涼宮ハルヒのロバ
『涼宮ハルヒのロバ』
プロローグ
社交的と内向的、楽天家と悲観論者、朝型と夜型、男と女。人類の分類基準は人それぞれだが、俺に言わせればそんなものは数十万年前からひとつしかない。 「引きずっていく奴」と「引きずられる奴」だ。 かくいう俺はもちろん後者であり、保育園から高校まで、自慢じゃないが「長」と名のつくものには一度もなったことがない。そのかわり和の精神を貴ぶ正統派事なかれ主義者として、わざわざリーダー役を買って出た御苦労様に逆らうということも滅多にない。その怠惰で享楽的とも言える生き方はSOS団においても続いてきたわけで、高校入学以来ハルヒという暴君に唯々諾々と従ってきた俺が突然反旗を翻す時がやってくるなどと誰が予想したろう。けれども人間とは永遠の謎であり、かつまた無限の可能性を秘めた存在でもあるわけで、神の啓示を携えた大天使は確かに俺の頭上に舞い降りたのだ。昨夜の9時40分頃、晩メシ後の風呂につかっていた俺の頭に。フロイト先生もびっくり。まあ、そうは言っても別にハルヒをリコールしようというわけではないし、SOS団を乗っ取ろうというのでもない。そんな疲れる情熱は100万回生まれ変わっても俺の頭にわいてくるはずがない。そう、俺はただ妹のアンパンマンシャンプーで頭を洗いつつスコッと決心したのだ。SOS団をやめよう、と。
Ⅰ.長門改造計画
なぜ急にそんな気になったのかと聞かれても困るし、理由はそれこそ山ほどあるのだが、そのへんについてはおいおい話していこうと思う。今はただ、そう決心したとたんに俺の心が開放感に満たされ、春風に舞うタンポポの綿毛のように軽くなったことだけ理解してもらえればいい。さすがに少しは寂しい気分になるかと思っていたのだが、こんなことならもっと早く決断すればよかった、という感じだ。俺は自室のカレンダーに退団宣言から退団まで、推定五日間に及ぶ大計画表を一気に書き上げ、その最終日に「自由解放記念日」と大書きして赤丸で囲んだ。この世を去るまでの幾歳月、親の名前は忘れても俺がこの日を忘れることはないであろう。うむ。それから歯を磨いて寝ちまったのだが、翌朝むっくり起き上がるとそのまま計画表に直行し、項目をひとつ書き加えた。アメリカのビジネスエリートは就寝前に明日の予定に目を通すそうだが、歓喜の興奮状態から醒めた脳は睡眠中も活動を続けていたらしく、退団決行前にすませておきたいことをひとつ思い出したからだ。
SOS団を去る前に俺がすませておきたかったこと。ちょっとした心残り。それは朝比奈さんの次期コスプレ衣装の選定、ではなく(その件に関しては『退団後も院政を敷き影の影響力をふるう』と計画表にある)、SOS団でもっとも頼りになり、かつなんとなく危なっかしいヤツ、つまり長門だった。初めてこいつに会った時から、俺にはどうも納得のいかないことがひとつあったのだ。けれども俺の「長門改造計画」の実現には、ある人物の協力が不可欠だった。短気で強引で自己中心的だが、行動力だけは十人前。SOS団メンバーの誰ひとり正面切ってまともに逆らえない奴。そう、あの悪夢の三日間はある大安吉日の放課後、そいつに声をかけることからはじまったのだ。
「ハルヒ、おまえ長門の家に行ったことあるか?」「ないけど、何?」「今からあいつんちに本返しに行くんだが、おまえちょっとつきあわないか」「そんなの明日学校で返せばいいじゃない。なんであたしがつきあわなくちゃなんないのよ」「又借りしてる本の返却日が明日なんで、今日返さないとまずいんだよ。嫌ならいいが、長門の部屋にあいつと二人きりだとなあ……」「スケベ」「じゃなくて、間がもたん」 ハルヒは妙に納得した様子で、ぶつぶつ言いながらも結局ついてくることになった。お礼に夕食おごれだの、何でそこまでだの、まるで仲良し高校生カップルのような微笑ましい会話を続けつつ長門のマンションにたどりつくと、部屋の主はふだんより0.5mmも大きく見開いた目で「激しい驚き」を表現しつつ俺たちを迎え入れた。通されたのは最初に宇宙人の告白を聞いた時と同じ、コタツがひとつきりの殺風景な居間だ。一応訪問の口実にした本も持ってはきたが、返却日が明日というのは真っ赤な嘘なので、長門は俺たちの突然の来訪の理由がわからなかったに違いない。普通なら「どうしたの? 何か用?」と聞くところだが、こういう時には滅多に自分から話しかけようとしない長門の習性がありがたい。物問いたげな瞳に気づかぬふりをして出された茶をすすっていると、トイレ経由で居間に到着した人間爆弾の声が響き渡った。「何これ? 有希ってば、どっか引っ越すの?」「いや、聞いてないな」「だって、じゃあ、何よこの部屋? 空っぽじゃない」「よけいなものを置かない主義なんだろ。シンプルでけっこうじゃないか」「バカ。カーテンもない部屋で、どうやって着替えるのよ。だいたい有希、なんで家で制服着てるわけ?」「俺は別に異存はないぞ。なんなら制服のまま布団に入ったっていい。それはそれで風情があるというもんだ」「変態。あんたの趣味なんか聞いてないわよ!」 俺の背中に蹴りを入れると、ハルヒはそのまま他人の家のガサ入れに入った。悠然と茶をすする俺と「何これ!」「信じられない!」とドアを開けるたびに叫ぶ刑事を交互に見ながら長門は困惑の度を深めているようだ。3杯目のお茶を飲み干した頃ようやく戻ってきたハルヒはすっかり冷たくなった湯飲みを一気にあけ、有無を言わさぬ調子で宣言した。「いつまで飲んでんの、キョン! 出かけるわよ! 有希もほら、支度して!」「出かける? どこへ? 俺、そろそろ帰りたいんだが……」「買い物よ、買い物。ぶつぶつ言わずに窓の寸法はかって! ぐずぐずしてると店が閉まっちゃうじゃない。夕食は外で食べればいいわ。デパート探検の経費として、特別に部費から出したげる」 何が特別だ、おまえも食うくせに。まさかその調子でしょっちゅうどこかの「探検経費」を捻出してるんじゃないだろうな。 部屋の寸法をなぜかすべてミリ単位で正確に記憶していた主のおかげで準備は一瞬で終わり、ハルヒは俺と長門をタクシーにひきずりこんで駅前のデパートに乗りこんだ。その後俺に課せられた肉体労働については正直あまり思い出したくない。ピンクのパジャマにドライヤーはいいとして、速乾性タオルにアイロンに体重計、洗濯ネットに姿見に……睫毛はさみ器? 女子高生の一人暮らしにあんなにモノが必要とは思わなかった。「こらこらこら、手伝うのはいいが、金出すのは長門だぞ。そんないっぺんに買えるわけないだろうが」「うるさいわね、だからタオルは私が買ったじゃない。あんた、有希があんな殺風景な部屋に住んでて平気なの?」「だからもう十分だろうが!」「まだ半分よ!」「だいじょうぶ、この国の紙幣を再構成するのは」 言うな長門、言うなそれ以上。俺はまだネットに実名を晒されたくない。 どんどん増えていく手提げ袋の重さにあえぎながらも、俺は花柄の座布団に座った情報統合思念体がキティちゃんのカップで茶をすする様子を想像して持ちこたえた。そう、俺はこの長門のボスにあたる奴がどうも好きになれないのだ。長門を人間「ぽく」作りながら、人間らしい感情を持つことを渋っているように見えるケチな根性がどうにも気にくわない。そいつがもしスタートレックのスポックみたいな奴なら仕方ないが、そうでなければピンクのパジャマで茶を運んできた長門を見て少しはあわてろ、そして反省しろと言いたいのだ。もちろん長門家の会話がコタツを介して行われるはずがないのはわかっている。けれども普通の女子高生のような部屋に住むことで、せめて長門には感じてほしいのだ。未来から来たネコ型ロボットがドラ焼きに固執していいなら、「超高性能ヒューマノイド型インターフェース」はもっともっとワガママに生きていいはずだ、ということを。
長大な買物リストを手にデパート中を走り回ってパジャマからスリッパまで一通り買いそろえたハルヒは両手一杯の荷物にあえぐ俺を尻目に涼しい顔でのたまった。「できればトースターも欲しいとこだけど……いいわ。ロバが貧弱だから、それはまた今度ね。最後にぬいぐるみだけ買って帰りましょ」 誰がロバだ。貧弱で悪かったな。おまけになんだって? ぬいぐるみ? それのどこが必需品だ! すでに前方視界の確保さえままならないというのに、このうえどうやってそんなかさばるものを持てと言うのだ! ……しかしまあ、谷口ランキングによれば長門も一応Aランクの美少女なわけで、ピンクのパジャマでテディーベアを抱きしめる長門というのも、それはそれでいいかもしれ……。ハルヒの冷たい視線に気づいた俺はあわてて長門に耳打ちした。「すまん。何でもいいからひとつ買ってやってくれ。なんならふたつでもいいぞ。金は俺が出すから」「何よキョン、そんなにお金余ってるなら、私にも何か買いなさいよ」「おまえには朝比奈さんという等身大着せ替え人形があるだろうが!」 玩具売り場へ移動をはじめたSOS団分隊はしかし、寝具コーナーの前で早くも停止した。なぜかそこにそれらしき動物集団を発見したからだ。いつものようになぜか俺に指示をあおぐかのような視線を向ける長門に大きくうなずいてやる。餅にしか見えない犬だのボールにしか見えないヒヨコだのの前で長考に入るかと思われた長門は、意外に早くひとつのぬいぐるみを選び出した。不恰好な棒のように見えたそれは、どうやらキリンらしい。まぬけな顔と長い首の下に、頭とさして変わらないサイズの胴と申し訳程度の足がついている。値札には抱き枕とあるが、正直テディーベアとはかなりひらきがある。「何この顔、バカみたい。有希、本当にこんなの欲しいの?」 その意見には完全同意だが、他人が気に入ったものをバカ呼ばわりするな。「これでいいんだな?」「いい」 小さな身体で巨大なキリンを抱きかかえた長門(想像してくれ)と共にレジへ向かうと、なぜかハルヒが同じものを持ってついてくる。「あたしにも買ってよ、このバカキリン。いいでしょ、それぐらい。半日つきあったのよ」「しつこいな。バカバカ言う奴に買われちゃキリンが迷惑だ。シッシッ!」 ご機嫌斜めを通り越して垂直爆撃に移ったハルヒは自分が持っていた袋まで俺に押しつけてさっさと出口へ歩き出したが、正義の信念に貫かれた俺は甲子園出場が危ぶまれるような部内イジメにもひるまなかった。朝比奈さんの悩殺ショット流出未遂事件を思いおこすまでもなく、ハルヒの機嫌が最悪になるのはあいつが完全に悪い時と決まっている。もしかすると今晩あたり、キリンの星のお姫様が黄色いパジャマで恩返しに来るかもしれない。(この子を怪物から救ってくださった御恩は一生忘れません)(いやあそんな、当然のことをしたまでですよ)(お礼に一晩、私を抱き枕に……) いかん、これでは谷口と同レベルだ。思わず思い描いたお姫様役が朝比奈さんというのも男子高校生として健全すぎる。怪物役のキャストが決定済なのはいいとしても。
