鶴屋の湯
『鶴屋の湯』「へぇー、そうなんですか、給湯器がこわれちゃったんですかー」「それで銭湯にでも行くかってね……」「え、せんとう、って? お風呂に入るために戦うんですか?」「いや、あの……」目の前で、大きな瞳をさらに大きく見開いて、疑問の渦でうるうるさせている、愛らしい上級生に対して、俺はどう反応すれば良いのか、すっかり迷ってしまった。ひょっとして、いやひょっとしなくても未来から来た女神様は銭湯がなにかをご存じないらしい。 放課後の部室はすっかり憩いの場だ。机をはさんで向かい側の古泉も、目を細めて俺と朝比奈さんのやり取りを見つめている。長門は、うん、まぁ、あえて描写するまでもないな。 「あの、銭湯っていうのはですね……」と、説明しかけたところで、団長席でハルヒと一緒にモニタを覗き込んでいた鶴屋さんが頭を上げた。「おや、みくるは銭湯を知らないのかい?」今日は珍しく鶴屋さんも部室に遊びに来ていた。さっきまで何ならハルヒと一緒にあちこちの面白サイトをググっていたらしいが、どうやらそんなサイトより面白いネタを嗅ぎつけたらしい。 「え、えっとぉ……」「まぁ、銭湯なんて死語に近い状態だからね、無理もないっか」勝手に納得した鶴屋さんに代わってハルヒが登場だ。「じゃあさ、今度、みんなで銭湯に行こうか」「お、いいねー、ハルにゃん」「でっしょー、きっと楽しいわよ」うーん、それはどうだろう。女性陣は楽しいかも知れないが、混浴でもない限り俺は古泉と一緒なだけだ、別に楽しくもなんともない。すなわち俺は拒否権を発動すべく発言せざるを得ない。 「あのなぁ、ハルヒ、いまさら銭湯なんか……」そんな俺のささやかな抵抗をかき消すように、「古泉くん、どっか銭湯知らない?」いきなり副団長の力を借りようとするハルヒ。「そうですね、僕の知り合いの……」そこまで言いかけて俺の方をチラッと見た古泉に向かって、俺は、いらんことをするな、と目配せを送った。どうせまた機関の息がかかった銭湯だろう。そこで繰り広げられるであろうミステリ仕立ての小芝居も、もう飽きた。 そんな俺の視線に一瞬、古泉の言葉が途切れた隙に、「じゃあ、うちに来るっさ。この間、庭先で温泉が出てさ、ちょうど大きなお風呂を作ったところなんだ」な、なんと、鶴屋家で温泉が出た?「行く行く!」当然のように二つ返事のハルヒは二百五十ワットの微笑だ。「お風呂セットなんかいらないよ、体ひとつで十分さ。みんなおいでよ、一緒に入ろう」え、え、みんなで一緒に? お、俺たちもですか?「ちょっとキョン、顔がエロいわよ」なんだと、ハルヒ、何を言うんだ?「あははは、キョンくん、残念ながら混浴じゃないっさ。ごめんねっ!」いや、鶴屋さん、俺は別にそんなつもりじゃ……。「でもキョンくんがどうしても、っていうんなら考えるけど?」「いや、あ、あの、つ、鶴屋さん……」「あはははははー、キョンくん、顔が真っ赤さー、かわいいねぇー」だめだ、やっぱり鶴屋さんにはかなわない。この元気で明るくてすこしお茶目な先輩はそれゆえハルヒとはすごく馬が合うようだ。「じゃあさ、早速だけど今度の土曜日でいい?」「いいともさ、善は急げっていうしね。いやぁ、楽しみだねー」なにが善なのかいまひとつ不明ではあるが、まぁいいか。休日に街の中をむやみに歩き回るよりははるかにマシだな。そんなわけで、今度の土曜日は鶴屋さんちの温泉大浴場にお邪魔することとなった。鶴屋さんの言うように楽しみであることには違いない。「それにしても、なぜ、お前がここにいる?」「いいじゃないか、キョン。俺たちは鶴屋さん直々に招待されたんだぜ、何の問題があるんだ」「ふん」俺の隣で、下品に笑っている谷口の向こうには少し控えめにしている国木田の姿も見える。「いやぁ、鶴屋さんが、キョンと古泉くんだけじゃ寂しいだろうからって僕たちにも声をかけてくれたんだよ、さすがだね、鶴屋さん」土曜日、そう、今日は鶴屋家温泉大浴場に招待された日だ。鶴屋さんは、どうやら谷口と国木田にも声を掛けていたらしい。別にそんな余計な気遣いまでせずとも……。こんなやつらまで呼ぶ必要はこれっぽっちもないはずなんだが。鶴屋邸内の長い廊下を大浴場に向かって歩きながら、俺はつくづく鶴屋家の偉大さを思い知らされていた。なんでも冗談交じりで、温泉出るかな、と鶴屋さんが言った一言で、広大な庭の一画でボーリング作業が開始され、八百メートルほど掘ったところで本当に温泉が出たそうだ。 湧出する泉温は約六十度、弱炭酸水素塩泉で美肌効果がある、いわゆる美人の湯タイプらしい。日本三大美人の湯である、群馬の川中温泉、和歌山の龍神温泉、それに島根の湯ノ川温泉に次ぐ四番目として鶴屋温泉が追加される日もそう遠くないのかもしれないな。 