涼宮ハルヒの正誤
0:夢 夜空に輝く天の川。周りの喧騒がひたすら耳障りだった。瞼は開いているが、飛び込んでくる情報は限りなく絞られ、指向性を持たされている。ぼんやりと認識されるのは、人の声と、顔と、感触と……。水滴。とうとう雨が降り始めた。雨脚は強まっていく。ああ、星が綺麗だ。俺は願った。次に目が覚めるその時は、今より強い自分であれますように。…………。やがて俺は溺死した。 1:予言 世界の始まった日。諸説ある。うん十億年前。四年前。昨日。今。記憶という脆弱な結晶体を、証明する術はまだない。出口の見えないラビリンス。迷子になった思考が、己の存在の危うさを露呈させる。だからこそSOS。信号を発信し、居場所探し。助けてください。このSOSがあなたに届きましたら。どうか早急なる救出を。当サイトはもれなく未来永劫リンクフリーです。 § 「…………」デリート。…………。………………。「U、N、K、O」カタカタカタ。うんこ。ついでにネットで拾ってきた画像も貼り付けてやる。「ふう……」業務終了。「いたっ」背後からしたたかに殴られる。振り向く。顎を少々持ち上げ、視野とフォーカスを調整。無自覚な行動の先に待ち受けていたのは、艶やかな十二単に身を包んだ麗しき姫君。だったらいいな。ないけどな。「アホキョン」目が合った瞬間、罵倒が飛んできた。「キョン、あんたはどうしてそんなにアホなの? あんたが愚かな行動を起こすたびに引き合いに出される有蹄動物が不憫に思えてきたから、 これからはささやかなリスペクトの意味も兼ねてアホと呼ぶことに決めたわ」ふふん、と得意げに胸を反らして見せた。動作と同調して、後頭部から垂れて腰にまで達する馬の尻尾が、ゆらゆらと振幅する。「ほらな」「なによ」「いや、なんだ、うん?」鮮やかな原色のメガホンに目が行った。「ああ、これ?」手元で固定された視線に気づいたらしい。「落ちてた。野球部に」「へえ」そうか、盗んだのか。「…………」「…………」沈黙が流れる。「さっさと書き直しなさいよ」せっつかれる。「え、ダメなのか?」「愚問」叩かれた。「あんた、あたしが前に言ったこと覚えてる?」「はて」確か、普通と一味違うただならぬ気配がぷんぷんと漂うサイトにしなすわ~い、だったかな。「はいっ、やり直す!」消される。なんてことを……。「せっかく一気にただならぬ気配がぷんぷんと漂うサイトになったというのに」「うんこの臭いしかしないわよ! これじゃあ寄るものも寄ってこないじゃない!」「それは早計だな。もしかしたら、この“うんこ”という三文字が、とてつもない能力を秘めた人材を惹きつけるキーワードなのかもしれないじゃないか」「うんこに引き寄せられるアブノーマルな性癖を秘めた人材なんて願い下げよ!」放課後の文芸部部室にてうんこを連呼する二人。それを遠巻きから見物している超能力者と未来人、マイウェイを突き進み上製本の薄紙を繰り続ける宇宙人。日常があった。 § やがて定時となり、解散となった。「いかん」明日提出のプリントを机に入れっぱなしだったと気付いたのは、坂の中腹まで来てからだ。「いかん……」ものすごく億劫だ。だがこのまま愚図っていても始まらない。俺は踵を返し、今しがた下ってきた道を登る。もうずいぶん遅いため、校内に人の姿はまばらだ。とっとと帰ろう。教室に足を踏み入れる。「あら」人がいた。それはどこか懐かしいような。いや、そんなはずはない。毎日顔をあわせているじゃないか。「こんばんは」少女――朝倉涼子は微笑を浮かべた。 「…………」「忘れ物?」「…………」「違った?」首を傾げる。「ああ」なんだろう。一瞬、動けなかった。「プリントを取りに」席を指差す。「そう」含みのある笑い方だ。「帰り道で気付いて」夕日、教室、朝倉、二人きり。単語が中空に羅列する。「明日まで提出だから」長門、手紙、谷口、再構成。強烈なフラッシュバック。船酔いにも似た吐き気と頭痛に、立っていられない。