感情と距離は反比例する?
春は出会いの季節とは誰かが言ったかも知れないし、実際に学校生活に置いても社会人生活に置いても、初々しい新入生や新入社員とかやってくるから、それは歯の浮いたテンプレート的な挨拶ではなく、事実として捉えるべきだろう。さらに、このぽかぽか陽気で寒すぎず暑すぎないという一年の中に置いても最高の陽気に恵まれているタイミングが、それを好意的な意味合いとして捉えることを促進している。 もっとも俺が春の訪れに出会ったのは、初顔ではなく懐かしい姿だったわけだが。出会いではなく再会だな。 だが、出会いがいろいろな波紋を呼び起こしてしまうのもまた事実だ。まあSOS団がらみでいろいろ、というのもあるが、一番うっとうしいのは同じクラスの男女間の清い清くないを含めた上で、非常に興味津々の青春真っ盛りにある男どもである。 特に、入学式以来いそいそと新入生の品定めにいそしみ、目星のついた女子生徒片っ端から写真付きでリストアップしたあげく、それを下手なアタックを続ければいつかは当たるだろう作戦で、リストの上からシーケンシャルアクセスに突撃していた谷口だが、どうやら一つの戦果も上げられず全て爆砕してしまったらしい。意気消沈でなぜか俺の机に顔を突っ伏して愚痴りだしている。「まったくよー、新入生ってのはろくな奴がいなかったぜ。これだけいれば一人ぐらいOKしてくれる奴がいてもいいってのに、みんなそろいもそろってNOを突きつけて来やがった。しかも、全く考える素振りもなくばっさりと切り捨てられちまったよ。どいつもこいつも身持ちが堅すぎる。新入生だから緊張しているんだろうが、もうちっと悩む素振りを見せてくれても……」「いや、俺に言われても困るんだが」 正直ウザイから机から引きはがしてやりたくなるんだが、国木田は興味津々で聴いているようで、「アプローチの仕方が悪かったんじゃない? 大方鼻息も荒い興奮状態で一方的に迫ったんじゃないの?話を聞いている限りだと、相手が見せた反応はNOじゃなくてNGだと思うんだよ」「うるせえ。俺なりに雑誌や経験から得られた後略パターンを全て使ってもダメだったんだぞ。全く女ってのは未知の生き物だ。あーあ、この年で独り身なんて恥ずかしい限りだぜ」「別にそう珍しくないだろ。まだ高校生なんだから。人生は長いんだからのんびりと行けばいいのさ。焦ることもあるまい」 俺は別に何か含みを持たせて言った訳じゃなかったんだが、すっかり疑心暗鬼のネガティブ野郎と化した谷口には別の意味合いに聞こえたらしい。すっとジト目で起き上がると、俺の肩に手を当ててきて、「全くお前はいいよな。一年早々で涼宮という――まあ、外見だけなら超トップクラスの奴を生涯の伴侶にできたんだからよぉ。最初はうらやましいどころか、いつ窓から投げ捨てられるか楽しみに見守っていたわけだが、これがまたうまくやってやがると来たもんだ。俺みたいに必死の努力をしている人間が報われず、ぼけーとしているだけのキョンがゲットできるんだから、世の中不公平すぎるぜ。構造改革でもすべきだな」 言いがかりも甚だしいことを口にしながら、パフォーマンスじみた無きポーズを取り始める。 そんな感情の世界に抜本的改革なんて持ち込まれても困るってもんだ。大体、そんなことをやってのけられるのは、ハルヒか――あとは長門ぐらいだが、前者は恋愛感情を精神病扱い、後者は理解していない上にエラー扱いと来ている。 国木田はいつもの脳天気モードでぽんと手を叩くと、「でも、結構キョンはやり手だよね。中学の時には佐々木さんと一緒にいてなかなかいい雰囲気だったから、てっきり高校以降も付き合うのかと思っていたけど、入学早々涼宮さんに手をかけているんだから。あまり他人が手を付けないような変わり者だけど、能力・容姿ともにトップクラスの人を狙っているところがまたニクイよね。やっぱり勝利の秘訣は、競争相手がいなくてなおかつ恋愛経験に乏しそうな人を狙うことなのかい?」 んなことを言われても知るか。大体、どうしてどいつもこいつも男女が一緒にいるってだけで勘違いしやがるんだ?佐々木は中学時代の他愛もない話し相手だったし、ハルヒは栄えあるSOS団の団長様だ。特に後者は俺がどうこうする前にあいつから俺の首根っこを捕まえて行くタイプだぞ。きっかけはあったかもしれないが、恋愛成就のための秘訣なんて一つとして実践した憶えもないね。 と、ここで急に谷口がまるで悟りを開いた仏陀のように驚嘆の表情を浮かべ、「そうか! キョン、お前のおかげで俺の失敗した理由がわかったぜ。つまり、俺は自分のアピールしすぎていたわけだな。今までは俺のこのあふれんばかりの魅力を、女どもに見せつければホイホイついてくると思っていたが、時代が変わっていたらしい。今のトレンドは自然に、なおかつ受け身って事か。ありがとよ、キョン。お前のおかげで次は失敗せずにすみそうだぜ」 いや、俺は何も言っていないんだが、なに勝手にひらめいてやがる。言っておくが、それで玉砕しても俺はそれで発生した損害について一切保証できないからな。 そんな光景を見ていた国木田だったが、やがてほうっとため息を吐くと、「でもさ、やっぱり一番楽なのは向こうから告白してくれることだよね。こっちから種を蒔くだけ蒔いておいて、あとは相手がぽっと目を出してくれるのをひたすら待つんだよ。うん、その方が谷口式特攻よりは成功率も高そうだね」「相手に告白させるだってぇ? そんな悠長な戦法なんて俺のポリシーに反する――が、しかし今までのやり方では確かにダメだったことを考えれば、ここはやっぱこだわりを捨ててあらゆる手段を使うべきかもしれん。ある程度嘘を交えて、俺の魅力を徹底的にアピールしておけばきっと向こうもホイホイついてくるだろうよ」 それやったらマッチポンプになるだけだぞ。嘘は止めておくんだな。「だがよー、告白されるってどんな感じなんだろうな? 今まではこっちから言っていく方だったから想像もつかねー。やっぱり机とか下駄箱とかにこっそり手紙とかが入っていたりするのか?」「俺だってされたことはないから知らん――」 と、そこまで言って思い出した。 ……そういや、そんなことが一度だけあったんだっけ。しかも、これでもないくらいにややこしい手順を踏んだ方法でだ。 脳内メモリーをあさっていた俺の雰囲気を挙動不審と受け取ったのか、谷口と国木田が興味丸出しの顔を俺に鼻息が当たるぐらいに急接近させてきたが、「ないないないない! そんなことは一度もない! っていうか、気色悪いからとっととその顔をどけてくれ!」 午後の授業中、俺はぼーっと外を眺めて物思いにふけっていた。SOS団のあわただしい日々に謀殺されていたせいかすっかり忘れていた出来事。そうあれは確か中学3年のときのメモリーだ―― ……… …… … 事の発端はある変凡な中学生生活の一日だ。