鶴の舞 第六幕
今俺は、鶴屋さんと夜の庭を散歩している。心地よい風と、春を感じさせる木の葉の茂みが心を透き通らせる。俺の手には、鶴屋さんの滑らかな手が握られている。鶴屋さんは俺の腕をぶんぶん振り回しては、夜の散歩を楽しんでいるようだ。痛い腕なんぞ、鶴屋さんのパワーが大きすぎてまるで塵のようだ。まったく気にしない。いや、いちいち気にする必要も無いと言ったほうが明確であろう。俺もこの雰囲気が気に入っているからだ。遡る事30分前。温泉からあがって一息ついた頃、鶴屋さんから「庭に・・・出ようかっ」夜の散歩に誘われた。当然断る理由もなく、(鶴屋家の庭というのもどうなのか気になるなという興味心もあるが)、そのお誘いを承諾した。まあ、鶴屋さんの願いを断れるやつなんて見たことないがな。こうして今俺たちは、夜の庭を散歩しているわけだ。手を繋いでいるのは何故かって?では逆に聞くが、もしお前が女性に手を差し伸べられたら(しかも極上スマイルで)、男はどうあるべきかね。もちろん俺は男のマニュアルに沿ったさ。第一、一応今はカップルなんだぜ?「うはー、お空がとてもきれいっさ~」俺の腕を振りまわすのを止めて、鶴屋さんが夜の空を見上げた。顔には、空に対する希望が詰まっていると言っても差し支えない。もし今の鶴屋さんを写真に撮ったら、軽く賞金五十万はくだらないね。もっとも、この一時を俺たち以外のやつと共有する気なんざ微塵もないが。幸せな時間を見知らぬ誰かに見られてたまるか。「お空って」俺は鶴屋さんに話しかけた。今、とても話したい気分なのだ。しかもとってもナイスなお話を。「何十億年前の星の光が今この俺たちに届いているんですよね。・・・それって神秘的だと思いません?」 しまった。なんか間違えたぞ俺。『ナイス』の言葉が頭をよぎる。 なんてくさいせりふ。いまごろのドラマでさえ言わないぞ。その頃の俺は、今日見たいドラマがそんな感じであることを完全に頭から消えていた。「・・・ぷっ」あ、今にも鶴屋さんが笑いそうだ。腰がお婆さんみたいになっている。「・・・ぷっ・・・いひひぃ・・」なんか健康に悪そうな我慢の仕方だな。いや、別に笑っていいんですよ。俺も笑ってこの汚点をぬぐいたいほどだ。とうとう我慢できなくなったのか、鶴屋さんは飛びっきりの笑顔で「ぷっ・・あっはっはっははははは~!キョン君全然柄にあわないせりふ~・・・」と大声で笑って、また笑い出した。無限ループじゃないかと思うくらいに笑い、「・・・どうして・・・こんなこといったにょろぉ?」と、さらに声が大きくなって笑い出した。さすがにここまで笑われると、こっちも笑いたくなってくる。新たなウイルス、にょろにょろ感染症。うむ、我ながらひどいネーミングセンスだ。だが、そのネーミングセンスにもかかわらず、ついに俺は笑いだしてしまった。夜に二人の笑い声がこだまする。今日はいい夢が見られそうだ。しばらくの間笑っていた後、俺たちは近くのベンチに座った。今だ手は握ったまま。さすがにここまでくると恥ずかしい。まあ別にかまいやしない。というか今幸せな気分になっているというのは、やはり俺は新たなウイルスに感染したからであろうか。こんなに幸せな気分なんて今まで味わったことがない。未知なる発見。今年のノーベル賞はイタダキだな。俺が新たなるウイルスの名前を決めている時に、「ちょっと私の話、聞いてくれてもいいかいっ?」鶴屋さん直々のお願いであるので、「俺でよければ、いつでも」俺は鶴屋さんの話に耳を傾けた。庭の木のざわめきが良く聞こえる。風が強くなった。 鶴屋さんは俺に顔を向けて言った。 「わたし・・・奇跡の子供なんだ」・・・っていきなりファンタジーっすか。やはり鶴屋さんは未知なる宇宙からの侵略者なのか。それならこのウイルスの謎も説明が聞く。ノーベルも真っ青だぜ。俺の顔を見た鶴屋さんは、顔一つ笑わず、「真剣に聞いてね・・・」とお願いをした。・・・どうやら、深刻なお話であるらしい。・・・ノーベル賞はお預けだな。そして話し出した。鶴屋さんの、過去の思い出を。まず、鶴屋さんは俺に質問をした。「私の家族って、なんかおかしいと思わない?」はて、何かおかしいことはあっただろうか。夫婦は二人そろっているし、鶴屋さんは大事な一人娘。仲の良さそうな雰囲気は食事中に漂わせていましたよ。