アナタノ声 一章 『届かぬ想い』
1
──夢を見ていた。 音の無い、木造のこじんまりとした部屋だった。 ゆったりとした時の流れを身体に感じ、しかしそれに反して窓から覗く外の景色──空の色は通常の何倍も早く暮れて行く。
そこには、様々な衣装やボードゲーム、多種多様の文献の数々があった。 何てアンバランスなんだろう、そんな感慨を抱きつつ、キョンは手近にあったパイプ椅子に腰を下ろした。 すると、目の前にお茶が差しだされた。お茶を淹れてくれた少女は柔和に微笑んだ。それが当然の作業の様に、お茶を配っていく。 それを視線で追って行くと、目の前に輪郭のはっきりしない人な形をした靄の様な物が、彼と相対する位置に座っていた。 双眸を眇て、目を凝らす。すると、一人の少年の姿が輪郭を形成し、その姿を露にする。 目の前にいる端正な顔立ちの少年は、含み笑いを浮かべながら此方を見て話し掛けてくる。 だが内容は聞き取れなかった。 暫く呆とした頭のままでいたキョンは、視線を窓辺に向けた。 そこに居るのは、分厚いハードカバーに視線を落とし、本を読み耽る小柄な少女の姿。 彼女は透き通る様な透明さを持っていた。 触れたら消えてしまいそうな、そうな儚さを孕んだ瞳。 そして、この狭い空間を見渡せる位置に置かれた、パソコンのモニターが置かれた机。退屈そうな顔をして椅子にふんぞり返る少女。 小鼻と上唇の間にボールペンを挟み、何か思い悩んでいる姿が可笑しくて、不意に笑みが零れてしまった。
その全てが懐かしく思えた。 何故だがは解らない。
ただ、そう感じたんだ。
「………ここは」 視界に映るのは見慣れてた真っ白な天井。 外から微かに聴こえてくる喧騒や生活音。 徐々に思考が覚醒し、明瞭になっていくに連れて、先程まで見ていた夢が霧散していく。「夢──か」 だが、僅かに残る夢の残滓が胸を締め付けた。「あれは何だったんだろうな……」 キョンは一人、呟いた。 夢で見たあの場所、人物。キョンが失った記憶に何かしら関係があるのかもしれない。 朧気に、一人の少女の顔を思い出す。 涼宮ハルヒ。 昨日、見舞いに来ていた少女だ。彼女が夢の中に居た人物にそっくりだった事。 だが、夢に出てきたからどうだと言うんだ? 結局、自分には何の気概も意欲も生まれてこない。 根源としては、やはり思い出の一切合切が失われており、それにより思考を行動に移す為の衝動が生まれない。 次に意欲を削いでいるのは、昨日医師に言われた事かましれない──
──担当医師は言った。「本当に意識を取り戻して良かったね、おめでとう」 気弱そうな中年の医師は柔和な笑みを浮かべていた。「……はあ」「君は2ヶ月余りに渡って昏睡してたんだ。実感は余りないかもしれない」「そう……ですね。俺はそんなに長い間意識が……」 確かに実感は無かった。自分がそんなに長い間眠っていたとは。「それに、原因は不明。何があったのか、というより本当に何も覚えていないのかい?」「……はい」「……ふう。まさか、本当に記憶喪失とはな。君は頭部に外傷も無いし、精密検査をしても脳細胞一つにも傷は無い。一体何があったのだろうね、君の体に」 医師は諦めた風に溜め息を洩らす。 溜め息を洩らしたいのはこちらだと言うのに。 本当に、自分の体はどうなってしまったのだろう──
「おーい、キョン?あれ、あんた聴いてんの?ねぇ?」 はっ! と息を飲む。 呼ばれていた事にすら気が付いていなかったのだ。 俯いていた顔をあげる。 見覚えのある少女の顔が、目の前に。それも触れてしまいそうな位置に。「……え?あ、うおっ!」 キョンは堪らずに仰け反る。「なっ!?そこまで驚く事無いじゃない!」 少女も声に驚いたのか、顔を真っ赤にして大袈裟に身を仰け反らせている。 そんな姿が可笑しくて、自然に笑みが零れる。「えーっと、涼宮さんだっけ?」 ハルヒの眉毛がピクリと動く。どことなく、むっとした表情をして。「さんは要らない、あたしとあんた歳は一緒だし」「あー……でも」 正直困った。 それもそうだろう。僅か二回顔を合わせただけの、謂わば知人なのだから。急に呼び捨ては気が引けてしまう。「でも、じゃない。良いのよそれくらい」「……そうか?」「そうよ」 そう言って寂しげに微笑むハルヒ。 その姿を見て、罪悪感を抱いてしまう。 ──そんな顔をしないでくれ……。 押し黙ったキョンを見て、ハルヒは慌てて言い繕う。「あ、ああーそうそう。今日はあんたに紹介したい人がいんのよ」「紹介?」「そう!ちょっと待ってて!」 そう言って瞬く間に病室から出て行くハルヒの後ろ姿に呆気に取られながら、キョンは思う。 忙しい奴だな、と。 だが、今の伽藍洞の自分の心の空隙を埋めてくれる、そんな心地よさがあった。
戻って来たハルヒに追従する様に病室に入って来たのは、同年代の少年少女達だった。 ハルヒと同様の制服を身に纏った少女二人に、少年が身に纏うのも制服だった。恐らくは同じ高校の物だろう。「えーと、んじゃちゃちゃっと紹介するわね」 ハルヒはそう言って少年に指を差した。「この人は古泉君」 古泉と呼ばれた少年は、右手を左胸に添えてお辞儀をする、という気障な仕草が似合ってしまう程、その端正な容姿。「お初にお目に掛かります。古泉一樹です」「あっちはみくるちゃん」 次いで、指差された少女は、恥ずかしそうに頬を微笑んだ。その微笑みは、さながら天使の微笑と譬てしまいたくなる程、純粋な優しい笑顔だった。「あさっ朝比奈みくるです。よろしくね、キョン君」「んで、こっちが有希」 朝比奈みくると名乗った少女の後ろに隠れる様に立っていた少女が前に出てくる。 毛先が不揃いのおかっぱ頭。中でも一際小さな少女は無表情で、無感動、冷徹というよりは透明という印象が強い少女だった。「長門有希」 ピシャリ と平坦な声で名前だけ言い切る。 三者三様の簡潔な自己紹介を終えたのを見届け、ハルヒは満足そうに頷いていた。「よろしく」 キョンは微笑を浮かべ、三人に応える。 しかし、三人の眼差しは初対面の人間に向けるものではなく、久し振りに会った友人に向ける様な瞳をしていた。 疑問を抱いたキョンは、ハルヒに問う。「なあ、すっ涼宮」「何よ?」「もしかして、もしかしなくても全員知り合いか何か……か?」「……、」 ハルヒは押し黙る。