ユキのえほん 第2章
──第2章──「今年はクリスマスパーティやらないんだってな」 次の日、俺は後ろの席のハルヒに話しかけていた。最近はどんなにケンカをしても次の日になれば大抵は機嫌が直る。だから昨日の理不尽な攻撃だって、いちいち理由など聞かな
いのだ。ハルヒが思い出して痛い思いをするのはこっちだからな。「やりたい?」 なぜかハルヒの目が輝いていた。サンタの来訪を心待ちにしている子供のような顔をしている。「昨日、古泉から中止になったって聞いたぞ? そう決めたのはお前じゃないのか?」「みんなで集まってのクリパはやめようって言っただけよ。今年はみくるちゃんの受験もあるし、古泉くんだって忙しいみたいだからね。有希は別にやらなくてもいいって言ってた。みんなあんまり乗り気じゃないみたい」 古泉に用事? そんなの昨日は聞いていないぞ。ハルヒがおとなしくて寂しいとかなんとか言ってたのに実は自分で断ったんじゃねえか。「だからぁ……今年はあたし達だけでクリパやらない?」「はぁ? SOS団ではやらないんじゃないのか?」「だーかーらぁ! あたし達、あんたとあたしでクリパしないって言ってるの!」 怒りながら照れたような表情でハルヒは口を尖らせて、窓の外に視線を向けた。「ああ、それって俺と……」「どうせあんたなんかと一緒にクリスマスを過ごしたいなんて女子はいないでしょ。感謝しなさい。今年は一人寂しいクリスマスを送らなくてすむんだから。こんなチャンスは一生に何度もないんだからね。あんたに拒否権はないわ。いい? 24日は部室でパーティーだからね。ちゃんとそれなりの準備をしてくること。以上」 ハルヒは早口で一気にまくし立ててそっぽを向いた。 そもそもそれを言ったらお前も一人だろ。それに俺は妹のせいで毎年結構賑やかなんだがな。なんて水を差すようなことは言わずに、誘ってくれたことへの感謝の気持ちを表すことにした。 少し離れたところで谷口がニンマリと気味の悪い笑顔を作っていた。 後でぶっとばす。 そう決意しながら、いつまで経っても赤くなったままこっちを向かないハルヒの横顔を眺めていた。 放課後、今日は部活がないので俺はやることがない。 こういうときに何か時間を潰せるような趣味を作っておくべきだった。これからの俺の課題だ。 自宅に戻ると門の前で古泉が待ち伏せしていた。「やあ、こんにちは」「もうすぐこんばんは、だけどな」 制服に通学鞄という完璧な下校途中の格好だ。いつかのときを思い起こさせる。 あの時、古泉に連れられて初めて閉鎖空間というものを目の当たりにし、ハルヒという存在が世界の中心だと聞かされた時から、俺は自分のいる世界の法則がどんどん信用できなくなっていった。 俺の中での世界の法則はあのときから崩壊したままだ。「あなたに伝えておかなくてはならない事態が起きまして」「今度はなんだ。またハルヒが何か起こしたのか?」「逆です。ついに涼宮さんの能力がなくなった可能性があります」「なんだって? 昨日力が弱くなってるって聞いたばかりなのによ」「僕たち『機関』が数名のTFEIと接触を持っている事は以前お話しましたよね? その中の1人から有力な情報を得ました。どうやらつい先ほど、涼宮さんから断続的に噴出していたはずの情報フレアが、全く検出されなくなったということです」 どんな状況になっているのか想像でしかわからないが、イメージ的にはハルヒのオーラが出なくなったということだろうか。俺は一度もそんなものを見たことはないが。「ここ数週間前から観測される情報フレアの量が極端に少なくなっていたそうです。ちょうど今年の文化祭が終わった頃からでしょうか」 文化祭が終わった頃から……。SOS団が活動しなくなった頃からとも言える。「そうするとお前の超能力がなくなったってことか?」「いえ、そうではないですけどね。過去に涼宮さんの影響で生まれたと思われる物はこれからも現存していくようです。現に長門さんたちTFEIや、超能力者の僕たちがまだここにいるわけですから。ただ、新しくそういう存在を生み出さなくなった、もしくは見つけ出さなくなった可能性があると言ったほうがいいでしょうね」「つまり、これからはハルヒが無茶な願い事、例えばネコに言葉をしゃべれとか言っても、俺たちの前に、偉そうに日本語を話すネコが現れることがないっていうことだな?」「そうです、これからは涼宮さんの望んだことは叶わなくなる可能性があるということです。もしかしたら来年はあなたと同じクラスにならなくなるかもしれませんし、彼女自身、受験に落ちてしまう可能性もありますね」 ハルヒのわがままが世界に通用しなくなるってことか。それはハルヒが成長したという証なんだろうか。 そもそも、あいつの願ったことがなんでも叶ってしまうなんてことが、許されるべきではないと俺は思うがね。「ですが、いくつか不可解な点もあります。それは僕が肌で感じとれる涼宮さんの能力は、確かに弱まってはいるものの、決してそれがなくなってはいないように感じるからです。