未来の古泉の話
――壁に埋め込まれたスピーカーから響く静かなジャズに紛れ、絶え間なく続く談笑が薄暗い店内を包んでいる。『一人の客に干渉はしない』そんな暗黙の了解でもあるのか、オーダーされたカクテルを渡す時以外は決して口を開かないバーテンの前がここ数日の僕の指定席になっていた。 いつも一人で訪れる僕の為にわざわざ空けてくれているのではないのだろうけど、カウンターの端から二番目のこのスツールに誰かが座っているのを僕はまだ見たことが無い。 ここでだけは、僕は僕で居られる。 誰にも教えず「報告」もしていないこの店の中でだけは―― それが、くだらない自己欺瞞でしかないのは解っていた。 機関が僕の行動をロストする可能性など皆無なのだから。 もしかしたら、そう。こうして僕の前でグラスを磨く彼ですら、機関の一員なのかも―― 自分へと向けられた視線を注文と感じたのか、バーテンの手が止まり少しだけ視線が向けられる。 そんな彼にグラスを持っていた手を軽く横に振って、僕は誤解させてしまった事への謝辞を伝えた。 小さく会釈をして仕事に戻る彼を見る内に、自分の顔に浮かんだ笑顔のような物も消えるのを感じる。 ……毒され過ぎ、でしょうね。 生活、仕事、趣味――もしかしたら、もっと個人的な事においてまで。僕の価値基準は機関に染まってしまっている気がする。 僕が機関に属してきた年月を考えれば無理も無い事なのかもしれないが……でも、それは別の理由があるのだという事もまた否定は出来ない。 僕が機関に傾倒する、本当の理由。それは―― 軽く酔いが回った緩慢とした思考が形を作ろうとする中、背後を通り過ぎていく心地良いリズムを刻むヒールの音が、途絶えた。「――それで? ここにはさっきまでどんな女の人が座ってたのかしら。あたしより美人?」 挨拶ではなく、問いかけ。 ある意味それこそが、自分の欲求に常に向き合っている彼女式の挨拶なのかもしれない。 意味深な視線を僕に投げながら、彼女――ここ数年ぐっと女性らしさを身に着け、振りまく様な雰囲気を身につけた涼宮さんが、僕の右隣のスツールに座った。 ゆっくりとスツールをなぞる細い指先に小さな輝きを見つけた後、「いえ、残念ながらそんな事実はありませんでした」 ――色んな意味で、ね。 この返答では彼女は退屈だと感じるだろうと思いつつも、僕は事実をありのままに告げた。「ふ~ん。つまり、こんなお洒落なバーで、金曜の夜に、こんないい男が一人で飲んでたって古泉君は言っちゃうんだ」 何かを企む様な彼女の微笑、この顔を見たのは何週間振りだろうか。 ……いや、実際は数日も経っていないか。 時間と感情の概念についての疑問を感じつつ、「お褒めの言葉と受け取っておきます、涼宮さん」 僕は自分が飲んでいたグラスを軽く上げて、彼女に曖昧な返答を返した。 ――ついさっき彼女から指摘された通り、このクラブを現在利用している客層は男女のペアが殆ど、今日が週末という事を考えれば、この店の後の予定について詮索するのは流石に無粋という物だろう。 実際問題、こうして彼女を待っている間に数人の女性に声をかけられたという事実は、この場合どうでもいい事ですが。 ……本当に、ね。「ふふ~ん。以前のあたしならそんな古泉君の演技に騙されてたかもしれないけど今日はそうはいかないわよ」 いったい何が彼女にそう思わせたのだろうか。 確信めいた口調でそう言いながら、彼女は不意に僕の肩に顔を寄せるのだった。 えっと、あの、何か。 演技も何も、今日はまだ何も嘘をついていないはずなんですが。「この匂いよ!」 え?「これって煙草でしょ? しかもキョンの吸ってる銘柄とも違う匂い! 古泉君が煙草なんて吸うはずないし、こんな服にまで匂いが残るほど近くで煙草を吸う事が出来るのはズバリ彼女! ……って」 鬼の首を取ったかの様な彼女の顔は、申し訳なさそうに僕が胸元から取り出した煙草を見た事で虚しく消えた。「えー!? 何それ、古泉君まで煙草を吸うの?」 えっと、はい。実は。 なんというか……すみません。 