七夕シンドローム 第二章
午後の授業の始まるぎりぎりに教室へ滑り込むことに成功し、息を落ち着かせながら席についた。ここ二日、走ってばっかりじゃないか俺。本当に特技が人より早く走れることになりそうだ。そうは言っても、俺の運動能力は平々凡々のままだが。 ちなみにあの栞は、授業中にもしや何かあるんじゃないかと思って花の絵や真っ白な裏側を凝視してみたり太陽に透かしてみたりしたんだが、特に何か仕掛けがあるわけでもなかった。当たり前か。あれをよこしたのはこの世界の、ただの人間の長門だ。 「どうしちゃったの? あなた、あたしが教室に入った途端にどこかへ飛び出して行っちゃって、帰ってきたのは始業ギリギリだったんだもの」 午後の授業終了後のあとは帰りのHRを待つだけという時間に、そう言って人当たりの良さそうな柔和な笑みを見せたのは、俺の傍らにやってきた朝倉涼子だった。「もしかして、あたしのこと嫌いとか?」 本人は冗談のつもりで言ってるんだろう。だが俺は叫びたかった。ああ、大嫌いだ。だから俺のそばに近寄らないでくれ、と。「別にそんなんじゃない。ただ用事があっただけだ」「ほんとに? でも尋常じゃない様子だったわよ」 うるさい。これ以上追及するな。お願いだから向こうへ行ってくれ。次々と頭に浮かんだ言葉をぐっと飲み込む。また異常者扱いされるのはまっぴらごめんだ。恐らくこいつは委員長として何だか様子のおかしいクラスメイトの心配をしているだけ。 しかし、この朝倉涼子は一体誰なんだ? 観察対象の動きの無さに飽き飽きして俺を殺そうとし、長門に消滅させられた朝倉なのか。怯える長門を守ろうとして俺にナイフを向けた朝倉なのか。全く違うやつなのか、それとも全員同一人物か。今は判断することが出来ない。冬の日のこいつは、異常な奴ではあったが恐らく一般人だった。ならこいつは? 「何よキョン、もしかしてあんたの特技は学校の廊下を全力疾走することだったの?」 ハルヒが後ろから身を乗り出してきた。ああ、あながち間違っちゃいないな。全く実用性が無いが。 しかし朝倉との会話にこいつが割り込んでくるとはな。だがそういえば、こいつも俺のよく知るハルヒだった。未だ部外者には冷たい態度をとりがちだが、挨拶程度は交わせるんだろう。 「ふふ、何それ」 朝倉が笑う。傍から見れば美少女二人が会話する目の保養になりそうな光景なんだろうが、俺の目は妙にシュールな光景にしか映らん。 苦虫でも噛み潰したような表情でじっとその場をやり過ごすと、朝倉は他の女子に呼ばれて勝手にどこかへ行った。まったく、出来ればもうこちらの方へは来て欲しくない。 「あんた、朝倉のこと嫌いなの?」 俺の表情を不思議そうに見つめるハルヒがそう問うた。「別に、なんとも思ってねえよ」「そう? あんたの顔色はそんな風に見えなかったけど」 そうだろうな。二度も殺されかけたトラウマは、そう簡単に消えるものではない。「お前は、朝倉のことをどう思ってるんだ?」「あたし? あたしは……」 ハルヒが楽しそうに談笑する朝倉を見遣る。「そうね、まあ最初はうざったいと思った時もあったけど、まあ良い奴なんじゃない? 面倒見もいいしね」 なるほどな。ハルヒとは真っ向から対立するタイプだから合わないだろうなとは思っていたが、まさかハルヒの口からそんな言葉が聞けるようになるとは思わなかったよ。 「? 何よそれ。確かにあんたとは二年間同じクラスだけど、前からあたしを良く知ってるみたいな……」 教室に岡部が入ってくる。クラスが静かになるとともに、ハルヒの言葉も途切れた。 HRが終わった途端に俺は教室を飛び出した。何度俺はこんなことを繰り返せば済むのだろうか。しかし、だらだらと向かっていては間に合わないかもしれないのだ。さすがに全力疾走はしないが、小走りで一階下の教室を目指す。 目的の場所があるのは廊下の一番奥だ。HRが終わったばかりで廊下には普段あまり見かけない理系クラスの生徒達があふれている。もしかしたらもう既に行っちまったかもしれない。 