第〇七〇七小隊SOS団 第四章 壯行譜
日本が崇拝する大艦巨砲主義は、日本軍の航空機動部隊によって自ら崩壊させてしまった。 ならば極論だが、俺たちSOS団もいずれ何者かによって淘汰されてしまうのかもしれんな。 俺たちの足跡には、今までに無い世界が広がっていくのだろう。 ~第四章 壯行譜~
ミンダナオ島に到着してすぐ、俺たちは一斉に昇進した。 俺の襟に黄星が三つ並んでいる。ようやっと上等兵だ。 まあ、生還率一割の部隊に所属していれば昇進するのも当然か。 療養期間を経て原隊復帰した俺たちは、早速現地での任務につくこととなった。 とは言うものの、当然だが敵が攻めてくるようなことは無く、軽い訓練のほかは、治安維持を中心に物資の管理などの楽な仕事ばかりだった。 しかし、俺たちを取り巻く環境が大きく変わってしまった。 銃をたどたどしく構える新兵。俺たちに敬語で喋る若年兵。 明らかに構成員が違う。どいつもこいつも頼りないやつばかりだ。 連隊の壊滅と、それに伴う急な再編で仕方なく、ってのはわかる。けれども、これはあまりにも酷い。 輸送船が口を開けると共に、勢いよく放出される子どもの蟻。頼もしい上官は、もう殆ど見当たらない。 変貌した連隊も十分問題ではあるが、SOS団はそれ以上の懸案事項を抱えていた。 食事のときも巡回のときも、どうにも空気が悪い。 入院していた頃と比べると落ち着いているものの、どこか気持ちの方向がすれ違っているような気がしてならない。 そんな毎日に、いい加減我慢の限界が来たのだろう。ハルヒは、夕食の席でこんなことを口にした。「みんな、全然なってないじゃない! 明日、SOS団内で久しぶりに戦闘訓練をするわ! 各自、今日中に準備しておくこと!」 両手を勢いよく机に叩きつけ、高く立ち上がって命令を放った。酷く、憤怒した顔つきだった。 全員の背筋が伸びた。
翌日、陽が真上に登りつめた頃、俺たちはだだっ広い砂地に集められていた。 薄茶色の地面は、光が反射して熱が湧き出ている。なんだってこんな時間帯を選んだんだ。「みんな揃った? 一回しか説明しないから、よく聞いて。 まず、二つの班にわけて、合流地点までは別行動をとってもらうわ。 涼子、谷口、キョンの班は、左側の道を通って的を撃ちながら前進。 古泉くん、有希、国木田は、右側にある迂回路を進軍してね。 みくるちゃんは、六人が合流するまでここで待機よ」 透き通ったハルヒの声が、辺りに響き渡る。 その表情は、昨日とは打って変わって光り輝いていた。「そこからは、森の中を隠れながら進むのよ。あたしに見つかったら負け。キョンは死刑ね」 こいつ、さらっととんでもないことを口走りやがる。 大体、見つかったら終了って何だよ。隠れん坊かってんだ。「そのとき、みくるちゃんに後方から指示をしてもらうわ。 通信を密にして現場を理解して、みんなに上手く指示を出すのよ」 衛生兵になんてことさせるんだ、と言いたいところだが、実はこれにははっきりとした意図があった。 先の昇進で、朝比奈さんは晴れて衛生曹長に昇進した。 そこで、ハルヒはあらゆる場面に対応できる部隊を作り上げようと試みているわけだ。これが、その計画第一弾だ。 もっとも、二回目以降があるかは不明だが。 それ以前に条約違反ではないのか、という課題もある。誤魔化すつもりなのかねえ。「がんばります」 当の朝比奈さんは、何とか言葉を取り戻したとはいうものの、すっかり萎れた様子だ。大丈夫だろうか。「それじゃあ……、あっ敵が来たわ!」 何だって!? 突然の知らせに、俺は思いっきり首を左右に振る。 ハルヒに尻を蹴られた。「バカ、訓練に決まってるじゃない! ほら、みんな向こうよ。早く行きなさい!」 痺れる尻そっちのけで、俺は空に向けて空砲を鳴らしてやった。