「特に変わったことは無いと思いますが・・・」誰もが吸い寄せられるようなダイヤモンドダスト。その目には悲しみが混じっていた。ただ事ではない。鶴屋さんは悲しみを打ち明けるかのように、いや、実際に悲しんでいたのだろう。目の潤いが増してきた。「私の家には・・・跡継ぎがいないの・・・」・・・ああ、そうか・・・。この家には「男」がいないのか。大事な「一人娘」だからな。それであの時・・・『わたし・・・強い女だとおもう?』あの時の言葉がフラッシュバックする。「どうして男を生まなかったのかって、疑問に思うよね」いや鶴屋さん、なにもそこまで、と言おうとしてやめた。『俺でよければ、いつでも』男に二言なし。これも男のマニュアルだ。最後まで聞いてあげるのが俺の仕事だ。「私のお父さんの方に原因があってね・・・」鶴屋さんはその原因を話し始めた。 お父さんの精子の量が成人男性の平均をはるかに下回っていること。 この体で受精できる確立は、天文学的な数字になるという。鶴屋さんが生まれたのは、その本当に低い確率で受精、無事に出産できたという、まさに奇跡それ以外では考えられないことだということ。そして3年後に、お父さんの異常が発見されたということ。体外受精などさまざまな試みをしたが、結局、成功しなかったこと。時には怪しげな人物を招待したり、はるばる遠い、子供を授かることで有名な神社へ出向いたりしたこと。鶴屋さんのお父さんの仕事は何なのかわからないが、鶴屋さんのお父さんの社会的な信用が落ちていったのは容易に想像できる。一家の一大事とはいえ、地位の高い人間が何日か休むだけで、どれほどの仕事が遅くなり、大きな損害を与えるのかは想像に難くない。 「だからお父さん、ずっと落ち込んでいた・・・」 何百年も続いていた伝統を自らの代で潰すという失念は、相当なものだったのであろう。考えるだけで鬱になってしまう。「そのときの私は、だいぶ甘やかしてきたから、そろそろ次は躾という時期に入っていたの。今になっても思いだせる。『どうして私のわがままを聞いてくれないの。どうして私のことをそんなに叱るの』って」その感覚は、妹を持った俺もよく知っている。俺が叱ろうとするとすぐ泣くし、親のところに泣きついてくる。いっそ俺が弟だったらいいのに、と思ったね。俺が兄でほんとに良かった。「今になって思えば、みんなお父さんの事で焦っていたから、早く私を無理やり大人にさせようとしたのもしれない」鶴屋さんは視点を空に向ける。何十億年前の光が、夜の二人を照らす。 そして話は佳境に入っていく。 お父さんがいろいろな事を試しても結果が出なくて、もう2年の月日が過ぎようとしていた。鶴屋家は当時、大変重苦しい空気に包まれていたらしい。『もう駄目なんじゃないか』『鶴屋家もこれで終わりか』とささやかれるようになっていた。お父さんは部屋に閉じこもりがちになり、社会的地位は降下をたどる一方だった。そんなある日の夕食。「私はまだおてんば娘でまかり通っていれた。けれど、その日にとうとう限界になってしまったの。」視点を俺の目に置いた。黒い光がやけに心に突き刺さる。「嫌いだった食べ物を食べないでいると、『ほら、好き嫌いは駄目だ』って言われて、ついカッとなっちゃったの。『いやー!』と叫んで、皿を床に落としてしまった。」妹がよくやる自己主張だ。「すると隣にいた世話係が、私を一喝したの。私はもういやでいやで、大声で泣いてしまったの。『もうこんな生活いやだー』って。今思い出すと、なんてわがままなんだろうって恥ずかしくなっちゃう」ハルヒ級のわがままだな。大声で泣くだけならマシだが。ハルヒの場合は閉鎖空間&神人のセットでお楽しみいただけます。 「するとね、急にお父さんがフォークを落とす音が聞こえたの。 それと同時に、私と同じようにすすり泣く声が聞こえたの。・・・お父さんからだった」俺は愕然とした。一家の大黒柱が声を上げて泣く。しかも唯一の子供はわがままを言って泣いてしまう。最悪のムード。いかに当時の鶴屋家が苦しかったのかがわかる。「私もお父さんが泣く姿をみて、もっと悲しくなったの。もうみんな、あきらめムードだった。誰もが思っていたと思う。『ああ、これで本当に終わりか』って。なにせ鶴屋家の伝統が途切れるもの。だれだって失念すると思う」今日の夕食がまるで嘘みたいだ。