なぜと聞かれても答えられません。そう感じるからそうなのです。僕の感じる限りでは、情報を生み出す力は完全にはなくなっていないと思います」 つまりTFEI達の意見とお前達の意見が微妙に食い違ってるってことだな。「それと朝比奈さん達未来人がまだ帰らない点です。彼女達は未来の固定化を目指しているのですから、涼宮さんの能力が消滅すればその瞬間に未来が固定化され、この時代に用はなくなります。もちろんそれは彼女たちの理論が正しければの話ですが。まだ朝比奈さんがここにいるということは、まだこの時代でやらなければいけないことが残っているということで、涼宮さんの能力が完全には無くなっていないという意味になるのです」 古泉の顔が少し暗い。俺も自分の顔が見れないからわからないが似たようなものだろう。なんでこんなに寂しい気持ちになるんだ。ときどき自分がわからなくなる。「近いうちに僕らのお別れのときが来るかもしれませんね。そのときはお別れパーティーでも盛大に開きましょう」 古泉が手を広げてオーバーに悲しさを表現している。「おい、もしそうなったとしても、朝比奈さんや長門はまだしも、お前は別にいなくならなくてもいいんじゃないか?」「お忘れですか? 僕は元々転校生ですよ? 生まれも育ちもここではありません。今は『機関』が資金を提供してくれていますからこの街に住んでいますが、『機関』が解散したら僕も帰るべきところに帰らなくてはなりません。……これ以上は機密に関わりますから言えません。すいませんけど」 古泉が軽く頭を下げたタイミングに合わせてか、いつぞやの黒塗りタクシーが、手を挙げてもいないのにピタリと古泉の背後に止まった。「長い話につき合わせてすいませんでした。涼宮さんとの付き合いはこれまでどおり普通に接してください。あなたが涼宮さんと仲良くしていることは決してマイナスではありませんから。それでは、おやすみなさい」 古泉を乗せたそのタクシーが夕焼けの町へと飲み込まれていった。 その日の夜、俺は宿題も無いのに珍しく机に座って考え事をしていた。古泉の話を聞いていたらそろそろ自分も将来のことを本格的に考えないといけないような気がしてきたからだ。 『進路希望調査票』と書かれた一枚の紙切れ。さて、この紙切れに何を書こうか。 将来のことを考えろといったって、子供のときのようにパイロットになりたいだの、プロ野球選手になりたいだのと、自分の夢を書け、というものではないことは確かである。 現実に手が届く範囲で、さらにこれから自分がそのために努力をするという前提で考えなくてはならない。来年、受験を受けるのか受けないのかは少なくともこれで決まる。 ハルヒの能力がなくなって、俺の周りが以前知っていたような普通の日常に戻っていくとなると、いつまでも夢見心地ではいられない。もうファンタジーの世界の主役達ではない。 ハルヒの面倒を見てばかりもいられないのだ。俺には俺の将来がある。それもそんな先の未来ではない。 そして、まあ、俺なりにいろいろ考えた末に得た結論は進学である。 適当に大学と書いておけばもう4年間考える猶予期間が与えられる。そんな楽観的な視野しかもっていないわけではないが、とりあえず俺は『大学進学』と書いた。 たったの四文字。 しかし重い四文字だ。今から勉強して間に合うのだろうか。 朝比奈さんを見ているとそれほど大変じゃないような気がしてくるが、実際は彼女だって相当な勉強をしているはずだ。 あと、理系か文系かを選ばなくてはならないのだが、俺の能力的には文系だろう。しかし、ハルヒの希望進路はきっと理系だ。 もし理系にするのであれば、これから猛勉強しなくてはいけない。 ……別にハルヒに合わせる必要はないし、そうするつもりもないんだが、もしそうならば、である。 今年はクリスマスパーティーどころではないんじゃないか? それに親が塾に行け行けとそろそろ本格的にうるさくなってきた。今度の冬休みも冬期講習に行けとうるさかった。なんとか言い聞かせてごまかしたが、もうすぐ俺はごまかしの効かない三年生だ。さーて、どうするか……。 そんなとき、どんなときでも自分が遊ぶことしか考えていないであろう妹が、いつものようにノックもせずに俺の部屋に飛び込んできた。「キョンくーん、お客さんだよー」 俺に客? 誰だ? 時間はもう9時を過ぎている。「ユキー!」 ユキ? ……ああ、長門か。どうしたんだいったい、こんな時間に。「読めなくなった」 玄関の扉を開けると、開口一番、長門は意味不明なことをつぶやいた。「……読めなくなった?」「そう」 普段、感情を表に出すことを苦手とするこの宇宙人は、さも自分がおかしなことは言ってないと訴えるかのような表情で、まっすぐ大きな瞳をこちらに向けた。面白いジョークを言いたい様子ではなさそうだ。「どういう状況かよくわからんが……とりあえずあがれよ」 長門は無言のまま靴を脱いでしずしずと俺の後をついてきた。もちろん、いつものように制服姿だ。「お茶どーぞ! えへへー」 妹がお茶と煎餅菓子を持って俺の部屋にやってきた。