買いもらしたものがあるというハルヒと出口で合流してデパートを出た俺たちは、近くのファミレスで夕食をすませ、戦利品の山をマンションに持ち帰った。時間が時間だったので、小柄な長門のかわりにカーテンだけ吊って今日はこれでお開きである。買物の山の前に立ちつくしてそれらをどう扱うべきか思案している様子の長門は、個々の品物の用途についてはおおむね理解しているのだろう。そしておそらく、それらを無理やり長門の部屋に持ちこんだ俺たちのおせっかいな行為の意味も。けれどもハルヒセレクトの青春一人暮らしセットが万能端末である長門の生活をどれほど快適にしてくれるかは怪しいかぎりだ。コンビニ弁当を買ってたぐらいだから魔法のテーブルクロスは持ってないのだろうが、乾いた髪を一瞬で「再構成」できる長門にとって、ドライヤーなど使いにくい肩たたきでしかないだろう。「わかってるさ……」 思わず口をついて出た言葉に長門が顔を上げる。「?」「いや……なんでもない」
おまえの部屋をいくらピンク色に飾りたてても、それでおまえの心のリミッターをはずしてやれるわけじゃない。ピノキオが人間になれたのは、ゼペットじいさんの愛のおかげだ。そんなことはわかってる。でも今お前が接触している人間という奴は、実に無力な存在なんだ。人間には1秒でギターをマスターすることもできなければ、椅子をヤリに変えることもできない。そして誰かを傷つけずに、誰かに優しくしてやることもできないんだ。どんなにそいつの幸せを願っていてもな……。 律儀でストイックな長門にいつも助けられる一方の俺。結局、俺の計画はその負い目を軽くしたいという自己満足でしかなかったのだろうか。けれどもマンションのドアが閉まる直前、キリンを抱いたまま俺を見つめる少女は、かすかに「ありがとう」とささやいたような気がした。
Ⅱ.退団宣言
SOS団脱退計画の第一段階をとりあえず無事終了させた俺は、その翌々日、ハルヒ以外のSOS団メンバー全員を駅前の喫茶店に呼び出した。自由参加の部活から俺が抜けることをハルヒに拒否できるはずはないが、外堀から埋めておくに越したことはない。いわゆる根回しというやつである。ハルヒは珍しく学校を休んでいたので本当は部室でやってもよかったのだが、授業を休んだハルヒが部活に来ないとも限らない。こうして喫茶店に座っていてもいきなり窓から装甲車で突っこんでこないか心配なぐらいだ。いつも市内探索の打ち合わせをしているテーブルには、急な召集にもかかわらず、ほどなく全員の顔がそろった。日頃団の活動に消極的な俺が召集をかけたことにメンバーは一様にとまどっている様子。特大のメニューを囲んで談笑しつつ、ちらちらと順番に俺をふりかえる顔がなんとなく可笑しい。全員の飲み物を注文し、ついでに欠食児童の疑いが濃い長門にチョコレートパフェをとってやると、俺はソーダのグラスをマイクがわりに挨拶をはじめた。
「えー、本日はお忙しいところをお集まりいただき、誠にありがとうございました。ただいまより『涼宮ハルヒ被害者友の会』第一回会合を行いたいと思います」 古泉と朝比奈さんが思わず顔を見合わせ、長門は俺を凝視する。「被害者……友の会? ひょっとして僕たちもその会員なんでしょうか」「そのとおり」「わたしも? わたしもですか?」「もちろんです、朝比奈さん。あなたは栄えある会員第一号、いや、この会自体があなたのために存在すると言ってもいい」「なるほど。それで? 本日の議題をお聞かせ願えますか?」 俺は胸を張ってこたえた。「ズバリ、SOS団をいかにしてつぶすか」「えーっ、つぶしちゃうんですかぁ? どうして、どうしてですか?」 古泉がくっくっといつもの含み笑いをはじめる。「いや失礼。驚きました。まさかあなたがクーデターとは。さすがの涼宮さんも、あなたが造反をおこすとは夢にも思っていなかったでしょう」 朝比奈さんはかわいらしい唇をすぼめながら途方にくれ、長門はパフェのアイスをすくったまま凍りついている。唯一俺の言葉を本気にしていない様子の古泉に向きなおると、俺は続けた。「なんとでも言え。俺は本気だ。SOS団は解散すべきだ。それもできるだけ早く。おまえはそう思わないのか、古泉。ハルヒの気まぐれで胡散臭い超能力者になるまでは、おまえも普通の中学生だった。そうだな? 頭もよければ運動神経もよく、おまけにツラまでいいという人類の敵みたいな奴がハーレムも作らず毎日シケた部室で俺とゲームに明け暮れているのはなぜだ? ハルヒとあいつの巨人のせいだろうが。あいつさえいなけりゃおまえは今ごろ光陽園学院あたりでかわいい女の子に囲まれながら楽しい高校生活を送っていただろう。これが被害者でなくてなんだ?」「朝比奈さん、あなたもそうです。ハルヒもうらやむ美貌と体型の持ち主であるあなたが大事な青春時代を禁則事項とやらのために自由に彼氏も作れない時代で島流しになってるのはなぜです。みんなハルヒとSOS団のせいじゃないですか」「長門。統合なんたら体に生み出されて3年というのが本当なら、おまえはまだよちよち歩きの保育園児だ。『お空はどうして青いの?』なんて微笑ましい質問でパパを喜ばせ、クマさんやゾウさんのぬいぐるみに囲まれて毎日全力で笑ったり泣いたりしているはずのおまえが、なぜママもパパも絵本もカーテンもない部屋でしこしこハルヒの監視役なんぞやってる。て言うか、まずそのアイスを食べろ! たれてるぞ!」「なるほど、お話はごもっともです。でも僕はこれでけっこう今の生活を楽しんでるんですが」「そう言うと思った。おまえならそう言うだろう。おまえも長門も朝比奈さんも、ハルヒの気まぐれから地球を守るという崇高な使命のため北校にいるんだからな。しかし宇宙人と未来人と超能力者が寄ってたかってハルヒのご機嫌とりに明け暮れても、それで平和が保たれるという保障はあるのか? 俺とハルヒがあの空間に閉じこめられた時だって、帰ってこられたのは奇跡みたいなもんだ。あの気まぐれ団長が正真正銘、混じりっけなしの普通人である俺の言うことをいつまでも素直に聞くとは思えんし、俺も王子様役を無理やりやらされるのはもうごめんだ。第一、こんな独裁制はハルヒのためにならない。あいつが将来銀行に押し入って朝比奈さんみたいな行員にナイフをつきつけ、『人質の命が惜しければ今すぐ宇宙人を出せ!』などと言いだしたらどうする?支店長さんは警察と病院のどちらに電話するべきか、さぞかし悩むことだろう。あいつだっていつかは退屈な世界と折り合いをつける方法を見つけなくちゃならないんだし、その可能性はゼロじゃない」「なるほど、わかってきました。つまりあれですね、この前のライブのことをおっしゃってるんですね」 ニヤけた顔して相変わらず鋭いやつだ。そういえばあの日、こいつは俺のとなりにいたっけか…。「そう、あれも解決法のひとつかもしれん。あとで聞いたらハルヒのやつ、演奏してる間はけっこう充実感みたいなのを感じてたらしい。観客席で火星人の団体が縦ノリしてたわけでもないのに、だぞ。軽音部の連中がお礼に来たときのハルヒの顔を見せてやりたかったよ。まるで銭形警部に感謝状もらったルパンみたいにうろたえてたぞ……」
そう、すべてはあの日からはじまったのだ。雨宿りの学生で一杯の体育館で、突然はじまったENOZの演奏。その思いがけないレベルの高さに浮かれて大騒ぎしている北高生たちの中で、俺はただ呆然とハルヒを見つめていた。マイクに噛みつきそうな顔で叫ぶように歌うハルヒ。驚くほど真剣な顔で歌い続けるハルヒを。そして周囲の歓声をどこか遠い場所のものに感じながら、思い出していたのだ。ハルヒはいつだって真剣だったことを。現実に譲歩して、その情熱の軌道をほんのちょっぴり修正する気にさえなれば、いつでもこの世界に歓声で迎えられる奴なのだということを。
