キョンとハルヒの残したもの
悲劇は唐突に訪れる。それは、わたしが高校1年、お兄ちゃんが大学3年になった春に起こった。その日、わたしはわたしの両親、お兄ちゃん、そしてお兄ちゃんの恋人のハルヒさんといっしょに旅行に出かけていた。最初、お兄ちゃんとハルヒさんのふたりで行く計画だったのだが、わたしがどうしてもついて行きたいと我侭を言ったために、わたしのお守り役として両親が同伴することになったのだ。当初、お兄ちゃんはぶつぶつと不満を言っていたが、ハルヒさんを正式に紹介するいい機会だとわたしが説得すると、渋々納得した。お兄ちゃんは、大学を卒業すれば、すぐにでもハルヒさんと結婚する気でいたようだし、わたしもそのことは薄々感づいていた。「ああ、この人がわたしのお姉さんになる人なんだなあ」と、ハルヒさんを見ながらのんきに考えていたのを昨日のことのように思い出す。わたしはお兄ちゃんのことが好きだった。もちろん恋愛感情という意味ではない。やさしくていつもわたしを守ってくれるヒーローのような存在だった。でも、ハルヒさんを見ながら、わたしもお兄ちゃんと別れる日が来たんだなあと、少し寂しく感じたりもしていた。何気ない日常。それが今ではとても貴重な宝物のように思える。こんな日常が永遠に続くと思っていたわたしの思いを打ち砕く悲劇が訪れることになる。突然、前方より大型トラックがわたし達の車に突っ込んできた。一瞬目の前が暗くなり、恐る恐る目を開けると血まみれのハルヒさんがわたしとお兄ちゃんに覆い被さっていた。その後のことは気が動転していてよく覚えていない。気がつくと、わたしは病院のベッドで横になっていた。この事故で、わたしの両親は即死。ハルヒさんは意識不明の重体となったが、わたしとお兄ちゃんは奇跡的に無傷だった。「ハルヒが、ハルヒが俺達を助けてくれたんだ」このとき、お兄ちゃんが泣きながら何度もそうつぶやいていたのが、印象に残っている。わたしとお兄ちゃんは、精密検査をした後、異常なしということで2~3日で退院することになった。でも、お兄ちゃんは病院に泊まりこみでハルヒさんが目を覚ますのを見守っていた。ハルヒさんの両親や長門さん、朝比奈さん、古泉さんが心配して帰るように言ったが、お兄ちゃんはずっと付き添っていた。事故から2週間ぐらいたったころ、ハルヒさんは目を覚ました。その時のことは今でもよく覚えている。 「ハルヒ! 大丈夫か! 俺のことが分かるか!」お兄ちゃんが必死にそう叫ぶと、ハルヒさんは少し寂しそうな顔をしてお兄ちゃんに微笑みかけた。「キョン………、あんたなんて顔してんのよ。妹ちゃんが心配してるじゃない」「ハルヒ………、よかった……」お兄ちゃんはハルヒさんが意識を取り戻したのを見て、人目もはばからずに涙をポロポロと流した。病室に安堵感が漂った。ハルヒさんは助かった。このときわたしもそう思った。しかし、この後ハルヒさんはわたし達の期待を裏切るようなことを言い出した。「キョン、よく聞いて、あたし達もうお別れよ」ハルヒさんの言葉を聞いて、周りにいたみんなが驚愕の表情でハルヒさんを眺めた。引きつった表情でお兄ちゃんがハルヒさんに言葉をかける。「な、ハルヒ、何言ってんだお前」「あたしね…、神様に会ったの。そして5分……5分だけあんたに別れを告げることを許してもらったの」普通ならこんなことを信じるはずも無いが、なぜかその言葉には抗えない力がこもっているように感じた。「あたしね……、誰よりもあんたのことが好きだった。みんなあたしの我侭に愛想を尽かして、あたしから離れていったけど……、あんただけはずっとあたしの傍にいてくれた」ハルヒさんはいまにも消え入りそうな声でお兄ちゃんに話しかける。