いつもはこんなことやれと言っても絶対にしないはずなのに、一仕事終えたような顔をして、その代償としてここに居座ろうという態度である。「おい、大事な話があるんだからあっちいってなさい」「えーっ、わたしもここにいるのー!」「ダメだ、向こう行ってなさい」 妹を何とかなだめごましながら、俺たちは長門の前でしばらくいつもの兄妹ゲンカを披露することになった。「キョンくん有希と何しようとしてるのぉ~、くふふ」「いいからお前はもうそろそろ寝る時間だ。早くお風呂に入って来なさい」「いやぁ~、あたしもお話したいのぉ~」「お前が話すことなんてないだろ、こいつは俺と大事な話があるみたいなんだからあっち行ってなさい!」 こっちが下手に出ているのをいいことに、全くここから出て行こうとしない。普段ならゲンコの一つくらいかましているところだ。 その間、長門は出されたお茶にも一切も手をつけず、全くの無言を貫き通した。15分ほど妹とそのやりとりをしていたが、さすがに長門の無反応ぶりに飽きたのか、「ゲームしてくる」といってようやく俺の部屋から出て行った。 俺は部屋の鍵を念入りに閉めて、長い溜息を1つついた。「はぁー、すまんな長門。もういいぞ。用ってなんだ? お前がわざわざここに出向くってことは、何か大事な用なんだろうけど。夕方古泉が訪ねてきたことと関係あるのか?」 俺はすっかり冷たくなったお茶を一気に飲み干し、長門の前に胡坐をかいて座った。少し瞬きをしてから、長門が小さい声で淡々と話し始めた。「不特定な外的要因によって、情報コードが解読不能に陥った。わたしの情報解析システムが動作不良を起こしている。直接的情報伝達以外にも、言語読解機能にも同じく支障をきたしている模様。言語中枢機能に働きかけようとするとそれを拒絶する仕組み。伝達された情報が、文字として認識されると自分の中で変換を拒絶する機能が働き、自動的にその情報が削除される。言葉を捉えているのに、認識できない状態。単純に言うと、文字が読めない。書けない。日本語に限らず、全ての言語の文字が解読不能。数字、暗号、その他情報伝達に使用される物は全て使用不可能。それに伴い、我々が情報伝達に使用している情報コードの送信も出来なくなった。現在、わたしは情報統合思念体とは絶縁状態にある。だから現状では機能回復も不可能。バックアップデータにもこのバグが侵食しているので自己修復も不可能」 ようやく話し始めたと思ったら、また今度はえらく長くてわかりにくい話をする。長門の悪い癖だ。俺の知能レベルも考慮してしゃべりやがれ。 ようするに文字が読めなくなったと言いたいのか? ついでに宇宙的な交信もできなくなったようだ。この辺はどういう作りかよくわからん。「なんでまた」「理由はわからない。そうするように改変された」「改変?」 改変という言葉に、俺は思わず去年のあの長門を思い出した。片手をクルクル回していただけで世界をあんなふうに変えてしまったあの長門の後姿。 こいつの持っている能力はとんでもないものがある。あのときは世界をまるごと改変しちまったが、今後は長門だけの改変だとでも言うのだろうか。またなんかおかしな事になってるな。 そしてどうもハルヒに直接関係無いところで起きているような気がする。ハルヒがこんなことを望むはずが無いからな。だからといって長門がわざと自分をこんな風に改変するはずも無いだろう。 それよりわざわざ俺にそんなことを言いにきた理由がわからない。 長門がどうにもならないことなら、俺にもどうにもならないだろう。文字もコードも読めなくなったといっても、俺にどうしろというのだ。 そりゃ趣味の読書が出来なくなって辛いのはわかるが、べつに死ぬわけじゃないんだし、こんな夜遅くに突然押しかけてくる必要はないんじゃないのか。 それに俺に相談するくらいなら、同じ仲間の喜緑さんに相談したほうが話が伝わりやすいんじゃないのか? ヒューなんとかインターフェイス特有の病気かも知れないじゃないか。「まさかハルヒの仕業じゃないよな」「違う。誰でもない」「誰でもないってなんだよ。わからないとかじゃなくてか?」「そう、わたしが文字を認識できなくなったのは誰の仕業でもない。少なくとも現在わたし達が認識している存在ではない。別の存在。もちろんわたしや情報統合思念体の仕業でもない」 じゃあ、なんでそんなことが起きるんだよ。お前達は年をとると自然と文字が読めなくなるような仕様なのか? 原因はある程度自分でもわかっているようだが、そのことについては触れようとしていないな。話したくないのか? しばらく沈黙が続いて、俺は何をしたらいいのかわからず、少し困っていた。まさかわざわざ遅くにここまで来た相手に、何もせずにこのまま帰れとは言えないし、だからといって俺が長門に協力してやれそうなことはない。 しばらく空中の一点に滞在していた長門の視線がピクリと俺の背後へと動き、じっとそこにとどまった。振り返るとどうやら俺の部屋の本棚が気になったようである。 