第三章 涼宮ハルヒの選択 2
第三章 涼宮ハルヒの選択 2 十二月十七日、朝比奈さんの家で紅茶を飲んだところからの続きを話そう。朝比奈さんは俺の肩に頭を乗せ、そして眠りに落ちていった。俺は嬉しいはずなのに、なぜだが漠然とした不安と行き場のない怒りをまぜたような感情に襲われ、柔らかな髪を広げる朝比奈さんを直視することはどうしてもできなかった。どうしてお前はそんなことをしているんだ? 頭の中で何度も俺が問いかけた。ハルヒ達の目をかいくぐってまでやりたかったのは、こんなことだったのだろうか? 朝比奈さんのかわいい寝顔を堪能して、マンションを出たのは十二時を過ぎていた。なかなか起きてくれない朝比奈さんを起こすのはとても苦労した。むやみに触るわけにはいかないし、といって大声を出すのもかわいそうだったからだ。駅前の喫茶店に戻ると、長門は文字通り棒立ち、ハルヒは俺たちを見つけた途端仁王立ちで待ち構えていた。 「あんたたちどこ行ってたのよ」 ハルヒは明らかに不満そうな声で言った。「ちょっと川のほうまでな」 ハルヒが言ってくることは分かっていたので、あらかじめ答えを用意しておいた。「そう」 ハルヒは「ふうっ」と息を吐くと、「中に入りましょ。あんたたちが待たせるから寒くてしょうがないわ」 朝比奈さんがホットティーを飲み、長門がアイスティーを一定の速度で飲んでいる時、午後のくじ引きは行われた。班分けは、俺とハルヒの班、長門と朝比奈さんの班になった。 「昼飯は各自でいいわね?」
ハルヒに連れられて――任意同行という名の強制連行だー―、俺は電車に乗っていた。「街中に出たほうが宇宙人がいるかもしれないじゃない」「確率的にはな」 空集合だということは言わなかった。「一人くらいいるはずだわ。地球人を視察してるかもしれない」「その観察してる宇宙人をどうやって見つけるんだ? 恐らく相手も馬鹿じゃない。人間の姿をしているはずだ」「わたしには分かるのよ」「何が分かるんだ?」 俺たちが座っている向かいの席には明らかに怪しい奴が座っていた。さっきから挙動不審だ。こいつが宇宙人の可能性だってある。「あんたに言ったって分からない」「言葉では伝えられない概念なのか?」「そう」 ハルヒは素っ気無く言った。「そうかい」 俺はハルヒと会話するのを諦めて、背もたれに体重を預けた。「ねえ、キョン」 ハルヒは会話を止めるつもりはないらしかった。「なんだ?」 俺は寄りかかったまま、横目でハルヒを見た。「あんたがみくるちゃんと一緒に楽しんでる間、あたしは有希と一緒に図書館に行ってたの」「図書館に行ってたのか」「そうよ。有希にどこか行きたいところはない、って訊いたら『図書館』って例の小さな声で言ったの。有希ね、図書館に入ったら楽しそうにするのよ? そりゃ表情一つ変えないけど、あたしには分かったわ。有希は図書館が大好きなんだって」 「長門がね」「でも、有希がいつもと違うことに気付いたの。いつもなら分厚いSFを読んでるでしょ? 図書館では違ったの。恋愛小説を熱心に読み始めたのよ? どういう心境の変化なのかしら」 「長門も恋愛小説が読みたいときがあるんだろ?」「あたしも最初はそう思ったわよ。でも、明らかにいつもとは違うの。ページをめくるスピードがいつもの三分の一もでてないし、なにか一生懸命考えてるみたいだった」 「で、お前は何が言いたいんだ?」「有希って好きな人でもできたのかな?」「できたらどうなんだ」「そりゃ、好きな人ができるくらいいいけどさ。なんとなくね」「それならいいだろ」「確かにそうね」「お前でも他人の色恋沙汰に興味があるんだな」「ち、違うわよ! ただね、有希に彼氏ができたら、SOS団はどうなっちゃうんだろうって思って。だってそうでしょ? 有希だって彼氏と一緒にいたいだろうし、SOS団に参加することもなくなるかもしれないじゃない」 「SOS団は永久に不滅じゃなかったのか?」「そうだけど。でも、いつかは解散しないといけない時がくるでしょう?」