俺と朝倉、ついでに谷口。 荒地の真ん中にできた、一本の整った道を進んでいく。 二人とも、固い表情を崩さず歩き続けている。谷口がしきりにキョロキョロしているのが気になるが。「的よ! 谷口くん撃って」「おうよ、っと」 班長の朝倉による指示と共に、軽快な動作で弾を放つ谷口。いつの間にか上手になりやがって。「左側! キョンくん」 さて、俺にも出番が回ってきたぞ。左目を瞑り、照準を合わせて、引き金を引く。 俺の弾は、円の上方を掠って彼方へと消えていった。あれ?「キョン、まだまだ甘いな。俺に任せろ」 勝手にしゃしゃり出てくるな。 だが、的の中心近くに穴を開けた谷口に、俺は何も言えなかった。「何突っ立ってんだよ。早く行くぞ」 俺は、谷口に腕を引っ張られるままに道を駆けていった。 おかしい。なぜだ。 俺が放つ弾は、どれもこれも的の脇を通過していく。 谷口ですら、八割方は的を捉えているというのに。「キョンくん、次がんばればいいんだから、ね?」「そうだぜ。こんな日だってあるだろ、しょうがねえよ」 すっかりやつれてしまった俺を、二人は笑顔で優しく労わってくれる。情けない限りだ。 しかし俺は、何者かの妨害を疑わずにはいられなかった。 いくら時間をかけて狙いをつけても、必ずギリギリを逸れていく反抗期の銃弾。こんなのってありかよ。
結局射撃は二人に任せたまま、とうとう合流地点まで来てしまった。 一際大きな木の下では、三本の俺たちを待ち構えている。「さて、出発しましょうか。 国木田くん、本部との通信をお願いします」 俺は居場所がわからなくなった。 薄暗い森の中、木と草の陰に身を潜めながら、慎重に歩を進める六人。 誰も声を出さない。国木田は、声が漏れないように蹲って連絡を取っている。 いつの間にか、俺たちは以前のような一体感を取り戻していた。そんな気がする。 それぞれが手を取り合い、協力して苦難を乗り越えている様が、無言で俺に物語っている。 けれども、その輪の中に、今の俺は入っているのだろうか。足を引っ張っているだけじゃないか。「キョン、こっちだ」 背の高い叢の中で、谷口がすっと手を伸ばした。
それからというものの、世界最強の番人に出くわすことは無く、順調に距離を稼いでいた。「なんだ、余裕じゃねえか」「谷口くん、到着する寸前までが勝負ですよ」 こんなやり取りができるぐらい、危機感も何も無い訓練になっていた。これでいいのか。 そんな折、国木田が口を大きく開いた。「ちょっと待って!」 叫び声が、木々を反射して響き渡る。見つかっちまうぞ。「どうしよう」 通信機器を握り締めながら、俺たちを代わる代わる見る国木田。 焦っているのは、誰の目にも明らかだった。「国木田、それを貸してくれ」 こんなときぐらいは活躍しなければ。俺は、国木田から鉄の機械を受け取った。少し温もっている。「朝比奈さん、どうしました?」 相手にはっきりと伝わるように、はきはきと喋って所在を確認する。「キョン! 今更遅いわ!」 俺の耳に跳ね返ってきたのは、高らかな笑いとハルヒの元気な声だった。「ハルヒ、何やってるんだ。俺たちを捜すんじゃなかったのか」 何が起こってるんだ? わからない。想像もつかない。「司令部は占領させてもらったわ」 はあ? なんだこれ? 俺は、喉まで出かかった声をなんとか飲み込んだ。「実践的な訓練なんだから、どんな事態にも対応しないといけないでしょ? あんたたちが、森の入り口に見張りを置いておかないのがいけないのよ」 どんな思考回路をしてやがるんだ。常人には理解できん。 俺は、力を失ってそのまま座り込んでしまった。「それに、もう狙いは果たせたしね。 帰ってきていいわよ」 俺の手にある機械は、いつまでもハルヒの笑い声を受信していた。