「だから」右手を、無意識に見た。「…………」……何もない。当たり前だ。「大丈夫よ」朝倉が歩み寄ってくる。言葉の意味は不明。しゃがみこんだ俺の足は、床に根を張ったように動かない。「大丈夫、大丈夫」なにが?その問いに答えるように、すれ違う瞬間、耳元で彼女が囁いた。「今日は殺さない」「あ……」暗転。 § 意識を取り戻すと、私室のベッドの上に横たわっていた。時刻はすでに深夜。あの放課後での出来事から、記憶は途絶えている。朝倉涼子。思い出した。思い出したということは、忘れていたということだ。あんな凶悪すぎるイレギュラーを。身震いがした。 § 翌日の昼休み、朝倉を屋上に呼び出した。「告白?」「馬鹿なことを」「誤解だってされるわよ、こんな人気のない場所に連れ込んだら」「しないさ、おまえは」「涼宮さんよ?」「…………」いやな汗が背中を伝った。「見てるの?」「ええ、バッチリと」「…………そうですか」振り向くことは不可能だった。「さあ、説明しろ」俺は恐怖を押し殺し、無理矢理話を進めた。「どれを?」「すべてだ」「うーん、どうしよっかな」「ふ」朝倉の体を壁に押し付ける。背中に注がれる視線の熱量が増した気がしたが、この際気にしないことにする。「言うこと聞くまで、逃がさないぜ。大人しくしな」「あなたヤケクソになってない?」「な っ て ま せ ん」朝倉は、ひとつ小さく息を吐いた。「私は昨日、七月八日、あの場所で生まれた」とつとつと語り始める。「それは私にとっても計算外の出来事だった。正直驚いたわ」くるっとターンして、俺に背を向ける格好になる。「生まれた。人間のように、限りなく受動的に。どうしてだと思う?」「まさか、ハルヒが望んだからとでもいうのか」一番可能性がありそうな解だった。ていうか、それしか考えられない。理由は知らないが、はた迷惑なことを。「いいえ」かぶりを振る。「あなたが望んだから」「え?」豆鉄砲を食らった鳩状態となる。「俺が?」「ええ」現在、俺のステータスは【混乱】だ。「……そんな、嘘を」「望んだのよ、それはとても強く」再度ターン。「迷子のあなたにヒントをあげる」俺たちは、一メートルの空気を隔てて対峙する。「まずあたしの存在、これが一つ目の間違い」間違い。嵌まらないジグソーパズルのピース。それはすなわち異常。「これはあなたの始めた間違い探し」コンクリートの地面に、黒いシミが広がり始める。「その途中で、あなたは失い続ける。 小さかった波紋は次第に広がりを持って、いずれ大切な仲間さえも。 そうやって辿り着いた真実にも、きっと破滅しかない」彼女は息を継ぎ、俺と視線を接ぐ。「だからせめて……」ゲームの開始を告げる合図のように、唐突に。「大切に、正誤なさい」雨が降り出した。 2:違和感 教室に戻って席に座るや否や、背中をシャープペンの先端で刺される。プスプスプスッ。痛い。顧みて訴える。「痛いよ」「痛くないっ」えー。「あのなあ」抗議すべく、ハルヒをガン見する。「あれ?」違和感。「なに」「なあ」「なによ」「……いや」ポニーテール。おまえって、前からそんな髪型だったっけ?疑問を飲み込み、俺は前に向き直る。――正誤なさい。「…………」プスプスプスッ。「……痛い」昼休みが終わっても、ハルヒの機嫌が好くなることはなかった。授業・休み時間を問わず、ハルヒに無言でシャープペンで背中を突かれ続けるという荒行を堪えしのぎ、ようやく放課後となる。やれやれ。とっとと教室を離脱しようと考えていると、不運は続くもので朝倉と目が合ってしまった。「バイバイ」去り際に手を振ってくる。ブスブスブスッ!いっそう突かれまくるのであった。 § 部室には、古泉と長門がいた。「あれ、涼宮さんは一緒じゃないんですか」「撒いてきた」「はい?」「いや……」古泉の正面に腰掛ける。しばし俺たちはボードゲームに興じる。「なあ」「なんです?」「何か異常はないか」「異常ですか」顎に手を当てて考え出す。