30分で会いにきて
土曜日は市内パトロールまたはデートで、日曜日はなんの予定もない。ハルヒが日曜日何をしているかは正確には知らない。ま、いろいろ忙しいようで、いろいろ説明したあげく『だから、あんたと遊んでる時間はない』らしい。その割には、折りにふれて携帯でメール送る程度の暇はあるらしい。しかし、返事不要と書いておきながら、返事しないとむくれるのはどうにかならんのか。俺はといえば、シャミセンをシャンプーで洗ってドライヤーで乾かしつつブラシを掛けてやり、爪が伸びていれば切る日である。試供えさを試してみるがシャミセンが一口も食わずに、生ゴミを増やす結果になる日でもある。結局いつものえさを与えることになるのだが、よく飽きないものだ。飼育書なんかには、たまにエサを変えるようアドバイスがあるんだがな。部屋でごろごろとベッドに横たわり、長門から借りた古典SF大作なんぞを読み、途中うたた寝して、気が付けばまだ昼過ぎですこし得したような気分になる。簡単すぎる昼飯を腹に入れれば、妹を連れて両親が出掛けてしまった。もちろん、自発的に留守番役を買って出たわけだが。
部屋に戻ればさらさら毛皮のシャミセンが、ベッドでとぐろを巻いている。それを持ち上げて座布団の上に置いてやった。ベッドに寝転がり、本の続きを楽しむことにする。何分古典なので、いま読むとなかなか苦しい部分もあるが、銀河系に広がるヒーロー活劇は単純に楽しい。ついヒロインにハルヒをダブらせてしまい、一人で恥ずかしくなったのは、誰にも言えない秘密だ。 枕元の携帯が着信を知らせた。音でメールだと分かる。きりのいいところまで読み進めて、本を閉じた。携帯で新着メールを表示させれば、ハルヒからで、たった一言だけ書いてあった。『暇?』「どうした?」そうメールを打った。『別に。ただ暇だったから』暇だけあって、即返事が帰ってきた。暇を持て余し過ぎるとろくなことにはならないよな。特にハルヒの場合は。「部屋の模様替えはどうした?」『終わった』「家庭教師は?」『今日はお休み』ちまちまメールを打つのが面倒くせえ。俺は着歴からハルヒの番号を呼び出して、電話を掛けた。呼び出し音もならずに、電話がつながった。さすが暇というだけはある。「珍しいな。日曜日はいろいろ忙しいんじゃなかったのか」「こんな日もあるってこと」「いま家か?」「ベッドに突っ伏して、この世の中から暇をなくすにはどうすればいいか考えてるところ」なにかハルヒいわく「いいこと」を思いつかれた日にはいい迷惑だ。ぐつぐつに煮えたぎったハルヒの妄想が現実となることは避けなければならん。財布の中身はかなり心もとなく、銀行の口座もシベリアの冬よりもお寒い状況だ。小銭を溜め込んでいた貯金箱はその役目を終え、単なる部屋のオブジェでしかない。ま、ハルヒの相手ぐらいはしてやれないことはない。「どこか出掛けるか?」「そんな気分じゃない」ハルヒがクスクス笑った。「釣り大会楽しかったけど、ちょっと疲れた」「そうだな」昨日は第一回SOS団釣り大会in釣り堀が開催された。いつもの集合場所に集まった我々は各自自転車を相乗りしつつ、釣り堀に向かった。俺は当然のごとくハルヒと体重をゼロにしてるような長門を乗せ、古泉は朝比奈さんと青春サイクリングという構図は、去年の夏と一切変化がない。「最下位はニジマス地獄をプレゼントよぉ!!!」実に生き生きとしゃべるハルヒの合図とともに釣り大会が始まった。驚いたことに朝比奈さんの竿に一発目が来た。ニジマスを釣り上げるよりも、あわてふためく朝比奈さんを落ち着かせるほうが大変だった。もっとも朝比奈さんの竿はそれ以上しなることもなく終わったが。長門は、自己対話を続けている哲学者のような趣でじっと水面を見つめ、ときどき釣り大会だということを思い出したように、竿をしならせた。