佐々木「憂鬱だ」キョン「佐々木でも憂鬱になることがあるんだな」
「――中学出身、佐々木です。不束者ですが、どうかよろしくお願いします」 振り返ると、そこに佐々木がいた。 中学からの付き合いだから別に振り返ってまで自己紹介を聞かなければいけないほど俺と佐々木の仲は浅いものではなかったのだが、 なんとなくここで振り返っておいたほうがいいような感じがした。 佐々木はゆっくりと、柔らかい皮肉に包まれた微笑を浮かべたままでクラスを見回し、最後に目の前の席に座る俺に視線を合わせた。 「どうかしたのかい、キョン? 不思議そうな顔で僕を見て。ここに僕がいることに何か不都合でも?」 「いや、そんなものはない」 佐々木はくくくと笑った。俺はなんだか恥ずかしくなって前を向いた。 ちなみに、佐々木のこの一言によって直前の俺の自己紹介でクラス全員の脳内メモリに新規作成されたはずの俺の本名は完全に『キョン』で上書きされてしまったらしいことを、俺は後から知ることになる。 新学期早々、やれやれなことだ。 佐々木とは席が前後の関係にあったので、よくホームルームの前に他愛のない話をした。 「ところで、キョン。キミは部活動に入るつもりはあるかい?」 「唐突だな。中学のときと同じで、帰宅部でいいと思ってるが」 「そんなところだろうと思ったよ。しかし、考えてもみてくれ。高校の勉強というのは中学のそれに比べて格段に難しいものになる。 恐らくキミは相当な苦労を強いられるだろう。ま、僕だってそんなキミの力になることに否やはないが、 それにしたって飛躍的に成績が伸びるとは、中学のときの経験上あまり期待できるとは言いがたい」 「何が言いたい?」 「課内で足りない分は課外でポイントを稼ぐ、ということだよ」 「なるほど。同じように勉強ができない状態だったら、部活動か何かをやっていたほうが内申で有利だってことだな?」 「そういうことだ。まったく、こういうところでは理解力を発揮するくせに、どうしてそれが勉学に生かされないものかね」 「それを言ってくれるな、佐々木。泣きたくなる」 「まあ、それは置いといて。部活動の話に戻ろう」 「どこかオススメの物件でもあるのか?」 「ある――と言ったらキミはどうするかな?」 佐々木がいつもの微笑で少しだけ首を傾けたちょうどそのときに、担任の教師が教室に入ってきた。 その日の放課後、帰り支度を整えていた俺に佐々木が声をかけてきた。 「おいおい、キョン。朝にした話をもう忘れてしまうとは、さすがの僕も少し悲しいな」 「ああ。部活動、だったな」 「暇ならちょっと付き合わないか?」 「いいぜ。どこに行くんだ?」 「それは、着いてからのお楽しみ」 佐々木は人差し指を唇に当てる。やけに楽しそうだった。珍しい。部活動に熱を入れるようなタイプではなかったと思うのだが。 「大丈夫だよ。僕は依然としてキミの知っている僕さ。良くも悪くも人間がそう簡単に変わるはずがない。 ……あるいは、世界が一変するような聖パウロ的、またはコペルニクス的転回がない限り――ね」 佐々木は自分の鞄を持って肩にかける。 「では、行くとしよう」 辿り着いたのは、文化系部の部室棟にある、一枚の扉の前だった。 文芸部。 そのように書かれたプレートが斜めに傾いで貼り付けられている。 「ここだよ」 「意外、ってほどでもないか。お前はよく本を読むしな」 「まあね。さ、早速中に入ろう」 「入ろうって、この部室、中から人の気配が感じられないが、勝手にそんなことをして大丈夫なのか?」 「鋭いね。実はこの文芸部、現在は去年まで残っていた三年生が全員卒業して部員ゼロ、という状態なんだ」 「ってことは……」 「僕たちが文芸部員になれば、この部屋を自由に使えるようになる、ということだよ」 自由、という言葉にアクセントを置いて、制服のポケットから前もって借りておいたらしい扉の鍵を取り出す佐々木は、 心なしか上気しているように顔が赤かった。 文芸部の部室は意外に広く、物もあまりない閑散としたところだった。 当然ながらそこにいるのは俺たち二人だけだった。 焦点を合わせるべきものが何もないから自然と俺の目は部屋の奥に固定された。ふと、俺は違和感を覚える。 「なんだか、もう一人くらい、ここに誰かがいるような気がするな」 「つい一ヶ月前までは現に部員がいたからね。多少は人の気配が残っているのかもしれない」 「いや、なんと言えばいいのか。何かが足りないというのか」 佐々木は首を傾げながら窓際に歩いていき、文芸部室の窓を開け放った。乾いた春の風が吹き込んできて、窓とは反対側の、半開きになっていた扉がバタンと閉まった。 それは、まるで風に飛ばされて誰かがここから出て行ったようだった。だからなのか、さっきまで感じていた違和感は綺麗に消えてなくなった。 窓際の佐々木が微笑んだままで何も言わず、じっと俺を見つめていた。 また一陣の風が吹き込んできて、佐々木の短い髪をさらさらと揺らした。 佐々木はふいと俺から目を逸らして、乱れた髪を整えながら言った。 「キミさえよければ、文芸部としてここで放課後の時間を有意義に使ってみないか? どうせキミのことだ、家に帰ったら真っ先にあの愛らしい妹ちゃんから構って攻撃を受けるのだろう? キミはいい兄だからね。口では嫌と言いつつも相手をしてやって、そのうちに日が暮れている……なんてことばかりではないかと推察する。 しかし、せっかくこうして努力して進学校に入ったんだ、キミのご母堂の心労が溜まらないよう、僕はキミの学力向上に微力ながら協力したいと思う。 ひいては、それはもちろん僕のためであるんだけれどね。 迷惑……だったかな?」 佐々木は普段よりずっと早口に喋った。まるで決められたセリフを何度も練習してきたみたいだった。 初めからそう言おうと決めていたのだろうか。 それにしても、佐々木がそこまで俺の学力を気にしてくれていたとは。正直、俺は驚きと申し訳なさでいっぱいになる。 「佐々木」 「なんだい?」 「ありがとな。こちらこそ、よろしく頼むぜ」 それを聞いた佐々木は、ほっとしたように胸に手を当てた。 「うん。ありがとう。よろしく……」 こうして、俺たちは全学で二人しかいない文芸部員となった。 その帰り。思っていたよりも話していた時間は長かったようで、茜色の夕日が校舎から出た俺たちを迎えた。 「たいぶ遅くなってしまった。すまない」 「いいんじゃないか? 今の時間なら電車もそう混んでないだろうし」 「満員電車ほど慣れないし慣れたくないものはないね」 「同感だ」 校庭には入学式のときに満開だった桜がまだ残っていた。俺たちは運動部が占拠しているグラウンドを避けて、その下を歩いた。 桜の花びらがちらりちらりとなごり雪のように散っていた。 「佐々木、肩に桜がついてるぞ」 俺は佐々木の肩を軽くたたいて、薄ピンク色の花びらを落としてやる。 「子供じゃないんだから、言ってくれれば自分でやったのに」 佐々木はつんと口を尖らせた。その頬は、夕焼けのせいだろうか、ほのかに朱に染まっていた。 俺と佐々木が文芸部員になって、数日が経った、とある昼休み。 その日はたまたまいつも昼食を共にするアホどもが揃いも揃ってブルジョワなことに学食へ行くなどと言い出したから、 オフクロ印の弁当を持ってきていた俺は一人で昼休みを過ごさなければいけなくなった。 「仕方ないな」 俺は弁当を引っさげて文芸部室に向かった。 あそこの鍵は、職員室にあるマスターキーを除けば、学内では俺と佐々木しか持っていない。 