「あいつの御機嫌をとるため、俺たちは今までがんばってきた。国連事務総長から御手製の肩たたきサービス券、CIAとFSBから盗聴器つきの花束をもらってもいいぐらいにな。しかしあいつのワガママを実現してやるのが本当にあいつのためになるのか? 俺たちは何か勘違いをしてたんじゃないか? 最近のあいつを見ていると、SOS団のあることがかえってあいつの『更正』を邪魔しているような気さえする。たとえば長門が……って、また長門に頼ることになるが……ハルヒと一緒に軽音に移ってくれれば、あいつもカタギの人間として人生を楽しめるようになるかもしれない。映画スターでもツギハギ天才外科医でも何でもいい。派手好きのあいつが気に入る商売が見つからないとも限らないだろう。高校を出ればどのみちSOS団はなくなるんだし、俺たち全員がやめると言えば、いくらハルヒでも解散するしかない。ちがうか?」「お話はよくわかりました。わかりましたがしかし、正直賛成はしかねますね。あなたが今言ったようなことは実際、『機関』も考えなかったわけではありません。でも残念ながらリスクが大きすぎる。それはあなたにもおわかりでしょう。涼宮さんが卒業した時点でサポートが不可能になるなら話は別ですが、僕たちのうちの『誰か』が彼女と同じ大学に進んだとしても不思議はないし、我々の力でそれを実現するのは十分可能です」 恐ろしいことをさらりと言うな! おまえは魔女か!「あなたと涼宮ハルヒの学力差を埋めることは不可能ではない。涼宮ハルヒがあなたに合わせるのはさらに容易」 だからそういう問題じゃないと言うのに! 婉曲的表現もかえって痛いぞ! 不可能を可能にするな!「だって、キョンくん、だめです、そんなの。涼宮さんと別れてさみしくないんですか?」 別れるも何も、教室のあいつは俺の背後霊なんですよ朝比奈さん! 悪霊にとり憑かれた人間が墓場のデートを控えようとしてるだけなんです! 俺は全身脱力した気分で椅子にくずれ落ちた。議論の行き詰まりを全員が感じ、喫茶店に気まずい沈黙が流れる。……いいんですよ、朝比奈さん。そんなにおろおろしなくても。すべては結局、ここにいない誰かのせいなんですから……「……ところで涼宮さんにはもうこの話を?」「いや……明日学校で言うつもりだが」「そうですか。それならすみませんが、少し待ってもらえませんか」「なんだ、懐柔工作か? 時間稼ぎか? 言っとくが俺はもう」「いえ、とんでもない。僕たちにあなたを引き留める権利はありませんよ。ただ涼宮さんは今、少々加減が悪いのです。かなりタチの悪い風邪にかかったらしく、体力が落ちている。できれば今はショックを与えたくないんです」 初めて聞く話に俺は少々戸惑った。あの原子力駆動娘が風邪なんかひくだろうか?策士の古泉が言うことはイマイチ信用できない。歯磨きのCMみたいな嘘くさい笑顔の裏でまた何か企んでるんじゃないだろうな……。けれどもちらりと目をやると、バナナ殲滅に移行した長門は無言で小さく頷いた。「わかった。ハルヒの病気が治るまでは言わない。それでいいか?」「けっこうです」 結団以来の平和な会合ではあったが、ハルヒの抜けた善男善女の集まりが地球征服の計画で盛り上がるはずもない。友の会の初会合は結局そのまま終わってしまい、俺はむくれた顔のまま喫茶店を後にした。もっとも、むくれた顔は半ばパフォーマンスで実際にはそれほど気落ちしていたわけではない。異能者三人組がSOS団をやめるはずがないことは初めからわかっていた。SOS団をつぶそうと言ったのはハッタリで、ハルヒの「社会復帰」について三人が少しでも考えてくれればそれでよかったのだ。けれどもハルヒが病気と聞かされたせいか、隠れて事を進めていることがなんとなく後ろめたい気もする。俺の退団についてハルヒがゴネるに違いないというのもある意味おごった考えなわけで、直接本人に言えば案外あっさり承認されたかもしれないのだ。もっとも、それはそれでちょっと……。自宅の前に立つ人影に俺が最後まで気づかなかったのは、そんな考え事に浸っていたせいかもしれない。「おひさしぶりね、キョンくん」「!」 にこやかな顔でそう言ったのは、俺の癒しの天使のパワーアップバージョン、朝比奈さん(大)だったのだ。
「ごめんなさいね、いきなりで。今、ちょっといい?」「いいですいいです、たくさんいいです。あなたに会えるなら風呂の最中だってエウレカですよ」「それはちょっと困るかな……ふふ。なんだか怖い顔してたけど、あの会合の帰り?」「そうです。その帰りです。でも知ってるんでしょう? と言うか覚えてますよね?ハルヒの病気のおかげで退団が伸びそうで、ちょっと焦ってるんです。もしかして今日はその件ですか? それとも…… 朝比奈さんに会えるのはうれしいけど、あなたが来てくれるのは何かある時ばかりだからなあ。もしハルヒ関係のことなら、悪いけど今は遠慮したいんですが……」「ふふふ、そうね。あの日のあなたもそんな感じだった。でも今日は涼宮さんと言うよりあなたのために来たの。ちょっと座らない?」 朝比奈さんにすすめられるまま、俺は公園のベンチに腰をおろした。これがもし普通のデートなら、カマドウマの集団がのし歩く公園でもハッピーなのだが……。「あの日わたし、おろおろしちゃって何も言えなかったでしょ? でも心の中ではずっと思ってたの。今日のキョンくんはキョンくんらしくない。なんだかとっても無理してるみたいって」「そりゃ無理もしますよ。ハルヒというブラックホールから脱出しようとしてるんですから」「ダメよ、ダメ。お姉さんに嘘ついても」 朝比奈さんはそう言ってまた天使のような笑みを浮かべた。この朝比奈さんに言われると身に覚えのないことでも全力でゴメンナサイしたくなる。たいして歳が離れてるわけでもないだろうに、この人といると妙に心がなごむから不思議だ。しかしこの朝比奈さんにもやっぱり誤解されているような気がする。いつもの俺と違うというのはわからないでもないが、つまりは窮鼠がネコを噛むかわりに示談をもちかけているだけなのだ。「そうね、私も嘘つきかも。あなたがもうすぐまた涼宮さんをめぐる事件にまきこまれるのは本当。でもそれを乗り越えるには、あなたが自分で見つけなきゃいけないことがあるの。涼宮さんと、そしてあなた自身を救うために」「なんだかいつも以上にややこしそうですね」「ごめんなさい。これ以上は言えないの。でもひとつだけヒントをあげるね。どうしてもわからなかったら、この言葉を思い出して。『風車の騎士』。それがあなた自身の言葉だったことを。たぶん今夜、事件がおきる。そして誰かがあなたを迎えに来る。そこから逃げないでほしいの。あなた自身のために」「………」 金色の小さき鳥というやつがまた一枚、はらりと朝比奈さんの髪に落ちた。さらさらと散っていく枯葉の軌跡は時間の流れだ。美しい人との逢瀬の時間という奴は、なぜこういつも短いのだろう。「……行ってしまうんでしょう?」「そうね」「他の時間の俺に謎をかけるために?」「ふふふ」「最後にひとつだけ聞いていいですか?」「私に答えられることなら」「3年後の高卒求人率ってどれぐらいですか?」 朝比奈さんはウインクしながら「メッ」という仕草をすると、その瞳の残像だけを残して消えていった。
Ⅲ.異変
今夜事件が起きる。そして迎えが来る。そう予告された夜に、俺は携帯を持たずに家を出た。昼間朝比奈さんと話した公園を通り過ぎ、近くの神社の石段をのぼる。一段一段、自分の決断を確かめるように階段を踏みしめながら。朝比奈さんの誠意は疑いようがないし、彼女の期待に応えたいのは山々だが、このままではまたなし崩し的にSOS団に連れ戻されてしまうのは目に見えている。いくら受身人生がモットーの俺でも今度ばかりはそう簡単に折れるわけにはいかないのだ。どこの誰かは知らないが、その迎えとやらが俺を見つけられないところにいれば、巻きこまれることもないだろう。ハルヒは今、病気だと言うし、朝比奈さんが俺と「ハルヒの」危機と言ったことが気にならないと言えば嘘になる。しかしハルヒには超能力者と未来人と宇宙人がついているのだ。めっきり普通人の俺に出番がまわってくるとは思えない。あいつらに任せておけば大丈夫。大丈夫なはずだ……。 夜を明かすつもりで持ってきた寝袋を敷いて地面に腰をおろすと、俺は暗い拝殿を眺めた。毎年初詣に来ているというのに、ここの神様はどうも俺に冷たいようだ。古泉が言うようにハルヒが荒ぶる神なら、先輩として一度シメてやってくれればいいのに。人気のない境内は静まりかえり、巨大な神木の葉が風にそよぐ音だけがかすかに聞こえてくる。夜の森に縁取られた夜空には満月が浮かび、かすかにたなびく雲のベールへ穏やかな光を投げかけている。静かだ…… その時、暗い林の奥から夜の静寂を破って奇妙な音が聞こえてきた。芝刈り機の親玉のようなその音は、闇の中をどんどん近づいてくる。ここはチェーンソーの殺人鬼のジョギングコースだったのか、なんて無理な想像をするまでもない。上って来たばかりの参道を見下ろすと、長い石段を巨大なオフロードバイクで駆け上がってくる馬鹿がいる。馬鹿は石段を一気に上りつめると神聖な境内に罰当たりなスキッドマークの弧を描いて停止した。振り向きながらヘルメットのバイザーをはねあげたのは……「古泉!」「探しましたよ。話は後です。乗ってください」「なんだなんだいきなり。いやだね、断る! 令状もってこい!」「残念ですが、時間がないんです。乗ってください、早く!」「今度は一体なんだ? 怪獣か? 隕石か? カマドウシか? どうせまたハルヒがらみだろう。生憎俺はテスト勉強で忙しいんだ。世界の危機なら間に合ってる。他をあたってくれ!」 俺はハルヒに選ばれた存在、なんて珍説に執着している古泉のことだ。どうせまた妙な事件に無理矢理巻きこんで俺の脱退宣言をうやむやにしようという胆だろう。考える暇を与えず一気にもっていくのは悪徳商法の基本だ。その手に乗るか、古泉イツキ! 俺の決意が固いと見てとったのか、古泉はヘルメットを投げ捨てるとエンジンを切り、バイクから降りた。突然生まれた静寂の中、妙に静かな声で言う。「涼宮さんが泣いています」「ハルヒが……なんだって?」「涼宮さんが泣いています。あなたのいない閉鎖空間で。世界の危機は僕たちがなんとかします。でも残念ながら、今、涼宮さんを救えるのはあなたしかいない。一緒に来てください。事情は走りながら説明します」 そのまま返事も聞かずにバイクを始動させる。「さあ!」「くそったれ!」 そう言いながら結局乗ってしまうのはなぜだろう。そうさ俺は訪問販売に弱いんだ。古泉の背中をそのままバックドロップにもっていきたい衝動をこらえながら服をつかむ。さすがにこいつに抱きつきたくはない。しかしヘルメットはいいのか? 特に俺の分がないのが気になるぞ? だいたいここからどうやって降りる? まさか……「しっかりつかまっててください、少々とばします」 安い映画のようなセリフを吐くと、古泉はいきなり石段につっこんだ。その後数十秒間に関してはなぜか記憶があいまいだが、走馬灯がどんなものか思い出せないまま、ひとつの言葉を反芻していたことだけは覚えている。
ハルヒが……泣いている?