古泉はいつもと違わない笑顔を浮かべながら竿を握っていたが、練り餌になんか妙なフェロモンでもつけたのか、まるで魚が反応しない。顔色がどんどん険しくなっていくのが、さすがに不憫に見えた。俺とハルヒは競うようにニジマスを釣り上げた。途中で引っ掛け釣りはなしというルールができるほどに白熱した。結局優勝はハルヒ。準優勝は俺。そして長門、朝比奈さんと続き、最下位は古泉だった。平然とニジマス地獄を乗り切った古泉は尊敬に値するね。いや、本当に。「……なんなら、あたしんち来る?いま、誰もいないし」誰もいないといって喜び勇んで訪問したら、本当に誰もいなかったという小ネタを聞いたことがあるが、そういうオチか?「なにが。ちゃんとさし入れもってきなさいよ。あと、変なこと考えてたらきっちりお仕置きするから、そのつもりでいなさい」なんとなく目に涙をいっぱい溜めたまま俺を睨みつけるハルヒの顔が脳裏に浮かび、あわててその映像を打ち消した。「どうしたの、来るの?来ないの?」「行く」「んじゃ、30分以内にね。そうじゃなかったら、罰金だから」俺はビザ屋の出前じゃねえよ。まぁいい、ハルヒの家なら自転車で20分もかからん。
簡単に身だしなみを整えて、適当なものを着て、自転車に跨がる。空は春特有の薄く細かな雲で覆われている。風はおだやかに吹き、さわやかで心地良い。自転車を漕いでハルヒの家を目指す。が、途中で差し入れを調達しないといかん。手短なコンビニを探したが、結局駅に出てしまう。駅前のコンビニに自転車を停め、とりあえずお菓子をいくつかカゴに放りこんだ。心もとない財布から札を出せば、ペルー以上に危機的な財政状況になってしまう。コンビニを出たところで、意外な声がかかった。「おや、ひさしぶり。キョンじゃないか」振り返れば佐々木がいた。言葉使いはともかくとして、着てるもんは立派な女だぜ。かすかに風になびくスカートに、きれいな色のポロシャツ。しかし、面倒なところで会っちまったもんだ。「ああ、ひさしぶりだな」「どうしたんだい、その荷物は?」「ちょっと野暮用でな」「ふうん、涼宮さんは元気かい?」「ああ。あいつは核融合炉内蔵してるかのように元気満々さ。ニジマス釣りで大はしゃぎさ」「そうか。それはなによりだね」くくっと佐々木は忍び笑いを漏らした。「これから塾か?」「いや、帰ってきたところさ」「まだ、橘とつるんでるのか?」「つるんでるという言葉が正しいかどうかはわからないな。彼女は結構忙しくなったようで、ここのところ会っていない」「それはなにより。だな」「僕には細かい事情は分からないんだが、彼女としては、君にこっちに来てもらいたがってたよ」「どういう意味だ?」「それで決着が付くって話だったが、そもそも決着とは何を指すのか分からないんだがね。ま、この世は分からないことだらけさ。知れば知るほど、自分がなにも知らないことを自覚するだけで、時々うんざりしてしまうよ」「おまえはそうかもしれんな」「僕としては、次の模試までは静かにしていて欲しいから、好都合ではあるけどね」佐々木は肩をすくめて、微笑みを浮かべつつ、話を続けた。「このままなにもなくても、僕としては問題ない。証明はできないが、否定もできない希有な体験もできたしね。ああ、このまま立ち話も何だし、お茶でも飲むかい?」「ちと急ぐんでな」ハルヒが腰に手を当てて怒鳴る姿が脳裏に浮かんだ。「やっぱり。でも残念だな」微笑みを浮かべた佐々木は、かるく手を振った。「じゃあな」「ああ。涼宮さんによろしく。これから家に行くんだろう?」俺は言葉を失い、佐々木を見つめた。佐々木は満足げに微笑んだ。瞳がとてもうれしそうに輝いている。「ああ、そのコンビニ袋を見て推測しただけだよ。君が好みそうなものと、そうではないものが見える。そして一人で食べるには量が多すぎる。