「いえ特には。平和なものです」「そうか」「おとといの七夕も何事もなく終わりましたし、ずいぶんと気が楽ですよ」七月七日。必ずハルヒがとんでもないことをやらかすと肝を冷やしていた日。しかし、結局何も起こらなかった。強いてあったことを挙げるなら、自転車がかっぱらわれたことと、ハルヒの思いつきで夜に河畔に繰り出して花火をしたことだろうか。「ま、ハルヒも成長したということだろう」「これもあなたのおかげです。……あれ、また僕の負けですか」古泉、三戦全敗。驚異的な弱さだった。「遅いな」朝比奈さんと他一名。北高は曲がりなりにも進学校を銘打っている。受験生である朝比奈さんは、講習が夜にまで及ぶことがあった。他一名は……あの様子なら帰ったかもしれん。パタン、と長門が本を閉じる。「帰るか」「ええ」長く座りっぱなしというのは腰にくる。「あ、そうだ長門。話があるから残ってくれ」「……」こくり、と頷いた。 § 古泉を先に帰宅させ、長門と二人きりになる。「すまんな」「いい」「朝倉のことだが」初っ端から本題に入る。「呼び出して、少し話したんだ」「そう」「間違い探し、なんだそうだ」「……」長門は黙っている。「おまえは当然知ってると思うけど、世界がちょいと違うというか」歯痒さ。この世界は歯車が微妙にかみ合っていない。「……それで」「うん?」「どうする気」値踏みするような口調だ。「どうするって……んー、そうだな」朝倉も俺の始めたことだって言ってたしな。やっぱ、俺がなんとかすべきなのだろう。「しなくていい」答えを見透かしたような言葉だった。「あなたは何もしなくていい」念を押される。「えーと」長門のガラス玉のように無機的な双眸が、俺を射抜く。「普段どおりでいろと?」「そう、私がすべて執り行う」珍しい長門の自己主張。確かに、そうすることが最善なのだろう。尊重してやりたい、という私的な気持ちもある。……だけど。だけどなあ。「いや、俺でやれるところまでやってみるよ」俺は申し出を断った。「頼りっぱなしというのも情けないし」「……」「本当にマズイ事態になったら、頼るから」それもそれでかなり情けないが。「その時はよろしく」頭を下げた。「……わかった」納得、してもらえたのだろうか。長門の申し出の真意はわからない。ただ。あの時の長門は、いつになく必死なように見えた。 3:ナンパ 別の日の放課後。微笑を貼り付けた谷口が歩み寄って来た。親指を立てる。「ナンパしようぜっ」「しない」「え」部室へ。「ちょ、ちょっと待てよ!」進路を塞ぐ谷口。親指を立てる。「ナンパしようぜっ」「お前誰だっけ」「アイアムタニグチィ!」部室へ。「ちょ、ちょっと待てよ!」進路を塞ぐ谷口。親指を立てる。「ナンパしようぜっ」「一足す一は?」「にー!」部室へ。「ちょ、ちょっと待てよ!」進路を塞ぐ谷口。親指を立てる。「ナンパしようぜっ」「RPGのイベントに出てくるエンドレス選択肢みたいだなお前……」「ん? 何の話?」白々しい……。「どうかしたのかい、キョン」国木田が興味を示した。「シャルウィーナンパッ」飽きがきたのか、メッセージがイングリッシュになった。「ナンパしたいんだと」「涼宮さんにバレたら、大変だよ」「言われんでも、俺はやらない」「だよねぇ。なのにキョンを誘ったの?」谷口に問う。「ああ、実はな」物憂げな表情になる自称ナンパ王。「俺さ、気づいちまったんだ」「気づくな」「ふぅ……つくづく俺って奴はとことん罪な男だぜ」「生まれついての痴漢野郎だもんな。この先天性猥褻物陳列罪めが」「昨日の学校帰りのことだ」「ここだけの話、谷口くんはイジメられっ子だから正式には保健室の帰りなんだ」「街で女の子に声かけたんだよ」「女の子Aは逃げ出した」「ヘイ、そこのカノジョ、お茶でも飲まない? って」「女の子Bも逃げ出した」「そしたらさ」「女の子Cはイケメン彼氏を呼んでいる」「お前うるさいな!」キレた。