「いつか、な」「物事に永遠はないの。いつかは変わっていくものよ」「万物は流転する」 俺は少しだけ偉そうに言ってみた。「キョンがその言葉を知ってるとは驚きだわ。ヘラクレイトスね」「俺でもそれぐらいは知ってるよ」「SOS団もいつか解散することになるわね」「ハルヒらしくないな。今を精一杯楽しむんじゃなかったのか?」「キョンは全然分かってない。もういい!」 ハルヒは腕を組んで、そっぽを向いた。その後、深い溜息をついて、向かいの窓から見えるビルに目をやった。俺はそれ以上関わると殴られそうだったので、しだいに高層化していく建物を見つめていた。 改札口を抜けると、クリスマス前だというのに人でごった返していた。「どこに行くんだ?」 俺は三歩前を歩くハルヒに訊いた。「どこでもいいでしょ!」 ハルヒは振り返ると、声を怒らせて言った。「宇宙人を探すなら、駅前のほうがいいんじゃないのか? そこにベンチがあるし、座って考えようぜ」「あんたが座ってなさいよ」「座っててもいいが、どこに行くつもりだ?」「どこでもいいでしょ!」 ハルヒはそのまま、ずんずんと歩き、俺と離れていった。俺はこのままハルヒが落ち着くまで一人にさせたほうがいいと思い、立ち止まって、近くのベンチに座った。ハルヒはこちらを一度だけ振り返り、俺を一瞥すると、走り出し、人込みの中に消えていった。 ハルヒと別れてからしばらくすると、改札口のほうから見慣れた人がこちらに近づいてきた。長い髪をはためかせて、満面の笑みで手を振りながら、走ってきた。「キョン君!」 見間違えることはない、鶴屋さんだった。「どうしたんですか?」「ちょっとCDを買いに来ただけさ。キョン君こそどうしたんだい?」 鶴屋さんは俺の隣に座ると、特徴的な犬歯をニイッと見せながら言った。「ハルヒに連れられて市内探索ですよ」「ハルにゃんはいないようだけど?」「買い物でも行ったんじゃないんですかね?」「ふーん」 鶴屋さんは俺を覗き見るように目を細めて呟くと、「キョン君、ハルにゃん怒らせたね?」 鶴屋さんには全てが見えるらしい。「確かに怒ってましたね」「どうして怒ったのさ?」「説明した方がいいですかね?」「もちろん。でも、キョン君がしたくないならいいさ」「いえ、しますよ。鶴屋さんには全てお見通しみたいですし。――ちょっと前に電車に乗ってたんですよ。そしたら、SOS団が解散したらどうするかって話になったんです」 「それで?」「終わりです」「ふーん。それでハルにゃんはどうして怒ったの?」「分かりません」 俺は正直に答えた。「団員に好きな人ができて、部活ができなくなったらとかそういうことじゃないのかぁ」「あ、それもありましたね。長門に好きな人ができたんじゃないかって」「やっぱりねぇー」 鶴屋さんはえらく納得した様子だった。「何か分かったんですか?」「あたしに考えがあるよ。ハルにゃんが来るまで待つさ!」「あ、はい」 俺は頷くと、駅前の時計を見た。時間よりも昼飯を食べていないことが重要なことに気付いて、俺は肩を落とした。「キョン君、作戦のことなんだけど」「どういう作戦なんですか?」「簡単だよ。キョン君はハルにゃんが言うことに絶対頷いちゃだめってだけさ」「分かりました。それだけでいいんですね?」「そうさ」 鶴屋さんは長い髪をふわっとかきあげた。 三十分ほどして、ハルヒは戻ってきた。ハルヒは鶴屋さんがいることに気付き、一瞬立ち止まったが、すぐに軽快な足取りで近づいてきた。俺と鶴屋さんは立ち上がって、ハルヒが来るのを待っていた。 「こんにちは」 ハルヒは鶴屋さんに向かって言った。「こんにちわ。――それより、キョン君を置いてどこにいったのさ」 鶴屋さんの口調はいつになく真剣だった。「そこら辺ぶらぶらしてただけよ」「それがキョン君を困らせてすることかい?」「キョンは困ってないわ。そうでしょ、キョン?」 ハルヒは俺に同意を得ようとしたが、鶴屋さんが俺をちらりと見て、頷いてはいけないという合図を送った。