「ねえ、覚えてる、あんたの告白の言葉」「ああ、覚えてるさ! 『ずっと一生お前の傍にいたい』だ! そのときお前はOKしてくれたじゃないか! だから……だから……」「ふふふ、ごねんね。あんたとの約束、どうやら守れそうにないわ」「ばかやろう! 団長が嘘ついていいのかよ!」お兄ちゃんはそう叫びながら、ハルヒさんの手をぎゅっと握り締めた。ハルヒさんは、すすり泣くお兄ちゃんの方に顔を向けて、静かな声で言った。「ねえ、キョン。最期にもうひとつだけあたしの我侭を聞いてくれる」「最期って何だよ! お前の我侭なら何でも聞いてやる! だから最期なんて言うんじゃない!」「妹ちゃんを悲しませるようなことはしないこと。きっと幸せにしなさい。約束よ。破ったら許さないんだから」「わかった、約束するよ。だから、お前も早く元気になれ!」ハルヒさんは、お兄ちゃんの返事を聞くと、やさしく微笑んで、意識を失った。それと同時にハルヒさんの主治医が病室に入ってきて、わたし達は病室の外に出された。その夜、ハルヒさんは亡くなった。 ハルヒさんの葬式にはわたしも参列した。娘を失って辛いはずなのにハルヒさんのご両親はわたし達に恨み言ひとつ言わなかった。そのことが、わたし達兄妹だけが助かったことに後ろめたさを感じていたわたしにとって、多少の救いになった。警察から事故の原因は運転手の居眠りと説明された。しかし、運転手には資力が無く、雇い主である会社は違法な営業実態を問われ倒産に追い込まれたため、十分な補償は受けられず、わたしたちのもとには僅かな額の保険金が支払われたに過ぎなかった。本当はもっと多くの保険金が支払われるはずだったのかもしれないが、当時のわたし達にはそのことを知る術が無かった。そして、ハルヒさんの葬式の日を境にお兄ちゃんは変わってしまった。お兄ちゃんは大学を辞めると、家計を助けるためにと、ほぼ毎日早朝から深夜まで、何かにとりつかれたかのように働きだした。不景気だったため、雇ってくれるところはなかなか見つからず、派遣労働等の過酷な労働を強いられているのは一目でわかった。そんなお兄ちゃんの姿を見て「わたしも高校を辞めて働こうか」と言うと、お兄ちゃんはやさしくこう言った。「ばかなことを言うんじゃない。お前は自分の幸せのことだけを考えていればいいんだ。お金のことは全部、俺に任せておけばいい」「でも、わたしお兄ちゃんのことが心配で……」「大丈夫だ。俺はそんなにやわじゃない。それにハルヒとの約束もあるしな」正直、わたしはこの言葉を聞いて、ハルヒさんを恨んだりしたこともあった。ハルヒさんが最期にあんなことをお兄ちゃんに言わなければ、お兄ちゃんがこんなに苦しむことは無かったのにと。しかし、お兄ちゃんといっしょに働いている谷口さんの話を聞いて、わたしは自分の認識がいかに自分勝手であったかを痛感した。あれは、お兄ちゃんのあまりの状況を見るに見かねて、谷口さんからも説得してもらうようにとお願いに行ったときのことだった。「谷口さんからも説得していただけませんか。仕事を休むようにって」「ああ、俺もそう言ってるんだが、涼宮との約束だと言って聞かないんだ」「そんなあ、それで体を壊したら元も子もないじゃないですか。ハルヒさんは勝手過ぎます」「俺もそう思う。俺もキョンにそう言ったんだ。するとな、キョンはこう言うんだ。『俺はハルヒに感謝している。もしあのとき、ハルヒがああ言ってくれなかったら、俺はハルヒの後を追って自殺していたかもしれない。残される妹のことを考えずにな。でも、俺にはまだ守るべき大事な人がいるとハルヒは教えてくれたんだ。