「ただの相槌だ。気にするな」「その相槌が、ことごとく話の腰をバッキバキに折ってるんですけど!?」口角泡を飛ばす抗議は、いささか不気味だ。「落ち着けよ、醜い男と書いて谷口」「普通に谷口と書いて谷口だよ!」さすがに疲れたらしく、肩で息をしている。「お前らなあ、俺に不満があるならはっきりと言えよっ」そんなこと言うもんだから。「じゃあお言葉に甘えて言わせて貰おう」「うん、そうだね」「へ?」俺はコホンと咳をする。「ナンパ王? 何がナンパ王だ。難破するばかりじゃねえかこの難破王。無計画にイカダ船に手ぶらで乗り込んで着水式気取ってんじゃねえよ」「航海するたび後悔してるよね」「何度失敗重ねれば学習するんだお前は。シャケか。とりあえず帰れればいいやあ、って思ってんのか。いい加減、海図か羅針盤持つこと覚えろやサーモン」「辞書もね」「役に立たないだろ、そんな不可能しかない落丁辞書」「アハハハ」すでに俺たちの隣に、谷口の姿はない。「チキショーー!」奇声を上げて、十メートルほど前方を全力疾走していた。と思ったら倒れた。曲がり角から出てきた人と交錯したようで、もつれ合っている。担任の岡部だった。逃げ出す谷口。追跡の岡部。すぐさま御用となる。世界は平和になった。 § 今日は全員勢ぞろい。「……」入室早々、約一名に物凄い形相で睨まれる。ほとぼりはまだ冷めないようだ。「はい、どうぞ」「ああ、すいません」朝比奈さんから湯気の昇る湯飲みを受け取ろうと手を伸ばす。……が、朝比奈さんの背後から腕が伸びてきて、それをかっぱらっていった。誰かというと、もちろんハルヒなわけで。ごっきゅごっきゅ。なんと一気に嚥下していく。熱くないのだろうか。「ごちそうさま」飲み終えると、指定席に帰っていく。空っぽになった湯飲みだけが残される。朝比奈さんは引きつった笑みを浮かべている。俺の心は冷えるばかりだ。「蒸発しちゃったよ」古泉は俺に哀れみの目を向けた。 4:ナンパ2 放課後になると、また谷口が歩み寄ってきた。「ナンパしようぜ」「お前の学習能力にはつくづく驚かされるな」「ははっ、そう褒めるなって」「その返しは発想になかった」「ほら、行くぞ」腕を引っ張られる。「学校の中でするのか……」「ナンパ初心者のキョンにいきなり街頭デビューはハードルが高いからな」「だから俺はしない」「まあまあ、そう言わず一発キメてみろよ。すぐによくなるぜ」「おまえ後輩にシャブ売りつける上級生みたいだな」こつこつと近づいてくる足音が聞こえた。「おっと、誰か来るみたいだ」物陰に隠れる谷口。「まずは手始めに、そこの角を曲がってくる女子生徒に声をかけろ。指示は俺が出す」言って、谷口はおもむろにノートを取り出す。どうやらそれに文字を書いて台詞を伝えるらしい。大丈夫なんだろうか……。ともあれ俺は角を曲がってきた人物に近寄っていく。「ちょっといいかな」呼び止める。「はい?」始めて見る顔の女子だった。俺は谷口を見る。『愛してる』「…………」空気が凍った。「あの?」「いや、なんでも……人違いでした」俺は首を傾げる女子の横をすり抜け、谷口の方へとダッシュする。勢いそのままに蹴りつける。「もうしないか!」「しません! しません!」そんなこんなでテイク2。「来たぞ」谷口から合図が送られる。俺は指定の位置につく。コツコツコツ……。足音が迫ってくる。「あー、もし。そこのあなた」曲がる人影に声をかける。「……なによ」鬱陶しげにシルエットが振り返る。「うげ……」「……なにやってんのあんた」白い目を向けてくる人物。……涼宮ハルヒその人だった。「こんなところで暇つぶし? 部活さぼっていい度胸ね」試合開始早々に胸倉をつかまれる。「いや、待て待て。これはだな」俺は救いを求めて谷口を見やる。『ナンパしてたんだ』「ナンパしてたんだ」思わずそのまま口走った。「へー……」フリーズドライされた瞳が俺を睥睨する。「ち、違うぞ、今のはお茶目なジョークだ。