僕は誰だろう
「彼」はその部屋の扉を小さくノックした。音もなく扉が開く。 扉のすぐ前に立っていた人物、涼宮さんは「彼」の顔を見て安堵の笑みを浮かべた。「ようやく来たわね、キョン。遅いからどんな罰ゲームを科そうか悩んでた所よ。何が良い?」 そう言って涼宮さんはルーズリーフを一枚手渡す。 そこに羅列された釜茹ですら生温い罰ゲームの数々を見て、顔をしかめている。「どれもこれも慎んで遠慮させてもらう。……むしろこんなのは罰ゲームと言わん」 つれない返答に小さく舌打ちして子供っぽく膨れて、ソッポを向く涼宮さん。 その様子に、慌てたように、諦めたように、「しょうがねえな……」 言いながら「彼」はルーズリーフを丁寧に折り畳んでポケットにしまい、 瞳を鈍く輝かせた涼宮さんの肩に手を乗せ——僕はそんな様子に苦く苦く笑って瞳を閉じる——そして……。「んふふ」 涼宮さんはしばらくの間の後で、瞳を溶かし、顔を上気させて笑う。「……気味悪い笑いすんなよ」 と、言葉にたがわず気味悪そうな仕草をみせる。「だってキョンったらまだキスする前に目瞑っちゃうのよ。何か可愛いじゃない」 その台詞に、「最低限の自分流のマナーなんだよ、ほっとけ」と返す。 首を捻って相手の顔を見ていた涼宮さんはしかし、すぐに顔をそらし、すぐに僕の方に向き直り宣言した。「さあて、あんたへの罰ゲームも済んだし早速今日の活動を始めましょう!」………………「まずこれを見てね」 涼宮さんがプリントされた紙を一人一人に手渡す。そこに印刷されていた物は、「廃病院か……」 と彼がうめいた。おまけに、「確かここは近々壊されるはずですね」と、記憶を辿りながら僕は付け足す。 夏と言えば肝試しとでもいったところでしょう。「そう! まさにそれよっ! 絶対、ぜーったいに出るわ! ね、みくる」 「ちゃん」と言うのと同時に朝比奈さんに後ろから抱きつく涼宮さん。非常に……目のやり場に困ります。「わひぁ、おふっ、あわはわ……」 えーと……、R15?「そこら辺にしとけ」 襟の辺りを絶妙の力加減で掴み、引き剥がす。「お前がそんな事やってると話が進まんだろ」 意外だ。彼の方から議事を進めようとするとは。涼宮さんも同じ気持ちなのだろう、「そう? あんたからそんな台詞聞くとなんか違和感あるわ」と、言った。「……良いだろ、別に」 悪い事ではないけれど、やっぱり意外な光景でしかない。「俺は文句ばかり言ってる奴だと思われてんのか……?」「そうよ」 彼女は躊躇わず即答。「……」 眉をひそめて沈黙する彼。「ま、キョンも自覚が芽生え始めて目出度い限りだわ。それじゃあっ」 ホワイトボードを手の平で叩く。小気味よい音が部室中を走る。「SOS団ミーティングを始めます。議題はズバリ夏の風物詩について。つまり、コレよっ!」 「肝試し」の三文字がホワイトボードの半分を占有する。 いつの間にか涼宮さんの腕章の文字がオドロオドロしい字体の「ゴーストバスター」へと変わっていた。 ……うーん。結局、何かあったら長門さんが実務にあたり、僕がそれらしい解釈をつけないといけないんだろうな。 そこら辺のオカルト雑誌でも読んで準備しとこう。うん、備えあれば憂いなし。 当然、議事は涼宮さんの独壇場だった。 集合日時と持ち物(巫女のコスプレを含む)が決定するのに十分もかからなかった。 ちなみに、思い立ったが吉日が信条の涼宮さんらしく、決行は今夜になりそうだったところを、 彼の希望により今度の土曜日(つまりは翌日なのだが)になった。その理由は、「いや、今日はお袋の誕生日で親父が朝からうっさいんだ。別に俺はどうでも良いっちゃ良いんだが……」 「高校にもなって」と嫌そうな顔をしながら語ったのだが、「あらそうなの? 最悪取り壊される前日でもいいからね」「いや、それはどうだよ……」 とまあ、そんなところらしい。 時は少し進んで下校時間。涼宮さんたちから少し離れた所で彼に尋ねる。「下らん物は却下するぞ」「それほどつまらない質問ではないと思っているんですけどね」 彼はこれみよがしに肩をすくめる。