涼宮ハルヒの驚愕γ(ガンマ) 2
※注意書き※
涼宮ハルヒの驚愕γ(ガンマ) のγ-7の続きとなります。思いっきり驚愕のネタバレを含むので注意。
涼宮ハルヒの驚愕γ(ガンマ)
γ-8翌日、火曜日。レアなことに、意味もなく定時より早く醒めた目のおかげで、俺は学校前の心臓破り坂をのんびりと歩いていた。日々変わらない登校風景にさほど目新しさはないが、一年生らしき生徒どもが生真面目に坂を上っているのを見ると去年の自分の影がよぎる。 そうやってのびのび登校できんのも今のうちだぜ。来月にでもなりゃウンザリし始めることこの上なしだからな。ふわあ、とアクビしながら、俺はやはり無意味に立ち止まった。突然にSOS団に加入してきた佐々木、その佐々木を神のごとく信仰する橘京子、そして、何をしでかしてくれるか予測すらつかない周防九曜。さて、これから何がどうなるのかね?「ふむ」俺は生徒会長の口調を真似てみた。考えていても前進せんな。まずは教室まで歩け。そこで団長の面でも拝むとしよう。俺の学校生活はそうせんと始まらん。いつしかそういう身体になっちまった。その日の授業中、ハルヒはロープで繋いでおかないと宙に舞い上がりかねないほどソワソワした機嫌を維持していた。そのお眼鏡に適う新入団員を得られたのがよほど嬉しいようだ。 その日の昼休みも、ハルヒ謹製弁当と俺の母上作弁当との間の強制的おかず交換が実行され、クラスの連中から好奇の視線が向けられた。ハルヒよ。これずっと続けるつもりか?一緒にメシ食うぐらいならともかく、こんなことを毎日やっていたら本気で勘違いする奴が出てくるぞ。校舎中のスピーカーが本日の営業終了を伝えるチャイムを鳴らし終えるとほぼ同時に、ハルヒは俺の腕をつかみ教室からすっ飛んで行った。目指すは、当然、我らが文芸部室である。 俺と古泉はUNOで対戦、朝比奈さんは部室専用メイド、長門はいうまでもなくいつもどおり。ハルヒはパソコンを立ち上げるとなにやら印刷し始めた。やがて、佐々木がやってきた。「やあ、待たせたね、キョン」おいおい、いくらなんでも早過ぎないか? 佐々木の学校からここまで来るには結構時間がかかるはずだが。俺にしか聞こえない小声で古泉が答えた。「『機関』から送迎の車を回してます。橘さんの依頼もありましたしね」なるほど、そういうことか。「団長に挨拶なしというのは、どういうことかしら?」ハルヒがまるで姑が嫁をいびるかのようにそう言った。「ごめんなさい。うっかりしてたわ」「次からは気をつけなさい」そして、唐突にこう宣言した。「これから、佐々木さんには入団試験を受けてもらいます。今はあくまで仮入団段階。試験で落第点をとったら退団となるので、心して受けるように」「おや、それは初耳ね」いつものごとくハルヒの突発的思い付きだろう。ハルヒは、ちょうどいい暇潰しネタを見つけてしまったようだ。佐々木も災難だな。プリンタから吐き出された紙が一枚、佐々木に手渡された。「試験は、ペーパーテストよ。制限時間は三十分。文字制限はなし」そして指し棒をスチャッと伸ばし、「始め!」佐々木は、机に向かって、シャープペンを動かし始めた。俺は、ハルヒが余計に印刷してしまったらしい紙を手に取ると、書かれている内容を確認した。・Q1「SOS団入団を志望する動機を教えなさい」・Q2「あなたが入団した場合、どのような貢献ができますか?」・Q3「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者のどれが一番だと思うか」・Q4「その理由は?」・Q5「今までにした不思議体験を教えなさい」・Q6「好きな四文字熟語は?」・Q7「何でもできるとしたら、何をする?」・Q8「最後の質問。あなたの意気込みを聞かせなさい」・追記「何かすっごく面白そうなものを持ってきてくれたら加点します。探しといてください」これのどこがテストなんだ? 単なるアンケートだろ?それでも、佐々木は真面目に取り組んだようで、回答はA4用紙表裏2枚にわたる大作となった。ハルヒは渡された回答用紙を読み終わって、「まあ、及第点ね」ハルヒは回答用紙を適当に畳んでポケットに収めた。「おい、俺にも見せろ。あんな問題でどうやって4ページにわたる大作論文が書けるのか興味がある」「それはダメ」にべもない返事だった。「守秘義務に反するわ。個人情報でもあるし、やたらと見せるわけにはいかないの。これはあたしが決めることだから、あんたに見せても意味がないってわけ」よく輝くデカい瞳で俺を睨み、「特に興味本位のヤツにはね。団員の選定は団長の仕事よ」団長は断固拒否の態度を崩さなかった。その後、俺は、朝比奈さんの豊潤な芳香立ち上るお茶で満たされた湯のみを片手に、UNOで古泉に連勝し続けた。無事テストをパスした佐々木は、朝比奈さんとお茶の薀蓄を語り合っている。さりげなく長門に目を向けてみた。読書を続ける文芸部部長は、椅子から一ミリも離れず不動たるノーリアクションのままである。長門が無変化で無言の体勢を崩していないということは、何の問題も起きていないということでもある。少なくても、あの九曜に動きはないようだ。いつものように長門が本を閉じるのを合図として、団活は終了した。昨日と同じように佐々木と帰路を共にすることになったが、いくら訊いても入団試験の回答内容は教えてくれなかった。「団長の意向に逆らったら、退団させられるかもしれないからね」佐々木の顔は、どう見ても自分の言葉を信じているようには見えなかった。わざわざ学外の人間を入団させたんだ。ハルヒは、佐々木をそう簡単に退団させたりはしないだろう。そのことは、佐々木も分かっているようだった。γ-9翌日、水曜日。これが一時的なのか、この後も続いて加速度を増すのか、とにかくポカポカ陽気は春を超えて初夏というべき気候にホップステップという感じでジャンプアップを遂げていた。そういや去年もこんなんだったような。 どうやら地球はどんどんヌクくなりつつあるようで、それが人類のせいなんだとしたら早いとこなんとかしないと、シロクマや皇帝ペンギンから連名の抗議文が全国各地の火力発電所気付で届くに違いない。