たまには一人で静かに昼食をいただくというのも、しみじみとオフクロの味をかみ締めることができるし、悪くないアイデアだろう。 文芸部室に到着すると、扉の鍵は開いていた。 俺は、それがまるで当たり前のことのように、何の疑問も持たずに扉を開けた。 昼休みにはいつだってここの扉が開いてなければいけないような気がした。 それにしても俺は何を勘違いしていたんだろう。 文芸部室の鍵を持っている生徒は前述のように俺と佐々木だけなのだ。 ならば、部室の中にいるのが誰か、考えなくてもわかっていたはずなのに。 なぜか、扉を開けて、そこに佐々木がいたことに、俺はひどく驚いた。 否。ここで本当に驚くべきことは、佐々木がいたことではなくてむしろ。 「…………キョン?」 そう言って目を丸くしているのは、長机の上でスカートを丁寧に折りたたむ下着しか纏っていない佐々木だった。 「えっと、まずは扉を閉めてくれ。いくら僕でも、誰かにこんなはしたない姿を見られるのは恥ずかしいんでね」 「すまん!」 俺は飛び上がって、部屋の内側から扉を閉めた。 気まずい沈黙が二秒ほど流れる。 「…………キョン?」 「わ、悪いっ。わざとじゃないんだ!」 俺はあろうことか半裸の女のいる空間に押し入って扉まで閉めてしまった。スリーではきかないほどにアウトである。 しかし、佐々木はクスリと苦笑して、言う。 「いいよ、キョン。今キミが扉を開けたとして、廊下に別の誰かがいたらどうするんだい? 二次災害はごめんだよ。 だから、キミはそうやって、廊下側を向いてじっとしていてくれればいい」 「…………本当にすまん」 背後から聞こえてくる衣擦れの音が、やけに生々しかった。 体操服に着替えた佐々木は開け放った窓の縁にもたれていた。 俺はといえば、扉の前のスペースに土下座していた。 「申し訳ないね。迂闊だったよ。キミはいつも教室で昼食をとっているから、今日もそうなのだとばかり思っていた」 「佐々木は、いつも昼はここに来るのか?」 「いつもではないが、午後に体育があるときはよくここで着替えているよ」 「それは……悪かった」 「いいよ。油断して鍵を掛けていなかった僕が悪い。 あ、でも、あそこでキミがこちら側に残ったことについては、うん、全面的にキミの非だ。大いに謝罪してくれ」 「本当に……本当にすまん」 「じゃあ、帰りに何か奢ってくれるか?」 佐々木は窓辺でくつくつと笑った。その声が、風に乗って俺の耳を撫でた気がした。 放課後、俺たちは文芸部室には向かわずに学校を出た。 目的地は、俺たちの降りる駅の近くにある喫茶店だった。 そこでパフェとコーヒーを俺が佐々木に奢ることになっていた。 あんなことをしでかしたんだ。それで佐々木が許してくれるのならこんなに慈悲深く有難い話はない。 「そんな気に病むことはないよ、キョン」 駅に向かっている途中、鉛の枷でも嵌められたような俺とは反対に、佐々木は羽でも生えたようにうきうきと歩いていた。 「所詮は下着姿なんて、露出度を考えれば下手な水着よりもよっぽど防御力が高いだろう? キミだって年頃の健全たる男子なんだから、例えばアイドルのグラビアくらいは見たことがあると思うが、 それと比べればあの程度、何も取り立てて騒ぐようなものではない、と冷静になれば理解できるはずだけどね?」 佐々木は偽悪的に詭弁を弄した。俺は言われるがままである。 「あるいは……もしかするとキミの中では、露出度や美しさ以外のファクターが重きを占めているのかもしれないけれど。 はて。では、そのファクターとは一体何かな? 僕の下着姿とアイドルのグラビアにおいて、一体何の差異が、そんなにもキミを動揺させているのかな?」 俺は今にも泣きそうだった。 「なんて、ね。悪かった。キミが取り乱している姿なんてなかなか貴重だからね。 ついからかいが過ぎてしまったようだ。許してほしい」 佐々木はとぼとぼ歩く俺の前に回りこんで、両手を顔の前で合わせ、ウィンクをしてみせた。 卯月から皐月へとカレンダーが捲られると、いい加減に佐々木も飽きてきたのかくだんの一件についてはあまり触れなくなった。 佐々木がうちにやってきたのは、そんな新緑の候だった。 家族は揃って親戚のうちに泊りに行っているから、現在俺の家には俺と佐々木しかない。 確か先週くらいにたまたま俺の家までやってきた佐々木を玄関先で妹が見つけ、次にその妹がオフクロを召喚し、 佐々木に全幅の信頼を置いているオフクロは佐々木を見るやいなや俺の学習事情についてあれこれ聞き出し、 どうやらさほど芳しい成績ではないとわかると、ならゴールデンウィークは遊んでいる暇なんてないわねという結論に至り、 家族はみんな田舎に出掛けてるってのに俺だけが自宅に置き去りで佐々木と勉強でもしてろという運びになったのである。 本日の気温は三十度に近かった。 これでテレビをつけて甲子園でもやっていようものなら誰が今日が黄金週間なのだと気付けるだろう。 俺たちは、外界とは隔絶されたような俺の部屋に、机を挟んで向かいに座っていた。 「今年は暑くなるのが早いね。まだ五月になったばかりだというのに、真夏みたいだ」 佐々木はパタパタと片手を動かして、自分の白い喉元に風を送っていた。 しかし、リビングにならエアコンがあると言ったのになぜか俺の部屋がいいと言って譲らなかったのは、佐々木なのである。 そのくせ佐々木は暑い暑いと言って薄着になりどんどん俺の目のやり場を奪っていく。 困り者だ。わけがわからん。 「麦茶とってくる」 「お気遣いなく」 そう言えば、佐々木が俺の部屋まで上がるのは、これが初めてだったよな、と改めて思った。 「佐々木、麦茶持ってきた――ぞ?」 俺がお盆に麦茶をのせて部屋に戻ってくると、佐々木は何やら俺のベッドの下を物色していた。 「……佐々木、お前はそこで何をやっているんだ?」 佐々木はとぼけた顔で振り返った。 「いや、男子の部屋に来たらこういうのがお約束かなと思っただけだ。他意はない」 「悪意はあるだろ」 「さすがはキョン。目の付け所が違う」 「誤魔化すな」 俺はお盆を机の上に置いて、どかりとその場に腰を下ろした。 佐々木は目を細めて、顎に手をやり、何事かロクでもないことを考えているようだった。 「む、キョン。さてはその余裕。既に何らかの対策を講じてあったのだな?」 「当たり前だろ。思春期男子の自意識過剰的な神経過敏をナメんな」 「やるじゃないか。だが、キミとも長い付き合いだ。僕にはわかっているよ。ベッドでないとすれば――その学習机が怪しいね」 こいつ……心を読めるのか……!? 「あ、その顔は見事に当たりだったようだね、キョン」 「勘弁してくれ」 「こら、往生際が良過ぎるぞ。つまらない。やれやれだ」 それはこっちのセリフだよ、やれやれ。 佐々木がバカなことを言うから無駄に身体が熱くなってしまった。 俺は額の汗を拭って、麦茶に手を伸ばす。 「ところで、キョン」 「なんだ?」 俺は麦茶の入ったグラスに口をつけるところだった。まだ飲んではいない。 すぐに、口に液体を含んでいなくてよかったと思うことになる。 「その、僕はそんなに麦茶をオーダーした記憶はないのだけれども」 佐々木が細っこい指先でちゃぶ台の上を示す。 俺はびっくりして咳き込んだ。 きっと佐々木はそれを見越して、俺が麦茶を飲む前に指摘したんだろう。 「なんだこりゃ……?」 一、二、三、四、五……俺の持っているものを合わせて六つのグラスがこの部屋には存在していた。 「一人三杯ずつ、ってことでいいのかな?」 「わからん。