ゼロと無限大
※永遠と一瞬の続編です『ゼロと無限大』昼から降り出した雪は、3時過ぎから勢いを増した。窓に打ち付けられる雪の量が多くなる。それとともに、窓から見えていた町並みは白にかき消されていった。今は最後の授業時間のはずだが、いつも時間通りに来るはずの数学教師はまだ来ていない。周りには無駄話をするグループがいくつかあって、教室の中はそれなりにうるさい。でも僕は気にならない。むしろこれくらいうるさい方が、僕も考えに集中できていい。僕は最近考えることが多くなった。気づけば窓の外をあてもなく眺めながら、頭の中をゆっくりと流れていく言葉の断片を見送っている。だから、教師に注意される。それも一度や二度じゃない。でも構わない。僕は授業になんて興味がない。たぶん、僕にとって重要なことが黒板に現れることはないのだから。僕の求めている答えは、僕自身が見つけなければいけないのだから。 時間は残酷なまでに速い。僕はそれを知っている。僕が答えを求め始めてから一年が過ぎた。この一年、時間はいくらでもあった。そのほとんどを、考えることに費やしたと言っても過言ではない。その全ては、徒労に終わった。答えは出なかった。これは、彼と朝比奈さんから聞いた話だ。一年前、長門さんは世界を改変した。元の世界から「彼」だけを連れて。 僕は長門さんを愛している。この気持ちははっきりしている。でも、長門さんはどうだろうか。長門さんは僕を愛してくれているのだろうか。いや、それ以前に僕のことを意識してくれているのだろうか。ちゃんと考えれば分かることだった。改変された世界に長門さんが「彼」だけを連れていたのは、長門さんが「彼」を求めたから。長門さんが「彼」に世界を選択させたのは、長門さんにとって「彼」の意思が重要だったから。そこに、僕はいない。長門さんが意識しているのは、「彼」だった。僕の愛は一方的でしかなかった。僕と長門さんの距離は、無限大に限りなく近かった。それは、赤の他人とほとんど変わらない距離だ。僕はすでに、その事実を受け入れていた。だから僕の求めていた答えは、これからどうすべきか、それだけだった。行動を起こすのか、起こさないのか。彼女に僕の気持ちを伝えるのか、この気持ちを抱え込むのか。二者択一。どちらか一つを選べばいい。たったそれだけのこと。それだけのことを決めるのに、一年もかかっている。僕は心のどこかで恐れていたのかもしれない。彼女の口から直接、最後の言葉を告げられるのを。そして、彼女がこれ以上僕から遠ざかっていくのを。僕は臆病だ。だからそのどちらも選ぶことができないでいる。それだけじゃない。この一年、いや、長門さんに出会ってからを含めると一年半、いくらでもチャンスはあったはずなのに、僕は何の行動も起こさなかった。長門さんに近づいていこうとはしなかった。目の前にチャンスが現れても、頭の中にはいつも失敗した時のことが浮かんだ。長門さんが嫌悪をあらわにした顔をしている光景。もちろん、長門さんがそんな顔をしたことなどなかった。だから普通に考えれば、長門さんが僕を受け入れてくれないにしても僕が想像しているような事態にはならないはずだった。でも僕は、その幻影を消し去ることができないでいた。そして、僕は安全な方、現状維持を選んできた。いや、現状維持ではない。この状態を維持すれば長門さんの心は確実に彼の方に傾いていく、そんなことは明らかだった。なのに、僕は行動を起こせないまま、一年ただ考えただけだった。それも、無意味な考えを。僕がしていたのは追いつめられた人間がする最後の選択、すなわち延命だった。長門さんに嫌われないように。長門さんに迷惑をかけないように。ただそれだけのために、僕は行動してきた。今思えばなんて馬鹿だったんだろう。もっと早く行動を起こせばよかったものを、僕は無意味な延命で時間を費やし、焦りを募らせていった。