「みんなご苦労様。でも、詰めが甘かったわね。 これからは油断しちゃ駄目よ」 ハルヒは、平気で皮肉ともとれる発言をした。「涼宮さんには敵いませんね」 古泉が、少し疲れた表情でそう答える。だが、不満は顔のどこにも見られなかった。「ごめんなさい。わたしが気を抜いていたばっかりに……」 少し俯いた朝比奈さんが呟く。いやいや、誰が朝比奈さんを責められよう。「まあ、今回はこれでいいのよ。これにて解散!」 よっしゃ終わりだ。やや傾いた陽を背に、俺たちは帰路につく。はずだった。「キョン。こっちに来なさい」 背後から放たれた、悪魔の囁きが俺を捕らえた。「今日、成績が悪かったそうじゃない」 美しくも恐ろしい笑顔で俺に問いかけるハルヒ。これから何が起こるんだ。「誰から聞いたんだよ」「だ、誰だっていいじゃない。そんなことより、質問に答えなさい」 なんだ? ハルヒがあからさまに慌て始めた。 俺、何かおかしなことを口走っただろうか。「ああ、お前の言う通りだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ」 好きにしてくれ。「そんなんじゃないわよ」 そう言って、ハルヒは大きく息を吸い込んだ。反射的に、一歩身を引いてしまう。「徹、底、的、に! 訓練してあげるわ!」 そう叫ぶハルヒの顔は、暑苦しいほどの輝きを振りまいている。 ハルヒの声で、空の雲も逃げていきやがった。 所謂特訓ってやつか。ま、死刑よりはマシだと考えよう。
「もっと集中力を高めるのよ!」 お前が隣でうるさくするから集中できないんだが。 俺たち二人は、荒地の真ん中で射撃練習に勤しんでいる。「そのままの態勢で地面に転がって!」 汗を全身にかきながら、必死になって体を動かすのは俺だけだ。 沈みゆく太陽が、時折俺の視界を遮る。「今よ!」 銃口から弾が飛び出す。それは見事に的を貫通した。 さっきまでは何だったんだ。「やればできるじゃない! それでいいのよ!」 さっきから叫びまくっているハルヒは、一体なんなんだ。「わかったわ! あんたは、注意力散漫なのよ! 緊急のときでないと、ぜんっぜん集中してないの!」 俺の欠点を、わざわざ大声で喧伝するのは止めてくれ。「キョン! 今からそこに座りなさい」 ハルヒが指差す場所の小石を払いのけて、俺は胡坐をかいて座った。「じゃあ、その姿勢で日没まで耐えてね」 一際輝いた笑顔で、ハルヒは俺に命令を下した。「ちょっと待て。今から日没まで、どれぐらいあると思ってるんだ」「さあ? 一時間ぐらいじゃない? 動いたら一時間追加よ」 こんなバカな話があるか。ああもう仕方ない。 俺は、どこにでもあるような一本の木に、目の焦点を合わせた。
辺りが薄暗くなってきた。だが、まだハルヒの許しは下りない。 ここまで耐えれば大したもんだろう。もういいよな。「ハルヒ、いつまで続ければいいんだ?」 鉄拳制裁覚悟で、俺は恐る恐る声を出した。返事は無い。どうする俺。 腹を括って、勢いよく体を後ろに曲げる。 ハルヒは、地面に転がって目を閉じていた。なんだよ。 日々の業務で疲れが溜まっているのだろう。それなのに、わざわざ俺のために特訓なんてしやがって。 俺は文句を言う代わりに、ハルヒを背負って元来た道を歩くことにした。くそ、足が痺れて上手く歩けねえ。
それは、能天気な青空が一面を覆っていた日のことだった。「キョンくん、突然呼び出してごめんなさい」 俺は朝比奈さんのお誘いで、白色の砂浜が広がる海岸に来ていた。 寄せては返す波の音が、定期的に耳に入る。 夕陽が海を眩しく照らす。「わたし、ほんとにダメダメですよね」 何の前置きも無く、膝を抱えながらそんなことを言い始めた。「この前の訓練だって、みんなに迷惑」「朝比奈さん!」 俺は、虚ろな目で弱音を垂れ流す朝比奈さんを見ていられなかった。 驚いたのだろう、朝比奈さんは口を止めてこちらを振り向いた。 