「涼宮さんは今、長門さんが作った閉鎖空間の中にいます。前回涼宮さんが閉じこめられたものに似た空間に。そしてそこから出られないでいる」「ちょっと待て。なぜハルヒがそんなところにいる。て言うか、なぜ長門がそんなものを作ったんだ。まさかあいつ……」「そうではありません。僕たちが頼んで作ってもらったのです」 タクシーをつんのめらせながら大通りに飛び出したバイクは暴走族も道を開けそうな勢いで車の間を縫っていく。古泉が強引に車体を傾けるたびにステップから火花が散っていく。いや、火花はいいが、タイヤはもつのか? ズルッといかないか? 遠心力と重力のベクトル、考えてますか? おまえ確か原付免許しか持ってなかったんじゃ……。赤信号の交差点に向かってなぜ…なぜ加速する! と思った瞬間、停車していたポルシェをジャンプ台に古泉は滅茶苦茶なショートカットを決めた。着地の衝撃で古泉の背中に頭をしたたかにぶつける。古泉……その話とやらが終わるまで、俺を生かしておいてくれるんだろうな。「今日のあなたの退団宣言は『機関』上層部に衝撃を与えました。あなたがSOS団をやめれば涼宮さんはまた特大の閉鎖空間を作りかねない。僕たちにも対処できないほどのね。そこで機関は先手を打つことを考えたのです。前回涼宮さんが閉鎖空間をさほど恐れなかったのはあなたが一緒にいたからです。けれどももし、『あなたがいない閉鎖空間』もあるとしたら? そういう世界を一度体験すれば、無意識に閉鎖空間を作り出す彼女の力にもブレーキがかかるだろう……そう考えたのです」「なんだかえらく単純だな……って速い! 速いって!」「単純だからこそ効果的なんです。僕たちは閉鎖空間に入れるけれど、閉鎖空間を作る力はない。しかし長門さんにはそれができる。擬似的なものですけどね。キョンくんのため、と言ったらふたつ返事で引き受けてくれましたよ」「なんでそこで俺なんだ」「あなたの退団を拒めないとなれば、涼宮さんはまたあなたを『拉致』して閉鎖空間に閉じこもる可能性が高い。それも前回と違って二度と出られない世界に」「……」 交差点を曲がったところでサイレンを鳴らしたパトカーが追いすがってきた。ヘルメットのない頭にガンガン響く声で停車を命じながらぴったり後に張り付いている。「どうする、古泉! マキビシないぞ!」「心配ありません。我々の仲間です。彼らがいた方が走りやすくなりますから」 ただの戦隊マニアでないのは知ってたが、警察まで抱きこんでいたとは恐れ入る。おまえの機関とやらは本当に何でも屋だな。今度うちの風呂釜直してくれないか……「長門さんが作った空間の中で、涼宮さんを起こすところまでは順調でした。けれども涼宮さんが目覚めたとたん、問題が起きた。長門さんが固まってしまったのです」「固まった?」「ええ、まるで実行不可能なタスクを実行中のパソコンのようにね。本来ありえないことですが、涼宮さんは長門さんの空間の中からさらにそれを覆う閉鎖空間を作り出してしまったのです。その第二空間が今、長門さんの第一空間を押しつぶそうとしている。長門さんはそれを防ごうとして、オーバーロード状態になってしまったのです」「長門は? 長門は無事なのか?」「しばらくは携帯のメールを通じてかろうじて連絡がとれました。しかし今はそれも途絶えています。たぶん、僕たちに時間はあまり残されていない」「もし長門の空間が潰れたら、中にいるハルヒは……」「おそらく無事ではすまないでしょう」「………」「仮に長門さんが持ちこたえたとしても、事態はさして変わりません。長門さんは今、第二空間の圧力のせいで自分の空間の制御がうまくできない。薬はもちろん、水さえ飲めないところに涼宮さんはいるのです。空気があるのは確認済みですが、気温もおそらくかなり低い。しかも昼間話したように、ウィルスの影響で彼女はもともとかなり弱っていました。精神的にも体力的にも、かなり追いつめられているはずです」「……おまえらはそんな状態のハルヒを閉鎖空間モドキに閉じこめたのか」「そうです。涼宮さんに長門さんの空間がまがい物であることを感づかれたらこの計画は意味がなくなる。涼宮さんの意識が朦朧としている今は千載一遇のチャンスだったんです。それでも当初『機関』が予定していたのは15分ほどの隔離だったのですが……」「……くそったれ」「くそったれ、です」 スロットルを全開にしたバイクがまたウイリー気味に加速する。もしかすると古泉はこの計画に反対だったのかもしれない、と俺はふと思った。あまり認めたくはないが、この秘密主義のニヤケ男はハルヒのために俺が知らないところでとんでもない苦労をしているのかも、と思うことがある。だからといって、こいつの「機関」とやらを好きにはなれないが……。 サイレンを止めたパトカーが急にUターンしたと思うと、古泉はタイヤをきしませながらバイクを停めた。大きな窓にタイルの壁。それは今日俺が退団宣言をしたばかりの喫茶店だった。準備中の札がかかったドアを開けると、古泉はどんどん店の奥へ入っていく。ここまでくるとバカバカしくて、ここもおまえんとこの店子かと聞く気にもなれない。用途不明の機器とノートパソコンの一群が並ぶ厨房の横を通り過ぎ、のたうつケーブルにおおわれた廊下の奥の部屋に入ると、そこに見慣れた顔がいた。「長門……!」 バイプ椅子に腰掛けた長門は俺の声にも反応せず、置物になったかのように微動だにしない。色白のせいもあってふだんから人形みたいと言われることの多いやつだが、今は本当に人形になってしまっている。セリフの平均が2秒弱でも、表情の解読に訓練が必要でも、長門はけっして人形ではなかったことにようやく俺は気づいた。「今は接触が途絶えていますが、長門さんは死んだわけではありません」「ああ……わかってる」 凍りついた長門を見ていられず、俺は目をそらした。なぜだか長門は今の自分の姿を見られたくないのではという気がする。「それで、俺は何をすればいい?」 古泉は一瞬躊躇したのち、俺の目を見据えるようにして言った。「煉獄へのダイブ……第一空間に入ってもらいたいのです」
長門の第一空間を覆ったハルヒの第二空間は、いまやわずか数ミクロンの膜状にまで圧縮されながら巨大な圧力で第一空間を押しつぶし、侵食しようとしている。ハルヒの閉鎖空間に入れるはずの古泉たちも、なぜかこの薄い壁は越えることができない。しかしその第二空間も俺だけは中に通すだろう。長門はその動きにシンクロする形で侵食を防いだまま俺を中に入れることができる。ハルヒが自宅から移動を始めた直後に発生した第二空間の影響で長門はハルヒの現在位置を見失っているが、第一空間内でハルヒが行きそうな場所は限られている。ハルヒを見つけ出して必要な援助を与えれば、ハルヒは精神的に安定するだろう。それによって第二空間の圧力が弱まれば、長門が第一空間を解除する隙が生まれるはずだ…… それが古泉の計画のあらましだった。
「その第一空間とやらはそんなに大きいのか? 長門が一種の閉鎖空間を作れるのはわかるが、それってせいぜい教室サイズじゃないのか? 前に朝倉が作ったのもそうだったし、街全体を覆うようなものを作れるとは信じられんが……」「学校を包むぐらいのことはできるそうですが、それより大きい時は情報制御空間の情報密度を部分的に変えるようなことを言っていました。蜘蛛の巣のような細い空間のネットワークを作っておいて、対象が位置している部分だけそれを元の形に復元する、という感じですか。復元は半自動的に行われるものの、その位置情報が今の長門さんには伝わらない、ということのようです」「なんだかよくわからんが、全体を同時に復元できるわけじゃないんだな。そうすると遠くに見えるものも実際には壁の内側の絵みたいなもんなのか?」「だと思います。近づけば遠ざかる壁ですから、実感することはないでしょうが」「しかしなぜそんな大きな空間が必要なんだ? ハルヒの家の周囲だけで十分だろう」「涼宮さんが移動をはじめてしまったからです。教室サイズではすぐに違う空間であることがバレてしまいますからね。長門さんが第一空間を拡張する前に第二空間が発生していれば、実際そうなるところでした」「なるほど」「ここまできて言うのもなんですが、中に入るかどうかはあなた次第です。誰もあなたに強制はできない。今の第一空間はかなり危険な場所のはずだし、入口は一方通行です。第二空間はあなたが中に入ることは許しても出ることは許さないでしょう。第二空間の圧力が弱まった時なら、あるいは出られるかもしれませんが、それはやってみなければわかりません。一番いいのは第二空間を消滅させてから第一空間を解除することです。けれどもそれは前回以上に難しい。前回あなたが戻ってこれたのは、涼宮さんがこの世界へ戻ることに同意したからですが、今回は逆に第一空間に『とどまってもいい』と思わせねばならないのです。第一空間への恐怖をなくして第二空間を消滅させる。そんなことが本当に可能なのか、正直僕にもわかりません。けれどももし可能だとしたら、それができるのは……」「わかった。やるよ。もともと俺の退団騒ぎからはじまったことだ。長門をあのままにしておくわけにもいかないし、俺が責任をとるさ」「そう言ってもらえると助かります」 そう言った古泉の顔にはしかし、いつもの笑みはなかった。「いいですか、覚えておいてください。大事なのは涼宮さんを眠らせないことです。涼宮さんが眠ったら、すべておしまいになるかもしれない。ですから用意した薬も眠くなる成分の入っていないものだけです」「ちょっと待て。逆じゃないのか? ハルヒが眠れば第二空間の活動も弱まるはずだろう。て言うか、消えるんじゃないのか?」「確かにその可能性もないとは言い切れません。しかし第二空間は涼宮さんが無意識に作り出したもの。レム睡眠状態ではむしろ活性化する可能性が高いと『機関』では見ているんです。僕たちの『仕事』も夜が多いですからね。