永遠と一瞬
『永遠と一瞬』窓の外は雪、視界は5メートル程度。ここは文芸部室。パイプ椅子に座りながら私は一人待っていた。私のメモリ空間にはエラーがたまっている。この一年半、私の中に蓄積していたのは限りない数のエラー。罪悪感という名のエラー。そう、一年半前、私は朝倉涼子の情報連結を解除した。 あの時、朝倉涼子は言った。 やらなくて後悔するよりもやって後悔した方がいい、と。だが、それは彼女の意思ではない。本当の彼女はとても優秀。だから後悔するようなことは決してしない。いや、優秀という表現が適切かどうかは分からない。なぜなら彼女は私や喜緑江美里よりも遥かに優れていたのだから。そう、本来ならば朝倉涼子と私が闘えば私の勝つ可能性は0だった。つまり、朝倉涼子と私の戦闘は「演技」だったのだ。涼宮ハルヒの鍵たる「彼」の信頼を勝ち得るためだけの。ただ、それだけの。そして、その「捨て駒」として選ばれたのが朝倉涼子だった。 統合思念体は元々人間の記憶改変には消極的だ。なぜなら、人間の脳は各部分が高度に相互作用しているため、記憶の一部を操作したところで改変される前の記憶の「残滓」とでも呼ぶべきものが残ってしまうからだ。 特に鍵たる彼に問題が発生してはならないという理由から、あのような内容となった。私と朝倉涼子は、喜緑江美里からその説明を受けた。その間、朝倉涼子は終始落ち着いていた。そして説明が終わると、彼女は何も言わずに自分の部屋に戻っていった。私はそのとき何も言葉をかけてやれなかったことを今でも後悔している。だが、その後悔ももはや意味をなさない。そして私は彼の信頼を得、その代償として朝倉涼子を失った。朝倉涼子がいなくなった日、私は一人自室で涙を流した。初めて流した涙は朝日が昇るまで絶えることはなく、私のメモリ空間に膨大なエラーを残して消えていった。その間私が再生していた記憶は、朝倉涼子に関する情報だった。私と朝倉涼子が初めて会ったのは四年前の七夕、私が初めて彼と朝比奈みくるに出会った日だ。そのときまだ構成されて間もなかった私たちにとって喜緑江美里は上司であり、私にとって朝倉涼子は同僚だった。私たちはそれから、喜緑江美里に様々な情報操作についての指導を受け、実際の任務へと移った。その日は私だけに任務が与えられていて、朝倉涼子は待機を指示されていた。 そして私は彼の信頼を得、その代償として朝倉涼子を失った。朝倉涼子がいなくなった日、私は一人自室で涙を流した。初めて流した涙は朝日が昇るまで絶えることはなく、私のメモリ空間に膨大なエラーを残して消えていった。その間私が再生していた記憶は、朝倉涼子に関する情報だった。私と朝倉涼子が初めて会ったのは四年前の七夕、私が初めて彼と朝比奈みくるに出会った日だ。そのときまだ構成されて間もなかった私たちにとって喜緑江美里は上司であり、私にとって朝倉涼子は同僚だった。私たちはそれから、喜緑江美里に様々な情報操作についての指導を受け、実際の任務へと移った。その日は私だけに任務が与えられていて、朝倉涼子は待機を指示されていた。 そして私は、カレーを食べるたびに朝倉涼子のことを思い出す。あの優しい微笑みと、自分の中にある感情を決してあらわにしない心の強さを。それは私が感情を表せないのとは違い、彼女の意思によるものだった。彼女は負の感情、つまり苦しみ、怒り、悲しみ、葛藤を表に出さないようにしていた。そしていつでも私や喜緑江美里に笑顔を見せてくれた。そんな彼女に嫉妬していたのかもしれない。あるいは、憧れを抱いていたのかもしれない。私は朝倉涼子に惹かれていた。 もちろんそれは恋人としてではない。言うならば神に魅せられた人間のように、私は朝倉涼子に惹かれていった。そして、朝倉涼子を知れば知るほど朝倉涼子の存在は私の中で大きくなっていた。彼女と過ごす時間は特別であり、彼女の一つ一つの仕草が私を喜ばせた。だが、そう感じている間にも残された時間は容赦なく流れていった。彼女を消す役割が私に割り当てられることは分かっていたし、彼女が消えることも分かっていた。でも認めたくはなかった。その頃の私は自分に課せられる役割の大きさに辟易しながら、少しずつ削られていく彼女との今を必死でメモリ空間に保存することしかできなかった。それは意味のないこと、それどころか私にとって有害なことだと知りながら、私は保存作業を続けた。 私がその無意味な保存作業から解放されたのは、彼女が消えた次の日、昇る朝日を見た時のことだ。私は現実を受け入れた。