彼の去った後で
「なぜなら俺は、SOS団の団員その一だからだ!」 そう言って。その言葉を残して、ジョンはどこかに消えてしまった。 あたしがいくら探してみても、あれ以来ジョンの姿を見ることはできなかった。 長い冬が終わる頃、いつしかあたしはジョンを探すことをしなくなった。 どこかにいるって信じたかったし、今でもひょっこり現れそうな気がしてたけど、今の今まで、とうとうアイツは帰ってこなかった。 季節が一つだけ進んで、あたしの学年も一つ上がった。 相変わらず日常はどこまでも退屈で、溜息を塗り固めてしまうほどに憂鬱を感じることばかりだった。 でも、ジョンがあたしの前にもう一度現れたあの冬からこっち、いくらか楽しい時間を持てるようになったのも確かだ。「あー! だから違うって! ここは仮定法過去を使うの」「は、はいぃ……」 喫茶店の中であたしたちは勉強会のようなことをしていた。「みくるちゃん、そんなんじゃ受験の荒波は突破できないわよ。学力が維持できなければSOS団の日常も維持されないわけ。そうね、心境としては悪の秘密結社から地球を防衛する正義の味方くらいに気負った心持ちでいるといいわ」 「えぇ! あたしが地球を守るんですかぁ!?」「例えよたとえ。そのくらい気合を入れていれば、いざ危急存亡の折にくずおれることもなくなるわ。……そうよね有希?」 あたしが窺うと、眼鏡をかけた白皙の無口っ子はわずかに頬を朱に染めて、「……う、うん」 こくっと頷いた。まるで何か考え事をしていたような間があったけど。 あたしは自分自身にも活を入れるべく深く息を吸い込んで、「さ、それじゃ今日も不思議を探しに出かけましょう!」 高らかに宣言した。三人の団員に向けて。 ――彼の去った後で―― 春は出会いと別れの季節だ。 入学式や卒業式がなくとも、クラス替えがあればいくつかの人に出会って、いくつかの人と疎遠になる。 けどあたしは出会いも別れも去年の末に先取りで済ませてしまっていて、だからこの春には驚喜も哀惜も必要なかった。学年が上がっただけで、あたしの周囲を取り巻く環境にさしたる変化はなかったのだ。 「今日はどのようなルートを巡るおつもりですか?」「そうね。もう暖かくなってきたし、川沿いに行けば七色に変化するカエルとかがフライングして地中から出てきてるかもしれないわ」 古泉くんの問いにあたしは答えた。彼は喫茶店の伝票を自ら取って、「それでは、今日こそ物理法則を逸した現象が我々の目の前に現れることを祈って」 如才なく微笑んでレジへ向かう。あたしはその後ろ姿をしばらく見ていた。 古泉一樹はあたしの彼氏ということになっていた。 彼と出会ったのは去年の五月。「半端な時期に転入してくる高校生」という響きに、特別な意味もなく共感し、あたしのほうから話しかけたのがきっかけだ。 中学の頃からあたしはこの世に潜む不思議の存在を信じて疑わなかった。そんな面白い出来事に立ち会えるならどんな苦労も厭わない。 でも結局のところ、古泉くんは何の変哲もない普通の男子高校生だった。あたしの予感は外れて、それ以来、学校にイタズラ書きするのも、鏡に口紅で絵を描くのも、いかにも古文書っぽい古本にある呪詛を唱えてみるのも、みんなやらなくなった。 早い話が、この世界は普通なのだ。 そしてそれはあたしにとって最も憂鬱な真実だった。 そんなの認めたくない。今だってそう思ってる。 過去に二度、あたしは少しおかしな出来事に遭遇したことがある。 そのどちらにも、ジョン・スミスっていう耳を疑うような名前の人間が関わっている。 一度目。 あたしは中学一年生で、日付は七夕だった。宇宙へ向けてあたしは校庭に石灰でメッセージを描こうとした。その時に手伝ってくれたのがジョンだ。別れた頃には北高に行けばいつでも再会できると思っていた。しかしそれは間違っていた。それから三年間、ジョンはどこかに行方を霧消させてしまった。 もう会えないかもしれないと思って忘れてしまう頃に二度目があった。 昨年末。 急に下校途中のあたしの前にジョンは現れて、ホラ話のような奇想天外な一節を延々語ってくれた。もともとジョンはこことは違う世界の住人で、そこではあたしが宇宙を一変させてしまうような力を保持している。 ウソのようなその物語はあたしの心を強く惹きつけた。もしそれが本当なら、世界中のどこを探したって見つからないくらい面白い。そう思った。 なのに、それだけを言って、あたしの興味を引くだけ引いて、ジョン・スミスは昨年末にまたも消失してしまった。綺麗さっぱりと。眼前で。 あたしは何としても三度ジョンに会いたかった。 一度目の後に二度目があった。じゃぁ三度目はないのかしら? それは当然の疑問だった。 依然として、その自問に対する回答は留保されたままだ。「涼宮さん」「え!?」 古泉くんが戻ってきていた。変わらぬ笑みでテーブルの傍らに佇立している。「会計が済みましたよ。参りましょう」「あ、そうなの? いつもありがとう」 あたしが慌てて謝辞を述べると、「いえ。僕にはこれくらいしかできませんから」 ベストスマイル賞を授与されそうな微笑で彼は答えた。 あたしにとって、古泉くんは本当の意味で彼氏ではなかった。 初めて出会った日、あたしが古泉くんに詰問のような会話を持ちかけると、その流れで彼のほうから提案された。 ――僕とつきあってみませんか? あたしはこれまで誰かを好きになったことなどない。恋愛なんていうものは凡庸な一般人種が求める暇つぶしくらいにしか思っていない。早い話が普通なのだ。そこにはどんな奇妙な事故も事件も介在しない。本を手に取る際も、あたしは唯一恋愛小説だけは読まない。 それじゃどうして古泉くんとつきあっているのか? 別に理由はない、と思う。 これまでだってコクってくる連中には二つ返事でOKしていた。その代わりに十日もしないうちに全員を振ってやったけど。 古泉くんと一年近く続いているのは、この集まりができたからかもしれない。「有希、どこか行きたいところある?」 あたしは他校の同学年に質問した。すると長門有希は口を小さく開けて、「…………本屋」「え? また?」 思わず漏れた一言に、有希は顎を引いて耳を赤く染め、「…………ごめんなさい」 消え入りそうな言質に、今度はあたしがせわしく首を振った。「いいえ! いいのいいの! じゃぁ川沿いに歩いた後で駅のデパートに行くことにしましょう!」 すると有希は口元に手を持っていってから固まって、やがてゆっくり頷いた。 どうもこの子には触れるだけで割れてしまうガラス細工のようなイメージがある。「みくるちゃんは?」「え! あ、はい! あたしはえっと……、お洋服が見たいです」 有希と同じ高校の先輩である朝比奈みくるちゃんは、半ば困惑気味に答える。「ま……、こほん。解ったわ。じゃぁ本屋の次に寄るってことで」 SOS団はあたし、古泉くん、みくるちゃん、有希の四人で構成される、この世の不思議を解き明かす団体だった。二週間に一度、こうして駅前に集まっては市内に繰り出して、渡った人が消えてしまう横断歩道とか、正午にだけ指が四本になる薬局の人形だとかの謎を見つけるのが課題。 でもこの四ヶ月で収穫はゼロ。最近は休日散歩組合と呼んでも差し支えないくらいにマンネリ化しているのも事実だった。「んーっ! やっぱり春先の街は気持ちがいいわね」「そうですね、お花見にはちょっと遅くなっちゃいましたけど、暖かいです」 背伸びするあたしにみくるちゃんがタンポポのように笑って言った。 でもまぁ、と、あたしは思うのだ。 こうやって四人で一緒に歩くのは、少なくとも一人きりで不思議をがむしゃらに追求していた昔よりは随分と楽しい。 そこには一縷の不可思議もないし、やってることはただの散歩だけど。 あたしがこれまでやってこなかったのは、むしろそうした平凡なことだったから。 伸びをしつつ反対隣に目を移す。するとそこには、どこか遠く、ここにはない場所を映すような有希の瞳と横顔があった。「有希」「……」「有希?」「えっ」 やっと反応してくれた。相変わらずの自信なさげな眼鏡越しの表情には、見ているこっちが危なっかしさを覚えてしまう。「どう、あれははかどってる?」 あたしは両手でタイプのジェスチャーをした。すると有希は一度うつむいて、「…………あんまり」 眼鏡に小川のきらめきが反射する。「そっか。じゃぁ今日は一旦全部忘れて、楽しく過ごしましょ! ……ね?」「うん……」 みくるちゃんもまぁそうだけど、有希は輪をかけて守ってあげたい気になる。 思い出すのはこの子と初めてあった日――ジョンが消えた日のことだ。 あの時、ジョンからくしゃくしゃの紙片を受け取った有希の肩が震えていたのを、今でもあたしは忘れられずにいる。 寒い寒い、公立高校の旧校舎。 あたしは確信していた。有希もまた、あれからジョンを探し続けているに違いない。あたしのように実地で探索行を実施するとかじゃなく、もっと別のところで。 今の彼女の目がそれを物語っている。 どこかこことは別の場所にある、透き通った水面を見つめるような瞳が。 夕方。「それじゃぁね! また再来週に会いましょう。遅刻は厳禁だからね。罰則は……ないけどさ」 そう言ってあたしは有希とみくるちゃんに手を振った。二人ともそれぞれの所作と共に別れを告げて帰途に着く。まだ夜が近い春先の候に、親友二名の立ち姿がどこか儚い影を落とす。 「……また」「さようならぁ」「気をつけて帰るのよー」 まるで子どもの友達を見送る母親状態だ、と自分で思いつつ、「さ、古泉くん、あたしたちも帰りましょ」「はい」 唯一の男子団員にあたしは言った。 常態たる笑顔は、今日もそこにあった。「ねぇ古泉くん、水曜日の実力テストの対策してる?」 帰りの電車のつり革につかまりつつあたしは訊いた。「…………」「古泉くん?」 長袖の裾を引いてやっと彼は気がついた。「あ、すみません。しばし考え事をしていましてね。何の話でしたか?」「来週のテストの話よ。英語が随分厄介な問題になるってもっぱらの噂だから。みくるちゃんに教えてたら自分のほうが気になってきちゃったわ」 古泉くんは「あぁ、そのことでしたか」と言って、自分は数学の偏差が最近横ばいですと懸念の意を表明した。それから英語と数学について互いが要所と考えている箇所について、あたしたちは口頭で情報交換をした。 車内に駅に着くアナウンスが流れる頃、あたしは別の質問をした。「ねぇ、古泉くんはSOS団の集まりについてどう思ってる?」「……」「古泉くんてば」「おや、一度ならず二度までも。