やはり、彼が記憶を失った事が頭では理解していても心が追い付かないのだろ。 そんなハルヒの気も知らず、キョンは怪訝な面持ちで、「おい?」「そうね、あんた記憶無いんだもんね。昨日言ったSOS団の話覚えてる?」「……ああ」「今、ここにいるのがSOS団のメンバーよ」 どこか感情を押し殺した様な表情でハルヒは言った。 答えは解っていた。 だが、確認しなければ確証は得られなかったし。何より、何も知らずに彼等に接するのは申し訳無い、という気持ちが強かった。 僅かに記憶に残る夢の残滓。 きっと、あの空間にいるのは彼等で、そこに自分も居たのだろう。「……そうか」 項垂れ、呟くキョンを見て、古泉が口を開く。「あなたの事情は知っています。僕達で力に成れる事があるなら何でも言って下さい」「……ああ」 キョンの様子を見て、古泉は眉を潜める。 彼の一挙手一投足が以前と違うものだと気付いたからだろう。 沈黙が病室に漂う。 皆、何を口にしたらいいのか迷っているのだろう。 それもそうだ、記憶喪失の人間相手に会話をするなんて滅多にある事ではない。 だが、そんな沈黙を振り払う様に一人の少女が口を開く。「わっ、私は!キョン君と久し振りに話せて嬉しいです……」 唐突にみくるが頬を朱色に染めながら叫んだ。叫んだ、と言っても後半部分は消え入りそうな声になっていたが。 彼女なりに気を利かせてくれたのだろう。その必死さが微笑ましく思えた。「ありがとうございます」 そう応えてキョンは思う。 ──久し振り……か。 全ての思い出を失い、無感動な自分。それに比べて自分の過去や、一緒に過ごした思い出を持つ彼等は一体どの様な気持ちでいるのだろう。 測る感情の基準が無い為に、それがどれだけ悲しい事なのか解らないけど、胸を締め付ける痛みだけは妙にリアルだった。
暫くの間、他愛のない雑談をする面々を他人行儀で眺めていた。 今のキョンに入り込む隙間なんてないし、そんな気分にも慣れなかったのが理由だろう。 キョンは窓に視線を移す。呆と景色を眺めていると、次第に耳に入ってくる会話の音すら遠くなっていく。 このまま、自分は世界に取り残されて行ってしまうのだろうか? そんな不安が、思考を過り、心を乱した。「ねぇキョン」 不意に名を呼ばれ、視線をハルヒに移す。「何だ?」「あんたは、あたし達に気を遣っているかもしれないけど──」「……、」 確かに、気を遣っているかもしれない。 でも仕方ないだろ、と心な中で呟く。 だって、初見の人間相手にどうやって親しみを込めたやり取りをしろって言うんだ。「──そんなの、必要ないからね?今のあんたは確かに何も無いかもしれないけど、あんたが失くしたものはあたし達がちゃんと持っているから。 記憶だってきっと戻る!だから、そんな諦めた顔してないで頑張りましょうよ!」 そう言って、ハルヒは陽光を一身に浴び強く咲き誇る向日葵の様な満面の笑みを浮かべていた。何故だか、その言葉は胸に響いた。
何もない伽藍の心なのに。
「……、」 だが、何も応える事は出来なかった。 一体、どうやって失った記憶が戻るんだ? 全体、何もかも解らない状況に於いて、希望を持つ事が出来るんだ?
何も解らないくせに。
この痛みも、不安も何も解っていないくせに。
「……出てってくれないか」「……え?」 ハルヒの瞳が驚愕に揺らぐ。 自分がどれだけ勝手な事を口走ったか、キョンは解っている。 だが、内から噴き出す感情が止められなかった。「出てってくれって行ってるんだ!」 静まり返った病室に、悲痛な叫びが木霊する。 たったの一言が、穏やかな空気を切り裂いた。「……わかった」 顔を俯かせたハルヒの表情は、前髪に隠れてしまい読む事は出来なかった。身体を震えさせ何かに耐える姿から、堪らずに視線を逸らし伏せてしまう。 ハルヒは踵を返し、引き戸まで歩くと振り向きもせずに、「……また来るから」 消え入りそうな声で呟き、病室から居なくなった。 彼女の後に続き、長門は一度キョンを見、病室を出て行く。「……キョン君」 怪訝にキョンの顔を覗き込むみくるに、「……すいません、今日は帰って貰ってもいいですか?」「……解りました」 そう言って、みくるも病室を出ていった。 最後まで残っていた古泉は、「何故、涼宮さんがあの様な事を敢えて仰ったか、あなたに解りますか?」「そんなの、解るわけないだろ」「あなたの事を本当に想っているからこその励ましの言葉です。 今のあなたには、記憶は戻るから頑張れ。等と言われて、素直にそれを受けとる事は出来ないでしょう。 僕にも、あなたの心の葛藤は解らない。何しろ記憶を失うのがどれ程の恐怖なのか、僕達には解りませんから。 ですが、これだけは言えます。あなたは決して一人ではない。あなたの味方は我々SOS団のメンバーだけでなく、沢山います。 苦楽を共にする仲間がいます。 出来る事からやって行きましょう。ですから、諦める事だけはしないでください」 古泉は真摯にそう言った。「……、」 キョンは応えて事が出来ず、掛け布団を握り締めた。 好き勝手言われた事が悔しい訳ではない。 ただ、単純に己の軽率な行動を恥じ、悔やんでいるのだ。「……今日は僕もこれで失礼します」 では、と古泉も病室を去って行った。 それでも、キョンは顔を伏せたままでいた。 今だけは、この世界から消えてしまいたい程に胸が苦しかった。
2
病室を出た後、その場から逃げる様に総合病院を後にしたハルヒは、市営バスにもタクシーにも目もくれず、ただ歩いていた。 総合病室は市街地中心から少し離れた位置にある。 周囲に見えるのは、住宅街や寂れた商店街。人通りも疎らで、車道を走る車の騒音がやけに耳に付く。「……キョン」 呟き胸元に下げた十字架のペンダントを握り締めた。 見上げた空はどこまでも蒼く澄んでいるのに、自分の心は何故こんなにも曇っているのだろう。 彼が目を醒ました時の事を思い出す。 二ヶ月余りに渡り、原因不明の昏睡状態だったのに、昨日何の前触れも無く目を醒ました。肉体の衰えを除けば、変わらない姿でいたキョンを見て、本当に嬉しかった。 だが、現実は残酷だった。 彼は──記憶喪失になっていた。 それを聴いた時、彼女は自分が壊れた世界に迷い込んでしまったと思いたくなった。 それは、ただの現実逃避だ。現実を直視する事に怯え、彼から目を逸らしてしまいたくなった。 だが、逃げてはいけない。 彼が記憶を失い意識不明に陥ったのは自分の責任だ。と彼女は今も己を責め続けている。 彼女が毎日の様に見舞いに赴いているのは、一見甲斐甲斐しく見えるかもしれない。 だが、それは贖罪でもある。 あの日、あの時一体何があったのかは解らない。 それでも、彼女は見た。現実には有り得ないものを。 当初はそんな馬鹿な話があるか、と認めたくは無かった。 非現実を求め、日々活動するSOS団の長である彼女は、しかし心の内の何処かで非現実を否定していた。 それは無意識下に於ける彼女の現実に対する認識の結果であるのだが、それでも有って欲しいと望む二律背反が彼女を苛む事もあった。 不意に、脳裡に焼き付いたあの日の事を思い出す。 キョンが倒れたあの日。 そこで起きた現象を──