そいつらを掻きわけ進んだ先には、理系の特進クラス。九組のプレートがぶら下がっている。 入口のそばであいつが出てくるのを待つ。まるであの冬の日に光陽園学院の校門前でハルヒを待っていた時みたいだな。シャレになっちゃいないが。 教室の入り口から次々と生徒が出ていく。その中に……いた。「あなたは……」「よう」 昨日と似たような、困ったような表情をした元超能力者。「何かご用ですか?」「ちょっと話したいことがあるんだが、時間いいか」「僕はこの後部活があるんですが……」 視線には警戒の色が見えた。まあ、そりゃそうか。「時間はとらせないさ。場所を移そう。話を聞いてくれるなら俺についてきてくれ」 そう言って俺は古泉の返答を待つ。 古泉は話を聞く気になったのか、それとも俺とここにいては具合が悪いと踏んだのか、俺についていくことを決めたようだった。「それで、話とは」「ああ」 俺と古泉が来た場所は食堂の屋外テーブルだった。丸テーブルの席に二人で座る。一年前のあの時と全く同じ格好だが、立場は真逆だ。「お前に聞きたいことがあるんだ。お前は……」 古泉の目を見据える。「お前は、普通の人間か?」「………」 流れる沈黙。長門にした質問と全く同じ。長門でさえ普通の人間になってしまっているから望める可能性は限りなく低いが、溺れる者は藁をも掴むってやつだ。また奇異の目で見られることになるのは覚悟している。 「それは、普通というのがどういう人間のことを指すのかにもよりますね。 人間誰しも個性というものは持っていますし、例えば僕は涼宮さん――あなたと同じクラスでしたか。その方に、僕が一年程前中途半端な時期に転校してきたこと。それが僕の、えーっと、"属性"だと。そうおっしゃってくださいました」 なんとも古泉らしい丁寧な答えだ。俺がくだらない――実際は大真面目なんだが――質問をしてしまうことに罪悪感さえ感じてしまうね。「普通じゃないってことはその……実は未来からやってきたとか、超能力を持ってるとか、どこか特別な空間に出入り出来るとか……そういうことだ」「……なるほど、確かにあなたは涼宮さんが気に入りそうな人だ」 古泉が如才無い笑みを浮かべた。なんてこった、たまに変人扱いされることはあったが、とうとうハルヒと同じレベルに到達しちまったか。「僕はあなたの望んでいるような特別な人間ではありませんよ。涼宮さんも中途半端な時期に転校してきたのが怪しいとも言われましたが、それもただの親の仕事の都合でしたから。 あなたが涼宮さんからSOS団が宇宙人やら超能力者やらと遊ぶ為の団体だと聞いて部室に訪れ、そして僕に話を聞こうとまで思ったとしたら確かにあなたには涼宮さん並の行動力があるとは思いますが、残念ながら僕も、朝比奈さんや長門さんもあなたのご期待には添えられないと思います」 「じゃあ、お前は超能力者じゃないんだな」「……申し訳無いですが」 古泉が、俺にはもう見飽きてしまった困ったような笑みを見せた。ああ、俺に超能力者であることを告白した古泉はこういう気持ちだったのか。あの時はさんざ精神異常者扱いして悪かったな古泉。目の前でそれでも微笑を保っている古泉に尊敬の念さえ覚えるよ。 そういえば、目の前でとりあえず笑っとけみたいな投げやりな表情を浮かべているこいつは、何故未だに同級生にまで敬語を使っているのだろうか。世界を簡単に組み替えちまう能力を持つハルヒの望んだ人間を演じていると言っていたが、今のハルヒは恐らく普通の女の子という事になっているだろうから、こんな態度をとり続ける必要は無いはずだ。 「そろそろ行かなくてはいけませんので、僕はこれで失礼させて頂きます」「お前は、この世界がいつから存在していると思う?」「……は?」 俺をあきれたような顔で見遣る古泉。なかなか貴重だな。とっておきたいとは思わんが。「宇宙の始まりといえばビッグバンってのが通説だが、実際は数年前か、はたまた五分ほど前だって可能性だってある。