【涼宮ハルヒの選択】
学年末試験、ハルヒの叱咤に少しは奮起した甲斐があってか、進級には問題のないくらいの手ごたえはあった。ハルヒのやつは「この私が直々に教えてあげたんだから、学年三十番以内に入ってなかったら死刑よ」とか言っていたが、今まで百番以内にもはいったことがない俺にそんな成績が急に取れたら詐欺ってやつだ。それよりも試験という苦行からようやく解放されて、目の前に春休みが迫っていることに期待を募らせるほうが高校生らしくていい。なんだかんだでここに来てから一年たっちまう。二度とごめんな体験含めて普通の高校生にはちと味わえそうにない一年だったが、学年が上がればハルヒの奴ともクラスが変わるだろうし、ようやく少しはまともな高校生活が送れるかもしれない。席替えの時のジンクスもあるが、さすがにそれはクラス替えではないと信じたい。いや……お願いしたい。とまあ、俺はすでに学年が上がった後のことばかり考えていたが、当然そうでない奴もいた。当然、涼宮ハルヒである。 終業式の三日前、朝のHR終了間際に担任の岡部が発した言葉から事が始まった。「あー、一つ忘れてたことがある」と、岡部はこちらの方を見た。まさか、成績か? 試験できてなかったのか?自信がそこそこあっただけに内心冷や冷やだったが、岡部が発した名前は意外にも俺の後ろに座る奴の名前だった。「涼宮、連絡があるから昼休みに職員室に来るように。以上だ」大抵この時間も机に突っ伏して寝ていることが多いハルヒは、急に電源の入ったロボットのように顔を上げるとハルヒらしくもない意外な顔をしていた。「あたし?」「そうだ。昼休み都合悪いのか?」ハルヒの若干の視線を感じたが、俺はあえて後ろを向くことはなかった。「別にいいわよ」「……それじゃ授業の準備しとけよー」ハルヒにタメ口で話されることにも岡部は慣れたようで、若干煮え切らないような複雑な表情で教室を出て行った。そして案の定、ハルヒは俺の襟を掴むと自分の方に強引に振り向かせる。「なんだ?」「ねえ、何で私が呼び出しくらってるのよ」「知るか」「問題になるようなことした覚えもないわよ」それはお前の常識内での問題であって、学校側にしてみれば大問題な行動を取っていることを理解してくれ。屋上から豆を撒いたり、どう考えても問題行動だからな。それにしてもだ。今まで生徒会がいちゃもんをつけてくることがあっても、教師側から特別ああしろこうしろと言ってきたことはほとんどない。逆に言えば、ハルヒが教師のところに突撃していくことは何度かあったはずだが。。「ま、行けばわかることよね」ハルヒはそう言うとあくびをして再び机に突っ伏した。 昼休みになるなり、ハルヒは教室を飛び出していった。少しして弁当を持って谷口がやってきた。国木田も一緒だ。「そういえば、涼宮さん呼び出されてたよね。岡部に」「あいつが教師に呼び出されるなんて中学時代じゃそんな珍しいことじゃなかったけどな」谷口がハルヒの席について弁当を広げ始める。「高校生になってちったぁましになったかと思えば、結局呼び出しか」「でも、最近そんな大騒ぎしてたっけ? キョンは心当たりないの?」心当たりなんて数え始めたらきりがない。「キョンもすっかり涼宮色に染まっちまったからなあ。感覚が麻痺してるんだろ」それは否定し難い事実だが、お前に言われるとやはり腹が立つ。「でも、そろそろクラス替えだから涼宮さんとも別々になるのかな。キョンは一緒になりそうだけど」「俺も早くあの迷惑女との同じクラスから解放されたいぜ」「誰が迷惑女よ」いつのまにかハルヒが横に立っていた。突然の登場に谷口は口の中に入れていたものを軽く噴出した。「もう終わったのか?」「何が?」「岡部に呼び出されて行ったんだろ? 何の話だったんだ」ハルヒがキョトンとした顔で俺を見る。数秒の間、妙な沈黙が流れたが、「別に大したことじゃなかったわ。……そこあたしの席なんだけど」谷口は慌てて席を立ち上がるとハルヒは澄ました顔で席につき、購買で買ってきたパンをかじり始めた。「お咎めはなかったみたいだね」国木田が小声で言う。良いのやら悪いのやら。最もこいつに説教したところで聞く耳を持つはずがないのは周知の事実だろうし、ハルヒの言うとおり大したことじゃないんだろう。正直なところ戻ってきてまた大騒ぎするんじゃないかと思っていたぐらいだから俺は安心していた。昼食を終えて談笑していると、ハルヒが突然席を立った。「用事を思い出したわ」そう言い残して教室を出て行く。しかし戻ってきてからのハルヒは機嫌が良いというか、妙に大人しかったな。谷口もそれを感じたのか、ハルヒの席に再び座りまた三人での会話が始まった。そして、昼休み終了間際にハルヒは戻ってきた。教室の入り口まで来て、自分の席に谷口が座っているのを見て明らかに表情が変わった。谷口は国木田と話をしていて、ハルヒが席の横にきて谷口の目の前をハルヒの脚が通過するまでは笑っていた。「谷口、あんた誰に断ってあたしの席に座ってるわけ?」「す、涼宮」「さっさとどきなさいよ!」飛び上がるように谷口が席を立つと、ハルヒはドスンと腰掛けた。同時にチャイムが鳴り、谷口と国木田は各々の席に戻っていった。「あーもー、岡部の奴むかつくわ」「大したことじゃなかったんだろ?」全く毎度毎度、その感情の起伏の激しさには平伏するね。「何であんたが大したことじゃなかったなんて知ってるのよ」まさかこいつはさっきここで話していたことすら忘れているんじゃないだろうか。便利な頭だな。ぜひ俺にも分けて欲しいぞ。「まあ、大したことじゃなかったけど。こんなことでいらいらするのも馬鹿らしいわね」そう言ってハルヒは頬杖をつき、物憂げに窓の外を見たままその日の放課後まで口を利くことはなかった。放課後のSOS団の活動も、これといってやることがなく。インターネットでサイト巡りをしていたハルヒもしばらくして飽きたのか、さっさと帰ってしまった。せめて学年が上がるまではこういう時間が続けばいいと思っていた。しかし、俺のハルヒに対する期待が一度も叶えられたことはなく、そういうときに決まって妙なことに巻き込まれるのだ。もう慣れたけどな。 翌日、早起きした俺は妹の目覚まし攻撃を受ける前に着替えを済ませていた。「あー、キョン君早起き!」と騒ぐ妹を尻目に朝食をとり、さっさと学校へと向かった。昨日、部室にやりかけの宿題のノートを置いてきてしまったのだ。せっかく試験は上手くいったのに、宿題を忘れましたなんて格好がつかないからな。そういうことで律儀にも早起きしたわけだ。さすがに早かったのか、学校への道で登校している生徒をほとんど見かけなかった。部室のカギを取り、誰もいない校舎を部室まで歩いていると部屋の前に誰かが立っていることに気づいた。それは意外にも、「お前、何してるんだ?」「キョン……」ハルヒだった。こんな朝早くから、部室の前で一体何をしているんだろうか。まさかよからぬことを考えて朝一で登校してきたんじゃないだろうな。「…………」しかし、ハルヒは無言だった。軽く俯いていて目の焦点も微妙に合っていない。「部室、入るのか?」「……うん」こんなしおらしいハルヒを見るのは初めてである。雰囲気がいつもと違うというか、そういえば昨日も昼休みに同じようなことがあった。突然戻ってきたかと思えば、自分の席に座っていた谷口に対しても優しかったしな。部室に入り、ノートを広げて宿題の続きをしようとしたのだが、俺は中々集中できなかった。いつもなら誰に遠慮するまでもなく入ってきて固定席である団長椅子に座るハルヒがなぜか机を挟んで俺の目の前、いつもなら古泉が腰掛けるであろう席に座っているのである。今更宿題なんかやってるの? とまた言われると思っていたのだがそれもなく、ただ単に座っているだけなのである。これを奇妙といわず、何を奇妙と呼ぶのだろうか。俺は寒気すらした。そんな妙な空気の中、俺から声をかけることもできず、どうにか宿題に集中しようとした矢先、ハルヒの口が開いた。「ねえ」なんだ?「その……」ハルヒがはにかむように唇を噛む。「SOS団、よね」何が言いたいんだこいつは。「あたし、団長なのよね?」なんだその?マークは。お前が勝手に主張して名乗ったんだろうが。「そう……あのさ、あたしこれからどうすればいいんだろう」開いた口が塞がらないというのはこのことである。頭でも打ったのか、はたまたあまりに都合のいい物忘れをするハルヒの脳が反乱でも起こしたのか。まるで自分が何でここにいるの? と言わんばかりのハルヒの表情である。「どうするって言われてもな。すまないがお前が何を言いたいのかさっぱりわからん」「あたしにもわからないの。どうしてここにあたしがいるのか」「お前、頭でも打ったのか?」ハルヒは首を横に振ると俯いてしまった。なんというか、こういうハルヒも悪くないと俺は一瞬思ってしまった。黙っていれば朝比奈さんにも負けないくらいの美少女だし、いつものハルヒを見ている分、そのギャップに魅力を感じてしまったのだ。いつもおかしいとはいえ、これは本格的におかしい。そんなハルヒに掛ける言葉も見つからず、時間だけが経過していった。俺はそのうち長門が来るだろうと踏んでいた。長門ならきっとハルヒの身に何が起こったのかわかるはずだ。そんなことを思案していると、今まで俯いていたハルヒがはっと顔を上げた。そして廊下のほうを見るといそいそと立ち上がり、部屋を出て行ったしまった。制止の言葉を掛ける暇もないくらい素早かったので出て行ったドアを呆然と見るしかなかった。そして、十秒後くらいにドアが再び開いた。長門だ。「よう」相変わらずの無機質な顔でちらっと俺のほうを見て、長門は席について本を取り出した。「ハルヒに廊下で会ったか?」本に目を落としたまま長門は小さく言う。「会った」「変わったところはなかったか?」