人生最悪の四日間 第六章 ~笑い、再び~
エルヴィン・ルドルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーという人物をご存知だろうか。オーストリアの理論物理学者だ。彼が文献で提唱した量子論に関する思考実験は非常に有名だ。「シュレーディンガーの猫」と呼ばれるこの思考実験は、もともとは非決定論の矛盾を示すものだった。だが、現在では別の実験結果によって決定論は有力視されなくなり、「シュレーディンガーの猫」は非決定論が克服すべき課題を示すものに置き換わった。この実験はあくまで思考実験であって、実際の実験ではない。猫が可哀相だからな。だから量子物理学者が量子力学の謎を解くために実際に猫を何匹も殺しているわけではないし、動物愛護の点でも問題は無く、物理学者が特に残酷なわけでもない。三味線を作る人間の方が残酷だ。
この実験を実際に行いたい人は次のものを用意してもらいたい。・蓋のある箱・猫(青酸ガスを吸うと死ぬ生き物なら、猫でなくともよい)・粒子検出器・粒子検出器をスイッチとする青酸ガス発生装置・半減期が一時間の放射性物質以上だ。この放射性物質は半減期が一時間なら何でも構わない。箱はこれらがすべて入る大きさのものを用意して欲しい。
まず、箱に猫と粒子検出器と青酸ガス発生装置と放射性物質を入れて蓋をする。準備はこれだけだ。あとは一時間後に蓋を開けるだけ。蓋を開ける際は、五十パーセントの確立で青酸ガスが出るので注意してもらいたい。その一時間の間に、箱の中で何が起こっているのか。放射性物質は半減期が一時間なので、一時間で五十パーセントの確立で放射線が出る。粒子検出器がその放射線に反応する。青酸ガス発生装置は粒子検出器をスイッチをしているので、作動して青酸ガスが出る。猫が青酸ガスを吸い、死亡する。猫が死ぬ確立は五十パーセント。生き延びる確立も五十パーセント。さて、一時間後、この猫は生きているだろうか。この二つの不確定要素がひとつの状態に収束するのはいつだろうか。その問題がこの思考実験のメインだ。放射線発生時か、検出器が放射線を検出したときか、青酸ガスが発生するときか、猫が青酸ガスを吸ったときか、猫が死を自覚したときか、蓋をあけて猫の生死を確認したときなのかはわからない。 ただ、蓋を開けた時点では、その収束が終わっているのは確かだ。それまでは、猫の生と死が重ね合わせの状態になっているのだ。ちなみに、今でもこの問題は解けていないし、これからも解けることはない。多世界解釈という有名な説があるが、それは今は関係ないので無視しよう。
なぜ俺が急にこんなことを説明しだしたのかというと、実は今の俺は「シュレーディンガーの猫」の猫と同じ状態に置かれている。でも放射性物質も蓋のある箱も毒ガス発生装置もない。さて、ここでの問題は「俺はどうやって死ぬのか」というものだ。俺は今までに二つの死因を見た。一つはコンバットマグナムで射殺される。もうひとつは三階から転落して死ぬ。このどちらかなんだが、この二つの不確定要素は実際に俺が死ぬまで、ひとつの状態に収束することはない。死ぬまでにはひとつの状態に収束するのだ。それがいつなのかはわからない。もしかしたら、最初から決まっていたかもしれない。
午後四時四十三分。部室にて。
「本当に俺がもう一人いるのか? 長門、職員室行って確認してきてくれ」と「俺」が言った。待て、長門。行かないでくれ。俺の心の叫びは長門に届かず、長門は部室から出て行った。「なんで俺が何人もいるんだ? お前は二時間後の俺なんだろ?」「いや、職員室にいる『俺』の二時間後の姿だ。お前じゃない」「俺」の頭上にはいくつものクエスチョンマークが浮かんでいる。「……演技はやめろ。お前は俺じゃない」俺がそう言うと、「俺」は椅子から静かに立ち上がった。「何でわかった?」俺がハルヒのことを「涼宮」なんて呼んでたのは、入学直後のときだけだ。その後すぐにいなくなって、俺がハルヒのことを名前で呼んでいることに慣れていない人間は一人だけだ。いい加減諦めたらどうなんだ?「俺」はグニャリと歪んで、段々姿が変わっていく。その姿は、昨日見た神と同じだった。「もうバレちゃった」朝倉は気に食わないような顔をして、椅子に腰掛けた。「何もかも失敗。最初はすべてがうまくいっていたのに。