10年前にはそんなに荒れていたのかと思うと、俺の体が今日食べた料理の栄養素を拒否しているような気がした。あんなにおいしかった味がもう思い出せない。 「お父さん、 『ごめんなぁ、こんな出来の悪いお父さんで。お前は何も悪くないんよぉ。全部お父さんの責任なんやあ』と泣きながら私に、いやみんなに謝っていた。わたし、もっと悲しくなって、出る限りの大声で泣いたの」『お父さんの責任』。幼い子供にとっては重すぎる言葉だ。頼れるお父さんが崩壊した姿を見た、鶴屋さんの悲しみは相当なものだったのであろう。「するとね、ずっとその光景を見ていたお母さんが、すっと立ったの。そしてお父さんの前に来た。『きっと慰めてあげるんだ』と私は思った。お母さん、いつもお父さんの言うことを何も言わず聞いていたからね。けど、すぐにその予想は外れた」 鶴屋さんは俺の目を見て離さない。まるで空間瞬間接着剤。他にも何かあるかもしれないが。 「バシッって叩く音が聞こえたの。お父さんが頬を押さえているのを見て、びっくりした。・・・お母さんだった。」鶴屋さんの瞳が漆黒に変わり、「お母さんが、お父さんを叩いたの」と俺に伝えた。鶴屋さんの大切にしていたであろう言葉を。女房が主人を殴る。たとえ現在は男女平等を唱えていたとしても驚くであろう。俺も驚いた。ただでさえ昔は(といっても10年前だが)亭主関白が主流であったのに、しかもこれは格式のある家系での話だ。最低でも離婚は免れられない。 「お父さん、呆然といていた。まさか殴られるとは思わなかったと思う。 あんなに優しいお母さんが『禁忌』を犯したことが、部屋にいた全員に衝撃を与えたの」食事の時、緊張で前に進めなかった俺に、鶴屋さんのお母さんが『ふふ・・・おもしろい人ね』と微笑んだ顔を思い出した。 「するとお母さん、お父さんに向かって、こう言ったの」 突然、鶴屋さんが俺の手を離し、ベンチから立った。目は夜空の向こうを見つめている。どこかで耳にした、あの感情的な歌詞を思い出す。そして鶴屋さんは、あの時の、凛とした顔つきに戻った。そして、声も。「それでは私たち夫婦の縁は、家柄だけで結ばれていたのかしら」鶴屋さんの声は、俺の聴覚どころか、心臓にまで振動していた。顔は、今だあの表情のままだ。そして鶴屋さんは発した。聞いたことのある、言葉を。「あなたがこのままだと、私たちは、路頭に迷うことになるのですよ」その時俺は、すべてを悟った。鶴屋さんは、ずっと『お母さんのような強い人』になりたかったのだ、と。「その言葉を聞いて、お父さん、ずっとお母さんを見つめていた」いつのまにか鶴屋さんが元の顔つきになって、いや、仮面をつけた。俺はもうわかっていた。今までのあの破天荒な性格は、嘘だったということを。鶴屋さんはベンチに座って、今度は俺の両手を握った。絶対に外れない、南京錠のように、深く。俺と鶴屋さんは見つめ合った。「お父さん、涙がもっと止まらなくなった。それでも、声が途切れ途切れになりながらも、『そうだよな・・・そうだよなぁ・・・』ってはっきり言っていた。そして、お父さんは、お母さんを抱きしめた。お母さんも、それに答えるかのように抱き合った」 きっと、お父さんの涙は、悲しみの涙ではなくなったのであろう。 流れるのは、希望をふんだんに含まれた、何よりも素敵な涙。「お父さん、涙でよく解らなかったけれど、確かに『有難う・・・ありがとうっ・・・!』。そう聞こえた。もう部屋には、絶望なんかなかった。あるのは、希望に向かって歩き出す、みんなの団結力。しばらくたってから、ようやく涙がおさまったお父さんは、泣き止んだ私に向かってこう言ったの。『鶴屋家の将来、お前に託すからな。俺も頑張るからな。後は頼んだぞ』って。私はその言葉の本当の意味はわからなかった。でも、私はなにか暖かいものを感じた。だから私はうなずいた。そしたらお母さん、『死ぬわけじゃないのに、そそっかしい旦那様ね』と笑っていた。」暖かい風が、身を熱くする。 「だから私、決めたんだっ。」鶴屋さんは、元気さ300パーセントの笑顔を見せた。「強い、女になるって」人生の中での大きな分岐点に差し掛かるときには、人は揺ぎ無い決心をする。俺も、鶴屋さんに対する気持ちの決心がついたことを感じた。
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