夏の日より 第二章
第二章
「こら、キョン! 起きなさいよ!」 俺が目を覚ましたのは俺の脳組織がこのような妨害電波を受信したためだった。 あくびを一つ、眠い目を擦り擦り見上げたそこにあったのは電波塔でもなければコンピューターでもなく、涼宮ハルヒの怒り笑顔であった。 どうやらハルヒが入ってきたのも気づかずに昏々と眠り続けていたらしい。窓の外の景色は相変わらず青空でセミも騒いでいたが、時計を見ると八時五十七分、実に三十分近く経っていた。 「あ、キョンくん。お目覚めですか?」 また声がしたのでそちらに顔を向けると、そこにいらっしゃったのは言うまでもない、微笑みの天使、制服バージョンの朝比奈みくるさんだった。 お目覚めですとも。 俺は眠りに就いた時の憂鬱な気分をすっかり忘れ去って朝比奈さんにスマイルを返した。彼女さえいればずるずると尾を引いていた俺のだるい気分だって断ち切れるってもんさ。 どうせならハルヒじゃなく朝比奈さんに起こしてもらいたかったと俺が欲情していると、机にホットな緑茶の入った湯飲みが置かれた。「どうぞ、モーニングティーです」 と、優しく微笑む朝比奈さん。 ええそうです。最高のお茶ですよ。たとえ真夏に熱いお茶が出てこようと、朝比奈さんならまったく問題ありません。受験生の身の上で俺たちに奉仕してくれるというそのお気持ちに涙が出ます。 そう、忘れがちだが朝比奈さんは三年生なのだ。三年生と言えば受験生であり、当然他の部活の三年はもう五月頃には引退して勉強に打ち込んでいる。だったらこの人は夏休みにこんなことをしていていいのかと思いたくなるが、受験に関しては既に手が回っているようで、特別勉強をする必要はないのだと言う。その裏事情には古泉でなくとも大いに興味があるのだがどうせ教えてはくれまい。 まあ理由はともあれ朝比奈さんがこの部室にいてくれるというのなら俺は喜ぶしかないさ。 俺の精神安定剤かつ目の滋養かつ女神様ができるだけ長く部活に出るようにすると言ってくれているんだから、それ以上にあれこれと詮索するのはよほど根性がねじ曲がった奴くらいだろうね。 だから俺は喜ぶ。 笑顔で汗をかきながら朝比奈さんの淹れてくれたお茶を飲んでいると、詰め将棋をしていた古泉が話しかけてきた。「やあ、気分はどうですか。ずいぶんよく眠っていらっしゃいましたよ。三十分弱、終始気持ちよさそうな顔でね」「そりゃあ疲れてたからな」 人間、疲れたら眠らなきゃ生きてられないさ。というか、お前には他人の寝顔を観察する趣味でもあったのか?「まさか。そんな趣味は僕にはありませんよ」 疑わしいね。 最近思うが、こいつの吐くプライベートなセリフは何一つとして信用が置けないのではないだろうか。 意味ありげに沈黙した古泉から視点をずらすと、窓辺には長門が三十分前と同じ位置で同じ格好をして立方体みたいな分厚い本に目を落としていた。ただ、脇のテーブルに山積みされている本の表紙が変わっていたので、おそらく俺が寝ている間に一冊読み終えてしまったのだろう。こいつは睡眠欲よりも読書欲の方が勝っているに違いない。きっと読書しなかったら死んでしまう体質なのだ。 などと俺が愚考を重ねていると何の前触れもなく背中の後ろでがなり声が上がった。「はーい、みんなこっち注目! 自由時間はそこまで!」 必要以上に声を張り上げたハルヒに、俺はこの団体に今まで自由時間以外の何かがあったことがあるだろうかと考えつつも、すごすごと振り返る。長門は器用にも顔だけを六十度ほど動かしていた。 ハルヒは全員分の視線を確認すると大きく胸を反らして宣言した。「ただ今から、SOS団ミーティングを始めます!」