「……ない」長門がないというならないのだろう。といつもなら納得するところだが、今回ばかりはそれをすんなりと受け入れるわけにはいかなかった。「涼宮ハルヒに対して異常は確認できない」それは情報統合思念体が言ってるのか?「情報統合思念体と私の見解」それじゃ、おかしいと思ったのは気のせいってことか。「気のせい」絶対と言い切れるか?その言葉に長門は目を落としていた本から顔を上げ、「絶対」と一言だけ言い再び目を本に落とした。こいつが絶対と言い切るぐらいだ。間違いないんだろう。しかし……俺は涼宮ハルヒという人間に対して果たして絶対という言葉が当てはまるのかとも思っていた。長門を疑うわけではない。むしろ信頼している。しているが、それ以上に……まあいいだろう。もし異常な事態になったらどうにかしてくれるだろうし、俺がハルヒのことでこんなに気に病む必要はないのだ。今大事なのは宿題であり、授業までほとんど時間もないということに気がついた俺は、長門に頭を下げて宿題の答えを教えてもらうことにした。 教室に戻ると、ハルヒは席についていた。そして、俺の姿を確認するやいなや近寄ってきてネクタイを締め上げると、「キョン、いいこと思いついたわ。今日の昼休み、一緒に来なさい!」部室で見たようなしおらしさの欠片もないハルヒがそこにいた。本当にわけのわからない奴だ。そしていいことってなんだ。またよからぬことを始めようってんじゃないだろうな。「春休みに合宿やるのよ! 今度は山よ! 山!」なぜ山なんだ。「海は夏に行ったからに決まってるじゃない! 海の次は山でしょうが」頼むからその安易な考えで俺の寿命を縮めるようなことをするのはやめてくれ。山はスキーで行ったじゃないか。「どこが安易よ。それにスキーと登山は違うわ。昼休みに古泉君のところに行って山を所有してる親戚がいないか聞いてみましょ!」あいつに頼んだら世界中に親戚が現れるぞ。「何言ってんのよ。きっと吊り橋でしかいけないような洋館があるはずよ」やれやれ。こいつの頭の中はそれしかないのか。うずうずしていたハルヒは昼休みになるなり俺のネクタイを掴んで走り始めた。俺の言葉なんて聞こえちゃいない。古泉のいるクラスまで来ると、古泉は教室の中で友人達と食事を取っている最中だった。しかし、ハルヒと俺の存在に気がつくと席を立ち、廊下まで出てきた。「どうしたんですか? お二人で」ハルヒは満面の笑みで「古泉君、山を持っている親戚はいないの?」古泉は初めは的を得ない顔をしていたが、そのうちいつものニヤケ面になる。「確かいたような気がします。山を所有していて、別荘を持っている人が」「さっすが古泉君。副団長の名前は伊達じゃないわ!」おいおい、ハルヒよ。さすがに怪しいと思えよ。そんなにほいほいと山だの島だの別荘だのを持っている親戚がいる人間がいると思うか?「それに比べてあんたは本当役に立たないわね」ハルヒが横目で俺を睨む。だったら初めから一人でここにくればいいだろ。「あんたは私の下僕なんだから、団長様のお付をするのは当然でしょうが」そもそも俺はお前の下僕になった覚えは一度もない。「細かい男ね……そうだ、みくるちゃんと有希にも知らせてくるわ!」ハルヒはそう言うと足早に去っていった。「涼宮さんらしいですね」全くだ。「さて今回はどんな趣向を用意すればいいでしょうか」余計なことはしなくていい。普通に行って普通に帰ってくればいいんだ。そろそろあいつにもわからせてやらないとな。面白いことや不思議なことはそうそう簡単に起こらないってことを。「涼宮さんのことが心配なんですね」どうしてそうなる。いつ俺がそんなことを言った。「素直じゃないですね。あなたも、涼宮さんも」勝手に言ってろ。「それより、お前昨日ハルヒと会話したか?」「昨日……ですか?」古泉は思い出すように顎に手を当てた。「廊下で一度お会いしましたね。それと放課後部室で。会話という会話はちょっと……」「どこか変だとは思わなかったか?」「別段変わらず、いつもの涼宮さんだと思いましたけど」そうか、ならいいんだ。「どうかしましたか?」どうかしてるのは俺の方かもしれないな。「最近は閉鎖空間も安定しているので僕としてもうれしい限りです。それほどあなたと涼宮さんの関係も安定しているということですから」そういうセリフを吐くときのお前の笑顔は忍ぶに耐え難いものがある。「喜ぶべきことじゃないですか。みんなが救われるんですから」喜べないていないのは俺だけな気がしてきたぞ。「しかし、山に行くことが決まった今、また一仕事できましたね。どうです? あなたも企画に参加してみませんか?」断る。怪しげな組織の手伝いなんてごめんだからな。俺は普通の人間として普通に生活したいんだ。「それは残念です。それでは、また放課後に」古泉が教室の中に戻っていったので俺も教室に戻ることにした。その前に、とトイレに寄ろうとしたところ階段付近にハルヒが立っていた。「もう行ってきたのか?」「キョン……」まただ。しおらしいハルヒ。一体何だ?本格的に頭がおかしくなっちまったんじゃないだろうな。「なあお前……」と言いかけたところで何者かに手を掴まれた。その手が目の前にいるハルヒ本人だということを理解するのに俺は数秒の時間を要したわけだが。ハルヒが俺の手を、ましてや学校の中で繋いでくるなんてありえないことである。「お、おい」「お願い、助けて……」朝比奈さんならともかく、ハルヒから一生聞くことはできないだろうと思っていた言葉が聞こえてくる。俯いていてわからなかったが、ハルヒの目には間違いなく涙が浮かんでいるように見えた。とりあえず、だ。ハルヒを部室に連れてきたのだが、同時に昼休みも終わってしまった。こいつが助けてなんて言い出すのは後にも先にもなさそうだからな。一時間くらいさぼっても損はないだろう。とりあえず間が持たないのでお茶を煎れてみたものの、相変わらず美味しくない。朝比奈さんの入れてくれるお茶に慣れてしまったせいもあるのだろうけど。ハルヒといえばお茶に手をつけるでもなく、口を開くでもなく、俯いたままである。「とりあえず、何があったのか話してくれないか? すまんが俺にはお前が助けを求めるなんて考えられないんだ」ハルヒは少し顔を上げるとゆっくりと口を開いた。「私は、涼宮ハルヒで、ここの生徒で、SOS団の団長」一つずつ確認するようにハルヒは言葉を繋げる。「キョン、みくるちゃん、有希、古泉君、この4人がSOS団メンバー」俺はハルヒの言葉を黙って聞いていた。「それに谷口や朝倉、担任の岡部……学校の人間はわかるわ。でも……」ハルヒはまた目を伏せ、スカートの裾を握りこんでいる。「涼宮ハルヒのことはほとんど知らない」「お前がその涼宮ハルヒだろうが」「私も涼宮ハルヒだけど、涼宮ハルヒはあたしだけじゃない」まるで要領を掴めん。涼宮ハルヒだけどハルヒじゃない。どんな冗談だ。笑いどころが全くわからん。「あたしだけじゃないの。もう一人の涼宮ハルヒは今教室で授業を受けてるわ」「ちょっと待て!」俺の制止の言葉にハルヒは体をびくっと震わせた。「どういうことだ?」「……あたしにもわからないの。どうしてここにいるのか。どうしてもう一人涼宮ハルヒがいるのか」少なくともハルヒはこんな冗談を言う奴ではない。こんな回りくどいことをしたりもしない。「ちょっとここにいてくれ」俺はハルヒを置いたまま部室を出た。廊下で教師に会わないかびくびくしながら教室に向かい、ドアの小窓からそっと教室の中を覗いてみると、確かに涼宮ハルヒがそこにいた。シャーペンを鼻の頭に乗っけて退屈そうにしている姿は間違いなくハルヒである。そして、部室に戻るとそこにもハルヒはいた。俺は落ち着こうと椅子に座りお茶をすすろうとして、手が震えていることに気づいた。そりゃそうだろう。同じ人間が二人いるのである。しかもハルヒ。まともな人間なら失神ものだ。状況を整理しようと大きく息をついてみる。もう一人のハルヒ。理由はともかく、こんなことができるのはSOS団のメンバー関連しか思いつかない。長門、あいつはハルヒに異常がないということをはっきりと言いきっていた。別の情報統合思念体が動いたとも考えられるが……。古泉、これは除外だ。場所限定の超能力者にこんな芸当ができるとは思えん。それにあいつの組織だってまさかクローンなんかを作り出す技術があるとは考えにくい。朝比奈さんはどうだ? 未来人ならクローンなんて作れそうなものだが。考えれば考えるほど怪しくなってくる。「キョン……あたし、どうしたら……」ハルヒが懇願するように言う。頼むからそんな迷子の子犬みたいな目で見ないでくれ、調子が狂う。「とりあえず、どうしてここにいるのかもわからないんだろ?」小さくハルヒは頷く。「SOS団のメンバーに聞いてみるしかなさそうだ。すまんが俺には何がどうなってるのかさっぱりわからん」するとハルヒは慌てて首を横に振った。「だ、だめ! あたし、SOS団の団員には知られたくないの……」俺も一応団員なんだけどな。「あの三人は駄目……怖いの」俺は先日の出来事を思い出していた。ハルヒが岡部のところから戻ってくる前、長門が部室にやってくる前、まるで二人がやってくることがわかっていたように出て行った。「キョンだけは……いいんだけど……」そんな言葉をハルヒから聞けるとは思ってもみなかったぞ。なぜ俺だけはいいのか。今はそんなことはどうでもいいか。あの三人に相談もできないとなるとどうにも打開する方法がないわけだが。「ここにいる理由もわからないんだろ? 俺だけじゃどうにもできないぞ」「そうだけど、会いたくないんだもん」なんだこのわがままっ子は。「大丈夫だ。あいつらのことは俺が保障する。危険はない。もしあったとしたら俺がなんとかするさ」「……本当に?」