──その日は何の変哲の無い日常だった。 暦に数えられる事の無い梅雨入りの時期で、空は分厚い雲に覆われ、薄暗く湿度の高い日だった。 放課後、特にする事も無くいつも通り五人で、SOS団兼文芸部室でだらだらと過ごしていた。 キョンと古泉はボードゲームに興じ、みくるは趣味の茶葉の専門書を読み耽り、長門は相も変わらず小難しいハードカバーに視線を落とし、淡々と頁を捲っていた。 そんな日常を背景に彼女──涼宮ハルヒは最近執心していたオカルトの情報をネットを介して収集していた。 その内容は、各地で収集されたカルト宗教、民族伝承、遺物、遺跡、碑文、呪文、儀式それらの写真映像等を何かに取り憑かれたかの様に彼女はひたすら収集し続け、それを一通り集め終え満足していた。 ただ、それが普通の都市伝説などのオカルトならば何の問題も無かっただろう。彼女が収集した情報は、それ単体では只の情報でしかないのだが、それが複数集まる事による相乗効果によってある物へと変化してしまう。 それがどの様な危険を孕んだ物なのか、興味本意で集めた彼女には知る由も無いだろう。「……暑い」 眉根をしかめ、うっそりとした声が部室に響く。「暑い、暑い!何でこんなに蒸し暑いのよ!」 ぎゃあ!と、喚き散らすハルヒに、迷惑そうな視線を送りながら、「仕様がないだろ?梅雨なんだし」 キョンは平坦な声で呟く。そんな彼もカッターシャツを第二ボタンまで開け、下敷きで扇いでいる。「そうですね。この時期は湿度も上がりますし、何より今日は降水率も高いみたいですし。一雨来るかもしれませんしね」 澄ました顔に淡く笑う古泉は相槌を打つ。「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着いて下さい」 そう言って、湯飲みを配るのはメイド姿の朝比奈みくるである。「あっ、ありがとうみくるちゃん」 湯飲みを受け取り、ハルヒは一気に飲み干そうとして──ぶば!と、吹き出す。その姿を見て、「ひゃ!」とみくるが悲鳴をあげた。「げほっげほっ!……みくるちゃん」「ひゃっひゃい!?」「……お茶。熱かったんだけど……」 完全に虚を突かれ危うく舌どころか喉を火傷しそうになったハルヒは、さながら幽鬼の如くゆらり、と椅子から立ち上がった。「……、」 顔面を蒼白にさせ完全に恐怖に戦慄するみくるを見て、キョンは助け船を出した。「まあ、落ち着けハルヒ」「何よ、暑いって訴えている人間に対して、熱いお茶出す何て信じられないじゃないの!」 バンバン!と、机を叩きながらハルヒは叫ぶ。「まあまあ、そう興奮するなよ。話を聞けって」「……、何よ」「寒い時は勿論の事、暑い時こそ、熱い物や常温の物の方がいいんだぞ? 冷水は急激に内臓を冷やしてしまうから、腹痛を起こしたり、風邪を引く原因を作ってしまうからな」「……むむむ」「まあ、感謝こそすれ、怒るのはお門違いってやつだな」「う……うるさい!バカキョンの癖に!」 ぷいっ とそっぽを向く彼女を見て、キョンはやれやれと肩を竦めた。
そんな、何の変哲のない日常だった。
だが、一人だけその日常に綻びがあるのを見付けた少女がいた。「……、」 彼女が見つめているのはデスクトップ型のパソコンだ。 それがどの様な不安要素を孕んだ物かは定かでは無かったが、伝えるべきか、と迷う長門有希はキョンに視線を送るが、古泉一樹と何やら話込んでいた為に気付かなかった。 諦めた長門は再び本に視線を落とした。
その日も、部活動終了のチャイムが鳴る前に長門が本を閉じる音を合図に活動を終えた。
帰路に付いたSOS団は、何気ない雑談を交わしながら歩いていた。 勾配の急な坂を下り切った所にあるコンビニの前に差し掛かった時、不意にキョンが間抜けな声で、「あっ……、すまん忘れ物をした」「ハァ?何やってんのよ。それ、今日取りに行かないと駄目な物なの?」 ハルヒは溜め息を洩らしながら、呆れた視線を向けた。「あー……それがだな、谷口に無理言って貸して貰った物なんだ」 キョンは気だるそうに頭を掻き、盛大に溜め息を吐き出した。「別にあの馬鹿の所有物に気を遣う必要何てないじゃない」「そうは言ってもだな……」「ああ、もう好きにすれば良いじゃない!」「すまん、皆は先に帰ってくれ」 掌を合わせ、申し訳無さそうに頭を下げる彼に、「では、僕達は先に行ってますよ」「解りました、キョン君気を付けてくださいね」 古泉とみくるは笑顔で答え、長門は視線で一瞥をした。何処か心配するような瞳で。「勝手にすれば」 不機嫌なハルヒを見て苦笑いを浮かべながら、キョンは踵を返し坂を登って行く。 その後ろ姿を淋しそうな目で眺めていたハルヒに、「心配であれば、一緒に行っては如何でしょう?天候も優れない様ですし、これは一雨降りますかね」 古泉が飄々とした態度で、素直になれない少女の背中を押す。 その言葉にハルヒは戸惑いながらも、「べっ別に、アイツの事なんか心配になる訳無いでしょ!」 赤面しながらも強がりを通すハルヒを見て、古泉は肩を竦めた。「行った方がいい」 呟いたのは普段滅多に喋る事の無い少女だった。「有希?」「行かなければ後悔する」 真摯な瞳がハルヒを見据える。 何の変哲の無い言葉が、しかし何故か焦燥感を抱かせた。 ハルヒには何故長門がそんな事を言い出したのか理解は及ばなかったが、「……解ったわ」 不承不承といった感じで頷き、皆に「じゃあね」と言って、キョンの後を追った。