「何かありましたか、涼宮さん絡みで」 探るような視線が僕の顔に注がれる。しかしすぐ、その疑惑の色をおびた瞳が僕からそらされた。「知らない、みたいだな」 涼宮さんの背中を見つめながら呟く。その気恥ずかしそうな表情で何が起きたか分かった。 彼はポケットから取り出した何かを柔らかく放る。 僕が掴んだそれは、涼宮さんのものと同じ腕章で、「あたしの彼氏!」と記されていた。 因みに小さく「浮気厳禁」と付け足されている。あまりにあまりで不覚にも声をあげて笑ってしまった。「……どうせ『機関』とかで知ってると思ってたんだがな」 彼は不機嫌な表情で右の掌を僕に向ける。「近頃では涼宮さんより橘さんの一派の方が危険ですから」 笑いを潜めて答えつつ彼に腕章を返す。「やれやれ」「まあ、何はともあれこれで一段落ってところですね」「……どうだか」 あくまで気だるそうに答える。「お疲れですか」「寝不足なだけだ。ハルヒの奴は毎晩電話かけて来やがる上に、シャミセンが近頃元気でな」 七月も半ば、明るさの中に一筋の暗さを混ぜた夕暮れの光が彼の顔に不思議な陰影をつける。「大変ですね」 彼は肩をすくめる。 それっきり僕らは言葉をかわさなかった。 そして、別れの時がくる。「じゃあ、みんな。明日よ明日! 遅れちゃダメだからねっ」 僕は部屋で一息ついた。ベッドに身を沈めてまず思う事は彼と涼宮さんだった。 やっとようやく、それしか言えない。 じれったくなるほど素直じゃない二人。時に微笑ましく、時に危なっかしかった。 これからは全く別の次元の話になる。でも二人なら大丈夫だろう。「出会うべくして——、なんて言ったらどんな顔をするんでしょうかね」 そんな愚にもつかない事を考えながら僕は、いつしか眠りに落ちて行く。 翌日——。 ……。 あーあ。困ったな。実にまずい。僕とした事が集合時間勘違い。「ちょっと気が緩んでますね」 苦笑しながらひとりごつ。彼と涼宮さんが晴れて付き合い始めたお陰でどうも頭が平和ボケたようだ。 まあ、たまにはいいでしょう。幸い手持ちは十分ありますし、 勘違いしたとは言え、新川さんに途中まで送ってもらったから時間ギリギリには着きそうだし。 そんな事を考えながら蝉の鳴く夜道を歩く。 案の定集合場所に到着したのは僕が最後だった。「珍しいのね」「まあ、そんな日もあります。こんな夜はふらっ、と寄り道でもしたくなります」「お前の場合、違和感ないからなんか腹立つな」 彼に笑いを返してから、声をかけただけで失神しそうな朝比奈さんと、 常のごとく佇む長門さん、そしてもう一度涼宮さんを見た。三人は浴衣に身を包んでいた。「やっぱり胆試しはコレよコレ!」 誰に聞かれた訳でもないのにそう言いながら憶する事もなく廃病院に侵入する涼宮さん。 彼女に続くのは彼、長門さん、朝比奈さん、僕の順だ。「しっかしボロいな。患者さんの怨霊より地震の方が怖そうだ」 壁に手を触れつつ、彼は言う。「築何十年って代物ですからね」 事前に機関の方で調べた知識を披露する。因みに医療ミスで亡くなった方も少なからず、いる。「もう……、もう帰りましょうよぅ……」 長門さんの浴衣を指でつまみながら涙ながらに訴える朝比奈さん。「……」 その長門さんは何かを査定するように院内を見渡している。 しかし、突然首を捻った。その仕草は小さすぎて僕以外は気付いていないようだった。 朝比奈さんを抜かし、長門さんの横につく。「……どうしました」「わたしの気のせい。気にしないで」 長門さんは二度首を横に振った。「そうですか」 そして、乾いた音が三度響き渡る。「注目!」 その音の主は涼宮さんで、彼女は人差し指を高く上げてこう言った。「今からSOS団プレゼンツ、真夏の廃院胆試し『幽霊とお友達になろう』を始めます」 胆試しの恐怖感が一片も残っていない企画名に僕らは何も言えなかった。 そんな僕らを二光年ほど置き去りにして彼女の話は続く。 曰く、胆試しは二人一組でこそ。 曰く、たまには雑用係にも大役を任せようと思う。 曰く……ってもう良いですね。要するに彼と二人きりでキャーキャーさせろって事らしいです。 