やたら暑いからこれくらい水分が必要だと思ったのかもしれん」 佐々木は麦茶を手にとって、俯き加減にグラスに口をつける。グラスの露が佐々木の指と指の隙間に沁みていった。 「そうだね。今日は、本当に夏みたいだから」 「ああ、そう……だな」 しかし、耳を澄ませても蝉の声などは一切聞こえなかった。 当たり前のことだが、まだ、夏は来ていなかった。 麦茶によって佐々木の悪戯心に灯った火も一時的に収まったのか、それから俺たちは時が経つのも忘れて勉強をした。 佐々木はときに、中学の頃の内容に戻ってまで、俺に講義をしてくれた。 「これは僕の失策なんだ。去年、僕がキミに教えていたのは受験対策の勉強であってね、本当の理解を促すものではなかった。 できることならもっとじっくり教えてあげたかったんだ。今、こうやっているみたいにね」 「お前はあの頃からそこまで考えていたのか? 恐れ入るぜ。でも、やっぱり中学のときは受験対策を優先して正解だったと思うぞ。 おかげで、俺たちはまたこうして机を囲めるんだからな」 「そうだね。キミと同じ高校に入れてよかった」 「佐々木、それは俺のセリフだよ」 俺が苦笑すると、つられて佐々木も笑った。 「失敬、ちょっとお手洗いを借りるよ」 「トイレは階段を降りて、玄関近くの扉。風呂場の隣だからな」 「知っているよ」 佐々木は恥ずかしそうに微笑して、部屋を出て行った。 佐々木が出て行ったせいか、やけに部屋が広く感じられた。 いつだったか文芸部の部室に入ったときと同じ、もっと、誰かがここにいてもいいような気がした。 ところで、佐々木はどうしてうちのトイレの場所を知っていたんだろう。 うちに来るのもトイレに行くのもこれが初めてのはずなのに。 ま、どうせ佐々木のことだ。玄関を入ってから俺の部屋に来るまで、さりげなく間取りを観察していたとか、そんなところだろう。 あっという間に日が暮れて、もういい時間になり、佐々木は帰り支度を始めた。 「じゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。長々とすまなかったね」 俺はしばし迷ったが、結局それを言うことにした。 「あのな、佐々木」 「どうした?」 「実は、今日佐々木が来るってことだったから、昨日オフクロが出かける前に大量に晩飯を用意してな、 それがまた多くて、とても俺一人で食べきれる量じゃない。そこでだ……」 俺がもごもごと言葉を濁していると、佐々木は髪の毛を先に指を絡めて、ふっと俺から目を逸らして、小声で言った。 「それは……僕にここでご飯を食べていけ、と誘っているのかい?」 俺は慌てて付け加えた。 「嫌ならいいんだ。全然」 すると、佐々木も慌てて言い返してきた。 「嫌なんかじゃないよ。全然」 佐々木はなぜかムキになっていた。こんなのオフクロのおせっかいだってのに律儀なやつだ。 俺はつい笑ってしまう。 「……僕、何か可笑しいことを言ったかな?」 「いや、そういうんじゃない。そういうんじゃないんだが」 佐々木は、じゃあなんなんだ、と頬を膨らませた。 「なんでもないって。いいから、そうと決まれば早速食べようぜ。俺、ハラペコなんだ」 俺がそう言うと、不満げな表情から一転、佐々木はいつもの微笑み顔に戻って、小さく頷いた。 「僕もだよ」 佐々木は後ろ手に手を組んで、軽い足取りで俺の後ろをついてきた。 その、食後のことである。 「あ、いいよ。茶碗は僕が洗おう。任せてくれ」 そう言って佐々木はシンクに立ち、食器を洗い始めた。 じろじろ見ているのもなんだか子供扱いしているみたいで佐々木に文句を言われそうだったから、俺はテレビのほうを向いた。 そのとき、 「きゃっ!?」 佐々木の鋭い悲鳴――それは別人かと思うほど高い声だった――が聞こえてきた。 「どうした!?」 俺が振り返ると、 「あー……僕としたことが……」 胸から上に水を被った状態の佐々木が、困ったような顔で、小さく舌を出していた。 「ほら、キミの家の水道はレバーを上げると水が出てくるだろう? 僕の家とは真逆でね。 すると、水を止めようとしたときに、僕はつい反射的にレバーを上げてしまうわけで、となれば当然――というわけさ。人の家に行くとありがちなことだね」 佐々木は俺の持ってきたタオルで顔を拭いていたが、服に沁みこんだ水はどうしようもなかった。 「そのままじゃ帰れないよな」 「うん。できれば服を乾かしたいのだけれど、そのためには僕がこれを脱がなきゃいけないんだよ。全部、ね」 俺は佐々木の半裸姿をフラッシュバックしそうになった脳みそに天誅殺をくれてやりたくなった。 「そこで……折り入って相談なんだが、キョン」 「なんだ?」 「服と、お風呂を貸してくれないか?」 佐々木はさり気なくタオルで胸元を隠しつつ、そんなことを言った。 佐々木はそれから風呂に入り、濡れた服は自然乾燥させ、それが乾くまでは俺のパジャマを貸すことになった。 「シャンプーとかは適当に使っていいからな」 「何から何まですまないね」 「気にすんなって。俺はリビングにいるから、何かあったら叫んでくれ」 「承知した。そうだ、ところで、キョン」 「なんだ?」 佐々木は忍者のようにすっと俺の懐に入ってきて、拳でコツンと俺の鎖骨を叩く。 「覗くなよ?」 俺を見上げて微笑む佐々木。その前髪はまだ湿っていて、何本か額に張り付いている。 そのせいか、俺は今まさに佐々木の入浴シーンでも見ているみたいな錯覚に襲われた。 俺はぶんぶんと首を振って、溜息をつく。 「これもお約束ってやつか?」 「フラグを立てるとも言う」 「やれやれ。なんのフラグだよ」 結論から言うと、そのフラグは佐々木が俺の家に泊まっていくというフラグだった。 夕飯を一緒に食べ始めた辺りから半ば覚悟をしていたから、いざそうなってもあまり取り乱すこともなかった。 ま、佐々木が俺の部屋で寝ると言い出したときはさすがに焦ったが。 最終的に、やけに押しの強い佐々木に負けて、俺は床、佐々木はベッドで寝ることになった。 「電気、消すぞ」 「うん」 部屋が真っ暗になると、ベッドの中で身じろぎしながら、佐々木が声を落として言った。 「こういうのって修学旅行みたいでわくわくしないか?」 「そうかもな」 「キョンって好きな子はいるのか?」 「いきなり何を言い出すんだ、お前は」 「なーんて話をしたものだよね、ってことさ」 佐々木はそれからしばらく黙って、二、三度寝返りを打った。 「キョン、まだ起きているかい?」 「起きてるぞ」 「恥ずかしい話なんだが、実は僕はこの年になってもまだ人形を枕元に置いていたりするんだね」 「いいじゃないか、人形くらい」 「ありがとう。でも、問題は、その、僕は……人形を抱いていないと眠れないんだ」 「人形なら妹の部屋にたくさんあるぞ。持ってくるか?」 「キミのそういう発想は賞賛に値すると思うよ」 「どういう意味だ?」 「いいから、キョン、手を出して」 「ん?」 俺はベッドに向かって手を伸ばした。すると、ベッドからも手が伸びてきて、俺の人差し指と中指をぎゅっと握った。 「しばらくこうしていても、いいだろうか?」 「……いいぞ」 佐々木が俺の指を握っている間、俺はずっと、妙に大きく聞こえる目覚まし時計の秒針の音に耳を傾けていた。 ゴールデンウィークが終わるといよいよ中間テストが迫ってきた。 しかし、毎日のように文芸部室で佐々木のスパルタ教育を受けている俺に、死角はさほどなかった。 そもそも高一の中間なんて半分は中学の復習だから、そんなに構えるほどでもなかったのだ。 