を見上げるハルヒに、俺は更に続けて言った。「俺だけじゃない。長門や古泉に朝比奈さん、SOS団のみんなに会いたいだろ?」ハルヒの表情が少し変わった。目に輝きが戻ってきたような気がする。「ハルヒが本気で願えばかなうさ。こんな灰色空間じゃなくてな。 ちゃんと“現実の”あの部室で、みんなで会おうぜ」 しかし、ハルヒは目を伏せると意外なことを言った。「あんたは本当にあたしに会いたいと思ってるの?」おい、さっきからそう言ってるだろ。だからわざわざこんな灰色世界まで会いに来たんだぜ。「そうね、でも……わからないわ。あんたの気持ちが」俺の気持ち? ハルヒが何が言いたいかわからなくて、俺は黙っていた。「どうせ夢だし、この際だから言っちゃうけど、あんたあたしにあんなことしたくせに、何も言ってくれないじゃない」あんなこと……って、あれだよな、やっぱり。だけどな、あれはお前が先にしただろうが!「そうだけど、そうなんだけど、あんたが何であんなことしたかハッキリさせたいのよ! ハッキリしないのは嫌いなんだから」「………」とっさに言葉が出なかった。ハルヒがわがまま、とかそう言うのではなく。いや、わがままなんだけどな。先にキスしてきたのはお前だ、と声を大にして言いたい。だけどな。つまりだ。ハルヒは、1週間前まで俺が暢気に味わっていた中途半端さに嫌気がさしてたってわけか。正直、俺はハルヒが俺の言葉を信じてくれると思っていた。だから、この閉鎖空間でハルヒと話さえできれば、何とかなると思っていた。
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