俺が訊くと、長門は何も言わずに立ち上がり、本棚へと歩み寄った。そしてじいっと真剣な眼差しでいくつかの本を抜き出しては表紙を見て戻し、また抜き出しては戻しを繰り返した。 そういえばタイトルも読めないはずなのに、どうやって本を選んでいるんだ? しばらくして、長門の手が止まり、ゆっくりこちらを振り返った。その腕には一冊の本が抱かれていた。「こんな本でいいのか?」 それは俺が小学6年生のときに親からもらった絵本、『星の王子さま』だった。「これがいい」 そういうと長門は俺に絵本を手渡したそうとした。「え? 読みたいんだろ? 違うのか?」 俺が受け取らずにいると、長門は何も言わずただじぃっと、絵本の表紙を眺めていた。「そうか、お前読めないんだったな」 つまりは俺に朗読しろということなんだろう。 そうするべき、と長門の目が無言で訴えかけてくる。 そういえばこいつの楽しみって言ったら読書くらいのものだから、それができなくなった心の痛みは人一倍大きいのだろう。 誰だって自分の一番の趣味を奪われたら精神的にへこむだろう。 仕方ない。朗読してやるか。まあ、俺に出来ることといったらこれくらいしかないからな。たまには長門のためになることをしてやってもバチは当たるまい。 俺が絵本を受け取り、ベッドに腰をかけて座ると、長門も同じように隣にトスンと腰をかけた。いつでもどうぞ読み始めて。ということなんだろうか。それにしても密着しすぎなんじゃないか? 長門のふとももの体温が俺のズボン越しに伝わってきた。 長門は俺の手元の絵本に視線をじっと傾けたまま止まっている。早く読みたくて仕方がないといった様子だ。 意識している方向が俺と俺と180度違う。 ふぅ、と一息ついてから俺はゆっくりと絵本を読み始めた。「星の王子さま……アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。『六つのとき、原始林のことを書いた「ほんとうにあった話」という本の中で、すばらしい絵を見たことがあります……」 俺が絵本を読み始めると、長門が顔をまたさらにすっと近づけてきて、ふわりと短い髪の毛が俺の顔に触れた。 ほのかに甘い花の香りがして、ああ、宇宙人でもシャンプーとかするんだな。シャンプーするってことは風呂にも入るのか。などと男として誰でも抱くであろう邪な感情に流されそうになりながら、俺は邪念を振り払いながら絵本を読むことに集中した。 しかし、この本は絵本というわりには結構長い内容なので、単に朗読といってもこれがまたなかなか疲れるのである。 しかもよく意味のわかりづらい、その上読みにくいなかなかシュールな内容の絵本だ。 正直、俺自身は子供の頃に読んで以来、読み返したいとは思わなかったし、それほど面白いとは思わなかった。 だが、これがまだ絵本でよかった。これが長門の好きそうな、難解な哲学書や大長編のSF小説だったら、クソ重い辞書を片手に、いつ終わるとも知れない作業に取り掛からなければならなくなるところだった。 まあ、俺の本棚にはそんな難解な哲学書や大長編のSF小説なんざ元々並んでいないのであって、そのような状況にはどうやっても陥らないのではあるが。 しかしその本棚の中でも、朗読するのが比較的楽そうなもので助かった。もしかしたらそんな俺の心境を考慮に入れてくれたのかもしれないが。………………「『そして、この星が、ちょうど、あなたがたの頭の上にくるときを、おまちください。そのとき、子どもが、あなたがたのそばにきて、笑って、金色の髪をしていて、なにをきいても、だまりこくっているようでしたら、あなたがたは、ああ、この人だな、と、たしかにお察しがつくでしょう。そうしたら、どうぞ、こんなかなしみにしずんでいるぼくをなぐさめてください。王子さまがもどってきた、と、一刻も早く手紙をかいてください……』……おしまい」 やはりわりと時間が掛かった。絵本とはいえ、結構読み応えのある作品だ。それと改めて読んでみてわかったのだが、子供のときよりはだいぶ内容が理解できるようになっていた。それでもかなりシュールな内容だとは思うが。 子供のときに読んだ本を大きくなってから読むと別の作品に感じるというが、まさに今の俺がその状態だった。 読み終わってしばらくしても長門はじっと絵本を凝視したまま、固まっていた。「おわったよ、長門」「そう」 俺の言ったことをようやく理解したのか、ずっと俺の隣に密着していた少女は、少し寂しそうに顔を上げて体を離した。「おもしろかったか?」 長門は俺の質問に小さく首肯した。そしてまた部屋の中に無言の空気が訪れた。 無言……無言……。 いかん、話すことがない。このままではまた別の本を読んでくれと言われかねない。なんとかして俺は話しかけるきっかけがほしくて、思いついたことを口にしていた。「そういえば文字が読めなくなったって言ってたけど、絵はわかるのか? 絵の意味とかはお前に伝わっているのか?」「わかる。