「キョン、こんなものを見つけたんだが」 そんな勉学にも余裕があったある日、佐々木が文芸部室の棚から、埃を被って日に焼けた一冊の小冊子を俺に見せてきた。 「いわゆる機関紙というやつだ。どうやら文芸部とはこういった形で活動をしていたんだね。 キミも読んでみるかい? ここで部活動をしていた先輩方が何を考え、何を表現してきたのか。 歴史が積み重なっているだけに、冊子を開くと、少しかび臭い匂いすらもどこか心地よいノスタルジィを感じさせてくれるよ」 「どうした、佐々木? 言い回しがやけに文学的だな。それに楽しそうだ」 佐々木はくつくつと笑う。 「気付かれてしまったか。そう。僕はね、せっかくだからこういうものを作ってみてもいいかな、と思っている。 一応僕たちは文芸部員として入部届を正式に学校に提出して、予算もいくらかもらっているわけだから、 たまには文芸部的活動をしなければちょっと体面が悪いだろうと思ってね」 そう言われてみればそうだった。 確かに、ここいらで機関紙の一つでも発行しなければ、あいつらは何をやっているんだって教師や生徒会から睨まれるかもしれない。 そんな要らぬ騒動に巻き込まれるのは避けたい。 となると……、 「そうだな。作るか、機関紙」 「お。てっきり渋るかと思ったのに、なかなか乗り気じゃないか」 「中間テストの対策もけっこう頑張ったしな。こういう息抜きみたいなイベントもあっていいだろ」 「大いに結構。では、早速だが機関紙の内容について議論しようじゃないか。キミは何か、意見はあるかな?」 聞かれて、自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てきた。 「二人しかいないからな。知り合いに寄稿を願うってのはどうだ? 文芸部の機関紙っつっても文字だけじゃつまらんし、例えば美術部のやつに挿絵を頼むとか、 写真部と一緒に街を回ってその様子を写真つきの記事にするなんてのもいいと思うんだが」 佐々木はわざとらしく大きく口を開けて、それを片手で隠した。 「すばらしいアイデアだよ、キョン。まるで作ったことでもあるみたいだ」 俺の口は佐々木のおだてに乗ってさらに滑らかになった。 「あとは、小説的なものを書くにしてもジャンルを散らしたいよな。 童話なんてのはさすがに対象年齢外か? だとすると高校生が好みそうなものは恋愛か、ミステリか……。 案外ホラーなんてのも受けるかもしれない。 といっても、別に小説にこだわる理由もないんだよな。 そうだ、佐々木、お前は勉強ができるんだから、そういうのをコラムに書いたらどうだ? ああ、それがいい。俺も読みたいくらいだ」 それを自分たちが作らなければいけない、ということを棚に上げて、俺はアイデアを出すのに夢中になった。 佐々木は、機関紙の構想を入道雲のように膨らませる俺を、何も言わずに微笑ましく見守っていた。 が、やっぱり二人ではできることに限界があったので、 俺たちは構想していたものよりもずっとささやかな機関紙を発行するにとどまった。 そこには、二編の短い小説もどきが載っているだけだった。佐々木の書いたものと、俺の書いたもの。 佐々木がミステリで、俺が恋愛物を書いた。 そこに至るには紆余曲折あったが、決定的だったのは佐々木の一言だった。 「僕は、キミの恋愛観みたいなもの、非常に興味があるよ」 「でも、俺は恋愛なんてしたことないしな。女と連れ立って街を歩くとか、そういうこともしてないし」 「わかった。じゃあ、僕が書くものを指定してあげよう」 「お、なんだ? 何か俺に書けそうなものがあるのか?」 「うん」 佐々木は急にぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、くるりと俺に背を向けた。 「キミは忘れているかもしれないが、一応、僕は生物学的には純正の女性なんだよ」 「別に忘れちゃいないよ。で、それがどうかしたのか?」 「キミの思考回路は本当にオッペケペーだな」 「意味がわからんぞ、佐々木」 「つまり、こういうことだ」 言って、佐々木はまた半回転して振り返る。片手を腰に、もう片方の手を胸に当てていた。 「僕のことを、書けばいいだろう?」 というわけで俺たちは擬似デートなるものを決行した。 擬似デート、というのはあくまで佐々木の言い回しだ。俺は断固として取材だと言い張った。 「さて、キョン。まずは腕を組むところから始めようか」 休日。俺たちは駅前で待ち合わせをして、街を歩くことにした。 「そうそう、キョン。僕、観たい映画があるんだよ」 佐々木に引っ張られて俺は映画館に行った。 チケットを買うとき、高校生二枚と言おうとした俺の言葉を、佐々木が遮った。 「恋人割引で。二枚お願いします」 佐々木は俺の腕をぐいと自分のほうに寄せた。俺は売り子のお姉さんに聞こえないように、佐々木に耳打ちした。 「お前、最初からこれが目的だったな?」 「はて。なんのことやら」 「やれやれだ」 ま、たとえ数百円でも、安小遣いの俺の財布には有難いけどな。 映画を観たあとは、また駅に戻ってきた。 浮いた分のお金でお茶でも飲もうということになったのだ。 例の贖罪の喫茶店にやってきた。 前回と違うことは、佐々木が、ボックス席の向かい側ではなく、俺のすぐ横に座ったことだった。 「キョン、キミは恋人と食事をするとき、テーブルで正面から向かい合いたいタイプかな? それとも、カウンター席のように隣り合う感じがお好みかな?」 「そんなものは知らん」 俺のそっけない返答が気に入らなかったのか、佐々木は俺の脇腹に肘を入れてきた。 「こら、佐々木、くすぐったいぞ」 「今のはキミが悪いね」 「わけがわからん」 この返答も佐々木はお気に召さなかったのか、今度は俺の腿を思いっきり揉みしだいてきた。 俺は不意打ちのくすぐったさに飛び上がった。 それを見た佐々木は一人大爆笑である。 俺は顔が熱くなるのを感じる。 「佐々木、ちょっと悪ふざけが過ぎるぞ」 「ごめんごめん。でも……くくく」 そのとき、コーヒーを運んできた半笑いの表情のウェイトレスさんと俺たちは目が合って、二人して顔を真っ赤にして俯いた。 衣替えと称する人類の脱皮が生徒達の間で行われたのは中間テストの後だった。 「今日はテストの見直しをしようか」 ジャケットの殻を脱ぎ捨ててブラウス一枚になった佐々木は、より線の細さが際立っていた。 風に吹かれたら、重なったテスト用紙みたいにぱらぱらと飛ばされてしまいそうだった。 無論、佐々木が軽そうに見える理由はそれだけじゃない。 「ところで佐々木、お前、髪切ったか?」 「いくらキミでも気付いてくれるだろうと思っていたが、指摘してくれるとは予想外だった。その通り。テストを終えた週末に切ったよ」 「伸ばしたりはしないのか?」 「伸ばしていたほうが好みだったかな?」 「いや……」 俺が口ごもると、佐々木は口元を吊り上げて、目を細めた。 「ほほう。そう言えばキミの容姿に関する趣味嗜好は聞いたことがないな。いわゆるフェチというか、萌える属性なんてものがあるなら、参考までに教えてほしいね」 佐々木は今や定位置となった窓際に立っていた。俺は鞄からテストの問題用紙とノートを取り出して勉強の用意をしつつ、答える。 「あったとしても、絶対に言わん」 「くくっ、残念だ」 佐々木は、見直しをしようと言ったくせに、窓の傍から動こうとしなかった。 そのせいで微妙な間が生まれてしまったから、それを埋めようとして俺の口は余計なことを言うのだった。 