本当はな」谷口を見る。『君を待ってたのさ』「お前を待ってたんだ」やっとまともそうなのが来た。「あたしを? 部室で待ってればいいじゃない」それはもっともなご意見だ。『大切な話なんだ』「あー、実は大切な話があってな」とりあえず指示に従っておく。「ふーん、なに?」俺が知りたい。『今日、親帰ってこないんだ』「今日な、ウチの親帰ってこないんだよ」偶然にもこれは本当だった。そういえば谷口には、昼間に話したような気もする。「はあ!?」ガン飛ばされた。「だからなに!? な、なななななななんだってんのよ!」胸倉つかまれたまま前後に揺すられる。俺の家庭事情の一部分を掻い摘んで話しただけで、なんだってコイツはこんなに怒りを露わにしてるんだ。いかん、酔ってきた。「あ~……」正常な思考が保てない。とりあえず谷口を……。『俺ん家こいよ』………………。…………。……。 § 「…………」「あの、大丈夫ですか?」古泉が心配そうに覗き込んでくる。「うぷっ」「大丈夫じゃ……なさそうですね」気が付けば俺は、グロッキーになって机に突っ伏していた。「あの……」「なんだ」「さっきからハンカチを甘噛みした涼宮さんが、あなたに熱のこもった視線を送ってるんですが……何か心当たりありませんか?」「……そもそもここ一時間の記憶がない」「それは、災難でしたね」同情の眼差し。「相当つらいようですし、家まで肩貸しましょうか?」「すまん……」今日は早めに上がらせてもらうことにした。古泉の肩を借りてよろよろと歩く。「あの……」「どうした」「さっきからリボンを甘噛みした涼宮さんが、あなたに熱のこもった視線を送りながら三メートル後方をぴったりとついて来るんですが……」「……すまん、俺にも意味がわからん」「そうですか」家に着いた。「悪かったな」「いえいえ、では僕はこれで」ぺこりと一礼して古泉は去っていった。「ふう」「二人きり……」「うおっ!」すぐ背後にハルヒがいた。「川沿いリバーサイド……」「おーい」「これ」買い物袋を取り出した。「カレーにするから」「え、作るの?」「嬉しいでしょ」「ああ、まあ」出前を取る手間と出費が省けるのは嬉しいが。「肉じゃがが良かった?」「いや、カレー好きだけど……」妙に甲斐甲斐しいな。「おじゃまします」勝手に上がりこむ。「あ、ハルにゃんだー」先に帰宅していたマイシスターがとたとたと駆けてきた。「…………」「ハルにゃん?」「ハルヒ?」ハルヒの動きがPAUSEボタンを押したときのように微動だにしなくなる。「誰……」ぼそっ、と呟く。「誰よこの女」「はい?」耳を疑う。「やっぱり女を連れ込んでたのね」「あの、なにがなんだがさっぱりなんだけど」「しらばっくれないで!」殴られる。「OUCH!」予想の遥か斜め上を行く急展開に、さしもの俺も英国調だ。「なんでこんな可愛い女の子が、あんたの家に上がりこんでるのよ。説明しなさい!」「いや、家族だし」「ていうことはアレ? 一つ屋根の下?」「そりゃ家族だし」「いや!」目を覆った。はしたない!ということらしい。そのままトイレに駆け込む。「ねーハルにゃん、どうしたの?」「さ、さあ?」それから二十分ほど待ってみたが、出てくる様子はない。このまま夜通し立て篭もられてもたまらないので、説得に向かう。「ハルヒ、入るぞ」扉を引く。ハルヒは便器の隣で膝を抱えてうずくまっていた。「…………」「ハルヒ?」おそるおそる声をかける。「インセスト」「うん?」判じかねる。思考を疑問符が埋め尽くした。「インセスト。つまり近親相姦」「うん」一応相槌。「キョンはインセスト。不潔な不潔なインセスター」「おいおいおい」制止すべく手を伸ばす。ハルヒはひらりと身を翻してこれをかわした。「攻撃? 攻撃するのね?」「いや、違うって」「伏せカードを発動するわ」「はいっ!?」「インセスター馬鹿(トラップカード)。世間からずっとドローされ、攻撃され続ける」なんか補足説明文っぽいの出てきたぞ。