時は昼休みが終わろうとしていた頃合いである。 俺はメシの友と化していた週刊漫画雑誌を鞄にしまい、午後の授業の準備をしていたが、そんなところへ一つの影が俺をその暗がりに追い込んだ。「やあ、キョン。ちょっといいかな?」「佐々木か。なんだ?」 俺の前に現れたのは佐々木だった。いつものように、男向けようの仕草と口調で続けてくる。「いや、大したことじゃないんだが、少し君の力を借りたいと思ってね」「お前が俺に頼み事なんて珍しいな」 俺の返した言葉に、佐々木は意外そうな表情を浮かべると、離席中だった俺の前の椅子に座ると、「おやそうだったかな? 僕が憶えている限り、キミに対して数度の頼み事をした憶えがあるんだが」「ないとは言っていない。珍しいと言ったんだが」 と、それを聴いた佐々木はくっくっと、「そうだったね。すまない、少々僕の早とちりだったみたいだ。気にしないでくれたまえ」「で、用件ってのは何だ? あいにく金なら貸せないぞ」「その点なら問題ないな。あまり派手な趣味がないおかげか、平均的中学生レベルの小遣いで困ることはないのだよ。いつぞやの大将軍の教訓に倣って質素倹約が自らの趣向とあっている点については、それなりに誇っているつもりさ」 資本主義社会では、中学生でも趣味のためにはそれなりに金がかかるからな。俺もせいぜい漫画雑誌程度だ。おかげで定期預金の額は鰻登りになっている。これをオフクロの魔の手から守り続けるのも一苦労だが。「そうか。なら大変申し訳ないが、一つその余っているお金の散財をお願いしたいんだ」 散財?「うむ。明日の祝日だ。塾が都合により休みになっていることは、勉強嫌いで休むことに執着心のあるキミならとっくに把握済みだろう。ゆとり教育とか言って週休二日が当然である義務養育スケジュールだが、キミはそれを家で限りなく無駄に潰そうとしているかい?」 明日暇かと聞いているんで良いんだな?「その通りだ。で、万が一予定がないなら、ぜひともその内の一日を拝借したいと思っているのだよ」「は?」 ついつい間の抜けた声を上げてしまう俺。それを見た佐々木は理解できていないと判断したのか、「つまりだ。明日一日僕に付き合ってくれないかと言っているのさ。おっと誤解しないでくれよ。別にデートのお誘いというわけじゃない。ただ不健康に家に閉じこもっているのもよくないからね。せっかくの休日だ、優雅に羽を伸ばすのも悪くないと思った次第だ」「別に予定もないが、何で俺なんだ? 仲のいい女子を引き連れてカラオケでも行けばいいじゃないか」「それなんだが、あいにく親しい友人たちはみな予定が入ってしまっていてね。もう少し塾の休校を早く察知しておけばよかったんだが、気がついたときにはすでに遅しってことだ」 佐々木はそんなことを言いながら、俺の机に身を乗り出すようにしてきて、「で、どうする? キミは僕からの申し出を受諾するか、拒否するか。遠慮することはない。君の好きなように答えてくれたまえ」 俺はしばらく佐々木の目を見つめながら考える。別に予定もないし、相手が佐々木なら会話がなくなってイヤーな空気が蔓延することもないだろ。何だかんだで気兼ねなく話ができる相手ではある。 そんなわけで拒否する理由もないんだが、非常に残念なことに俺は男女二人で休日を過ごした事なんて一度もない。当然、エスコートなんてやったこともないどころか、する気も起きん。それにさっきはそれなりに貯金はあると言ったが、他人にほいほい奢れるほど裕福でもないからな。発生した費用は一切合切折半になるぞ。それでもいいのか?「キョン、その条件は実にキミらしい。僕からの返答はもちろん、問題ない、だ。むしろ変に気負って欲しくないからね。では、誘った手前翌日の朝にキミの家に僕が出向くよ。特に準備をしておくものもないから安心してくれたまえ」 そう言うと、佐々木はそそくさと教室から出て行って、廊下にあった女子の環に戻っていった。 全くどんな風があいつの周りを吹いていったんだろうね。俺みたいに地味と平凡の固まりのような男を連れ回ってどこがおもしろいのやら。あいつの容姿レベルを考慮しても、街を歩いているだけで簡単に男どもが寄ってきそうだが。 ――ふと、廊下で何やらしゃべっていた佐々木が俺の方をちらちらと見ていることに気がつく。ついでに、その周りにいる女子数名も数秒おきに俺に視線を投げてきていた。 今憶えば、この時に不自然さを感じ取るべきだったんだろうが、ちょうど午後の始業チャイムがなったこともあって余り気にしなかった。 翌日の土曜日朝。予定された時間どおりに佐々木はうちに現れた。そこでちょっとしたハプニングに俺は驚かされた。佐々木を出迎えたオフクロは真っ先に金銭入りの封筒を彼女に渡したのだ。どうやらオフクロから佐々木は何か頼み事をされているようだが、それがなんなのかこの場では教えてくれなかった。 そのまま、俺と佐々木は最寄りの駅に向かって自転車に乗って移動を始めた。最初は佐々木が徒歩だったため、歩いて駅まで行くつもりだったが、塾に行っているのと同じでいいじゃないかと俺の運転する自転車の荷台に載せていくことなった。「で、これからどうするんだ? 昨日言っておいたように、俺は今日の予定なんて全く考えていないぞ」「おや、てっきり方便か何かだと思っていたんだが、まさか本当に決めていなかったのかい? あきれたものだ」「おまえな……」 俺は昨日の要求事項を再確認させようと記憶をほじくり返していたが、佐々木はくっくっとそれをいつもの妙な笑みで中断させ、「これは失敬。別に非難している訳じゃない。ちょっとからかってみたくなっただけだ。大丈夫、僕が誘ったんだから、エスコートするのは僕の役割だと自覚しているつもりだ。その辺りは任せてくれ」 やれやれ、変なことで人を笑うのは止めてくれ。って、何がそんなにおかしいんだ? 佐々木はあの独特の笑みを続けながら、「キョン、いいよ。とてもいい。キミは僕の期待に全く裏切らないでいてくれる。そのやる気のなさと、勝手に気負わないところが実にいい。最高だ」「…………」 さすがにむっと来て黙り込んでしまう俺だったが、それにすばやく察知したのか佐々木は少し俺の背中に顔を近づけて、「重ね重ね失敬だったね。別に悪い意味で言っているわけではないんだ。こういうシチュエーションだと僕の知る限り、男子って言う生き物は張り切ったりするものだからね。キミはその法則に全く当てはまらない。型破りと言って良いほどに、キミはキミらしさを失っていない。その辺りを僕は高く評価しているつもりだ」 佐々木の言い分に、俺の胸にたまっていたわだかまりがすぐに放出される。ま、こいつはこういう言い方をする奴だ。悪気がないのは事実だろう。 ここで、上り坂に入りペダルが重くなった。そのせいか、俺の身体をつかむ佐々木の手の力が強くなったことを感じた。 ようやく駅にたどり着いた俺たちだったが、さてこれからどこに行こうか。 