機械知性体たちの狂騒曲 第3話
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いつか、また。
―ある情報端末の伝言―
「喜緑……さん」「はい。こんばんわ」
正確を期して彼女のことを説明するならば、その個体コードは『RS-03D-SA-1003』。 現在のパーソナルネームを喜緑江美里といいました。 主要八大派閥の中でももっとも発言力のあるひとつ、穏健派に属する彼女は、「穏健」という概念そのものを体現するかのような穏やかな態度を保ってゆっくりと玄関に入って来ました。 先ほどのピンポン玉のことなど、気に止めた様子もありません。 久しぶりにこうして直接接触したわけですが、相変わらずおしとやかで上品で、理知的な印象を持った女子高校生にしか見えませんでした。
ですが、それは表面上のことだけです。 人間としての擬態という意味においてですが。
彼女は端末として、かつてのわたしと同等以上、もしかしたら主流派に属する長門さんよりも上位能力を持つ存在なのかもしれないのです。 派閥を超え、統合思念体総体から「あらゆる接触、戦闘経験を与えられているのでは」という情報もありました。
もっとも、どうしてそこまでの能力が彼女に賦与されたのかは不明のまま。 わたしが涼宮ハルヒの観測任務から離脱したあとは、実質、長門さんのバックアップとして稼動しているとも聞いていたのですが。
それが、ここにこうしているということは……では、わたしを引き取りに来るという端末は、喜緑……さん?
そんな懸念をよそに、彼女は防御障壁などという物騒なものを展開しているなどと思わせないのんびりとした仕草で、わたしとキミドリさんとで構築した玄関先の「要塞」を見渡していました。
ああ……その視線の先にはバナナの皮の地雷や、洗濯バサミの撒きビシが。
「なるほど」 しげしげとそれらを見やり、彼女は感心したように言います。「どうやら散らかっている、というわけではないのですね」「あの、いや、これは、その」 うう。どう説明したらいいのですか、こんな状況。「それとも、いつもこんなふうに長門さんをお出迎えしているのですか? 仲がいいというのはほんとうみたい」 嫌味ではなく、本気でそのように感じたのでしょうか。 そう言って見つめられたわたしは、彼女のその言葉に一気に現実に引き戻され、顔面蒼白になります。 一瞬にして醒める、とでも言いましょうか。
これでは、まるで。
わたしが長門さんにじゃれついて遊んでるだけのようではないですか。
……いや、事実その通りなのです。そのことに気づいて愕然とします。 これまでの長門さんやキミドリさんとの生活は、涼宮ハルヒという異質で異様な存在を取り巻く「本来の世界」とは切り離された、閉鎖された空間での出来事だったということ。 それが喜緑江美里という、外部からの来訪者が現れた瞬間に、ただの幻想、作り物、偽りの世界だったことを思い知らされたのです。
わたしは人間ではない。情報端末なのに。そのことを完全に忘れていたのです。
そして今の自分の姿に思い至ります。 頭に被ったヘルメット代わりのボウルをすぐに脱いで背中に隠しますが、時すでに遅しというものです。「……ええと。いつもこんなことをしているわけではなくて、ですね」 つい言いわけめいたことを口にしていましたが、どれほどの効果も期待できませんでした。「冗談です。だいたい事情は把握しているつもりですから」「うう……」 恥ずかしのあまりに、スカートの端を握り締めてうつむいてしまいました。 ああ……これが、急進派の誇った情報端末の成れの果ての姿。 よりにもよって、もっとも思考形態が対立する穏健派の彼女に見られてしまうなんて、なんという屈辱でしょう。
「あら。こちらは?」 彼女の興味は、わたしの隣にいる存在に移行したようです。 つまり風船擬似生命体の、キミドリさん。 そういえば彼も彼女も、同じ名前といえばそうなのでした。ああ、ややこしい。「あ……あのう」 カチンコチンに固まったキミドリさんが、今まで聞いたことのない狼狽ぶりでなにかをつぶやいていました。「…………?」 なにを緊張しているのでしょう。 わたしが、彼女に感じているもの、というのとはちょっと違うようでした。「マテリアル・サーバントですか。初めてお目にかかりますね。お名前はあるんですか?」 にこにこしながら、喜緑さんがわたしに尋ねます。「ええ。風船の色にちなんで、キミドリさんと……」
「ああ……なるほど。わたしのパーソナルネームを」
あれ? 空気がその刹那、凍りついたような――。 喜緑さんの表情はまったく変わりません。それなのに、彼女を取り巻くなにかが瞬時に変質してしまったようでした。 ひんやりとして、張り詰めた、氷のような緊張感。 恐る恐るキミドリさんの方を見てみると、こちらは風船の本来の伸縮性を完全に失い、硬化したまま沈黙してしまいました。 まるでヘビに睨まれたカエルのようです。「……そうですか。長門さんですか。名付け親は」「いえ、それはキミドリさんが自分で……」 確かそのはずでした。色にちなんでキミドリさんとお呼びください、とかなんとか。
じっと固まったままのキミドリさんから目を離さず、しばらくしてから喜緑さんはふっと軽くため息をついて、うなずきました。「まぁ、いいんですけどね。"今の長門さん"のすることですし」「……はぁ?」 ……まぁ確かに。考えてみれば、失礼な話なのかもしれません。 キミドリさんは言わばペットのようなもの。わたしにとってはもはや家族も同然でしたが。 ですが喜緑さんにとってみれば、そうではないのです。 そんな、傍目からすれば愛玩用の動物みたいな存在に自分の名前を付けられる、というのは気に障るのも当然なのかも……。
……あれ?
