彼女は橘京子と名乗った。確かにそんな人物と高校時代に会っていた記憶がある。
しかし思い出そうとすると、なぜか意識は店内放送へと向かってしまう。俺は首を振
った。
「あの時は楽しかったわね」
京子はそう言ってバイオレットフィズのグラスを揺らした。社長室の光景がフラッシュ
バックした。
「どうしたの?」
「いいや。何でもないよ。それより、俺は君をどうにも思い出せないんだ」
「無理もないわ。もう二十年近く前のことなのよ」
無理もない。その通りではあっても、何かとても大事なものを忘れてしまったような、
ひどい喪失感と虚無感があった。それらはアルコールでほろ酔い状態になった頭の上 を旋回していた。
「年は取りたくないな」
「そんなことないわ。だって避けて通れないのよ。それなら否定的になっていてはいけな
いと思うの」
そうして俺たちはそこから二時間ほど昔話をした。もっぱら俺が聞き役に回ったものの、やはり彼女と高校時代に会っていた記憶は戻ってこなかった。夜半過ぎに別れ、自宅へ戻るとハルヒが静かに寝息を立てていた。俺は頬にキスをして、明かりを消した。
4
去年の秋に俺は友人と再会した。
「久し振りだな」
「そうだな」
ゲット・バック。原点回帰という言葉はまさに彼と会う時のためにある。俺が高校を卒業してから、藤原とはちょくちょく会うようになった。今となっては、彼が本当に未来人であったのかは解らない。例によって古泉が俺を掘る前の催眠効果が見せていた幻惑なのかもしれない。
「うまくやってるか」
「まあまあだな」
俺は答えた。三十半ばにして未だ子供はいないが、先日俺はハルヒにプロポーズした。彼女は俺の生涯において最も美しい輝きを瞳に宿していた。涙を一筋流した後で「喜んで」と言ってくれた。数日が経過するうちに、じわじわと喜びが身体に満ちていくのを感じた。なぜもっと早く言わなかったのだろうと思ったが、そうしていたらあの輝きは見られなかったかもしれない。黄熱灯のシェードが照らす室内で、俺たちは誓いのキスをした。高校時代に返ったかのような瑞々しい口づけだった。
「ハルヒと結婚することになった」
「そうなのか。そりゃよかった」
藤原は心底安堵したように祝福してくれた。当時の仲間で素直に祝辞を述べてくれるのは、今となっては藤原くらいしかいなかった。
外では秋雨が街路を打っていた。そのせいか、アナルズバーの店内にはあまり人がいなかった。マスターが俺の知らないジャズをかけた。三杯目の酒はほどよく体内を巡った。心地のいい夜だった。
「君はどうなんだい」
「僕か。そうだな。そろそろ再婚するのも悪くないかもしれない」
藤原は過去に一度伴侶を得、四年後に別れたらしい。ただ一人の長男は妻が引き取り、養育費は藤原が払っていると言う。
「未来では貨幣は意味を持たないんだ」
これには言い知れぬ説得力があった。ゆえに俺は特に詮索したりはしなかった。
ともかく、藤原は定期的にこの時代に来ている。高校時代からは図れぬことだったが、俺にとって現代と呼べるこの時代が好きらしい。
「古風なものも目新しいものも、瀟洒(しょうしゃ)なものも猥雑なものも溢れているからな。見ていて飽きないんだ」
「確かに。飽きない代わりに疲れやすくはあるけどな」
「それは気の持ちようだ。力加減一つでうまくやっていけるようになる。例えば――」
と言いかけて、藤原は口をつぐんだ。言いたくないことに突き当たったらしい。
「もう飲まないのか」
俺はカクテルをシェイクする女性店員に目をやりつつ言った。長めのポニーテールがスタイリッシュだった。
「飲もうか。なにせ二年ぶりだ」
そう言って彼はジントニックを注文した。俺もグラスを空にして、同じものを頼んだ。
「出会いはあるんだ。けれどどれも恋愛にまで発展しない。まるで色味があせてしまったみたいに、無味乾燥としているんだよ」
藤原は近況を語る途中でそう呟いた。
「その点お前は幸福だと思う。たぶん、お前たちはずっとうまくやっていける。流行に乗るように付き合って、熱が冷める前に分かれる二十台の男女とは違うさ」
「そう言われると重責に思えるな」
零時近くになって、ピアノトリオの生演奏が始まった。俺たちのいる席は、丁度ステージとは対角の位置にあった。ウッドベースと控えめなドラムに乗るピアノの音階が上っては下り、下っては上った。まるでどこか遠い場所から聞こえてくる音楽に思え、過ぎ去った二十代の日々と、その向こうに白い岸辺のように輝く高校時代を想起していた。
「思い出してるのか」
藤原はあっさりとそれを見抜いた。
「まいったな。相変わらず君は鋭い」
「そうでもないぜ。あんたは顔に出やすいのさ。いささかオーヴァー・リアクションのきらいがあるな」
