ずるい二人
「入りたまえ」
朗々と響いた声に、わたしは襟を正して生徒会室の引き戸に手を掛けました。
「失礼します、会長。購買部への嘆願書に対する学校側の――」
けれども入室するなり、わたしの厳粛な心構えはどこかへ吹き飛んでしまいます。なぜなら窓際にたたずんで夕陽を見やっている生徒会長その人が、平然とタバコの煙をくゆらせていたからです。
「――回答書類をお持ちしました」「うむ、ごくろう」
机の上に書類を置いて小さく息を吐くわたしに、会長は素知らぬ顔でそう答えます。全く悪びれる所のないその態度に、わたしはついつい、まなじりを吊り上げてしまいました。
「少しは慎んでください、会長。 あなたの趣向に口出しするつもりはありませんが、タバコを吸うなら吸うで時と場合というものがあるはずでは?」「細かい事を気にするな。余人に喫煙現場を目撃されるほど愚かではないつもりだ」
「そういう問題ではないでしょう」「ほう。宇宙人が人間の倫理を説くかね、喜緑くん?」
皮肉っぽい彼のセリフに、わたしは再び嘆息します。人の上げ足を取るような物言いは演技でも何でもなく、彼のデフォルトです。
「そういう事を言っているのではありません。直接この場を見られなくとも、立ち込めた煙が部屋に染み込めば、あなたの素行がバレるのは時間の問題ですよ」「ふむ」「何よりわたし自身、ニコチンの臭いというものが好きではありません。有り体に言えば」
一度言葉を切り、わたしは目一杯の棘を込めて彼に告げました。
「非常に不愉快です」
にも関わらず、会長は悠然とまた一服します。そうして、彼は事も無げにこう応じました。
「なるほど、それは大変だな。だがそう気に病むほどでもあるまい? つまりは問題そのものを消去してしまえばいいのだから」「…………」「そう、キミの嫌いな煙の成分を、ニコチンから何から全て情報分解してしまえばいい。それでキミのストレスは軽減され、私の身も安泰となる。実に全てが丸く収まるではないかね」
笑みさえ浮かべて傲岸に言い放つ。そんな彼を一瞥して、わたしは抑揚の無い声でこう告げました。
「醜い人ですね、あなたは」
「ほう?」
謗る言葉にも会長は動じず、むしろ興味深そうに、人間の男子としては秀麗な眉目をひくつかせます。わたしはわたしで、他人事のような口振りで讒訴を続けていました。
「要するに、あなたはわたしを貶めて悦に入っているのでしょう。 あなたは会長で、わたしは書記。ただ単にそれだけの立場の違いを嵩にかかって、人間ごときがヒューマノイドインターフェースにあれこれと指図する。 そうして自分を慰めているのでしょう。卑小な人間の考えそうな事です」「くっくっ、言ってくれる」
冷めたわたしの視線の前で、会長はなおも愉快そうに笑います。そうして彼は、眼鏡の向こうでいやらしく細めた目をわたしに向けました。
「なるほど、キミの指摘は正しい。まさしくキミはTFEI端末であり、本気になれば私など造作なく消し去れるのだろう。そんなキミにわざと迷惑を掛け、その困窮ぶりを楽しんでいる私が居る事は否定すまい。 だがそれを指摘して、いったい何になると? この卑小な人間が殊勝にも態度を改めると思うのかね?」
ふふん、と勝ち誇ったような笑みを浮かべながら彼は続けます。
「あの脳内花畑女の涼宮ハルヒが不条理極まる能力を秘めていたとして、当人にその自覚がなく、また自覚させる事そのものが危険である以上、その力を引き出すには適切な刺激が必要となる。 要は、触媒だな。その触媒として、涼宮ハルヒが思い描く敵役、つまり私には相応の利用価値があると言える。これは客観的な事実だ」
携帯灰皿に吸殻を片付けた会長は、尊大に言葉を並べながらゆっくりわたしに歩み寄ってきました。
「さらにキミの親玉は穏健派。言うなれば事なかれ主義者だ。自分に泥が掛からなければ、わざわざ場を乱すような事はしない。 ならば喜緑江美里、穏健派の端末たるキミが、ただ一身の不満で私を消去する事などあり得ない。違うかね?」
わたしの目の前に立った長身の彼は、くっと右手でわたしのあご先を持ち上げ、上から被せるような眼差しでそう訊ねてきます。文字通りほんの目と鼻の先にある会長の顔に、わたしは、ふっと微笑みかけました。
「その通りです。よほど危険が及ばない限り、わたしは甘んじてあなたの醜さも卑小さも受け入れるより他ありません」
そうしてわたしは、ついと彼の胸の中に顔を埋めます。彼もまたわたしの背に両腕を回して、強く抱き締めてくれました。
「ああ。こうして私がキミを求めれば、キミは自分の意思に関わらず受け入れざるを得ない。そうだな、江美里」「ええ、会長。ですから今は、どうぞあなたの気の向くままに…」
そう、言うならばこれは二人のゲームです。お互いの立場を忘れないための。
彼は『機関』の外部構成員であり、わたしは情報統合思念体穏健派のヒューマノイドインターフェース。その思惑の合致により、わたしたちは同盟に準ずる関係にあります。 でもそれは呉越同舟のごとき、あやうい間柄。たとえばもしも今、涼宮ハルヒの能力が消えてなくなろうとしたなら?
『機関』はそれを是とし、情報統合思念体はそれを否とするでしょう。そうした些細な状況の変化で、わたしたちの関係は瓦解してしまえるのです。いつ、お互いを背中から撃つ事態になるとも限らないのです。
そんなわたしたちが、永遠を誓い合う事などあり得ません。だからこれは、ほんの慰みのゲーム。卑怯卑劣な人間と、その命令に逆らえない暗愚なインターフェースとが、たわむれに絡み合っているだけ。
元より、わたしには人間の恋愛感情など分かりはしません。ただインターフェースとしての喜緑江美里、それ以外の存在意義を見出す事で、自分の精神を安定させたいのでしょう。 所詮、わたしは道具。朝倉さんのように、明日には消えていなくなっているかもしれないのです。その程度の存在なのです。そんな、道具同然のわたしの存在を――
「言うな、それ以上」
気が付くと、彼の人差し指がわたしの唇に押し当てられていました。
「キミがどれだけ私を罵ろうとも、それは構わん。私もキミに身勝手な事を言うしな。 だがキミが、キミ自身の事を卑下するのは、それは許さん」
寂しげな瞳でそう告げて、彼はおもむろにわたしの唇を奪いました。
強引な人…でもその強引さが、今は嬉しい。わたしの心に浮かんでは消える、自分は道具なのだという拭いようのない虚脱感を、強引に塗り潰してくれるその優しさが嬉しい。
ええ、これはただのゲームです。お互いにペルソナを被って踊る、仮面舞踏会のようなもの。仮面さえ外せばいつでも他人同士に戻れる、そんな保険を掛けたずるい二人のゲーム。決して恋愛感情なんかじゃありません。
でも、だからこそ。二人きりでゲームに浸れる、今この時は。
夕暮れの生徒会室の中、わたしは粛々と彼のキスを受け入れます。わたしの嫌いなタバコの味がするキス。でも何故か拒絶する気のしない、それは不思議な味のキスでした。
ずるい二人 おわり
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。