わたしは、この時、自分の状態変化について改めて気づかされます。 かつて理解できなかったことを、理解している。 かつては当然と思っていたことを、疑問に感じている。 今の喜緑さんの反応に対しての、この一連の思考もそうです。 昔、彼女がそのような反応を示したとして「失礼にあたるから気に障ったのだ」などということを連想できたでしょうか。 そもそも、今のように推察したり、考えたりしたでしょうか。 おそらくしていなかったはずです。ただの擬態プログラムだと、そう判断して切り捨てていたはず。
……妙です。 今のこの体になってからのすべての知覚機能や、情感機能の変調ですが、実は単純な問題ではないのではないのでしょうか。 ただ再生に失敗しただけにしては、おかしなことがたくさんありすぎる。もしかしたら、端末機能をただ失っただけではないのかも。 変質……ほんとうに、まったく、別のものに変貌してしまったのでは――。 喜緑さんは、わたしがそんな疑念を抱いていることには気づかないようで、 すべてをわかっていると言わんばかりにしゃがみこむと、わたしの頭をそっと撫で始めました。「こんなに可愛くなってしまって。でも、これはこれでいいのかもしれませんね」 暖かくて柔らかい手のひらでした。 喜緑さんのその手がわたしの髪の毛を優しくさすってくれるのが、とても、気持ちいいのです。 不思議な感覚でした。長門さんはこんなことしませんし。
「朝倉さん……? 眠いのですか?」 え……? なんですか? まだ喜緑さんの頭なでなでは続いています。 ああ、なんか安心してしまうのはどうしてでしょう。 あまりの心地よさに……心地よさに……。「ふふ……可愛いです」 ……そうですか? なんか子供扱いされるのは、ともかく、ちょっと嬉しいですね。 くすぐったいというか、むずかゆいというか。 それに……確かに言われてみると……。 あまりの、気持ちよさに……まぶたが……。「立ったまま……眠って……」
なにか言ってるような気がしましたが。 ――暗転。
「……そうですか。長門さんがそんな風に説明を」 「は。わたしにもよくはわからないのですが」 はっ。 ……喜緑さんとキミドリさんの声? 気がつくと座布団の上に寝かされ、なんと上掛けにタオルケットをかけられているではありませんか。 あれ? どうしてこんな……。 むっくりと起き上がると、そこは七〇八号室のリビングルーム。「お目覚めですか」 女性の声のする方を振り向くと、そこには喜緑さんとキミドリさんがテーブルを挟んで座っていました。 ふたりともごていねいに座布団までしいて、お茶を飲みながら。「そろそろ、出発の準備をした方が良いのでは」 え、なんのことです? 寝ぼけ眼をこすりながら、わたしは時計に目を向けました。 午後六時十三分。ああ、もうこんな時間ですか。 一月も終わりという時期でしたから、もう外はすっかり暗くなってしまっていますね。「今日は、長門さんはここには戻らないそうです」 喜緑さんは立ち上がると、わたしのそばまでやって来ました。「いろいろと不満はあるでしょうけど、これも長門さんのためだと思って聞き分けてください」 ですから、なにを言って――。 ……思い出しました。 わたしは、今日でここを去らなくてはいけないということに。「……理由を聞いていません」「その件ですが」 喜緑さんが困ったように手をあごに添えて言いました。「わたしも、今の段階ではあなたに説明することは許可されていません。申し訳ありませんが」「……これは、思念体からの指令ですか?」「そうです」 本来、思念体からのオーダーは、端末支援システムというものを中継してわたしたちに伝えられます。 端末同士も思考リンクというシステムを用いて、今のこのような会話などなしに情報を補完することができたりします。 ですが、今のわたしはそのような機能をすべて失っていました。 このようにほかの端末から、口頭で、言葉としてしか情報を得ることができないのです。「いずれは説明できるとは思います。ですが今はここを離れることが、長門さんのためでもあると考えてください」「……わたしは、邪魔ものですか」「そういうわけではないのですが……」 喜緑さんは言葉を濁して、それ以上は何も言いませんでした。
薄々は感じていたことです。 何の機能も持たないわたしが、情報統合思念体からどのように評価されているのか。 再生に失敗し、しかもその理由が独断専行の処罰の結果です。 元の任務に戻ることすらできず、このような体になった以上、肝心の涼宮ハルヒの前に出ることすら許されません。 できることといえば、長門さんの身の周りのお世話だけ。 でも、それでも一生懸命がんばってきたつもりだったのに。