僕の神人との戦いは、積み重なった焦りを消し、少しの間でも長門さんのことを忘れるための手段となっていた。閉鎖空間が発生すれば、僕は必ず行った。僕は神人を倒すことに打ち込んだ。ただひたすら、彼女のことを思い出さないように。彼女のことを考えないように。『そんな戦い方してたらいつか死ぬわよ、やめなさい!』森さんはもっと自分を大事にしろと言ってくれた。もっと防御に力を入れれば怪我が少なくて済むと。でも、それでは意味がなかった。僕は世界のために戦っていたわけではない。僕は自分のためだけに戦っていたのだから。僕はヒーローなどではなかった。雪は激しさを増している。それに合わせるように、頭の中を流れる言葉は加速する。閉鎖空間が発生しなくなって、僕がもっとたくさんの焦りを感じれば、僕も決めることができるのだろうか。彼と長門さんが付き合い始めたら、僕は長門さんのことをあきらめられるのだろうか。それとも、流れに身をまかせる以外ないのだろうか。分からない。僕には分からない。いつも最後はそう、僕が『分からない』という言葉で逃げて終わる。僕は結論までたどり着けない。でも、今日は違った。不意に、雪が止む。降っていた雪が途切れて、その先にあった町並みが見えてくる。頭の中を流れていた言葉が止まる。動いている電車を写真に収めるように、全ての言葉が止まる。そして、不必要なものは自然に消えて整理されていく。一つ、また一つ、文字が消え、何もない空間が増える。最後に、必要な一つだけが残った。パズルを解いた時のような快感が脳の中を駆け巡った。一年間求め続けた答えを、見つけた。コンコン。文芸部室に入る時はノックが基本だ。いつもこの時間は朝比奈さんが着替えているからだ。「どうぞ」中から聞こえてきたのは長門さんの声。僕はいつもの笑顔に戻る。ガチャ。返事から予想できたことだけれど、扉の向こうには長門さんしかいなかった。彼女はいつもの場所に座っていた。彼女の長い髪がかすかに揺れている。その手の上には本があった。そういう情報は異常なほど冷静に僕の頭の中に入ってくる。でも頭の中は、これからしようとしていることでいっぱいだった。僕はいつもの笑顔のまま、いつもの僕が言いそうなことを考えた。「おや、長門さんだけですか。」一瞬の間を挟んで長門さんが笑顔になる。僕には分かる。彼女の笑顔は純粋な笑顔だと。僕のような偽りの笑顔ではないと。彼女の笑顔は素晴らしい。僕も彼女のような笑顔ができればいいのに、と思う。でも僕はこの笑顔をやめられない。僕にとってこの笑顔は、一種の強がりのようなものかもしれない。自分にはまだ余裕があるという、子供っぽい強がり。 「そうよ、まだ他の人は来てないわ。」彼女の笑顔で僕は落ち着きを取り戻すことができた。僕は自然体の僕で彼女と接する。「それにしても珍しいですね、長門さんが本を読んでいるなんて。」僕の中で長門さんは本を読まない人、そういう位置づけだった。「なによそれ、私だって本を読みたくなるときはあるわよ。」長門さんは少し頬を膨らませて、不機嫌といった感じになった。こんな細かい動作の一つ一つも、愛らしいと感じる。「申し訳ありません、失礼な言い方でしたね。」「まあいいわ、気にしないで。ふふっ」率直に頭を下げた僕に、長門さんは優しい言葉をかけた。 なぜだろう。始めは長門さんと二人きりで話をすることに緊張していたはずなのに、今ではもうほとんど緊張していない。今の僕は普段の僕そのものだ。いや、下手に緊張しておかしな動作をしてしまうよりも断然こちらの方がマシだ。「ありがとうございます。ところで、その本はどうされたのですか?」これは率直な疑問だ。本を読まないはずの長門さんが本を読んでいる。何かきっかけがあったのだろう。僕はそれを知りたいと思った。初めて、そう思った。長門さんは何に惹かれたのか。長門さんが何に興味を持つのか。僕はそのどちらも知らない。