ハルヒが上目遣いで見上げてくる。俺は思わず目を逸らしてしまった。「とにかくだ。その姿はどうにかならんのか? しかも学校の中にいるなんて目立ちすぎる」「一応変えられるけど、このほうが目立つ気がする」そう言ってハルヒが目を閉じると、体が赤い光で包まれた。どこかで見た光だった。これは……閉鎖空間で見た古泉が変えていた姿と似ている。ハルヒはちょうどピンポン玉くらいの大きさになって声を挙げた。「こんな感じ。これはここに来たときからできるってわかったわ」さすが俺だ。もうこんなことぐらいでは驚かなくなった。 放課後までこのハルヒにはその姿のまま鞄の中に入ってもらうことにした。SOS団の活動は春の山登りについて話し合った。話し合ったといっても、ハルヒが一人で喋って一人で決めただけで、俺や朝比奈さんはいつものようにそれに従うだけなのだが。活動が終わり、俺はハルヒ以外の三人に少し残って欲しいとこっそり伝え、ハルヒが帰ってから再び部室に再集合した。「あなたが我々を集めるなんて珍しいですね」古泉が肩を竦める。「それで、お話とは?」「とりあえずこれを見てくれ」俺が鞄を開けると、中から赤い球体が現れて目の前で静止した。そして、その球体はみるみる内にハルヒの姿に変わっていく。「ふう、狭かった」さすがの古泉もこれには驚いたようで珍しく眼を見開いている。朝比奈さんは状況を理解できないのか、オロオロしているだけだ。長門はいつものように微動だにしないが。「これは……一体何が?」古泉の視線に耐え切れなくなったのか、ハルヒが俺の後ろに回りこんで隠れてしまった。俺は初めから順を追って説明した。朝比奈さんも話の流れからようやく事態を理解したのか、深刻な顔つきになる。「……ということなんだがな。心当たりがないか?」三人とも心当たりがないのかしばらく黙っていた。一番初めに口を開いたのは長門だ。「涼宮ハルヒの存在は一つだけ。情報統合思念体はそこにいる涼宮ハルヒを認識していない」つまり、ハルヒが二人いるということはありえないということか。「そう。認識できないから、どういう存在なのかもわからない。こんなことは通常ありえない。情報統合思念体も戸惑っている」長門の表情がどこか不安げに見えるのは気のせいだろうか。朝比奈さんと目が合うが、首を横に振る。「ごめんなさい。私にも心当たりがないんです」その間もハルヒは俺の背中を掴んで隠れているだけだった。沈黙が続いたが、古泉がようやく口を開いた。「長門さんにも朝比奈さんにもわからない。そして、僕にも正直わかりません。しかし、先程の光は……我々が良く知っている光です。ヒントはどうやらそこにあるようですね」そうだ。今のところ、俺もそれぐらいしか心当たりがない。「これは、涼宮さんが作り出したものかもしれません」ハルヒが? 自分自身を?「ええ、理由はわかりませんが、こんなことができる人間が涼宮さん以外にいると考えられますか?彼女は無意識に世界の改変を行うことができるんです。だとしたら、そう考えるのが妥当でしょう」確かに、古泉の言う通りかもしれない。この三人に心当たりがないのであれば、後はハルヒしかいないのだ。しかし、なんだって自分と同じ姿の人間を作り出す必要があるんだ?「最近の涼宮さんは昼にも話しましたが非常に安定していました。閉鎖空間も今はほとんど活動していません。つまり、涼宮さん自身が不快な気分になったわけではないということです。私たちより、あなたのほうが心当たりがあるんじゃないですか?」俺に心当たりがあればとっくに思い出してるだろう。最近あったことと言えば、あいつが珍しく岡部に呼び出されたということぐらいだ。不快に感じることではないというならそれだって除外されるだろうしな。全くわからん。「えーと、涼宮さんでいいんでしょうか。他に何かわかることはありませんか?」古泉が背中に隠れているハルヒに話しかけると、ハルヒの手に力が入る。「わ、わからない。気づいたらこの世界にいて、廊下に立っていたから」「ふむ。とにかく、涼宮さんとの接触は避けたほうがよさそうですね」当たり前だ。日常的に不思議なことを探しているあいつがもう一人の自分がいるなんて知ってみろ。この世界がどうにかなっちまいそうだ。「とりあえず様子を見ましょう。今は情報が少なすぎます。長門さんも時間が経てば何かわかるかもしれませんし」「あ、私もちょっと調べてみますね」朝比奈さんがちょこんと手を挙げる。とりあえずその日は解散することにしたが、ここで大きな問題に気がついた。このハルヒをどこに置いておくかということである。姿を変えること以外は人間と何ら変わらないのだ。とりあえず朝比奈さんか長門の家に置いてもらおうとしたのだが、このハルヒ、それをどうしても嫌がるのである。さすがに俺もハルヒが潤んだ目で拒否をするとそれを強要することができなかった。「あなたの家に連れていくのが一番だと思いますよ」古泉がさらりと言いやがった。うちは普通の家で家族だっているんだぞ。「姿を変えることができるなら、そこまで難しいことではないと思いますが」じゃあお前が連れて帰れ。「残念ながら、僕では役不足ですよ。涼宮さんもあなたの側にいたいようですし」昨日はどうしていたのか聞くと、学校で過ごしたんだそうだ。風呂もない食事もないでひもじい思いをした、とハルヒが言う。これで俺が断ったら悪人みたいじゃねえか。「仕方ないからいいけどな。家では俺の言うことを聞いてくれよ?女子を家に連れ込んで泊めてるなんてばれたら学校に行けなくなるからな」ハルヒは静かに頷いた。 帰り道、長門と朝比奈さんは用があるとかでさっさと帰ってしまったので古泉とハルヒの三人で帰ることになった。と言ってもハルヒは俺の鞄の中に納まっている。本物もこれぐらい大人しければいいんだけどな。「僕は元気のいい涼宮さんもいいですけどね」その相手をするのは俺なんだぞ。もうちょっと俺に気をつかってくれ。「もちろん、使ってますよ。でなければ、その涼宮ハルヒを調査のために連れていってるかもしれません」鞄の中が動くような感覚がする。「お前……」「冗談ですよ」古泉は肩を竦めて微笑む。お前の冗談ほど悪趣味なものはない。「でも、放っておけないのも事実でしょう? 涼宮さんがそうであるように、あなたも涼宮さんに対してただならぬ感情を持っている」いつかハルヒに土下座させたいとは思っているけどな。「はは。あなた方のそういうところも僕は好きですよ」なんだ、気持ち悪い。男に好きだといわれても全然うれしくないぞ。お前だとなおさらだ。「我々はあなた方の味方ですよ。そして仲間でもあります。仲間のことを思うのは悪いことじゃないと思いますが」古泉は微笑みながら手を振って帰っていった。家に帰りつくと、妹が玄関までやってきた。「あ、キョン君、さっきハルにゃんから電話があったよ!」ハルヒが? 何で携帯に電話しないんだ。「携帯電話の電源が入ってないって言ってた。帰ってきたら電話しなさいだってー」そういえば電話の電池が切れてたんだった。俺は部屋に戻るとハルヒに電話をかけた。『遅い! どこほっつき歩いてたのよ!』悪かったな。誰のおかげでこんな時間になったと思ってるんだ。『まあいいわ。それよりあんた、明日ちょっと付き合いなさい』どこにだよ。また宝探しでもやるつもりか。『違うわよ。合宿で必要なものを買いに行くわ。どうせ祭日だし、暇なんでしょ』ハルヒに暇じゃないと言って納得された試しがない。『十二時に駅前、いいわね?』そう言って電話は切れた。やれやれ。そして、まだ安心できない不安要素が俺にはあった。鞄の中にいるハルヒである。部屋には妹も平気で入ってくるから安心はできない。ハルヒの姿になったところで俺も気まずいことこの上ないのだ。しかし、風呂にもいれなきゃいけないし、問題は山積みだ。この借りはいつか返してもらうぞ、ハルヒ。とりあえずこの日は近くの銭湯に行くことにした。ほとんど利用することはなかったが、この辺なら知り合いと出くわすこともないだろうし家の風呂を使うよりはよっぽど安全である。家を出るとき妹が自分も連れて行けとごねたが友達と行くから我慢しろと抑えて出てきたのだ。銭湯の近くでハルヒの姿に戻し、終わったらここで待つように伝えて俺も銭湯に入っていった。平日ということもあり客の姿もまばらで、これなら平気だろうと安堵した。俺も疲れていたがゆっくりとお湯につかることもなく、少し早めに外で待つことにした。待つこと十五分、ハルヒが出てきた。「お待たせ」ハルヒには俺の服を貸したので、かなりだぶだぶだった。それにしても……風呂上りでリボンをつけていないハルヒを見るのは久しぶり、いや初めてだった。まだ艶のある髪に、少し赤くなった頬。さすがというか、その美少女っぷりに俺は一瞬目を奪われてしまった。「キョン?」「あ、ああ。帰ろう。とりあえず……ここで姿変えるか」「もう少し、このままでいたい。お願い」「家の近くまでだぞ」そう言うと、ハルヒは満面の笑みで頷いた。なんだろうか、この気持ちは。いつものハルヒに慣れているせいか、こういうハルヒの態度が一瞬でも可愛いと思ってしまった。いかんいかん。これの本物は馬鹿!とかドジ!とか俺に連呼するような女だぞ。そんなことを考えていると、ハルヒが横から顔を覗き込んできた。「ねえキョン。キョンと涼宮ハルヒはどういう関係なの?」どういうって、ハルヒ曰く俺は下僕だそうだけどな。お前のほうが詳しいだろ。ハルヒの感情とかある程度わかったりとかしないのか?「わからない……でも……」ハルヒは少し俯いて、意を決したように俺の顔を見上げた。「あたしは、キョンのこと好きだよ?」「遅い! 罰金!」 集合時間に遅れてしまった俺にハルヒは言った。 昨晩のもう一人のハルヒの発言を思い出す。まさに今目の前にいるこいつと瓜二つの奴に言われたんだよな。