佐々木は待ってましたとばかりにメモ帳を取り出すと、これからの予定を確認し始める。「さて、要望があるなら安心して言ってくれ。キョンの思考パターンを徹底的に考慮してある予定を組んだつもりだから」「とはいってもな……」 こういう場合はどこに行けばいいのか皆目見当もつかん。定番と言えば遊園地か? バカバカしい。この歳で絶叫マシーンでキャーキャー言うつもりはない。かといって、海岸付近の名所を歩くだけなんていうのもごめんだ。せっかくの休日に使っていない筋肉を酷使して筋肉痛になりたくないからな。同様の理由でボーリングなどの遊技施設も却下。それにそういったところにはもっと大人数で行くべきだと思っている。 となると――「残っているのは映画ぐらいだ。少人数で違和感なく入り、なおかつ身体を動かすこともなく費やすことができる。安心くれたまえ。そのパターンもしっかり僕の想定の範囲内だから、すぐにでも目的地を選択できる。あいにく、あの震災以降周辺には映画館はないからね。ちょっと遠出することになるけどいいかい?」 なら、佐々木の言うとおり、映画にでも行くか。特に見たいものがあるわけでもないが。 と、佐々木はおっとと俺を制止するように手を挙げて、佐々木がメールを打ち始めた。俺はその時はその行為にさしたる疑問を持たなかった。 そんなわけで隣の市に到着した俺たちだったが、あいにく映画館はまだ朝早くの一部の映画しか放映が開始されていなかった。佐々木のせっかくだから色々選びたいという申し出を俺は許諾したが、さてそれまでにはあと数時間あるわけだが、どうやって暇を潰そうか。 と、佐々木はここでオフクロが手渡していた封筒を取り出すと、「せっかく空いた時間だ。キミの親から頼まれた言付けをこなしたいと思うんだがいいかい?」 特にやることもないので、俺はそれに首を縦に振った。 連れて行かれたのは何と本屋だった。しかも、漫画や雑誌のコーナーじゃない。参考書売り場である。「奇襲的だったことは謝るよ。だが、キミの母君から厳命されていたんでうかつにいえなかったのだ。まさか、キョンのためにいい参考書を選んでかってやってくれなんてあらかじめにいったら、キミは徹底して本屋への接近を拒んだと思うからね」 やれやれ。オフクロの奴、何を考えているんだ。佐々木に頼まなくても金さえくれれば自分で買いに来るってのに。恐縮しないとならんのは俺の方だ。こんな私的な事に佐々木を付き合わせちまっているんだからな。「その点は気にしないでくれ。交換条件として今日一日の娯楽をまかなえるほどの金銭なんだから。その額を考慮すれば、参考書選びなんて破格だといえる」 だが、どうして佐々木に頼んだりしたんだ? オフクロは俺が横領するとでも思ったのかね。「キミに金を渡してもそのまま懐に入れるようなことはないだろうと言っていたよ。ただし、なにぶん勉強に身を入れないキミのことだ。参考書コーナーで目についた奴を中身も読まずに適当に買ってきて、そのままほこりをかぶらせるのではないかと危惧しているようだったね。そこで、僕がキミ用に使いやすい参考書を推薦して欲しいとのことだった。全くいい息子思いの母親じゃないか。泣かせてくれるよ」 俺にとっては大きなお世話の何物でもない。かといって、こんな義務教育用知識という脳を刺激する臭いがこもっている場所に長居したくないからとっとと決めるか。 てなわけで、佐々木のお薦め参考書と問題集を片っ端から集め始める。理科とか社会とか、佐々木は全く無駄のない動きで参考書をめくっていき、次々と手に持ったメモ帳に記載していく。何というか、この辺りでは佐々木と俺とでは基本的脳スペックに大きな格差を感じてしまい、こんなことをやってもらっていることが後ろめたくなってしまった。 俺もただぼけっと見ているわけには行かないので、フォローするように英語の参考書を漁り始める。しかし、何というかあの新品の本から漂ってくる独特の臭いによって、戸棚から単語が飛び出して、俺の頭に降りかかってくるような錯覚を憶えてしまう。 そんな中、俺が苦心の末に手に取ったのは一冊のB5サイズの分厚い単語帳だった。一通り単語の用法や意味が書いてあると同時に小さく例題も書いてある。これなら一石二鳥になるだろう。 だが、それを見た佐々木の反応は芳しくない。「キョン。キミは恐らく合理性からいってこれを選んだと思うけど、ちょっとその考えは改めるべきだね」「なんでだ? この方が場所も取らないし、単語を覚えるついでに問題も解けるじゃないか」「その考えはよくわかるよ。だけど、僕がいろいろ経験によって得た情報を総合すると、問題集と単語帳は別にしたほうがいい」 理解できない俺に対して、佐々木は続ける。「問題集と単語帳は用法が大きく異なる。問題集というのは頭から片っ端にやっていくものであり、単語帳は――まあ、使い方にもよるが、基本的にはわからない単語があった場合に調べるために使うものだ。問題集を虫食いのようにランダムに解いていくのは、どの問題が終わったか把握するのに労力を費やしてしまうし、単語帳をシーケンシャルに読んでいくのは僕個人としてはお勧めしない。ただの暗記では記憶が長持ちしないからね。だから、」 そう言って佐々木は手近なところにあった単語帳を取り出すと、「問題集の方は特に指定はないけど、単語帳には重要に考慮すべき箇所がある。その用途をもっとも発揮できる構成になっていること。つまり知りたいと思った情報をもっとも労力なく検索・探知できる――一番後ろの索引がしっかりしているものを選ぶべきだね。ただし、あまり分厚すぎない方がいい。索引から探すのにも一苦労になると、途中で窓から投げ捨てたくなる。そこまで難しいものを探す必要が発生したのなら素直に英和和英辞典を読んだ方がマシといえる」「なるほど……」 正直、参考書なんて読めりゃいいぐらいに思っていた。確かに今まで単語帳代わりに辞書を引いていたが目的のものを探し出すまでに疲れちまうこともあった。簡単なものは単語帳ですませ、それでもわからないものは辞書を使う。使い分けろって事か。「いいよ、キョン。キミは実に吸収力に優れている。以前に言ったかも知れないが、非常に聞き上手だ。おかげで教える方もとてもやりやすい。塾に行くよりも優秀な家庭教師を付けてもらった方がいいんじゃないかい?」「なら、いっそのこと佐々木がなってくれよ。そっちの方が憶えやすそうだ」 そう俺は冗談交じりに返した――だが、佐々木はその俺の言葉に全く反応せずに、本棚漁りを再開した。聞こえなかったのか? まあいいが。 と、ここで俺はあることを思いついた。検索しやすいのが優秀な単語帳というならもっとうってつけのものがあるじゃないか。「なあ佐々木。さっきの話だと、パソコン使った方がよくないか? 聞いた話じゃ、ネット上で簡単に検索できるらしいぞ。