それは、僕が知ろうとしなかったからに他ならない。少し間があいた。長門さんは何かをためらっているようだった。それは、彼女らしくない行動だった。「そんなことより、読んでみて。古泉一樹。」長門さんが初めて僕をフルネームで呼んだ。僕はそれに驚いた。でも僕はそれ以上に、長門さんが涼宮さんと直接関係ないことで僕に話しかけてくれたことに驚かされた。緊張が抑えられない。鼓動が速くなる。もはや考えることはなかった。「了解しました!おや……、変わったタイトルですね。『雪、無音、窓辺にて』ですか………」僕は差し出された本を受け取った。長門さんは僕の言葉に答えることなく、ゆっくりと窓の方を向いた。その姿は少し寂しげで、邪魔をしてはいけないような気がした。彼女は、遠くを眺めているようだった。雪雲の向こうの、遥か遠くを。僕の中にためらいが生まれる。さっき決心したはずなのに、それが揺らいでいる。それが、少しずつ大きくなっていく。だめだ、ここで負けてはいけない。ここで負けたら、僕は一生後悔する。そんな気がした。ここで負けたら………。ヴーヴー、ヴーヴー。僕の携帯だ。分かっている。僕にかかってくる連絡なんて一つしかない。機関だ。今回で三日連続の呼び出しだった。いつもの僕ならばすぐに出て閉鎖空間に向かう。でも、今日は違う。今この瞬間、閉鎖空間に行くか、行かないか、僕は選ぶことができる。僕の選択はもう決まっている。僕は迷わず携帯を開き、電源ボタンを押した。画面に表示されていた「森さん」という文字は消えた。「古泉くん、行かなくていいの?」気づけば長門さんがこちらを向いて立っていた。長門さんは僕のしている事に気がついたようだった。「ええ」二人の間に静かな時間が流れている。ここには僕と長門さんの声以外入ってこない。「僕は決めたんです。」僕は偽りの笑顔を捨てた。感情が堰を切ったように流れ出る。ここまで来てしまった。もう止まれない。最後まで一気に行くしかない。次の瞬間長門さんの口から発せられる言葉がどんな言葉でも構わない。僕はこの想いを伝える。「長門さん、聞いてください。僕は……、あなたのことが好きです。いえ、愛しています」これが僕の出した答えだ。ポケットでは携帯が振動していた。できるだけ、冷静を装って口にした。それでも少しまごついてしまった。でも構わない。僕は一年前からの問題に答えを出したのだから。僕は逃げなかったのだから。僕は長門さんの表情の動きを注意深く見守った。長門さんは少しの間驚いた表情をしていた。そしてそのあと、その表情は明らかに困惑の表情へと変わっていった。瞬間、僕は悟った。僕の告白は、長門さんにとって迷惑なことだったんだと。長門さんは僕から告白されることなど望んでいなかったのだと。「ごめんなさい。私は……、あなたの想いに応えられないわ」「……そうですか」後悔した。心の底から後悔した「すみません。では僕は失礼します」できる限りいつも通りの落ち着いた声で言う。そして、笑顔も忘れない。たとえそれが偽りのものだったとしても。長門さんが渡してくれた本を机に置く。鞄をつかんで部室を飛び出した。後ろで長門さんの声がした。僕を引き止めようとしているようだった。でも僕は、その声に応えられなかった。僕に応える権利はない、そう思った。僕は自分のことしか考えていなかった。愛している、などという言葉を軽々しく使ってしまった自分をあざ笑いたくなる。僕が見つけたと思っていた答えは幻でしかなかった。僕は長門さんのことなど少しも考えていなかった。それに、今気づいた。気づくのが遅すぎた。僕は最低だった。靴を履き替え校門へ向かう。後部座席のドアが開いた状態で、黒塗りのタクシーが待っていた。希望は絶望へと変わり、歓喜は苦痛となって僕を襲った。フロントガラスの上方を流れてゆく空は、閉鎖空間よりも暗い鈍色をしていた。