夏休みの計画は気分で決めるのだと言う。 ハルヒが団長机に立って堂々とそう宣言したし、配られた紙にもそう書かれていた。 配られた紙というのは手書き原本をコピーした紙で、ハルヒはミーティングを始めるや否や駅前のチラシ嬢よろしく団員にそのコピーを配って回り、無意味に机の上に立って無意味に大声を上げた。 「今年の夏休みは特に計画は立てずに、その紙に書いてある事項をとにかく全部消化するという目標でいきます。みんな、ちゃんとあたしについてきなさい!」 目標もへったくれも、去年だって自由気ままに俺たちを連れ回したじゃねえかというツッコミを呑み込みつつ配られた紙を眺めると、そこには以下のような日本語が書かれていた。
○「夏休みにやらないといけないこと」 ・プール。 ・盆踊り。 ・花火大会。 ・金魚すくい。 ・バイト。 ・天体観測。 ・バッティング練習。 ・昆虫採集。 ・肝試し。 ・ウィンドウショッピング。 ・パフェ。 ・スイカ。 ・かき氷。 ・冷やしそうめん。 ・麦茶。 ・その他。 ・勉強。 なお、これらの行う順番は気分で決めます。
…………。 何なんだこれは。ゲロのような凄まじい無秩序とカオスである。前半部分なんかは去年の引用だし、その他以下の扱いを受けている勉強という項目がとってつけたみたいで痛ましい。というか、こんなくだらんことを書いた紙をいちいちコピーして寄越すなという話である。紙の無駄遣いも甚だしいぜ。 ふと顔を上げて他の団員を見回すと、長門は淡々と、朝比奈さんはぽわっとした感じで、古泉は微笑みくん状態で、それぞれ紙に目を落としていた。この三人は誰も文句を言わない代わりに賛成票を投じるということもなく、相変わらず誰も口を開く気はなさそうだった。すっかり分担化されてしまった役割にストライキでも起こしてやろうかと思いながらも、仕方がないので俺が口を開くことにする。 「おいハルヒ、これは何だ? 全部やる気なのか?」 ハルヒは机からぴょんと飛び降りると、馬鹿にするような目で俺を見た。「やるに決まってるじゃないの。そこの紙の一番前に『夏休みにならないといけないこと』って書いてあるでしょ? mustよmust。これは義務なんだからね。あんたまさか英語と古語だけじゃなくて現代日本語すら読めなかったの?」 ふざけるな。ドングリの背比べ程度だったとしても俺は全教科の中で現国が一番できるんだ。馬鹿にしてもらっちゃ困る。「しかし、これを全部やるとしたら二週間分くらいはとられることになるだろ。そうすると俺たちだって個人個人の夏休みのスケジュールがあるんだから、適当な日にやってたら予定が噛み合わなくなるんだよ」 「なんだそんなこと? それなら大丈夫よ。ここで全員分の予定を聞いて、みんな暇な日にやるようにすればいいだけの話じゃない」 そう言うハルヒの意地悪い表情の奥には「あんたが夏休みにプライベートな予定なんかあるわけないでしょ」という言葉が隠されているのを俺は知っている。そして何より歯がゆいのは、俺に自慢できそうなプライベートな予定が皆無であるということだ。お盆に家族で親戚のガキどものところに遊びに行くなどというのはとても自慢できるプライベートな予定ではあるまい。偽装工作でも行ってやろうかなどと計画を練ってみたが、とたんに虚しくなって思考を中断した。 ハルヒは腰に手を当て、勝ち誇ったような猫のような顔で部室内に視線を巡らせた。「まずみくるちゃん! あなたはどう? 夏休みに何か特別な予定とか、ある?」 名前を呼ばれて条件反射的にビクンと震えた朝比奈さんは少し考えてから、「特にないです」と答えた。 ハルヒはふうんと納得のいかなそうな顔をして、「そういえばみくるちゃん、あなた受験勉強は大丈夫なの?」 ほとんど無理やり引き留めている分際で何を言うか。 「ええ、大丈夫です。ちゃんと家で勉強してますから。今のうちはまだ部活には来れると思います」「そう。……どのくらいまで部活に出れるの?」 ハルヒはなんとなく不安げな声で訊いた。