幸いうちには今には家族用のPCもあるし、インターネットにも接続済みだ。無線LANとか使えば自室でもできる――」 そこまで言ったところで、佐々木が手をかざしてストップをかけてきた。「さすが親子と言うべきかな? キミの母君も同じ事を言ってきたよ。だが、残念ながら僕的には非常にNGだ」「どうしてだ? 佐々木の言うように知りたいことを調べるという環境ではこれ以上手軽かつ高速なものはないと思うが。理由を聞かせてくれ」 俺の反論に、佐々木はふむと時計を確認し、「まだ映画の時間まではありそうだ。では、いったん参考書めぐりは中断して、」 ――佐々木は一拍置いて、「いざ参ろうか。ネットカフェへ」 佐々木に連れられてやってきたのはインターネットもできると書かれた漫画喫茶だった。町中にあるチェーン店のような派手な看板が飾ってあるものではなく、店主が趣味で運営しているような小さなものだ。店内に入ると、ちらほらとソフトとリンクを呑みながら漫画を読みふけっている人、疲れ切った顔でカウンター席に突っ伏して眠っている人が目に入る。客もそれ以外ほとんどおらず、非常に閑散としていた。その奥にしきりがついた個室っぽいゾーンがあり、そこに家電廃棄置き場から拾ってきたんじゃないかと思うような古びたパソコンが置かれている。 店頭にいたやる気のなさそうな中年のおっさんに、インターネット使用で登録すると俺たちは狭い個室に二人で椅子を並べて座った。何でこんなしきりがついているんだ? しかも、今は扉は開け放しだが、内側から扉まで閉められる構造になっていて鍵まであった。しかし、俺ぐらいの背でもしきりの上からのぞけるんだから全く壁の意味をなしていない。 とりあえず、扉を閉めると――なんつーかとっても俺的気まずさ全開だから、開け放しにしておく。 で、ここで何をやるんだ?「さっきいったインターネットを参考書代わり――特に受験勉強に利用するのはNGってことを証明してみせようってね。僕はここで見ているから一通りやってみてくれたまえ」 普通に使えばいいのか。家でも頻繁ではないがたまにやっていたから操作には問題が――げえっ!? マウスを動かしたおかげでスクリーンセイバーが解除されたわけだが、そこに映されたのは 『エロ動画@無修正ランキング極エロ【動画 アダルト エロブログ 無料 無修正】』 というサイト名がでかでかと書かれた――えーとだな、あー、ストレートにエロサイトだった。いやいやいや、俺だってエロ本ぐらいのぞき見たことはあるし、今時この程度で騒ぐような純粋路線まっすぐな青少年でいたわけではないが、今俺の横に佐々木という年頃の女子がいるのだ。気まずいどころの話ではない。いくら人格者である――いや、人格者だからこそ怒って飛び出してしまいかねない。 俺はまさに光速の動きでALT+F4を実行し、インターネットエクスプローラを終了させた。一瞬、デスクトップにもエロ壁紙があったりしないだろうなという恐怖感に駆られたが、青い壁紙が表示されただけなのでほっと胸をなで下ろす。 全く――こんな衆目がある場所で前にいた奴は何を考えているんだ!? あれか!? 半隔離状態になるってことで好き勝手やっていたんじゃないだろうな!?「ふうっ……」 一旦深呼吸をしてから、隣の佐々木に向けて視線を投げる。どういう訳だが、佐々木は表情一つ変えずに俺をじっと見ていた。俺はおほんと強引に一回咳き込むと、「さ、さて、ではインターネットの電脳の世界にいざゆかんとしましょうですかっしゃろ」 口がまわらねえ……ええい、落ち着け俺! 幸い佐々木は特に反応を示していないし、ひょっとしたら視線がそれて見えていなかったかも知れないんだ。何も気にすることはない。 動揺を隠しつつ、再度インターネットエクスプローラを起動した。すると画面は真っ白のまま、アドレスバーには『about:blank』と書かれている状態になった。どうやら初期表示のページが設定されていないらしい。とりあえず、このままではどうしようもないのでお気に入り一覧に検索サイトがないか見てみて――ふんがー! お気に入り一覧に表示されたのは視界に入ったものだけでも以下になる。 『Just The GTL ネタ直掲載で、初心者から上級者まで超役に立つ収集サイト!』 『女人倶楽部 ネタ直掲載とリンク集!掲示板やPGFのデータベースも!!』 『YM企画修正ナシ TGPとリンクが一杯で!! d(゜-^*) ナイス♪』 『Yamidas 闇窯の各板の解説からセキュリティー、ファイルの分割まで色々解説!!』 『Zone-F 丁寧なリンクとソフトな写真集のネタアプもアリ!』 『涼のあじと 』 『元チャットガール運営の闇窯コラボ!! 独占ゲットの画像ギャラリー必見!』 『ほ~ら、エッチな画像だよ~♪』 俺は神速でCTRL+Bを押し、お気に入りに入っている全サイトが削除するべく、削除ボタンを連打しまくった。しかし、全部で100は越えているんじゃないかと思われるほど、消しても消しても沸いて出てきやがる。30秒ほど連打を続けてようやく削除を終えたが、まだ油断はできない。俺はエロサイトの全ての痕跡を消すべく、ALTを押しっぱなしでT→Oを押し、まずファイルの削除ボタンをクリックして、オフラインファイルも全て削除。次にクッキーも全て削除して、最後に履歴のクリアボタンを押して全ての痕跡を抹殺した。 ところで何でところどころショートカットキーを使えているんだという指摘に関しては、全てノーコメントを貫くからよろしく! ぜいっ……ぜいっ…… いつの間にやら全身汗だくで息も切れ切れになっていることに気がつき、一旦深呼吸をして落ち着きを取り戻した。そして、再度佐々木の方に振り返る。 佐々木の表情は全く変わらず俺の方をじっと見つめていた。心なしか口元がゆるんでいるような気がしないでもないが、無視だ。「さて、続けよう……」 俺は今まで起きた全ては事故であり、俺には一切の責任はないと心にえぐり込むように焼き付け、まずはgoogleへ移動した。色々あって本来の目的を忘れてしまいそうになっていたが、今俺がやらなければならないことはインターネットの叡知に触れることである。 だが、まだ俺の胃を引きちぎろうとする要素は残っていたんだ。思わずいつもの癖で検索ボックスでダブルクリックをしてしまい――バボラァァァァァァ!? ……オートコンプリートという機能をご存じだろうか。テキストボックスの入力履歴が表示されるって奴だ。当然、さっきからエロパソコンと化している状態では当然オートコンプリートで表示されるものもろくなものがあるわけがない。それはもう口に出して言えないような文字列が大量に表示されるされる。 俺は即刻メニューからツール→インターネットオプション→コンテンツ→オートコンプリート→フォームのクリアを実行した。