煉瓦色の長髪が、それにつられて回旋運動を行う。「朝比奈さんが裏方に回ってがんばっているからこそ、俺たちは安心して戦いに出られるんですよ! 大体、俺たちの迷惑になってたら、曹長になんて絶対になれないじゃないですか! もっと、自信を持ってください」 語気を強め、ありったけの持論をまくし立てた。 言い終えて、急速に頭が冷める。やっちまった。 朝比奈さんは、目を潤ませながら俺を見つめている。そんな目で見られたら、心臓が締め付けられてしまいます。 波の音だけが、虚しく辺りに響く。同時に、潮の香りが鼻に伝う。「今の言葉、信じてもいいですか」 不意に、朝比奈さんが口を開く。 俺は、何も言わずに、力強く頷いた。 薄暮の彼方へ、胡麻の戦闘機が飛んでいった。
「今日は、森林での行軍演習をするわよ!」 木々の群れを指差しながら、大声で宣言するハルヒ。普通の声量でも聞こえるってのに。「三つの班に分かれて行動してもらうわ。 この中から、一つ選んでちょうだい」 俺たちに、黒い線が描かれた紙が差し出される。あみだくじか。 で、結果から言うと、俺は長門と谷口の三人で行くことになった。「いい? 真面目にやらなかったら戦車随伴兵に左遷よ! あんたたちも早く来なさい」 そう言い残して、ハルヒは巨人のような歩き方をしながら、古泉、国木田の三人で先へ行ってしまった。「キョン、涼宮にどやされる前に行こうぜ」 俺たちは、朝比奈さんと朝倉の影が見えなくなってから、ゆっくりと足を運び始めた。 光が差し込まない森の中、落ち葉が混じった土が地面を覆っている。「なあキョン、こっちで合ってるよな?」「さあな。長門にでも訊いてみたらどうだ」「俺が話しかけたところで、どうせ何も答えてくれねーよ。お前が訊いてくれ」 笑いながら、谷口は冗談めいた口調で言った。「俺が訊いたら意味が無いんだよ」「なんだそれ」 こんなやり取りをしながら、俺たちは惰性で薄暗い空間を歩いている。 道無き道、そう表現するのが正しいだろうか。全く方向感覚が掴めない。 ちなみに、今日の俺が長門を頼りにしないのは、こんなことがあったからだ。「長門、道案内を頼まれてくれないか」 いつもと同じように、軽い調子で依頼した俺だった。「これは訓練。あなたの力で成功させるべき」 自由意志を持った長門に、はっきりと言われちまったってわけだ。
それから何時間経ったのだろうか。一向に出口は見えない。 そうこうしている間に、あろうことか辺りが暗くなり始めやがった。「キョン、もう俺は限界だ。今日はここで野宿しようぜ」 口をだらしなく開けながら、あっさり投了しようとする谷口。こんなバカまで出てくる始末である。「そういうことはなあ、真っ暗になってから言うもんだ」 後ろでへばる谷口に適当な言葉を投げてから、谷口を待たずに進もうとしたときだった。「視界が奪われてからでは、あらゆる危険に晒される可能性がある。 今の内に、野営の準備を進めるべき」 俺の隣で歩いていた長門が足を止め、今日初めて口を開いた。「ほらほらあ! 長門もこう言ってることだし、な?」 谷口が、俺のところまで走ってきて俺を引っ張ろうとする。 なんだよ、十分元気じゃねえか。 適当な開けた場所を選んで、周囲の薪を三人で集めて準備は整った。 そして、互いの顔が見えなくなったときを見計らってそっと火を灯す。 そんなこんなで、仄かな風で揺れる火を見ている俺たちだった。 だが、その直後に重大な問題が発生して、それどころではなくなったわけだ。「谷口! 次の枝はまだか!」「キョンも真面目に集めろよ!」 こんな調子で、俺たちは必死に追加の燃料をかき集めている。 拾っては投げ拾っては投げ、そんなことを延々と繰り替えてしていた。「これ」「なんだ? これは!」 終わりの見えない自転車操業は、長門が運び込んだ大量の丸太によって終焉を迎えた。