妹さんに頼まれたってことも考えられるが、それにしちゃ君はちゃんとした格好をしている。となれば、相手は家族じゃない。また涼宮さんの話をする時、君はとてもやさしい表情になる。しかもどこかそわそわしている。まるで早く会いたいかのようにだ。すべてを矛盾しないようにつなぎあわせると、君はこれから涼宮さんの家に行く可能性が非常に高い。一部、飛躍してる部分もあるけど、正解のようだね」佐々木の笑みにほんの少しだけ冷たいなにかを感じた。それはすぐ消えてしまったが、俺の背中を一瞬冷たくするには十分だった。「どうしたんだい? 僕の顔を見つめても意味はない。急ぐんだろう?」「あ、ああ」「気をつけて。また会おう」佐々木は一度も振り向かずに去っていった。俺はコンビニ袋の取っ手の部分を縛ってからカゴに乗せ、自転車を走らせた。意外な衝撃で中身が飛び出ることがままあるもんでな。生活の知恵ってやつさ。
しかし、とんでもない奴にあっちまったな。あいつは本当に推測でものをいっているだけなのか、それともすべてを理解できる目でももってやがるのか。しかし、橘が大忙しとはね。特に古泉はなにも言ってなかった。ま、あいつが関連してない部分での話かもしれんがな。古泉から聞いたのは、簡単な背景説明と、表舞台に立ちたがるド素人は不愉快ですよね?って言葉ぐらいなもんさ。言葉に生の感情がほんの1ミリリットルぐらいは含まれているように感じ、驚いた記憶がある。もっとも、そっちは俺に関係のない話だ。裏で血で血を洗う抗争なりなんなり、思う存分やっててくれればいい。俺が混じったところで、ブルーオンブルーが関の山ってもんだ。全部事がすんだら、古泉がノベライズして、ついでに映画にすりゃいい。そしたらハルヒと二人で見に行ってやるよ。だから、つまんねえことに巻き込まれて死んだりすんじゃねえぞ、古泉。
脳内の地図を頼りに自転車を走らせる。あえて方角は無視して、できるだけノンストップで行けるルートを選択する。残り時間はあと15分で、あと10分もあれば着く。ポケットの中で、携帯電話が震え出した。なんだよ、いま急いでるんだが。ハンズフリーなんて持ち合わせねえしな。自転車漕ぎながらの携帯電話での通話も道交法違反だったか?それを考えるのより先に、自転車を停めた。案の定ハルヒからだった。『いまどこよ?』俺は現在地を伝えてやった。「というわけで、もうちょっとで着く」『あと、8分で着くかしら?』チェシャ猫が電話口で忍び笑いを漏らしてやがる。だったら電話してくんじゃねえよ。そう返事しようとしたら、既に電話は切れていた。くそったれ。俺は自転車を漕ぎ始めた。唯一の信号機で結構待たされてしまい、2分以上そこで失った。なんで日曜日に一人で悪魔主催タイムレースやんなきゃいかんのだと腹が立って来る。見返りはなく、罰則のみが存在するとんでもレースだぜ。まったく神様はわがままでサイコロ振りまくるらしいが、さっきから悪い目ばかり出てやがる。ハルヒなら出たサイコロの目が気にくわないと、もう一度振ることも出来るんだろうが、俺には無理だ。可能な限りのスピードを出すために、漕ぎに漕いだ。自転車は軽やかにそれに答えた。景色が飛ぶように流れ、向かい風がきついとすら感じる。我ながら、ここまで速度を出したことはなかった。そもそも出るなんて思ってもなかった。いまなら原付と勝負して勝てそうな気さえする。これなら罰金食らわずに済むかもしれん。いまや俺の財政状況はペルー以上に貧窮しているのだから、それだけは避けたいもんだ。