ぼーっとハルヒの顔を見ていると、胸倉を掴まれた。「キョン、あんたたるんでるわ。団長として情けないわよ」 本物にもあのぐらいのしおらしさがあってもいいと思うんだがどうだ? このハルヒもらしいっちゃらしいが、どう考えても損をしていると思うのだが。 こういうふくれっ面も悪くはないが、俺としてはおしとやかな子のほうがいいぞ。朝比奈さんみたいな。 どうだ? ハルヒ、考えなおしてみないか?「さっきから何ぶつくさ言ってんのよ」 ハルヒは俺の胸倉を揺さぶりながらがなり立てていたが、そのうちその手を離すとそっぽを向いてしまった。「まあいいわ。さっさと行くわよ」 こいつにしてはやけにあっさりと引いたな。 とはいえ、こいつの顔を見る度に昨夜のことを思い出してしまってどうにも落ち着かない。 余談ではあるが寝る時は姿を例のものに変えてもらって布団の中に入ってもらった。 しかしどういうはずみなのか、俺が夜中に目を覚ましたら人間の姿になっていた。 しかも俺の目の前で眠っていた。 ハルヒの無防備な寝顔を目の前で見て俺は動揺した。 俺も健全な高校生である。性格を除けば美少女という取りえのある涼宮ハルヒの寝顔を目の前にして何も感じないわけではない。 普通なら目が覚めたら美少女が隣で寝ているなんておいしいシチュエーションではあるが、それはあくまで時と場所が大事であり、寝ぼけ頭の俺でもこんな姿を家族に見られたらどうなるかぐらいわかるわけで、急いでハルヒを起こすと姿を変えてくれと懇願した。 ハルヒは中途半端に起こされたことでもう眠れないと言い出した。 そんな中で俺も眠れるはずがなくたわいもない会話をしていたのだが、朝方になって俺は耐え切れず寝てしまい、起きた時にはすでに集合時間が迫っていたというわけだ。 家にいてもハルヒに振り回され、外に出てもハルヒに振り回される。 これでいいのか? 俺よ。「ところで、あの三人は?」 ずんずんと進むハルヒの後ろから半分寝ながら歩いていた俺は、他のSOS団員がいないことに今更ながら気づいた。「今日は呼んでないわよ」 意外である。SOS団としての活動するときは必ず全員に声をかけていたと思ったが。 まあ古泉は俺と同じ荷物持ちだとしても朝比奈さんというマスコットがいないというのは結構でかい。 無償で働くのだからそれぐらいの恩恵が必要なのだ。ハルヒはマスコットと呼ぶには程遠いからな。 確かに目立つという意味ではある意味マスコットなのかもしれないが。「そんなにたくさん買い物するわけじゃないから、あんただけで十分なのよ」 それじゃ一人で行けばいいだろうに。「なんで団長のあたしが荷物を持たなきゃいけないのよ。あんたは平の団員なんだから荷物持ちって決まってるでしょ。休みの日だからっていって職務怠慢は許されないわ」 ハルヒは後ろを振り向くこともなくずんずんと商店街を進んでいく。 途中、映画のときにお世話になった電気屋に入っていくのでついていくと、電気屋の店主と何やら会話を始めた。 俺は会釈だけしてハルヒの後ろに突っ立っていたが、「おっちゃん、ここは火炎放射器ないの?」 お前は山で一体何をするつもりなんだ? 山火事でも起こす気か。 大体こんな町の一電気店に火炎放射器が置いてあるわけないだろ。 おっちゃんもこんな女子高生の言うことなんて適当に流しておけばいいのに、「火炎放射器はないなあ。チャッカマンじゃ駄目なのかい?」と真面目に相談に乗ろうとしている。「チャッカマンじゃ駄目なのよ。もっとこう火がガンガン出る奴がいいわ」 ハルヒの無理難題に本気で悩んでいるおっちゃんが段々気の毒に見えてきたのは俺だけではあるまい。 俺がハルヒに「あんまり無理なことを言うなよ」と言うとハルヒは頬を膨らませた。「あんたは黙ってなさい」 へいへい。やっぱりこいつ可愛くねえ。 俺がそんなことを考えていると、ハルヒは手を振って「おっちゃん、また来るわ」と言って軽く手を振ると外に出ていってしまった。 俺も会釈して外に出ると、ハルヒは腰に手を当てて突っ立っている。 今日のハルヒはやけに引き際がいい。そう、気持ち悪いくらいに。「次はこっちよ」 ハルヒは俺の袖を掴むとずんずんと歩き始めた。 その後はおおよそ山とは関係ないような店を夕方まで散々付き合わされたあげく、夕飯を少し高めのレストランで奢らされることになった。 買い物という割には何を買うわけでもなく、当然俺は荷物を持つこともなかった。 ハルヒの奴は一体何がしたいんだ。財布の中を見て溜息をつきながら俺は家にいるもう一人のハルヒを思い出していた。 まさかハルヒの姿になって家族と出くわしていないかとか、夕食が遅くなって腹を空かせていないかとかそんなことだ。 どちらにしろ今の俺はハルヒのことを考えざるを得ない状況になっているわけだ。 古泉が言うような特別な感情だとかは放っておくとして、こいつの強烈なインパクトのせいで俺はどうやらそのペースに乗せられちまったようだからなんとなく放っておけないような部分はあるのかもしれない。こうしてこいつが笑顔で美味そうに食事をしているのを見ているのも悪くはない。 谷口が聞いたら「キョン、お前はついにそこまで落ちちまったか」とか言われるだろうな。 しかしまあ、こういうのも悪くないと俺は思っちまったからな。 あながち谷口が言うことも否定できない。「ちょっとキョン? あんた人の話聞いてるの?」 聞いてるともさ。「さっきからぼけっとして……さっきからじゃないわ。今日の遅刻といい、やっぱりたるんでる!」 まあそう言うなよ。俺もこう見えて色々気をつかってるんだからな。「なによそれ。気を使うならこの団長様に使いなさい。他の奴に使う必要なんてないわ」 まさにその団長様に気を使ってるとは言えないしなあ。全くこいつってやつは……まあ今回はもう一人のハルヒに免じて許してやるさ。「ところでさ……キョン」 食事を終えて落ち着いたところでハルヒが妙に深刻な表情になった。「あんた、みくるちゃんのこと……好きなの?」 唐突に何を言いだすんだ、お前は。「それとも有希? 前のラブレターも実はキョンが渡したものだったとか?」「あのなあ、それは本人にも確認してるじゃねえか。大体それがお前に関係あるのか?」 ハルヒは気まずそうな苦笑いを浮かべる。「べ、別に関係はないわよ。まああの二人があんたの相手をするわけないだろうけど、SOS団の秩序を乱すようなことされても困るし? 大体あんたがそういう誤解をされるような態度だから団長として注意を促しておかなきゃいけないんでしょうが」 まるで口を挟ませないといったようなハルヒの喋りっぷりを俺は静観していたが、ハルヒのその必死さになんだか和んでしまったのは秘密である。「ふっ」「あっー! あんた人が真面目な話してるときに何笑ってんのよ!」「別に」 ハルヒは顔を真っ赤にしている。いや、違うな。頬を赤く……ってまさかな。腕を組んでそっぽを向いたハルヒは「ふんっ、とにかくもっとあんたは団長を崇拝しなさい。ぼやぼやしてると新しく入ってくる新入生よりも低い地位になるわよ!」と言い切り席を立った。 ハルヒがさっさと店の外に出て行ったので当たり前のように俺が伝票を会計にもっていく。 店に入る前に貯金を下ろしておいてよかったぜ。 店の外に出ると外は真っ暗だった。商店街のネオンの光だけが輝いている。 ハルヒのところにいくと、黙って手を俺のほうに突き出してきた。 手には袋がぶら下がっている。 なんだこれは。「受け取りなさい」「え?」「奢らせたし今日は付き合わせたからほんのお礼よお礼。いい? 団長のこの私が特別に労をねぎらおうって言ってるんだからありがたく思いなさい」 ハルヒはその袋を投げるように俺に渡すとさっさと走り去ってしまった。 小さな袋の中には小さなケースが入っていた。そのケースを開けると中から出てきたのは腕時計だった。 俺の腕時計は一週間ほど前にハルヒに引っ張りまわされたとき、壁にぶつけて壊れてしまったのだ。俺はそのときハルヒに抗議したが、あいつは「そんな簡単に壊れるような時計を持ち歩いてるあんたが悪いのよ!」といつものように理不尽なことを言いだした。 そのとき若干ハルヒの言動にいらだちを感じた俺は、相手にせず黙ってその場を後にしたのだが……。「あいつ……」 その時計は俺が持っていた安物の時計よりも高そうな時計だった。 全く、これを渡すためにわざわざ一日中連れまわして飯まで奢らせたのか。素直じゃないというかなんというか、ハルヒらしいっちゃハルヒらしいんだが。 今日のハルヒは随分と大人しいほうだったし、あのもう一人のハルヒが来てから変化が見られるということはやはり本物のハルヒと何かしらの関係があることは間違いないのだろう。 俺が家までの道のりを自転車に乗らず、押して帰っていると、後ろから来た車が横で止まり、窓から古泉が顔を出した。「やあ。今、お帰りですか?」 なにしにきたんだ。「涼宮さんについてちょっとお話したいことがあります。お時間よろしいですか?」「それで、何かわかったのか?」 公園のベンチに腰掛けた俺の正面に古泉は立った。「あくまでも仮説として聞いてください。我々の組織の考えです」 古泉は俺の表情を確認するかのように少し間を空けて続けた。「例の涼宮さんのクローン、ここではあえてクローンと呼ばせていただきます。あれはほぼ間違いなく涼宮さんが作り出したと考えて間違いないと思います。最近の彼女が非常に安定しているという話はあなたにもしましたよね?」 俺は黙って頷く。「元々彼女は普遍的なものを嫌う方です。常に不思議なことを求めています。だから僕や朝比奈みくる、長門有希の三人が同じ場所に集まった、これはもう理解していると思います。そして、彼女には葛藤もあった。