おそらくそこまで原始的な情報伝達方法には規制をかけられなかった」「そうか」「そう」 ……。 …。 いかん……。また会話がなくなった。 俺はどうもこの無言の空気というものに耐性がない。長門は平気なんだろうが、俺はこういう空気が大の苦手だ。それと仮にも女の子と自分の部屋で二人きりの状況であるということも、俺の緊張を張り詰めさせる大きな要因になっている。「なあ、長門。お前にとって本を読むってのはどういうことなんだ? 情報なんとか体ってのはありとあらゆる情報の塊なんだろ? 人類が考え付くような物語なら、お前が本を読むまでもなくわかってることなんじゃないか?」 まるで長門の趣味が意味の無いことのように聞こえるかもしれないが、前から感じていた純粋な疑問だ。「わたしが意味もなく本を読むのはいけないこと?」「あ、いや、そういうわけじゃ……」 俺の質問を少しいじわるに感じたのか、珍しく突っかかってきた。「たしかに、わたしが読書という行為によってあらたに獲得した知識はほとんどない。情報の獲得のためなら文字情報を解さずとも、直接統合思念体から必要な情報を送信してもらえばいいだけのこと。データを直接受け取った方が余計な誤差が生まれずに済む。だが、あえて文字情報を介して間接的に情報を得るという行為を選ぶのは、文章読解という行為がとても原始的でありながら奥深く、単純な正解は存在しないから。なぜなら言葉は人類が生み出した一種の情報生命体であり、絶えず誕生、変化、消滅を繰り返し、正しい文章の構成には常に新しい言葉を吸収し続ける必要があるから。また、こちらから間接的に情報を伝えるという行為は、わたし達にとっては直接的伝達よりも難しい。文章の構成には無数の可能性があり、その中から一つを選択して文章を構成するとき、そこに生じる不思議な感覚がおそらく人類が感じるところの娯楽的快楽、知的好奇心の充足に近いものであるとわたしは判断している」「わかった、もうわかったから」 延々と説教をくらっているような気分だった。長門は怒っているのだろうか。それとも俺にもっと本を読めという意味なのだろうか。「人間の行為を模倣してみることに楽しさを感じるのはどの情報端末でも同じである」「別にお前の親玉からそういう風にしろという命令ではないんだな」「そう」 なんだかわかるようなわからないような、とにかくこいつにとっての読書ってのは簡単にいうとやっぱり趣味ってことなんだろうな。 長門がようやく重い腰をあげて帰ろうとしたとき、外は雪景色に変わっていた。「もう遅いし家まで送るよ」「いい。帰れる」「だって、お前傘持ってきてないだろ」「大丈夫」「いいからいいから」 言葉では強がりながらもそれほど嫌そうではない長門の仕草が少し可愛く思えた。 長門に傘を手渡した時、なんとなく長門の顔が期待していたものと違うと不満さを訴えているように見えた。まさか相合傘を期待してたわけじゃないよな? 傘も二本あるんだしそんな必要はないだろ。「ところで明日から自分の名前聞かれたときどうするんだよ。文字が読めないってことは書けないって事だろ?」 俺の声が雪の降りしきる街中に静かに響く。「そう」「じゃあ教えてやるよ」 そうして、俺は雪の降り積もった地面に足で字を書いた。「こっちが……『長門』で、こっちが……よいっしょ『有希』だ」 雪の上に書かれた有希という偶然出来たダジャレが、なんだか自分で書いてておかしくなった。少しニヤケ笑いした俺の顔を見て、長門が不思議そうに首をわずかに傾けた。「あ、でも……文字が認識できないんじゃこれも覚えられないか?」「できる。もう覚えた」 そういうと、長門はすばやく足を使って俺の字の隣に名前を書いた。 長門は一目でその字を覚えていた。覚えたは覚えたが……。ものすごい覚え方をした。 長門の書いた『長門有希』は、太くて角張ってややゆがんでいた。それは俺がさきほど書いたときと同じように、ハネ、ハライ、トメに至るまで、数秒前の俺の再現をしていた。つまり、完璧に俺の字を真似て書いてみせたのである。それもコピー機のように機械的に。全く同じ形をした文字が2つ、雪化粧の上に並んでいた。 知らない人が見たら魔法か超能力にしかみえない。「お前……」「文字は認識できない。だから写実的にそのまま写すしかない」「だったらもっと丁寧に書いてやればよかったな、ははは」 俺は足で雪の上の文字をかき消しながら少し笑った。 長門はやっぱり俺が何がおかしいのかわからなかったようで、やはりポカンとした顔で俺の顔をじっと眺めていた。 12月23日、クリスマスイブ前日の祝日。 世間が完全にクリスマス一色に染まり、クリスマスの空気に浮かれている中、俺もハルヒに無理矢理誘われたにしろ、初めての女の子と二人きりのクリスマスに、この上ない期待をしていた。少しくらいの興奮を覚えてもそれは健康的男子高校生なら正常なことだろう。 だからそれなりにきちんとした形で、クリスマスプレゼントの一つくらい買ってやらないとバチが当たるよな。 