もちろん誰も嫌とは言わない。嬉しそうな彼女と恥ずかしそうな彼が手を組んで出発してから暫く。 それは来た。 長門さんが顔を上げるのと、朝比奈さんが耳に手を当てるのはほぼ同時で、 そして僕がどうしました、と二人に訊くより前だった。轟音と唸りが襲う。 突然の大地震に病院が崩れる、それがその場で見た最後の光景だった。 とっさに願った彼らの無事も確かめられず自分の意識は闇に途切れる。……………… 白い天井。頭に突き刺さるような痛み。それが僕にあの瞬間の記憶を蘇らせ、飛び起きた。「起きましたか」 隣から聞き覚えのある声。それは間違いなく森さんの、しかし抑えた物。「森さん」 僕は一息つく。「状況は」「震度は——」 事務的に言う彼女を遮る。「そんなんじゃないです。涼宮さんや、彼、長門さん、朝比奈さんたちの安否は!」 沈黙の帳が下りる。森さんはガラス細工の視線を僕に注ぎ続ける。 まるでそれがこの世界で発せられた最初の言葉だと錯覚するような長い長い静寂の後、彼女は口を開いた。「全員の容態は確認がとれています」「本当、ですか?」 また、意味深な間。「あなたを含めて『四名』生存」 たったそれだけ。 死刑判決にも等しい、たったの一言。「彼、ですか」 長門さんのはずがない。朝比奈さんも将来はある。涼宮さんは「何と無く」分かってしまう。 残っているのは——彼しかいない。 でも、そんな、まさか。「ええ。その、通りです。彼はつい一時間前に息を引き取りました」 …………だ。「最期の最期まで、彼は呼び続けました」 ……そだ。「彼女の名前をひたすら、上の空で呼び続け、『すまない』の一言を最——」「嘘だ! そんな馬鹿な事が起こるわけがない! 彼は、彼は——!」 言葉にならない。嘘っぱちだ。そんな訳はない。彼は選ばれた人だ。 神のごとき人物がただ一人選んだパートナーで、SOS団の記念すべき団員その一。 いつもぶつぶつ言ってるけど、でもどこかに自分なりの何かを持っている人物で、 ああ、きっと彼は認めてくれないだろうけど、「友人、なんですよ?」 視界が滲む。世界が混ざりあって一つになる。 もう、何もわからない。不思議な熱さを持った雫が溢れる。 止まらない、止めようとも思わない。 何でだ。一体何でだ。僕らの何が悪かった!? 僕はずっと意味のない言葉を呟き続けた。 嘘だ、何故だ、死んだ? 冗談じゃない、そんな訳はない、でも——。でもじゃない、そんなはずは無いんだ!「古泉」「一人にして下さい、お願いします」「それでも、もう一つ伝えなければなりません」 これ以上何があると言うんですか。「涼宮さんは、意識がありません」 それだけ言って、呆然とした僕だけ置いて、彼女は病室から出て行く。 背後から見た彼女の肩は隠しようもない位に震えていたが……。「嘘ですよね」 答えてくれる人も居ないのに僕は問いかけ続けた。 睡魔が束の間の平穏を僕に運んでくるまで。 四年前に唐突に、何の前触れもなく始まった日々は、また、何の前触れもなしに、幕が降ろされた。 自分が本当に生きているのかも自信がない。 実は死んでいる、そんな事言われてもあっさりと受け入れてしまうだろう。そんな日々の中——。 扉がノックされる。僕は返事をしなかった。またノックの音。それでも無言。 ノックの主は扉越しでもわかる程に迷っていた。 足音が右往左往している。 しかし、遂におそるおそる病室に入って来た。「古泉くん、寝てる?」 それは、朝比奈さんだった。悪い事をしたかと思う。だからいつも以上に穏やかに言う。「いいえ、起きてますよ」「そう」 物憂げにため息を吐き、備え付けの椅子に腰掛ける。「……怪我は?」「ええ、お陰さまで何とか」「そう、ですよね」「……」 僕も彼女も、話したい事は一つなのにそれに触れられない。 無意味に傷の舐め合いをしている内に、更に一人やってきた。「わたしのせい」 長門さんは入ってくるなりそう言った。 彼女の顔には、僕たちが言うところの後悔と自責の念が浮かんでいる、様な気がした。「いえ、未来から来たのに予防措置が出来なかったあたしのせいです……」 僕にも思う所がない訳ではない。