なんでいつもいつも駄目なんだろう」悪いこと考えるヤツは失敗するって掟があるからな。「悪いことじゃない! ただあたしの夢を叶えたかっただけ!」夢ね。好きな人と一緒に過ごすことだっけ? その好きな人ってのは誰なんだ?「……あなた、よく鈍いって言われるでしょ?」ああ、よく言われる。「……まあ、いいわ。どうせもう終わりなんだから」朝倉は棚の上に置かれている黒い物体を指差した。あれは……コンバットマグナムだ。まさか昨日から置かれたままか?「……それであたしを撃って。そうすれば全て終わるから」……いいのか?「そうするしか無いでしょ? いいわ。覚悟はできてるもの」「まだ夢は叶うかも知れんぞ? 本当にいいのか?」「あなただって迷惑でしょ? あたしがいると」迷惑ではないとは言えないが、俺にサバイバルナイフを向けたりブラックホークで拉致したりしなければ問題は無いんだがな。「そうね……最初から普通に過ごしていればよかった。そうすればあたしの夢はもっと早く叶ったかもしれないのに」朝倉が拳銃を手にしているのが見えた。棚の上を見ると、コンバットマグナムが無くなっていた。朝倉はその拳銃の銃口を自分に向けた。「じゃあね」「ま、待て!!」俺が叫ぶと同時に、銃声が部室に響いた。朝倉は先ほどの俺の姿に戻り、床に倒れた。
午後四時五十八分。部室にて。
これで本当に良かったのか?良いわけが無い。確かにすべて解決したが、これじゃ俺が悪者みたいだ。いや、実際に俺は悪者だ。目の前でひとりの少女が死のうとしているのを救えなかった。俺は床に落ちた拳銃を拾った。銃口からはまだ煙が出ている。誰も入ってこないようにドアには貼り紙をしておいたが、それも効果は無いだろう。部室のドアが開いた。俺だ。「そろそろ来ると思ってたぞ」――ここからは少し省略しよう。
ここ一週間で、俺は沢山のトラウマが生まれた。ひとつは「俺が俺を殺してしまう場面を俺が発見する」というシチュエーション。二つ目は、「真っ赤な消火器」。三つ目は、「コンバットマグナム」。四つ目は、「アパッチとブラックホークの銃撃戦」。そして五つ目は……
午後五時二十八分。部室にて。
「俺」は俺に銃口を向けて、引き金を引いた。銃弾は俺の体の脇を通って窓に命中し、窓に寄りかかっていた俺は、バランスを崩して三階から転落した。世界がぐるりと一回転してから、ものすごい勢いで俺の周りを通り過ぎていく。地面が近づいてくる。もう終わりだ。死ぬ前は走馬灯が見えるって嘘なんだな。地面しか見えない。俺は地面に叩きつけられた。銃声よりも大きな音が俺の頭蓋骨の中に響き、目の前が自分の血で赤く染まっていく。ああ……今度こそ死ぬな、俺。
目の前には人影が見える。ご先祖様のお迎えか?その人影は俺の前に立ち、こう言った。「今回で二度目」何がだ?「あなたは騙されていることに最後まで気づかなかった」騙された? 俺は騙されてなんかいない。「騙されてなんかいない?
アハハハハハハハ! あなたは本当に馬鹿!
まだ気づいてないなんて信じられない!」目の前の女は笑い始めた。あのときの光景が蘇る。「この世界も他の世界の内側にあるって考えなかった? わたしがその世界の神である可能性も? 上には上がいるものなのよ! わたしは朝倉涼子を操って、神であるあなたと彼女を殺した。そうすれば世界はわたしだけのもの! アハハハハハ!!」 「お……お前……」「アハハハハハハハ!! 何もかも思い通りよ!! アハハハハハハハハハ!!」長門は笑いながら俺の前から去っていった。目の前が真っ暗になった。ああ……なにもかも終わりだ。
「上には上がいる」
このとき、この言葉を一番理解していなかったのは、他でもない長門だった。
第七章 ~神の条件~
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