失敬」 古泉くんは電車の窓から広がる夕暮れの景色に目を奪われていたようだった。何か引っかかる。有希がたまに虚ろな表情をするのは解るけれど、古泉くんがこんな顔をするのは……何というか彼らしくない。 「SOS団について、でしたか。僕は楽しめていますよ。日頃凝り固まった心身を解きほぐすのに丁度いいと言いますか」 平素の笑みと共に古泉くんは言う。続けて、「彼――ジョン・スミスでしたか。奇矯な振る舞いをしたあの人物が現れなければ、今の我々の集まりもなかったわけですし、長門さんも朝比奈さんもなかなか個性的な方々だとも思います。僕一人が男子なので、若干の躊躇は今だありますがね」 穏やかに感想の陳述を終えた。その頃にはすっかり元通りの様子に戻っていて、さっきまでの見慣れない表情はあたしの錯謬かと思ってしまう。 嘆息する間も程々に、電車は駅に滑り込んだ。ホームから改札を抜けて、見慣れたいつもの光陽園駅前に到着する。「それでは」 古泉くんがそう言って手を振る。「うん。またね」 空の端が紺色に染まって、夕方は夜へと変貌していく。 まばらに見える木々が風にざわめいて、あたしは何かを感じ取る。「古泉くん!」 立ち去りかけたジャケットの彼は振り向いた。「えっと」 しかしあたしは言うべき言葉に思い当たらなかった。「……何でもないわ。また来週、学校で」 すると古泉くんはわずかに苦笑するように口の形を変えてから、「えぇ、さようなら」 今度こそ背を向けて帰っていった。 ……何だろう、今のは。 翌日は何にもない日曜日で、午前中をあたしは実力テストの予習に費やした。 と言っても英語だけで、あとは別に懸念も心配もしていない。私立校だろうと教師は結局一人の人間で、そうある以上出題される問題の傾向くらい解る。一年も経てばなおさらだ。 あたしはひとしきり片づいた教科書やノートを脇に置いて、このところ雑然としている部屋の中を睥睨した。片づいている時と散らかっている時とまちまちで、それはあたしの思いつきでこの部屋が様相を変えるからだ。 椅子の背に寄りかかって、あたしは髪の毛の先を弄んだ。このところ美容院にも行っていない。後ろなど腰より長くまで達してしまいそうだった。 髪を伸ばしているのはいつからだったっけ。中学の初めのほうは短く揃えていたから、そこから先か。……思い出せない。 中学時代の記憶で一番明瞭に残存しているものがジョンとの一件だった。 夢に見るということでもないのに、まるでさっきあった出来事のようにくっきりした輪郭を伴って脳裏に浮かび上がる。 だからだ。 だからあたしはアイツを忘れることができずにいる。 今となっては本当に存在していたかどうかすら定かでないのに。 アイツが消えた後で、あたしは北高の同学年に聞き込みをした。 あの時久し振りに見た谷口のアホ面を覚えている。でも得られた回答は芳しいものではなかった。いくらあたしが特徴を伝えようとも、ジョンを知る者は誰一人いなかったのだから。 あたしと、古泉くんと、みくるちゃんと有希を除いて。 まるで不都合を避けるために誰かがジョンにまつわる記憶を人々から消してしまったみたいだ、とあの時のあたしは思った。もしかしたらその通りなのかもしれない。アイツの話が確かなら、あたしが暮らしているこの世界はアイツのものではない。元いた世界があったはずで、とすれば無事帰ることができたのだろうか。 ……考えるほど腹の立つ話だ。さんざん人を焚きつけておいて、用が済んだら眼前から去るなんて。一体アイツは何を考えてるの? 見つけたら磔刑に処すわよ。 ピリリリリ 不意に携帯が着信音を発した。 古泉くんだ。あたしは通話ボタンを押した。「もしもし?」『もしもし』 聞き慣れた耳通りのする声が端末越しに聞こえた。「古泉くん、どうしたの?」 あたしが問うと、彼はすぐには答えなかった。玄黙するような間を置いて、『涼宮さん、お時間ありますか? 今から例の集合地点……では遠回りですね。そうだ、昨年末に彼――ジョン・スミスから話を聞いた喫茶店に来ていただけませんか』 口調は普段通りの穏便なものだったけれど、あたしはどこかに違和を感じる。「時間なら大丈夫だけど、何?」 再度の問いに、また一呼吸置く間があって、『お話したいことがあります』 最低限の身支度をして、四ヶ月ぶりとなる喫茶店にすべり込む。 SOS団を発足させる時、ここを集合場所にする案もあったけど、それにはあたしが反対票を投じた。何となく、ここで会合するのは気が引けた。店内の雰囲気は普段行っているほうの店舗より落ち着いていて悪くないけど。 中に入ると、細く長い指がすっと上がって、彼の居場所を自ら示した。この一年間最もよく見てきた表情がそこにあった。「ごめん、待った?」「いいえ。待つのは嫌いじゃありませんから」 そんなだと損な役回りばかり演じることになるわよ、と、一度言ったことがある。日常があんまり退屈で、苛々していたあたしを宥めるように話していた古泉くんにあたしが投げた悪辣な言葉だった。しかし、それにも彼は動じず、今と同じように笑っていた。 あたしはカプチーノを頼んで、古泉くんはアーモンドモカを注文した。店内を見渡して、去年の暮れとは違う景色があることに気づく。