元々の身体能力の高さからか、北高の正門を抜けた先にある昇降口でハルヒは彼に直ぐに追い付いた。「待ちなさいよ!」「あぁ?何でハルヒが付いてくるんだよ。子供のお使いじゃあるまいし」「う、うるさいわねバカ!あたしの勝手じゃないの!」「……はあ、そうかい」 キョンは溜め息を洩らし肩を落とす。その反応を見て、むっと眉を顰めたハルヒであったが、しかし言及する様な真似はしなかった。 下駄箱から上履きを取り出す彼を横目に、ハルヒも倣って上履きを取り出し革靴を仕舞う。「それで、何処に忘れたか心当たりはあんの?」「あー……、」 呆然としたまま、無意味に天井を眺め、ハルヒに向き直る。「解らん」「はぁ?何よそれ」 ハルヒは眉を潜める。「そうは言ってもだな、解らないものは仕方ないだろ」「そういう時は思い当たる場所を片っ端から探すのよ」「取り敢えず、教室から見てみるか」「ま、それが無難ね」 そう言って、歩き出すキョンの後にぶつぶつ文句を呟きながらハルヒは続く。 かくして、目的の二年五組の教室に着き、ハルヒは彼が目的の物を見つけるのを廊下の壁に寄り掛かりながら待っていた。 何となく窓の外に見える景色を眺める。 視界に映るのは、薄暗い宵闇に染まった木々や、遠くに見える街並み明かりを灯しているのが微かに見える。 たったそれだけのつまらない風景を眺めながら、ハルヒは呆としたまま考える。 ──何で態々キョンに付いて来たんだろ? 皆に言われたから? それもある。 雨が降りそうだと、古泉一樹が部室で言っていたからだろうか? どうせ、あの馬鹿は傘なんて持っていないだろうから。 ただ、単純に心配だったから?「あぁぁ!もう何だって言うのよ!」 髪をわしゃわしゃと掻き毟り、身悶えするハルヒに、「何してんだ?ハルヒ」 ビクンッ!と身体を上下に揺らしたハルヒは振り返る。 そこには呆れた眼差しを向けるキョンがいた。「……、びっ吃驚させないでよ!それで、忘れ物は見付かったの?」「いんや、教室じゃなかったみたいだ」 キョンは肩を竦めながら溜め息を洩らす。「他に、思い当たる場所は?」「そうだな、アレを入れていたのは鞄だから、忘れるか落としたとすれば開けた場所だけだな」「あんた間抜けだから鞄を開けたまま歩いていたりしそうだけど」「……あのな、いくら俺でもそこまでは間抜けな事はしないぞ?」「そんな事はどうでもいいのよ」 ピシャリ、とハルヒはキョンの言葉を遮る。どっちなんだよ。というツッコミを心の中で呟きながら、キョンは溜息を洩らす。「なによ?……まあいいわ。で、次は何処に行くのよ」「はぁ……。そうだな、部室にでも行ってみるか」
SOS団兼文芸部室は部室棟に存在する。部室棟は旧校舎を使ったもので、文芸部室は三階の一室を使っている。 本校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を過ぎ、階段を登り文芸部室の前まで来ると、キョンは「ちょっとここで待っててくれ」そう言って扉を開けた。 態々外で待たせるって事は余程見られたくない物なのだろうか?と、勘繰るハルヒであったが、谷口の私物だしどうせ下らない物だろう。と、考えるのを止めた。 しかし、この何もせずに待つという行為に慣れないハルヒは、落ち着きの無い子供の様に廊下をぷらぷら歩き始めた。 部活動の時間帯の喧騒は既に無くなっており、校庭も部室棟も静寂に包まれている。 生徒もここに来るまでにちらほらと見掛けたくらいだし、残っているのは教師と用務員くらいだろう。「……はあ、しかし暑いわね」 廊下は肌に纏わりつく様な湿気が充満していて気持ち悪い事この上ない。 ハルヒはうんざりしながら文芸部室の前まで戻ると、扉越しに声を掛ける。「ねぇキョン、まだ見付からない訳!?」「……あぁ?ちょっと待ってくれ。確かこの辺りで……、あったあった。いやぁ見付かって良かった」 安堵の声が返ってくる。「あったなら早く帰りましょうよ」「ああ、わかっ……」 中途半端に声が途絶える。 訝しげに思ったハルヒは、眉をしかめた。 不意に、パタパタ と窓を叩く音が鳴り始めた。 その音に気を取られ、振り返ると大粒の雨が窓一面を叩いているのが見える。「あーもう、降って来ちゃったじゃない。キョン、あんたがもたもたしてるから──」 そんな事を口にした途端、パリンッ と何かが割れる乾いた音が扉越しに聴こえてくる。 ハルヒはギョッとして、扉に視線を戻した。 今の音は何?、とハルヒが眉を潜める。 続けて、ドサッ と重い何かが倒れる音と振動が伝わってきた。「……、」 ハルヒは息を呑んだ。 一体、中で何が起きているの? 圧迫される様な不安と緊張が身体を支配する。 キョンの中途半端に途切れた返事。 測ったかの様な突然の大雨。 何かが割れた音。 そして、倒れ──嫌な予感が心臓を鷲掴みにした。「……、ねぇキョン?ねぇってば。聴こえてんの?ちゃんとそこにいるんでしょ?」 自然、声をひそめてしまう。 痛む胸元を握り締め。 全身からは冷や汗が滲み出てくるし、呼吸は荒くなっていく一方だ。 そんな己の状態を気にも止めず彼女はそっとドアノブを掴み、ゆっくりと開いた。 ギィィィ……、と歪んだ扉が軋み、耳障りな音を立てて開かれた。「……、」 部室の中は薄暗く、外から差し込む僅かな光が置かれた物の輪郭を浮き立たせていた。 窓が開いてるのだろうか、湿気交じりの風が肌を撫でる。雨音と携帯の着信音と思しき音色が、混じり合い不気味に響いている。「……キョン?」 ハルヒは呟いた。 しかし、返事はない。 一歩踏み出すと、ジャリッ と何かを踏み砕く音がした。足元を見ると、何かの破片が飛び散っている。 ──もしかして。 ハルヒは天井を見上げた。やはり、そこには蛍光灯が弾けた残骸が残っていた。 詰まりは部室が電灯も点いていないのは、それが理由だったのだ。 だが、蛍光灯の破片だけで、これ程までに破片が散らばるだろうか? 視線を窓辺に移す。視線を凝らせば、容易にそれは解った。 窓は開いていた訳ではなかった。無残にも圧力が掛かったかの様にフレームは捻じ曲がり、 割れていた。 不意に、フォォォォン という音が耳に付いた。パソコンの空冷ファンの音だろう。 