自己新記録をつぎつぎと叩き出しつつ、最後の右コーナーを曲がった。そこで、神様がまたサイコロを振りやがった。しかも、今日一番の悪い目だ。なんてな。スピードを出し過ぎたのが敗因だ。自転車の後輪がずるりとすべり、バランスを崩したと思った瞬間には、地面にたたきつけられていた。頭を打たなかったのが幸いだな。自転車でこけるなんて、小学校以来じゃねえかな。ま、安全運転を心掛けて来たからな。「痛ってえ」思わず声に出してしまって、あわてて口をつぐんだ。衝撃が収まり、目を明けると右足が自転車の下敷きになっている。コンビニ袋はカゴから転がり落ちているものの、中身をばらまいたりはしていない。もっとも中身が原型を保っているかどうかについては、保証できないがね。自転車と絡まった体をすこしづつ動かして、自由を得た。体のあちこちが痛いが、特に右足首と、右肩が痛い。右足首は自転車の下敷きになったせいで、右肩はしこたまアスファルトにぶつけたせいだろう。自転車はカゴがひしゃげ、ハンドルのゴムがめくれた程度。だが、後輪はパンクしてしまったようで、ぺちゃんこだ。おまけにチェーンも外れてる。誰にも見られなかったことに安堵しながら、服に着いた埃を払った。
時計をみれば、約束の時間を二分すぎている。まいったね、最後の追い込みが仇となったか。倒れた自転車を起こしているところに、人影を感じた。ひょっとして目撃していた誰かさんか? こういう恥ずかしいシーンは出来れば見て見ぬふりしてもらえると助かるんだがな。もっとも、動けなくなってる時は別だが。「………」三点リーダーの気配を感じ、まさか長門が?と振り返ったが、まったくの別人だった。そこには手を腰に当てたハルヒが立っていた。ハルヒの表情は堅く、唇は一直線に結ばれている。変なデザインのTシャツにハーフパンツ姿のハルヒは、リラックスモードなのかカチューシャはしていない。ボリュームのある髪が容赦なくハルヒの頬を隠している。「よ、よう。遅れちまったよ。すまねえな」「………」ハルヒは、コクンとうなづいただけだった。「なんだ、怒ってんのか? この転倒がなけりゃ間にあってたんだぜ。そこらへん加味して罰金のほうは―」ハルヒは、つややかな黒髪を踊らせつつ、大きく首を振った。「ごめん、あたしのせい…ね」ん?いま誰かごめんって言わなかったか。おかしいな、俺とハルヒ以外、ここにはいなかったはずだが。って、言ったのハルヒか? ハルヒを見れば、実に悔しそうな表情を浮かべて、いまや唇を軽く噛んでいる。「いや、俺がスピード出し過ぎたのがいけないんだ。ハルヒのせいってわけじゃない」「ケガしてない?」目を伏せたまま、ハルヒがたずねた。「肩と足首がちいとばかり痛いが、すぐ治るだろう」「早く、こっち」ハルヒは俺の手首をつかむと、俺を引きずるように歩きだそうとする。「おいおい、自転車で来てるんだぜ。俺だけ連れていくなって」「………」ハルヒはつかんだ手首を放した。俺はコンビニ袋を取り上げてカゴに戻し、自転車を引きずるように動かした。外れたチェーンは、後で軍手でも借りて掛け直せばいいだろう。「いこうぜ」うなだれたままのハルヒの背中を、俺は軽く押した。そうでもしないと、ハルヒはいつまでもそのままでいたかもしれん。自転車をハルヒ宅の敷地に入れた。もはや限りなく粗大ゴミに近いがな。言葉少ないハルヒに先導されて、ハルヒの家に入った。やさしいクリーム色の壁に、床はフローリング。いまどきの家だね。玄関で中身の安否が問われるコンビニ袋を差し出した。「ほれ、差し入れだ」「んなの、後でいいわよ」あわれコンビニ袋は玄関に放置されてしまう。なけなしの小遣いで買ったというのに、不憫すぎるぜ。ハルヒは、俺をリビングに案内した。ソファセットがあり、奥に大型液晶TVなんてのが鎮座している。ごく普通の家庭のそれを感じさせた。ハルヒは一旦消え、そして直ぐに戻って来た。片手に救急箱を下げていた。「痛いところ、どこ?」真剣な顔付きのまま、ハルヒが言った。「右足首と右肩だが、ずいぶん落ち着いたぜ」ハルヒは有無を言わせず俺の靴下を脱がした。俺の目には変化など見られなかったが、救急箱から湿布を取り出すと、丁寧に貼ってくれた。