冬が春になったんだから当たり前だけど、お客の服装は軽くなっているし、明度も上がっている。誰もが浮かれて憩っているようで、あたしは少しだけ癪になった。 「それで、話って何?」 思えば古泉くんにこうして呼び出されたことなんてなかった。つきあおうと言ってきたのは彼だったけど、かといって特別交際中の間柄にある人同士がするような行動で互いを縛るようなこともなかった。だから一年近くも続いてきたのかもしれない。 これを一般的な関係と呼ぶのかは知らないけど。「交際を解消しませんか」 本当に何気なく、昨日の夕飯について話すくらいの気軽さで古泉くんは言った。 あたしはすぐに言葉の意味が捉えられずに、「はい?」 訊き返した。後から徐々に理解が追いついてゆく。 交際を解消……? 古泉くんは交互に組んだ自分の指先を見つめていた。 すらっと伸びたしなやかな腕、細長い指、モデルのような体躯、穏和な物腰。こうして見ると校内で女子の注目を集めるのも解る。「えぇ」 古泉くんはそう言ってゆるやかに首肯する。あたしはまだ六割しか得心がいかない。「それってどういうこと? やっぱりSOS団が嫌とか、そういうの?」 すると古泉くんはあたしの質問を予期していたかのように首を振って、「いいえ、そうではありません。あれとは別の話です。そうですね、僕と涼宮さんの距離を友人同士のものとして置き換えましょうという……提案、のようなものです」 何だか妙な含蓄がある気がした。「古泉くん、あたしに何か隠してない?」 すると彼はまた首を振って、「いえ。言っておきますと、他に好きな人ができたということもありません。ただ、僕はあなたの彼氏役から友人の座に席を移したいと申し出ているだけです」「どうして急に?」 質問ばかりのあたしに、古泉くんはお冷を口に含んでから、「僕ではあなたの彼氏はつとまらないと思ったからですよ」 柔和に微笑んだ。あたしは初めて彼の笑みの種類に気づいたように、その表情を見ていた。古泉くんは続けて、「話は大きく分けると二つの段階を経ています。すなわち昨年末以前と、それ以降です」 まるでどこか他所で起きているニュースについて語るような、淡々とした口ぶりだった。「あなたに出会ってから、僕はこれまで自分を取り巻いていた世界が、いいえ、その認識がいかに狭量で矮小なものであったかを知りました。だからこそあなたに惹かれましたし、同時にあなたに認められる存在でありたいと、僭越ながら願ったのも確かです」 笑顔の中に微かな混迷が見て取れた。そして、あたしはそんな古泉くんの表情を初めて見た。もしかしたら、彼は今までにもそんな顔をしていたのかもしれない。でも、あたしは今まで一度も彼の変化に気づかなかった。 「ですが、同時に僕は何をしたらいいか解りませんでした。涼宮さん、あなたは誰も描かないような途方もないスケールをいつも宿していました。それくらいは僕にも解りましたが、逆に解ってしまうからこそ解らなくなりました。僕があなたにできることなど、それこそ休日の交友費をまかなうくらいのものです」 口の端が自嘲するように曲がった気がして、あたしは何も言えなかった。「僕のそんな猜疑は、時間の経過と共に無視できないものになっていきました。果たして僕はあなたの恋人という位置にいていいのだろうか、とね。……まるで折を見たかのように、予感を確信に変えてしまう出来事が起きたのは、他ならぬ昨年末です」 述懐する古泉くんは、さして嬉しそうでも悲しそうでもなかったけれど、今のあたしにあなたの心情を正しく理解できているか、まったく解らない。 古泉くんはいつの間にか届いていたアーモンドモカを一口だけ啜って、「ジョン・スミスですか。四ヶ月前、ここで話を聞いていた時には、ふざけた人物だという感想を抱いていたのが正直なところです。……今だから話せますがね」 古泉くんは他に浮かべる顔に思い当たらないと言うかのように微笑していた。あたしは、昨日の別れ際に感じたのと同種のさざめきを感じていた。「ですがあなたは彼に惹かれていた。悔しいですが、一目でそれは判然としていましたよ。彼と僕ではそもそもの立ち位置が違うのだと思いました。日本の陸上選手が欧米のアスリートに感じる先天的差異と似たようなものでしょうか」 古泉くんは窓の外をまばらに行き交う車と人の通りを見やった。 呑気すぎるくらいに空には青が散っていて、空も明るくて、緑も鮮やかだった。室内なのに風を感じることができそうなくらい。「これならいっそ、初めから舞台の外を通る通行人にでもなっていたほうがよかったかもしれません」 古泉くんはあたしを見なかった。「古泉くん、あたし――」「すみません。先に最後まで話させてもらえませんか。でないとこの場に最後までいられる自信がありません」 抑揚のない声だった。あたしはまた沈黙する。 その様子を見た古泉くんは、また目尻を傾斜させる笑みで続けた。「彼を見るあなたの瞳に宿る輝きは、これまで僕が見たどの瞬間のあなたにもないものでした。あなた自身が気づいていたかは解りませんが。不承ながら納得せざるを得ませんでしたよ。あなたがこれまで求め続けていたものがいかに圧倒的で、僕の手中に納まらないものであるか、痛感という言葉がぴたりと合致します」 あたしはカプチーノのカップを両手で包んだ。