不思議なことは必ずあるという涼宮さんと、そんなものはないと思っている涼宮さんが彼女の中にはいるんです。以前までは前者、不思議なことをとにかく追い求める涼宮さんが前面に出ていました。ですから閉鎖空間が不安定な状態にあった。そして今は非常に安定している。これがどういうことか、あなたにはわかりませんか?」 わからんな。 古泉はふっと笑みを浮かべて続ける。「常識人としての涼宮さんが前面に出てきているということです。不思議なことは起こらなくてもいい。SOS団という枠の中で楽しいことができればいいと、彼女は感じ始めているんですよ。もちろん、無意識の上での話です。実際には彼女はそんなことを口に出したりしませんし、表面上は以前の涼宮さん自身の考え方と何も変わっていないはずです。以前の涼宮さんはあなたに選択肢を与えました。少なくとも僕はそう考えています。元の世界に戻るのか、それとも新しい世界を作り出すのか、それをあなたに託したのはあなたもよく知っているSOS団団長としての涼宮さんでした。しかし、今回はちょっと違います。彼女は今の生活に不満があるわけではない。むしろ満足していると言ってもいいでしょう。それはひとえにあなたのおかげでもあるわけですが。さてその涼宮さんが再びあなたに選択肢を与えるとしたら、どのような選択肢だと思いますか?」 俺は口を開くことはなかった。「もうお分かりかと思いますが、涼宮さんはあなたに選んでもらいたいんですよ。常識人としての涼宮ハルヒなのか、それとも、今までの涼宮ハルヒなのか。その結果として出てきたのがあのクローンというわけです。昨日の様子だと、涼宮さんに近いところを持ちながらもその性格は丸で異なるようですし、あながちこの仮定も否定しがたいと思いますが、どうでしょうか」 古泉は小さく肩を竦ませてみせた。「お前の言っていることが本当だとして、俺にどうしろっていうんだ」「簡単なことです。あなたがどちらかの涼宮さんを選ぶ……ですよ」 簡単なこと? よく言うぜ。「恐らく、世界改変にはいたらないと思いますよ。どちらを選んだとしてもね。ただ、涼宮さんはあなたの選択に従い、選ばれなかった涼宮さんの人格は消え去ることになるでしょう」 二人の間に沈黙が流れる。 古泉は前髪をかきあげると俺の横に座った。「あくまでも我々の仮定です。長門さんや朝比奈さんは別の答えを出すかもしれません。でも、信憑性もありそうな話だと思いませんか?」「お前らはどうしたいんだ?」「我々はあなたの決断を見守るだけです。先程も言ったようにそこまで深く考えることではないんですよ。どちらの人格を選んだところで涼宮さんの力が失われるわけではないでしょうし、我々としてみれば大人しい涼宮さんのほうが扱いやすいかもしれませんが」 結局お前らにとってハルヒは観察の対象でしかないんだろうからな。「それだけではありませんよ。少なくとも僕個人は涼宮さんのこともあなたのことも大切に思ってます」 その言葉、どこまで信用すればいいんだか。 しかし、なんでまた俺なんだ。「あなたも強情ですね。いや、失礼、あなたと涼宮さんの信頼関係に口出しするのは野暮だ」 二人のハルヒを比べて俺に選べってか。 どんな罰ゲームだそれは。なんで選択肢がハルヒしかないんだ?そこで朝比奈さんが出てきてくれれば俺は間違いなくそっちを選ぶぞ。「もちろんそれもありでしょう。だけど、その場合はどうなるか、あなたが一番良くご存知だと思いますよ?」 閉鎖空間か。「今回はそれだけじゃ収まらないでしょうね。少なくとも、あなたに再び選択肢が与えられることもないでしょう。今回ことにしても涼宮さんにしてみればかなりの譲歩でしょうからね」 むう。 俺は黙りこくった。その間も古泉はハルヒがどうとか言っていたが、半分も頭に入ってこなかった。 これは俺の葛藤でもあるわけだ。 古泉の話を馬鹿馬鹿しいと思う反面でハルヒのことを意識しているのもまあ間違いないだろう。認めたくはないけどな。 しかし古泉よ。今日会ったハルヒはいつもと違ったぞ? 少なくとも今までああいうハルヒは見たことはない。「恐らく涼宮さんなりに対抗しているってところじゃないでしょうか? もちろん無意識的にですが。あなた好みの女性に近づこうとするためにね」 なんだそれは、気持ち悪い。 ここでまた古泉は決めポーズのように肩を竦める。「女心ってやつですよ」 結局古泉からは聞きたくないようなことも聞かされて帰宅したときには午後九時を回っていた。夕飯を何も用意してこなかったので、恐らくあのハルヒは腹を空かしているに違いない。今日の風呂はどうしようかとか考えながら部屋に入ると、暗闇の中赤い光がポツンとベッドの上で瞬いていた。電気をつけてドアを閉めると、その光は膨張してハルヒへと変化した。「おかえり、キョン」「遅くなってすまなかったな。夕飯食うだろ?」「うん。何度か妹さんが部屋に入ってきたからどきどきだったよ」 ハルヒは微笑んで応える。俺は不覚にもドキッとしてしまった。昨日の言葉もそうだったが、こっちのハルヒの言葉にはどうも弱い。ある意味ハルヒの顔に朝比奈さんとまではいかないがしおらしさのある性格が合わさったのだから、より俺の理想に近づいたと言えるのである。 夕飯を用意するとか言ったが、下で食べさせるわけにもいかないし風呂の問題もある。「ハルヒ、外で飯食うか? ついでに銭湯寄ってくればいいだろうし」「でも、大丈夫なの? だいぶ時間も遅いけど……」 こうやって遠慮がちに言われると、何とかしてやろうという気になってしまう。こっちのハルヒはどうやらわびさびというものをわかっているらしい。 なるべく親にばれないようにと外に出ると、俺たちは近くのファミレスへと向かった。 俺はすでに腹一杯だったので、ハルヒに食べたいものを食べさせてから銭湯に向かうことにした。 今日はすでにハルヒに夕飯を二回奢ったことになるのだが、こちらのハルヒはご丁寧にも何度も頭を下げて礼を言ってきた。 まるで対照的である。こうなってくると、古泉の言ってることも信憑性が出てくる。 待て待て。もしかしたら長門の知り合いの宇宙人の陰謀かもしれないし、朝比奈さんのお仲間の未来人の仕業かもしれない。 ここで古泉の言うことを信じてしまうのは早計というものである。 もし違ったら目も当てられない事態になることは容易に想像がつく。 何事も慎重に、だ。とはいえ、こんな生活をいつまでも続けるわけにもいかないのであって、長門あたりに早急に事態の収拾をしてもらいたいものだ。 ファミレスを出てしばらく歩いていると、ハルヒが俺の手を掴んできた。 微妙に頬を赤らめながら。 さすがにこれを振り払うことは出来ず、流されるままにハルヒの手を握り返してしまった。 朝から晩までハルヒ漬けの生活。これを羨ましいと思う奴はすぐにでも名乗り出てくれ。いつでも変わってやるぞ。 結局二人目のハルヒが現れた原因もはっきりわからないまま、終業式の日を迎えてしまった。 長門や朝比奈さんからアプローチがないことを考えると、古泉の線が強くなってしまうわけだが……。とりあえず今日学校で長門に聞いてみようと思っている。 ハルヒのクローンは今日に限って学校に行きたいと言いだした。理由を尋ねると、「今日はあたしも行かなきゃいけない気がするの」という返答だった。 学校内で見られてしまうリスクももちろんあるが、それがこの現象の突破口のきっかけになるかもしれないし、俺は絶対に学校ではハルヒの姿にならないということを固く約束させて連れていくことにした。 このハルヒ曰く、なぜかSOS団の団員の居場所がわかるのだということなので、姿を変えても問題ないということだったが、万が一のこともあるし他の生徒がハルヒを二人見たらそれはそれで大問題なので念を押した。 今日は終業式だけなので授業もなく、午後には自由の身になる。 SOS団の活動はもちろん行われるだろうが、長門や朝比奈さんと話す機会もできるだろうし、丁度いいだろうと考えていた。 教室に入ると、珍しくハルヒはまだ来ていなかった。 チャイムが鳴る直前になってようやくやってきたのだが、どうもいつもの覇気が感じられない。「八時間は寝たはずなのに体がだるいのよ、何でかしら?」と愚痴り始めたと思ったら机に突っ伏してしまった。 俺と何かあるとその次の日のハルヒは大体こんな感じなのでいつものことかと放っておいた。 体育館で終業式が始まり、十分ほど経った頃だったろうか、校長の話が続く中「ドスン」といった重い物が倒れるような音が体育館の中に響き渡った。 誰かが貧血で倒れたのだろう。音のした方からざわざわと生徒の声が聞こえてくる。 そんなに遠くないな。同じ学年か? と思い、そちらの方を見るとなんと倒れていたのはハルヒだった。 近くの男子生徒に支えられ、教師が数人近寄っていく。酷い顔色をしている。校長の話が一時中断され体育館内がざわついたが、すぐに一人の教師が静かにするようにと大声を出すと再び体育館内は静寂に包まれた。 ハルヒは教師に抱きかかえられるように体育館を出て行った。保健室の先生もそれに同行して出て行く。 健康優良児を絵に描いたようなあのハルヒが貧血で倒れるほどデリケートとは思えない。少なからず、嫌な予感を抱いたのは俺だけじゃなかったはずだ。 一抹の不安を抱えながら終業式を終えて、教室に帰ろうとしたところで古泉が隣にやってきた。「先程のは涼宮さんで間違いありませんよね?」 間違いないだろう。ハルヒほど目立つ奴もそうそういないからな。 さすがに古泉もこの事態には笑顔を繕う余裕もないようで、ハルヒの心配をしているようだった。 ま、どういう形で心配しているのかはこの際触れないでおこう。「あちらの涼宮さんは今どこに?」「今日はついてきてる。教室の俺の鞄の中さ」 ふむ、といった感じで古泉は考えるような仕草をした。