「ま、でも、短いほうが佐々木らしくて、俺はいいと思うぞ」 佐々木は驚いたように目を大きくして、ぱっと窓の外を向いてしまった。 「素直に褒め言葉と受け取ろう。嬉しいよ」 佐々木は顎のラインで切り揃えられた髪を手の甲に乗せるようにして後ろに流す。 薄着になって露になった佐々木の華奢な首や、喉、鎖骨にかけての白さが、目に痛かった。 「ん、どうしたのかな?」 俺の視線に気付いたのか、佐々木が振り返る。 「なんでもない」 「嘘だね。怪しい」 佐々木は椅子に座っている俺の元に跳ねるように近寄ってきて、上半身を屈めて俺の顔を覗きこんでくる。 ブラウスが重力に引っ張られ、佐々木の地肌との間に間隙が生まれる。俺は顔を顰めるフリをして目を閉じた。 「テストの見直しをするんじゃなかったのか、佐々木よ?」 佐々木はくくくと喉を鳴らすだけで、何も言わなかった。 梅雨入り宣言はまだ正式発表されていなかったものの、じめじめとカタツムリやナメクジが喜ぶ季節がやってきた。 その日も予報では雨だった。 しかし、朝目覚めると、外は布団を干したくなるようないい天気だった。 気象予報士の言うことなど当てにならんなと俺は思った。 そして、手のひらを返して、ついでにバケツも返したように天気が崩れ出したのは、掃除当番で遅れた俺が佐々木の待つ文芸部室に着いたときだった。 扉を開けると、まるでそれが合図だったように窓の外で稲光が瞬いた。 「やあ、キョン」 佐々木は雷に臆することもなく、定位置の窓際からちらりと俺に振り返った。 直後、ゴロゴロと轟音が胸を叩く。 「やれやれ。朝は晴れていたんだけどね」 佐々木が溜息をつく。俺も全く同意だった。 「本当に、やれやれだぜ」 俺は鞄を長机の上に置いて、教科書を取り出しながら訊く。 「佐々木、今日は何をやろうか。お前のおかげで最近の俺は理数系の調子がわりとよくてだな……あ、そうだ。 あれがどうしてもダメなんだ、古典。ありゃ本当に俺たちの母国語なのか? そもそもなんであいつらはあそこまで五七五七七に命をかけているんだ? もう少し説明してくれないとあれじゃ何を意図して言ってるのかまるでわからんじゃないか」 佐々木は何も答えなかった。じっと、窓の外を見つめている。 外は雨雲に覆われて暗く、俺の角度からは、窓硝子に写る、どこか遠くを見ている佐々木の顔が見えた。 「佐々木……?」 佐々木が呆然と物思いに耽っているのを見ると、なぜか俺は不安な気持ちに駆られた。 こういう暗い雨の日の、なんてことのない日常にひそむ無言が、俺には何かが起きる前兆のように思えてならなかった。 昨日と変わらない今日。 今日と変わらないはずの明日。 その法則から僅かにはみ出す瞬間。 それを見逃すと、取り返しのつかないことになる。 どうしてか俺は胸が騒いだ。 前にもこんなことがあったような気がする。 もっと寒々しい季節に、やはり天気はぐずついていて、その冷たさから逃げるように、俺は日常という名のぬるま湯に頭からつかって、目を閉じて、 それを見落とした。 しかし、それとは何だ? わからない。というか、俺の記憶のどこを探ってもそのような事件は見つからない。それなのに。ホワイ、なぜ。 窓の外にある黒雲が俺の心の中に這入ってくるような感じがした。 ずっと黙っていた佐々木は、僅かに目を伏せ、自嘲するように苦笑したかと思うと、ごくごく普通に喋り出した。 「ああ、ごめん、キョン。つい見入ってしまっていて。雷というのは非常に興味深いね。 知っているかい? あれが一種の放電現象であると人間が理解したのはわりかし最近のことなんだよ。 そして、その正体を知った人間は避雷針を作り出したんだ。これもすばらしい発明だね。 ま……どんなことでもそうだけれど、それまでずっと謎であった事象の正体が明かされてしまうと、多くの人は夢から覚めたみたいに拍子抜けしてしまう。 なんだそれだけのことか、とね」 佐々木は窓硝子にそっと触れて、表面をなぞった。 露が拭われて硝子に佐々木の指の跡が残った。 「世界はどこまでもシンプルにできている。と、僕は信じているよ。 人間にはどんなに複雑に見えても、そこには確固たる法則と、強固なる真実が隠れている」 佐々木は濡れた指先を見て、それから、二、三度その手を握ったり開いたりした。 「きっと、同じことは人の内面世界にも言えるだろうね。 悩んでいる本人には非常に複雑に見えても、本人ではない誰かがその人間に関するある程度の客観的データを一望すれば、 存外たちどころに心の本質やその人の本音を言い当ててしまったりするものだ。 それも、ひどくあっさりと……」 握った拳を佐々木は額に当てて、目だけでこちらを見る。 「ねえ、キョン。……キミは僕のことをどう思っている?」 「お前のことは尊敬しているよ。お前くらい頭のいいやつはいないと思うし、性格のいいやつもいないと思う」 「なら、キミにとって僕はなんだ?」 微笑む佐々木の目は、今の空模様みたいに光が足りなかった。 「お前は俺の親友だよ」 他に言いようがなかった。全人類の中で、俺にとって佐々木以上に親しい友人はいない。 「親友、ね……」 「そういうお前は俺のことをどう思っているんだ?」 俺が聞き返すと、佐々木はまた窓の外に目を向けてしまった。 しかし、それは外の景色を見るためではないだろう。 俺から目を逸らしてすぐ、佐々木が何かをこらえるように目を閉じた――のが窓硝子に映って見えた――からだ。 「わからないんだ……それが、僕にも……」 俺にも、今の佐々木はよくわからなかった。 次に佐々木が目を開けたとき、佐々木はいつもの佐々木に戻っていた。 「すまない。妙なことを言ったね」 「いや、そんなことはないが」 「今日の僕はちょっと疲れているみたいだ。 キミの日本文化と短歌に対する偏見を今すぐにでも是正したいのだが、それはまた今度にしよう」 「そんなのはいつでもいい。それより、本当に大丈夫なのか?」 「大丈夫。僕は大丈夫じゃないときは大丈夫じゃないと言うからね」 「その言葉、信じるぜ」 「ありがとう。じゃ、帰ろうか」 「そうだな……って、あ」 「どうした?」 「傘を持ってきてなかったんだ」 それを聞いた佐々木は、くくくと笑って、部室の扉の横のあたりを指差した。 ひび割れた壁に、佐々木のものと思われるライトブルーの傘が、ちょこんと立てかけてあった。 「キョン、もっと寄ってくれていいよ。濡れるだろう?」 「いや、俺が寄ったらお前が濡れるだろ。いいんだよ。鞄さえ守れれば、制服も俺も帰ったら洗えばいいだけだしな」 「それは僕だって同じことさ。だから、ここは痛み分けといこう」 「元々はお前の傘じゃないか」 「それを言うならキョン、なおさら所有者の言うことには黙って従うべきじゃないかな」 「ああ言えばこう言うやつだ」 「キミにだけは言われたくないよ」 俺と佐々木は一つ傘の下で、ひっそりと互いの身を寄せていた。 「もう二ヶ月も経つんだな、高校生になって」 「そうだね。時間に対して主観を述べるのはなんだか愚かしいことのようで憚られるが、敢えて明言するとしよう」 佐々木はありったけの実感を込めて、言った。 「あっという間だった」 続けて佐々木は言う。 「あっという間だったけれど、学んだことも多かった。そのどれもが、僕の存在などごく小さなものであると教えてくれた」 「佐々木がごく小さいなら俺は水素原子並みにミニマムだぜ」 「いや、キミの存在はそんなに小さくはないよ。少なくとも僕にとってはね」 佐々木はたまに俺を過大評価するときがある。