「キョン君は困ってたさ。ハルにゃんが自分の気持ちを隠すために怒ってばっかりだからね」「そ、そんなことないわ」「だからキョン君はハルにゃんに愛想尽かして、あたしと付き合うことになったさ」 そう言うと、鶴屋さんは俺の腕を取り、抱きついてきた。鶴屋さんの意図は分からなかったが、そのまま作戦に乗ることにした。「ちょ、ちょっと何やってんのよキョン! あんたSOS団をやめるつもり?」 俺は何も答えなかった。「キョン君、わがままな子は嫌いなんだって」「鶴屋さん、あたしをはめようとしてるでしょ?」 ハルヒはすぐに気付いたらしかった。こんなお子様手段では勘の鋭いハルヒでなくてもばれて当然だった。俺は白旗を揚げようとしていたが、鶴屋さんはその気はないらしく、ずっと俺にくっついたままだった。 「そんなことないさ。――ほら」 鶴屋さんは抱きついたまま、俺の頬にキスをした。その後、もう一回確認するようにキスをした。俺は突然のことにうろたえていたが、目の前で肩を震わせているハルヒに気付いて、そんなことはどうでもよくなっていた。 「……キョン」「キョン君もハルにゃんとSOS団にいるより、あたしと一緒にいるほうが楽しいんだって」 鶴屋さんは追い討ちをかけるように笑顔で言った。ハルヒは鶴屋さんの目を見ようとはしなかった。「キョンなんか死んじゃえ!」 ハルヒはそう叫ぶと、俺に回し蹴りを食らわそうとした。しかし、ハルヒの足は俺に当たる直前で鶴屋さんに巧妙に捌かれてしまった。そのまま鶴屋さんはハルヒの足を捌き、ハルヒをうつ伏せの状態で地面に組み伏せた。本当に一瞬の出来事だった。 「ハルにゃん、オイタはだめにょろよ。キョン君はあたしの彼氏なんだから」 鶴屋さんはハルヒから離れると言った。ハルヒはうつ伏せのまま起き上がろうとはしなかった。ハルヒも何が起こったか分からなかったのだろう。「ハルヒ、大丈夫か?」 呆然としていた俺はハルヒに焦点が合うと、うつ伏せに叩きつけられたハルヒに話しかけた。「大丈夫さ。怪我しないように落としたからね」 鶴屋さんは俺に抱きついて、言った。「……キョン」 ハルヒは起き上がりながら言った。鶴屋さんの言う通り、ハルヒに怪我はなさそうだった。「ハルにゃんもキョン君のことは諦めるさ」「……ねえ、キョン?」 ハルヒは立ち上がると、俺を見つめた。その瞳からは、小さく涙が流れていた。俺はそれを見た途端、鼓動が早くなるのを感じた。同時に、漠然とした怒りがこみ上げて来て、こぶしを力いっぱい握った。俺は暴力の瀬戸際に立っていた。 「……キョンは、それでいいの?」「キョン君はそれでいいに決まってるさ」 鶴屋さんは得意そうな顔で言った。「鶴屋さん、もう止めましょう」 俺はできるだけ押し殺した声で言った。この茶番劇をすぐにでも終わらせたかった。俺は、何をやっていたんだろうか?「キョン君が言うなら仕方ないなぁ」 鶴屋さんは笑顔を見せた。でも、これは嘘だったで済まされるものなのかは俺には分からなかった。「何でこんなことをするの?」 ハルヒは俺をぼんやりとした表情で見つめた。「ハルにゃんが悪いのさ」 鶴屋さんが割り込んできた。「どうして?」「ハルにゃんに一つだけ忠告しておくさ。キョン君はいつまでもハルにゃんだけのものじゃない。早くしないと――ううん、これは言っちゃだめだねぇ。後悔しても知らないよ?」 「そんなの分かってる!」 ハルヒと鶴屋さんは当人同士しか分からない会話をした。ハルヒは何が分かったのだろうか?「ハルにゃんは分かってないのさ。ハルにゃんはキョン君がいつまでも一緒にいてくれると思ってる。もう、終わりにしないかい?」「つ、鶴屋さん! もういいですって! 俺が悪いんですよ、高校入ってからずっと一緒にいるのに気持ちの一つも分かってやれないから」 俺は必死に割り込んだ。このままだと、ハルヒと鶴屋さんの仲が悪くなって、元に戻らないと思ったからだ。「キョン君は優しいねぇー」 鶴屋さんはにやりと笑みを浮かべると、くるりと反転して、俺たちに背を向けた。そして、ゆっくりと歩き出し、一歩二歩と俺たちから離れていった。「鶴屋さん、すみません」 俺はなぜだか鶴屋さんに頭を下げていた。「キョン君」 鶴屋さんは足を止めて振り返った。長い髪がまとまってたなびいた。「なんですか?」「キョン君はこれから一番大変なことになるさ」「あ、はい。ハルヒとさっき怒った理由について話し合ってみます」「馬鹿」 鶴屋さんはそう呟くと、再び歩き出し、駅ビルのほうへと消えていった。