「とりあえず夏休みまでは大丈夫ですけど……それから後は、ちょっと厳しいかもしれません」 そう言って朝比奈さんは顔を伏せる。 受験に関しては裏で手が回っているとは言ったが、ハルヒにそのことをうち明けるわけにもいかない。だから怪しまれないため実質的に部活に毎日顔を出せるのは夏休みまでだという話も、実は朝比奈さんから聞かされていた。夏休み後にSOS団の活動から朝比奈さんが抜けるかもしれないと思うと不意にさっきの古泉との会話が脳裏に蘇り、不穏な気持ちにさせられた。 「古泉くんは? 彼女と一緒に海へ遊びに行ったりしないの?」「まさか」 ハルヒに声をかけられて古泉はわざとらしく苦い顔になる。「一緒に遊びに行くどころか、僕にはまだ彼女もいませんよ。まあ、他の予定なら多少はありますが」「ふーん。いつ?」「いえいえ」 と古泉はまた大げさに遠慮して、「大丈夫です。日を動かせるものばかりなので僕が涼宮さんの方に予定を合わせますから、どうぞお気になさらずに」「そうなの? 別に遠慮しなくてもいいのに」 古泉のその他の予定とやらに僅かながらも興味を抱いてしまった自分を戒めているうちに、ハルヒは無表情でコピーを眺めている次なる団員へと標的を移す。「で、えっと、有希は……」「ない」「よね」 ハルヒを秒殺した長門を眺めながら、そういえば冬休みにも同じようなことがあったなと思っていると俺に質問の矢が飛んできた。「で、あんたはどうなの? 偉そうなこと言っといて、自分は何かあるわけ?」「ある」 と、俺が親戚の家に遊びに行くのだと言って日程を伝えると、ハルヒはメモを取りながらわざとらしく哀れむような顔をした。「シケてるわねえ」 うるせえな。どうせ俺には彼女なんざ遠い話だし、交友範囲だって狭いさ。夏休みには親戚の家に遊びに行くのが唯一イベントらしいイベントだよ。悪かったな。 俺が一人毒づいていると、ハルヒはメモ帳を閉じ、シャーペンをしまって拍子抜けした声を出した。「なんだ。みんな結局ヒマなんじゃない。じゃあとりあえずお盆のあたりは休みにするとして、あとはみんないつでもオッケーってことね。解ったわ。じゃあ、やることが決まったら、その前日にあたしがみんなのところに電話するから。いいわね?」 「了解しました」 即座に返事をしたのは古泉くらいで、長門と朝比奈さんは神妙にうなずき、俺は返事の代わりにパイプ椅子に座ったまま背伸びした。肩の関節がポキポキ鳴って気持ちいい。 さて、これでミーティング終了かなと思ったら、ハルヒが事務連絡を付け加えるように言った。 「じゃあ、明日はプールで決まりだから。よろしくね」
そういうわけで、SOS団怒濤の夏休みがスタートしたのである。 プールとなれば明日は丸一日ハルヒに拘束されるに違いなく、だったら今日の残りぐらいはさっさと帰宅して自由に使いたいと思っていたのだが、そうもいかないらしかった。「せっかく集まったんだから」とハルヒが言い出し、真っ先に帰ろうとした長門は襟首つかまれて引き留められ、 「お昼、どっかで食べてからにしましょ」 ということになった。俺の奢りというわけではないらしいから、だったら別にいいけどさ。さすがのハルヒも何もない日に俺から昼飯代を徴収することはできなかったらしい。 かくして俺はハルヒが設定した十二時まで、古泉とひたすらチェスをやったり囲碁をやったり、乱入してきたハルヒを加え、ついでに朝比奈さんと長門も巻き込んで五人でダイヤモンドゲームに打ち込んだりしていた。家で妹とテレビゲームをやるのと比べたらこっちの方が楽しかったね。 十二時を回るとようやく部室を出て、一行は駅前の洋風料理店へ向かった。 街はもうすっかり夏めいていた。 北高から坂道を下っている間も道路の両脇の林はセミに限らず夏の虫どもで溢れかえっていたが、大通りでも青葉を茂らせている街路樹のどこかにはセミがいて、車の騒音に負けじとわんわん鳴き盛っていた。 