こいつをやれば、全てのオートコンプリートが削除される。何でそんなことを知っているのかについては企業秘密だ。 しばらくそのまま他にやばそうなものがないか一通り頭を回転させたが、とりあえずこれ以上の弊害はなさそうだったのでほっと一息つくことにする。よくやったよ、俺。任務完了だ。もう帰ってもいいか? と、ここでようやく佐々木が反応を示した。もう必死にこらえるという状態でくくくっと喉から笑い声を漏らしながら、「キョン、キミは本当に可愛い奴だな。そんなに必死にならなくてもいいんだよ! 僕だって取りのかごで育ったお嬢様じゃないんだ。その程度の情報ならネットを通して何度も遭遇しているから、いちいち嫌悪したりなんてしないから大丈夫だよ……くっくっ」 もう腹を抱えて笑っていると言っても良いだろう。それでも必死に声を抑えているのは静まりかえっている漫画喫茶ででかい声を上げて笑うのはマナー違反だと言う佐々木の人格者ぶりのなせるわざなのかもしれない。代わりに涙目で俺の肩をパンパン叩いているが。「と、とにかく! 障害は全て乗り越えたからな! ってかここに連れてきたのは、佐々木おまえだろーが!とっととこれからどうすればいいのか指示してくれよ!」「すまないすまない。あまりに傑作だったんでつい脱線してしまったよ」 そう言ってはいるが、なかなか笑いの虫が治まってくれないようで、まだ腹を抱えて笑いをこらえている。こりゃしばらくかえってこなさそうだと思い、俺は適当にニュースサイトを眺めていることにした。 数分後、目に浮かんだ涙をぬぐいながら、佐々木はぺこぺこと頭を振り、「失敬失敬。僕としたことがらしくないところを見せてしまったね。さて、続きをしようか」「全く……」 ふてくされた俺を無視して、佐々木は適当な辞書検索や知識系のサイトに入るように言ってきた。そこで受験勉強に使えそうなネタを次々と検索しては、確認していく。 正直、俺が考えていた以上にネットは有効だと思った。参考書だとページをめくるという作業が発生するが、こっちはテキストボックスに文字を入力して検索ボタンを押すだけ。しかも、極めて詳細な情報があっさりと入手できる。これを使わない手はないと思うぞ。 と、ここで佐々木が立ち上がり、「ちょっとお手洗いに行ってくるよ。キョンはその調子でガンガン調べていてくれたまえ」 そう言ってインターネットルームから出て行った。 そんなわけでここから俺一人で続行となる。 ほどなくしてwikipediaなる辞書サイトにたどり着き、そこを読んでいたわけだがこれがなかなか細かい。思わず読みふけってしまいような書き込みっぷりである。 それでも、最初は受験勉強に役に立ちそうなところを見ていたが、あるところで【関連項目:大量絶滅】というのに目がとまった。 絶滅ってあれか? 恐竜が滅んだりしたやつか。確かその前にも2回ほど生物が死に絶えたことがあったらしいが…… 俺は関係ないところだと思いつつも、興味に負けてそのページを開く。すると、何と計7回もの大絶滅があったと書かれているではないか。俺は全く知らなかった未知の情報に心を引かれて、ついその内容に読みふけってしまう。 一通り読み終わると、サイトの一番下に【関連項目:地球史】というリンクが張られていたので、その内容のうち、地球史年表を読み始める。 そこからはもう怒濤の勢いだ。細かい地球の歴史――先カンブリア紀とか古生代――を片っ端から読みふけり、その内細かい歴史に興味がわいてきて日本周辺の歴史のページを一つ残らず制覇していき、参考サイトに歴史系フラッシュ動画なる場所を見つけたので、そこに載っていた【朝鮮戦争フラッシュ】【第一次中東戦争フラッシュ】【コンスタンティノポリス陥落フラッシュ】を一気に再生し、もっとおもしろいのはないのかとgoogle先生で検索した結果、全編50分近くになる【大日本帝国の最期】というフラッシュを一気に見て、さらに同じサイトのあった【日露戦争フラッシュ】上映時間20分を制覇してしまった。 さすがにあまりに没頭してしまっていたせいか、少々目が痛くなってきたのでしばらく目頭を押さえていたが、ここで気がつく。 ――ちょっと待て。俺は一体何をやっていたんだ? ―― はっと自分のバカな行動を自覚し、辺りを見回すと隣には椅子に座ってニヤニヤと俺の見つめている佐々木の姿が。 俺はあまりの気まずさから、後頭部をぼりぼりとかきつつ、「何分ぐらい経った?」「ん」 佐々木は時計だけを差し出してきた。見れば、すでに漫画喫茶に入ってから2時間が経過しようとしているではないか。驚天動地どころの騒ぎではない。俺は佐々木をほったらかしてずっとネットの海をさまよっていたのだ。「――すまん!」 俺は佐々木に向かって深々と頭を下げる。デートとかではないとはいえ、片方の人間をほったらかして自分の世界に突入してしまうなんて最低最悪の行為であることぐらいは自覚している。あまりのふがいなさに、俺のハートは真っ黒に塗りつぶされてしまいそうになった。 このリアクションには佐々木は少々驚きを見せ、「ああ、大丈夫だよキョン。別に怒ったりはしていないから。ただ、これでキミもネットの恐ろしさをよく理解できたのではないかい?」「ああ。身をもってその恐ろしさを味わったよ……」 なんてこった。確かに便利だが、いくらなんでも便利すぎる。これでは余計な知識ばっかりついて勉強どころではなくなるだろう「人によってはこれ以上ないほど有効なツールであることは否定するつもりはない。けど、キョン、キミの性格をある程度知っているからこそ、受験勉強という意味合いから考慮すれば、不利益を与えるものでしかないだろうね。何度か言ったが、キミは大変聞き上手の人間なんだ。そして、ネットというものは基本的に情報を発信するものであるから、それに対しても聞き上手になってしまうのだろうね。与えられた情報を徹底的に聞き取ろうとしてしまい、本筋から脱線する。おっと、別に非難している訳じゃないんだ。趣味の世界では大変有効なものだと思う。しかし、義務教育における勉強という狭く限定された世界に置いては過ぎた能力――そうだな、能力といってもいい。キョンのようなタイプはある程度拘束状態で限定された情報を与えられた場の方がそういった勉強はうまくこなせると思っているよ」 佐々木の指摘に俺はぐうの声も出せなかった。 そんなことを続けているうちに、映画館は完全開業状態になっていたので俺たちはそちらへ移動する。参考書買いは映画が終わった後でゆっくりと選ぶことになった。 ――ふと、また佐々木がメールを打っていることに気がつく。さっきからたびたび着信・返信を繰り返しているが、誰かとやりとりでもしているのか? 俺の視線に気がついたのか、佐々木は携帯は隠さずに代わりににやけた小悪魔的な表情を俺に向けてきて、「おやキョン。キミにのぞきの趣味があったとはしらなかったよ。