そして、私の心には大きな空白ができた。塞ぎ様のない空白。その空白を埋めるように、メモリ空間に蓄積した朝倉涼子の情報は、私の意志に反して自己解凍し始めた。それからずっと、私のメモリ空間は朝倉涼子のイメージに支配されていた。メモリ空間の中の「彼女」はいつでも笑っていた。そして、一度も私のことを責めたりはしなかった。それどころか、私を励ましてくれた。同時に、メモリ空間にはエラーが蓄積し始めた。 人間が新しい環境に適応するのは迅速で、それは私にも当てはまった。だからこそ気づかなかったのだろう。朝倉涼子と同じ、内なる強さを持った「彼」の存在に。朝倉涼子と同じタイプの人間がすぐ側にいたことを。私が観測任務を開始してすぐ、涼宮ハルヒは文芸部室に現れた、鍵たる彼を連れて。そして朝比奈みくるが加わった。最後に現れたのが、「彼」、古泉一樹だった。 朝倉涼子が消えて初めて知った。古泉一樹は朝倉涼子と同じ、苦しみを吐き出さずにひたすら溜め込んで耐える人間だったということを。そう、たとえ前日の夜に閉鎖空間が発生して一睡もできていない時でさえ、必ず部室に来ている。無理をしているのに、それをあらわにはしない。古泉一樹の存在は、私の中で完全に朝倉涼子と重なっていた。だから、私が古泉一樹に惹かれていったことは当然のことだったのかもしれない。その強さに、その微笑みに。だが、古泉一樹のことを考えれば考えるほど、メモリ空間のエラーは増大していった。朝倉涼子への罪悪感は拭っても拭っても消えなかった。古泉一樹が私に好意を寄せていることは分かっていた。だから私が、古泉一樹に好意を寄せていると伝えれば、彼は朝倉涼子のように私の側にいてくれるだろう、と思った。彼が朝倉涼子の抜けた穴を補填してくれると。 だが、それは正しいことなのだろうか。朝倉涼子を消しておきながら、自分だけ幸福になろうとするのは狡猾なことではないか、と。私は罪悪感からは逃げられない、いいや、逃げてはいけないのだと知った。この苦しみは永遠に続くものだと悟った。 それから毎日、私はあの日のことを思い出した。睡眠時間を捨て、可能な限り朝倉涼子の情報を展開しなおした。雨の日も、晴れの日も、空は灰色に見えた。メモリ空間の朝倉涼子はいつでも笑っていた。現実世界の古泉一樹はいつでも笑みを絶やさなかった。私はこの長く暗いトンネルの中で立ち往生したまま、12月18日を迎えた。 全ては積み重ねだ。私は致命的なエラーを積み重ね、時空改変に至った。私が何を考えてあのような時空改変を行ったのか、その記録はない。だが、これだけははっきりとしている。私はつかの間の幸せ、朝倉涼子と共にいられる幸せをかみしめていた。だが、現実は私の思い通りにはいかなかった。統合思念体は私の行動を予測していた。喜緑江美里は時空改変終了後の文芸部室にコンピューターを設置し、本棚の中の本の一つに、しおりを挟んだ。そして、彼を私の作り上げた時空へ転送した。統合思念体と朝比奈みくるの介入によって、改変された時空について私が保持している情報は私が改変してからの数分だけとなるはずだった。その数分で、衝撃的なことが起こった。朝倉涼子が彼を刺したのだ。その瞬間何が起こったのか理解できなかった。『彼のことなら大丈夫よ』頭の中で彼女の声がした。朝倉涼子は私に時空改変の間の三日間のデータを転送してきたのだ。私のメモリ空間に直接。そして知った、自分の今いる場所が朝倉涼子の情報制御空間だということを。 普通、情報制御空間は情報操作のために作られる。だから、その空間は小さくて簡素な外観をしている。外観を構成するために構成情報を使うわけにはいかないからだ。だが、朝倉涼子は現実と全く区別がつかない情報制御空間を作り上げていた。朝倉涼子は木々が風に揺れる様子も、朝焼けの空も、彼の腹部から流れ出る血液も、彼の感じているであろう痛覚も、それ以外の全ての現象も支配していた。私には到底できない芸当だ。私は身震いして動くことさえできなかった。私は自分と朝倉涼子の間にある絶望的な実力差を実感していた。 『私は消えるけど、長門さんは消えちゃだめよ……。じゃあね!』私のメモリ空間にそう残して、彼女は時空修正が確実に実行されるように、既定事項が満たされるように、刃を振り下ろした。私にはまだ、朝倉涼子に伝えたいことが沢山あった。夏休み中の時間のループのこと、私がコンピューター研に入ったこと、それだけではない。私がカレーを作れるようになったこと、感情表現が少しできるようになったこと。数え上げればきりがない。