アナタノ声 序章
序章
一人の少年が、真っ白な空間のベッドに横たわっていた。中途半端に伸びたボサボサの茶髪に、やや落ち窪んだ眼窩。頬は痩けていて、病的な肌の白さに無精髭が目立って見える。 一応は美を付けても良さそうな、そんな端正に整った顔立ちは今では見る陰も無くなっていた。
「──っ」
微睡む意識の中、定期的なリズムで音色を刻む電子音が脳に響いてくる。 うっすらと瞼を開き、霞んだ視界に映るのは、白い世界。 仄かに香る消毒液の匂い。 漠然とここが何処なのか考察しようとするが、所詮明瞭さを欠いた意識や思考では五感が感じとれるものぐらいしか解らない。 少年は身体を起こそうとする。が、縄で四肢を繋がれているかの様に、身動きが取れない上に、鉛の様に重い。 指先に力を入れれば動くし、腕を持ち上げ様とすれば僅かに動いてくれたが、「っ……!!」 関節が軋み、神経に直接触れられたかの様な痛みが全身を駆け抜けた。 長期に渡って身体を動かしてなかったのか、筋肉は衰えているし、関節も潤滑油を失っているかの様にギシギシと軋む。 暫くの間、少年は痛みに苦悶の表情を浮かべていたが、それでも懲りずに身体を動かす事に専念する。関節は悲鳴を上げるが、それでも幾度となく繰り返した。 身体はそれなりに動く様になり、やっとの想いで少年は半身を起こし、辺りを一通り見渡した。 真っ白に統一された部屋は清潔さを連想させた。 左腕には点滴から伸びたチューブ。 右手に見えるのは心拍数を計る計器だろうか。それが定期的なリズムで電子音を鳴らし続けている。自然に思考がクリアになってくる。 そして、「……、」ここは、病室か? と口にしようとするが、しかしその口からは、ヒュウ、ヒュウという息遣いしか出なかった。喉が張り付いてしまったと錯覚する程に違和感を感じ、少年は喉を左手で掴んだ。「う……、あ……」 渇き切った喉からは嗄れた声が僅かに洩れただけだった。 一体、自分の体はどうなっているのか。全体、何が起きたらこんな死に体になるというのか。 ここが病院の個室だということは状況から判別するのは容易だったが、「俺──は、」 漠然とした恐怖が突然、何の前触れもなく少年を襲った。 ──何も思い出せない。 何故、自分はここにいる? 何故、入院なんかしている? 何故、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして。
──俺は、誰だ?
「っ……!?がっ……は!」 目眩を覚える程思考が掻き乱され、込み上げてくる吐き気を必死に抑え込む。嘔吐する物が胃に入っていない為か、ギリギリと胃が締め上げられる痛みが脳を突き抜ける。 目まぐるしい程に駆け巡った思考は痛みに抑制され、冷静さを徐々に取り戻す。 ふと、脂汗の滲んだ肌を柔かな風が撫でた。 少年は、窓辺に視線を向けた。緩やかに揺れるミルク色のカーテン先に見えるたゆたう光。「……外」 澄み亘った蒼窮に、綿菓子みたいな入道雲。 夏を謳歌する蝉の鳴き声に、青々しい葉を付けた木々が広大な敷地内に植えられている。 その先に見える整然とした街並みを見て、しかし「夏……か」と、その程度の感慨を抱くだけだった。 様々な色が褪せてしまった彼の瞳には、何の色も映らなかった。 譬れば、真っ白なキャンパスに何の色素も含まない水滴を垂らしただけ。 その程度だった。
不意に、コンコンッ と病室の引き戸をノックする音が病室に響いた。 一拍の間を置いて、引き戸が開かれる。 少年はゆっくりと振り返った。 そこに立っていたのは、高校生ぐらいの少女だった。肩口辺りまである艶やかな黒髪に、リボンの飾りが付いた黄色のカチューシャ。細く整った柳眉の上に被る前髪。そこから覗く双眸は、宝石の様な輝きを秘めた褐色の瞳。 端正な顔立ち。美少女といっても過言はないだろう。それに、襟元と袖口が紺のセーラー服に紺色のプリーツスカートという制服が良く似合っていると思う。 しかし、“彼女が着ている物が何かは解る”のだが、少年にはその制服が何処の高校の物かは解らない。「……嘘?」 