僕から言わせてもらえば、余りよくないと思うが」「あ、いやすまん。ちょっと気になっただけだ」 あわてて目をそらした。全く何を気にしているんだ。佐々木ほど交友が広ければ、メールのやりとりなんてしょっちゅうだろう。そして、佐々木の普段の素振りから言ってそれを放置しておくようなタイプでもないと思われる。別に不自然な事なんて何もない。 が、今度は目をそらした先で意外なものが目にとまった。背後からだったが、見覚えのある後頭部。クラスメイトの女子の一人だ 俺は手を振ってやろうと思ったが、背後から振ってどうするんだと考え直す。そんなことをやっているうちに、その人影は携帯電話を眺めながら人混みに紛れるかのように路地に入って姿を消してしまった。 そんな俺に気がついたのか、メールを打ち終わった佐々木が隣にやってきて、「キョン、どうかしたのかい?」「いや何だかクラスメイトらしき女子の人影を見かけたような気がしてな」 佐々木はふーむと、「別にそう言った人がいても不思議はあるまい。彼とてここまで遊びに来ること自体はありふれた休日の利用法だろうからね。確かにこの雑踏の中で遭遇する確率は低いかも知れないが、視界範囲に捉える事ならばそれなりに確率は向上する。現にキミは視認はしたかも知れないが、遭遇はできなかったんだから」 何だかよくわからん話だが、確かに知り合いがいても不思議じゃないな。 俺はこれ以上その人影の事を追わずに、とっとと映画館へ移動した、 何個もスクリーンのある巨大な映画館で、広いチケット売り場では電光掲示板が全スクリーンの上映作品名と上映時間を表示していた。 恋愛映画からパニック映画、ホラーに戦争物と。いい感じにばらけているな。 と、ここで財布から金を出そうとしていた俺を佐々木は制止すると、「支払いはいいよ。僕の方でするから」「いや、そういわけにはいかねえだろ」 ここで佐々木は財布から2枚のチケットを取り出し、「大丈夫。きっちり知り合いからタダ券をもらってきているから」 抜け目のない奴だ。本当にしっかりしているよ。「ただ、一つだけ条件があるんだ」「なんだ?」「どれを見るかは僕に任せて欲しい。あ、キョンの要望があるなら話は別だ。何なりと言ってくれたまえ」 俺は上映作品一覧を見回すが、これと言って興味をそそられるものはなかった。どれも見るならきっちり見るが、積極的にスクリーン前に乗り込んでみたいという作品もない。「特にないな。佐々木に任せるよ」「了解したよ。では、しばし待ってくれ。チケットを入手してくる」 そう言って佐々木はチケット売り場の行列に並ぶ。しばらく待ちだな。 しかし、佐々木は何を見ようとしているんだろうな。話し方は変だが、やはり女子中学生だ。ホラーや戦争は避けて普通に恋愛ものを選択するだろう。 列に並びながらまたメールを打っている佐々木を見ながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。 『着陸地点は交戦中だっ! 全員っ、飛び降りるぞっ!』 もの凄いヘリのローター音と激しい銃声音が劇場の中を飛び交い、俺の脳髄を揺るがす。 目の前のスクリーンでは地面すれすれの場所を飛んでいるヘリコプターから次々と兵士たちが飛び降りていた。『エドワーズ!』『中佐っ!』『いいか! 我々を分断する気だ。アルファ中隊に加わってくれ。あそこだ!』『イエッサー!』『よしっ行け!』『チャーリー中隊、尾根に向かって前進っ!』 せっぱ詰まった声が飛び交う。はい、完全無欠なまでに戦場だな。 佐々木が選択したのは意外なことに戦争映画だった。それも延々と戦闘が続くような代物である。年頃の女子が選ぶような映画じゃないと思うぞ。さっきから激しいバイオレンスシーンも立て続けに続いているし。そりゃもう血が飛び交う地獄絵図だ。 ところがどっこい、ことあるごとにうわっとか声を出している俺とは対照的に、佐々木は至極平静にスクリーンを見つめていた。やることと言えばたまにポップコーンをかじっているぐらいだ。 今週いっぱいで放映は終わりの映画らしく、公開開始から結構立っているせいか劇場の中は非常に閑散としており、俺たちをのぞけば数人がいる程度。ほとんど貸し切り状態である。「少々失敗したかな」 俺の頭をのぞかれたかのようなことを佐々木はぼやいた。やっぱり刺激的すぎるだろ、これ。「いや、違うよ。事前の調査不足だったね。てっきり字幕だと思ったんだが、吹き替えだったか。字幕ならキョンの英語のリスニングの勉強になるだろうと思ったんだが」「映画見てまで英語の勉強なんてしたくねえよ」「それもそうか。なら純粋に楽しんでくれたまえ」 楽しもうにも、さっきから銃声音ばっかり聞こえてくる映画だぞ。ついて行くだけで大変だ。「おやそうかい。こういうのは男子諸君の得意方面だと思っていたんだが」「そうでない人間もいるってことだ」 俺の返答に佐々木は反応せず、また手すりに肘をつきながらスクリーンを見つめていた。 しばらくして、ようやくドンパチシーンが終わり、落ち着いたシーンに変わる。さっきまでそこら中で轟音が鳴り響いていたせいか、急にしんと静まりかえった劇場に妙な違和感を憶える。「僕が調べた限りでは、この映画はノンフィクションらしい」 唐突に佐々木が口を開く。ただし、視線はスクリーンに向かったままだが。 続ける。「キミがいつぞや言っていたどこからともなく隕石だのミサイルだの落ちてこないかという話だが、このスクリーンの中ではそれが起こっている。しかも、頭の中で思い浮かべた想像ではなく、いつかどこかで起こったことの再現映像だ。で、それをふまえた上でキョンに訪ねたい」 そこで佐々木は俺の方を向き、スクリーンの方を器用に親指で指すと、「キミはあの中に言ってみたいと思うかい?」 何だか意図の読めない唐突な質問だったが、答えは簡単に出せる。もちろんNOだ。俺なら徴兵される前にカナダかメキシコにとっとと逃げるね。 だが、俺のそんな当たり前の質問に、佐々木はにやりと中途半端な笑みを浮かべると、「おや、だがキミは自分の口からカタストロフが起きてくれないかと望んでいるようなことを言っていたじゃないか。その答えとは明らかに矛盾している」「その前に別に本当にカタストロフが起きて欲しい訳じゃないと前置きしていただろ」「おっと、その言葉は失念していた。失礼」 そこで佐々木はまたスクリーンに視線を戻すと、「こないだキミからその話を聞かされたときは、諫めるような言い方で問いつめてしまったわけだが、その後少々反省したよ。実際にキミがそう考えたのは事実だろうし、どうしてそう言った思考パターンに至ったのかを解析してみた方がおもしろかっただろうしね」「別に俺は佐々木にカウンセリングして欲しかった訳じゃないぞ」 俺の言葉に佐々木はくっくっと喉を鳴らすと、「その通りだが、僕に話したと言うことは聞いて欲しかったということに相違ないじゃないか。