車内はかなり寒く、この車がどれだけの時間ドアを開いて僕を待ってくれていたのか、それを物語っていた。僕を運んでいる間、新川さんは一言も口にしなかった。新川さんは事情を知っているのだろう。何の前触れもなく車はスピードを落とし、薄暗い市街地の一角で停車した。十メートル先に閉鎖空間の境界があるのが分かる。新川さんは後部座席のドアを開け、僕を促した。僕はいつものように、というよりも惰性で車から降りた。いつもは新川さんが一言声をかけてくれるのに、今日はそれがなかった。その一言がないことが、僕をさらに締め付けた。同時に、僕に過ちの重大さを突きつけた。そして今、僕は閉鎖空間にいる。
目の前では神人が暴れ、なぎ倒されたビルの破片が細かい塵となって僕の周りを覆っていた。空に浮かんでいた赤い球体はもはや見えない。これは危険な状況だった。視界が悪い。神人が襲ってきても分からない。普段の僕ならばすぐさまここを離れただろう。でも今の僕は何もしていない。何もする気がしない。力が入らない。僕がここに呼ばれたのは他でもない、神人を倒すためだ。でも、僕自身にはもう戦う気力がなかった。僕は何のために戦うのだろう。そんな意味もない疑問を自分にぶつけてみる。世界のため?否。自分のため?否。長門さんのため?否。そう、戦うべき理由はない。僕がここにいる理由もない。僕を覆っている粉塵が少しずつ青みを帯びてくる。ああ、神人が近づいてきてるんだな。僕もここで、終わりなのかな。最後に、長門さんの顔が見たいな。神人の足がはっきりと見える。これまでで一番近い位置で神人を見た。遠くから見ると青白くてグロテスクなだけだった神人は、近くから見ると奇麗だった。
それを表すのに他の言葉はいらない。純粋で。純粋で。ただ、純粋で。それは、涼宮さんの心そのものだった。真っすぐな心を持った神、涼宮ハルヒ。その心を表すのに相応しい美しさだった。僕にも純粋な心があったなら、よかったのだろうか。僕が初めから本当の笑顔で長門さんに接していれば、長門さんに拒絶される事もなかったのだろうか。最後に一度だけでいい、その純粋なものに触れたかった。それに触れれば、僕の心は救われる、そんな気がした。そして僕は右手を突き出した。精一杯伸ばした右手は、神人をとらえた。その感触は、はっきりと分かった。そして僕は理解した。僕のしていた事、これは、緩やかな自殺だったんだと。僕は臆病だから、自分で死ぬ事すらできない。だから、こんな方法を選んだ。僕は馬鹿だ。一度失恋したぐらいでこんな事をしてしまうなんて。でも、これでよかったのかもしれない。さっき自分で疑った長門さんへの愛は、偽りのものではなかったのだから。そしてそれを、証明できたのだから。右肩から全身に向かって強い圧力を感じた。パキッ。骨が折れる音がする。僕が形を失っていく。暗闇が訪れた。顔に固い木の感触がある。まぶたを開いた。正面には僕の手と、机の天板があった。ここは………、文芸部室?僕は……、生きている?あれは夢だったのだろうか。顔を上げた。誰もいない?いや、一人だけそこにいた。静かにぽつん、と座っている一人の少女がいた。窓際のパイプ椅子に座っている彼女は、僕に気づいていないようだ。肩にぎりぎり届くか届かないかの長さの髪の毛。そしてその特徴的な色。珍しく本を読んでいない長門さんがそこにいた……?あれ?僕の記憶にあるのは「普段本を読まない」長門さんだ。今どうして僕は、長門さんが「本を読んでいない」のを珍しいと思ったんだろう。おかしい。何か違和感を感じる。大きな違和感ではないかもしれない。でもなぜか、これを見過ごしてはいけないような気がした。違和感があるのはこの場面じゃない。記憶の中、もっと昔の、僕がここで目を覚ます前のいつかのこと……。……思い出せない。何か大きな壁に阻まれてその先が見えない。そこに、真実があるはずなんだ。僕の知らない、僕の知りたい真実が。