字の書き方を教えに行ってやりたい気分だ。 そんなわけでこの朝、登校ナチュラルハイキングに甘んじる俺のシャツは早くも汗で張り付くようになってきた。隣の芝は青々と茂って俺の目にうすら目映く、それにつけても冷暖房完備の学校が憎くてたまらん。 今度会ったら生徒会長に注進してみたい。実際的な予算の有無はともかく、喜緑さんの宇宙的事務能力ならエアコンの二十や三十、たちどころに設置完了となるかもしれない。 俺の足取りはいつものペースだが、多少早歩き気味なのは無常な校門が閉ざされてしまう時間ギリギリであるせいである。いつものことなんだが、余裕をもっての登校がついぞ実行できてないのは、家を出発する時間がおおむね決まっており、遡れば起床の時間も一年から二年になっても変化していないという事実をもってその答えとしたい。 一回間に合いさえすれば、次からも同じ時間での発走となるのは、実は人間が持つ経験値蓄積の結果と言うべきだろう。用もないのに早朝の学校に行きたがる生徒なんざ、ボロ校舎に倒錯的な趣味を持つフェティシズムの持ち主だけさ。 本日、通学路の途中、毎度のことながらひいひい言いつつ坂道を上っていると、背後から意外な人物の声がかかった。「キョン」国木田だった。俺の後を急いで追ってきたんだろう、国木田は荒い息を吐きつつ、「佐々木さんがSOS団に入ったそうだね」なんでおまえが知ってるんだ?「昨日、校内でばったり会ってね。あまり話す時間はなかったけど、中学時代と変わってなかった」まあ、そうだな。「でも、佐々木さんもキョンも最近、九曜さんと知り合ったと聞いたときには驚いたよ。こんな偶然もあるのかなって」おいおい、なんでおまえが九曜を知ってるんだ?「谷口の元カノだよ」前に言ってたクリスマス前に交際が始まって、バレンタイン前に振られた彼女か?驚いた。それは、本当に偶然なのか?「世間は意外に狭いってことなんだろうけどね。ただ、谷口には悪いけど、九曜さんに最初に会ったとき、関わり合いにならないほうがよいと直感したんだ。なんか普通の平凡な人間とは違うような気がしたから」 鋭い────。とも言えないか。あの九曜を見てうさんくささを感じないまともな人間がいるとも思えんからな。国木田の感想は至極まっとうなノーマル人間のそれだろう。 「僕なら彼女と付き合ったりはしないね。谷口くらいのものさ。でさ、実はね────」声をひそめた国木田の顔が接近した。「ちょっと言いにくいんだけどさ。僕は似たようなことを朝比奈さんや長門さんにも感じるんだ。気のせいだとは思ってるんだけど、どこかが違う。けれどあの鶴屋さんが足繁くキョンたちの輪に入っていることを考えると、それは警戒するものでもないだろうとも考えるんだけどね。 いや、ごめんよ、キョン。気にしないでくれよ。一度言っておきたかったんだ。SOS団でまた僕の活動が必要なときはいつでも声をかけて欲しいね。できたら鶴屋さんと一緒がいいな」 その後、教室まで、俺と国木田はどうでもいいような日常的会話に終始した。国木田は言うだけ言ってそれっきりすべての興味をなくしたように、中間試験の心配や、体育の授業でする二万メートル走への愚痴を語っていたが、なかなか見事な日常話題への切り替えだった。 こいつはこいつで俺にライトなアドバイスをしてくれているつもりなのか。特に鶴屋さんへの言及は、漠然としながらもなかなか核心をついた洞察力だと言わざるをえないだろう。 ここにも俺たちをよく解らないまでも心配の種としている同級生がいるわけだ。何しろ国木田は俺と佐々木を知っている唯一のクラスメイトだしな。俺たちの間に何か奇妙かつ歪んだ関係性めいたものがあると感づいていてもおかしくない。 聡く、親身になってくれる友人を持って俺はなんと幸せ者か。テスト前のヤマ張りでもお世話になっているし、中学時代からの付き合いでもあることだし、そろそろハルヒにかけあって単なるクラスメイトその一以上の認識を与えるべきだろう。 ただし谷口は除かせてもらうがな。奴には永遠の一人漫才師がお似合いだぜ。きっと国木田もそう思っているのだろう。だから、先ほどのようなセリフを俺たち二人しかいない、このタイミングで俺に吐露したんだ。どうも俺の周辺の一般人ほど、なんだか妙に勘がさえてくるみたいだな。誰の影響だろう。午前午後の学業時間はこれということなく進行し、俺が授業の半分くらいをうつらうつらしている間にいつのまにか終業のチャイムが鳴っていた。なお、本日の昼休みもハルヒ謹製弁当と俺の母上作弁当との間で強制的おかず交換がなされたことを付言しておく。放課後。ハルヒとともに団室に入った俺は、鞄を床に置き、古泉の向かいに座った。「どうです? 一局」古泉が、テーブル上の盤を俺のほうに寄せてくる。「なんだ、これは」一風変わった盤上に丸い石。刻まれている漢字は『帥』とか『象』とか『砲』などの、動かし方の検討もつかないチャイニーズミステリアスな様相を呈する駒だった。オセロでも囲碁でも軍人将棋でも連戦連敗の古泉め、今度こそ勝てそうなボードゲームを搬入してきたということか。「中国の将棋です。象棋(シャンチー)とも呼ばれていますね。ルールさえ覚えたら、気軽に誰でも楽しめますよ。たいして難しくはありません。少なくとも大将棋よりは手短に終わるでしょう」 そのルールさえ、という部分が問題なのさ。そいつを覚えるまで俺は連戦連敗の苦汁を舐め続けるに決まってるじゃないか。花札にしないか? オイチョカブでもコイコイでも母方の田舎ではちょいと鳴らした経験がある。 「花札は盲点でしたね。いずれ持参しますよ。それでこの象棋ですが、チェスや囲碁将棋と同じでゼロサムゲームだと解っていれば、それで充分です。あなたならたちまちのうちにルールを飲み込めます。 差し掛けの囲碁の盤面を見て、あっさり勝敗を看破できる実力があれば鉄板ですよ。これもボードゲームとしては運の要素があまりありませんから、あなた向きだと思いますよ」 余裕の笑みを浮かべ、「では、最初は練習ということで、初戦は勝敗度外視でいきましょう。