で、僕なりにいろいろと考えてみたんだが、エンターテイメント症候群に続いて、エンターテイメント欠乏症と中毒症という新しい概念にたどり着けたよ。そしてその治療法もだ」 なんだそりゃ。「こういった現実では起こりえないフィクション的エンターテイメントに引かれるのかは、前に言ったとおりキミが平凡で退屈な現実に不満なんだからなのだろう。しかし、だからといってとてつもない悲劇を生むようなカタストロフが起きて欲しいような妄想にはたどり着かないと思うね。少なくとも僕はそうならないし、周りの友人も同様さ。では、どうしてそうなってしまったのか。ここで僕の頭に思い浮かんだのはエンターテイメント欠乏症という言葉だ。それに罹ると退屈な現実に重度の不満を抱き、あり得ないほどの空腹状態に陥ってしまい、そのままでは、餓死してしまうとか、死ぬことなんてないのに、勝手な妄想に妄想を積み上げていく。いても立ってもいられなくなってしまうのだ。で、当然お腹を満たすために食料を探す。それが漫画や映画などのエンターテイメントってわけだ。それもあまりの空腹状態だから猛烈な勢いで腹に詰め込んでいってしまう。お腹が悲鳴を上げてもまだ詰め込む。やがて、その満腹状態に慣れてしまい、どんなエンターテイメントを食い尽くしても満足できなくなってしまうんだ。それがエンターテイメント中毒症。非現実的な漫画や映画では満足できなくなり、今度はそれが目の前で起きないかと思い始める。ここまで来ると末期的だよ」 何だかよくわからんが、それが俺の病気だって言うのか?「ん、さっきの質問はそれを確認するためだった。安心したよ、キミがNOと言ってくれて。ここでYESなんていったら、即刻縛り上げて母君とともに、精神科へ強制連行するつもりだったからね」 おいおい、今日の付き添いはまさかその確認のためとか言ったりしないだろうな?「安心してくれ。そこまで僕は無粋じゃないさ。でも、せっかくのチャンスだからキミがそういった状態にならないように治療法を授けたいと思う」 ぜひとも聞かせて欲しいね。妄想が暴発して、気がついたら犯罪者ってのは勘弁願いたいからな。「目の前にある映画がちょうどいい治療薬になる。さて、キミがこの映画のキャラクターを演じるなら誰にする?」 当然、主人公になるな。「そう答えるだろう。だが、失礼を承知で言わせてもらうと、キミの能力と性格を考慮して見た結果、適役だと思われるのは、その他キャラ1といったところだね。ほら、今スクリーンの脇で撃たれて倒れたようなキャラだ」 いつの間にやら、またスクリーン内は激しい戦闘シーンに変わっていた。俺はそこまでへたれなのか?「違う。キミはいたって平凡だからこそ、すぐに消えてしまうような脇役に当てはまるのだよ。キミに限った話じゃない。僕だってそうだし、世の中の99.999%はその他A的な雑魚キャラにしかなれない。エンターテイメント症候群の一番の原因はやはり自分が主役で最後まで格好良く生き残れるという自信過剰が一番の原因だと思うね」 ここで佐々木は俺の方に視線だけを向け、「頭の中で想像してみたえ。自分の能力をしっかりと把握した上で、キミがあのスクリーンの中に入れてみるんだ。どうだい? 入ったとたんに死んでいるんじゃないか?」 ああ、腰を抜かして倒れているところで蜂の巣になったよ。「そうだろう」 佐々木は俺の答えにくっくっと笑みをこぼす。「そうやって、漫画や映画の中の人物と自分を重ねないことが一番の治療法だと思うよ。ホットになるのはエンターテイメントの正しい楽しみ方だが、視線はクールに行くのが理想的だ」 やれやれ。すっかり佐々木の独壇場だ。こうなると、もう俺から返せる言葉なんて何もねえ。こいつに口や思考能力で挑んでも勝ち目なんてないからな。ん? ひょっとしてこの一方的な語りかけは、さっき漫画喫茶で放置プレイされた事に対するささやかな復讐じゃないだろうな? 結局、話はそこで停止。だんだんクライマックスに近づく映画に二人とも没頭するようになっていった。 壮大な曲とともにスタッフロールが流れていく。後半はすっかり没頭してしまっていた俺だったが、佐々木はようやく終わったかというように、大きく胸を反らして背伸びをしつつ肩を揉んでいる。 と、ここで俺の背後数段に座っていた5人組がそそくさと劇場から出て行くのが目に入った。ここに座ったときにはいなかったが、途中で入ってきたのだろうか。 だが、俺は劇場の暗がりに出口から漏れた光で、そいつらの姿が一瞬見えたときはっと息を呑んだ。 ……どこかで見たことのあるシェルエットが数名いたからだ。 「さすがに2時間を超える映画だと身体が軋んでくる。少し歩かないかい?」 劇場から出た後、佐々木の申し出に俺はすぐに了承する。 俺たちはぼちぼち日が傾きかけ、オレンジ色へと変わりつつ街並みを歩き出した。当然、俺たちの跡を付けてきている連中の存在を確認しつつだ。 数十分、俺と佐々木は黙ったまま繁華街を歩き続け、やがて活気のある場所を抜けて少し開けた公園にたどり着いた。 と、ここで佐々木がまたメールをかちかちと打ち始めた。だが、俺は見逃していなかった。俺たちを付けてきている奴らの一人がさっきメールを打って発信らしき動作をしていたことにだ。 やがて佐々木がメールを打ち終わると、今度は尾行者の一人がメールを確認し始める。そして、また発信の動作をとると、今度は佐々木がメールを打ち始める。 もう決まりだろ。「おい」 俺は佐々木の背後から呼び止めた。すると、一瞬びくっと反応した佐々木だったが、すぐに平静さを取り戻すと、俺の方にいつもの微妙な笑みを向けてくる。「なんだい? ――と聞く必要もなさそうだ。どうやら察知してしまったようだね」「ああ」 その返答に、佐々木はふうっとため息を吐き、そして、「……すまなかった」 そう深々と頭を下げた。その様子を察知したのか、背後からクラスメイトの女子3名、あと見覚えのない小柄な少女の姿が現れる―― ここからは事細かに言ってもグダグダになるだけだから、端的に説明するぞ。 佐々木が次に口にした言葉、『言い訳をするようで申し訳ないが、説明しない方がキミのためだと思った』という言葉を心底理解できる展開が次に待っていた。 俺たちはずっと付けられていた。もちろん、佐々木もそいつらとグルだったってわけだ。メールは絶えず自分たちの行動を尾行している連中に伝えていたらしい。 尾行者たちの目的は、佐々木と俺が付き合っているかどうか調べること。 クラスメイト女子三名がもの凄い剣幕で尋問からたまったものではない。やれ、佐々木と付き合っているんだろうとか、ホントのところどう思っているのかとか、これだけの上物に男が反応しないわけがない、お前はホモかとまで言われた。なんなんだ一体。 