口には運ばすに。 ……冷めかけている。 泡の表面に視線を落とすあたしに、古泉くんは話す。「しかし彼は去ってしまった。僕にしてみれば、これほど嘲弄された気になったのも初めてのことです。何せ突然現れて、僕が開けなかった扉をあっさりと開放して、停留することなく去ってしまうのですから」 ふっと肩を沈める古泉くんとの距離はテーブルひとつ分のはずだったのに、この数分間だけで星間ひとつくらいに遥か遠くになってしまった。……もともとそうだったんだろうか。あたしが気づいてなかっただけで。 「この四ヶ月は狭間の期間でした。長すぎるくらいでしたが、ようやく決意できましたよ」 そう言って古泉くんは言葉を切った。すべて言い終えたのだろう。 一方のあたしは、何か言う糸口すら見つけられずにいた。古泉くんがそんな風に考えていたなんて全然……。 あたしはこれまで、彼の何を見ていたのだろう。「今まで、ありがとうございました。これからもよろしくお願いしますよ。団員、及びクラスメイトとしてね」 あたしの元恋人役は、そこでも笑っていただろうか。 月曜日がやって来る。 自宅から学校はそんなに遠くない。 仮に北高に進路を取っていたら、あの長い長い坂に辟易していたかもしれないけど、線路沿いを辿っての行程にさしたる労苦はない。 なのに足が重いのはどうして? 誰かに尋問できればよかった。でもその答えを知っているのは、たぶんあたし一人だけだ。 二年九組の教室に入ると、既に古泉くんの姿はあった。 教室の前方でクラスメイトの女子と歓談している。 昨日、結局あたしは彼の申し出を受け入れた。 あたしが古泉くんを引き止める理由なんてどこにもなかったからだ。 そのはずなのに、この欠落感は何なのだろう。 今日から何と言って古泉くんと接すればいいのか解らなかった。「ねぇ涼宮さん。古泉くんなんだけど――」「ごめん、悪いけど今話につきあう気分じゃないの。……またにして」 話しかけてきた近くの女子を問答なしに追い払った。彼の話となればなおさらだ。 授業をまるごと聞き流したのなんていつ以来だろう。 ――去年以来よ、と答えが返ってくる。 古泉くんの言っていることは何一つ間違っていなかった。 あたしは確かにジョンに惹かれていた。 それはアイツの存在が、これまで起きた事象のなかで唯一と言ってもいいほどの稀有な内容を包含していたからだ。アイツならばあたしを見知らぬ世界へ誘ってくれる。半ば勝手な先入であたしはそう決めつけて、妄信するかのように願っていた。 でも、そうはいかなかった。 そして、なおもあたしはジョンを忘れられないでいる…………。 古泉くんはそれをすっかり見抜いていたのだ。 思えばこれまで、昼休みや放課後の何気ない時間のほとんどをあたしは古泉くんと一緒に過ごしていた。それらはみな当たり前以前の日常としてあたしの毎日を構成していた。 そんな「当たり前」のなくなった一日は、どうしてか心許ない。 内心から虚勢を張っても即座に嘲笑うのは、他ならぬ今まで一人だったあたし自身だ。 下校時間が来て、あたしは進まぬ足で校門を出た。 一人で歩く帰りの線路沿いは、亀裂に渡されたつり橋のように頼りなかった。 今まで何をして夕方の時間を過ごしていただろうと考えて、解らなくて。考えて、解らなくて。そうしているうちに足が自宅とは別の場所へ向いていた。 東中。 ジョンと出逢った場所だ。 フェンス越しに見える夕方の校庭には部活に励む中学生が横溢している。あたしはいつかここに通っていたはずだ。なのにどこか遠い国の出来事のように思えるのは、あたしが三年間を通じて何ら周囲と関わりを持とうとしなかったからだろうか。 七夕の夜、ここであたしはジョンと絵を描いた。宇宙へ向けたメッセージ。 ――わたしは、ここにいる。 今もここにいる。 なのにどうしようもなく薄っぺらに感じるのはどうしてだろう。 あたしは正門前にへたりと腰を落とした。 一体何がしたいのだろう。探しても探しても見つからない。不思議も、ジョンも。それだけじゃない色々が。放っておけば時間だけが過ぎていく。一分一秒がもったいない。 「ジョン……」 どこにも存在しない人間の名前を、あたしは呟いた。 夕間暮れを越えて頻闇が支配する夜になる。あたしは適当に歩き回った挙句、ようやく家に帰った。 そしてそこに彼はいた。「古泉、くん?」「こんばんは。……なんて、わざわざ挨拶するのもおかしいですか」 門扉によりかかっていた古泉くんは、苦笑気味に言ってあたしにノートを差し出した。「これ、前日借りていた数学のノートです。お返ししますよ。さすがは涼宮さんですね。理路整然として明瞭簡潔なまとめ方です。そのまま参考書にして売り出せるのではと思ったほどですよ」 あたしがぽかんと口を開けて何も言えずにいると、「どうぞ。涼宮さんのノートでしょう」「それは……そうだけど」 あたしはノートを受け取って、虚脱状態のまま鞄にしまった。「それじゃ」 古泉くんは一言告げて辞去しようとする。あたしは凋萎したように立ちつくす。 ――。 ほんの一時の力。 手首に力を感じた瞬間、否応無しに振り向かされていた。 吐胸を突かれる、瞬刻のそれは……「…………!」 古泉……くん。「ばっ!」 あたしは次の瞬間平手を放っていた。 