まずこの『兵』いう駒の動かし方ですが──」俺は古泉に教えられるまま、駒を並べ、それぞれの動きの把握にかかった。将棋に近いが細かい部分はけっこう違う。まあチェスやオセロにも飽きていたことだし、新しいボードゲームに親しむのも悪くはないかな。 「お待たせしました」天使のような声色とともに、お盆に湯飲み載せた朝比奈さんが視界の中に入ってきた。「ルイボス茶といいます。カフェインゼロで健康にいいそうです」朝比奈さんから湯飲みを手に取り、赤茶けた液体を一口すすり、同様の行動をとった古泉と数秒後に目が合った。「……風変わりな味ですね」微苦笑とともに感想を述べた古泉とまるごと完全に同感である。決して不味くはない。かといって刮目するほどの美味さでもない。むしろ口に合わない、妙な風味がする。 これなら煎茶や麦茶のほうが忌憚なくがぶ飲みできるだろうが、正直に舌の具合を報告するには俺はちと小心者すぎた。「違うのとブレンドしたほうがいいかなあ?」朝比奈さんはさらなる改良を思案しているようだった。そこに佐々木がやってきた。ハルヒは、佐々木がやってくるなり、「佐々木さん、パソコン詳しい?」「人並み程度だけど」「そう? じゃあ」団長机に鎮座するコンピ研印のパソコンディスプレイには、例のSOS団ウェブサイトが、かつて俺が作った状態のまま表示されている。もちろんショボいレイアウトにチャチなコンテンツと、意味のある文字列などメールアドレスしかないという、今時日進月歩で進化し続けるネットの世界において、ほとほと時代遅れなホームページであると言わざるをえない。 ブログ? 何それ? って感じのデジタルデバイトっぷりである。そのうちリニューアルすべし、とハルヒの意気だけは高かったが、もっぱらその役目は俺に任じられており、そしてそんなもんはまったくする気のなかった俺はなんやかんやと理由をつけて先延ばしにし続けていたわけで。 実際、SOS団の名がネットワークに流失して誰一人幸福な結果になりそうにないというのは、去年のコンピ研部長の件でも明らかだったため、ハルヒには適当に忘れていて欲しかったのだが。 アクセスががんがん増えてネット内知名度を高める野望を未だ捨てきっていなかったらしい。もちろんハルヒは長門がロゴマークに細工したことを知らないし、気づいてもいない。「サイトをもっと人目を呼ぶようなのにしたいだけど、できるかしら?」と、ハルヒは付けっぱなしのパソコンモニタを指さし、「SOS団のメインサイト。キョンが作ったきりのまるで殺風景な役立たずな代物なのよ。なにより美しくないわ。世界にはもっとスタイリッシュで情報満載なサイトがたくさんあるっていうのに、これじゃワールドワイドウェブの名が泣くというものよ」 悪かったな。「ご期待にそえるかどうかは解らないけど、やってみるわ」古泉と象棋に集中している間も、俺は他の団員の様子をちらちらと窺っていた。長門は本を読んでいる。黙々と読んでいる。新しい団員が増えたところで所詮それは文芸部の新戦力ではないと達観しているのか、一年前からこの部室での態度はアイスランドの永久凍土のように不変だった。 膝に置いている単行本がやや薄茶けているが、古本屋から掘り出し物を入手した稀覯本なのかもしれない。こいつの行動範囲も市立図書館から広がりつつあるのか。寂れた古書店を巡ってふらふらした足取りで本棚から本棚へと移動している長門を想像し、俺の精神はどことなく落ち着いた。佐々木にウェブサイトデザイナーの才能はなかったらしく、SOS団ホームページは結局はあまり前と変わり映えしない感じに落ち着いた。佐々木に言わせれば細かい点ではいろいろと改良されたということらしいのだが、見た目では解らん。帰り道。俺と佐々木の今日の議題は、国木田が朝、話していたことだ。周防九曜について、佐々木の率直な意見を聞いてみたかった。「九曜さんについては、僕もいろいろと試行錯誤しながら考えてみたんだけどね」佐々木はそう前置きしてから、「僕は子供の頃から、地球外生命体がいるのなら、いったいどんな姿形をしているのかと想像していた。小説やマンガでは、光学的に視認できる形状のものが多かったし、ある程度の意思疎通も可能であることが前提条件だった。 たとえば素数の概念を理解してくれたりね。翻訳機という便利なアイテムが登場することも稀ではなかったな」そこから始まる宇宙的対話がキモであるSFは枚挙のいとまがない。これでも俺は長門の影響で最近の小難しい海外SFを多少はたしなんでいる。フィクションから学ぶことだって多いのさ。 「ま、それはそれで置いとくとして、長門さんの情報統合思念体や、九曜さんの広域帯宇宙存在については、どうやら人間の紡ぐ解りやすい物語上の異星人とは根本的なズレがあるように思える」 火星や水星にヒューマノイドタイプの宇宙人がいたと書いていた前時代のSF作家たちに聞かせてやりたい言葉だ。たぶん当時よりもっと面白い物語活劇を書いてくれだろうにな。 「そうだね。SFに限定することもなく、例えばJ・D・カーがこの時代に生きていたら、現代技術を取り込んだ奇抜で新機軸な密室トリック小説を大量に生み出して、僕を読書の虜にしてくれたものなのにね。 いっそカーを時間移動で現在に連れてこられないものだろうか。キミの朝比奈さんに頼んでみてくれないかな。真剣にそう思うよ」残念だが俺だって過去に連れて行かれたことがせいぜいで、未来には行けてない。きっと禁則事項やら何やらで、進んだ時間の世界には行けないことになってるんだろう。 「それは余談だけどね。思うに、彼女たちは僕たち人間の価値観と理屈が理解できないんじゃないかな。高次元の存在が無理矢理、人間のレベルまで降りてきているわけだから、何を話しているのかは解っても何故そんなことを話しているのか解らない。あるいはどうしてそんな話をする必要があるのか解らない、みたいにね。 5W1Hのうち、誰とどこは判断できても残りが全然ダメだとしたら、そんな存在とまとな対話ができると思うかい?」思わないね。