いつか。
いつか、こんな日が来ると思っていた。
「長門っ!」
宵闇は秋風を存分に含んで、他に誰もいない校舎の屋上から、見慣れた文芸部員の姿を溶かしていく。
例によって言葉も表情もない。こんな時になってまで、長門有希は挨拶のひとつも言おうとしない。
「長門! 行かないでくれ! 長門!」
もう遅い。
頭で解っていても感情がそれを全否定する。
「……」
青白い月光をほのかに映す小さな顔は、確実に何か言おうとしているように見えた。
一年半だぜ。これで俺がこいつの内面を窺い知れてなかったら、今までが全部ウソになっちまう。
「……さよなら」
長門。
「長門!」
煌いた砂塵は、次の瞬間には無へと姿を変える。
まるで何もなかったと言わんばかりに、そこには中秋を控えた冷たい月の明かりだけがあった。
……さよなら。
たったそれだけかよ。
他にもっと言いたいことがあったんじゃないのか。浮かべたい表情があったんじゃないのか。
どれだけの言葉を尽くしても伝えられないことがあるように。
どれだけの時を過ごしても足りないように感じるのは、どうしてだ。
一度だけ微風が凪いで、何かが視界をかすめた。
「……?」
一枚の栞が落ちていた。
「長、門……」
拾い上げる。
まるで、すべてを証明するかのように、小さな紙片は俺の手に収まっていた。
「……くっそ……ちくしょう、……バカ野郎」
信じられないくらい、アホかってくらい、俺はずっと泣き続けた。
月も空も雲も、驚くほどに清浄で、ぞっとするほどに青かった。
さよなら。
俺だって言いたかった。
なのに叶わなかったのは、こんなに突然いなくなるなんて思わなかったからだ。
「バカ野郎……」
自分に向かって悪罵を投げる。
これまで、あいつはどれだけ俺を助けてくれたと思ってるんだ。
命の恩人どころの騒ぎじゃない。本当なら心臓がいくつあっても足りないのに、全部あいつが救ってくれた。全部だ。
なのに結局何一つそれらしい恩返しができなかったじゃねぇか。本当にバカ野郎の思い上がりもいいとこだ。
「ながとぉお」
殴ってやりたいくらいにだらしがなかった。
心に残ってるだとか、SOS団は永遠に不滅だとか、絆は目に見えないものだとか、そんなのどうでもいい。
あいつはもう戻ってこないんだ。
その事実だけが、俺の中の堰を切ったままで、何にもできやしない。
文芸部室に置物のようにしていつも座っていて、終業時刻まで読書を黙々と続ける姿。
その面影を軸にして、あらゆる情景が記憶の蓋をすり抜けて浮かび上がってくる。
邂逅をもたらせた五月の日。朝倉と対峙した後ろ姿。野球大会でのインチキ。七夕での冷凍睡眠。ループサマー。
孤島でトランプやってる姿に、文化祭の魔女衣装。雪山で倒れてのっぴきならなくなっちまったこと。
春の一件。朝比奈さんとカレー食べてる光景。
決定的な昨年末の暴走――、
「……よかったら」
今でも夢に現れる、幻としか表現しようのない笑み。
とうとうあいつは笑顔を浮かべるようなこともなかった。
間違いなく笑いたかっただろう瞬間が、いくつもいくつもあったのに。
「……ちくしょう」
気づいたら栞は涙で濡れていて、ともすればその感触を失してしまいそうになる。
忘れるもんかと、しっかりと、それでいて大事に握りしめる。
「さよなら。長門……」
誰にも届くはずのない声を。別れの挨拶を。俺は呟いた。
そうして唯一の文芸部員と、俺はさよならをした。
「……というお話を考えまして」
「古泉、今すぐ窓からフルジャンプしろ。俺が許す」
「喜緑……くん……?」
目に飛び込むのは鮮烈なまでに目映い夕陽。
信じられない光景がブッキングして俺の網膜を焦がす。
「会長。わたしからひとつ質問があります」
その時、俺はどんな顔をしていた。
「会長は宇宙人なる存在に心当たりはございますか?」
そう言う書記の姿は、足許からゆっくりと、そして確実に拡散し、霧消しはじめていた。
バカな。
「喜緑くん! キミは一体……」
「ふふ。会長。秘密を守るのはよい書記の見本ではありませんか?」
そんなはずはない。
確かにいつも通り、彼女は笑っている。
まして現在進行形で消えているのに、どうしてこんな穏やかにしていられるんだ。
「会長、いくつか隠していたことを謝らなければなりません」
麗容に微笑む彼女の輪郭を、夕陽がシャープに浮上させる。
二度と忘れられない、と俺は思ったはずだ。
こんな印象的な場面を忘却するほうがどうかしている。
「わたし、アルバイトしていたことがあるんです」
彼女は上半身だけを微動させた。
そこから下は、もう何も残っていなかった。夕陽に伸びる、木立の影以外に。
「本来なら引責辞任ものだったかもしれません」
朱色に染まっていたのは夕陽による色彩効果か。
「会長? 宇宙人がいたとして。果たして彼女は誰かに<感情>と呼べる発露を得るでしょうか?」
「喜緑くん。悪ふざけはよしたまえ。何のトリックかは知らないが、私をからかうのは酔狂が過ぎる」
俺が言うと、喜緑江美里はまた何でもないような平素の笑みを浮かべる。
どうしてだ。どうしてそんな平常心でいられる。
「一年間。……それはあまりに短く小さな時。無にも等しいかもしれません」
「喜緑くん! いい加減にしたまえ! さもないと――」
どうするというのだ。
得体の知れない書記職は、得体の知れない何かによって今、まさに消えようとしている。
その場に立ち会っている俺に何が言える?
「ありがとうございます。会長との時間は、有機体である間、わたしに短く小さな<喜び>を与えました」
「喜緑くん!」
気づけば、身体が勝手に動き出していた。
後から思えば、誰に動かされたのか解ったものではない。考えたくもない。
「会長……?」
「…………」
夕陽が瞳を貫くように光を放ち、ゆえに俺は目を閉じた。
彼女をとらえたと思った刹那、それは空を掻いて、現を夢に変える。
「会長…………」
聞き慣れた声だ。
それは優しく鼓膜を打ち、知らぬ間に、子守唄であるかのように胸に染み渡る。
「……感謝する」
「わたしは――」
声も空間にかき消えた。
慌てて俺は閉じていた目を開けた。
「喜緑くん!」
「 」
微笑んだ双眸だけが、目に映る総てだった。
そして、まもなくそれは夕陽に昇華され――
「喜緑くん! どこだ! 帰ってきたまえ!」
俺は何度も彼女の名前を呼んだ。
誰もいない生徒会室には、やはり誰もいなかった。
そうして喜緑江美里は眼前から姿を消したのだった。
不確かな記憶を、俺は時折意図的に引っ張り出す。誰にも気づかれないように。
そしてあの声を聴くのだ。
確かに、彼女がいた証を。
「っていうのはどうでしょうね。果てしなくオイシイですよ」
「古泉、私の全権限をもって貴様を血祭りに上げる」