これまでの歴史やら記憶やらだけを持たされてな。お前だって、そんなことを考えた事が無い訳じゃないだろ」 実際にこの世界が作られたのは恐らく一昨日の夜から昨日の朝の間でほぼ間違いないんだがな。「はあ、まあ、そうですね。確かにありますが……それが何か?」 目の前のこいつは俺のいないSOS団、超能力者で無い一般人としての記憶を植えつけられてここにいる。実は俺が今まで体験したものが全て疑似記憶で、最近やっと夢から覚めたっていう可能性も無くは無いが、そこまでの可能性を考えるほど俺はSF好きでもない。 「すまん、何でもない」「そうですか」 古泉が席を立とうとする。「もうひとつ、聞きたいことがあるんだが」「……何でしょう?」「SOS団は、楽しいか?」 古泉が困惑顔で俺を見遣る。まさに何が言いたいんだこの人は、って感じの。「ええ、楽しいですよ。少なくとも退屈はしませんね」「……そうか、ありがとな」「いえ。……では」 古泉は軽くこちらに会釈をして、その場を去った。その背中が見えなくなるまで見送る。 さて、今のところ手掛かりなし。朝比奈さんとはまだちゃんと話していないが。望みは薄いだろう。 もともと期待していた訳じゃないが、状況は絶望的だ。「どうしたもんかな……」 そう呟く俺を撫ぜるように、温い風が吹いた。「よーキョン! どうしたんだこんな時間まで」 鞄を取りに一旦教室まで戻ってみると、国木田とアホの谷口がまだ残っていた。「ちょっとした野暮用だよ。お前らこそどうしたんだ」「谷口が暇だ暇だってうるさくてね。馬鹿話に付き合ってあげてたんだよ」「まあな。ところでキョン、お前も暇だよな?」 暇かというと疑問が残るが、今日はもう何もすることが無いのは事実だな。「ナンパ……はお前らも嫌がるだろうから、ゲーセンでも行かね?」「ゲーセンねえ……そう言えば最近あんまり行ってなかったね。僕はいいよそれでも」「おう、キョンはどうだ?」 そう言えばSOS団に入ってこっち、こいつらと放課後に遊んだことなんてほとんど無かったな。正直遊んでいる場合では無いことも事実だが、こいつらと遊べるのもこういう時だけだ。それに今は完全に行き詰まった状態だし、こういうのも良いかも知れない。 「ああ。俺も行くよ」「おう、じゃあ駅前のいつものとこ行こうぜ!」 いつもの所というのが何処なのかは分からなかったが、取り敢えず俺は二人について行く事にした。 この二人と過ごす時間は、思ったよりも楽しかった。非現実的なものに捕らわれず、当たり前の高校生らしい放課後。そんなものはSOS団に入って以来、かなりご無沙汰だ。 「うわ、もう結構暗くなっちゃったね」「そうだな、そろそろ解散にすっか。可愛い女の子もいなかったし」 このアホの谷口、まだそんなもん狙ってたのか。いい加減懲りろ。やるなら一人でやれ。「そうは言ってもよー、やっぱり単独だと成功しにくいんだよ! 一人でいる女の子は結構少ないし。 その点複数ならそこら辺にかなりいるし、何より友達と一緒なら強く押していけばなあなあな感じでついて来てくれる確率が俄然上がるんだ!」「そうなの? 僕は谷口のナンパが成功したところ見たことないけど」 国木田の冷静な言葉に谷口が固まり、がっくりと肩を落とした。そこまで力説しといて本当に一度も成功したこと無かったのかよ。「あーもー! 今日は解散だ解散! 全員家に帰って寝ろ!」「そこまで大きな声で叫ばなくても分かるよ」 三人で暗くなった駅までの大通りを歩く。「じゃあね、キョン。最近ずっと浮かない顔ばかりしてたからさ。今日は楽しそうで安心したよ」 俺は思わず苦笑した。まさかお前らにまで心配されちまうとは、それ程まで顔に出てたか。周囲に構っている暇が無かったというのもあるが。「そうそう! お前、最近ずっと不安そうな怒ってるような顔しててよー、仏頂面はいつものことだけど、最近本当におかしかったもんお前。 だから俺がナンパに誘ってやろうと……」「だから、そんなことされて嬉しいのは谷口だけだって」「ああ、すまんな心配かけたみたいで。