長門の言ってることすら納得不能に近いのに、九曜に至っては5W1Hのどれも噛み合わない感じだ。しかし、佐々木は、「この手のコミュニケーション不全は特に難しい問題ではない。たとえばキミはミジンコやゾウリムシの価値観を理解できるかい? 百日咳バクテリアやマイコプラズマと一緒に談笑できると想像できるかな?」 俺の知能ではちと難しいことは確かだな。「単細胞生物やバクテリアが人間レベルの知能を獲得したとしても、きっと同じ感想を抱くと思うよ。この二本足で歩く哺乳類はいったい何がしたくて生きているんだろう。人類はこの惑星と世界をどうしたいのか、と疑問以前に呆れるかもしれないな」 俺自身、何がしたくて生きてるのかなんて考えても解らんからな。全人類的に考えて圧倒的多数派であるとは信じているが。「たとえばキョン、キミにとって一番大切なものは何だい?」突然言われても、とっさには出てこない。「僕もだよ。高度に情報の錯綜する現代社会において、価値観が定量化されることはまずないといっていい」佐々木の表情と口調は変化しない。「たとえば、ある人にとっては金銭かもしれないし、情報だと言う人もいるだろう。別の人は絆こそが最も大切だと主張するかもしれない。それぞれ全然別の価値基準を持っているものだから、自分の価値観のみでこの世のすべてを判断することはできない────と、僕もキミも知っているだけの話さ。だからこそ、問われてすぐさま回答を出すことができないわけだ」 そうかもしれない。「でも昔の人はそんな問いかけにそれほど悩まなかったと思うよ」そうかもしれない。今でこそ情報は好きなときに好きなだけごまんと手に入る。しかしほんの百年、いや十年前でさえ入ってくる情報は限られていた。これが戦国時代、平安時代ともなるとどうだ。 何かを選ぶことに対し現代人より躊躇いは深いものだっただろうか。当時、選びようにも選択肢は限られていたにちがいない。多様性を増して選ぶ自由が増えたと言っても、逆に何を選べばいいのか悩むのであれば、むしろそれは多様化による選択の弊害になるんじゃないか? どれを選ぶべきなのか何の情報もないとき、人はより多くの人間が選ぶものを手に取るだろう。 それだと本末転倒だ。多様化どころか、実は一極集中が進んでいることになる。価値観の均一化だ。「どうも異星人たちは拡散よりも均一化を正常な進化と考えていたようなんだ」佐々木の声は常に淡々としている。「でも、どうやら違う側面もあると気づいた気配があって、それはたぶん、涼宮ハルヒさんやキミと出会ったことがきっかけになっていると僕は推理するのだがね」ハルヒはいい。あいつなら火星人に大統領制を承認させるくらいのことならやってのけるさ。しかし、俺にそんなバイタリティはないぜ。「いやいや、実際、キミはたいしたやつだ。橘さんから聞いた話だけでもね。さすがは、涼宮さんと僕が選んだ唯一の一般人だ」今の俺の意識は選民意識とはほど遠い地点にある。そんな自信満々に言われてもただ困惑するだけだ。選ぶだの選ばれただの、何なんだよそりゃ、と言いたい。叫びたい。 長門や古泉や朝比奈さんが俺を特別視したがっているのは解っているし、俺だってそこそこの覚悟を持っている。去年のクリスマスイブに腹をくくったさ。それは今でも作りたての豆腐のように心の深奥に沈んでいる。 ハルヒの無意識が何かをしでかした結果として俺がこんな立場に置かれているのは渋々ながらも認めざるを得ないとして、佐々木、お前までもが俺を選んだと言うのはどういうことだ。 ハルヒは徹底的に無自覚なはずで、お前はそうじゃない。神もどき的存在であるという、ちゃんとした自覚があるはずだ。理解しているんだったら教えてくれ。なぜ、俺を選ぶ。「ふっ、くく。キョン、キミの鈍重なる感性には前から気を揉ませてもらっていたが、この期に及んでまでそんなことを言うとはね」愚弄しているのではなく、単に呆れているだけのようだった。「まあ、それはともかくとして、キミの類稀なる経験を今回も生かしてもらいたいと思う。できれば、話し合いで解決してほしいね」相手にその気があるのならな。問題はその相手が何を考えてるのかすら解らないことだ。いきなり武力行使に及ぶ可能性だって否定できない。相手がそうしてきたら、もう長門に頼るしかない。宇宙人的パワーの前には俺なんてミジンコ以下だろうからな。場合によっては、喜緑さんにも出張ってもらおう。佐々木は、別れ際にこう言い残した。「キョン。団共有のパソコンにMIKURUフォルダなんて隠しフォルダを設けるのは、あまり感心しないね。そういうのは、自分専用のパソコンでこそこそやるものだ」 驚愕の俺の顔を置き去りにして、佐々木は颯爽と去っていった。γ-10翌、木曜日。朝から夕方まで普通にルーティーンな授業を受け続ける時間が、ひねもすが地を這うごときにだらりんと続き、ホームルーム終了の合図でようやく俺とハルヒは五組の教室から自由の身となった。 俺とハルヒは一目散に教室を飛び出した。言っておくが俺はあくまで団長殿に腕を引っ張られての強制連行に近いのだぜ。そこだけは勘違いしないでいただきたい。そうしてハルヒと肩を並べて文芸部室まで行く道のりもいつも通りなら、学内の春的雰囲気も普段どおりである。四月も半ばとなるとすっかり春という季節に飼いならされちまう。 さすがは四季、頼みもしないのに律儀に毎年現れて、悠久の歴史で地球上の生物をコントロールし続けるのも伊達ではないと言ったところか。だが、毎日毎日、何もかもいつもどおりというわけではなく、「あっ、涼宮さん。長門さんと古泉くんは今日は用事があって来られないそうです」部室のドアを開けるなり、メイド姿の朝比奈さんが駆け寄ってきてそう言った。「そう。なら仕方ないわね。今日は団活は休みにしましょ。佐々木さんにはあたしからメール入れとくわ」ハルヒはそういうと身を翻して帰っていった。少々残念そうな顔だったな。解るさ。いつものメンバーが揃わないと団活にならんからな。メイド服から制服にお着替え中の朝比奈さんを残して、俺も帰路についた。学校の玄関に到着した俺は、機械的かつ習慣的な動作で自分の下駄箱を開けた。