「少し気になりますね。関連がないとは言いきれませんから」 考えすぎじゃないのか? ハルヒだって一応は人間だ。体調が悪くなることもあれば貧血を起こすこともあるだろうよ。「そうであればいいんですけどね。いずれにせよ、あなたにお任せすることにしましょう。それではまた後ほど」 そう言って古泉は去っていった。 教室の近くまで戻ってきて、俺は長門の後姿を見つけた。「長門」 長門はゆっくりとこちらを振り向く。「聞きたいことがあるんだ」「……というのが古泉の説なんだが、お前のほうでは何かわかったのか?」 先日古泉から聞いたハルヒが俺に選択肢を与えたという話を簡潔に長門に伝えると、長門は少しの間をおいてゆっくりと口を開いた。「情報統合思念体は困惑している」 どういうことだ?「存在しているすべての物には情報がある。だけどあの涼宮ハルヒには情報がない」 結論を言えばわからない、ってことか。 長門は小さく頷く。「古泉一樹の説が有力であると私も思う。実在している涼宮ハルヒにも変化が見られる」 ハルヒに変化が起きていることは俺もなんとなくだが気づいている。それは古泉にも言ったことだが。「今、涼宮ハルヒを構成している情報の弱体化を確認した」「なんだって?」「彼女が倒れたのもその影響」 原因はわからないのか? もう一人のハルヒとの関係は?と聞きかけたところで担任の岡部がやってきてしまった。 長門にまた後で聞かせてくれと言い残し、俺は教室へと戻った。 ハルヒは保健室で寝ているだろう。下手したら家族が迎えにきているかもしれない。そう思っていたのだが、席にはハルヒが座っている。「お前、大丈夫なのか?」 と俺の問いに、ハルヒは微妙にはにかむような仕草をした。 まさか! 俺は岡部が教室に入ってくる前にハルヒの手を掴み廊下に飛び出し、人気のないところまで走った。これではいつもと逆である。「学校ではその姿にならないって約束しただろ?」「あたしもそのつもりだったんだけど、どうしてかわからないけどあの姿に戻れなくなったの」 このハルヒが言うには、俺の鞄の中に入っていたが突然その状態を維持できなくなり、鞄を出てハルヒの姿になってからは光の玉の姿には戻れなくなってしまったというのだ。ハルヒが戻ってこないのはわかっていたから、とりあえず俺が戻ってくるまで席についていることにしたと。 ハルヒが倒れたことと関係があるのだろうか。とにかく校内に二人のハルヒがいるのは大変まずい。「ねえ、キョン。あっちの涼宮ハルヒは、どうしたの?」「貧血で倒れたんだ」「そう……」 ハルヒは悲しげに表情を曇らせた。 まるで、なぜそうなったかを知っているかのように。 とりあえずハルヒは部室に押し込むことにした。本人はSOS団の団員が来たら嫌だと言っていたが、他に方法はないし来たら掃除用具入れのロッカーにでも隠れればいいと納得させたのだ。 そして教室に戻った俺が岡部にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。 クラスの連中はハルヒの姿を見ていたはずだが、ハルヒの性格も大体知っているのだろう、あまり体調が良くないのに教室に戻ってきたが、俺がそれを保健室に連れていった、という絵に見えたようで誰も気にしていないようであった。そう見られるのも不本意ではあるが、今はそんなことも言ってられないからな。 通知表の受け渡しという魔の行事を終えてその日のHRは終了となった。 谷口や国木田と軽く会話を交わした俺は、部室に行く前に保健室へと向かった。ハルヒがまだいるかもしれないからな。一応様子だけは見ておいたほうがいいだろう。 保健室に到着すると、中から保健の先生が出てきた。「あら、何か御用?」「いえ、涼宮はまだ中に?」「ええ、大分顔色も良くなったけどもう少し休ませてから帰すわ。あなたは……?」 クラスメイトです。と伝えたところ何を勘違いしたのか、「あらあら、じゃあ悪いけどあなた送ってあげて頂戴。家のほうに連絡したんだけど、誰もいないのよ」 もう少し休ませてから、と言って保健の先生は職員室の方へと行ってしまった。 やれやれ。「あ! キョン君じゃないかいっ?」 この声は、「鶴屋さん、朝比奈さんも」 朝比奈さんは鶴屋さんの後にくっつくようにしてついてきていた。「キョン君もお見舞いに来たのかいっ?」 ええ、まあそんなところです。「涼宮さん、大丈夫かなあ……」 いつも酷いことをされているのに朝比奈さんはまるで天使のような優しい心をお持ちだ。 その心を少しでもハルヒにわけてやりたいですよ。「私、様子見てきますね」 そう言って朝比奈さんは保健室の中に入っていった。鶴屋さんもついていくのかと思ったが、ドアを閉めると俺の顔を覗き込んできた。「ほうほう。あんまり動揺はしてないみたいだねっ」 どうして俺が動揺せにゃならんのですか。「キョン君! はっきりしない気持ちは時に人を傷つけることもあるんだよっ。キョン君が悪いわけじゃないけどねっ」 鶴屋さんはまるで俺の心を見透かしたかのように言う。「ふっふーん。なんでわかるんですかって顔してるねぇ。ま、違ったら違ったでいいんだけどねっ」 そう言って鶴屋さんは保健室に入っていった。 二人が出てくるまで俺は廊下で待つことにした。鶴屋さんから言われた言葉が少しひっかかっていたのもあったからだ。十分ぐらいして二人は出てきた。「今日は活動しないと思いますけど、部室に行ってますね。キョン君ともお話したいことがありますから」 朝比奈さんはそう言って鶴屋さんと去っていった。 あっちのハルヒは大丈夫だろうか。「キョン君、またねっ!」 SOS団の中ではあまり俺にはっきり意見する人がいない。ハルヒは別枠として、古泉もあまりストレートには言わないし、朝比奈さんや長門もだ。 そういう意味でも鶴屋さんの一言は大きかった。 なんとなく入りづらかったが、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかないので、俺は意を決して中に入った。 保健室の中にはベッドが二つあり、どうやらハルヒは奥のほうにいるらしい。 カーテンで遮られているので入り口からでは様子を伺うことはできない。カーテンの側まで近づいたところで、中から声が聞こえた。「キョン?」 良くわかったな。「みくるちゃんが言ってたからよ。あんたがいるってね」 なるほどな。納得だ。「わざわざ何しにきたわけ?」 カーテンを開けると、ハルヒはベッドの中に潜り込んで頭だけを布団の中から出していた。しかし、頭は逆側に向けているので表情を伺うことができないわけだが。「大丈夫なのか?」「何が? ちょっと寝不足なだけよ。みくるちゃんもわざわざ鶴屋さんと来たりして、大げさなんだから」 お前は昨日八時間も寝たとか言ってたじゃないか。それに誰だって心配すると思うぞ。倒れたなんて聞いたらな。「とにかく、大したことなんてないのよ。これから山だって行くんだし、寝てる場合じゃないんだから」 ハルヒはそう言って起き上がろうとした。「おい、無理するなよ」「別に無理なんか……」 と言いかけてハルヒは手で胸の辺りを抑えた。 だから言ってるだろうが、体調悪いときはゆっくりしておけ。 どうせ治ったらあほみたいに遊びまわるんだから、今ぐらいゆっくりしてても誰も文句は言わんぞ。むしろみんなも休める。「うるさいわね……」 ハルヒはまた布団をかぶるとそっぽを向いてしまった。 俺は辺りを見渡して椅子を見つけるとベッドの横に持ってきた。「なにしてんのよ」「まあ、なんだ。俺も前に入院したときは見てもらったしな。たまにはこういうのも悪くないだろ」 ハルヒは黙り込んだ。 俺は、「あれは団長としてだから別にあんたのために行ったんじゃないわよ」とか言われるもんだと思っていたのでこの無言には不意をつかれた。 帰宅する生徒たちの声が聞こえてくる中、沈黙は流れ続けた。 ふとハルヒの手がベッドから出ていることに気づいた。 クローンハルヒの行動の影響か、それとも鶴屋さんの言葉の影響か、はたまた俺が血迷ったのか、気づいたら俺はその手を握っていたのである。 ハルヒが一瞬体をびくっと震わせた。しかし、声は出さない。 そのうち、ハルヒも俺の手を握りこんできた。 別に俺もハルヒも深い意味があったわけではないだろう。体が弱っているときは手を握ると元気が出るとかそんな噂を聞いたからである。 ……いかんな。鶴屋さんの言っていたことを俺はすでに忘れかけていた。 だが今はそういうことにしておいてくれ。とてもじゃないが心の整理がつかないんでな。 二十分ほどそうしていたが、俺はもう一人のハルヒのことを忘れていたことに気づいた。この本物のハルヒを連れて帰るにしても、あちらもどうにかしないといけないのだ。 どうやらハルヒは眠ったようなので、静かに手を離すと俺は保健室を後にした。 部室のある旧館に向かう途中の通用路でクローンハルヒが立っているのを見つけた。「キョン。部室にみくるちゃんが来たから出てきちゃった」 ハルヒのクローンは、本物と変わらない笑顔で俺に近づいてきた。「そうか。悪いんだけどな、これから朝比奈さんと少し話しをしなきゃいけないんだ。どこか人目につかないところで待っててもらえないか?」 ハルヒはそれを聞いてむくれッ面になる。「キョン全然あたしの相手をしてくれないのね」 状況が状況なんだから仕方ないだろ。家に帰ったら遊んでやるさ。そんな余裕があればな。「まあいいわ。旧館の屋上で待ってるから、話が終わったら来てね」 満面の笑みを浮かべて走り去るクローンの後姿を見送ってから部室へと向かった。 部室の前までやってきた俺は念のためにドアをノックした。 さっきから大分時間は経っているが朝比奈さんのことだ、いつお着替えをしているかわからんからな。