一応即効性の睡眠薬も用意してありますが、これは最後の手段と思ってください」 古泉がくれた「最後の手段」は体温計サイズのスティックだった。首筋にあててボタンを押すとガスの力で薬が血管に入り、数秒で意識がなくなるとか。こんな便利なものがあるなら早く教えてほしかった。これさえあればハルヒとのつきあいもずいぶん楽になるだろうに。最後の手段といわず、最初の手段として団の備品に箱ごと校費でそろえたいぐらいだ。 机の上に並べられたのはちょっとした登山並の装備。秘境探検をベースキャンプのサポートもなしにやろうというのだから当然だが、水だけでも8リットルもあるのですべてをリュックに詰めるとかなりの重さになる。用意された防寒用のジャケットをはおり、古泉の手を借りながらリュックを背負う。「前から聞きたかったんだがな、古泉」「なんでしょう」「ハルヒはおまえたちにとって、いわば超特大の核爆弾みたいなもんだろう。巨人退治がいくら楽しくても、いつ気まぐれに世界を終わらせちまうかわからない奴がいたんじゃたまらん」「たしかに」「いっそあいつがこの世からいなくなってくれれば、とは思わないのか? おれが救出に成功しちまったら、かえって困るだろうに」 さすがに怒るかと思ったが、古泉は笑って首をふっただけだった。「実は最近、立体四目並べという面白いゲームを入手しましてね」「?」「目下『機関』内では7連勝中です」「だから何だ」「お手合わせを楽しみにしてますよ」 今度は俺が笑う番だった。「首を洗って待ってろ」
Ⅳ.夜のキリン
ふたつの空間の壁を同時に抜けて内側に入るための固定ポイント。そのひとつは喫茶店裏口のドアに作られていた。古泉が開けたドアの外には、あたりまえの景色がひろがっている。しかしそろそろとつきだした両手は、すぐに見えない壁につきあたった。ハルヒの閉鎖空間で北校を囲んでいたものとはまったく違う、岩のように硬い壁。試しにノックしてみても、指が痛くなるだけでまったく音がしない。二つの空間が恐ろしい力で押し合いをしている場所というのは本当らしい。やれやれ、本当にここを抜けたりできるのか?そう思った瞬間、手のひらで無数の泡がはじけるような感触がして、両手が見えない壁の中に沈みはじめた。肌にカミソリを当てられたようなぞっとする感触とともに、両腕がゆっくりと壁を抜けていく。服やリュックもどうやら俺の一部と認識されているらしいことを見届けて古泉と目配せを交わすと、俺は一気に壁をつきぬけた。目をつぶって数歩進み、抜けたばかりのドアを振り返ってみたが、古泉の姿はない。いや、あるはずがなかった。「あちら側」から見た時と違って、そこにあるのは灰色の壁に描かれた単なる黒い長方形だったからだ。俺が出てきた建物は、全体がまるで巨大なペーパークラフトのような単純なハリボテになってしまっていた。「……アッチョンブリケ……」 長門のやつ、よほど苦労しているのだろう。道も建物も街灯も、周囲はすべて灰色の折り紙細工。幸い心配していた寒さは冷凍庫というほどではないし、身体に異常はないようだが、積み木細工の街を眺めていると、なんだか人形になったような気分だ。道路のマンホールも絵だし、建物の窓も絵。道路脇の並木にいたっては円筒ですらなく、十字型に組み合わされた面によってかろうじて立体になっている。切り紙細工のような平たいガードレールの断面をのぞいた俺は、それにまったく厚みがないことに気がついた。試しに胸ポケットのボールペンをあててみると、豆腐を切るほどの手ごたえもなく金属製のペン先が切断されて道に転がった。「まいったな……」 この分ではうまくハルヒを見つけられたとしても、全身傷だらけになっているかもしれない。腕組みして大げさに天を仰いだ俺は、間抜けなことに背中のリュックの重さを忘れていた。あっと思った時にはもうバランスをくずし、とっさにガードレールに手を……「ぉわっっ!!」 一瞬で血が沸騰し、頭の中が真っ白になる。しょっぱなから包帯人間かよ! けれどもおそるおそる目を開けてみると、俺の手にはまだ指がついていた。そっと指を曲げ伸ばしし、ドキドキしたままの心臓をおさえながらよく見ると、俺が手をついた部分だけガードレールが本来の厚みにもどっている。長門……? 長門か? たしか古泉の話では長門も俺の所在地は感知できるという話だった。どうやら必要に応じて少しだけこの手抜きの世界をリアルにしてくれているらしい。しかしハルヒの第二空間と押し合いながら同時にそれをやるのはキツイはず。あいつに余計な負担をかけるわけにはいかない。「すまん、長門」 古泉との打ち合わせに従って入口を逆行できないことを確かめると、俺は最初の目的地に向かって歩き出した。幸いハルヒの居場所の第一候補について、俺と古泉の意見は一致している。前回俺とハルヒが閉じこめられた場所、北高だ。ふだんなら自転車で数分の距離だが、今日はそれを徒歩で行かねばならない。このクソ重い装備を背負いながらではかなりこたえそうだ。まったく、ハルヒのデパートめぐりといい、最近はこんなのばっかだな……。ぶつぶつ言いながら歩きだすと、案の定、いくらも行かないうちにリュックのベルトが肩にくいこみだす。何度もリュックを背負いなおし、千鳥足の行軍を続けた末に、俺は意気地なく道にへたりこんだ。「ヘイ、タクシー!……なんて、あるわけねえか」 周囲は人どころか猫の子一匹いない無人の街。そんなものがあるはずがない。もし運良く自転車か何かが見つかったとしても、さっきのガードレールのことを思えば危なくてとても乗れた代物ではないだろう。古泉のやつ、なぜ北校付近の「壁」に直接ポイントを作らなかったのだろう。新兵訓練キャンプじゃあるまいし、この前「待った」を却下したこと、まさかまだ根にもってんじゃないだろうな。根性で運ぶのはいいが、あまり到着が遅くなっては意味がない。ハルヒに飲ませる薬や上着などの重要装備はともかく、水は半分ここに置いていった方がいいかもしれない。どうしても必要になった時は、また取りにくることもできるだろう……。俺は観念してリュックをおろし、荷物の整理にとりかかった。真冬の寒さと思ったが、歩いてきたせいか少し暖かく…… 暖かく?首筋にふきつける妙に生暖かい風に気づいた俺はあわてて振り返り、凍りついた。「ブルルルル……」 そこにいたのはキリン。全身をぼんやりと光らせながら、まぬけな顔で俺を見つめる、巨大なぬいぐるみのキリンだったのだ。実物大、と言うには小さいキリンの身長はおよそ3m。脚もせいぜい俺と同じぐらいの長さしかない。本物のキリンに比べれば、えらい短足だ。それでも長門に買ったものに比べればサイズも形も本物に近く、ちゃんと自分の足で立っている。と言うか、歩いている。「こいつに乗れ……てことか?」「ブルルルル!」 本物のキリンがそんな声で鳴くのか怪しいかぎりだが、そういえば長門を動物園に連れて行ったことはなかった。とぼけた顔は相変わらずだが、これなら噛みつかれる心配もなさそうだ。前足で地面をかきながら俺を見つめる様子は、俺が乗るのを待っているようにも見える。ためしに背中にさわってみると、いかにもぬいぐるみらしく、ふわふわと暖かい。長門から見るとこいつは小さな独立したプログラムみたいなものなのだろうが、俺が転ぶたびにあわてて対処するより、こいつに乗せてしまった方がかえって楽なのかもしれない。「よし。いっちょ遠乗りといくか」 俺はリュックを背負ったままキリンによじのぼり、手綱を握った。キリンは小さくいなないて機嫌よく歩き出す。短い足でパカポコと進む速度はせいぜい時速10Kmぐらいか。それでも歩くよりはずっと早いし、不思議なことに目的地もちゃんと理解しているようだ。胴が太いおかげで座り心地はいいし、なにより尻が温かい。これならなんとか北高まで荷物を運べそうだ。「天の助け、地獄にホットケーキだな。どうせなら『アグロ!』とか叫びつつひらりとまたがりたかったが……。そういやおまえ、何ていうんだ? おまえと相棒になるなら、名前ぐらいつけてやらないとな。キリン、キリンか……そうだな、『キー坊』でどうだ?」「ブルッ」 どうやら気に入らなかったらしい。「だめか? そうか…… じゃあ…… 『キンキン』?」 カッポ、カッポ、カッポ、カッポ 無視かよ、おい。「ようし、わかった! 俺も男だ! 愛馬に恥はかかせねえ! 闇より暗い夜を抜け、星の涙の海こえて、ハルヒたずねてどこまでも。 ゆくぞっ! リンリン!!」「ブルルルルッ!」 案外ノリやすいタイプなのかもしれない。おまえ、本当に長門が作ったのか?思わぬ移動手段を確保できたおかげでようやく人心地がついた俺はあらためて周囲を見回した。空がかすかに明るいせいか、真っ暗というわけでもないが、街灯にも建物にも明かりは灯っていない。延々と続く灰色の景色を見ていると、いい加減気が滅入ってくる。おまけに寒い。ハルヒは今、パジャマ姿のはずだし、こんなところにいては風邪を通り越して肺炎になってしまうかもしれない。ダウンジャケットの前を合わせながら、俺はキリンの首をたたいた。「頼むぞ、相棒」「ブルルル…」 不気味なゴーストタウンに響く妙にのどかな足音を聞きながら、手持ち無沙汰になった俺は現状の分析をはじめた。第一空間に入れたのはいいが、古泉の指令の実行は正直絶望的だ。この薄気味悪い世界にいるハルヒにファウスト博士よろしく「時間よ止まれ!」と言わせることなどできそうにない。ここにはハルヒの巨人もいないしハルヒの空間と違って夜が明けることもない。もしどうしても外に出られない時は古泉がくれた睡眠薬を使うしかないが、それで第二空間が消えるとも限らない。古泉の予想が正しければ第二空間は逆に勢力を増し、俺たちは押しつぶされることになるのだ。永遠の夜の世界に二人で取り残されるのと、眠ったまま死ぬのと、ハルヒはどちらを選ぶだろう? 「あたし寝るから、あんた空間支えてて」か? そういやうちのばあちゃんも「お昼寝からさめたら極楽だった」が理想の往生とか言ってたな……。