そんなわけで俺は、昨日降った雪が解けて路面がグチャグチャになっている中を、駅前のデパートに向けて自転車を走らせていた。 ハルヒはどんなものだったら喜ぶだろうか。アクセサリーみたいなものでもいいのだろうか。それともあいつのことだから変なもの、たとえばどっかの島の呪術師が持っている干し首飾りなんかの方が喜ぶのかもしれないが、俺はそんなもの買いたくない。 いろいろ考えた末に、アクセサリーとかはもらった側は重苦しいかもしれないし、花とかはさすがにキザ過ぎるし、という理由で財布にした。小物だったらもらって困るということも少ないだろう。 帰り際、長門のことを思い出し、本屋に寄って長門の分のクリスマスプレゼントも買ってやることにした。俺はいつからこんなに世話症になったんだか。 そしてその夜……。 やはりというべきか長門がまた俺の家に訪ねてきた。「今日もまた絵本を読んでもらいたいのか?」「……」 長門が無言でうなづく。「でも俺の家には絵本とか他にないぞ。だから……」 といいかけたところで長門が持っていた本を差し出してきた。……やたらと用意がいいな。今日の絵本は……ミッフィーちゃんかよ! なんでお前こんな絵本持ってるんだ!?「別に内容に重要な意味はない」 そういうと長門はそそくさと俺の部屋にあがっていった。 そしてさっそく長門が昨日と同じポジションに腰掛けて、隣の席をポンポンと叩いた。 俺は読むとは言っていないのだが……仕方ない。俺は長門の隣に腰掛けた。………………「明日も読んでくれると嬉しい」 帰り際、長門が俺の袖を引っ張りながら甘えてきた。そんな上目遣いをされたら俺の予定が狂ってしまいそうだ。 しかし、明日はそうも行かない。「すまない、長門。明日の夜はハルヒと約束していたんだ。それが終わってからでよかったら、本を読んでやるからさ」 長門は無表情の中に寂しさを居合わせたような表情をして、小さくうなづいた。「わたしの家で待ってる。出来るだけ早く帰ってきて」 そういうと長門は即座に振り返り、自分のマンションの方へと歩き出した。 そしてやってきた12月24日、俺を酷評することしか知らない通信簿が担任の手から手渡され、親にどうやって言い訳をしようかと考えながらも、明日から始まる冬休みと今夜のクリスマスのことを考えればそれも瑣末なことに思えてきた。「さ、部室に行くわよ!」 俺はハルヒの元気な声で重い空気を吹き飛ばされた。やっぱりコイツといると楽しい。どんなときも明るいし、常に前向きだからだ。そりゃときには我侭で自分勝手で人の意見なんてミジンコ並にしか思っていないところにどうしようもなく腹が立つこともある。 それでもハルヒはいつまでもそうであってほしいし、またそうでないとハルヒ自身がアイデンティティーを失ってしまうだろう。「うーん、この冷蔵庫やっぱり小さすぎて駄目ね。今度もっと大きいのを大森電気店からもらってこないといけないわ」 ハルヒは冷蔵庫の中の物を片っ端から片付けながら、冷蔵庫に向かって文句を垂れていた。その手には直径30センチ以上はある大きなケーキが抱えられている。「それ、まさか自分で作ったのか?」「そうよ、昨日からいろいろ準備したりして大変だったんだからね。まあ、こういうのが結構楽しいんだけどね」 他にも七面鳥やパーティーサイズのピザ、さらに去年と同じく、鍋まで作るつもりらしい。ネギや白菜などが大量に机の上に乗っかっていた。いったい何人分作る気なんだ? クリスマスで浮かれていたのは自分だけじゃなかったようだ。ハルヒはハルヒで俺との二人だけのクリスマスをこんなにも楽しみにしていたとは。なんだか照れくさくなってくる。 料理が全部できたことろでシャンメリーを空けて乾杯をした。 それからボードゲームをしたり、話をしたり、プレゼント交換をしたり、いわゆる一般的な恋人同士のクリスマスというものを楽しんだ。別に付き合ってるわけではないが。 俺はふと長門のことを思い出していた。今頃どうしているんだろうか。どうせ、一人で家でカレーでも食ってるんじゃないだろうか。それならここに呼べばいいのに。ハルヒはどうして長門を呼ぼうとしなかったんだろうか。「何よ、なんか考えてるような顔しちゃって」「え……い、いや、そんなことないぜ?」 俺は慌てて机の上で冷たくなったピザに手を伸ばした。「雪でも降らないかしらね……」 ハルヒが窓の外を眺めながらつぶやいた。前ならハルヒがそう願えば降ったかもしれないけどな。でも天気予報では今夜の天気は晴れ。降水確率0%。到底雪は降りそうにない。 それからグダグダと時間を潰しながら過ごしていたが、気づいたらもうすぐ11時を過ぎそうな時間になっていた。「なあ、ハルヒ。もうこんな時間だぞ。帰ろう」「え? あ、うん……やっぱり、帰るの?」 そりゃそうだ。帰らないならどうするんってんだ。まさかこんなとこに泊まるわけにはいかないだろ。 それに俺には長門との約束があった。長門をずっと待たせているのだ。そろそろ帰らないとあいつに悪い。「バカ、何もここに泊まるなんて言ってないじゃないバカ」 ハルヒは俺に何かを察しろと言わんばかりの顔で言葉を吐き捨てた。 