そういうときは、きっと佐々木は何らかの性質の悪い病にでも侵されて参っているんだ、と俺は考えることにしている。 案の定、 「ああ……憂鬱だ」 「佐々木でも憂鬱になることがあるんだな」 「それはあるさ。僕だって心は普通の少女なんだよ」 「そんな風には見えないがな」 「見せてないだけだよ。ただの強がり」 そうこうしているうちに、俺たちは駅に着いた。 消毒液のような汚水のような、雨の日特有の匂いが充満する電車に詰め込まれて、俺たちは俺たちの家のある街の駅に着いた。 「今日は自転車は無理だろう。歩いて帰ろう」 いつも二人とも自転車だったから、こうして歩いて家に向かうのは、中三のとき以来、いつ振りだろう。 「大袈裟だな。高校に入ってからもたまに歩いて帰っていたよ」 「そうだったか?」 俺たちは再び肩を並べて雷雨の下に入っていく。俺と佐々木は足元の水溜りに気をつけながら、注意深く歩いた。 そして、それはほんの数メートル歩いただけのところ、まだ駅のロータリーを抜けていくらもいかないところでの、出来事だった。 「ジョン!!?」 その女の声が聞こえたとき、俺はリアルに雷に打たれたかと思った。 「ジョン! ジョン、ジョン!!」 知らない高校の制服を着た女が、長い黒髪を振り乱して、犬または外国人の名前を大声で連呼しながら、傘も差さずに猛ダッシュでこちらにやってきた。 女は全速力で走ってきてそのままノンストップに俺に飛び掛ってきた。俺は雨で濡れた歩道に押し倒される。 「ジョン……」 女は顔をぐちゃぐちゃに歪めて、雨だか涙だか鼻水だかを俺の服に垂らしてくる。 「会いたかった……」 女はパーフェクトに意味不明なことを言って、俺の胸に顔をうずめてくる。俺はまったく動けない。 例えば、ざけんなこのキチガイが、と叫んで蹴り飛ばせばよかったのかもしれない。 なのに、どうしても、俺は動けなかった。 逆に、どうしてか、気付くと俺は俺の胸で泣くその女の頭を撫でてやっていた。 わけのわからない感情が俺の中で渦を巻いた。まさしく渦中というやつだ。 そして、事態はますます混然と混沌と混迷を深めていく。 女に続いて、俺の周りに、これまた俺の脳の奥深くを刺激する人間が現れた。それもわらわらと。大量に。 ショートカットの無表情な女。この世の天使みたいな女。雑誌から抜け出してきたようなハンサム男。 ナイフの似合いそうなロングヘアの女。大人しそうな緑色の髪の女。 頭の悪そうな男。頭の良さそうな男。常人離れしたオーラを放つ八重歯の女。妙齢の女。執事が似合いそうな老人。兄弟っぽい中年の男二人、 ツインテールの小柄な少女。眉を顰めたしかめっ面の男。髪の毛の塊みたいな黒い女。 ほんとうにわらわらと、示し合わせたように、次から次へと湧いてきた。 しかも全員が全員とも俺のことを知っているみたいだった。 しかし、神に誓って、俺はそいつらを知らない。 否……。 思い出せない……? そこまで思考が飛躍して、俺はやっと我に返る。 そうだ、佐々木は? こんなやつらに構っている暇はないんだ。いくら佐々木だってこんな状況では驚愕しているに違いない。 早く、俺はこいつらと何も関係がないことを説明しなくては……。 俺は首を捻って周囲を見回した。しかし、佐々木はどこにもいなかった。 ただ、ライトブルーの傘だけが、その場に開かれたままで転がっていた。 俺はいつまでも俺の上に乗っかっている変態女を力ずくで引っぺがし、佐々木の行方を追った。 「ジョン!!」 女の叫びを振り払うように俺はその場から走り去った。 「佐々木!!」 俺は親友の名を呼んだ。 ここであいつを見失っては大変なことになる気がする。 しかし、どこに行けば……? 「佐々木!!」 俺の叫びは、無数の雨粒に吸い込まれ、空しく雷鳴に掻き消されるばかりだった。 そのとき、けたたましくクラクションを鳴らしながら、後方から一台の黒塗りの車が俺の目の前にドリフトで滑り込んできた。 車の扉が内側から開いて、そこからあのイカれ女が飛び出して俺の手を掴み、俺を車内に引き込む。 俺は必死に抵抗するが、追い討ちで背後から走ってきたハンサム男に身体ごと車に押し込まれ、敢えなく拉致された。 車の中は七人乗りで、後部座席には俺と、俺の両脇にイカれ女とハンサム男。 中の座席には無表情の女と、天使のような女。 運転席には妙齢の女が座っていて、助手席にはツインテールの女がいた。 全員ともついさっき会ったばかりの、見知らぬやつらだ。 なのに。どうしてなんだよ。今すぐ誰か俺にわかりやすく説明してくれ。 こんな状況を、心が懐かしいと叫んでいるのは、一体全体どういうわけなんだ。 「この方向で確かなのですか?」 「漠然とですけど、気配を感じます」 「……信用させていただきますよ」 運転席と助手席の二人が小声でそんな話をしているのが聞こえる。俺は呼吸することすら忘れてしまいそうなくらい気が動転していた。 「ジョン……」 隣のイカれ女が俺のことを心配そうにそう呼ぶが、そもそもその名前はなんなんだ。あんまり何度も呼ぶんじゃない。頭が割れそうに痛い。 息を乱して両手で頭を抱え込む俺を見てどう思ったか、さっきまでのドタバタが嘘みたいに、車内では誰もが口をつぐんでいた。 やがて、信号無視上等で公道を爆走していた車が、止まったことにも気付かせないくらい丁寧に停車した。 俺の隣の女が扉を開けて外に出る。俺はそいつに手を掴まれて、無理やり外に連れ出された。 そこは、うちの学校の校門だった。 女は今にも倒れそうな俺を校門まで引きずるようにして歩いていく。どこまでも自己中で強引なやつだ。 校門に着くと、女は何も言わずに俺の後ろに回って、校内に押し込むようにして俺の背中を両手で押した。 校内に一歩踏み込むと、そこは――俺は夢でも見ているのだろうか――静寂に包まれたセピア色の空間だった。 「なんだよ……これは」 俺は慌てて後ろを振り返るが、そこにさっきの黒塗りの車は見えなかった。降っていたはずの雷雨もやんでいる。なんの匂いも音もしない。 校門から外に出てみようとすると、目に見えない寒天みたいなものが俺の進行を阻んだ。 「どうなってんだよ。ちくしょう!」 待て。悪態をついても始まらない。冷静になれ。俺の今やるべきことはなんだ。 「佐々木……」 佐々木に会いたかった。佐々木に会って話をしたかった。そうしなければいけないような気がしていた。 何かがおかしい。何かがおかしかった。 でなければ、どうして俺はこの現実離れしたセピア色の空間に立っている今が現実で、佐々木と過ごしてきた高校の二ヶ月間のほうが夢のようだったと感じるんだ。 思えば、佐々木との日々はどこか現実感がなかった。でも、あれが現実じゃなかったとしたら、何が現実だって言うんだろう。 それを見極めなくては――と、俺が当てもなく歩き出したときだ。 「ここまで来たのは初めてだね、キョン」 いつからそこにいたのか、佐々木が、セピア色の葉を茂らせる桜の木の下に立っていた。 「やっと、と言うべきか、もう、と言うべきか。いや、英語で言えばどちらも『yet』なんだけれどね」 佐々木は微笑む。俺のよく知っている佐々木だった。 「しかし、ここで最もふさわしい副詞はなんと言ってもはこれだろう」 佐々木は楽しそうにセピア色の空を仰ぐ。 「『finally』」 それから、佐々木はちょいちょいと俺を手招いた。 「ついてきてくれ。僕の全てをキミに教えよう」 佐々木は校舎のほうに歩き出した。 セピア色の世界は、その色と、外界と隔絶されているらしいことを除けば、普通の世界となんら変わりなかった。 