廊下の先、今俺たちが足を踏み入れようとしているのは、その温泉を活かすために敷地内に新たに建てられた大浴場だ。巷の高級温泉旅館などとは比べ物にならないくらい、というか俺はそもそもそんな高級旅館には行ったことがないから始めから比べようもないのだが、鶴屋邸の大浴場は豪勢な造りだった。 「うーん、いい木の香りがするわね」目を細めて、漂うヒノキの香りを胸いっぱいに吸い込んでいるハルヒ。「どうだい、めがっさいい雰囲気だろ。あたしもお気に入りなのさ」先頭の鶴屋さんは、くるっと振り返ると大きく手を広げて天井を見上げている。「別に男湯と女湯というわけではないんだけど、お風呂は二つあるからね、キョンくんたちはそっちの方に行ってくれるかい?」鶴屋さんが指差す先には、「亀」の文字が白く染め抜かれた青い暖簾が揺れている引き戸の入り口が見えた。当然隣の入り口には「鶴」と書かれた赤い暖簾がかけられている。 「じゃ、ゆっくりと温泉を堪能しておくれ。お風呂上りのお楽しみも用意しているからね」そう言い残して鶴屋さんたちはわいわいと盛り上がりながら、赤い暖簾の向こうに消えていった。「では、僕たちも行きましょうか」「そうだな」「くっふぁー、いいなぁ。気持ちいいわ、やっぱり」「そうですね、やはりこの開放感はたまりませんね」湯船の向こうにはでっかい窓越し鶴屋家の雄大な庭園がいっぱいに広がっている。まだ少し日が高いがあとしばらくすると、夕焼けがきれいに見えることだろう。俺の隣の古泉も、普段以上に目を細めて心のそこからのスマイルを浮かべながら遠くの木々を眺めている。 ちょうどいい湯加減のお湯で腕をそっとなでてみると、この俺でさえ肌がつややかになるのが感じられる。まさしく美人の湯にふさわしい泉質であることは間違いない。「せっかくなので露天風呂の方にもいきませんか」「そうだな、行くか」洗い場の奥のガラス戸を開けて露天風呂に足を踏み出すと、わずかに感じる風が暖められた体に少し心地よく感じられる。大きな岩を組み合わせた湯船に、周囲の木々の緑がくっきりと映えている。今は女湯である隣の鶴の湯との間には、真新しい板塀が続いていた。そして、その板塀の真ん中あたりに張り付いている裸の背中が、この落ち着いた雰囲気を台無しにしている。 「おい何してんだ? 谷口」「お、キョンか、お前も手伝え」「何を手伝うんだ?」「きっと、隣が見える穴があるはずだ。それを探している」「はぁ? 覗きか? 中学生じゃあるまいし、バカなことはやめとけよ」「バカで結構だ、四の五の言わずにお前もこっちに来ていっしょに探せ」「覗きは犯罪だよ、キョンからももっと言ってやってよ、同級生として恥ずかしいしさ」少し向こう側で庭を見ていた国木田が振り返って言った。「私有地内は関係ないはずだ、道交法もそうだろ?」そういえばそんな話も聞いたことがあったが、軽犯罪は別じゃないのか。「ホントか、それ? 古泉、どう思う?」振り返った俺は、すっかりあきれて苦笑いを浮かべている古泉に問いかけた。「いや、それはどうでしょうか。いずれにせよここは鶴屋家の敷地であるわけで、僕たちがどうこう言えるものではないと思いますが」「だそうだ。だから、つまらんことはするなって」「何がつまらんことだ。覗きは男のロマンだ」何がロマンだ。谷口がそう宣言した瞬間、板塀の向こう側から、高らかな笑い声と悲鳴が響いてきた。
「きゃぁぁぁあ、す、す、涼宮さん、や、やめてくださーい」「ちょっとなによ、みくるちゃん、また、あたしの許可も得ずに、胸、おっきくしたんじゃないの」「別に許可とかそういうことでは、って、いやぁ、だ、だからぁ、そんなに触らないでくださぁい」「あははは、みくるー、あたしにも触らしておくれよー」「つ、鶴屋さんまでー」その瞬間、男湯サイドにいる俺たち四人の動きがピタリと止まり、わずかに水音だけがチャプチャプと響くだけになった。四人が四人とも全身全霊の力を振り絞って、壁の向こうから漏れ聞こえてくる黄色い歓声に聞き耳を立て、そこで繰り広げられている光景を頭に思い描いていることは明らかだ。「いやぁ、ホントだね。これはめっがさすごいじゃないか……」「ふぇー、つ、鶴屋さぁーん……」「ハルにゃん、あたしにも許可しておくれよ、ここまでおっきくしてくれなくてもいいからさ」「鶴屋さんなら許可、許可――」やがて谷口が再び壁に張り付いたかと思うと、板壁を一枚一枚確認するかのように静かに横移動を再開した。「おい、谷口!」「う、うるさい、キョン! 静かにしろ」「もうやめとけって」「ふん、たとえ隣が見えても、お前には替わってやらん!」