俺は思わず苦笑いした。ハルヒの死は俺の死でもあるというのに、俺はやけに落ち着いてるな。しかしこのキリンの上では深刻になれったって無理な話だ。ニコニコ印の能天気な顔を見ていると、何もかもバカバカしくなってくる。お姫様を救いに行くのは白馬の王子と決まっているのに、これではまるで……「そうか…そういうことか」 とつぜん朝比奈さんの言葉の意味に気づいた俺はキリンの頭を見上げた。しかしそれが何だと言うのだろう。「風車の騎士」の正体はわかったが、それが今の俺たちに関係があるとも思えない。それともこの言葉にはもっと他の意味があるのだろうのか……「ブルルル」「?」 機嫌よく歩いていたキリンが突然立ち止まったのは北校の近くの商店街だった。ハリボテの作りが粗くてはっきりしないが、学校帰りに時々立ち寄るたこ焼き屋らしき店も見える。虐待した覚えはないが、さすがに重かったのだろうか。「どうした? 疲れたか? メシか? 登校中の買い食いは校則違反だぞ。生憎おまえに食わしてやれるものはあまりないんだが……」 相変わらず舞台セットのような周囲を見回しているうちに、俺は小さな自動販売機に気がついた。そういえば以前ここで長門にコーヒー牛乳をおごってやったことがある。自分が飲むついでに軽い気持ちで放り投げてやった紙パック。長門はなぜか飲もうともせず、長い間握りしめていたっけか……。キリンから降りて近づいてみると、ガラス窓の中に見本が並んでいるはずの販売機は、例によって窓もボタンもイラスト式のハリボテになっている。「すいませーん、つり銭出ないんですけどー」 なんとか気分をもりたてようと、ツッコミ役もいないところで虚しいボケをかます。と、一瞬販売機の窓に明かりがともり、ゴトンと音がした。見るとさっきまでなかったはずの取り出し口が開き、コーヒー牛乳のパックが転がっている。意外なことにとりだしたパックは本物そっくりで、振ってみるとちゃんと液体の音がする。持参した水に限りのある今は、たしかにパックひとつでもありがたいが……「長門よ、無理するな」 天を仰いでつぶやくと、パックをポケットにしまい、またキリンにまたがる。北校まではもうすぐだ。キリンは素直に歩き出し、校門に向かう最後の角を曲がった。
夜の学校は怖いところときまっているが、それは何かが出そうな雰囲気のせいだ。けれどもハリボテの学校の雰囲気はちょっと違う。うまく言えないが、いってみれば中身が空っぽの包帯男のような不気味さだ。扉を開けても開けても虚空が広がっているだけの予感。けれどもこの巨大なハリボテは空っぽではない。どこかに必ずハルヒがいるのだ。寒さに震えながら俺を待っているはずのハルヒが。校門をくぐったキリンは中庭まで進むと歩みを止めた。校舎はこれまで見た中では一番手のこんだ作りになっているが、窓は相変わらず描かれたもので、中の様子はわからない。もしかするとハルヒが点けているのではと期待していた明かりもなく、どこもかしこも真っ暗だ。校門を抜けたとたんにハルヒがとびついてくると思っていたわけではないが、北校に行けばすぐ会えると思っていたのは甘かったかもしれない。「ハルヒーッ!」 大声で呼ぶ声は鉛色の空へはじき返されているようで、耳をすましても返事はない。前回最初にハルヒと会った中庭にも、最後にハルヒと走った運動場にも、人影は見当たらない。俺はリュックからライトを取り出し、部室棟に入った。長門のサポートのせいか、電気の消えた校舎内でも俺の周囲だけほんのり明るいのが救いだ。けれども階段をかけあがった俺は、部室のドアを見てへたりこんだ。幾何の図形のように簡略化されたドアは、またしても壁に描かれた絵だったのだ。開くはずのないドアをたたき、ハルヒの名を呼んでみたが、中に人がいる気配はない。前回はここに入ることでハルヒも少し落ちつき、校舎を探検する勇気が出たのだが……。開かないドアを前にがっかりしたハルヒの姿が目に浮かぶ。ハルヒが作った閉鎖空間、ハルヒが作った巨人は、外見はどうあれハルヒの忠実なしもべだった。しかしこの世界はハルヒを愛していない。ハルヒを苦しめるために作られた世界なのだ。ハルヒがもしここに来たなら、そして誰かが探しに来ることを期待していたなら、貼り紙くらい残してもよさそうなもんだが……バカか俺は。ハルヒはベッドに寝ている状態でいきなりこの世界にほうりこまれたんだ。紙だのペンだのを持ってるはずがないじゃないか……。俺は急に焦りはじめた。 もしかするとあいつはもう北校に見切りをつけて移動してしまったのかもしれない。しかし北校じゃないとしたら、あいつはどこだ? 一応古泉は他にも候補地を教えてくれたが、ほとんどは俺が行ったことのないところだ。おまけに一番近いところでもここから1時間はかかる。それまでハルヒが耐えられるだろうか……。「ハルヒ……ハルヒ! 返事しろハルヒ!」 落ち着け。落ち着け。俺がパニクってどうする。まだ部室を見ただけじゃないか。教室も見てないし、教員室だってまだだ。もしかしたら、そう、体育館かも……。ドアに額を押しつけながら必死で頭を働かそうとしていた俺の目に、そのとき何かがとびこんできた。ぼやけた視界の中に浮かぶ微かなノイズ、廊下のキズ。廊下の……キズ?この手抜きワールドの廊下に? 暗い廊下にしゃがみこみ、震える手で触れてみると、キズはわずかに動いた。「キズ」じゃない。「黒いヘアピン」だ。 夢遊病者のようにゆっくり歩き出したはずが、気がつくと階段を踊り場まで一気に飛び降りていた。勢い余って壁に体当たりなんて小学校以来のバカをくりかえしながらダウンヒルのレコードを書きかえる。靴のまま教室棟にかけこみ、3段とばしで目指すのは最上階だ。ハリボテを作るのが精一杯の長門がたとえヘアピン一本でも余計なものを作るはずがない。ハルヒはここにいる! ここに! 廊下に並んだ教室のドアは、またしても壁に描かれた絵。けれども1年5組の壁には……四角い穴が! 高校入試の合格発表を見た時のように、思わず手前で立ち止まり、息を整える。暗い教室に並んだ机にライトの光が伸びていく。教室最後尾のハルヒの席には……いない。しかしそのすぐ前の俺の席から、小さな影がゆっくりと立ち上がった。
Ⅴ.風車の騎士
泣いてんのか? なんてセリフは本当に泣いているやつには言えないものだ。ハルヒは泣いていた。俺の胸にしがみつくように頭を押し当てたまま、声もあげずに。暗くてよく見えなかったが、俺にはなぜかそれがわかった。小さな肩が震えているのは熱のせいか寒さのせいか。パジャマ姿のせいもあって、なんだかいつもより幼く見える。てっきりパンチがとんでくるものと思っていたが、こんなに心細げなハルヒを見るのは初めてだ。来てよかった、としみじみ思う。「遅くなってすまん」 かすかなためらいを感じた時にはもう、ハルヒの背中へ手がのびていた。抱えてしまった後で今更のように生々しい肌の感触にどきりとする。んなこと言ったって、しょうがねえだろう。普段のこいつとの身体的接触は、回し蹴りやカツアゲネクタイ止まりなのだから。ハルヒはそれでも黙ったまま、嗚咽をこらえるように弱々しく俺の胸をたたくだけだ。そっと背中をたたき、頭をなでてなだめながら、しがみついて離れないハルヒに無理やり自分のダウンジャケットを着せる。ガードレール式でないことを確認して椅子に座らせた。「ケガしてないか? 寒くないか? 腹へってないか?」 3度首を横にふったハルヒは、「何か飲むか?」 と聞くとはじめてうなずいた。けれどもリュックをとりにいこうとすると、俺の腕をつかんだまま離そうとしない。すぐ戻るから、と言いかけてコーヒー牛乳のことを思い出した俺は、ハルヒに腕をとられながら苦労してパックにストローを差した。「ほら」 砂糖入りだから少しはカロリー補給にもなるだろう。ついでに薬も飲ませるか、と思ってポケットの錠剤をさぐっていると、ハルヒがパックを握ったまま固まっている。「どうした」「……飲めない」 まさか吸う力も残ってないとか言うんじゃないだろうな。青くなりながらハルヒの手元を見ると、コーヒーパックはいつの間にか白い積み木に変わっている。たのむぜ長門~。おまえは実にたよりになる奴だが、時々妙に融通がきかないのが困る。俺はハルヒの手から積み木を取りかえすと念力30秒でコーヒーに戻し、両手でパックを握ったままハルヒにストローをくわえさせた。「飲めるか?」「ん…」「うまいか?」「んー」 やれやれ。どうやら飲んだとたんに砂になったりはしなかったらしい。 よほどのどが渇いていたのだろう。ハルヒは俺の手ごとパックを握りしめるようにしてむさぼるようにコーヒーを飲んでいる。なんだか生まれたての子猫が必死で母猫の胸を吸っているようだ。授乳をする母親というのはこんな気分なのだろうか……。ズズッとコーヒーを飲み干すと、ハルヒはようやく落ち着いたのか、切れ切れに話しだした。「目がさめたら……変な世界で……誰もいなくて……」「うん」「学校に行けば、あんたがいるかも…… あんたに会えるかもと思って……」「ああ」「でも行き違いになるかもしれないし、怖くて… 急いで……」「そうか」「学校にきても、あんたいなくて、帰っちゃったのかもと思って…… 部室の前にピンを置いてきたけど……教室で待ってても、いつまで待っても……」「わかった。わかった。もういい。悪かったな。悪かった」「遅い……遅いわよバカ! あんたなんか銃殺よ、バカ!」 やれやれ、結局こうなるのか。先ほどよりやや勢いを増したハルヒの打撃に上体を揺らされながら、俺はもう一度ハルヒを抱きよせ(打撃を防ぐためである。念のため)、そのうちハルヒが裸足なのに気づいた。こいつは裸足のまま学校まで歩いてきたのか。あの暗い道を、たった一人で。突然頭に上ってきたもので額が熱くなる。(古泉に立体4目並べで負ける奴らが計画なんか立てんじゃねえよ!) ヂヂヂッと音がして突然教室の蛍光灯がついた。