「たまには、こういうのもいいな」 ようやく落ち着きを取り戻したとき、谷口がおにぎりを頬張りながら独り言のように語った。 行儀はともかく、その意見には全面的に同意だ。 ニューギニア島で同じようなことを何度もしたが、それとはわけが違う。 毎日せっせと働いているんだ。これぐらいの休息をとったところで、誰に咎められようか。 俺の隣には、長門が石に腰掛けている。 不動で暗闇を見つめる長門。その先には、何が見えているのだろうか。 陽は完全に沈み、いよいよ目の前の灯火だけが頼みの綱になってしまった。 その炎は、控えめに俺たちを照らし続けている。「キョン。この戦い、いつになったら終わるんだろうな」 炎の上辺を眺めていたとき、谷口は何の前触れも無く俺に問いかけた。「大東亜戦争のことか? 勝つか、死ぬか。その二択だろう」 俺は、至極当たり前の意見しか持ち合わせていなかった。 日常に隠れがちな、しかして全兵士の根底にあるその疑問に、俺は真剣に向き合おうとしなかったからだ。「それがいつになるか、って話だろ。 ま、俺らには一生わかんねえか」 谷口はそう呟いた後、燃え盛る薪を見つめ始めた。
それから暫くは、薪が弾ける音だけが辺りを支配していた。「だあ! 黙るのはもうやめだ! キョン、なんか喋ろう」 居心地のよい空間を乱したのは、痺れを切らした谷口だった。 何も用事が無いから、誰も語ろうとしないんだよ。 俺は、依然闇の中を凝視する長門の様子を見てから、「折角の機会だ、三人で話せる話題にしろよ」 念を押した。「よし! 俺に任せとけ!」 谷口は、困り果てるだろうという俺の予想に反して、随分景気のいい声を上げた。 鞄に顔を突っ込んで、中を弄っている。蛇でも隠し持っているのだろうか。 少しの間の後、谷口は手のひらほどの立方体を右手に掴んでこう言った。「賽談話しようぜ!」 何でそんなものを持ち歩いているんだよ。 賽談話、サイコロトークとも呼ばれるそれは、一時期だが実業学校で爆発的に流行った遊びだ。 まず、角が取れた立方体を用意し、その各面にお題を書く。それを転がして、出た面に沿った話題を展開していく仕組みである。 亜種として爆笑必至版とかいうのもあったが、それは省略しておく。「よし! まずは俺からだ」 そう言うや否や、谷口は黄ばんだそれを地面に転がした。 それにつられて、席を立って賽を追いかける俺たち三人。傍から見たら、何とも滑稽な光景だろう。 運命の四角は、徐々に速力を落としていき、そして停止した。 揺れる炎の明かりを頼りに文字を覗く。「なになに……、『不思議な体験』? よしきた俺に任せろ」 谷口は、一人駆け足で自分の席に戻っていった。
「これは、俺がいつものようにバナナを盗み食いしてたときの話なんだが」 俺たちが戻った後、谷口はそう切り出した。 方向が暴露話になっている、そんな気がしないでもない。「ふと思ったんだよ。俺、こんなにバナナ大好きだったかな、ってさ」 真剣な表情で語る谷口。この顔が、谷口が物語るときの標準なんだろう。 普段との落差を考えると、おかしくて仕方が無い。「そんとき、急に麺麭(パン)に挟まれた牛肉が頭に浮かんできたんだよ。 俺は今までそんなものは食べたことが無いのに、はっきりと鮮明に、だぜ?」 ん、何だこの感覚は。 これを聞いた瞬間、頭に何かが引っかかった。魚の骨だろうか。 今こいつが喋っていることは、何かとんでもない事象が裏付けられていたような気がする。 だが、それは何だ? いくら頭をかき回しても、一向に浮かんでこない。「それと同時に、油で揚げた馬鈴薯も現れたんだっけな。 俺はこのとき、天麩羅のことかって思った。けどな、どうも様子がおかしいんだ。 長細い、棒のような形なんだぜ? 見た目が間抜けで笑っちまったよ」 なんなんだ。