俺の呼びかけに血走った目で答えた谷口は、一心不乱にわずかの穴も見逃さない勢いで壁をなめている。「困ったものです……」小さく肩をすくめた古泉は、「あの鶴屋家が普請した建物ですから、素材も施工も最高のものに違いありません。お隣が覗けるような節穴などは見つかるはずはありませんよ」「そうだよな」必死の谷口の後姿を見つめながら、そんな会話を古泉と交わしていると、「あ、あ、おおおー!」と、声を裏返した谷口が一段と壁に張り付き、顔を押し付けているのがわかった。な、何! ひょっとして、ひょっとしたのか? ついに禁断の楽園へ導いてくれる扉を見つけたというのか?「どうした、谷口――」俺はあわてて湯船の中を谷口のところまで突き進んだ。ふと振り返ると、国木田も、古泉さえついて来ているではないか。結局こいつらも単なる男子高校生だったということか。 俺たちが谷口の周りに近づいたとき、谷口は天を仰ぎながら、搾り出すようにつぶやいた。「あ、あ、足が……、つったぁ……」その場で沈んでろ、そして二度と浮かんでくるな、この野郎……。結局そのあとは、時折聞こえてくるハルヒと鶴屋さんの笑い声をBGMに淡々と温泉を満喫した俺たちは、それでもすっかり心も体も癒されたことは間違いない。気持ちよく風呂から出てくると、脱衣場にはまるで新川さんを少し若くしたような、まさしく執事、という感じの紳士が控えていて、「お風呂上りにお召しになるように浴衣をご用意しております。着付けは順次させていただきますので、それまでは、こちらにて涼みながらゆっくりとおくつろぎください」 と、言って慇懃に頭を下げている。なるほど、鶴屋さん、準備がいいな。まだ盛夏には少し早いが、温泉のあとは浴衣で夕涼みというわけだ。たぶん、初物のスイカでも食べながら花火を楽しむのではないだろうか。 よく冷えた麦茶を飲んでいるうちに、俺たち四人は鶴屋さんが用意してくれた浴衣をそれぞれ着込んでいた。俺のお袋とは違うプロの着付けだけあって、帯もびしっと決まっており、このまま卓球したとしても着くずれなど心配無用であることは間違いない。その後、さっきの執事さんに案内されるまま廊下を戻って行き、ちょっとした離れの縁側に通された。「こちらにてしばらくお待ちください。すぐに他のかたがたもお見えになると思います」再び丁寧なお辞儀を残しながら去っていった執事さんと入れ替わるように、にぎやかな声が近づいてくると、ハルヒたち女性陣が到着した。ハルヒは白い大き目の花柄がいくつも浮かび上がっている赤い浴衣を着ている。長門は紺色、朝比奈さんは薄いピンクをベースとした浴衣で、まぁ、今さら言うまでもないがみんなよく似合っている。 「どうだい、どうだい、ちょっと季節的には早いかもしれないが、やっぱ、温泉のあとは浴衣だろ」鶴屋さんは白に紺と紫の大きな花柄があしらわれた落ち着いた雰囲気の浴衣を着て、手に持ったお盆には、三角にカットされた赤いスイカが幾つも乗せられていた。「うんうん、キョンくんも古泉くんもよく似合っているよ」「すみません、鶴屋さん」「気にすることはないさ、めがっさ楽しんでおくれよ」鶴屋さんはにっこり微笑んで、左目で軽くウィンクをしてくれた。おそらくはハウス栽培のこの時期ではとても高価なはずの甘くてみずみずしいスイカをいただいたあとは、予想通りの花火大会が始まった。ひょっとして花火師でも登場して、四尺玉の打ち上げでも始まったらどうしようか、と思ったが、さすがにそれは杞憂だった。 それでも、大量の花火が次から次へと登場し、離れの庭先は、しばらくの間、赤や青の光に満たされて幻想的な光景に包まれていた。少し向こうでは、相変わらずハルヒと鶴屋さんが、朝比奈さんをおもちゃにしながら、花火を振り回してはしゃいでいる。そんな騒ぎをよそに、しゃがみこんでじっと線香花火を見つめている紺の浴衣姿の長門に向かって、俺は話しかけた。「女湯の方はえらい騒ぎだったようだな、ハルヒの許可がどうとか言っているのが、こっちの方まで響いてきたけど」「そう、大騒ぎだった」長門はチラッと俺のことを見上げた後、再びうつむくと線香花火の先っぽに視線を戻して、ぽつりと言った。「わたしも情報統合思念体に許可を求めようと思う」「ん? 何の許可だ?」「ひみつ」線香花火のちらつく輝きのおかげで、あの長門の横顔が微笑んでいるように見えたのは、俺の気のせいだけではあるまい。初夏の夜風が、風呂上りに気持ちよく感じられる夕べだった。Fin.
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。