しかし、何故パソコンが起動している?部室を出る前に電源は落としているのに。 キョンが探し物の片手間に、態々パソコンを使うとは思えない。 一体、何が起きたの。と釈然としないままハルヒは団長卓の前まで来ると、「……、」 一瞬、そこにあるものが何か解らなかった。否、解りたくなかった。 しかし、そこにある現実は決して変わる事はない。 腕を投げ出しそこに倒れている少年を見付けた。「キョン!!」 床に突っ伏す様に倒れ込んだ彼に駆け寄り、仰向けに直し服に付着したガラス片を払い落とし、半身を抱き上げる。「確りしなさいよ!」 彼女は叫び、彼の身体を揺らす。しかし、何の反応も示す気配はない。 血の気の失せた蒼白の肌に、焦点の合わない虚ろな瞳。その姿はまるで人形の如く、生気を感じさせなかった。「……、嫌よ。こんなの嫌。何で、何なのよ意味解らないわよこんなの。 だって、あんたさっきまで笑ってたじゃない、待ってろって言ったじゃない! ……何で、ねぇ返事しなさいよ。キョン!」 唐突な状況の変化に、脳の処理が追い付かず、錯乱状態に陥っていく。 目尻に溢れてくる涙が大粒の雫となって頬を伝い、キョンの胸元に落ちていく。 不意に、パソコンのモニターから異音が鳴り始めた。獣の呻き声に似た音が部室に響く。 黒一色の、何も映っていないモニターに文字が浮かび上がってくる。「何よ、これ」 タイピングしているかの様に、白い文字が次々に浮かんでいく。
ココカラダセ。
「……ヒッ」
ココカラダセココカラダセココカラダセココカラダセ。
コカラダセココカラダセココカラダセココカラダセココカラダセココカラダセココカラダセココカラダセ。
浮かび上がる文字は同じ語句を繰り返し、延々と出力し続けていく。 その速度は徐々に上がって行き、上へ上へと流れて消えていく。「やめてよ、もう。こんなのあたしは望んでなんか──」 ハルヒは嗚咽する口元を押さえながら、呻く様に言葉を洩らす。
唐突に、ブツッ と電源を落とした様な音が鳴る。 モニターを埋め尽くしていた文字が、一瞬で消え去った。「……終わったの?」 恐怖に戦慄する体の震えは止まらない。 この手にキョンを抱き抱えていなければ、気がどうにかなってしまっていたかもしれない。「ねぇ、キョン。助けてよ……。あの時みたいに……」 彼女の震える手がすがる様に彼の手を握り締める。 しかし、少年は答える事は無かった。 肩を震わせ、すすり泣く彼女の肩が、不意に叩かれた。 今、この場所にいるのはハルヒとキョンだけだ。他に誰もいる筈はない。 ならば、この肩を叩いた手は一体何だ?「……、」 ハルヒは息を呑んだ。 そして、恐る恐る後ろを振り返る。「……ヒッ」 そこにいたのは、闇に溶け込む様に輪郭が定かではない〝黒い霧〟。人の形をした霧状の何かが、彼女の背後に居た。「イヤ……」 恐怖に顔面は引き吊り、全身は恐怖に戦慄している。 それでも、畏怖の対象である〝黒い霧〟から逃れる様に後退りするが、直ぐに背中に壁が当たってしまう。 "黒い霧"はそんな彼女の無様な姿を見て、嘲笑うかの様に頭部と思しき部分にある口を獰猛に歪ませた。 そして右手を突き出し、彼女の喉元に向けて突き立てる。「うぐっ!」 ギリギリ と首絞められ悲鳴をあげる事すら許されない。 何故、首を締められているのか理解できなかった。霧という無数の微小な水滴が、浮遊している状態の物を掴める訳がない。 ハルヒはもがき、必死に抗おうと〝黒い霧〟の腕に掴みかかった。 この行動は防衛本能からくる単純な行為だ。 はたして、ハルヒの手が"黒い霧"の腕を掴んだ。人間のそれとは違う、ぬるりとした触感に怖気が走る。「ぐぅぅぅ!」 必死に爪を立て、死の恐怖から逃れようとするが、首を締め付ける圧迫感は一向に緩まない。 徐々に霞む視界。白濁としていく意識。脱力していく体。 非力な自分が歯痒くて、悔しさが涙となって溢れでていく。 ──もう、駄目。 口から涎を垂れ流し、虚ろな目で腕をだらりと下げた彼女には、もう死に抗う気力もなかった。 遠のく意識の中、誰かが叫んだ気がした。 フッ と首を絞める圧迫感は消え去り、ハルヒはその場に倒れ伏せ、意識を失った。
/古泉一樹
「やれやれ、やっと行きましたか」 走り去る少女の後ろ姿を眺め、微笑を浮かべながら、この街を歩けば十人中八人の女性が振り向きそうな美貌を持つ少年は呟いた。 入学式を迎え、一月余りが過ぎた頃に転校してきた、曰く付きの謎の転校生。という事で古泉一樹がSOS団にスカウトされた(キョンの視点から見れば拉致に近い)訳なのだが、それはあくまで仕組まれた事だった。 彼は通称"機関"と呼ばれる組織の一員だ。 〝機関〟が設立されたのは、涼宮ハルヒが『神に等しき力』を覚醒させて、間もなく設立された。 彼等は涼宮ハルヒの負の感情から発生する、〝閉鎖空間〟という異相空間に出現する"〝神人〟──天に頂くその姿に、神々しい光を放つ光の巨人──を狩る為にそこに赴く世界の破滅を防ぐ異能力者達だ。 彼等は元は何処にでもいる普遍的な人間達だった。 しかし、涼宮ハルヒが覚醒したその日、彼女が周辺地域の人間から無作為に選出し、自らの破壊衝動から世界を護る為に〝神を狩る為の力〟を与えたのだ。 理不尽な話だ。 だが、唐突に只の少女は力を与えられ、しかしながらそれを理解せず無自覚の内に力を発動させてしまっていた。 彼女は無意識下で、自らの破壊衝動が世界を滅ぼしてしまうのでは?そう考え、所謂超能力者を生み出したのかもしれない。 後にそれが彼等、機関の見解となる。 当初の古泉もその現実を受け入れる事は出来ず、閉鎖空間が発生した際に生じる時空振動という余波を感じ取り、恐怖に震えていた頃があった。 だが、彼が変われたのは機関の同士と廻り合い、自分は孤独ではないと、世界を護る主人公になるんだと、そう強く思えたからだろう。 その強さは、数年経った現在でも変わらずに彼の胸の内にある。 今では、それ以上の物も彼は抱いている。「しかし、彼女も随分変わりましたね」 そう言って、隣の少女に視線を向けた。「そうですね。本当に棘がなくなって、心を開いてくれてきていますし」 相槌を打つ少女──朝比奈みくるは、淡く微笑んだ。「それにしても、まさか長門さんが涼宮さんに焦燥感を抱かせるとは」 古泉は隣で微動だにしない少女に何気なく話題を振った。「特に明確な理由はない」 そうですか。と返し、再び坂道を駆け上がって行く少女に視線を戻す。「では、我々は先に帰りますか」「そうですね」「了解した」 彼等は踵を返し歩き出した。 何故だか、後ろ髪を引かれた気がした。が、古泉は錯覚だろうと己に言い聞かせ、歩き出した。