この世界で見るはじめての明かりだ。ハルヒの緊張がとけて第二空間の圧力が減ったせいか、俺たちの合流に気づいた長門がサポートの度合いを強めたからか。いずれにしろ良い兆候には違いない。しかし残念ながら第二空間が消滅するところまではいかなかったようだ。俺と合流できただけでハルヒがそこまで安心するはずもないが、安全確実にここから出られる道は絶たれたことになる。こうなったらダメもとで出発地点のドアまで行くしかない。第二空間の圧力が減って逆行が可能になっていることを願うだけだ。俺はハルヒに移動を告げた。「心配すんな。俺がついてる。大船タンカー、超ド級戦艦に乗ったつもりでいろ」「イカダじゃないの」 ハルヒ……おまえ回復早過ぎないか。俺の母性愛と正義の怒りをどうしてくれる。しかしそれがハルヒの精一杯の強がりであることはすぐにわかった。出発前に俺が小用をすませようとすると、ハルヒが腕を握ったまま行かせてくれないのだ。「それぐらい我慢しなさいよ。あたしだってしてるのに」「なんで? いけばいいじゃないか」「いってもムダよ。水出ないもの」「いいじゃないか。水ぐらい」「バカ!」「トイレ用の紙とか消毒式の濡れティッシュならリュックにあるぞ」「嫌なの!」 俺はキリンと並んで路傍の花に水をやることもできるが、ただでさえ病気のハルヒに我慢させるわけにはいかない。二人で男子トイレの手洗いを試してみると、奇跡的に水も復活している。それでもイヤって、いったい何が不満なんだ?「だって……どうすんのよ!」「何が」「どうすんのよ……」「だから何が!」「あんたがまたいなくなっちゃったら……どうすんのよ!」 泣きたいのか怒りたいのかわからない涙目で俺をにらみつけるハルヒ。どんな顔をすればいいかわからず(なに赤くなってんだ!)絶句する俺。正直ちょっとジンときた。ハルヒがそこまでヘコんでいたとは……。しかしそうも言っていられない。俺は心を鬼にして言った。「じゃあどうすんだ? やめるのか? この先かなり長いぞ? それとも一緒に入るか?」 俺の靴を履いたままハルヒは女子トイレの前で逡巡している。熱でふらついている奴をいじめたくはないが、ここはしょうがない。よもや一緒に入るとは言わないだろう、と思っていると、ハルヒは突然真っ赤な顔で俺の腕をつかんだままドアに手を……「バ、バ、バカ! なにやってんだ!」「中に入れやしないわよ! 隙間から手をつなぐだけ!」「嫌だって!」「あたしだって嫌よ!」「おまえが嫌なことさせるのが嫌なの!」 結局、俺は妥協案として女子トイレの前で即興の歌を大声で歌い続けることになった。 ♪おーれはいーる、こーこにいーる、しけいはこーわいよー……… やれやれ。
突入ポイントに戻るための移動手段はもちろん長門技研製キリン号一馬力だ。しかしキリンと顔を見合わせて絶句しているハルヒを見て俺は大事なことを思い出した。しまった。長門にこいつを買った時、ハルヒはそばにいたんだった。まさかとは思うが長門とこの空間の関係をハルヒに感づかれてはまずい。「紹介しよう! 俺の相棒、『リンリン』だ。荷物が重くて困ってる時、天に向かって神様、仏様、長門様~と唱えたらなぜかこいつが走って来てな。いや~、世の中には不思議なことがあるものだなあ。あはは、あはは、あははは」 苦しい言い訳を試みる俺の横で、ハルヒはなぜかツッコミを入れることもなくじっとキリンを見つめている。「これ……有希のじゃないわ。あたしのよ。有希のはもっと尻尾が短かったもの。あの日あたし、引き返して同じのを買ったの。あんたは知らないでしょうけど……」「知ってるさ。あんなばかでかい包み抱えて何が『フランスパン』だ。まったく、長門もおまえも妙な趣味してるよ」「ブルルル!」 ハルヒはそれでもキリンを見つめたまま、そっとその首をなでている。「キョン……有希がどうしてあのキリンを選んだかわかる?」「知らん。キリンマニアなんだろ」「バカ。あんたってホントバカね」「悪かったな。バカでなけりゃ誰がこんなとこまで来るか」 のんびり世間話なぞしてる場合ではない。出発地点まで戻るにしても、それまでにハルヒがダウンしてはすべてが終わりになりかねないのだ。トイレ騒ぎのおかげでハルヒにはまだろくに食事もとらせていない。俺は古泉リュックをあさると体温計をとりだした。「舌下型、だそうだ。わかるな? 食べるなよ」 その間に素足のハルヒに靴下をはかせる。動くのもおっくうなのか、キリンにもたれたハルヒは素直にされるがままになっている。最後に妹に靴をはかせてやったのはいつだったろう。コーヒー牛乳の時といい、今回のミッションはなんだか保父試験みたいだ。ピピッと鳴った体温計を見ると40度3分。38度で小学校を休ませてもらった時の喜びが忘れられない俺には想像もできない数字だ。すぐにでも出発したいが、さて、こいつをどこに乗せよう。普通なら後だろうが、座っているのもつらそうなハルヒに背中につかまれと言っても無理かもしれない。リンリンの背中に頬をうずめるようにもたれているハルヒを見て俺は一瞬迷った。ふだんのこいつならこの程度の高さ、俺を踏み台にしてでも一瞬で飛び乗るところだが……。バカバカしい、何意識してんだ、こんな時に。俺はハルヒにそっと忍び寄って背中から一気に抱えあげると、パンツを食べられたような顔で振り向いた目を見ないようにしてどさりとキリンの首元に乗せた。そのままハルヒの後によじのぼって荒っぽく肩をひきよせ、両腕と手綱で囲むようにして抱えこむ。「もう! こっちは病人なのよ。もっと、や……やさしくしてよね!」 なんだその微妙な反応は。こんな時に古いリクエストを持ち出すな。こっちまで赤くなる。もぞもぞするな! こっち見るな! 誰もとって食いやせん! いいからそこでおとなしく……おとなしくしてろ。こんな時ぐらい……そうさ、こんな時ぐらい。 フウ……。やれやれ。えーっと……なんだっけ? ほらみろ、忘れちまったじゃないか。そうだ、たしかこのへんにチューブ入りの栄養食が……。「ほら」「……いらない」「いいから食え。もたないぞ」 無理やりハルヒの手に握らせて、待ちかねている様子の愛馬の尻をたたく。「頼むぞ、相棒」「ブルルル!」 リンリンは増えた重量をものともせず、大きく首をふりながら歩き出した。 カッポ、カッポ、カッポ、カッポ…… 揺れるキリンの上でハルヒは黙ったまま素直に俺の胸に頭を預けている。短い髪の下に見え隠れするうなじと小さな肩。団長席の上であぐらをかいている時はやけに勇ましいハルヒの背中が、今日はなぜかひどく華奢なものに見える。いつもこんな風にしおらしくしていればこいつだって……。いやいや、油断は禁物。案外朦朧とした意識の中で、遅刻した騎兵隊の処刑方法を考えているのかもしれない。病気が治ってもしばらくこいつには近寄らない方がよさそうだ。 ゆっくりと脇を流れていく景色に目をやった俺は、周囲の様子が出発時よりいくぶんリアルになっているのに気づいた。ずっと消えたままだった街灯も、ゆっくり脈打つような光を放ちはじめている。ほとんど消え入りそうな点から明るい光球に、そしてまたゆっくりと淡い蛍に……。第二空間の圧力が弱まったせいだとすると、俺と会えたことでハルヒも少しは安心したのだろうか。ぼんやり手綱を握っていると、ずっと押し黙っていたハルヒが急に口をひらいた。「キョン……SOS団、やめるんでしょ?」 驚いた。いや本当に。なぜおまえが知ってる? そんなはずが……「誰に聞いた? 古泉か?」「ううん。聞こえたの。病院から有希の携帯にかけた時、古泉くんとみくるちゃんが話してるのが。でもあたし知ってた……あんたがSOS団に乗り気じゃないってこと」「楽しんでるさ、それなりにな」「ううん、それぐらいわかる。あたしだって。だから今日は……もしかしたらキョン、来てくれないかもって思ってた」「来るさ。来るに決まってるだろ」「どうして? SOS団、やめるんでしょ?」「関係ないだろ、そんなもん。それに……やめたよ。退団はやめた」「やめた?」「ああ」「どうして?」「どうしてって、そりゃ……思い出したからさ」「何を?」「お前が誰で、俺が誰か……かな」「なにそれ」「なんでもない」「言ってよ、ねえ」 これじゃまるで誘導尋問じゃないか。刑事さん、俺はやってないよ。「お願い」 ふだんの会話の9割が命令口調の奴に「おねがい」と言われた人間の気持ちをわかってもらえるだろうか。「言いなさいよ!」じゃないのだ。そりゃあねえだろう、ハルヒ……。けれどもこいつは俺の退団宣言を知っていたのだ。それでも待っていたのだ。あの暗い教室で、たった一人で、来ないかもしれない俺を。俺は深いため息をついた。「決まってるだろう、お前が誰かなんて。わざわざ2年の教室から上級生をさらってきてお姫様に仕立てて喜んでる奴だぞ? みんなが楽しく暮らしている平和な世界に怪物だの巨人だのが出てくるのを心待ちにしてる危険人物だよ。宇宙人だの未来人だの超能力者だのが本当にいると信じてる妄想狂のはた迷惑人間さ。そんな奴、世界中探しても一人しかいないだろうが。おまえは風車の騎士、ドン・キホーテさ」「ドン・キホーテ? じゃあ、あんたは? サンチョ・パンサ?」 勘弁してくれ。なんで俺があんな小太りのオッサンなんだ……