「はーい」 部屋の中から愛らしい声が聞こえてくる。 中からドアが開けられるとそこには朝比奈さん、正確には制服を着た幼い方ではなく、成長してよりナイスな体になった未来の朝比奈さんが現れた。「あ、朝比奈さん」「キョン君、お久しぶり。とりあえず中に入って?」 俺は促されるままに部屋の中へと入った。 部室の中には幼い方の朝比奈さんが椅子に座って気持ちよさそうに眠っている。「本当だったら、この時代の私がいないときに来たかったんだけど、時間を選んでる余裕がなかったの」 朝比奈さん(大)は深刻そうな表情で目線を少し下に落として言った。「キョン君も古泉君から聞いたと思うけど、涼宮さんのクローンはどうやら涼宮さん自身が作り出したみたい。私たちの時代でもあそこまで完璧なクローンは……ってこれは禁則事項でした……」 頭をコツンと叩いてから朝比奈さんは続ける。「私たちも古泉君たちと同じような見解で今回のことは見ているわ。問題は、本物の涼宮さん。体調を崩したのは、恐らく少しずつクローンと入れ替わろうとしているから、その弊害だと思う」 なるほど、それでクローンハルヒも以前使えたような力が使えなくなったということか。少しずつ本物の人間に近づきつつあって、それは本物のハルヒの力を吸い取るように成長している。そういうことですよね。「そんな感じだと思う。断定はできないけど……辻褄は合うでしょ?」 確かに、ハルヒが体調を崩したのと同時期にクローンが特別な力を失っている。 これはいよいよ認めなければいけないらしい。「このままいけば恐らく本物の涼宮さんの存在は消えて、今までクローンだった涼宮さんが本物になるはず。あくまでも自然に、誰にも気づかれないで元々そういう人間だったという認識になるの」 それは、俺もですか?「それはわからないけど……」 朝比奈さんは言いにくそうに目をそらした。「仮に、いや、俺に選択肢が与えられたという前提で考えた場合ですが、俺はまだどちらを選んだりとかしてませんよ。なのに本物のハルヒと取って変わろうとしているのはなぜです?」 少し怒ったような顔で朝比奈さんが詰め寄ってくる。「それはキョン君がはっきり伝えないからです。涼宮さんが無意識的にしろキョン君に選択を求めたのは今の自分よりもこっちのほうがいいかもしれないって思ったからです。答えを出さないってことは、涼宮さんとしてはやっぱり今の自分じゃ駄目なんだと思うに決まってるじゃないですか!」 この時の朝比奈さんは本気で怒っていたのかもしれない。 もともとおっとりしている人だ、怒っても怖いということはないが、涙目になって迫ってくる姿には俺の良心を揺さぶるものがあった。「どちらにしても、キョン君がちゃんと答えを出してあげてください。どちらの涼宮さんを選んでも未来にはさほど影響はありません。だから、よく考えて決めてあげてください」 古泉と同じようなことを最後に言って、朝比奈さんは部屋を出て行こうとした。「朝比奈さん」「はい?」「朝比奈さんは、どちらのハルヒが良かったんですか?」 朝比奈さんは困ったような顔をしてから、「禁則事項です」 と微笑み、去っていった。 可愛らしい寝息を立てている朝比奈さんの横に座り、俺は善後策を考えることにした。 答えを出せ、と言われてすぐに答えを出せるほど俺はハルヒのことを意識しちゃいなかった。普段があんなだし? いきなりそういうふうに見ろって言われても無理があるってもんだ。 しかし、時間的余裕はあまりないようだ。 ハルヒのあの様子だと、時間が経てば経つほど力を失っていくようだ。 どうしてこう毎度毎度俺は世界の危機だとか人命がかかってるとか、そんなことばかりに巻き込まれるんだ? それはハルヒと出会ってしまったから、運命……だとは思いたくないが。 以前、閉鎖空間に行ったときもこんなことを考えたな。 ハルヒは俺にとって何なのか。 それはあの時とは少し変化したのかもしれない。 ただ、明確な答えが出せるほどハルヒに対しての気持ちを煮詰めたわけではない。 俺にとってのハルヒ……。 それにしても鶴屋さん、朝比奈さん(大)、古泉やらにあそこまで言われたらまるで俺が悪者だ。 この決着がついたら、ハルヒに奢らせてやろう。理由は適当に考えればいいさ。 まだまだ俺たちの関係は続いていくんだからな。 朝比奈さんが目を覚ましたので事情をある程度まで説明した俺はもう一人のハルヒが待つ屋上へと向かった。 朝比奈さん(小)はただ一言だけ、「キョン君、今まで私たちがしてきたことを思い出して」と言って俺を見送ってくれた。 屋上の扉を開けると、クローンハルヒは屋上の調度真ん中あたりで体育座りをしていた。「よう、待たせたな」「キョン、待ってたんだから」 ハルヒは立ち上がると俺に向かって走ってくる。 直前で止まるのかと思っていたが、次の瞬間にはタックル(本人は抱擁のつもりだったらしい)をくらって天を仰いでいた。 ハルヒの頭が俺の胸のあたりにあり、その手でYシャツが握り締められているのがわかる。「おい、どいてくれないか」 その言葉にハルヒはゆっくりと首を横に振る。「いや……」 嫌って言われてもな、この誤解されかねない状況は非常にまずいんだが。「キョンは……あたしのこと嫌いなの?」 ハルヒらしくない声でそういうこと言われると調子が狂うんだが。「ハルヒ、それなんだけどな……」と言いかけたところでハルヒは勢いよく体を起こした。「キョン、遊びにいこう! まだ時間も早いし、ちょっと遠くなら誰にも会わないし。 ね?」 まるで最後まで聞きたくないといったように話を遮ったこのハルヒは立ち上がると俺の腕を掴んで引っ張り上げた。「話を最後まで聞いてくれ、大事なことなんだ」「……遊びに行ってくれたら、聞くから、だから……行こ?」 むう。そんな目で見ないでくれ。まるで朝比奈さんのような愛らしい小動物のような目線で見られたら俺もハルヒとはいえ強引に話を進めるわけにはいかないじゃないか。「わかったがな、まだ本物のハルヒが校内にいるんだ。それを家まで送らなきゃならん」「それなら大丈夫。古泉君がどうにかしてくれるわ」 なぜ古泉の名前が出てきたのかは知らんが、とりあえず確認をとってみることにした。 電話に出た古泉は、まるで電話が来るのを待っていたかのような口ぶりで、「涼宮さんでしたら僕が責任をもって送り届けますよ」と言った。 どこまで知っているんだ? まさかここにいるハルヒと繋がってるんじゃないだろうな。「クローンの涼宮さんがまだ校内にいることはこちらも把握してますから。今回はあなたのサポートを徹底的にやってやろうと決めたんですよ」 ありがたいのやらそうでないのやら。「そうそう、あなたの選択に口を挟むつもりではありませんが、これまでのSOS団、涼宮さんのことを含めて楽しい思いをさせていただきましたよ」 なんだそのもう終わりみたいな言い方は。「いえ、そういうつもりではありませんよ。ただ、環境が変わる可能性もあるのでほんのお礼みたいなものです」 古泉はそう言うと電話を切った。「大丈夫だったでしょ?」 満面の笑みでハルヒが顔を覗き込んでくる。 そのハルヒのクローンを見ていてわかったことがある。 本物のハルヒが弱っている反面、こちらのハルヒの感情が豊かになってきたように見える。元々どっちが本物かわからないぐらい似てはいたが、ここに来て雰囲気的な部分で変化が見えるような気がする。 校内にいるハルヒのことも気にはなったが、ここは古泉に任せておこう。 このハルヒに話を聞いてもらわなければ解決のしようもないからな。「で、どこに行きたいんだ? 言っておくが、そんなに金はもってないぞ」「んー……キョンと一緒だったらどこでもいいんだけど、なるべく人の目を気にせず動けるところがいいじゃない?」 どうせハルヒは今外をまともに動けないだろうから、遠くに行く必要もないと思うが。「それじゃ、キョンに任せる」 任せる、と言われても俺にもそんなレパートリーがあるわけじゃないぞ。「そうだ、商店街! この前涼宮ハルヒとも行ったところ、そこ行きたい!」 というわけで、見た目は全く同じのハルヒと再び商店街にやってきた。どこが違うかというと、このハルヒは電車に乗ってからずっとべったりくっついてくるぐらいか。 同じコースで周りたいというので、まずは電気屋のおっちゃんのところに向かった。「おっちゃん! 久しぶり!」 そのおっちゃんにしてみれば二日ぶりぐらいだろう。まあハルヒの性格だから、本物が言ったところで違和感はなさそうだが。「おや、今日も来たのかい? ……随分と仲良しだね、いいなあ若い子たちは。あっはっは」 ハルヒに無理矢理繋がされた手を見て人のよさそうに笑ったおっちゃんはそうだ、と何かを思い出したように店の奥に消えていった。 三十秒ほどして戻ってきたおっちゃんの手にはカタログのようなものが握られていた。「これ、今度来たときに渡そうと思ってたんだよ」 そのカタログは……チャッカマンのカタログだった。 話を聞くと、律儀にもこの電気店の店主のおっちゃんはハルヒの役に立てなかったことを悔やんでいたようで火炎放射器はさすがに手に入らないが、強力なチャッカマンなら、とカタログを取りに行ったんだそうだ。 そこまでハルヒに肩入れする理由は知らんが、今ここにいるハルヒには何のことだか理解できないようで、終始不思議そうな顔をしてカタログに目を通していた。 検討してみます、という言葉を残して電気店を出て商店街を歩いていると、最近できた店だろうか、見たことのない洒落た感じの時計屋ができていた。 この前もここは通ったはずだが、あの時はハルヒに引っ張られるように進んでいたので、気がつかなかったのかもしれないな。 このハルヒも興味を示したのか、店の中へと俺を引っ張り込んでいった。 