狙いは違わず、見慣れた人の頬をぴしゃりと打った。「……すみません」 顎を引いている彼は、本当に申し訳なさそうに、悄然とうなだれる。「さようなら」 それだけ言って。踵を返す。 あたしの警戒はもはや無用だった。古泉くんは振り向かずに歩いて、やがて見えなくなった。 咄嗟に頭が譫妄状態になったみたいに惑乱する。 今、何があったの――? 古泉くんにキスされた。 どうして!? これまで一度もそんなことしてこなかった。それどころか手を繋ごうとすらしてこなかったのに。何で? どうして? あたしたちは終わったんじゃなかったの? あなたが終わらせたんじゃなかったの? あたしは正常な思考を取り戻すまでに寝て起きるまでの時間を必要とした。 そしてある程度冷静に考えられるようになった次の日、学校を休んだ。 よりにもよってその日は雨だった。 学校をサボる日としてうってつけとは言いがたい。晴れか、それより曇りがいい。 あたしは家族に適当な挨拶を言って家を出ると、途中まで通学路を辿った。そこからいつものレールを外れて駅のホームへ向かう。電車に乗ってSOS団の集合場所を目指す。日常からの逸脱がレールの上を行く電車に乗ることだっていうのには我ながら失笑してしまうけど、それくらいのことが昨日は起きたから。 「何考えてるのよ……」 半ば無意識でそう呟いていた。 このローカル線はほとんど学生専用のような電車だ。だから朝の時間、登り路線はびっくりするくらいに空いている。 あたしは三人掛けの座席に座って、ビニール傘を手すりにかけた。同じ車両には片手で数えるほどしか乗客がいない。 鞄を開くと、昨日から入りっぱなしになっているノートが目についた。ほとんど同時に彼の顔が浮かんできて、連鎖するように昨日の出来事も浮上する。 まだ右腕の感触を覚えている……。思いのほか力強い握力。普段の振る舞いからは予想もつかない大胆な行動。 あたしは首を振った。ダメ、いくら回想しても自分の中で整合しない。通俗的な言い方をすれば「古泉くんらしくない」。 でも、とあたしは思う。 あたしは彼の何を知っていたのだろう? これまでの一年間、あんなにいつも近くにいて、あたしは彼の何を知っていたのだろう? 考える間に電車は乗り継ぎの駅に着く。二本目の電車は一駅で目的地に至る。流れるようにして下車すると、どこかに傘を忘れてきたことに気がついた。「あぁもう」 空に向かって悪罵を投げた。小康状態ではあるものの、相変わらず空からの雫は地面を打ち続けている。 あたしは意を決して、喫茶店までのわずかな区間を走り抜けた。濡れたアスファルトを蹴るたび、伸ばした髪が尾を引くように撥ねる。まばらな雨が顔に当たる。鬱陶しいったらない。 短いランニングを終えて、通い慣れた店のドアを開けた。 やっぱりと言うべきか、平日の午前は自由席みたいに閑古鳥が鳴いていた。シャンソン風のイージーリスニングが流れている。 折角だし、とあたしはカウンター席に座る。「おや、今日は一人かい? この時間だと……学校は自主休校かな」と笑うマスターにホットを注文する。 世界の人口が1%になってしまったみたいに、窓の外も閑散としていた。時折思い出したようにタクシーや営業マンが通りかかるだけだ。店内には主婦と思しき三人組と、スーツ姿の係長っぽい風体の人以外にお客もいない。 こういうのも悪くないか、と思った。虱潰しに市内をやたらめったらに歩きまわれば、最悪巡回中の警官に遭遇くらいはするかもしれない。 あたしはもう一度鞄に目をやって、吐息と共に首を振った。ダメだ。今顔を合わせたら、また問答無用で引っぱたいてしまうかもしれない。口が先走って雑言になってしまうかもしれない。 何より、あなたを解る自信が今のあたしにはない……。 頭の中まで低気圧なのにはもううんざりだった。ホットコーヒーと彼女が来るまで、あたしはそうやって憮然としていた。「はいどうぞ。あぁいらっしゃい」 コーヒーを受け取ったあたしは、マスターの声に入口へ向いた。「こんにちは」 知らない女の子。 彼女は淑やかに微笑むと、ショートカットを揺らせてあたしの隣に座った。学校の制服姿だ。まず間違いなく高校生、ひょっとしたら同い年かもしれない。「ここいいかしら? って座ってから訊くのも何だけど」「えぇ」 半ば生返事であたしは答えていた。 綺麗な人だった。初めて見た人間が最低三秒は見とれてしまうくらいに。あたしの返答が遅れたのがその証拠だ。 マスターはあたしの時と同じような応対を彼女にもした。彼女はあまり見ない制服を着ていた。どこのだったかしら。滅多に見ないけど覚えがないわけでもない。「その制服、光陽園かしら?」 彼女が微笑と共に訊いてきた。「え? ……あぁうん。そうよ」 すると彼女は机の上で両手を組んでこちらに笑いかけ、「進学校って退屈じゃない?」 妍姿たる仕草で言った。見開かれる大きな瞳は透き通っているものの、どこか物憂げな印象を抱かせた。 あたしは今度ははっきりと頷いて、「えぇ、退屈。そのくせ無意味に忙しいし。なのに行事は通過儀礼でしかないし。設備くらいしか賞嘆すべき点がないわよ」 言いながら、彼女に妙な共感と、別なる郷愁を感じていた。何だろう。初対面のはずなのに、まるでずっと前から知っていたみたいに親しく話せるのは。 