窓の外は雪、視界は5メートル程度。ここは文芸部室。部室に備え付けてある時計を確認する。時刻は3時2分。僕は変化を待っていた。ここで目を覚ましてから既に三十分が経過していた。その間、僕の知らない「長門さん」は微動だにせず、ただ窓の外、雪が窓に打ち付ける様子を眺めていた。僕は最初、「長門さん」に声をかけてみた。反応はなかった。「長門さん」は気づいていないのだろうか。それとも、僕を無視しているのだろうか。立ち上がり、長門さんに近づく。長門さんの肩に触れようとした。その瞬間、驚くべき事が起こった。僕の手は長門さんの体をすり抜けた。僕には何が起こっているのか分からなかった。僕は立ち尽くした。
それから分かった事はまず、この部屋からは出られないという事だった。部室から出ようとした。すると、ドアノブは僕の手をすり抜けるのに、僕はドアをすり抜けられなかった。窓も開けようとしてみた。だが、窓の取っ手は僕の手をすり抜け、僕自身は窓をすり抜ける事ができなかった。つまり、僕はここに閉じ込められた事になる。それも、超自然的な方法で。もう一つ分かった事は、今が今日の二時半過ぎだという事だった。部室に備え付けてあった時計とカレンダーから分かった事だ。すると、僕は過去に連れてこられたのだろうか。僕の知っている限り、人間を過去に転送できるのは朝比奈さんと長門さんと涼宮さんだけだ。という事は、この中に僕を閉じ込めた犯人がいるのだろうか。考え事をする時の癖で、外を眺めてしまう。外の雪は激しくなっていた。この静かな空間は僕を思考の海へと誘った。ガチャ。僕は振り返った。僕の望んでいた変化は、この上ない驚きとなって僕の前に現れた。そこに立っていたのは、まぎれもない僕自身だった。どうして?今日のこの時間なら教室にいたはずだ。そして、そこで長門さんの事を考えていたはずだ。なのになぜ……?『お待たせしました。』どういう事なのだろう。この「僕」が、待たせた、と言ったという事は「長門さん」と「僕」はここで会う約束をしていた事になる。『…いい』気づけば「長門さん」が立ち上がっていた。だめだ。状況の進行が速すぎる。『それで、お話というのはどのようなことですか?』何が起こっているのか知覚する事はできても、理解はできない。呆然と、ありのままを受け入れる。『私は古泉一樹、あなたを愛している。』思考回路を停止させるシグナル。「長門さん」の発言に僕は言葉を失った。これはなんだ。この「長門さん」は何を言ってるんだ。確かにあのとき長門さんは僕を拒絶したじゃないか。長門さんは僕を拒絶したのに、「長門さん」は「僕」を求めた。わからない。出口のない迷路をさまよっているような気分だ。一体何が……何が起きているんだ。僕はただ呆然と、「長門さん」を見つめることしかできなかった。まるで、「長門さん」がすべてを教えてくれる存在であるかのように。僕をこの迷路から救い出してくれる存在であるかのように。僕はただ、「長門さん」を見つめた。
「何言ってるの?長門さん」優しい、女の人の声がした。僕の知っている声だった。僕を救ってくれたのは「長門さん」ではなかった。振り返ってその人を見て、僕は全てを理解した。そこにいたのは、朝倉涼子だった。ああ。そういうことか。全てが繋がった。僕が長門さんだと思っていたのは、実は朝倉さんだったんだ。そして、今ここにいる、髪の短い少女が長門さんなんだ。そう、僕の感じていた違和感は解消された。これからいよいよ、長門さんに一年抱え続けた想いを打ち明けるというのに、僕はさほど緊張していなかった。それは、あきらめていたからじゃないんだ。余裕があったわけでもない。僕の頭では、朝倉さんを長門さんだと認識していたけれど、僕の五感は長門さんを認識していなかったんだ。そこに長門さんがいない、という事を本能的に知っていたんだ。よかった。長門さんは僕の事が嫌いなわけじゃなかった。