「キョン」 鶴屋さんが人込みに紛れて見えなくなるまで見送っていた俺の後ろから、ハルヒが言った。「何だよ」「あたし、鶴屋さんのこと嫌いなったりしないから安心して。むしろ、鶴屋さんのこともっと好きになったわ」「そう、なのか?」「そうよ。鶴屋さんは友達思いの凄い人だわ。それに、さっきあたしに怒ってたのだって演技なのは一目瞭然でしょ?」「確かにな」 俺はハルヒの言うことを認めた。「それより、キョン」「なんだ?」「お腹すいたわね」「俺もだ」 「ふふっ」とハルヒは小さな笑顔を浮かべた。どうしたらいいか分からなくて、俺も笑った。
俺の奢りで牛丼を食べた。俺が鶴屋さんのこともあって奢ると言い出したら、特盛にした挙句、卵までつけやがった。俺の三倍速でかきこむハルヒに圧倒されながらも、負けないように俺も一気にかきこんだ。 店から出ると、俺の前でハルヒは大きく深呼吸をした。そして、振り返ると、「キョン」「なんだ?」「なんでもない」「なんでもないことないだろ。何か言いたいことがあるなら言えよ」 俺はハルヒが笑っていることに気付いた。「さっきのキョンの慌てぶりがおかしくてね。『鶴屋さん、やめてください。俺が悪いんです!』。青春真っ盛りねあんた」 ハルヒは大げさに俺の真似をすると、ますます笑い出した。「あれは、その、なんだ、勢いっていうかなんていうか……って、何を言わせる気だ!」「キョン、あんたやっぱり馬鹿だわ」 ハルヒは腹を抱えて笑い出した。「お前こそ鶴屋さんに言われて、悲しそうな顔してたぞ」「あんなの演技に決まってるでしょ? あんたに合わせてあげたのよ」「……そうかい」「でも、あんた面白かったわよ。『ずっと一緒にいるのに気持ちの一つも分かってやれないんです。俺、ハルヒの気持ちに応えてやりたいんです』」 ハルヒは笑いすぎて溢れた涙を指ですくうと、また俺の真似をした。「何か水増ししてないか? お前には永久に投票しないことを今、ここに宣言しておく」「宣言する必要はないわ。あたしは永久に団長職から降りるつもりはないから」「やれやれ、嫌な組織の歯車にされたもんだ」 涼宮ハルヒによる無限地獄はまだまだ続きそうだ。「ところでキョン。これからちょっと寄るところがあるからついてきなさい」「下着売り場とかはやめてくれよ。俺はまだ何も失いたくない」「その手もあったわね」 ハルヒは嬉しそうににやりと俺を見つめた。俺は無駄口を叩いた後悔の念に、髪の毛をむしりたくなる思いだった。「常識の範囲内で行動を決定してくれ」「大丈夫よ。少しお金がかかるだけだから」「それを範囲外だと言うんじゃないのか?」「ぐちぐちうるさいわね! 行くわよ!」 ハルヒは俺の腕を引っ張って走り出した。俺はこけそうになる足を歯車のように動かし、ハルヒが導く方へと必死についていった。しかし、ハルヒはいつも俺の三歩先を正確なリズムで進んでいった。俺がハルヒと離れそうになると、ハルヒは俺を力強く掴み、引っ張るというよりもむしろ引きずるかのように俺を離すことはなかった。俺は文句を垂れながらも、その決して離れることないハルヒの手を頼りに、少しだけ強引に道を進んでいった。俺は高速で過ぎていく景色の中で、わざと明るく振る舞ってくれたハルヒへの感謝を感じていた。
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