「肩出して」ハルヒは、こわばった表情のままきつい口調で言う。まったくこんなところで上半身裸になるとは思わなかった。ハルヒは何も言わず、足首と同じように湿布を丁寧に張り付けた。それが終わるとハルヒはゴミをすて、救急箱をテーブルに乗せ、俺のとなりに座った。やっと、すこしだけいつもの顔に戻りつつある。「玄関で、さあいつ来るかって待ってたら、結構大きな音がして。まさかと思って出て行ったら、あんたが倒れてて。心臓止まるかと思ったわ」「そうか」「自転車に魔法掛けてやれば、早く来るんじゃないかって思ったんだけど、なんか効果あった?」「なに?」「原付並みに速度出るんなら、あたしんちまで10分かかんないでしょ?」……効果はあったんだろうな、きっと。あんな速度が出るような自転車じゃないのは俺がよく知っていることだ。「ね、効果あった?」大きな瞳がきらきらと期待に輝いた。「なんともいえんな」俺は肩をすくめた。「漕ぎに漕いだが、原付と勝負できるような自転車じゃねえよ」否定も肯定もしないように気をつけながら、俺は言った。「それもそっか」ハルヒはため息をついて肩をすくめた。「お金ためて、もうちょっといい自転車買いなさい。でも、もうちょっとで原付バイクの免許取れるんじゃないの?」「校則違反にならなかったか? それに原付といえど、バイクは高いぜ」それに原付バイクにスポーツバイク並みの速度がでる魔法なんて掛けられた日には今度こそ死ぬかもしれんしな。「甲斐性無し」ハルヒは楽しそうに指で俺の頬をつついた。「ま、バイクは危ないわね。自転車で我慢したげる。そうだ、普通免許取れるようになったら、取りにいきなさいよ。そうすれば、レンタカー借りてどこにでもいけるじゃない。そうなったら、団長専用お抱え運転手にしてあげるわ」「お抱え運転手かよ」あまりの事に思わず笑ってしまった。「そうよ。すっごい特権があるのよ」「参考までに聞かせてもらおうか」「あたしが助手席に座ってあげるわよ。このあたしが隣に座るんだから、特権中の特権でしょう?」ハルヒはどこか恥ずかしそうに、それでいて力強く宣言した。俺はもう腹を抱えて笑うしかなかった。「な、なによぉ? 笑うようなことじゃないでしょう?」腕を組んで、プンスカ怒っているハルヒは、もう普段の顔に戻っていた。
そのあとはまずハルヒ特別編集による「錬金術の大いなる遺産」などというビデオを見せられた。とんでもビデオかと思いきや、フクロウ様に与えられた大いなる秘術は時を越えて、化学を生み出したって内容の至って真面目なビデオであった。「ニュートンも錬金術に凝ってたってのはなかなか衝撃的だな」「当時は真面目な科学として捉えられていたみたいね。金属の増殖を防ぐ法律なんてのが当時のイギリスにはあったらしいわよ」「ほう。いまじゃいかがわしい扱われ方してるけどな」「まあね。でも、量子力学なんて結構いかがわしいのよ。ほんの短い時間でなら、なんでもありってことが数学的に証明することできるし」「そうなのか」「ま、その数学も結構怪しい部分あったりするんだけどね」「訳わからんな」「そうねえ……どんなところにも魔法の種は転がってるってところかな」ハルヒはニヤっと笑い、ソファから立ち上がった。「あたしの部屋、みる?」ハルヒの部屋か。さてはて一体どんな雰囲気なのかね。なんとなく怪しげなアイテムがおかれているんじゃないかと期待しなくもない。が、蓋をあけてみれば、グリーンで統一された清潔感のある部屋だった。セミダブルベットと、小さなガラスのテーブル。そして年期は入っているが奇麗な勉強机。本棚に、ちょっと大きめのタンスといったところが目につく。ガラスのテーブルにはガラスの器が置かれ、そのなかにはポプリが入っている。それが部屋にかすかな香りを漂わせている。「どう?」