「ぬう?」ずいぶんと久しぶりな物体が、揃えた外靴の上に載っていた。ただし、いつぞやのものとは違って無味乾燥な封筒。宛先も差出人の名も書いてない。封をあけると、一枚だけの便箋に印刷したかのような明朝体の文字が躍っていた。────本日、私の部屋にて待つ。差出人はいうまでもないだろう。俺は、すみやかに靴を履き替えると、長門のマンションに直行した。すっかり馴染みになってしまった長門の部屋。そこにそろったのは、俺、長門、古泉、喜緑さん、そして、橘京子だった。いまさらこのメンバーが勢ぞろいしたところで驚きはしないさ。それぐらいの耐性が備わってるつもりだ。「わざわざご足労いただきすみません」古泉がいつものスマイルを崩さずに、社交辞令を述べる。「さっさと本題に入ってくれ。このメンバーで話し合いってことは、なんかあったんだろ?」「はい。実は、『機関』と橘さんの組織、両方で佐々木さんをSOS団から引き剥がそうとする動きが起きてます」対立する組織で同じ動きが起きるというのは、奇妙なことだ。古泉は、それとなく、橘京子に続きを促した。「組織の中で、佐々木さんがそちら側に取り込まれてしまうことを懸念する勢力が増えているのです」考えてみれば、それは当然だろうという気はする。「おまえ個人の意見はどうなんだ?」「私は、このまま佐々木さんをSOS団に留まらせるべきだと思います。聡明な佐々木さんなら、涼宮さんを近くでじっくり観察すれば、神の力を彼女に保持させ続けることの危険性を理解できると思うのです」 その言葉に嘘はないだろうと、俺は思った。橘の立場ならば、そういう判断もありだ。「で、『機関』の方は、なんで佐々木をSOS団から引き剥がそうとしてるんだ?」「佐々木さんの加入以来、涼宮さんの力が活性化しています。ポジティブな方向での活性化ですが、それでも活性化していることには違いありません」確かに、最近のハルヒは機嫌がいいというか、何か張り合いみたいなのが出てきたというか、ポジティブな方向への変化は見られる。「このままでは、秋に桜の花が咲いたりといった異常事態が頻発する恐れがあります。ひいては、世界そのものが改変されてしまうかもしれない。まあ、こんなふうに考える人たちが増えてるんです」 『機関』の役目は、ハルヒの訳の分からない力を抑えて、世界がこねくり回されることを阻止すること。だとすれば、ハルヒの力の活性化原因を除去しようという動きは当然のことだ。「おまえ個人の意見はどうなんだ?」「僕は反対ですね。佐々木さんを無理やり引き剥がせば、涼宮さんの力がネガティブな方向に発現されかねません。まず、間違いなく閉鎖空間が頻発するでしょう。それを抜きにしても、SOS団の意思を無視して事を進めることには賛成いたしかねます」 「なんとも奇妙な話だな。敵対する組織同士の利害が一致して、敵対するはずの個人同士の利害も一致しちまった。そして、組織と個人は対立してる」「僕たちの世界じゃ、別に珍しいことではありません。利害が一致すれば手を組み、反すれば手を切る。普通のことです」「それじゃ、俺はおまえを信用するわけにはいかなくなるぞ」「問題は、どこに基本軸を持つかということですよ。僕の基本軸はSOS団にあります。橘さんにとってのそれは、佐々木さんでしょう」橘が無言でうなづいた。古泉がいいたいことは、僕とあなたの基本軸は同じですといったところなのだろう。まあ、その点に関しては、古泉を信用してやってもよいとは思っている。「僕が気になるのは、現状が変化するとして、情報統合思念体がどう動くかです。長門さん、そこのところはどうでしょうか?」「情報統合思念体主流派は、涼宮ハルヒの情報改変能力の肯定的な方向での活性化を好ましいものと考えている。それを妨げる行動は阻止することになると思われる」「穏健派のご意見は?」これには、喜緑さんが答えた。「穏健派は、涼宮ハルヒの情報改変能力の否定的な方向への変化を望んではおりません。それは、情報統合思念体の存立を危うくする恐れがありますから。よって、それを誘発する可能性がある動きに対しては否定的にならざるをえません」 少なくても、この件に関しては、情報統合思念体はこっちの味方になってくれそうだ。これもまた、利害の一致というやつだが。「問題は、九曜の親玉がどう動くかだな」俺は、一番の懸念材料を素直に口に出してみた。「広域帯宇宙存在の行動原理は不明のまま。周防九曜がどう動くかも予測がつかない。現状では彼女は観測に徹しており、特段の動きは見られない」長門が厳然たる事実だけを述べた。「そこのところが不気味ですね。彼女たちの基本軸が見えないと、行動の予測もつかないですから。まったくのお手上げですよ」「周防九曜への警戒は、私と喜緑江美里が継続する」「現状では、それ以外には対処のしようもありませんね。よろしくお願いします」事態がややこしくなってきたな。九曜だけじゃなく、『機関』や橘京子の組織も要警戒か。「『機関』は僕が多数派工作をしてみます。今のところ決定的な事態にはまだほど遠いですから、間に合うかもしれません。僕のところに『機関』内の情報が流れてこなくなったときが真の危機でしょうね」 「こっちの方は、私が何とかします」橘はそう言ったが、こいつの組織内での立場からするとあまり期待できない。となれば、せめて『機関』だけでも味方にとどめておかなければなるまい。いざとなったら、鶴屋さんを拝み倒すしかないだろう。佐々木は、団長殿に認められたSOS団員なのだ。その意思を無視して、勝手に引き剥がすなんてことは認められない。γ-11もう金曜日か。この一週間はやたらといそがしかった気がするな。佐々木がSOS団に加わっただけだというのに、なんだか二週間分の人生を過ごしたような気がしている。やはり九曜とか橘京子の組織とか『機関』とかがどう動くか解らないせいで、どうも気がそぞろになっていかん。そんな気分で登校し自分の席についたわけだが、ハルヒの席はずっと空席のままだった。やがて、担任の岡部がやってきて、こう告げた。「今日は、涼宮は風邪で休みだそうだ」ハルヒでも風邪を引くことがあるんだな。