この話と俺の記憶を結びつける何かが、必ずあるはずなのに。 俺は、いつの間にか谷口が発する言葉に全神経を傾けていた。「極めつけは、味だよ味。この世のもの世は思えないまろやかな味が、一気に口の中に広がったんだよな。 塩気がちょっと強かったけど、高級料亭並みの味わいだった。間違いねえ」 駄目だ。思い出そうとすると、頭の端っこが激しく痛む。「とまあ、こんなことがあったって話だ。 あれ、そんな神妙な顔して、どうしたんだ?」 締めの言葉で、俺はなんとか我を取り戻した。 さっき、どうしてあんなに悩んでいたのだろうか。それすら思い出せない。まあいいか。
谷口の次は俺の番で、「初恋の話」と出たので従姉の話を適当にしてやった。 そして、いよいよ長門の出番である。 ここまで、感想すら口に出していない長門が、果たしてどんな話をすることやら。 顔を下に向けて、手を傾けて賽を滑らせる。 賽は自由落下した後、長門の足元で一度跳躍してから着陸、数回転し、その動きを止めた。 表面に浮かび上がる文字は……、「幸せな話」か。至って無難な題材だが、逆に言うと内容を全く予測できない。「長門、なんでも話していいぞ」 俺は、そっと長門の背中を押してやった。 俺も谷口も、無言で長門を見つめる。「幸せ、以前のわたしには、このような感情は無かった」 長門は、俺を見据えて語り始めた。「有機生命体の間では、わたしが今から発する情報を、陳腐、と評する。 でも、聞いて」 長門は今、はっきりと俺たちに向かって、自主的に話をしている。これは、大きな進歩ではないだろうか。 少しの間を開けて、長門は言葉を続ける。「この世界で人間として生きることは、わたしの想像以上に辛いものだった。 正確無比な砲弾を避け続け、生と死の狭間で雑草を食しているうちに、一時期中枢機能が崩壊してしまった。 けれども、あなたとSOS団の構成員は、いつでもわたしに親身になってくれた。 それが、粉と散るわたしの存在を留めてくれた」 谷口すら、何も口を挟もうとしない。話が理解できていないだけかもしれないが。 親元の手を離れてしまった少女は、ひたすら言葉を紡ぐ。「わたしが幸せだと思うとき。 SOS団として行動しているとき。 綺麗な景色を見たとき。 人知れず日記を書いているとき。 狙撃した相手が死なずに済んだとき。 訓練で一番になったとき。 彼と話をしているとき。 全員無事で帰って来たとき」 独り言のように話し続ける長門。 その瞳を見ていると、吸い込まれそうな錯覚を受けてしまう。「これを、わたしの『幸せな話』とする」 長門は、誰に宣言するわけでもなく、自身に終止符を打った。「お……、おお」 今のは谷口の歓声だ。それと同時に、谷口はゆっくりと両手を叩き始めた。俺も、それに追従して拍手を送る。 ちょっとした小説を読み終えたような気分だ。
「きて、さい」 体が揺れる。地震?「起きてください」 誰かの声だ。 車庫の鎧戸のように目を開ける。木漏れ日が俺の目を刺激する。 その先には俺を覗き込む二つの顔があった。一人は長門で、もう一人は、古泉? ここはどこだ?「あなたたちを捜索していたんですよ。 ここに辿り着いたとき、ここで御三方が倒れていたものですから、ひどく驚かされました」 頭が上手く回らない。古泉が何か言っているが、どうせ大したことじゃないだろう。「涼宮さんがお怒りですよ。 連絡はしてあります。朝食を済ませたら、早くここを出ましょう」 古泉に急かされておにぎりを頬張り込んだ後、俺たちは早足で森を抜けた。 何か、とてつもなく大事なものを、あそこに忘れている気がする。 広場の方を振り向いて、焚き火の跡を見る。黒ずんだ薪が共依存していた。
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