「ハルヒに鍛えられたからな」
藤原と話していると、あの三年間は幻ではなかったのだと思うことができた。二年前もまったく同じことを考えた。しかしさよならを言った後で、やはり想像上の出来事だったのではないかという疑念にとらわれるのだった。
「大丈夫だ。あんたの高校時代は確かにあった。あれが幻だと言うなら、この世界はまるまる夢という名の海の藻屑になるさ」
*
やがてピアノトリオが演奏を終え、まばらな拍手が鳴ってアナルズバーは閉店した。
「またな」
「ああ。今度は二年以内に会えるといい」
雨は上がっていた。藤原がタクシーを呼びとめて去っていくのを俺は見送り、その後で俺も別会社のタクシーを捕まえた。
「いやぁ、寒いですねえお客さん」
「そうですね。最近はめっきり冷え込んできました」
運転手に答えた後で、俺は彼の顔に妙な既視感を感じた。
「あの」
「はい。どちらまで向かいましょうか」
「いいえ。あの、すいませんが以前にどこかで会っていませんか?」
「私が。お客さんと? ……いいや、会っていませんねぇ」
「そうですか」
それでは、と俺は自宅の住所を告げ、やがて車は深夜の大通りを滑っていった。
まばらな街灯が等間隔に歩道を照らすのを眺めつつも、やはり彼とどこかで会っているような気がして落ち着かなかった。しかし再度問うような真似はしなかった。
*
家に帰ると今日もハルヒは眠っていた。地球上で最も安らかな寝顔かもしれない、と思った。ハルヒがこうして傍にいてくれるならば、向こう二十年くらいはうまくやっていけるだろう。
起こしてしまわぬよう、キスは避けて、一分ほど寝顔を見守った後で明かりを消した。
5
高校一年の九月だった。本当に暑い初秋だった。秋と呼ぶのもおこがましいほどだった。
「乗ってください」
俺は古泉に連れられて黒塗りのタクシーに乗った。明らかに他のお客を乗せているとは思えないハイヤー。
「今日はどこへ行くんだ」
先々月はカマドウマに始まった情報生命体を駆除するのに方々へ走り回る羽目になった。願わくばあのような厄介で煩雑な事態にならないことを、と俺は内心で呟いた。
「『機関』の任務で街まで出ます。あなたも退屈でしょうから、たまにはお付き合い願おうかと思いまして」
笑顔しか知らないSOS団副団長は言った。
「何か音楽をかけましょうか。運転手さん、お願いします」
古泉が言い終わらぬうちに、カーステレオからノルウェイの森がかかりだした。音楽が流れると、不思議なことに車はほとんど信号に捕まらなくなった。今の気分に中期ビートルズはそぐわなかったが、無粋な注文を述べるのは遠慮した。
「涼宮さんの精神が荒れ出しています」
「またか。あの青い巨人をお前は依然倒し続けているのか」
「そうですよ。慣れてはいますが、やはり億劫でもあります。願わくばあなたがもう少し彼女と親密になっていただければ――」
以降の台詞は覚えていない。聞き流したのだろう。
車は陽が落ちるまで走り続けた。高速に乗り、遠いところまで。
「到着したようです」
降りたのは四ヶ月前とは違う場所だったが、そこからそう遠くない地点だろうと見当をつけた。人通りが多く、家路につく学生や会社員がひしめいていた。
「こちらへ」
古泉は細い街路へ迷うことなく入っていった。裏通りと言って差し支えのないような、さびれた、それでいて長い道だった。途中からくねくねと折れ曲がったうえ勾配があり、ポリバケツや通りがかりの黒猫や迷い込んだ老紳士や見たこともない種類の潅木や「イパネマ娘」という名のパブの裏口やらが続いていた。古泉の後に続いていた俺は、こいつの背中がだんだん大きくなっていくような妙な感覚がしてかぶりを振った。「こういう場所は初めてですか?」と奴は訊いた気もする。しかし、何が「こういう場所」なのか俺にはさっぱり解らなかった。そもそもこれは本当に『機関』の任務なのか、だとすれば俺を連れてくる必要がどこにあったのか、今日中に無事家に帰れるのか、妹の笑顔が見られるのか、そういえば鞄を車内に置き忘れたとか、そのようなことを延々考えているうち、いつしか道は下り階段に変わっていた。まだしも明るかった裏通りは、小型のランプが左右の壁に交互に連なる黒っぽい通りへと変化した。古泉に「まだ着かないのか」と言おうとしたが声にならなかった。もはや前を歩いているのが男なのかすら定かでなかった。ひょっとしたら男装したミシェルファイファーなのではないか、ここはカリフォルニア州なのではないか、などと考えていると、とうとう前に誰もいないことに気がついた。なおも階段は地下道に変わっていて、どこか知らないところからぴたぴたと水の垂れる音が聴こえていた。なおもランプは左右交互に連なっていて、俺にはそれがまるで異世界への通行路に思えた。