「がぶっ」「あいたっ」腕に噛みついてきた。「帰って、もう帰ってよ……」「いや、ここ俺ん家だから……」説得はかれこれ三時間に及んだ。 § カレーを美味しくいただき、満腹となった俺は一足早く自室に戻ってきた。寝転がると、眠気が去来する。俺は逆らうことなく、眠りの世界へと旅立つ。ぐー。………………………………ぎしっ。物音に目が覚める。「……誰だ?」視線を発信源に移す。「……なにやってるんだ、おまえ」寝巻き姿のハルヒがマクラを抱いて立っていた。長い沈黙の時間が流れる。「ぬ……ぬか床」「???」意味がわからなかった。わからなすぎて、逆に何かを悟ってしまいそうだった。「具合確かめようと思って」やっと合点がいく。「あーはいはい、ぬか漬けの」「うん。キョンの部屋でこっそり漬けさせてもらってたの」「人ん家でなにしてんだてめぇ」素でブチ切れる。安眠を妨害されたことも加え、怒り心頭なのである。「ぬか……美味しいよ?」メインぬか単体かよ。「はあ……」眠気が勝る。「用済んだら出てけ」文字通り目を瞑り、酌量した。「すぴー……」俺はすぐさま眠りの世界の舞い戻った。……。…………ドスン。……………………。「うーん」どうも寝苦しい。得体の知れない重圧感に、俺は薄目を開ける。「じー……」ハルヒが俺の腹に跨り、こちらを凝視していた。「…………」悪夢だ。うわ、やべ、目あわせちまったよ……。「…………」するとハルヒは今度は体勢を低くして、コアラのようにしがみついてきた。「?」忍んでいるつもりなのだろうか。「おい」「…………」「いや、信じられないくらい呆気なくバレてるから」頭頂部を小突くと、ハルヒはういーんと上体を起こした。「あらキョン、偶然ね」「すげぇ偶然だな……」どんだけの奇跡を起こせば、ここまでの窮地に陥れるのか。「そこで何をしている」「…………」逡巡。「……ぬか床の」「この限局にも程がある状況だと、俺をぬか床としたケースのシミュレーションしか想定できないんだが!?」あまりに非道で遠まわしな嫌がらせ。「ち、違うわ。あのね」あたふたとハルヒ。「うん?」「ぬかを」「ふむふむ」「……枕の下に」「!?」跳ね起きる。「仕込んだのか?」もし本当なら、翌朝気づかずにのこのこと登校したが最後……。じゃんじゃんじゃんじゃじゃじゃーん。イマジン(想像してごらん)。谷口にあれキョンお前なんか臭くないかとか言われたのを発端に国木田にもキョン今日は一味違うね主に体臭の方向性がとかなんとかで担任の岡部に誰だあ教室でぬか漬けてる奴はって言われて女子にクスクス笑われて晒し者になってるよ。 ユーーーーー(俺)!さらば青き日々よ。きっとその日から、糠田キョン子なる忌々しきニックネームが人生の汚点ワーストワンとしての市民権を獲得し、確固たる地位と財力を築き上げるんだ。過酷すぎる未来予想図に絶望した俺はさめざめと泣き出す。「ジョークよ……ジョーク。そう、スパニッシュあたり出典のやつ」適当に茶を濁すハルヒであった。「さあ、明日も早いわ。早く寝ましょ」極めてナチュラルな動きで俺の布団へと潜りこんでくる。「ハルヒ」「おやすみ」三秒ですこやかな寝息が聞こえてくる。「ハルヒ!」「すーすー……」「…………神よ」その神は隣で寝ていた。夜は更けていく。 5:約束 翌朝は極度の寝不足である。抵抗率百パーセントな体を無理矢理ベッドから引き剥がし、だるさを堪えて登校する。「しゃきしゃき歩く」背中を押され坂を登る。「てか、おまえ外泊するって家に連絡したのか」「してない」「冷静に考えたらヤバくないか、それ」「ヤクいわね」「いや、ヤクくないし意味ぜんぜん違ぇから」「大丈夫よ」しれっと言い切ってみせる。だらだらと歩いているうちに学校に到着。教室に入ると、谷口が不自然ににやけていたので、鞄を置くと廊下に舞い戻った。今日一日は近づかないのが吉だろう。廊下をあてもなくぶらつく。すると古泉に遭遇した。「おはようございます。