だから、ハルヒのことを悪く言うのは止めてくれ』ってな。正直、この言葉を聞いて俺はキョンを説得できなかったよ」 谷口さんの言葉を聞いてわたしは涙が溢れてきた。ハルヒさんは最期の死ぬ間際になっても、お兄ちゃんやわたしのことを思ってくれていたんだと、ようやくこのときになって気がついた。それから、わたしは、お兄ちゃんを安心させるために、一生懸命勉強した。勉強嫌いだったわたしは、死に物狂いで勉強し、何とか東京大学に合格することができた。わたしが合格したことをお兄ちゃんに告げると、お兄ちゃんは自分のことのようにとても喜んでくれた。わたしも嬉しかった。大学に進学できたことだけが嬉しかったわけではない。これでお兄ちゃんの負担を少しでも減らしてあげられると思ったからだ。しかし、悲劇が再び訪れた。わたしの引越の準備を終えた夜、お兄ちゃんは突然倒れた。原因は過労だという。病院に搬送されたとき、お兄ちゃんを診た医師は「いままで立っていたことが不思議だ」と言っていた。おそらく強い精神力で何とかいままでがんばってきたが、わたしが大学進学を決めたことで緊張の糸が切れ、蓄積していた疲労が一気に溢れ出したのだろう、というのが医師の見解であった。お兄ちゃんが入院した病院はハルヒさんが亡くなった病院、そしてお兄ちゃんの寝ているベッドはハルヒさんの使用していたベッドだった。わたしは予感めいたものを感じていた。お兄ちゃんはこのまま目を覚まさないんじゃないかと。そんな不安を払拭するために、わたしは徹夜でお兄ちゃんの看病にあたった。お兄ちゃんが入院して七日目のことだった。わたしは連日の看病に疲れて、病室で眠ってしまっていた。深夜に目が覚めたため、お兄ちゃんの顔を見ながら、三年前の事故以前にあった様々な出来事を思い出し、物思いに耽っていた。その日は、なんとなく懐かしい、子供の頃の風景を見ているような、そんな感じがしたのを覚えている。いままでお兄ちゃんと過ごしてきた色々な思い出が走馬灯のように頭に浮かんでは消えていく。思い出の中のお兄ちゃんは笑顔だった。「そういえば最近、お兄ちゃんの笑顔を見たことが無いなあ」そんな思いが頭をよぎった。おそらくこのとき、わたしはお兄ちゃんとの別れの時が来たことを、無意識のうちに感じ取っていたのだろう。突然、病室のドアの向こうに人の気配を感じた。音も無く病室のドアが開き、女性がひとり病室に入って来た。わたしは入ってきたその人物を見て自分の目を疑った。ハルヒさんだ。わたしは声をあげようとしたが声が出ず、体も動かなかった。ハルヒさんがお兄ちゃんのベッドの傍まで来ると、お兄ちゃんはハルヒさんに手を引かれてゆっくりと起き上がり、ベッドから抜け出した。 「待って!」そう叫んで、わたしはお兄ちゃんのもう片方の腕にしがみつく。「行かないで! わたしを置いて行かないで! ひとりになるのは嫌! お兄ちゃんを連れて行かないで!」わたしは、お兄ちゃんの腕にしがみついたまま、必死に叫んで、お兄ちゃんとハルヒさんに訴えた。お兄ちゃんは、わたしの方を振り向くと、とても悲しそうな、すまなさそうな表情でわたしを見つめてきた。わたしは、そのお兄ちゃんの顔を見ると、呆然としてしまい、思わず手を離してしまった。なぜ、わたしはこのとき手を離してしまったのだろう。いや理由はわかっている。あの日から、お兄ちゃんはわたしのためにずっと辛い思いをしてきた。そしてわたしはそんなお兄ちゃんの姿を一番身近で見てきた。もう、わたしのためにお兄ちゃんが苦しむ姿を見たくなかったから。お兄ちゃんはようやく大好きだったハルヒさんの元へ行くことができるのだから。