じゃあ、帰らないでどうしろってんだよ。全く。 途中までハルヒを送った後、俺は向きを大きく変えて長門のマンションに向けて自転車を走らせた。 あいつは自分の家で待ってると言っていた。きっと長門のことだから何時になってもずっとそこで待っているんだろうな。だから急いで行ってやらないといけない。 俺の鞄の中には今日のために買った絵本があった。 長門はクリスマスプレゼントなんてもらったことはないだろうから、驚くかもしれない。長門の驚く顔なんて見たことはないが、この絵本を見たらお礼に驚いた表情を見せてもらいたいものだ。それくらいいいものだからな。 遠くに白いマンションが見えてきたところで、俺は自転車の速度を落とした。 近くの公園に自転車を止めようと、辺りを見渡していると、マンション前の電灯の下に二人の人物の影が映っていた。 片方の小さな影は長門だった。もう一人は遠くでよくわからない。どちらもうちの高校の生徒のようだが……。「すまん、長門。遅くなって。外で待ってることはなかったのに。あれ? あなたは……」 遠くから見えたもう1つの影は喜緑江美里さんであった。 喜緑さんはそれまで長門に向かって何かを話していた様子だったが、俺が来ると同時に会話を停止した。「えっと、こんばんは……」 しかし、俺が声をかけたことを喜緑さんは完全に無視した。聞こえなかったのかな? いや、そんなはずは無い。この人も長門と同じタイプの宇宙人なのだ。ただ派閥が違うだけで。 じゃあ、なぜ俺は無視されなければならないのだ。 少しむっとしていると、長門に向かって喜緑さんがまた話しかけた。「長門さん、どうして統合思念体の命令を無視したの? もう約束の時間は過ぎています」「……」 命令? 無視? 何のことだ。さっぱりわからん。長門にそんな命令が下っていたのか?「わたし達の役目は終わったんです」「終わった?」 俺は二人の会話に割り込むように声をかけた。 喜緑さんがようやくここで俺の声に反応し、ゆっくりとこちらを向いた。「かつて涼宮ハルヒから発生していた異常な情報噴出は、現在全く観測されていません。これに伴い、情報統合思念体が協議をした結果、涼宮ハルヒの観測を新たな段階へ移行させることに決定しました。一度今までの情報端末を全て回収し、これからの観測は新たな数名の情報端末で傍観的に行うことになりました」「移行? 何のことかよくわからないけど、長門もここには残れないってこと?」「ええ、そうです」 喜緑さんはまるで俺には関心がないがごとくそっけなく答えた。「ちょっと待ってくれ。なぜ長門を残さないんだ? ハルヒと直接接点を持ってるんだぞ?主流派の重要なキーパーソンじゃないのか? それにしてもなぜ今になって……」「以前、長門さんは大変な暴走を起こしました。その件についてはあなたもよくご存知のはずです。しかし今までは長門さんがいなくなることで誘発されるあなたや涼宮ハルヒの暴走を恐れて、処分が見送られていました。ですがその涼宮ハルヒから情報噴出が検出されなくなった今、安全面のことを十分考慮に入れた上でわたし達を処分することが決まりました」 わたし達、というからには喜緑さんも含まれるのだろう。 処分……おそらくここでは消滅させることを意味している。以前長門も話していた事が現実のことになろうとしているのか。「喜緑さんだって自分が無に消えるのは嫌じゃないのか?」「わたし達は対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。有機生命体に対して直接コンタクトを取れない情報統合思念体に代わり、情報を集めるために使わされた存在。あくまで情報統合思念体の指示に従わなくてはなりません。命令に嫌とか、困るとかはありません。ただ一つ、そうすべきであるというだけです。それにわたし達はもう昨日から強制回収プログラムが実行されています。そのような個人的な行動は一切とることはできません」 何を言ってるんだ……。長門からは一切そんな話は聞いてないぞ。いきなり今日になってそんなことを言われても困る。「長門がいなくなったらマズイだろ」「どうして? 統合思念体はわたし達以外にも数体の端末を置いて涼宮ハルヒを観測しています。長門さんが一人いなくなっても困らないわ」「違う。お前らのことじゃない。ハルヒのことだ。長門がいなくなったらハルヒが何をするかわからないぞ」「果たしてそうかしら? 以前は確かにそうなる可能性も0ではなかったでしょうけど、今の涼宮ハルヒにはあなたがいる。彼女は現在自分の願望を十分に叶えました。自分の現状にかなり満足してきています。それにSOS団だってもう彼女にとっては必要ないんじゃないかしら?」「ハルヒに言うぞ……」「何をです?」「俺はジョン・スミスだってな。そしたらハルヒは何を起こすかわからないだろ?」 俺は自分の怒りを隠せなかった。痛くなるほど握られた右手の拳が、はっきりと震えているのがわかる。 