彼女なら私の話を聞いて、嬉しそうな笑顔を見せてくれるはず。彼女なら私の中にあるエラーを取り除いてくれるはず。そう思った時には全てが終わっていた。私は既定事項を優先した自分の異時間同位体を恨んだ。心の底から憎んだ。私のエラーは全て消えていた。 統合思念体にとって、朝倉涼子は今回も捨て駒でしかなかった。時空修正が終わり、統合思念体の出した指示は私の心を完全に無視したものだった。「『鍵』に、私の処分が検討されている、と伝えよ。」それだけではなかった。「本来ならばパーソナルネーム長門有希は完全処分となるはずだが、『鍵』との関係を考慮した結果、処分は見送られることとなった。ただし、今後統合思念体からの指示に反するようなことがあれば、パーソナルネーム長門有希はリプログラムされる。」 私には選択肢がなかった。リプログラム、つまり必要なパーソナルデータを引き継いだまま、私は心を失い、完全に統合思念体の「人形」となる。私は私でなくなるのだ。 そのとき私の中にあったのは古泉一樹の存在だった。私が自我を失えば、古泉一樹の思いに答えられなくなるのではないか。私が私でなくなることは古泉一樹も望んでいないのではないか。私はそう考えた。そのとき、私には分かっていた。これが、自分の存在を消されることを恐れた言い訳でしかないということに。そう、私は自分の存在が消えることを恐れていた。そしてその言い訳に古泉一樹を利用した。朝倉涼子はその身を犠牲にしてまで私を守ってくれた。それに対して、私は自分の身の安全を優先させてしまった。彼女は美しく、聡明だった。私は汚くて、愚かだった。 朝倉涼子が私を愚かだと罵ったならば、私もあれほどまでに苦しむことはなかったのかもしれない。だが、彼女はそんな性格の持ち主ではなかった。それは残酷な優しさだった。そして私は、一番なりたくなかった自分になった。私はその日から、毎日深夜、自宅のマンションで自分を傷つけるようになった。凶器は決まっている。あの時、朝倉涼子が持っていたナイフだ。だが、自分の胸にいくらナイフを突き立てても、統合思念体は私を修復した。涼宮ハルヒの力を手に入れるためだけに。ただ、それだけのために。私は毎晩、合理性に欠くことだと分かっていながら自傷行為に明け暮れた。 一種のあきらめのような感情かもしれない。いつからか、いっそのことあの時リプログラムされていた方が良かったのかもしれないと思うようになっていった。それとともに自傷行為も行わなくなっていた。今、彼女のナイフは私の鞄の中に入っている。私が私である必要はどこにもない。いや、それどころか私が統合思念体の人形だったなら、統合思念体としても都合のいいことばかりのはずだった。暴走することもなければ、統合思念体の決定に反することもない。だが、私は自我を与えられ、今ここで回顧している。それだけではない、これから、統合思念体の意思に逆らおうとしている。ふと疑問が湧く。なぜだろう。なぜ私は自我を与えられたのだろう。その疑問に答えてくれる人はもういない。私は本を読むこともなく、思索に没頭する。午後3時6分。彼に告げた時刻まで、まだ30分以上あった。 ガチャ。思索に没頭するための時間を奪う音。私がここに呼んだ人間、古泉一樹が入り口に立っていた。彼の顔は、私が一年半求めてきた彼女の笑顔に一番近い表情をしていた。「お待たせしました。」「…いい」今は授業中だ。ここには私と、古泉一樹しかいない。私は立ち上がる。「それで、お話というのはどのようなことですか?」今まで蓄積してきた様々な感情が心の中を埋め尽くしていく。それらが力となった。私は心の中にある壁を壊すように、その一言を口にする。「私は古泉一樹、あなたを愛している。」 この言葉で私はトリガーを引いた。自分に向けられた拳銃のトリガーを。私が対立する勢力である「機関」や朝比奈みくるの組織に利用されることの無いように、私には「古泉一樹、朝比奈みくると必要以上に関わらないこと」との指示が下されていた。 もちろん、恋仲になることなどは禁止されている。私は今、その指示を無視した。私に下る処分は、リプログラム、そう決まっていた。私は最後に古泉一樹の想いに答えられたことが嬉しかった。彼女に似た笑顔の持ち主の幸せを実現することで、幾ばくかの罪滅ぼしになったのではないかと思った。もちろん、それが自己満足でしかないことも分かっていた。それでも、嬉しかった。統合思念体が私のリプログラムにかかる時間は、1秒程度。古泉一樹の返事が聞けないことだけが、大きな心残りだった。