取り出したばかりの煙草を胸ポケットへとしまおうとすると、「キョンはどうでもいいけど、古泉君みたいないい男が煙草なんて……まあ似合うからいっか」 彼女の手が素早く奪い去り、箱の中から手早く取り出された一本の煙草が僕の唇へと差し出されていた。「でも、あたしが居る間は一本だけにしてね?」 手際が良すぎて気付かなかったが、いつの間にか彼女の手には火のついた店のマッチがある。 自然に吸い込んだ息が煙草の先端部を浅く焦がし、間接照明しかない薄暗い店内に白い煙が立ち上った。 ……やれやれ、今日は主導権を握れると思っていたんですが。 早々と彼女のペースに巻き込まれている自分を少し可笑しく感じつつ、僕は隠していた灰皿を彼女から遠い位置に置いた。 さて、用件を済ませましょうか。 足元の鞄から厚い封筒を取り出し、僕は彼女の前にそれを置いた。「夕方に連絡した物です。確認してください」「ありがとっ! ん~どれどれ~――中々いい出来じゃない? まあ、モデルの一人があたしなんだから当たり前だけどね」 上機嫌な彼女の手の中には、封筒の中に入っていた頼まれ物――プリント済みの年賀状がある。そこに写る画像は溢れんばかりの笑顔の彼女、そして緊張したぎこちない笑顔の彼。さらに二人の間に授かった宝物の姿が仲睦まじそうに並んでいる。「でも昨日頼んだばっかりだったのにもう出来るなんて、無理させちゃったんじゃない?」 いえいえ。「この手の事に詳しい友人が居たので、それ程の手間ではありませんでした」「本当? それならいいんだけど」 ええ、今のも本当です。 機関の人材でカバーできない案件は殆ど、皆無と言ってもいいくらいですから。 年賀状が彼女のハンドバックの中に消えると同時、僕の手は自然と灰皿の煙草へと向かっていた。 これで用件は終わり、久しぶりの逢瀬もこれまでですね――これで、少しでも彼女の気晴らしになっていればいいんですが。 自分に出来る制限という壁に、歯痒さに似た何かを感じていると「バーテンさん! カシスソーダちょうだい!」 テーブルの上に体を乗り出した彼女から、予想外の発言が飛び出していた。 あ、あの、これお酒ですよ?「もちろん知ってるわよ」 でも、ほらもうこんな時間ですし、「そんな時間に呼び出したのは古泉君じゃない」 それはまあ、そうなんですが。 僕がこの時間を指定したのは、あなたの精神が一番不安定になると予測されたのがこの時間だったからであって……。 そんな機関の事情など、口に出来るはずもなく、「はい、じゃあ乾杯しましょ?」 バーテンの手から受け取った小さなグラスを手に、彼女は僕にそう言った。「……ねえねえ、古泉君って……もしかして男の人が好きなの?」 イエス、そう答えた方が喜ばれそうな視線を感じますが、「実は以前、彼にも同じ事を聞かれました。ですが僕は、いたってノーマルなつもりです」 一応、ね。「じゃあ何で彼女を作らないの? あ、誰か一人に縛られたくないとか!」 いえ。 普通に一人は寂しいですよ。「残念ながら、いい出会いに恵まれない様です」「え~? 古泉君なら視線だけで踊り食いって感じなのに」 ――一杯だけかと思っていたのに、気付けば涼宮さんは僕と変わらぬペースでアルコールを口に運んでいて、数分で終わるはずの密会はまだ続いていた。 さて……困りました。 流石にここまで来てしまうと、この事について聞かないという選択肢は逆に不自然で選べそうに無い。 彼女の気晴らし、その目的が未達成で終わる可能性を感じつつ「旦那様はいいんですか、放って置いても」 僕は避けていたその質問を彼女に切り出した。「……古泉君がキョンの事を旦那様って呼ぶと、何か別の意味で変ね」 そうですか?「うん、かなり変。ま、それはいいとして……キョンは、その、夕方に何か用事があるって言って出かけたっきり」 グラスに視線を固めたまま、躊躇いがちに答える彼女の右手は、無意識の癖なのか左手の指輪に添えられていた。 予想通り、彼女の精神に揺らぎが産まれたのを感じながら「そうですか」 とだけ、僕は答えた。 ――もしかしたら、正直に全てを打ち明けてもいいのかもしれません。彼女は既に、あの不安定だった頃の彼女ではないのだから。 機関の掴んだ情報によれば、現在彼は中学時代の同級生と二人で会っている。 その同級生とは、かつて彼の一番近くに居た女性――佐々木さん。 これは推測でしかないが、この件に関しては彼女の周囲に居る勢力の思惑とは関係がないはずだ。既に涼宮さんの力の移管は終わっている以上、今回のような強引な形で彼に取り入る理由は見つからない。 もし、彼等の考えが彼に取り入る事ではなく、通俗的な言い方で言えば情に訴える物だったとしても、僕の知る限り……彼に間違いを起こす可能性は無い。 そしてそれは、涼宮さんも同じ認識を彼に持っているはずだ。 ――それでも、こうして隣に座る彼女の不安を募らせる様な事はしたくない。「では、お子様は今お留守番なんですか」 意図的に変えた僕の話題に、「あ、ううん。今日は実家に預けてきたから。しっかりしてる子だから一人で留守番出来るとは思うんだけど、パパが帰ってきて二人っきりになると嫌、だって。あの子、本当にキョンに懐かないのよね……古泉君には懐いてるのに」 彼女は嬉しそうに乗ってくるのだった。「ん~……実は昔からね? 古泉君の事で解らない事があったの」 彼女がそう言い出したのは、店内の客足も減り始めた頃の事だった。 出口へと向かう客が背後を通っていくのすら気にせず、「ねえ! 何でなの?」 彼女は自分の疑問をぶつけてくる。 さあ、何ででしょう。 主文さえ見つからない質問に、僕の顔は何故か微笑んでいた。「おかしいのよ、うん。あの頃も変だって思ってはいたけど、今考えるともっと変!」 何度も一人で肯いていた涼宮さんは、「古泉君ってさ、何でSOS団に居てくれたの?」 本当に今更過ぎる問いかけを、僕にぶつけるのだった。 と、言いますと。 条件反射の様に続きを促しつつ、僕は本当に続く言葉が聞きたいと感じていた。「だっておかしいじゃない? 最初は、ほら。あたしが転校したての古泉君を部室に案内した時ね? あの時はまだ解るの。怖いもの見たさっていうか……そう、好奇心は猫をも殺すって言うし!」 その比喩表現を使うべき所なのかは謎ですが。「でもさ、それからの古泉君は……ん~何ていうのかなぁ」 適切な言葉が見つからなかったのか、暫くの間悩んだ後「あたし達と一緒に居るのに、古泉君だけ別の場所に居るみたいだった」 別の場所、ですか。「そう。あのね、多分あたし達の中で古泉君は一番楽しそうにしててくれてた。最初の内は、古泉君はあたしと似てる考えを持ってるから楽しいんだろうなって思ってたんだけど……でも、古泉君は結局、最初から最後までその距離を保ったままだった。まるで――」 涼宮さんは僕の腕に指先を触れさせつつ、「ちょうど、今のあたしとの距離みたいにね」 そう言いながら、少し寂しそうに笑った。「あ、でもそれが嫌だとか思ってたんじゃないの。ただ……近づこうとも離れようともしないまま、どうして古泉君は最後まで一緒に居てくれたのか。それが解らないのよね~」 残り少ないカシスソーダを適当に傾けつつ、彼女は僕から視線を外した。 実は、僕は機関と呼ばれる特殊な集団に属していまして、その仕事の一環でSOS団に参加していました。 ――そう打ち明けたら、彼女はどんな顔をするだろうか? 冗談だと思って笑う? それとも。 酔いのせいだろうか。そんな子供じみた好奇心に、かなり本気で心を動かされていると、「もしかして、古泉君って……SOS団の活動が好きだったんじゃなくて、メンバーの中に好きな人が居たんじゃない? しかも、それは過去形じゃなくて現在進行形とか?!」 苦笑いを浮かべるのにちょうどいい発言に、僕は素直に乗った。「さあ、どうでしょう」「え~教えてくれてもいいじゃない。どうせここにはあたししか居ないんだからさ」 明かに対面で作業中のバーテンを無視したまま――もしかしたら、本当に彼女の認識の中にバーテンは存在していないのかもしれない――涼宮さんは僕の傍へと体を寄せてくる。 返答は決まっている。 