「なかなかきれいな部屋だな」「ふふん、あんたみたいな殺風景な部屋じゃ、あたしは満足できないのよね」「これを週イチで模様替えしてるのか」「まあね。そんぐらいの手間隙は惜しまないわよ」ナチュラルベージュのラグに腰を降ろした。本棚を眺めれば、漫画だの小説だの参考書だのが収められていて、何冊かのアルバムもあった。「アルバム見せてくれよ」「えーすけべねぇ」ハルヒはそういいつつも本棚から一冊のアルバムを出してきた。「お?卒業アルバムか?」「違うわよ。普通のアルバム」「ありがたく見せてもらおうか」「なんか飲むものもってくるわ」ハルヒは部屋を出て行った。アルバムを開けば、ごく最近のものだった。見覚えのある写真が並んでいるかとおもえば、そうでない写真も多い。特に俺の写真が多いような気がするが、気のせいにしておきたい。まったくもって、恥ずかしいことこの上ない。 俺の寝顔までここに入っているとは知らなかったが、我ながら間抜けな顔で寝てるもんだ。いろいろ思い出に浸っていると、アイスコーヒーセットを手にしたハルヒが妙な照れ笑いを浮かべつつ戻ってきた。「分かった?」「……自分のアルバム見てんのかと思ったぜ」「あんたが面白い顔するのがいけないのよ」ハルヒは幼なじみが照れ隠しに言うような口調で言った。「つい、集めちゃった」「恥ずかしい。あー恥ずかしい。ホント恥ずかしい」「バカ。あたしだって下で気づいてものすごく恥ずかしくなったんだから。おあいこでしょう?」おあいこってのはよく分からないが、どうにも恥ずかしい空気が満ちてしまう。換気が必要だな。
「あんただって、時々ケータイであたし撮るくせに」「気にすんな」「気にするわよ。いままで黙ってたけど。変なとこ撮ったりしてないでしょうね?」「人を盗撮常習者みたいに言うな」「わかんないもん。そんなの」なんでもない会話が異常に楽しくて、時間を忘れて話し込んでしまうことも珍しくないだろう?そんな感じで時間は過ぎていった。
気がつけば、すっかり夜になっちまった。帰ってきたハルヒの両親に挨拶をして、俺も家に帰ることにした。ハルヒは終始むっつりした顔をしていたが、その理由はわからん。うっかりしたことに自転車のチェーンをはめるのを忘れていた。カゴも直さなきゃならん。軍手のほかに懐中電灯がほしいところだな。「そこまで送ってってあげる」そういってサンダルをつっかけたハルヒと一緒に玄関を出た。自転車を見れば、おかしなことに気がついた。いつの間にかチェーンは掛かっていて、カゴも直ってやがる。「親切な人が直してくれたのかしらね?」ハルヒは不思議でもなんでもないような口調でいう。わざわざ敷地内にある自転車を直そうと思う人が、この地球上に一体何人いるのかね。ハルヒにとってはこれぐらい日常茶飯事なんだろうがな。俺は慣れてないんだ。だから、返事をするのがすこしぐらい遅れてもおかしくはないはずさ。「そうかもな」「そうよ、きっと」ハルヒは、暗闇でも輝く笑顔を浮かべながら言った。「じゃな。また、学校で」「うん……あと、おまじないしといてあげるわ」「どんなまじないだ?」自転車で原付並みの速度が出るようなおまじないならもういいぜ。今度こそ、真面目にケガしそうだしな。「交通安全のおまじない」そういってハルヒは、俺の肩に手を掛けた。ハルヒの髪が俺の耳にかかってくすぐったい。柔らかな感触が頬で弾けた。胸の中に甘酸っぱい感覚が広がっていく。「おまじない。特別だからね」ハルヒは、すねたときにみせるような表情で立っている。「ありがとな」「じゃあ、また明日」ハルヒに軽く手を上げて、俺は自転車を走らせた。なにか雄叫びをあげたくなるような感情を必死に押さえながら。
おわり
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