眠そうですね」「いろいろあってな」眠気覚ましに、少し立ち話でもしたい気分だった。「どうだ、最近は」「相変わらず暇なものですよ、どうしてですか?」「昨日か一昨日に、異変はなかったか」「異変ですか」「閉鎖空間」俺の言葉に、場には見えない緊張の糸が張り巡らされた。「どうなんだ?」「……いえ、閉鎖空間も例の神人も、発生してません」「そんなはずはないだろう」古泉の微笑が歪む。「根拠が?」「理屈が合わないんだよ」「なんのでしょう」「あの空間は、ハルヒの精神状態が不安定になると発生するんだろ」「ええ」「三日前に、俺が女子を屋上に呼び出したところを見られてるんだ」古泉の糸目がかすかに見開かれる。「自惚れじゃないよ」「……そうですね」賛同を示す頷き。「人の好意に、鋭くなられました」成長した我が子を慈しむような声色だ。俺はもう一歩踏み込んで質問を投げかける。「なあ……おまえ、俺になにを隠してる?」「…………」少しの静謐な時間。喧騒が遠い。「約束をしました」少年は長い時間をかけて、一言を発した。「侵略する者は」始業のチャイムが鳴った。「潰します」 § この日、古泉は部室に顔を見せなかった。「なんか、バイトが忙しいから少しの間休ませて欲しいって」ハルヒが伝言を承っていた。「みくるちゃんも講習みたいだし……あーもう! まったく」ここ最近の参加率の低さに、ハルヒは頭を抱え深々とため息をついた。しばらくは今いる三人だけの集まりになりそうだ。「うーむ」ゲームも対戦相手がいないと退屈なだけだった。 § 水曜日。授業中、窓の外に見知った背中を見かけた。そいつは旧校舎へと歩いていく。休み時間になると、俺も旧校舎に向かった。すぐに目的の人物は見つかる。そいつは文芸部部室の前で突っ立っていた。「入らないのか?」古泉は驚いた様子もなく俺を見た。「あれ、どうしたんです? こんなところで」「それはこっちの台詞だ。二日もサボりやがって」「ついさっきまで忙しかったんですが、唐突に暇になりまして」「そっか」「はい」古泉はもう一度、部室をしげしげと眺め始める。「提案なんですが」「なんだ」「遊んでくれませんか」 § 部室には誰もいなかった。長門も、さすがに学校にいる間中ここにいるというわけではないようだ。「オセロでいいか」「ええ、どれでもけっこうです」パチパチと石を打ち始める。白と黒。二色の世界を外へ外へと広げていく陣取りゲーム。戦争において、肝心なのは手駒の量ではなく管理者の質である。兵器の差が戦力の決定的な差ではない、と某少佐もおっしゃっている。土地、天候、兵力の振り分け。最適な演算処理が求められる。優れた統率者が指揮を執る軍が勝利を手中に収めるのだ。「ふむ……」古泉が唸る。力の差は歴然で、俺の圧倒的優勢となる。どう見ても逆転の余地は無い。「お聞きしたいのですが」「なんだ?」「この大差、誰もが僕の負けだと確信する局面で……もしも、ですよ。この差をも埋めてしまう逆転の一手があるとしたら、あなたならどうします?」「あん?」古泉の意図がわからない。「おまえ、そんなの……」俺はその後の言葉を発する前に、口を閉じた。無理。現実逃避だ。ありえない。そんな手は存在しない。きっとそういう風に答えていただろう。堂々巡りするかつての俺を、俺は斜め上から眺めていた。いつかの自分より、少しだけレベルアップした自分で。「俺なら……」馬鹿なことと知りながらも、真剣に立ち向かう。それは凄いことだと思った。「その手に見合った、最高の石で打ってやるんじゃないかな」だから俺はそう答えていた。古泉はその答えに満足したように立ち上がる。「すみません、もう時間です。続きはまたいつか」足早に部室をあとにする後姿は、妙に清々しく見えた。 § それから三日後の七月十八日。古泉の訃報が届いた。
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