雪が窓に当たる音が、さっきまでより大きくなっていた。 全く、長門さんは一年経っても変わってないのね。私のことはもう忘れてしまえばいいのに。私は私で、あなたと一緒に暮らした三年が楽しかったんだから、後悔はしてないわ。でもね、そう、長門さんがこんなに苦しんでたなんてショックだった。私がもっと早く長門さんの元に返って来れたら良かったんだけど、そうもいかなかったのよね。いろいろ都合があって。長門さん。長門さんは今リプログラムされるんじゃないかって心配してるけど、それはないわ。だって、あなたの目の前にいるのはこの私だもの。そろそろ種明かししなきゃね。長門さんがかわいそうだし……。視覚情報の統制を解除。これで私はちゃんと私に、朝倉涼子に見える。 「何言ってるの?長門さん」長門さんの両目が大きく見開かれる。統合思念体から感情機能を著しく制限されているはずの長門さんが、驚いている。それがありありと分かる。三年一緒に暮らした私も見たことのない表情だった。これも涼宮さんの影響かしら。それとも、長門さん自ら変わったのかしら。「朝倉……涼子?」長門さんの目に輝きが増したと思ったら、次の瞬間には目から涙があふれていた。そして、長門さんはふらふらと歩いてきて、不意に、私に抱きついてきた。長門さんらしくない。でも、こんな長門さんも好きだ。 「ずっと……ずっと……、あなたを待っていた。」平坦だけど、力強い声。長門さんも変わったのね。「今まで35832回申請したけれど……、あなたの再構成は一度も認められなかった。なぜ……、あなたがここに?」そんなの決まってるじゃない。「私があなたのバックアップだからよ。私はあなたを守るためにここにいるの。あなたが消えないようにね」長門さんは私をいっそう強く抱きしめる。長門さんのぬくもりが伝わってくる。私はこのぬくもりを、覚えていた。私の一番好きな感覚だ。遠い、遠い、昔の感覚。「あなたらしくない。あなたはどんな質問にも論理的に矛盾のない答えを返してくれていた。この返答は論理的ではない。」あなたの行動の方が論理的じゃあないと思うけどなあ。「あなたが好きだから。それじゃだめかしら?」また私の制服にシミが増えた。「……だめ」顔は見えないけど、長門さんが笑っているような気がした。 私の中のエラーが消えていく。まるで元から存在していなかったかのように。でも、分かっていた。長門さんを苦しめると知りながら、私はまた、長門さんの元から去らなければいけない。こうしていられるのもあと少しだということも。「長門さん、もういいでしょ。」私は長門さんの顔が見たい。そしてそれを記憶に焼き付けて、私が待機している間ずっとそれを思い出していたい。長門さんと一緒に暮らすことが叶わないなら、せめて記憶だけでも保持していたかった。それすらも叶わないことを私は知っていた。それでも、私は肩をつかんで長門さんと顔を突き合わせる。長門さんはきょとんとしていた。これも私の記憶にはない表情だ。私は言わなければいけない、心を決めてその事実を告げる。 「長門さん。長門さんにとって辛いことかもしれないけど、私はもうすぐ統合思念体に還らなきゃいけないの。だから、私のことは忘れて。」長門さんの目から光が消えた。よく考えれば分かることだった。このことは長門さんに伝える必要はなかったはずだ。なのに、私は長門さんに伝えてしまった。なぜ?もしかしたら私は長門さんに引き止めてほしかったのかもしれない。統合思念体に還るというのは嘘だ。今度の私の再構成は完全に私の独断専行。私はこのあと完全に破棄される。再構成はできなくなる。私はどこかで消滅することを恐れていたのかもしれない。でもだめ、私は消されなければいけない。これは決まったことだから。私にはどうしようもないことだから。 「……できない」「どうして……」長門さんはまた、目に涙をたたえた。目に光が戻った。その目はまっすぐに私を射抜いた。「あなたを……絶対に行かせないっ!」長門さんが初めて、声を荒げた。長門さんが生み出されたから初めて。統合思念体が長門さんにかけたはずの感情抑制プログラムはもはや無効化されていた。瞬間、世界が変わる。文芸部室は長門さんの情報制御空間となっていた。そこは何もない、真っ白な空間だった。いや、違う。何かが空中を舞っている。 私に触れて、水になっていく。これは……、雪?その中で自分と長門さんだけが見える。長門さんが何をしようとしているのか、私には分からなかった。長門さんが情報操作を始める。