だから、だからひとりになるのは辛いけど、お兄ちゃんの好きにさせてあげたかった。わたしが泣きながら笑顔をつくると、お兄ちゃんは少し安心したような表情でわたしに微笑みかけてから、ハルヒさんに手を引かれて病室を出て行った。病室を出て行くとき、ハルヒさんはわたしのほうを振り返り、とても、とてもやさしく微笑んでくれた。その微笑は、わたしのこれからの将来への祝福や、わたしのもとからお兄ちゃんを連れ去ることへのすまなさ、そういった言葉では全て表現できない様々な感情が含まれているような感じがした。翌朝、目を覚ますとお兄ちゃんは亡くなっていた。お兄ちゃんの葬式は、お金が無かったため最低限のことしかできず、参列者もいなかった。ただ、お兄ちゃんといっしょに働いていた谷口さんが線香をあげに来てくれただけだった。そのときに谷口さんが言った言葉はいまでも覚えている。「みんな薄情だな。高校のころはSOS団なんていってよくつるんで遊んでいたはずなのに、古泉も長門も朝比奈さんも来ないんじゃあ、キョンも浮かばれないな」谷口さんは空を見上げながらつぶやくように言った。「本当の友人ってものは死んじまってはじめてわかるものなんだなあ」そうやって、わたし達兄妹を見守ってくれた谷口さんも二日後には亡くなった。派遣先の事業所で安全管理ができていなかったため事故に巻き込まれたのだという。 わたしはいま早朝の駅にいる。朝早いので人通りは無い。駅からは、高校に通学するために通いなれた道や、お兄ちゃんがSOS団のメンバーとよく行っていた喫茶店が見える。この景色も今日が見納めだ。もうこの町に戻ってくることは無いだろう。家は借金と生活費に充てるために売却してしまったし、頼る人もいなくなったこの町には、もうわたしの居場所は無い。そして、この町に帰ってくる理由も、もう無い。ただ、わたしはこの町を去るにあたって、ひとつだけ問いたいことがある。お兄ちゃんは三年間ずっと不幸だったのか?もちろん、わたしと二人で過ごした三年間のお兄ちゃんの境遇はとても悲惨なものだった。だから、他の第三者が客観的な視点で見れば、おそらく不幸だったと答えるだろう。では、お兄ちゃんにとって、この三年間は、まったく楽しいことは無く、不幸の連続だったのだろうか。わたしはそうは思わない。たまに、数ヶ月に一回程度、わたし達はいっしょに夕食を食べることがあった。そんなとき、わたしは高校での出来事や将来の夢についてお兄ちゃんと語り合った。将来、弁護士になってわたし達のような境遇に置かれている弱者を救うんだ、とかそういったたわいない話だ。でも、そんなわたしの話を聞いてくれるお兄ちゃんの表情は、とてもやさしくて、わたしは好きだった。わたしは信じたい。この三年間の中にも、きっとお兄ちゃんの安らげる時間があったのだと。そしてそのひとつが、わたしとの憩いのひと時であったと。幸せとはいったいなんだろう。わたしはまだその答えを出せないでいる。でも、わたしは幸せにならなければならない。お兄ちゃんのためにも、ハルヒさんのためにも。そして天国で待っているお兄ちゃんとハルヒさんに、ふたりのお陰で、わたしがどれだけ幸せだったかを話してあげたい。そうしなければ、ハルヒさんが身をていしてわたし達をかばってくれた事や、お兄ちゃんのこの三年間の努力が無駄になってしまうから。ハルヒさんのしたこと、お兄ちゃんのしたことは決して無駄ではなかったと証明したい。だからわたしは幸せを見つけようと思う。美しいこの国で~終わり~
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