今にも飛び掛りそうな自分をなんとか抑えていた。喜緑さんが女性だからかろうじて殴りかからずにすんでいるだけに過ぎない。「むしろ、それが出来るのならそうしていただきたいですね。異常な情報爆発を観測する機会がなくなり、情報統合思念体は手をこまねいています。そして対象の新たな変化を望む声が増えています。急進派の勢力が増大しているのです。もちろん事を急ぎすぎて情報統合思念体が消されるようなことがあっては困りますが。それでも現状を無意味に維持するよりはいいとする意見が増えてきているのです。もしかしたら近日中にこちらから涼宮さんに働きかける者が現れるかもしれません。もちろんそれはわたし達ではない、新しいヒューマノイド・インターフェイスでしょうけれど」「ふざけんな! そんなバカな話があるか! 勝手に生み出しておいて、用が済んだら処分だと!? そんな無責任な親がいるか! 感情を抱えて誰より苦しんでいるのは長門自身だ。感情も肉体も死の概念も持たない生き物のなんかに、固有の肉体と感情を持つ長門の気持ちがわかってたまるか!」「ご心配要りません。わたし達がいなくなると同時に、あなた方の記憶からわたし達に関する記憶を消すプログラムも、この強制プログラムの中に含まれています。それからわたし達が存在していた形跡も、今全てを消去しているところです。……完了しました」 記憶を消すだって? 無茶苦茶なことをするな、情報統合思念体ってのは。そんなこと俺はちっとも望んでいない。 俺が喜緑さんに詰め寄っている間、長門はずっと後ろを向いたまま、ただそこに立ち尽くしていた。「長門……お前もなんか言ってくれ……。このままじゃお前は……」「いい」 長門はこちらに背を向けたまま、小さな声で返事をした。 街路灯に照らされたその影が、何かに怯えているかのように微かに震えていた。「ご心配なさらなくとも。すぐにわたし達のことは忘れてしまいますので、その辛い記憶もなくなります」「勝手に人の記憶を消すのはやめてくれ!」「情報連結解除開始──」 次の瞬間、喜緑さんがためらわずにその呪文を唱え始めた。何を言っているのかわからない。音として表現のしようがない。たしかにその音が耳鳴りのように大きな音で聞こえているのに、決して認識できない。 長門の感じていた、捉えているのに認識できない状態とはこのことだろう。本能的に俺は理解した。一個の有機生命体として、認識してはいけない単語。 禁じられた言葉だと──。 そして耳鳴りの止んだ途端、二人の体が輪郭の端から崩れていった。「ま、待て!」 とっさに俺が手を伸ばして長門の腕を掴もうとしたが、するりと砂のように溶けて崩れ落ちた。 長門の体がどんどん砂になって空中に分解されていく。粉雪のように軽くなった粒が、風もないのに何かに運ばれて空のかなたに飛んでいった。 俺はどうしようもなく、ただみつめていることしか出来なかった。なぜかもう何をしても無駄だと悟ってしまった。 最後に長門の頭が消えようとしたとき、長門はようやくこちらを振り返り、一言だけ振り絞るように小さくつぶやいた。「あの本を……」 そして長門は最後の一粒となってこの世から消え去った。 情報連結の解除。 つまりそれは、かつての朝倉と同じように、完全なる消滅。死ではない。死体すら残らない。この宇宙からの存在の消滅。 俺は無意識のうちにさっきまで長門のいた空間の上に手をかざしていた。手は自由にその空間を行き来したが、何にも当たらない。 本当に何も無い。 長門が塵となって消えてしまった。 どこか遠くに行ってしまったのではない。 死んだのでもない。 存在そのものが、この宇宙から完全に消え去ったのだった。 せっかく俺が長門のために買った絵本が、鞄から抜け落ちて寂しそうに地面に転がっていた。 足元に散らばっていたはずの長門だった結晶も、いつのまにか跡形もなく消え去っていた。 だが俺はすぐ思い出した。さっき長門の隣にいた誰かが言っていたことを。 長門が存在していた記憶も、存在していた形跡も、全て消え去ると。 じゃあ、なんだ? この俺の心の中にいる長門有希という人物はいったい誰なんだ? この俺の辛く悲しい気持ちはなんだ? 俺たちSOS団の無口キャラ、読書が趣味の無感情宇宙人の記憶は改竄されたものだっていうのか? 違う! これは確かに正しい記憶だ。 その言葉を発した人物のことは思い出せないのに、長門のことだけはしっかりと覚えているのはなぜだ? そう、長門は俺の記憶の中にまだ存在しているんだ。 何かの手違いか、それとも俺の記憶の執念か、長門は俺の記憶から消え去ることはなかった。 自分の両目から流れ落ちる冷たい雫が、長門の記憶を忘れるなと訴えかけていた。「絶対に……絶対にここに連れ戻すぞ、長門……」 上を見上げると暗い空に、無数の星たちが小さく輝きあっていた。全ての星が悲しそうに見えたのは決して気のせいなんかじゃないはずだ。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。