ここ最近ちょっと色々あってな。いつ解決する分からないんだよ」 頭に浮かんできた、もう二度と戻れないかも知れないという考えをすぐに振り払う。「ううん、こっちこそごめんね。色恋沙汰だと勘違いしちゃって」「いや、それは全てこのアホの谷口のせいだから」「さっきからお前らの言いぐさひでーな。一年以上経つともういい加減慣れてきたわ」 それはあまり慣れて欲しくないな。「じゃあねキョン、また明日」「ああ」「じゃーな!」 すっかり暗くなった駅前で、遠ざかる二人を見送る。ヒントの無い手探り状態であることは依然変わりないが、大分気が楽になったような気がする。「……帰るか」 あの二人とは違って俺はこれから自転車だ。暗いがまあ押して帰らずとも大丈夫だろう。 初夏と言えど夜となれば随分冷える。さっさと帰ろうと駐輪場へ身を翻した時、視界の端に何かが暗闇の中で揺れたのが見えた気がした。「ん?」 振り返ってみてもあるのは電灯が一本立っているだけの人気の無い公園だけだ。SOS団の集合に使っていた場所。光で照らされた地面の向こうは暗い。 目を凝らすと、何か人影らしきものが見えた。北高生だ。それも二人。片方はセーラー服を着ているが、もう一人は男のようだった。 普通だったら、ただのいちゃこいてるカップルかよ、とさっさとその場を離れていただろう。だが俺は動けなかった。足が地面に打ちつけられたみたいに動かない。 また何かがひらりと揺れる。黄色いリボン。少女の頭の動きに合わせて揺らめいた。 だんだん目が慣れてきた。もう片方の長身の男子高校生のシルエットが浮かんでくる。見えた顔は、見慣れたニヤケ面。 そいつらが、夜の公園で楽しそうに談笑していた。何故だ? 部活の話し合いか? 違う。理由は分からない。ただの直感だ。その直感が警鐘を鳴らす。早くこの場を離れろと。だが俺の身体はまるで金縛りにあったみたいに動かなかった。 不意に会話がやむ。声までは聞こえない。気配だけだ。 俺の身体はまだ動かない。ここから離れろ。何度言えば分かる。離れろっつってんだ。聞こえないのか。それでも、俺はぴくりとも動くことが出来なかった。目線さえも動かない。一体どうなってんだ。 二人の顔が近づく。 お願いだ、やめてくれ。人の気配に気が付かないのか? どれだけ馬鹿なんだお前らは。やめろ、やめろやめろやめろやめろ………―――!! 俺の目の前で。二人の唇が、触れた。 全身が凍りつく。目の前で何が起こっているのか認識できない程に、俺は硬直していた。目の前が真っ暗になる。なのに二人の影はやたらはっきりと見えた。意味が分からない。何だこれは。一体何が起こってるんだ。 二人の唇が離れると同時に、金縛りが糸の切れるように解けた。俺ははじけたようにその場から飛び出した。 自転車に鞄をどさりと乗せて荷台に手をつく。公園からここまでほとんど距離は無いのに、心臓が飛び出そうなほどに早鐘を打っている。一体今日で何度目だ、これは。短距離走より反復横跳びの方が得意になれそうだ。 今見た光景はなんだ? そうだ、ハルヒ、と、古泉が……やめろやめろやめろ。思い出すな。やめてくれ。いくら脳内から振り払おうと思っても、何度も何度も先ほどの光景が目の前に降ってくる。悲しみとも怒りとも吐き気ともつかない何かがこみ上げてきて思わずその場でしゃがみこんだ。 嘘だろ。何かの見間違いじゃないのか? そう思っても俺の頭が勝手に否定する。幻覚なんかじゃない。間違いなくハルヒと古泉だった。じゃあ何故? 嫌だ。考えたくない。 脳内の激しい葛藤をごまかすように俺は自転車に乗りこんだ。全力でペダルを漕ぐ。 世界はどこまで狂ったんだ。「どうしろってんだっ……畜生!」 ハンドルをぐっと握りしめ、いつもと全く変わりない風景を見せる住宅街をどこともなく睨む。 冷えた風が勢いよく体に当たっては流れていった。第三章へ
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