彼女はふっと吐息のような笑い方をして、「まったく。こうしてコーヒーの一杯も飲みに来たくなるくらいには益無しね」 どこか遠くを見つめる瞳は、有希のものとはまた種類が違った。 あたしたちはしばらくの間、巷に遍在する「普通」についてあれこれ話した。 これほどしっくりくる相槌を打ってくれる相手などこれまでに会ったことがなかった。というくらいには、互いにいい聞き役になっていた。「どうしてどいつもこいつもテンプレートに当てはめた行動しかできないの。ずっと疑問だったのよ」 あたしが言うと、「そうね。わたしが思うに、ある種そうやって画一化してしまったほうが楽なんじゃないかしら。選択肢から無難なルートを選んでおけば、それが通例という認識を持たれている以上、誰からも普通未満の評価はされないでしょう? 加点より減点を防いでいる、と換言してもいいわね」 あたしが注文した三杯目はカフェラテだった。それくらい話が弾んで、久方ぶりに軒昂している自分を見い出した。そうして、他愛無くも、小賢しくもあるあたしたちの会話は昼過ぎまで続いた。 「あ、もうこんな時間か」 彼女が店内の時計を見て呟いた。「それじゃわたしはそろそろ。……楽しかったわ。またいつか、会えたら」 玲瓏に笑って、彼女は勘定を済ませて去って行った。あたしはしばらくその後ろ姿を見送っていたものの、やがてマスターに訊いた。「彼女、よく来るの?」 すると彼は首を傾げ、「いいや。少なくとも記憶に残るほどには来ていないね」 少し残念に思いつつ、あたしもお代を払って店外へ出た。 午後の空は曇りにまで具合を回復させていた。遠くの切れ間に青空が見える。 あたしは携帯を取り出す。一度深呼吸すると、アドレス欄から番号を呼び出して通話ボタンを押した。 今ならまだ、小さなヒビを修復できる気がしていた。 しかし、電話は繋がらない。一度かけ直しても結果は同じ。「……」 晴れかけた空に、まだ太陽は見えず。 その日眠るまで、あたしは悶々としていた。 薄ぼんやりとした夢の縁、ジョンと古泉くんをいびつな秤にかけている自分に気がついた。 ジョンはもうどこにもいない。 あたしはずーっとアイツのことを探していたけど、行動を起こしたからって願望が成就するとは限らない。それはこの四年間でさんざん学んでいたことだ。あたしの住むこの世界は、例えあたしが逆立ちしたって普通なのだ。アイツが元いただろう、別の世界の話はとても魅力的だったけど、あたしはそこの住人ではない。 あたしにはあたしの世界があって、そこにはちゃんと大事な人たちもいるのだ。 倦怠するような毎日も、単調な物事の繰り返しも。それこそがあたしの居場所なのだ。 もちろん放擲したいことだってあるし、むしろそんなことばかりだけど。だからっていつまでも反発だけしているわけにはいかない。 それに、たまには今日のような楽しい日もある。今までみたいに無粋な態度ばかり取っていたら、いつかあたしは本当に楽しむことを忘れてしまうだろう。 考えているうちに夜が更けて、やがてあたしは眠りに就いた。 そしてその晩、これまでに見なかった夢を見た。 あれは去年五月の初め、転入生がやって来て自己紹介をした、懐かしい風景を。 翌日、雲はまだ空の半分ほどを覆っていた。でもあたしの足取りは軽快だった。こうと決めたら絶対にねじ曲げないのがあたしのモットーだ。 正門を通って昇降口を抜け、階段を上がってクラスに入る――と、クラスの視線が一瞬あたしへ集まった。……まぁズルとはいえ昨日休んだしね。 一目で古泉くんがまだ来ていないことに気がついた。あたしは自席について鞄を机にかける。なおもチラチラこっちに視線が飛んでいるのが気にかかる。バレてるのよ、あんたたち。 担任が入ってきて朝のHRを初めても古泉くんはやって来なかった。 休みなのかしら? あたしみたいに気まぐれにフケるような人じゃないはずだ。 一限目が始まる頃、あたしは微かな心悸を感じていた。 そして、その正体がつかめるのは昼休みになってのことだった。「あの、涼宮さん。……ちょっといい?」 昼休み。学食から戻ったあたしに、おさげ髪の女子が話しかけてきた。この春から同じクラスになったこともあって、まだ名前は覚えていない。「何?」 あたしが訊くと、女子生徒は躊躇するような素振りを見せた。「はっきりしないわね。言うなら言う。言わないなら言わない」「古泉くんのこと!」 それだけ言ってまた彼女は押し黙った。思いもよらず大きな声になってしまい、自分で驚いている風情だった。「古泉くんがどうかしたの」 ぶっきらぼうに言うあたしに、「あの……涼宮さんもしかして知らないんじゃないかと思って」 何なのだろう。結論を後回しにする言い方はあたしの主義に反する。「これ以上あたしの呵責を浴びたくないなら、まず要旨を最初に言ってちょうだい」 クラスの連中の視線が少なからず集まっているのにいっそう苛々した。何だかあたしがこの子を虐めているみたいじゃないの。その憐れむような視線は何?「古泉くん…………転校したのよ」 …………。 何。 今、何て言った?「古泉くん、昨日付けで転校したの。帰りのHRで小さな送別会をしたんだけど、涼宮さんいなかったから、もしかしたらって」 うそ。