で、そのまましばらく押し問答が続いたわけだが、ようやくそれに解放されると、今度は見覚えのない小柄な少女がやってきて明日隕石が富士山に落下して大噴火が起こるぞと言われる以上に、衝撃的な言葉を告げてきた。 ………… ………… ………… ……えー、何だ。つまり要約すると『好きです。付き合ってください』だそうだ。 これには俺が混乱した。あまりに唐突すぎる上に、全く予測していなかった展開だったからな。 大体、ちょっと待って欲しい。俺はこの少女の事なんて知らない――と思ったが、全く見覚えがなかったわけじゃなかったことを思い出す。確か廊下ですれ違う程度に何度か見かけたことはあった。だが、顔合わせなんてそれぐらいで実際に言葉なんて交わしたこともない。交流どころか接触すらなかった関係だ。何でそんな俺を好きになる。Why? なぜ? んで、その子と長い付き合いらしいクラスメイト女子三名は、付き合っている人がいないなら付き合えばいいと迫ってきたが、無茶を言うなと拒否。思わず反射的に出てしまった言葉だったが、ごめんなさい宣言としてとられてしまったようで、少女はシクシクと泣き出すわ、鬼、悪魔、詐欺師とか無茶苦茶な暴言を浴びせられたあげく、女子3名にえらく手荒い扱いを受けることになってしまった。ただ、その中でやっぱり佐々木と付き合っているのかと言われたとき、俺はどういう訳だかそれだけには毅然と答えられた。 ――絶対に違うと。 まとめるとこういう事だ。この小柄な少女がどういう風の吹き回しか俺に惚れてしまったが、どうやら俺は佐々木とお付き合いをしている状態と思いこんでいるらしい。佐々木本人がそれを強硬に否定するも、全く信じず困り果てている。そこで佐々木は一計を案じ、俺を街に連れ出して全くそんな関係ではないことを証明して見せようとしたってことだ。そして、それが証明された暁には、俺に告白でも何でもすればいいさと。 全くいい奴だよ、佐々木は。わざわざ人の恋路に花を添えてやろうとしたんだから。恐らく書店→漫画喫茶→戦争映画鑑賞という移動は、できるだけ色気のないルートを選んでいたに違いない。 まあ、そんなグダグダで終わらせるわけにも行かなかったので、結局正式にお断りさせてもらうことにした。いや別にこの小柄な少女に問題があった訳じゃない。むしろ、それなりにレベルの高い美少女であることは事実だ。だが、何というか乗り気にならなかったし、それに妙に後ろめたい気持ちになっていたこともあってNOの返事をすることにした。 ……今思えば勿体ないことをしたものだと後悔している気持ちもあったりするんだけどな。 その後、俺を付けていた連中はそれぞれ去っていき、人気のなくなった公園には俺と佐々木だけになった。全く休日の暇つぶしかと思っていたが、最後の最後でとんでもない落とし穴が待っていたとはね。「重ね重ねすまないと思っている。騙す気はないなんて言うつもりはない。実際に騙していたんだから」 再度深々と俺に向かって下げる。俺は首を振って、「謝ることはねえよ。逆に俺が感謝したいくらいだ。本来は俺が処理すべき話だったのに、佐々木に変な策略をさせちまったんだから。おかげで変な誤解も解けたようだしな」「少々お節介だったかと思っていたが、こうでもしないとなかなか信じてくれないのだ」 そう嘆息するように佐々木。 俺は妙に疲れた気分になって手近にあったベンチに座る。そういや、告白なんて生まれて初めてされたわけだったな。「僕に言わせると、NOと君が言うのは意外だったよ。なぜなら、いつも男子生徒の環で女子と付き合いたいなんていう話をしていたからね。てっきりOKするものだと。何で断ったのか、もしよければ理由を聞かせてくれないか?」 佐々木は俺の前に立ち、見下ろすように語りかけてくる。俺はしばらく後頭部をかいていたが、「理由がないことが理由だ。OKを出す理由が全く思いつかなかったってことだよ」「それならNOを出す理由もなかったんじゃないかい?」「YESの理由がなければ、NOとしか答えようがないだろ」 そんな俺の支離滅裂な回答に、佐々木はくくっと笑みを浮かべると、「……キミらしい答えだと思う。何の説明にもなっていないのに、納得してしまいそうになる」「そうかい」 もっと的確な理由が存在しているのかも知れないが、正直俺の貧弱な自己表現能力ではこれが精一杯なんだ。 ――と、唐突に佐々木は俺に顔を急接近させてきた。 突然の行動に面食らった俺は思わず後ずさりをしてしまいそうになるが、「しっ。動かないで」 と、佐々木に制止されて動きを止める。やがて、俺と佐々木の額がぴたりと合わせられた。何しているんだ?「以前言ったかも知れないが、恋愛感情って言うものは本当に精神病の一種だと思う。今日の一件でそれを確信させられたよ」 佐々木は目を閉じて続ける。「今日、キョンに告白した女子は全くキミと接触がなかった。にもかかわらず、キミに恐ろしいほどまでにベタ惚れだったよ。理由は知らない。恐らく聞かされても理解できないだろうね。本人でなければわからないことだ。距離が離れているのに、感情は非常に強くなっている」 俺はその佐々木の独白に黙って耳を傾き続ける。「だが今、僕とキョンはこれだけ急接近しているというのに、キミは全く僕に対して性的欲求を含めた感情を抱かない。まるで反比例しているように見えないか? 通常、近ければ近いほどその影響を強く受けるはずなのに、遠い方が感情が強まるなんて。僕の知っていた人間関係における恋愛感情とは正反対のものだ。驚愕に値するよ」「……特殊な例だと思うぞ。一般的には比例しそうだしな」「だが、こういった真逆の例外が存在できてしまうと言う点から言って、やはり論理的な思考を妨げるノイズであるといってもいいね。やはり不必要だ。僕には必要ない」 ここですっと佐々木は額を話すと、「そう言った意味では、キミは僕にとって理想的と言える。どれだけ接近して話しても、キミは決して邪念を抱きそうにないからね。いい友達を持てたと今更ながら喜ばしいと思っているよ。しかし、その年にしては少々不安になりそうなほどな枯れっぷりだが」「……あのな、俺だって若い男子なんだぞ。そっちの方面にだって興味はありありだ」 俺の反論に、佐々木はくっくっと苦笑するような声を上げて、「失礼。訂正しよう。邪念と聞いて単純な性的欲求に変換されている時点で、キミは枯れているんじゃなくて、そういったことを全く知らない子供ってことだ」「ああ悪かったな」 ふてくされたように言う俺。 佐々木はくるりと背を向けると、「さて、そろそろ日も落ちる。帰ろうか」 俺はそれに賛同してベンチから立ち上がる。と、佐々木が俺の手をつかむ。 「これからもよろしく頼むよ。僕の友達、キョン……」 ~~おわり~~
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