光陽駅に向かい市街を歩いている中、「そういえば」と、みくるが何かを思い出した様に呟いた。「何ですか?」「涼宮さんは、『今年も合宿するわよ』って言い出すんでしょうかね?」「さあ、どうでしょうかね。僕としましては、無理難題を申し付けられなければ一向に構わないのですが……」「そうですよね。古泉君の所にはいつも金銭的な負担を掛けてしまっていますし……」 みくるは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべ、そして俯き溜め息を洩らした。 彼女にしてみれば、去年行われた孤島の別荘に於いての合宿は新鮮でもあり、苦い思い出でもあるんだろう。 そんな彼女を見て、「大丈夫ですよ」と古泉は笑みを崩さずに言った。「涼宮さんが不満を抱かない環境を築きあげる事で、意図的に閉鎖空間の発生頻度を減らす。それが世界を護る為の有効な手段でもあり、我々の負担を軽減する事にもなりますから。機関にとっては有益な投資になるんですよ」 それは事実であり、機関の方針に従っての行動だ。 スポンサーの方々には苦汁を飲んで貰っていますが。と心の中で呟く。「わっ私も及ばずながら、頑張りたいと思います」 みくるは純真無垢な満面の笑みを浮かべた後、意気込みを表明するかの様に拳を握り「頑張れ、みくる」何て呟いていた。「その時が来たらお願いしますよ」 そう言って、古泉は思う。 例年に比べて閉鎖空間の発生頻度はかなり減っている。 最近では滅多な事では発生しないぐらいに涼宮ハルヒの精神は安定している。 それは一重に一人の少年のお陰かもしれない。 彼女が求める少年が、彼女を理解し、受け入れているからこそ現状は成り立っている。 もし、何等かの要因でそれが崩れてしまえば、今の様な何気無い穏やかな日常にはいる事は出来ないだろう。 そう考えると、何故だか淋しさを覚えてしまう。 そんな感慨を抱く自分に、こんな事では「この腑抜け!」と森さんに叱咤されそうだ。と、苦笑いを浮かべた。 ふと、黙したまま何も語らずに隣を歩く少女に視線を移す。 ──おや? 古泉は、いつも冷静沈着で無感動、無感情な長門が、彼の目から見ても不自然に映ったのだ。 それは、見慣れた部屋に置かれた花瓶の位置がずれていたのを見付けたかの様な、些細な違和感であった。 長門の微細な変化を読み取る事に敏感な洞察力を持つキョンには劣るが、それでも違和感に気付く事が出来たのは古泉が優れた洞察力を持つ所以だろう。「どうしました?長門さん。何か気掛かりな事でも?」 違和感の正体が何なのかは解らなかったが、古泉は長門に声を掛けた。 長門は古泉を無感動に見上げ、しかし直ぐに再び視線を前方へと向ける。「正確な情報の解答が得られていない為、情報の伝達に齟齬が発生する」「構いませんよ」 一拍の間を置いて、彼女は首肯する。「涼宮ハルヒが、此処数週間に渡り情報の収集を行っていたデータに奇妙な動きを察知した」 その言葉は予想外の物だった。 確か、涼宮ハルヒは突然オカルトに興味を持ち、様々な情報を収集していた事は知っている。 きっかけは、彼女のクラスで急に都市伝説などのオカルトが流行りだし、その流行は宗教関連やマイナーな物まで随分と内容の濃いものになっていった。 素人の領分を超えた不気味さがそこにはあったが、彼女もその流れに感化されたのだろう。「……それは一体どの様な動き何ですか?」「データベースに取得された膨大な情報の一部が、不規則に選出されアーカイブ化されている。 それがどの様なプログラムで動いているのかは不明。情報統合思念体の所有するデータベースにも記録はされていない」「そうですか……」「そう」 長門は後ろ髪を引かれる思いなのか、再び北高の方角を眺めた後、歩き出した。 古泉も彼女に倣い歩き出す。 そんな二人のやり取りを傍観していた少女は、「え?え?二人して何のお話をしてるんですか?」 と、頭に疑問符を浮かべて首を傾げていた。 古泉は「何でもないですよ」と答える。 しかし、と古泉は一度中断していた思考を再開した。 確かに、彼女の言葉通り不明瞭な点が多く見られる。 オカルト嗜好の涼宮ハルヒが、何故今になって突然無意味なデータを収集し始めたのか。 彼女のクラスメイトも同様に、オカルトに対しての興味が異常に感じられるのは杞憂だろうか? 古泉は口元に指を当て、思考の渦へと没入していく。 もし、長門有希が懸念する涼宮ハルヒが無作為に集めた情報が、一見意味の無い物だとしたら? それが複数集まる事を条件に、何等かの要因によって何かが生じる物だとすれば?「……、」 解らない。余りにも与えられた情報が少なすぎる為、解答を導き出す事が出来ない。 だが、彼女が以前に描いたSOS団のサイトのトップ画だ。 あの何の変哲の無い複数の円を重ね、その中心にSOSと描いただけの物が、情報生命体の亜種を覚醒させ、コンピュータ研究部の部長氏が行方不明になる(実際には異相空間に捕われた)という実害を及ぼした。 他にも、数多いる野良猫の中から稀有な雄の三毛猫を引き当てたり等。 願望を何の対価も支払わず、あまつさえあらゆる法則を無視して叶えてしまう彼女の異能力。それは最早神の如き所業だ。それが先に述べた事項に適用されているのだろうか。「……、」 駄目だ、と心の内で舌打ちする。法則性を探ろうにも条件が多すぎるのだ。 鑑みるに、欲望、願望、感情、動悸となるものは特定出来る、だがトリガーとなるものが──「古泉君、携帯鳴ってますよ」 ──その一言で、思考の渦から現実へと引き戻される。「え?や、これは失礼」 そう言って古泉は懐から携帯を取り出した。 彼としては、携帯の着信音に気付かずにいた自分に驚きを禁じ得なかった。 これ程までに心を囚われるのは久し振りだ、と自嘲気味に苦笑いを浮かべて通話を開始した。「古泉です」『遅い!さっさと出んか、馬鹿者!』 