ノーだ。 ここで僕が答える選択肢はそれしかない。 仮にイエスと答えれば、その相手を彼女が詮索しないはずがない。 ついさっきの彼女の僕に対する認識を見ても、また、これまでの自分の行動を考える分にも何も危険は無いはずだ。 僕の好意が、誰へ向けられていたのかを知られる事はないだろう。 それでも、無駄な危険は冒す必要は無い。 ごく単純な結論を導き出した僕は、「……ええ、実はそうなんです」 自分を見つめる彼女の瞳を前に、素直に本心を打ち明けていた。 思わず固まってしまう僕とは対照的に、彼女は顔を綻ばせる。 続く質問に予想がついた僕は、「ですが、その相手は秘密でお願いしますね」 予め先手を打って、彼女の追撃を逃れようとした。「うん、解った! で、誰? みくるちゃん? 鶴屋さん? それとも有希とか?」 やはり、無意味でしたか。 それこそ猫でも殺せそうな顔の彼女は、何故か不意に途切れ。「……でも、もし古泉君が好きなのが有希なら諦めた方がいいと思う。あの子……今でも、キョンの事が好きみたいだから」 そう言って、彼女の右手がそっと左手の指輪に触れた。「本当、不思議よね……何で有希はキョンみたいなのが好きなんだろ? ……って、結婚したあたしが言うのもなんだけど、ね」 無理やりに笑おうとしたその顔は、笑顔になりきれずに終わった。 長門さん。 彼女の向ける好意に、今の彼は――きっと気付いてるのでしょうね。学生だった頃の自分へと向けられていた感情も含めて。 自分へ向けられる好意にだけは極端に鈍感。 そんな彼が最初に気付いたのが、他ならぬ涼宮さんからの好意だった。 ――もし、それが彼女ではなかったら? 長門さんがそう考えているかどうかは解らないが、僕には彼女に何も言う資格が無い事だけは解る。「ノーコメント。で、お願いします」 今もこうして、彼女に向き合えないで居る僕には。 きっと僕に許されるのは、咎められない事をいい事に――彼女の事を、旧姓で呼ぶ事だけ。 彼女を見守る立場に居る僕は、これ以上を望んではいけない。 でも――「あ~あ、SOS団解散するんじゃなかったなぁ……。そうすれば、団長命令で自白させる事だって出来たのに」 今日の僕は酔っているのだから――「ねえ、じゃあヒントだけでも教えて? 髪は長い? 胸は大きい? 凄い元気?」 ここは僕だけの場所で――「こっそり教えて? ね? 絶対キョンには言わないから!」 機関なんて、考えなくてもいいのなら――「……古泉、君?」『僕が好きなのはあなたです。あなたが僕を見つけたあの日よりも、ずっと前から』 本気でそう告げようと口を開いた時――視界の隅で、彼女の右手が左手の指輪に近づくのが見えてしまったのは……きっと、幸運なんでしょうね。 開いたまま固まっていた口を、僕は閉ざした。 そもそも……こうして彼女を呼び出している時点で僕はおかしかったんでしょう。 彼にあまり家に立ち寄らない様に言われているとはいえ、既婚の女性を呼び出すには場所も時間も不適切過ぎている。 郵便受けにでも投函しておけば、それで済んだ用件でしかない。 ――これで、また彼に苦情を言われる事になりそうだ。 それが少しだけ申し訳なく、それ以上に大切なこの関係を壊さずに済んだ事を今は喜びましょうか。 彼女が、彼を忘れるなんて……ありえないのですから。 そんなありえないIFに苦笑いを浮かべつつ、僕はテーブルの上のグラスを手に取った。 今のままでいい、そんな選択肢もありますよね? 静かに返事を待つ彼女に、僕は――グラスの中に入っていたバーボンを飲み干して、彼女に見えるように左手につけていた腕時計を指差した。"It cannot be as tonight" is closed.BGM by Ken Hirai "even if"
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続編(?)「きょんむすシリーズ」
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