こういう何気ない夏の日を五人で穏やかに過ごしていると、どうも去年の夏休みがフラッシュバックするね。既視感、なんてのは今年はまだないが、いつ出現するやも解らん。とにかくどんなにハメをはずしても勉強する日だけはしっかり設けさせねばなるまいと思いつつ、俺は前列を歩く長門に尋ねてみた。 「よう長門、ちょっと訊きたいことがあるんだが、いいか?」「いい」 俺はハルヒに聞こえないように小声で、「今年の夏休みは去年みたいにループしたりしないよな?」 長門はちらっと俺を振り返ると、ミリ単位で顔を動かして怪訝な表情をした。ように見えた。「なに?」「いや、だからさ、今年は一万何千回も夏休みをやり直したりしないよな、ってことだ」 沈黙。 五秒くらい黙りこくって俺の質問の意を取るようにしていた長門は、やがて、「……ない」 と街の雑踏にかき消されそうなくらい小さな声で答えた。「そうかい。だったらよかった」と言ってみたが、どうも長門の無表情に訝っているような成分が含まれている気がして腑に落ちない。眉をひそめているというか、何というか。 「どうかしたか?」 尋ねてみたが、長門は静かに首を横に振るだけだった。 まあ大丈夫だろ。それに、そのくらいの方がいいのかもな。ずっと無表情よりもちっとくらい表情を変えた方が、人間味があってさ。 店にはまもなく到着した。 といって、もう特筆すべきことなどないのだが。 顔の高さまである巨大パフェを二人がかりで切り崩すハルヒと朝比奈さんや、その陰で静かにスプーン一杯ずつスープを口に運ぶ長門や、ドリンクバーでアイスコーヒーばっかり持ってくる古泉。 通りすがりの人が見れば、俺たちはまるで普通の高校生の群れであって、宇宙人やら何やらだとはつゆも思わないだろうし、事実俺も、一瞬それを忘れかけていた。そういう謎な設定がなければこの団体は成り立たないだろうと頭で解ってはいても、そんな設定なんかない方がいいと思ったりする俺もいる――。俺はスパゲティを啜りながら思考をまとめられず、結局このSOS団はどういうスタンスに立っているんだと哲学的なことを考えながらあれこれと思考を巡らした。 結局、なんにも解らなかったがな。俺たちがもし普通の高校生だったらとかいう無意味のイフも、この先どこまで続くのか知れないこの奇妙な団体も。考えれば考えるほど未来は暗闇の底へ閉ざされていってしまうような気さえした。 ただ言えることは一つ、俺はまだSOS団最後の日なんてものをまったく実感することができていなかった。 こうしているうちに高校時代はあっという間に過ぎ去ってしまうのだと思いながら、しかしどこかでは、こういうどうってことのない日々は悠久だと信じ切っていたのかもしれない。 そんなふうに根暗に思考を続けているうちスパゲティはなくなった。最後までパフェと格闘していたハルヒと朝比奈さんを待って会計を済ませると、「また明日」と口々に言ってそれぞれ帰途につく。 穏やかな日常の風景と、過ぎ去っていく時間。 考え疲れて鈍く頭痛のした俺は、家に帰るなりゲームしてとせがむ妹を無視して自分の部屋に引きこもった。とりあえずクーラーをガンガンに効かせて、寝ようと思ったが、ベッドの上ではシャミセンが我が物顔で寝そべっていやがったので俺は遠慮して床にごろんと寝転がる。別に構わねえよ。こっちの方が床が冷たくて気持ちいいさ。 セミの鳴き声をBGMに目を閉じると、身体が重くなった。休日の午後ってのはなんでこんなに何のやる気も起こらず、ひたすらけだるいのだろうか。知ってる奴がいたら教えてくれ。ああいや、別に知りたくもないんだが。 冷気が部屋に浸透して全身の汗が乾いてきた頃、俺はまた眠りに落ちた。
第三章 TOP
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。