開口一番、携帯越しに怒号を浴びせて来たのは彼の上司である女性、森園生だった。たったそれだけで萎縮してしまう。 普段は可憐さを思わせる見目とは対象的な凛とした佇まいに、毅然とした態度、部下思いの優しい上司であるのだが。この様に怒るととても怖い女性なのだ。「す、すいません」『いいか古泉。我々の様な組織の人間は、常に神経を研ぎ澄ましていなければ命を落とす事を肝に銘じておけ』「……了解しました」『まあいい。それで、お前は今何処にいる?涼宮ハルヒと同行しているのか?』「いえ、今は別行動を取っています」『クソッ……!』 森は口汚く言葉を吐いた。彼女の苛立ちや焦燥、態度や言葉に古泉は違和感を覚えた。 何故、彼女は涼宮ハルヒと同行しているのかと聞いたのか。 古泉は違和感の正体を探るべく思考を開始した。 常に監視下に置かれている涼宮ハルヒに対しての監視が解かれ、居場所を把握出来ない。 又は、監視任務を遂行している人員が、何等かの事故、事件により被害を被ったか。 可能性として一番低いのが、涼宮ハルヒが自らが造り出した閉鎖空間内に身を眩ませたか。 この三択に絞る事は出来る。その中から消去法を使えばおのずと解答は導ける。 涼宮ハルヒの監視が解除されるのは彼女が"神の如き力"を失った時、つまりは機関の解散を意味している。 だが、依然として自らが内包する異能力も健在だし、微弱な感覚ではあるが彼女との精神リンクが切れてはいない。 更に、彼女が閉鎖空間内に身を眩ませる。これは条件を満たしていない。 彼が知り得る限りの情報に於いて、閉鎖空間が発生する際には一つの例外もなく次元振動が生じている。 そして、時間振動を関知していない事から、この選択肢は排除される。 残った選択肢──つまりは監視役に人的被害があった可能性が高いのだ。 瞬時に古泉はそこまで推測し、口を開く。「察するに監視役と連絡が取れないんですね?」『そうだ。監視との連絡が一七時の定時連絡を最後に連絡が取れなくなった。そこでだ、古泉には直ちに涼宮ハルヒの身辺警護を行って貰いたい』「了解」『此方も、バックアップ要員を連れて現場へ急行中だ、以上だ』 通話を終えたのを確認し、古泉は携帯を懐に仕舞い込んだ。 後ろを振り返ると、彼を怪訝に見つめるみくると、会話の全貌を悟っているだろう長門が少し離れた位置で待っていた。「お待たせして申し訳ありません」「大丈夫ですか?」 みくるが心配そうに訊ねる。一瞬、何故その様な事を言われたのか解らなかったが、己の顔面が強張っていた事に気付いた。直ぐに取って付けた様な済ました笑みを浮かべる。「ええ、問題はありません。ですが、急なバイトが入ってしまいました」 彼女に対してはこれで誤魔化す事は出来るが── 「古泉一樹」 ──懸念した通り、長門有希は全てを見通している。それを黙して語る瞳が、彼に突き刺さる。「何ですか?長門さん」「気を付けて」 彼女はそれだけ言うと踵を返し、歩き出した。「え、あ。待って下さい長門さん!またね、古泉くん」 みくるは慌てて長門の後を追っていった。 そんな彼女達の背中を、呆気に取られながら古泉は眺めていた。 ──気を付けて、ですか。 長門が自分に気を遣った言葉を投げ掛ける事は初めての事だった。故に、受けた衝撃は絶大なものだった。 ──変わりましたね、あなたは。 ふと、顔面の筋肉が弛緩し口元が弛んだ事に気付く。 たったそれだけの事なのに、彼に自分が別の何者かになってしまったかの様な違和感を感じた。 ──らしくないのは、僕の方ですね。 こうして、本当の笑顔を浮かべてしまった己に自己嫌悪をした。 僕にはそんな権利は無いのに、と。
「さて、遅くなってしまってはまた叱られてしまいますね」 緊張感の無い言葉を呟くもその表情は張り詰めていた。古泉は北高への坂道を駆け上がって行った。 北高の正門を抜け、古泉は迷う事なく真っ先に部室棟にある文芸部室を目指した。本校舎を迂回し、宵闇に染まる不気味な静けさの中駆け抜けて行く。 仕事柄、その手の勘は鋭い事もあるのだが、彼は涼宮ハルヒが生み出した異能力者であり、微弱ながら涼宮ハルヒの精神とリンクする事を可能としているからだ。「不味いですね」 故に、彼女の今の状態を察知する事が出来る。 彼女の精神状態は恐慌状態にあった。喪失や恐怖が入り乱れ、恐らくは冷静では入られない状況に陥っているのだろう。「急がなければ」 部室棟の中へと土足のまま構わずに進入していく。 階段を駆けあがり、文芸部室の前で止まる。 心臓が暴れまわる様に脈動している。乱れた呼吸を整える為、失われた酸素をを体に吸収する。 体や喉は焼ける様に熱く、汗は尋常な量ではない。 それでも、彼は偽りの微笑(ペルソナ)を被り、扉を開けた。
「……、」 薄暗い部室の中、少女の姿を見付けたが、一瞬思考に空白が生まれた。 彼女は、必死に何かに抗う様に苦悶の表情で身を捩らせていた。 古泉は目を凝らし、闇を見据える。 すると、闇の中に朧気ではあるが人の形を成した霧状の何かが彼女の首を絞めているではないか!「……!やめろ!!」 古泉の絶叫が、狭い部室に響く。ダン!と革靴の底が床板を踏み出した音が弾け、三メートルに満たない距離を一瞬で詰める。 巌の様に握り締めた拳を人の形を成した〝黒い霧〟へと放つ。が、インパクト時に発生する衝撃は無く、ぬるりとした不快感が肌を舐め、〝黒い霧〟は闇に溶ける様に霧散する。 理解が及ばない現象に、さして興味を向ける事も無く彼は、しかし警戒だけは解かずに床に倒れ込んだハルヒに視線を落とした。「涼宮さん!しっかりして下さい!」 ハルヒを抱え上げ軽く揺さぶるが、意識が無いのか返答は無い。たが、浅く呼吸を繰り返している事に古泉は束の間の安堵を手に入れた。 ふと、彼女の傍らに倒れている少年の姿が視界に入り表情が凍り付く。「……まさか」 嫌な予感が脳裡を過る。 古泉はハルヒをそっと床に下ろし、少年──キョンの元へと近付く。 生気の無い顔、床に投げ出される様に仰向けに倒れた微動だにしない体。 ゴクリ、と生唾を飲み込む。 古泉は恐る恐る彼の首筋に指を当てた。
トクンッ、トクンッ と定期的なリズムで鼓動すり脈拍を認め、安堵の息を洩らした。 その時は、ハルヒと同じく昏倒しているだけだと、応急措置程度の治療技術や素人が書物を読み漁った程度の医学知識しかない彼が下した見解だった。