少女は、少年を見て驚愕と歓喜が入り乱れた複雑な表情を浮かべ、目尻に大粒の滴を溜めていた。 少年には、何故彼女がそんな表情をしているのか。そもそも、何故自分の見舞いに来たのかも解らない。「部屋、間違えて……ませんか?」 少年は申し訳なさそうに言った。 それは当然の反応だった。彼には少女が誰なのかも解らないのだから。 だが、意に反して彼女は絶句する。 少女の震える指先から、ボトッ と、手に持っていたお茶のペットボトルを落としてしまう。「……え?ちょっとあんた、何言ってんの?冗談は止しなさいよ」 予期せぬ少年の言葉が彼女の心臓を締め付けた。 少年が倒れてから毎日欠かさず、病院まで足を運び、彼が目を醒ます事をただ切に願い続けた少女の想いは、たった一言で切り裂かれた。「……すいません」 少年は少女から視線を外し、再び外の景色に視線を移した。 乾いた唇が、僅かに開く。「でも、あなたが誰なのかも。自分が誰なのかも。何もかもが──」 この先の言葉を本当に口にしてしまっていいのだろうか? 彼女の今にも泣き崩れてしまいそうな姿を見て、少年は戸惑っていた。 だが、自分ではどう仕様の無いことだ。 何故ならば──彼には思い出の一切合切が何らかの要因によって、"奪われて"しまっているのだ。 僅かな逡巡の間を置いて少年は、少女に向き直る。
震える唇が、僅かに開く。
「──解らないんです」
「っ……!?」 再び絶句。 そして、静寂が訪れた。 まるで、この部屋だけが世界から取り残された様に。
「……まさか、記憶──喪失?何で、あんたがそんなのにならなきゃ……」 悄然と少女は吐き出した言葉を噛み潰す様に、歯噛みする。「……すいません」 少年の消え入りそうな声に、ああ、本当に自分の事も忘れてしまったのだな、と少女は実感する。 これが、質の悪い冗談ならどれだけ良かった事か。 長く重い沈黙が、病室に静寂をもたらす。
暫くして、俯いていた顔を上げた少女は、今にも泣き崩れてしまいそうな表情を殺して、少年に微笑み掛けた。「……ごめんなさい、あなたがそんな事になってしまったのは、きっとあたしの所為だから……」 ぼそり、と消え入りそうな声で少女は呟いた。「……え?」 少年は訝しげに少女に視線を向けた。「今……、なんて?」 少年が問うと、少女は首を振って「なんでもない」と答えた。「……あたしは、県立北高等学校二年、SOS団団長 涼宮ハルヒ」 唐突に、少女は名乗った。それを聞いた途端、頭にズキリとした鋭い痛みが走る。 僅かに表情を歪ませながらも痛みを堪え、それが自己紹介だと気付くまでに茫然自失と少年は彼女とたっぷり十秒見詰めあった後、少年は「……俺は」と自己紹介をしようとするが、口を引き結び押し黙ってしまう。生憎彼には思い出の一切合切が無いのである。 歯噛みしながら、力の入らない拳を握り締めた。「あんたはキョン、皆からそう呼ばれてる。それに、あんたもSOS団の一員なのよ」 そう言って、少女は少年に歩みよりベッドの脇に立った。 そして、右手を差し出した。 目の前に立つ少女は、どうやら自分が無くしてしまった過去を知っている人間らしい。(……県立北高等学校、SOS団。それに、ペットみたいなあだ名……か。 一体、俺はどんな生活を送っていたのやら) ──SOS団。一体何を目的として活動を行っている団体なのかは良くは解らないが、涼宮ハルヒという名前を聴いた時に、鋭い痛みと共に抱いた感覚。 胸が疼く様な、それでいてかがり火が灯る様な暖かな感覚。 ──俺は。
少年は緩慢とした動作で、しかし少女の差し出した手を確りと握り締める。「……宜しくね、キョン」「こちらこそ」
その日、少年──キョンは目覚めてから初めて笑顔を見せた。 握手を交わした少女──ハルヒの存在を確かめる様に、肌に感じる温もりを噛み締める。
記憶を失った少年と、彼の過去を知る少女が再び出逢い、そして彼等の新たな物語は今ここから始まる。
それだけの、お話。
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