あいつなら、風邪のウィルスも裸足で逃げていきそうなもんだが。と、いきなり、俺の携帯が震えだした。携帯の画面を見ると、古泉からだった。ホームルームの時間中に電話をかけてくるとは、何かの緊急事態だ。「先生、ちょっとトイレ行ってきます」俺は、岡部の同意も取らず、教室を飛び出した。すぐに電話に出る。「どうした?」「緊急事態です。至急、部室に集合してください」いったい何が起きたんだ?γ-12俺は、全速力で部室に駆け込んだ。そこには、古泉、長門、朝比奈さん、そして、喜緑さんがいた。「いったい何が起きたんだ!?」「涼宮ハルヒが、周防九曜の襲撃を受けている」長門が、あくまでも淡々とした声でそう告げた。「なんだって!」「いきなり本丸を奇襲してくるとは、意外でした。不意をつかれましたね」古泉の冷静な口調が、俺をいらだたせた。「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないだろ!?」俺の叫びを無視するかのように、喜緑さんが口を開いた。「長門さん、私は賛成いたしかねますね。周防九曜に対応するのは、私たち二人で充分ではありませんか? 人間がいても障害にしかならないでしょう」「事は涼宮ハルヒにかかわること。不測の事態がないともいえない。可能な限りでの対応能力の確保が必要。それに、彼らがそれを望んでいる」長門の言葉に古泉と朝比奈さんがうなずいた。「わかりました。それが長門さんのご判断なのならば、これ以上は何も言いません。情報統合思念体への救援要請は私からしておきます」長門は無言でうなずくことで、同意を示した。「私がみなさんを現地に転送します。無断早退になってしまいますが、その辺は私が情報操作しておきますので」喜緑さんが、呪文を唱えだした。γ-13喜緑さんの呪文が終わった瞬間に、俺たちは、ハルヒの家に転移していた。「こっち」長門がまっさきに階段を駆け上がっていく。長門に続いて部屋に飛び込むと、そこにはハルヒと九曜、そして、なぜか佐々木もいた。「きゃっ!」ハルヒと佐々木の様子に、朝比奈さんが悲鳴をあげ、俺はしばし呆然とした。「なんだ、これは!?」γ-14ハルヒと佐々木。二人の体の一部が、融合としかいいようがない状態でくっついていた。二人の意識はないようだ。「てめぇ、何をした!?」九曜は、こんなときでも、まるでやる気がないような声で、こう答えた。「融合……完全化」「なるほど。『力』の器の融合による『力』の完全化ですか。二人が接近するのを放置していたのも、同期率を高めるのに好都合だったからでしょうね」九曜のあまりに情報量が少ない言葉を、こんなときでも嫌味なほど冷静な古泉が翻訳してくれた。「私がさせない」長門が攻撃をかける。無数の光の矢が九曜に襲いかかるが、すべて弾き飛ばされた。その間に、長門は一気に間合いをつめて九曜に殴りかかった。だが、九曜が右手がそれを難なく受け止めていた。「なぜ……融合、望んでない?」「強制的な融合は、力の対消滅をもたらす可能性がある。容認できない」「対消滅とは何か」九曜の髪がうなるように動き、長門が弾き飛ばされる。長門は、部屋の壁に打ちつけられた。「くっ」長門は、何か重たい物が乗っかったかのように、床に倒れ伏した。起き上がろうとしているのに起き上がれない。息が苦しげだ。「涼宮ハルヒとは何か」そこに、唐突に銃声が響いた。古泉がいつの間にか拳銃を握っていた。お前、そんなもんどっから持ってきたんだよ?その疑問に答える者はない。飛び出した弾丸は、目に見えないバリアのようなもので弾き返された。「やはり、こんなものは通じませんか」続いて、一筋の光線が九曜に向けて飛んできたが、これも弾き返された。その光跡を逆にたどると、そこには未来っぽい銃らしきものを握った朝比奈さんがいた。おそらく、光線銃かなんかなんだろう。クソ。未来の武器も通用せずか。ハルヒと佐々木の方を見ると、二人の体は、既に半分がくっついている状態だった。突然、部屋がぐにゃりと歪んだ。「その程度の物理攻撃は、九曜さんには通用しませんよ」そして、空中から忽然と現れたのは、喜緑さんだった。圧迫が解けたのか、長門がゆっくりと立ち上がった。「遅れてしまってすみません。あのあと、この部屋が情報封鎖されてしまいまして、解除するのに時間がかかってしまいました」「言い訳は後で聞く。今は、敵性存在の排除を優先すべき」「そうですね」二人は、そろって高速で呪文を唱えだした。これでこちらの勝利は確実だと思ったのだが、そうは問屋がおろさなかった。二人の呪文は延々と続き、止まることはなかったのだ。やがて、二人の顔から汗がしたたり落ちてきた。宇宙人同士の戦闘については素人の俺でも、これはまずそうだというのは分かった。二人がかりでも、九曜一人にかなわないというのか?突然、喜緑さんが崩れるように倒れた。同時に、長門の顔が苦悶で歪んだ。そして、九曜がゆっくりと長門に近づいてきた。長門は一歩も動けない。「力とは何か。答えよ」「この野郎!」俺は思わず九曜に殴りかかったが、俺の拳は九曜に届くことはなく、俺の体は九曜の髪の毛に巻き取られるように空中に固定された。「キョンくん!」朝比奈さんの悲鳴が聞こえた。銃声が何度も聞こえた。だが、弾丸は九曜には全く届いていない。何度も放たれた光線も九曜の周辺ですべて消失していた。「あなたは答えてくれる? 涼宮ハルヒとは何か」九曜は、表情を────劇的と言ってもいい────変化させた。微笑んだのだ。とんでもなく玲瓏で美しい笑みだった。感情の発露というよりは高度なプログラムが完璧に模倣したような笑顔だったが、こんな笑みを向けられた男はどんな朴念仁でも一瞬にして一目惚れ病に罹患する。耐えられたのは俺でこそだ。事情を知らない谷口あたりなら即、墜落だ。それは、唐突だった。九曜の背後に何かが現れたかと思うと、九曜の口からコンバットナイフが飛び出した。それは、九曜の頭を完全に貫通し、俺の心臓に突き刺さる直前で停止した。ナイフの柄を握る手までもが見える。それだけで、人間技では不可能な力をもって突き刺されたことがわかる。