「……今夜は、長門さんは戻らないんですね?」 ふと、先ほどの喜緑さんの言葉が気にかかりました。「はい。ちょっと、用件ができまして」「何かがあったんですか?」 ここのところは何も状態に変化はない、と長門さんは言っていたはず。 もしかしたら、わたしに心配をかけまいと言わなかっただけなのでしょうか。「大したことではないのです。今は」 その「今は」というところに引っかかりを感じましたが、でもそれ以上はわたしには教えられないのでしょう。
喜緑さんは辛抱強く、わたしが行動するのを待っているようでした。
……仕方ないのです。 せめて最後にお別れを言いたかったのですが。「わかりました」 立ち上がり、喜緑さんを見上げて言いました。「連れていってください、喜緑さん」「……朝倉さん」 横から、キミドリさんの辛そうな声が聞こえました。「朝倉さんがいなくなっても、わたしができる限り、長門さんのお世話はしますから」 キミドリさんがこちらを向いています。その体はかすかに震えていました。「はい。お願いしますね、キミドリさん」「……いつかまた、戻ってこれますよね。いつかまた、一緒に暮らせますよね」 顔のない風船犬が、まるで泣いてるように見えました。
不思議なのです。 今までのことが、夢だったみたい。 あの時、あの赤い夕暮れの日に、もしかしたらわたしはほんとうは、光の粒子になったまま消えてしまっていたのではないでしょうか。 ここにこうしている、この事態そのものが、誰かが見せてくれていた夢だったのではないでしょうか。 そんな風に思えてしまいます。 でも、それもひとまずおしまい。「……そうですね。いつか、また」 でも、その前に、ひとつだけしておきたいことがありました。「あと少しだけ、時間をいただいてもいいですか?」 喜緑さんは、わたしのその言葉に、何も言わずにただうなずいてくれました。
「星が、きれいですね」 喜緑さんが、夜空を見上げてつぶやきました。 まだまだ外の空気は寒いのです。特に今夜は一段と冷え込んでいるようでした。 そういえば、あとしばらくすると長門さんの誕生日の二月一日。もしかしたら、その日には雪が降るかもしれません。 なにしろ彼女のパーソナル……いえ、名前は、その自然現象から付けられたということのようですから。「狭くありませんか? 朝倉さん」 喜緑さんがわたしの入った大きめのカバンを肩にかけて夜の道を歩いています。 長門さん以外にこうして運んでもらうのは初めてでしたが、もうこのこと自体には慣れているので問題はありません。「だいじょうぶです」 わたしはカバンの中に詰め込んだ、長門さんの手作りのお洋服と一緒に、これまで暮らしていたマンションから運ばれていきます。 これからは、喜緑さんのお世話になりながら暮らしていくことになるのでしょう。 それがどれくらいの時間なのか、そもそもどうして長門さんとお別れしなくてはいけないのか、それもわからないままでしたが。「……生きてさえいれば」「え?」 わたしのつぶやきに、喜緑さんが気づいたようです。「なにか?」「いえ。なんでもないのです」 微笑んで、そう答えました。 でも、心の中でだけ、わたしは言葉を続けました。 生きてさえいれば、いつかまた会えます。 ――今のわたしには、なぜか、生きるという意味がはっきりとわかるのですから。
こうして、夜空の星々に照らされながら、わたしは長門さんとお別れをしました。 でも、いつかまた。 希望だけは、あるのです。
ながとさんへ。
おてがみをかきます。 ほんとうは、きちんとあって、おわかれをいいたかったのですが、おしごとのことでしかたありません。 ですからこうして、きみどりさんにおてがみをわたしてもらうように、おねがいしました。 わたしのきのうはせいげんされているので、うまくつたえられないかもしれないのです。 ごめんなさい。
あまり、よふかしはいけません。 がっこうにちこくするのもよくないです。 なるべくはやく、おなじじかんにねて、おきてください。 ゆうきせいめいのからだのいじには、それがいちばんいいことらしいのです。
それとおなじように、ごはんはきちんとたべてくださいね。 れとるとしょくひんばかりだと、えいようがかたよりがちです。
もっとかきたいこととか、つたえたいことがあったとおもうのですが、 こうしてあらためてかんがえると、なにをかいたらいいのか、おもいだせなくなりました。 むかしのわたしなら、きっとちがったことをかけたとおもうのですが。
さんにんでいっしょにすごしたことは、わすれません。
わたしをゆるしてくれて、ありがとう。 いっしょにくらしてくれて、ありがとう。 めいわくだったのかもしれませんが、わたしはわたしにできることをせいいっぱいやったつもりです。 これからも、おげんきで。 さようなら。
あちゃくらりょうこ。
―第四話へつづく―
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