……でも、こんな事をしたって彼は。「ちょっといい?」 森さんが扉の所に立っていた。その憔悴しきった顔に今は複雑に絡んだ喜びと悲しみが浮かんでいる。「どうしました」「涼宮さんがつい先程目を覚ましました。もう暫くしたら面会が出来ます」「……」 僕はまだ何か言いたそうな森さんを視線で促す。「……皮肉な物ね」 森さんは嗤う。「彼女が目覚めると世界が滅びるなんて。まるで本当にココが夢みたいじゃない」「森さん。彼女はそんな弱い人じゃありませんよ」 僕は、一年の体験からそう言明した。「……そう。そう思うのならいいわ。とりあえず、会ってあげて。病室は前に彼がいた所」 それだけ伝えて立ち去る。彼女を見届けてから僕らは誰から誘うでもなく涼宮さんの病室へ向かった。「ここですね」「……何て、言えば」「……」 何を言うべきか、どうやって伝えるべきか、全く見当もつかないけれど、扉を叩く。「どーぞ」 いつもの良く通る声が僕らを迎える。彼女は誰かが欠けてるなんてミジンコ程も考えていないのだろう。「ああ、やっと来たわね。にしてもやんなるわ、検査って」 そう言ってニコニコ笑う。幸せそうに笑う。 僕たちが三人だけなのを見て、それでも笑う。「涼宮さん……」 僕がそう呼ぶと彼女は遂に顔を曇らせた。 しかしそれは予想していた理由からではなかった。「何でそんな他人行儀に呼ぶの? いつも通りで良いのよ?」 え?「こうしてお互い無事なんだから。いつもみたいに『ハルヒ』で良いわよ」「ね、キョン」「……涼宮、さん?」 朝比奈さんは震えている。「……」 しかし、彼女の目はもう、彼しか映さない。「……涼宮さん!」と朝比奈さんはもう一度叫んだ。 でも、彼女の耳はもう、彼の声しか聞かない。「ほら、あたしもあんたも五体満足なんだから結果オーライよ!」 なんだ。 もうとっくに彼女は分かっていたんだ。 心のどこかで悟っていたんだ。 ——彼が死んだ事を。 だから彼女は何か大切な物が壊れてしまっていた。 それを知って、「ああ、確かに結果オーライだな」と、僕は言った。 僕の中の彼の記憶とイメージだけで彼女と言葉を交す。「でしょ?」 クスクスと耳障りに笑う。 僕を見て「キョン」と言う。 じゃあ、僕はなんだ?「古泉くん……」 朝比奈さんが囁き、長門さんが僕を注視する。そんな二人を目の端にとらえて、「すごい地震だったな、あれは」 何故、僕はこんな「ごっこ遊び」をしなきゃいけないんだ?「そうよね。震度六強だったんですって? こことあっちじゃ同じ病院でもえらい違いね」「だな」 何でだ。何でだ。何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ。「今度はどこに行こうかしらね? やっぱり海かな」 虚しい自問自答。「そうだな。今度は津波が来たりしてな」「ばーか」 彼の顔を被って涼宮さんと談笑する地獄のような数時間の後、ようやく面会終了の時間が来た。 僕も部屋に戻らなければいけない。 なによりも。一刻も早く、自分にもどりたい。「じゃあな、また明日来るぞ」「あ、ちょっと待ってよ。……ほら」 僕を呼び止めた涼宮さんは、目を閉じて唇を差し出していた。「なんだよ?」 彼女は口を尖らせる。僕は顔を強張らせる。「酷いわ、こんな怖い目に遭ったんだもの。安眠出来るおまじないくらいかけてよ」 もう、止めてくれ。そう言いたかった。 僕は彼じゃない。 彼は死んだと理解させたかった。 ……でも、出来なかった。 僕は彼女に軽く口付けた。「くそっ!」 柄にもない言葉で悪態を吐き、壁を叩く。 隣にはまだ、長門さんと朝比奈さんがいるのにも関わらず。「古泉くん——」「……」 僕は、僕は——。「僕は、『古泉一樹』ですよね?」と僕は言った。 二人は頷く。 誰よりも親しい人たちに保証されて、でも、やはり思わずにはいられない。 僕は誰なんだ。 それからは、悪夢のような日々だった。 僕は彼女の前に立つと「彼」となった。 「彼」は他愛もない話を涼宮さんとして、笑った。 「彼」は部屋を去る時はいつも、キスをした。 