そう。それはたぶん、あの自己紹介に度肝を抜かれた日から、もうはじまっていたのだ。ロングヘアーの美少女が素朴な憧れの対象ではなくなるのと入れかわりに、いつの間にか俺の中に生まれていたもの。100Mを13秒で駆けぬけたハルヒが駆け寄る友人もなく腰をおろすのを見た時、非常階段の上でじっと空を見つめるハルヒを見つけた時に、ゆっくりとまわりはじめた気持ち。ばかでかいきらきらした瞳でにらみつける生意気な猫のような顔を眺めながら、心のどこかで俺は思ったのだ。こいつの笑った顔が見たい、と。お調子者の谷口さえ近づかない変人にこいつを変えてしまったもの、独りでいることを寂しいとも思わなくさせてしまったもの、泣き顔も笑顔も素直に他人に見せられなくしてしまったもの。それがこの退屈な世界やそこに埋もれていく自分への不安と不満だというなら……こいつの不思議探しの旅とやらを手伝ってやってもいい、と。それなのに俺は「受身でない自分」に恐れをなして、そいつをどこかにしまいこんできた。ハルヒに引きずられて「しかたなく」SOS団にいることに慣れてしまった。だからENOZの演奏を聴いてハルヒが現実世界でも十分やっていける奴であるのを思いだしたとたん、自分の平凡さに愛想がつきたのだ。ハルヒの小さな社会復帰を喜びながら、初めての気持ちをもてあましているあいつを抱きしめてやりたいような衝動を感じながら、いつかハルヒが俺を必要としなくなる日が来ることを思わずにいられなかった。だから一人になりたいと思った。SOS団の外でもハルヒにとって意味のある人間になりたいと思ったのだ。あいつと出会うまで、自分に何の不満もなかったこの俺が! けれどもSOS団を作ると決めた時のハルヒの顔、あの笑顔を見た時の気持ちは、そんなセコい引け目のために捨てていいものではなかった。ハルヒのそばにいてやることと、自分のちっぽけさにつぶされないための悪あがきは、なにも両立できないわけじゃない。ハルヒの御機嫌をうかがう異能者三人組ではなく、ハルヒのストレス解消を代行する巨人でもなく、ハルヒがもっと他の誰かを必要としていたなら、俺のちっぽけな思いなど、カマドウマに食わせてやればいい。未来の自分のために、今のあいつを独りにしてはいけなかったのだ。
「おまえ、前に俺と学校に閉じこめられた夜のこと覚えてるか?」「あたりまえでしょ」「じゃあ、そこからどうやって帰ったかは?」「……」「よし。じゃあ、今から言うことも忘れろよ。ソッコーで削除しろよ。いいな! 俺は……俺はおまえのロバさ。ロバのロシナンテだ。ワガママで、きまぐれで、無鉄砲な御主人様を乗せて、ため息をつきながら歩く痩せたロバさ。おまえは俺が嫌々SOS団をやってるって言ったけど、そうじゃない。そりゃそう思われてもしかたないが、そうじゃないんだ。高校に入って同じ教室の後の席にポニーテールのドン・キホーテが座っているのを見た時、俺は思ったのさ。こいつはどうやら本物のバカみたいだし、ほっといたら全力疾走で世界の果てまで行っちまうかもしれない。世界の果てをのぞこうとして、そこから落っこっちまうかもしれない。そんなら俺が……つきあってやるのもいいんじゃないかってな。俺がそばにいてやれば、こいつはアマゾンの奥地かどこかで野垂れ死にしないですむかもしれない。退屈な世界にも何かを見つけられるかもしれない。宇宙人でも未来人でも超能力者でもない自分を好きになれるかもしれない。不思議探しの旅の果てに、おまえが何かを見つけられるのか。そんなことは俺にはわからん。でもどんなバカでも……やっぱ一人で行くのは寂しいんじゃないかってな……」 カッポ、カッポとリンリンの足音が夜の道にこだまする。俺のたくましい腕の中で感動に打ち震えているはずのハルヒは、しばしの沈黙の後ポツリと言った。「馬。」「は?」「ロバじゃなくて馬。ロシナンテは馬よ。ロバに乗ってるのは従者のサンチョ・パンサのほう」「ほえっ? なんだそりゃ? うそだろう、ロバじゃないのか? だっておまえ……まいったな。詐欺だ! ロバだと信じてたのに!」 バツの悪さに赤面しながらも、俺は苦笑せずにはいられなかった。やれやれ、素面じゃ言えないような恥ずかしい話をしてやったというのに、こいつは何も感じていないらしい。ま、いかにもハルヒらしいと言えばハルヒらしいが……。「それにあんたはロバじゃなくてキリンでしょ。背の高い、……しい目をしたキリン。そうね、もしかしたら『麒麟』かも」「何の話だ。誰の目が細いって?」「あたし、なんだか眠くなってきた。ちょっと寝るわ」 ハルヒはまたもや会話の流れを無視してそう宣言すると、ドスのきいた声でつけ加えた。「寝てる間に触ったりしたら、死刑だからね」「へいへい」「起きた時……起きた時、勝手にいなくなってたりしたら……」 今度はちょっと涙声。「安心しろ。ちゃんと運んでやるさ。まともな世界までな」 俺はもう一度ハルヒの額に手をあてた。まるで抱きしめているように見えるのはいたしかたない。古泉には悪いが、ハルヒを寝かせるなという指示も守れそうにない。冬山の遭難者じゃあるまいし、熱にうなされている奴をひっぱたいて起こすわけにもいかないじゃないか。「そのかわり、運賃払えよ。言っとくが深夜割増料金だからな」「なにそれ。ケチ」 夜空はいつのまにか煌く星々に覆われている。まばゆい光を放つナトリウム灯の向こうに広がるのは幾千の窓の灯、ネオンの海。俺の胸をくすぐるように急にモゾモゾしはじめたハルヒは辛そうにあえぎながら片足をもちあげると、キリンに横座りになった。やれやれ、今度は何だ? 尻が痛くなったのか? お姫様ごっこか? 熱がある時ぐらい、ちょっとはおとなしく……「じゃあ……前払い」 思わず右ストレートに備えた俺の首に両手をのばすと、ハルヒはそのまま懸垂をはじめ、そして次の瞬間……俺は前回確認しそこねたこと、ハルヒもやはり、その瞬間には、人並みに頬を染めながら目をつぶるのだということを知った。
エピローグ
その後の顛末については特に話すこともないと思う。第二空間の圧力が消滅した瞬間に長門は第一空間を解除し、ついでに俺とハルヒをそれぞれの家まで「飛ばした」。つまり俺は自宅で、ハルヒは自分のベッドの上で「目を覚ました」わけだ。どうやってそんな芸当をやってのけたのかはわからないが、古泉によると長門と超能力者集団との「夢のコラボレーション」の結果だとか。直後に古泉からかかってきた電話でハルヒと長門の無事を知った俺は、フロイト先生に笑われる心配もなく安らかな眠りについた。なにしろその時はまだ知らなかったのだ。ほどなく完全復活したハルヒといれかわりに、それからまる三日間、新型インフルエンザとデスマッチをするはめになるとは。
ようやく風邪が直った日の放課後、久しぶりにSOS団の部室に顔を出すと、ハルヒをのぞく全員が俺を待ちかまえていた。大げさに両手を広げて俺を迎え入れた古泉は、「立体4目並べ」らしき箱を差し出しながらウインクし、いつものニヤケ顔でのたまった。「おっと、ぼくは何も聞きませんよ。どうやってあの空間から脱出したのかなんてことはね。今回の件からは僕も色々と学びましたし、あなたがまたSOS団をやめるなんて言いだしては困ります。それに『機関』にはもう個人的意見を提出済みですから。あなたが涼宮さんと同じウィルスに感染した理由についてはね」 何が「学んだ」だ、この野郎。いっそお前にもうつしてやろ……うぐぐ。今度の勝負は絶対昼メシかけてやるからな! 特大の向日葵のような笑みを浮かべた朝比奈さんは、ハルヒが先に復帰して感激が薄れたせいか、前もって結果を「知って」いたせいか、前回のように派手に抱きついてはくれなかった。理不尽な話だ。それだけが……ウッ……それだけが楽しみだったのに!もし朝比奈さん(大)からの情報漏洩のせいだとしたら、俺は断固!「当社比3割増」の胸による補償を要求したい。「キョンくん、ホントに、お疲れさまでした。面会謝絶って言うから、みんな心配してたんですよ。それからこれ、わたしからのプレゼント。キョンくんの全快祝いです」 そう言いながら天使が差し出したのは見慣れた黄色い物体だ。朝比奈さん、なぜあなたまで! それとも今年はキリン年なのか?「ごめんなさい、変なもので。ホントはこれ、涼宮さんの全快祝いだったんだけど、涼宮さん、もう持ってるって言うから。でも妹さんはきっと喜びますよ。だってこのキリン、キョンくんにそ」「ほんと、バッカみたい。みくるちゃんがくれるなら、買うんじゃなかったわよ」 いきなり現れて天使を羽交い絞めにしたのはもちろん我らが神、正確には厄病神だ。「キョンのやつ、有希には買ったのに、かわいい団員のため粉骨砕身したあたしにはねぎらいひとつないんだから。エコヒイキもいいとこよね」 まだ風邪が完全に抜けていないのか、腕組みした顔がかすかに上気している。「言っとくがあれはお前のキリンじゃない。俺のだ」「はあ? 何言ってんの、あたしが買ったんじゃない!」「そういうセリフは金を返してから言え。おまえが食費とタクシー代と言ってよこした団の財布、70円しか入ってなかったぞ。ヤケ食いした上にパフェまで頼んだのは誰だ?それが妙な『フランスパン』見逃してやった仏様に言うことか。さあ返せ!すぐ返せ!俺はキリンと寝るのが好きなんだ!」「べーっ!」 妙に嬉しそうな顔で敵が逃走したのを見届けると、俺はハルヒの閉鎖空間に絞め殺されかけたばかりの眼鏡少女に歩み寄った。「世話をかけたな、長門。おまえのキリンのおかげで助かったよ……と、あれはハルヒのか」「あれは私のキリン。私が情報制御空間内に構築した。尻尾と全長の比率も正確。彼女が言ったことは正しくない」 勘弁してくれ、長門よ。どうしておまえまでそんなことにこだわる? まったく、どいつもこいつもどうかしてるぞ!
その後、俺が正式に退団宣言を撤回したこともあって、SOS団にはまたいつもの支離滅裂で行き当たりばったりで意味不明な日常がもどってきた。唯一変わったことといえば、SOS団の女子メンバー+αが以来あの素っ頓狂な抱き枕と共に夜を過ごすようになったことぐらいか。俺は良識あふれる人間だから、もちろん藁人形も丑の刻参りも信じない。けれどもあれからどうも寝苦しい夜が続いているのは、朝比奈さんの胸にのぼせたからか、長門のふとももにはさまれたからか、妹のよだれのせいか。それともやはり、あの細い割に怪力の誰かに毎晩首を絞められてるせいか、と思うことがないでもない。
END
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