それを妨害しようとしたけれど、できなかった。長門さんはこの一年半で確実に力を増していた。それも、私と対等なレベルまで。それは率直に嬉しかった。私の周りに光の檻が形成されていく。私はそれに包まれていった。いくら高速で逃げても、光の檻は私をとらえて、ついに私をその中に閉じ込めた。長門さん、統合思念体は全て分かっているのよ。だから、情報封鎖したところで私が消えることは確実なの。だから、私のことは忘れて! 「強くなったわね。でも、まだまだよ」この程度の情報封鎖なら数秒で解除できるわ。ほら、もう一部が壊れてきている。壊れたところが光の粒になって消えていく。美しい光景だわ。私がこうしていられるのもあと20秒程度。私に敵わない長門さんの力ではどうしようもない。私の体が、足の方から光の粒になっていく。「最後に……、長門さんに会えて………よかったよ……!」私の目にも涙が、初めての涙があふれていた。 長門さんは目をつぶって、ずっと詠唱を続けている。私の構成情報が少なくなっていく。私は、もう長門さんが私のことを気にする必要の無いように、私のことを思い出せなくなるように、長門さんの記憶改変を始めようとした。私の情報改変能力は残りあとわずかだったけど、全てをつぎ込めば何とかなるはず。私は記憶改変プログラムを長門さんの座っていた椅子に仕掛けた。長門さんには分からないようにカモフラージュしたプログラム。私の最高のプログラム。不完全かもしれないけど、今の私にはこれが精一杯。とても長門さん本人に改変を施すなんてできなかった。でも、私はもうこれで、思い残すこともなくなった。あとは、消されるのを待つばかり。私は静かに、私の意識が消えるのを、私が消えるのを待った。最後に私は、ぼやけた視界の中で長門さんが笑っているのを見た。私の中にほんの少し、消えたくないという意識が生まれた。それすらも飲み込んで、一瞬で全てが終わった……。 コンコン。「どうぞ」ガチャ。文芸部室に古泉くんが入ってくる。私は本を読むのを止め、顔を上げた。長髪がかすかに揺れる。「おや、長門さんだけですか。」相変わらずの笑顔。そのうちに苦しみや悲しみのすべてを隠している笑み。私には分かる。ブレザーに隠れた右肘に大きな裂傷があるのを。そして、左脇腹には痣ができていることも。痛くないはずはないのに。この人も私と同じだったのね。自分一人で抱え込んで。「そうよ、まだ他の人は来てないわ。」私も笑顔で答える。彼と違って、心からの笑顔で。でも私は、彼の笑顔も悪くはないと思う。むしろいい笑顔だ。 「それにしても珍しいですね、長門さんが本を読んでいるなんて。」「なによそれ、私だって本を読みたくなるときはあるわよ。」「申し訳ありません、失礼な言い方でしたね。」そう言って彼は頭を下げる。機関の任務で疲れもたまっているはずなのに、こうして笑顔のままでいられるのはすごいことだと思った。それと同時に、私に何かできないだろうか、と思うようになっていた。長門さんの愛した、この人に。それはせめてもの償い。長門さんへの償い。私は長門さんを犠牲にしてここにいる。だから、私は長門さんに贖罪しなければいけない。彼女への贖罪は、この人の笑顔を、いつまでも守ること。私は決めた。この人が死の淵に立つまで、私はこの人の笑顔を守る。そして今日のことを忘れない、永遠に。 「まあいいわ、気にしないで。ふふっ」「ありがとうございます。ところで、その本はどうされたのですか?」これは……、私の大切な人の話よ。私が世界で一番好きだった長門さんの、ね……。『あなたが………、幸せになるべき』長門さんが残した言葉。私には重すぎる言葉だ。でも、私はその言葉に応えたい。他でもない、長門さんの言葉だから。 「そんなことより、読んでみて。古泉一樹。」少し長門さんの言い方をまねてみた。古泉くんは一瞬、意味が分かりかねるといった表情をして、すぐにいつもの笑顔に戻った。今、気づいた。長門さんの最初で最後の笑顔は、この人の笑顔に似ている、と。「了解しました!おや……、変わったタイトルですね。『雪、無音、窓辺にて』ですか………」この人は何も知らない。今ここで何があったのかも。長門さんの想いも。でも、知らない方がいいのかもしれない。喉の奥から何か熱いものがこみ上げてくる。それをぎりぎりのところでこらえた。少し歪んでしまった顔を隠すために窓の方を向く。窓の外の雪は、もう止んでいた。………おわり。
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