俺たちは昇降口から校舎に入って、部室棟へ向かった。 「キョン、キミは、世界を思う通りに変えられる能力を持ったら、どうする?」 「唐突だな。わからん。案外、何もしないのかもしれん」 「そうだね。キミはそういうやつだろう。そして、僕も、僕自身をそういうやつだと思っていた。しかし、それは間違いだった」 「どういうことだ?」 「僕は世界を変えてしまったんだよ。僕にとって都合がいいように、ね」 「それが事実なら大変なことだが……」 「ああ、大変さ。その上、僕は世界を何度となくリセットしている」 「リセット……?」 それはぞっとしない響きだった。 「まるでゲームのようにね。 自分に都合のいいように世界を改変し、うまくいかなかったら最初からやり直す。 もちろん僕以外にそれに気付いている人間はいない。 特にキミについては念入りに記憶を改ざんさせてもらったよ。 けど……やはり何事にも誤差は出るものだな。この世に完全はあっても完璧などありえない。 恐らくもうこれ以上はリセットしてもうまくいかないだろう。 今回が限度だ。次からの彼らは、きっともっと早く真実に辿り着いてしまう。 まったく、やれやれとしか言いようがないね」 「その、変える前の世界ってのは、どんなだったんだ?」 「いい質問だね。キミは実に会話に適した相手だ」 「佐々木」 「そう顔を強張らせないでくれ。そう、変える前の世界、ね。どこから説明すればいいものか……。 そこでは、キミはあのキミをジョンと呼んでいた彼女と同じ高校に通っていて、僕はこの高校に通っていた。 僕たちが中学を卒業して再会したのは、高校一年の、春休みのことだったよ」 「俺たちは時間を遡ったのか?」 「そういうことになるね。ちょうど僕が世界を変えたとき、旧世界の時間は、今の僕たちから見て来年の一月頃だったと記憶しているよ。 そして、そのときに世界を変える力が彼女から僕に移ったのさ」 「え? 元は佐々木のものじゃなかったのか、その……」 「願望実現能力、とみんなは呼んでいたね」 「その力はあのイカれ女のものだったのか?」 「イカれ女、なんて言ってはいけないよ。 彼女はとても聡明で、思慮深く、それでいて自分の心に真っ直ぐな愛すべき人物だ。 キミだって、彼女のそういうところが気に入っていたんだろう?」 「よくわからんが……それは本当に俺の話なのか?」 「正真正銘、キミの話だよ。キミと彼女――涼宮さんは、客観的に見て非常にいい仲だったと思う」 「わかった。お前が嘘を言うとは思えないからな、そうだったということにしておく」 「理解が早くて助かる。次は? 何が聞きたい?」 「……お前はどうしてこんなことをしたんだ?」 「そうだな。抽象的に言うとね、僕にはどうしても欲しいものがあったんだよ。僕はそれを手に入れるために世界を変えた。 いや、たぶん、本当に変わったのは世界ではなく僕なんだと思う。 まさにコペルニクス的転回、だ。こんな能力が備わって僕は変わってしまった。前にも増して弱く、独善的な人間にね」 「世界を変えて、お前は欲しいものを手に入れることができたのか?」 「いいや。さっぱりだ。何度繰り返してもうまくいかない。もうどれだけの時間が経ったのかも忘れてしまった。 今は何回目のループで、今はどの体験が未体験という設定になっていて、今はどの分岐ルートに入っているのか、どんどん曖昧になっていった。 僕自身はね、能力以外は普通の人間なんだ。記憶力にだって精神力にだって、限界はある」 「それは、そうまでして欲しいものなのか?」 「欲しいよ。でなければこんなことはしないさ」 「諦められないのか? 別の方法はないのか?」 「諦められたらどんなに楽だろう。まだやり残している方法があったならどんなに喜ばしいだろう」 「どうしてそこまで……?」 「どうしてだろうね。でも、考えてみてくれ、キョン。 自分が欲しくて欲しくてたまらないものが、やっと掴んだと思った瞬間に手をすり抜けたるんだよ。 掴めないんじゃないんだ。確かに掴むんだよ。一瞬だけ。そして、それは掴んだ感覚だけを残して、いつも僕の手から零れ落ちる。 本当、こんなに憂鬱なことはないよ。 何が願望実現能力だ。たった一つの願いも叶えられないくせに、だったら初めから、こんなもの、僕は要らなかった……」 「お前はそうまでして……何が……?」 前を歩いていた佐々木は立ち止まって、俺を振り返った。 その佐々木は、やはりいつものように微笑んでいた。 それがどれほどすごいことなのか俺には想像もつかない。 佐々木は、いつだって、佐々木であって、佐々木でしかない。 どんなに悲しくてもどんなに辛くても、微笑でそれらを隠してしまえる。 「キミというやつは、それを僕に聞いてしまうのかい?」 俺はそんな佐々木にかけるべき言葉が何一つ見つからない。 「さて、僕たちの部室に着いたね。入ろうか」 佐々木は文芸部室の扉を開け放った。 佐々木は真っ直ぐに窓際に歩いていく。俺もそれについていく。佐々木が窓を開けて、俺たちは窓の縁に並んで寄りかかった。 「キョン、見えるかな? セピアに塗れた遠くの山や街が。あれらはね、僕がちょっと願うだけで生まれたり消えたり変わったりするんだよ」 「その気もないことを言うなよ。俺にはわかるぞ。佐々木は間違ってもそんなことをするやつじゃない」 「そうだね、僕はそんな無意味なことをするやつではないよ。加えて、僕が間違っていることも明白だ」 「世界は……もうどうにもならないのか?」 「そんなことがあるはずないだろう。僕を誰だと思っている。そんな八方塞の袋小路にみすみす飛び込むような真似はしないよ。 僕なら知らない道にはパン屑を落としていくし、でなければ、蜘蛛の糸でも握り締めておくさ」 「どうするんだ?」 「全て――何もかも振り出しに戻す。 僕がこんな力を手に入れる前。僕がキミに再会する前。原始状態とでも言えばいいのかな。 ただ、完全なる原始状態ではまた同じことが起きてしまうだろう。 だから、僕が再びこの力を得ることのないように、ちょっとだけ手を加えるつもりだけどね。構わないかな?」 「それくらいは許されるだろうよ、たぶん」 「そうだね。そうであってほしいよ」 「やれやれ。やっぱり佐々木は佐々木じゃないか。俺が心配するだけ無駄だったみたいだな。 その世界を元に戻す作業とやらで何か俺にできることはあるか? 言ってくれれば手伝うぜ」 「キョン、世界が元に戻ると聞いた途端、そうほっとしたような顔をしないでくれないか? 僕の気が変わってしまう」 「そりゃ、お前がお前であったことに安堵しているんだから、ほっとくらいするだろ」 「違うね。キミが僕に対して抱く感情では、キミはそんな顔をしない。僕が累計でどれだけの時間をキミと過ごしてきたと思う? 僕が世界を変えてから、キミがそういう顔をするのは一つのシークエンスにつき一回だけなんだよ。ま、今回は二回目だけれども。 実際、それは僕の中で世界をリセットする合図みたいなものになっているしね」 「おいおい。人の顔をそんなヤバいことの判断材料にするのはやめてくれ」 「自覚がないなら後学のため――と言っても最後には忘れてしまうだろうけどね――に教えてやるが、 キミは考えていることがものすごく顔に出るタイプだからな。気をつけたまえ」 「有難く聞いておく。ところで、今回は二回目って、一回目はいつだったんだ?」 「知らないね。というか知ってても教えてやらないね。あと、直接見たわけではないから実際のところはどうかわからないんだよ。 