だって古泉くんは一昨日までいつも通り振舞って――、 ……。 思いかけて気づく。 この数日の彼は全然いつも通りなんかじゃなかった。 ほんの二、三日の間に、古泉くんはいくつも「らしくない振る舞い」に出た。 あたしに強引にキスしたのはその端緒だ。 彼はあたしとの関係を解消しようとしたし、あたしの言うことにもどこか上の空だった気がする。 それは皆このためだったの……!?「どうして」 あたしは呟いていた。間もなくそれは叫びに変わる。「どうして!? 古泉くんがあたしに知らせないなんて、そんなことあるはずが……」 すると女子生徒はおずおずと肩をすくめて、「あたしたち、古泉くんから口止めされてたのよ。涼宮さんはできるだけ知らないほうがいいからって。僕が去ってから知るほうがいいだろうって。じゃないと古泉くん、ここから離れられなくなっちゃうって思っていたみたい」 そんな。 そんなのってない。「どうしてよ……」 どうして。 あとちょっと、ほんの少しでも早く気づいていれば。「あたし、昨日古泉くんに電話したのよ? なのに出なかった。これまで一度もそんなことなかったのに、どうして……」「それはわたしには……」 彼女は困窮しきった様子で言葉尻をすぼませた。彼女にまったく非がないことくらい解ってる。でも……、「……わかった。ありがと」 それだけ言うとあたしは鞄を引っつかんで教室を飛び出した。 古泉くんの家には数えるほどしか行ったことがない。 彼はあまり自分の家庭について語ろうともしなかった。それはあたしにしたって大差はない。あたしの場合はもっぱら、学校の連中が家柄を鼻にかけるのに辟易していたからだけど、古泉くんの場合それが当てはまるのかは解らない。 むしろ、あたしはこの一年間、彼の何を解っていたと言うのだろう。 当たり前に存在していた、あの穏やかな笑顔以外に、何を知っているというのだろう。 全力疾走して、最後に来た日の思い出せない邸宅に至ったのは学校を出た二十分後のことだった。「古泉くん!」 チャイムを鳴らしても、ドアをノックしても反応はない。家屋に人の気配は感じられない。昼間ではあってもどこかに明かりの着いている気配はない。 まるで元々ここには誰も住んでいなかったかのように、綺麗さっぱりと形跡が消えていた。あたしはそこに年末に消えたジョンのイメージをダブらせてしまう。 まただ。 またあたしは目の前で大切なものをつかみ損ねる。「古泉くん……」 今になって解ったことがある。 古泉くんは色恋沙汰に関して、決して器用ではないってこと。 彼にしてみればあたしを思いやってのことだったのかもしれない。 これで最良の結果になったと思っているのかもしれない。 でも、そうじゃない。 あたしはこんな結末に満足したりしない。 それなら。どうせなら、最後までずっと隠し続けてよ。 半端に本心を見せるような真似をして、勝手に去っていかないで。 あたしは格子状の鉄扉の前にしゃがみ込んだ。 ぎゅっと唇を結んでいないと、糸が切れてしまいそうだった。 言いたいことが山ほどあった。これまでさんざん適当なやり取りしかしてこなかったくせに。今までのあたしを五寸釘で呪ってやりたい。誰よりも鋭敏な直感をしていると思い込んでた、ほんの数日前までのあたしを。 じんわりとこみ上げる思いに、耐えているのが困難になってきた。 あたしはハンカチかタオルを鞄の中から探し、しかし別のものを探り当てた。 つい最近返してもらったノートだ。 パラパラとページをめくると、あたしの筆跡と白紙の狭間に、急いで書いたような乱雑な走り書きがあった。 今まで本当にありがとうございました。 気の利いた挨拶の仕方に思い至らなかったため、このような形になってしまったことをお許しください。 お元気で。 古泉一樹「…………」 器用じゃないどころか、不器用だ。この筆致と一緒。 これじゃちっとも相手の意を汲み取れてない。「バカ……」 どうやらあたしは、古泉くんがどういう人だったかの認識を初めから正さなければならないみたいだ。 あたしは大きく息を吐いて上空へ視線をやった。 その時振り仰いだ空は、何色をしていたかしら? その後、あたしがどうしたのかを明かすつもりはない。 ただ、その日を境にして、あたしは真の友を得たのだと思っている。 それは決して早くなく、けれど手遅れというわけでもない。 そう。 この時、この場所こそがあたしの世界なのだ。 あたしはそうして、ようやくジョン・スミスとの決別を済ませたのだ。「ねぇ! あなたどんな隠し属性を持っているの!?」「は、何の話でしょうか?」「だから! 属性よ属性。この時期に転入してくる謎めいた男子高校生といったら、秘められた隠し要素のひとつやふたつ持ってるもんでしょ?」「は、はぁ……」「あんた、名前は何だっけ?」「古泉……古泉一樹ですが」「そう。古泉くん。あたしは涼宮ハルヒ。この世に潜んでいる不思議を究明しようと目論んでいるところの高校一年生よ。あたしはあなたを謎解明のパートナーに任命します」 「は、何ですって!?」「いいから! 困ったら何でもあたしに訊きなさいよ。いいわね?」「…………」「返事!」「は、はいっ!」 (了)
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