機関のオペレーターに連絡し、機関で所有している医療施設に搬送する様に指示を出した後、およそ五分程で救急隊員が到着した。 担架で運ばれ、救急車で救急病院へと搬送される二人を見送った後、古泉はその場に呆然と立ち尽くしていた。 辺りはすっかり夜の闇に染まり、まるで嵐が去った後の様な不気味な静けさが漂っている。 そして、自らを戒める様に唇を噛み締める。決して、成功とは言えない惨状。命こそ護る事は出来たが、重要人物が二人も被害を受けてしまった。 その事実が、己の双肩に重くのし掛かってくる。 ──もし、僕が涼宮さんに彼の後を追うように促さなければ。 彼は一体どうなっていたのだろうか?涼宮ハルヒがあの場に駆け付けたお陰で、致命傷からは逃れる事が出来た。そう考えるべきなのだろうか。 しかし、最重要人物に被害が及ぶ事になってしまった事実は変わらない。 古泉は、悔しさと憎悪、後悔の念が入り乱れ、目眩がする程動悸は速まり、ドロドロと煮えたぎる腹の内を叫び散らしたくなる衝動に駆られた。「……クッ!」 必死にそれを抑え込み、己の不甲斐なさを呪う。 強張った全身は彼の心情を如実に表すように、小刻みに震えていた。 そんな彼の背中に、そっと小さな手が触れた。 「お前はよくやってくれたよ、古泉」 そういって、横に並び慈しむ様な笑みを向け部下を慰めるのは彼の上司である森園生だ。「元々は、我々が監視を一時的にでも無力化されたのが原因だ。お前が気に病む事じゃないさ」 彼女は透き通った澄んだ声で、優しく言葉を紡いでいく。「……ですが!」 古泉は憤懣に唇を震わせ、掠れた声を吐き出す。「物事には綻びがあるものだ。完璧なもの造る事や、完璧に物事を遂行するのは不可能だよ。失敗したら、それを糧に前に進めばいい」 森は少年の悪癖を知っている。 彼は、己が関与した事を全て背負う附しがある。それは責任感、正義感の強さの顕れだろう。 だが、物事には限度がある。いずれは彼も背負い過ぎた重荷に押し潰されてしまう事だろう。 それを止めろ。などと軽薄な言葉を言える筈もない。彼の根源を否定する事になるからだ。 ならば、せめてその重圧を緩和させてやろう。自分にはそれぐらいしか出来ない事を歯痒く思いながらも、 森は彼の痛みを払拭しようと、彼の心が哭いた時は側にいようと決めている。 彼が偽りの笑顔しか見せなくなったのは、己の不甲斐なさが原因なのだから。「……はい」 苦虫を噛み潰したかの様に顔を歪ませながら、古泉は頷いた。「よし、じゃあ私達も撤収するぞ」「了解しました」 森は古泉の背中に手を回したまま、項垂れる少年と共に学校を後にした。
/涼宮ハルヒ
あの日、あの時から、自分の周囲は随分と変化してしまったと思う。 否、変わったのは自分だろうとアタシは自嘲気味に笑った。 部室で気を失った後、アタシが目を醒ましたのは病室のベッドだった。 医師も後遺症などは何も残らないから安心しろと言った。だが、記憶が定かではないアタシに取っては何を言われても実感がなく、上の空で聴き流していた。 退院は直ぐに決まったが、アタシは一度も見舞いにこないキョンに腹を立てていた。見舞いに来たクラスメイトや友人達に問い詰めても、適当に誤魔化されるだけだった。 退院当日になり、アイツが見舞いにこなかった理由を古泉君によって明かされた。 キョンが長期に渡って昏睡状態であること、それが原因不明であり現代医学ではアイツの治療は不可能だということ。 それを聴いた時、世界が終わってしまったかの様な絶望感に心を引き裂かれた。 キョンの眠り続ける病室まで案内されたアタシは、その姿を見て泣き喚いた。 そんなアタシに古泉君は「彼が貴女に渡したかった物です」と、そう言ってから一通の封筒を手渡した後、病室から出て行った。
封筒を開けると中には手紙が入っていた。 手紙には、お世辞にも綺麗とは言えない字でこう書かれていた。
『ハルヒへ 直接言うのも恥ずかしいから、手紙にする事にしたよ。 俺達SOS団が発足してから、一年と一ヶ月ちょっとが過ぎたな。 最初は面倒な事に巻き込まれた、そう思って仕方なく付き合っていたが、今ではSOS団の皆と一緒に高校生活を送れて良かったと思っている。 この一年は本当に色々あったな。楽しい時間はあっという間に過ぎるっていうけど、どうやら本当の事だったみたいだ。 なあ、ハルヒ。 お前は皆と一緒に居て幸せか? お前の目的は不思議な事を探す事にあると思う。 今の俺達が不思議な事を見付けられたとは思わない。 だが、それでもお前が皆と一緒に過ごして幸せだと思っていてくれたら、なんというか俺は嬉しいと思う。 まだ書きたい事は沢山あるが、このぐらいにしておくよ。 P.S SOS団結成一年&日頃の感謝と恨みを込めて、それを送るよ』
封筒を傾けると、中から銀の瀟洒なクロスペンダントのネックレスが掌に滑り落ちた。 溢れ出す涙が止まらなかった。
「アタシは幸せだよ」
ペンダントを握り締め、呟いた言葉は虚しく病室に響いた。 喪ってから、初めて気付いた大切さ。愛しさ。 夢の中で、初めて交わした口付けから自分の中で渦巻いていた感情が、一つの明確な形となる。 キョンが自分の中で何れ程大きな存在であったか、アタシは思い知った。 もし、このまま目覚めなければ、という不安と恐怖が胸中に渦巻き、アタシは後悔に苛まれていた。 アタシは、自分が我が儘でどう仕様のない奴だって解ってる。それでも、キョンは受け入れて側に居てくれた。 そんなアイツをぞんざいに扱ったり、暴言を吐いたりした事もあった。 それでも、側に居てくれた。
もっと、色んな事を沢山話せば良かった。 もっと、アイツの事を知りたかった。 もっと、一緒に笑っていたかった。 アタシは祈り続けた。
そして、その一ヶ月半後にキョンは目醒めた。 記憶を全てを喪って。 それは一年以上の月日を共にした、アイツはもう何処にもいない。 それを聴いて、アタシは再び絶望の淵に立たされた。 でも、今アイツは目の前にいる。アタシの声が届く場所にいる。 だから、アタシは──もう逃げたりしないと誓った。
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