むしろ、僕の事を意識してくれていたんだ。僕と長門さんの距離は、初めからゼロだったんだ。安心して全身から力が抜けた。視界がぼやける。僕の意識も薄れていく……。……誰かが言葉を読み上げている。小説のような、叙情詩のような。事実を淡々と述べているようで、その中にこの世のどんな言葉よりも強い感情が込められた文章。僕の知らない文章だ。少しずつ、感覚が戻ってくる。それとともに、後頭部に柔らかい感触があるのが分かった。そして右手には暖かくて柔らかい、何かがあった。優しさにあふれている。僕はそれを心地いいと思った。ずっと、ずっと、こうしていられたらどれだけ幸せなことだろう、と僕は思う。目を開く。正面にあったのは真っ白な天井。左は大きな窓。外は暗い。それは雪雲のせいではなく、単に遅い時間だからというだけだ。ここは何度か僕がお世話になった場所。機関直属の病院。その個室だった。僕の一番気になっていた右には、朝倉さんがいた。布団からはみ出ている僕の手を握ったまま、こちらを見つめていた。僕は上半身を起こした。朝倉さんの手元には、あの本があった。「古泉くん、大丈夫?」「ええ。ご心配おかけしてすみません。」閉鎖空間で神人に踏みつぶされたはずの僕が生きている。それに、目立った外傷もない。理由は一つしかない。朝倉さんが僕を治療してくれたんだ。「ところで、朝倉さん」僕は間を空けた。朝倉さんの顔が少し緩み、伏し目がちになる。その顔にはわずかに後悔の色がにじんでいた。彼女はあきらめたのだろう。嘘をつき続ける事を。僕をだまし続ける事を。そう、朝倉さんはもう分かっているんだ。僕が朝倉さんの正体に気づいている事も。長門さんがいない事に気づいている事も。そして、僕も分かっていたんだ。長門さんがいなくなり、朝倉さんが長門さんの代わりに現れたのは避けられない事だったのだと。朝倉さんはそれを望んでいなかったのだと。だから、僕が聞くべき事は一つしかない。長門さんは、幸せだったのだろうか。その答えはもう分からない。でも、僕はその答えが重要だとは思わない。僕が長門さんを幸せにすればいいだけの事なのだから。臆病な僕にはできなかった。でも、今の僕にならできるかもしれない。ここに朝倉さんがいるのだから。「朝倉さんは……、長門さんの事をどう思っておられましたか?」朝倉さんは視線を上げた。僕もつられてそちらを向く。窓の先には何もない闇が広がっていた。止まっていた空気が動いた。朝倉さんが真剣な顔になる。そして、朝倉さんは、口を開く。「わたしは……」間違えないように、ゆっくりと、「長門さんを……」でも、はっきりと、朝倉さんは、禁じられたワードをつぶやく。そして僕は、あの時の朝倉さんの返事の、本当の意味を知った。朝倉さんは、優しい人だった。「朝倉さん、お願いがあります。」『雪、無音、窓辺にて』を最後まで読んだあとで、僕は朝倉さんの顔を見て言った。朝倉さんも真っすぐに僕を見た。「長門さんに……、こう伝えてもらえませんか。文芸部室で待っています、と」朝倉さんは顔に両手を当ててうつむいた。小さく嗚咽が漏れる。朝倉さんの指と指の間から水滴が落ちる。朝倉さんがすすり泣く声だけが、静かな病室内に響いていた。不意に、朝倉さんが顔を上げる。最後に一回、手で目をこすったあと、朝倉さんは笑顔になった。左目にはまだ、涙が残っていた。「必ず……、伝えるわ」窓の外では、静かにゆっくりと、雪が降り始めていた。 長門さん。見えていますか。あなたが望んでいたものが、今ここにありますよ。僕達は、いつでも、あなたの事を待っています。だからいつかきっと、文芸部室に来てください。僕と朝倉さんが必ず、いますから。その時には笑顔で、迎えて差し上げますから……………おわり。
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