俺の心臓が無事で済んだのは、そのナイフが誰かの左手で白刃取りされていたからだ。片手での白刃取りを成し遂げた主────長門はすかさずこう唱えた。「パーソナルネーム周防九曜の情報生命構成を消去する」九曜が砂が崩れ落ちるように消えていく。その代わりに、ナイフを突き刺した人物の姿が明瞭に現れてきた。北高の長袖セーラー服に包まれたかつての一年五組の委員長が、さっきの九曜に勝るとも劣らない笑みを浮かべてそこに存在していた。「あら、残念。ついでにあなたも殺せると思ったのに」「…………朝倉か」「ええ、そうよ。他に誰かいる?」ナイフの柄を握る朝倉の握る手と、その刃を白刃取りしている長門の手が、ともに震えていた。両者ともその手に尋常でないエネルギーを注ぎこんでいるようだった。「協力に感謝する。また会えてうれしい」長門がそう言った、本当にうれしそうな口調で。言っておくが俺は全くうれしくないぞ。二度も殺されかけた相手を歓迎するほど、俺はマゾじゃない。「命じられたから来ただけよ。でも、私も長門さんに会えてうれしいわ」ナイフは依然として小刻みに震え続けていた。「あなたの再構成は、敵性存在排除のための措置。彼の殺害は、情報統合思念体の総意に反する」「そうですよ、朝倉さん」俺の背後から喜緑さんの声が聞こえた。彼女もいつの間にかすっかり回復したようだ。喜緑さんはさらに何か呪文のようなものを唱えた。すると、朝倉と長門の間で震えていたナイフがまるで霧のように消え去った。と同時に、宙に浮いていた俺の体が床に下ろされる。「つまんないわね」「喜緑江美里は私ほど甘くはない。次は有機情報連結解除ではすまなくなる。自重して」長門が淡々とした口調でそう言った。「そういえば、あのとき長門さんの処分が決まってたら、処分実行者は喜緑さんになる予定だったんだっけ?」あのときって、昨年の12月18日のことか?「情報統合思念体の総意は、不処分と結論付けました。現時点において過去に仮定を持ち込むことには意味がありません」「まっ、そうだけどね」朝倉は俺に視線を向けて、「近いうちに二年五組に転入予定だからよろしくね」そう言い残すと、部屋から去っていった。「おい、長門。これはどういうことだ?」「朝倉涼子は、私のバックアップとして再構成された。今後も広域帯宇宙存在の攻撃の可能性は否定できない。それに備えるため。私と喜緑江美里が監視するので危険性はない」 「そうは言ってもだな……」たった今だって殺されかけたんだぞ。はいそうですか、ってわけにはいかないだろ。「彼女は私の最初の友人。仲良くしてほしい」長門、友達はよく選んだ方がいいぞ。「さて、このお二人はどうしましょうか」古泉が、ハルヒと佐々木を見下ろしていた。喜緑さんの呪文で元通りに切り離された二人の意識はまだ回復してない。この状態でいきなり目を覚まされても対応に困るが。 「二人の記憶は改竄しておく。最小限の情報操作でこの事件自体なかったことにする」「まあ、それが無難でしょうね」何はともあれ、最大の脅威と見られていた周防九曜は消滅した。代わりに危ない奴が復活しちまったし、佐々木を巡る『機関』やらの今後の動きは気になるところだが、とりあえずこれはこれで一件落着だろうと、俺は思った。しかし、それは甘い見通しだった。γ-最終章週明け、学校での昼休み。毎日弁当を作ってくるのに飽きたらしいハルヒが以前のように学食に向けて飛び出していった後に、俺のクラスに朝比奈さんが訪ねてきた。「キョンくん、ちょっといいですか?」はいはい。朝比奈さんのお誘いならば、どこへでも参りますよ。朝比奈さんに連れられて、俺は学校の屋上にやってきた。朝比奈さんは、どこか元気がなさそうな様子だった。いったい何があったんですか?「TPDDがなくなっちゃいました……」ポツリとつぶやかれたその言葉の意味を理解するまで、十秒ほどの時間がかかった。「どういうことです?」「あの事件のあと、家に帰った直後でした。いきなりなくなっちゃったんです」「どうして?」「原因は分かりません」「涼宮ハルヒの情報改変能力によるものと思われる」突然、背後から聞こえてきた声に振り向くと、そこには、長門と喜緑さんがいた。「我々も、広域帯宇宙存在、情報統合思念体及びすべての急進派インターフェースの消滅を確認した」長門は、淡々ととてつもないことを告げてきた。なんだって? 九曜の親玉と、長門の親玉と、朝倉とその仲間がまるごと消えただと!?「記憶の消去ぐらいでは、涼宮さんの無意識は騙せなかったということでしょう」長門たちの背後から、ニヤケハンサム野郎が現れた。「俺にも分かるように説明しろ」「要するに、涼宮さんは、我々SOS団を脅かす恐れがある存在を、丸ごと消去したわけですよ。二度とあんなことが起きないようにね」さらに続ける。「時間航行技術を奪い取って未来人の介入を排除し、強大な宇宙存在を消滅させ、危険な急進派TFEIも消し去った。そして、最後に、自分の『力』も封印した」今、なんていった!?「自分の『力』の存在こそが、危険を呼び寄せる原因になったと理解したのでしょう。ちなみにいうと、涼宮さんの『力』が封印されたのと同時に、我々の能力も消滅しました。類推するに、佐々木さんの『力』と橘さんたちの能力も、同様の経過をたどっているでしょうね」 あまりのことに、俺は声も出ない。「とはいっても、『力』が完全に消滅したわけではありません。封印されただけで、また復活する可能性もあります。よって、『機関』も残ることになりました。規模は最小限まで縮小されますが、鶴屋家がスポンサーとして残ってくれることになりましたので、資金的には困りません。僕の役割も今までどおりです。橘さんの組織も、同様でしょうね」「私たちはどうするのですか?」喜緑さんが、長門をにらみつけるように見ていた。「我々は、情報統合思念体から与えられた任務を継続する。涼宮ハルヒの『力』が完全に消滅したわけではない以上、自律進化の可能性はまだ残っている。我々は観測を継続すべき。