しばらくの間、ハルヒは可愛らしい時計などを見て女の子らしい声を挙げていたが、俺はふと目に留まった時計があった。 そう、それは俺が今している時計と同じものだったのだ。 ハルヒはここでこの時計を買ったのだろうか。 すると、若い女性の店員が近づいてきた。「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」「いえ、ちょっと見てるだけなので」「そうですか、あら? あなたはこの前いらしてた……」 とハルヒの方を向いて店員は言った。「へ?」 ハルヒが何のことだかわからないといった表情をしたので、俺はあわててフォローに入った。「実はこいつ双子の姉がいまして、たぶん買いにきたのはその姉のほうかと」「あら、そうでしたか。随分お悩みになってたんですよ。どなたにあげるんですか? って聞いたら、恥ずかしそうに『男の友達です』って言ってましたけど、あれはきっと恋する女の子の目でしたわ」 なぜか店員が恥ずかしそうに両手で頬を抑えている。「最終的にこちらの時計を買っていかれました。もらった男の子と上手くいっていればいいんですけど……」 今度は涙目になってすすり泣きを始めた。変な人だ。 直後、俺はハルヒに腕を引っ張られて外に連れ出された。そして、腕を捲くられて時計を見ると、「……あたしも買う!」 とか言い始めた。 お前は金を持ってないだろ。それに時計なんて買ってどうするんだ。「キョンにあげるの! あたしもあげたいの!」 ハルヒのイメージがどんどん崩壊していくな。そんなセリフ、一生聞けないと思ってたぞ。 そんなことで対抗心を燃やしても仕方がないし、時計を二つも持っていても使い道がないということを懇々と繰り返してようやく納得したハルヒはまた俺の手をとって歩き始めた。 日が落ちるまでそんな調子で連れ回され、暗くなったところで夕食をとることにした。 とはいえ今日は制服なので駅の近くのファミレスに入ることにした。 クローンのハルヒは、「雰囲気あるところがよかったけど、仕方ないかあ」と残念がっていたが、俺の懐具合からしてももう一度あのレストランはさすがに厳しいぞ。 小さい男と思われるだろうが、それならぜひうちの母親に小遣い値上げの説得をしてくれ。 食事中はハルヒは終始笑顔だった。 しかし、出てくる言葉は、今度はどこに行きたいとか、キョンにプレゼントを挙げたいから何が欲しい?とかそういう言葉だった。 さすがにそんな中で話を切り出すわけにもいかず、食事を終えて外に出たところでハルヒに話をしようと改めて言った。 するとハルヒはそっぽを向いて、「それじゃ、北高にいきましょ」と言ってさっさと歩き始めた。 電車内では来る時とうってかわってハルヒは無言だった。 離そうとしなかった手も、微妙な距離で離れたままだ。 北高の校門まで来たが、当然ながら門は閉じられている。「中に入りましょ」 そう言ってハルヒは校門を乗り越えようとした。 俺も黙ってそれに従う。 二人は校庭の一角にあるベンチまできて腰をかけた。 そのまま十分ぐらいはどちらも口を開かなかった。春が近づいているとはいえ、夜風はまだ冷たい。「なあ、ハルヒ」「ん?」「お前はまだどうしてここにいるか、知らないんだよな?」 沈黙が流れる。「知ってるわ」 俺が続けようとした言葉を遮るようにハルヒは言った。「ここにいる理由、初めはわからなかったけど、もう見つけたの」 見つけた?「あたしはキョンと一緒にいたい。理由は、それだけで十分」 ハルヒは真っ直ぐ前を見据えたままだ。「お前はな、ハルヒに……」「聞きたくない。……わかってた。涼宮ハルヒがあたしを作り出したってこと」 ハルヒの目に涙が浮かんでいるように見えた。「でも、涼宮ハルヒはあなたに選択を委ねたんでしょ? それなら、あたしが必ずしも消えるなんて限らないじゃない!あなたは、あたしみたいな涼宮ハルヒを求めていたんじゃないの? 素直で、普通の女の子のような涼宮ハルヒを!」 涙をこぼしながらハルヒは俺に訴えるように言った。 やはり、俺が招いたことだということは認めざるを得なかったが、こう正面から言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。 俺は、俺にとってのハルヒは……。「ハルヒ、俺は確かに暴力的でわがままで素直じゃないハルヒよりも、お前のような素直で女の子らしいほうがいいと思っていた」「それじゃあ!」「でも、違うんだ。俺にとって大事だと思うハルヒは、ありのままのハルヒだ。確かに暴力的だし人の話も聞かないし女の子らしくないわで良いところはどこだと聞かれたら正直どう答えたらいいかわからないが、それでも俺はありのままのハルヒを選ぶ」 クローンのハルヒは俯いてしまう。「俺には初めから選択肢なんてなかったんだ。選択する権利もないし、必要もない。初めからそういうハルヒに俺は惹かれていたんだからな」「……そっか」 ハルヒは立ち上がって数歩前に進むと、ゆっくりとこちらを振り向いた。「あたしだったら、もっとキョンのことわかってあげられる自信あるよ。SOS団だってもっと楽しくなる! あの三人とだってきっと上手くやっていける!」「ハルヒ……」「だから……」 ハルヒは笑顔を作っていたが、その頬を涙が伝っているのは暗い中でもわかった。「あたし……消えたくないよ……キョンと……もっと楽しいことしたり、一緒にいたいよ……」 次の瞬間、ハルヒの体が淡く光ったかと思うと、その体がまるで透けるように薄くなり始めた。「……キョン、最後のお願い……あたしのこと、抱きしめて」「しかし……」「大丈夫、後はもう消えていくだけ……だから、お願い」 俺は立ち上がると、ハルヒの背中に手を回した。 すでに感覚も薄れ始めていて、人に触っているという感覚とは少し違っていた。「……暖かい」「すまなかったな」「今更謝らないでよ。あたし、短い間だったけど、キョンと一緒に過ごしたこと、絶対に忘れないから」 ハルヒの体はどんどんとその色を失っていく。「また……いつか会えるよね?」「ああ、会えるさ」「そのときは、あたしも……」 消えかけていくハルヒは最後にこう言った。「キョン。ありがとう」 翌日、肉体的にも精神的にも疲れていた俺は学校が休みに入ったことをいいことに布団から出ずに寝ていた。 気がつくと12時近くになっていたので飯でも食おうかと一階に降りていくと、聞きなれた声がリビングのほうから聞こえてきた。「あー、何よこれ! 結構難しいわね」「ハルにゃんがんばれー!」 なぜかハルヒが妹とテレビゲームをしている。「おい」「あ、キョン君!」「あんた、やっと起きたの? 春休みだからって気抜きすぎよ! たるんでるわ!」 いつもどおりのハルヒである。「お前、体調はもういいのか?」「あたしを誰だと思ってるの? SOS団の団長は風邪なんかでへこたれたりしないのよ!」 そうかい。で、「何しに来たんだ?」「遊びにきまってんじゃない! 後で古泉君もみくるちゃんも有希も来るわよ!」 まるで俺の家を私物化である。「ったく、勝手に決めるなよな」 俺は苦笑いをして着替えをするために部屋へと戻った。 着替えの最中にドアが蹴り破られんばかりに開かれたかと思うと、ハルヒが立っていた。「あ……」 上半身裸の俺を見てなぜかハルヒは赤面している。自分の着替えを男子に見せるのは平気なのに、男の裸を見るのは恥ずかしいのか、偏った趣味だな。「何が趣味よ。それより、昨日あんたが保健室に来てその後のこと、ほとんど覚えてないのよね。気づいたらあんたいなくて、古泉君が車で送ってくれるって言って家で寝てたら急に元気になってきたのよ」 ほー、いい薬でも飲んだのか。「薬なんかに頼るほどひ弱じゃないわ。それに、変な夢見たりしてあんまり良い気分じゃなかったわね」 そりゃ、あれだけのことがあって気分が良いなんて言えるほうがおかしいってもんだ。 そんな俺も昨日のことはかなりこたえた。 はっきりさせたって意味では解決したのかもしれんが、二度とはごめんだ。だから、「ハルヒ」「ん、何よ」「俺は、お前みたいな奴と出会ってここまで無茶苦茶なことやってきたりしたが、後悔なんかしていないし、本気でお前のことが気に入らないと思ったことはない」「なに? どういう意味よ」「俺は今のままのお前が好きなんだ。だから余計なこと考える必要はないと思うぞ」 ハルヒは先程よりも顔を真っ赤にさせたかと思うと完全にそっぽを向いてしまった。「ば、馬鹿じゃないの? 何よいきなり……」「まあ、そこに少し素直さがあればもっといいかもしれんが」「す、素直って……」 ハルヒはそれから頭を抱えたり地団駄を踏んだりと今にも暴れそうになっていたが、「時計……」 ん? 時計がどうしたんだ。「時計……あげたでしょ。それで十分でしょ! それとも、あたしとあんたの間でそういう言葉が必要?」 ハルヒなりに譲歩した言葉だったのだろうけど、俺にとってそれは最もわかりやすい言葉だったし、ハルヒの気持ちも伝わってきたからよしとしよう。 お前が言うな、とはさすがに言えないからな。「いーや。確かに、言葉なんかいらんな」「ふん」 そう、言葉なんて初めから必要なかったんだ。 俺とハルヒの間にはな。 しかしなんだ、そういう自信が持てなかったというのはお互い様だったと思うし、もう一人のハルヒがその自信を俺たちに与えてくれたのかもしれない。 全くもって俺に平穏な日々を与えてくれないハルヒであるが、それを含めて俺はできる限りこの団長様を支えていくつもりだ。 それが、あの消えてしまったハルヒに対する俺なりのけじめだと思うからさ。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。