あ、きっとあの顔をする、と感じて僕は逃げたから」 「逃げるほど嫌なのか、俺の顔が?」 「嫌だよ。だって悔しいじゃないか」 「なんでだよ」 「だから、どうしてキミはそれを僕に聞いてしまうかな」 「さて、お喋りはここまでだ」 「やるのか?」 「うん。『finally』と言ったろ。僕は自力で回避不能な無限ループに陥るほど間抜けじゃない。初めから時が来たらケリは自分でつけるつもりだったさ」 「それで元に――原始状態に戻るんだよな?」 「そうだよ。今のキミの主観時間としては進むけれどね。僕たちが高校二年になろうとしていた、あの春休みに」 「記憶はどうなるんだ?」 「さっきちらりと言ったように、完璧に抹消する」 「世の中に完璧はないんじゃなかったのか?」 「その辺りはご愛嬌さ」 「珍しく悪い面が出ているな、佐々木」 「まあね。では、最後の大仕事といこう」 佐々木は気合を入れるように窓から身を乗り出して、天を見上げ、大きく息を吸い込む。 「あ」 佐々木は何かに気付いたように声を上げた。 俺は佐々木の顔を見て驚いた。 佐々木は、上を向いて、いつもの微笑を浮かべて、涙を流していた。 上を向いていても、溢れてしまうほど、佐々木は泣いていた。 「恥ずかしいな。泣かないって、決めていたのに」 佐々木はゆっくりと俺に振り返る。 「キョン……。今の僕はどんな風に見える?」 俺は思ったことをそのまま口に出した。 「呼吸が止まるくらいに、綺麗に見える」 「……本当に……キミというやつは……」 佐々木は倒れるように俺にもたれてきた。俺は佐々木を受け止める。軽い。そして、薄い。強く抱きしめていないと消えてしまいそうだ。 「どうしてうまくいかないんだ……嫌だよ……終わりになんかしたくない……」 きっと最初で最後となるだろう佐々木の本音の告白は、涙とともに、俺の胸に沁みた。 腕の中で、徐々に、強張っていた佐々木の身体が弛緩していくのがわかる。 涙は一向に止まりそうになかったが、どうやら少しは落ち着いてきたみたいだ。 「すまないな……こんなことをして。キミも困るだろう……?」 「そんなことはない」 「わかっている。ありがとう。僕は、うん、もう大丈夫だと思うよ」 「それは何よりだ」 「これから世界を元に戻そうと思う。けど、さしあたってはキョン、一つお願いがある」 「いいぜ。なんでも言ってくれ」 「このまま抱いていてくれないか?」 返事をするまでもない。俺は佐々木を折れそうなくらいに抱き締めた。 「さて、キョン。ちょっと眩暈がするかもしれないが、我慢してくれよ」 世界の改変の中で俺の意識や感覚は引っ掻き回され放題だった。 唯一頼りになるのは佐々木を抱いている感触だけ。 そんな俺の頭の中に過去の断片のようなものが流れ込んできた。 セピア色の思い出。 俺と佐々木だけが登場する、とある高校での何気ない日常。 何千回も、何万回も、繰り返されてきた。 そこでは佐々木はいつも微笑していて、いつまでも変わらない俺の親友を演じていた。 俺はやっと理解する。 先に親友と言ったのは俺のほうだった。 だから佐々木は俺の親友になるしかなかった。 俺は佐々木自身が決めなくていけなかった選択を奪ってしまったんだ。そうやって俺は佐々木を感情の迷路に閉じ込めてしまったんだ。 わかってみれば、なんだそれだけのこと。 つまり、佐々木は、ただ、俺のことを――。 現在の記憶が世界の改変とともに失われてしまうのなら、俺は今この瞬間、今の佐々木に、それを言ってやらなければいけなかった。 「佐々木……」 俺は佐々木の顔を見ながら囁く。ぐるぐる掻き回されているマーブル模様の世界で、佐々木はまるで眠っているみたいに瞳を閉じていた。もう涙は止まっている。 「佐々木、おい、返事をしろ」 何も言わない佐々木に動揺した俺は、佐々木の肩を掴んで揺する。佐々木はゆっくりと瞼を持ち上げた。まだ少し赤い目が俺を捉える。 「血相を変えてどうしたんだ? 心配しなくても、今のところ万事順調に進んでいるよ」 佐々木は、俺を落ち着かせるように、柔らかく微笑んだ。 こんなときでも佐々木はいつもの佐々木のままで、それが俺を安心させた。 佐々木はいつまでも佐々木のままだ。俺が親友と認めたやつのままだ。 だから、お互いもう隠すのはやめにしよう。 ループの記憶をまとめて思い出した今なら、さすがの俺だってお前が何を考えていたのかくらいわかる。 でも、その上で俺はやっぱり違うと思うんだ。俺たちの関係にぴったりなのは親友だと思うんだ。そうじゃなかったらそれは俺たちじゃないような気がするんだ。 それに、本当はお前だってそう思っているんだろう? だってそうでなきゃとっくの昔に世界なんて滅んでいたはずだろ? なあ、佐々木、お前だって本当はわかっているんだろう? だから、頼む――。 次に会ったときは、お前から先に、俺に親友って言ってくれ。 「佐々木、聞いてくれ」 「どうした?」 「俺はお前に伝えておきたいことがある。重大なる俺の秘密だ」 「今頃になってどうしたんだ? 改まって」 「いいから聞け。間違っても、笑うんじゃないぞ」 「笑わないよ。なんだい?」 俺は佐々木の目を見つめて、告白した。 「親友よ、俺はポニーテール萌えなんだ」 直後、視界が歪み、佐々木を掴んでいた感触もなくなって、世界がブラックアウトした。 その真っ黒なスクリーンに、短い髪を無理やり後頭部で一本に纏めようと尽力している佐々木の残像が映った――気がした。 ベッドから転がり落ちた痛みで俺は目が覚めた。時計を確認する。今は午前四時四十七分だった。 今日はハルヒがフリマ云々と言っていたから少しでも眠って体力を温存しておかなければいけないってのに。 俺はこんなときだけ瞬発的に覚醒して一向に眠れそうにない頭をぼりぼりと掻きながら溜息をつく。 「やれやれだぜ」 眠れないなら仕方がない。身体だけでも横になっていれば多少はマシだろう。と、俺はベッドに戻った。 はて。 なんとなく、さっきまでいい夢を見ていたような気がする。 が、内容がまったく思い出せない。 残念だ。 どんな夢かは知らないが、いい夢なら、せっかくだからもうちょっとだけでも夢の続きを見ていたかったのに。 俺は布団を被って目を閉じる。 瞼の裏に、セピア色の残像が見えた。 「やあ、キョン」 それは久しぶりに会う懐かしい友人からの一言だった。 しかし、それはまるで昨日までずっと会っていた親しい友人からの一言にも思えた。 だから俺も、最初こそすぐ背後から声がしたことに驚いたが、振り返って声の主を見て取れば、思い出すよりも先に声を出すことができた。 「なんだ、佐々木か」 佐々木は、昔と変わらない、どこか柔らかい皮肉に包まれた微笑を浮かべていた。 「なんだとは、とんだご挨拶だな」 それから俺たちは、しばし昔話に花を咲かせながら、駅までの短い道のりを歩いた。 「キョン、キミは変わってないな。安心したよ」 「なぜ佐々木に安心されねばならん。というか、お前も全然変わってないぞ」 「本当に、そう思うかい……?」 佐々木は、ふと、頭の後ろに手をやった。 俺は少なからず驚く。 確か中学の時はもっと短かったはずなのに。 どういう心境の変化だろう。 「いかがなものだろう。感想を聞かせてくれ、親友」 佐々木はここぞとばかりに微笑する。 「似合うかな?」 見事に完璧なポニーテールが、そこにあった。 <完>
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