そこに僕はいなかった。 彼女の前に僕はいなかった。 それどころか。 朝比奈さんも、長門さんも、あるいは他のいかなる人物もいなかった。 彼女の世界は自身と「彼」だけ。 病室はSOS団のアジトだった。 時間の許す限り彼女は「彼」といた。 それは、僕が「彼」に浸食されていく事と同義だった。 もう、何週間経つだろう。 涼宮さんは未だに醒めない夢を見ている。 僕は起きながらに悪夢に暮らしている。 僕が僕でいられるのは夜寝る直前と起きた直後だけ。 だけどそれすら……、「キョン、いる?」 彼女は許してくれない。「どうした、とっくに寝る時間は過ぎてるぞ」「ついさっき気付いたのよ。今日は流星群がふってくるわ」 僕は溜め息をついて、ベッドから飛び起きた。「わーったよ。行くか」「そうね」 手は自然に彼女の手を握っていた。 敬語を使わない口調が自然と口をついて出る。 何もかもが僕の変化の象徴。「僕」の死の象徴。「夜の病院てスリルあるわよね」 背伸びした彼女が僕の耳元で囁く。「見回りに見つかるかもしれないからか」「んな訳ないでしょ。出そうだからに決まってるじゃない」 僕はただ自由な方の肩をすくめただけだった。 「機関」で手回ししているために、見つかってもまず何も言われないけど。 そうして抜け出た病院の外。 銀色の雨が降り出す。 何もかも忘れて僕は空を見上げていた。「綺麗ね」 ぽつり呟く声。「そうだな」『……』 ふと、涼宮さんの細い指が僕の手を絡めとり、彼女の心臓に導く。「わかる?」 彼女の心臓は早鐘を打っていた。「ものすごくドキドキしてるの」 口の中が乾く。「こんな綺麗な夜にあんたといられるから」 それはいけない事だと分かっている。「全てを忘れられそうな夜だから」 でも、思う。「奇跡が起こりそうな夜だから」 彼女が綺麗だと。 彼女は背伸びして「彼」に口づける。永く、永く。「あんたに告白されて嬉しかった。念願かなって、てやつだしね。でもあんたはどうしてもここから先には進もうとしてくれなかった。あ、変な勘違いしないで。あたしは根が『そういう奴』ってわけじゃないわ」 涼宮さんの目が据わっている。「でも思うのよ。結局、親子関係と違ってあたし達はどこまで行っても『親しい他人』でしかない。だからこそ、あんたの一番『身近な人』になりたい。……いいでしょ」 そう言う涼宮さんは妖しく瞳を輝かせる。 最後まで僕はされるがままだった。 彼女はずっと「彼」の名前を呼び続けた。……………… 次の日。 中庭で僕は朝焼けを迎えた。彼女は自力で病室にもどっていた。「古泉くん、ここにいたんだ」 そんな僕に優しく声をかけてくれる朝比奈さん。 そして長門さんも、ただジッとしているだけだったけれども、「僕」の存在を分からせてくれた。 それでも、もう遅い。「何してたんですか?」 彼女は陰に若干の無邪気さを添えて尋ねる。 僕は花びら毟られた花を見せて、こう言う。「花占いですよ」 沈黙が、居心地の悪い静寂が、場を埋め尽す。「結果、僕は彼、らしいですよ」 心の様に乾いた笑いを溢す。手の中のそれをポケットにしまう。「あのね、涼宮さんが呼んでるの」 ヒビの入る音がした。「……古泉くんを」 もう誰も取り繕えない亀裂が、僕の精神を覆う。「僕を?」「そう」 と、長門さんが肯定した。「……行ってきます」 終わりが来たと、そう思いたかった。「あ、来てくれた」 彼女は言った。「ええ、来ました」 僕も言った。「ゴメン」 彼女は笑いながら言った。「やっと醒めたわ。酷い事しちゃったわね」 僕はそんな彼女を見つめるフリをして室内を見渡した。「ねえ、古泉くん。もう一つ酷いお願いするわ。キョンに会わせて」 彼女は小テーブルに置かれた果物ナイフを手に取った。「やっぱり、キョンがいないと駄目ね。あたしは」 僕は笑った。 散らされた花弁。 震える両の手。 荒い息遣い。 転がる骸。 滴る紅。 終り。 死。 それがここにある全て。 でも、僕は自分を取り戻した。FIN.
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