『力』の封印が解かれれば、情報統合思念体が復活する可能性もある」 その言葉に喜緑さんは目を見開いていたが、やがていつもの表情に戻ると、こう答えた。「監査役として、プレジデントの御命令は、合理的なものと認めます」「地球上の残存全インターフェースにこの旨を命ずる。……伝達完了」「私はどうしましょうか……?」朝比奈さんがポツリとつぶやいた。そうだ。朝比奈さんは、帰る場所も手段も失った上に、組織のバックを完全に失ってしまったんだ。今まで生活費をどうしていたのかは不明だが、組織の支援がなければだいぶ厳しいことになるだろう。 「私の部屋に来ればよい」意外なことに長門がそう提案した。「いいんですか?」「個体単体でも、生活費を捻出できる程度の情報操作能力は残っている。問題はない」さらに、古泉が助け舟を出してきた。「お金にお困りでしたら『機関』からも援助はしますよ。それに、鶴屋さんに頼めば、事情を詮索してくることもなく援助してくれるでしょう」「ありがとうございます」朝比奈さんは深々と頭を下げた。放課後。学外団員の佐々木もやってきて、団活となった。長門は黙々と本を読み、朝比奈さんはメイド姿でお茶をいれ、俺は象棋で古泉を打ち負かし、佐々木は小難しい口調で俺と古泉の一手一手にツッコミをいれ、ハルヒはパソコンでネットサーフィン。 全くいつもどおりで、昼休みのトンデモ話が嘘じゃないかと疑いたくなるほどだった。長門がパタンと本を閉じて、その日の活動は終了した。あの下り坂を集団で下校し、やがてみんなと別れて一人になる。釈然としない思いが脳裏を渦巻いていた。今回のことは、古泉たちや橘たちにとってみれば悪くない結果だろうが、とてもじゃないがハッピーエンドとはいえない。朝比奈さんは、帰る場所と手段を奪われた。何事にも前向きな朝比奈さんだが、さすがにこれはつらいだろう。長門と喜緑さんは、親兄弟を殺されたも同然だ。今思い返してみれば、あのときの喜緑さんは、親を殺されたことに怒っていたんじゃないのか? 長門がああいうふうに言いくるめなければ、どんな事態になっていたことか……。ハルヒよ、もうちょっとなんとかならなかったのか?「納得してないようだね」思わず振り向くと、そこには佐々木がいた。「ずっと後ろをつけてきたのに気づかないなんて、よほど思考に没頭していたか、あるいは、上の空だったのか」どっちも正解という気がするな。「橘さんからだいたいの事情は聞いたよ。朝比奈さんや長門さんたちにとっては気の毒な結果になったけど、完全なハッピーエンドなんて、物語の世界にしか存在しないものだ。僕は、この結果はバッドエンドよりはマシなものとして受け入れざるをえないと思う。 それに、涼宮さんは意識してこうしたわけでもない。彼女を責めるのは酷というものだ」それは解ってるつもりなんだが。「それに、これは僕のせいなのかもしれない」なんだと?「涼宮さんと融合したときに、僕の意識が彼女の無意識に混入した可能性は否定できないってことだよ。涼宮さんが僕に課した入団試験の七番目の問いを覚えてるかい?」 なんだったかな?「『何でもできるとしたら、何をする?』だよ」ああ、確かそんな質問だったな。「あのときは紙には書かなかったけど、それに対する僕の答えが、今の事態に近いんだ。時間航行技術を奪い取って未来人の介入を排除し、強大な宇宙存在を消滅させ、危険な宇宙人を消し去り、そして、最後に自分の『何でもできる力』を封印する」 そのまんまじゃねぇか……。確かに、二人が融合したときに、ハルヒの無意識にそれが混入した可能性を否定はできんな。「だから、恨むなら僕を恨んでもらいたい」佐々木はそういうと、きびすを返した。家に帰ると、自分の部屋に直行して、ベッドの上に寝っころがった。釈然としない思いは解消されなかったが、それとは別に、脳の奥に何かが引っかかったような感じがとれなかった。それの正体が判明するまで、五分ほどの時間が必要だった。そうだ!あのいけ好かない未来野郎。あいつは、結局、今回は俺たちの前に姿を見せなかった。奴は、いったいどこに行きやがったんだ?────ソシテ、トウトツニ、スベテガ、アンテン────γ-エピローグ────あるいは、αおよびβへのプロローグとある時間軸のとある時間平面。────報告受領。時間軸γの消滅を確認。原時間平面にすみやかに帰還せよ。「フン。くだらん」彼は、さきほど未来の組織に簡潔な報告を送信し終わったところだった。分岐点のほとんどは安定的なものだが、たまにある不安定な分岐点はイレギュラーを引き起こし、規定事項を破壊する。だから、消去する。まったくもってくだらない任務だった。しかし、『力』を涼宮ハルヒから佐々木とやらに移し、その力で時空連続体を再構築する────そのときまでは、黙々と任務を遂行して、組織に忠実なフリをしておく必要がある。 彼──便宜上『藤原』の名を騙る彼──は、何か決意を固めたような表情をすると、TPDDを起動した。『機関』時空工作部の保管記録より。────上級工作員朝比奈みくるより、最高評議会各評議員へ。消去対象時間軸237個のうち236個の消去任務完了。────時空観測局より、最高評議会各評議員へ。消去対象時間軸237個のうち236個の消滅を確認。────時空観測局より、最高評議会各評議員へ。消去対象時間軸γは、別組織による時間工作により消滅したことを確認。────最高評議会代表長門有希より、各評議員へ。統合時空補正計画SOSパート8パターンAフェーズ1の完了を確認し、フェーズ2に移行することに異議はないか? ────異議なし。────異議なし。────異議なし。────異議なし。────異議なし。────全会一致で可決と認める。────最高評議会代表長門有希より、上級工作員朝比奈みくるへ。統合時空補正計画SOSパート8パターンAフェーズ2へ移行せよ。なお、当該任務中は上級権限2級を付与する。 ────上級工作員朝比奈みくるより、最高評議会各評議員へ。命令受領。工作活動をフェーズ2へ移行します。
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