涼宮ハルヒの抹消 第二章
「何が起こってるんだ」 俺はもう何度となく口にしたセリフを飽きもせず漏らした。 長門だけがいない。そのうえハルヒやその他の連中に長門の記憶はない。古泉は欠席中。それが今の俺の置かれた状況である。長門だけがいない? 何故だ。 はっきり言って、俺一人では見当もつかん。 考えようたって俺の頭は絶賛混乱中につきまともに回転してくれないのだ。そうだろう。一般人だったら俺みたいな感じになるに違いない。 まあ、俺一人ではどうしようもできないというのは俺がこの上なく一般人だからという理由をつけて、朝比奈さんぐらいの相手なら口論で言い負かす自信はあるがな。だがしかし朝比奈さんを言い負かしたところで何の利益も生まれず、そして今はそれどころではない。 いや、待てよ……。 朝比奈さんだ。 というわけで、そう気づいたのは右耳から入ってくる情報を左耳に受け流しているような一、二時限目の授業が終わったときだった。 授業中、俺のシャーペンはいつもに増して動作停止の割合が高かったがせめて今日ぐらいは大目に見て欲しい。そして俺の願いが通じたのか、運のいいことに教室内を無駄に徘徊しまくる教師に咎められることはなかった。なぜだろう。 だからそんなことを疑っている場合ではない。 今は朝比奈さんだ。 SOS団で残った可能性といえば彼女くらいなものである。ハルヒは記憶がおかしいし、長門と古泉は学校にはいない。長門にいたってはこの世界にすらいないのかもしれん。 俺は確認の意味もこめて後ろを振り返った。「おいハルヒ」 俺の後ろにはやはりハルヒがおり、終わったばかりの英語の授業道具をせっせと片づけていた。「何? 知り合いの女の子の自慢話ならお断りよ」「そうじゃなくてだな、お前朝比奈さんを知ってるか?」 ハルヒは呆れたような顔になった。「あんたまたそんなこと言ってるの? 何それ、最近流行りのゲームか何か?」「そんなわけないだろ」「まあいいわ。言っとくけどね、あたしはあたしの団の団員を忘れるようなことは絶対にしないから。あんたは微妙だけど、古泉くんとみくるちゃんなら一生忘れない自信があるわよ」 心強い返答だ。口に出して言えるわけはないが、どうせなら長門のことも覚えててくれればよかったのにな。「それで、みくるちゃんがどうかしたの?」「いや、何も」「何よそれ、気になるじゃないの。訊いたなら訊いただけのことはしなさいよね」「本当に大した理由なんかない。俺がちょっと血迷っただけだ」 ハルヒには悪いが、今は三年の教室へと急がねばならん。ハルヒの「あんた今日血迷いすぎよ」とかいう言葉を背に、俺は席を立って廊下へと繰り出した。 ハルヒが朝比奈さんのことを知っているということは、朝比奈さんがここにいる可能性は高い。古泉のことも知っているらしいから、古泉も学校じゃないにしろどこかにいるのだろう。 何しろハルヒはこの世界の神様的存在である。古泉の考えを立てるのなら、ハルヒの記憶には朝比奈さんがいるのに実際はいないとか、あるいはその逆とか、ハルヒが本質的な矛盾を感じるようにはなっていないはずなのでである。それは同時に長門が存在しないことの証明でもあるわけだがな。 俺はちらりと時計を見た。三限の開始にはあと五分ほどの余裕がある。五分もあれば三年の全教室を見て回ることもできるだろうか。少し足りないかもしれない。 しかしそれは杞憂に終わったようだった。 それもそのはず、俺が三年の教室につながっている階段の踊り場に立ったとき、上の階から階段を降りてくるお方が俺の目に入ったからだ。 深くうつむいて唇を引き締め、可愛らしくも今はどんよりと暗い精神状態を前面に出している少女。 それが誰か、言わなくても解るだろ? SOS団専属のお茶汲み兼マスコット兼メイド兼書記。そして俺の精神安定剤女神様が、まさに目の前にいた。「朝比奈さん!」 俺の声にハッと顔を上げた朝比奈さんは、しばらくクリスマスにサンタクロースを見つけてしまった純真な子供のような目で俺を見ていたが、やがて不格好なフォームで階段を駆け降りてきた。「キョンくん――」 語尾を消滅させるような発音をして、再度そこにいるのが俺であるのを確かめるように俺の顔をのぞき込んだ。不安げな表情がやや明るくなっているように見えなくもない。 朝比奈さんは何か言いたそうにしていたがどうも言葉がうまく出てこないようで、やはり俺から何か言わねばならない。 瞬時に思いついた言葉の中でどれにしようかなを行っていると、次の瞬間、朝比奈さんの顔が急に歪んだ。 同時に、うっという短い嗚咽が聞こえた。しゃくり上げるその声はまさに俺の腰あたりからしており、なぜかというとそれは朝比奈さんが俺に抱きついているからである。何度となく感じたあの暖かくて柔らかいものがまた俺に押し当てられた。「ちょ、あ、朝比奈さん?」 抱きついて顔をうずめているので朝比奈さんがどんな表情をしているか解らん。時々する嗚咽のような声から想像はできるが。そのたびに朝比奈さんの肩がひくひくと上下した。ワイシャツに涙の浸みていくのが伝わる。 俺はただただ動揺と困惑の最中を駆け回っていた。何だなんだ? 俺の右手及び左手は無意味に空をかいていた。しかし他にどうしようがあるってんだ。この場で黙って朝比奈さんを抱きしめられるほど俺はクールではない。朝比奈さんはひたすら泣き続けており、俺が先に声を発しなければならんのは承知しているのだが。 俺は、こんなところをハルヒに目撃されたりしたら一巻の終わりだなとか我ながら意味不明のことを思いながら、「朝比奈さん……どうしたんですか?」 面白くも何ともない言葉を吐き出した。 「どうしたもこうしたもありません……ひくっ。……未来がごちゃごちゃになってて、時間平面がおかしくてTPDDがダメで……うぅ、あたしどうしたら……」 朝比奈さん、申し訳ありませんが意味不明です。とりあえず落ち着くことから始めてみたらどうでしょう。俺ならそんなに強く抱きつかなくても逃げたり消えたりしませんよ。 「ごめんなさい……その通りですね」 朝比奈さんはしゃくり上げながら、「あたしがしっかりしなきゃいけないのに……。ごめんなさい」 いやあ、全然構わないっすよ。 朝比奈さんに泣きすがられるなんてのは全人類の約半分の夢だからな。しっかりするべきは俺なのだ。無論すべてがそんな下心で構成されているわけではないと釈明しておくが。朝比奈さんじゃなくたって――長門だってハルヒだとしても――泣きすがられればそれ相応の対応はしてやるべきだ。と言っても前者は涙腺があるかどうか怪しく、後者の場合は小型隕石がピンポイントで俺の家に衝突する確率よりもはるかに低いだろうと断言できるので実際そんなことがあるのは朝比奈さんだけなのさ。さて俺は何を言いたいのだろう。「朝比奈さん、いったい何が起こってるか解ってるんですよね。ハルヒが長門を知らなかったり古泉が学校にいなかったり、って。すみません、俺もよく解ってないんですけど、朝比奈さんは何か知ってるんですか? 知ってたら説明してくれませんか」 「うん。……あたしもよく解らないからうまく説明できる自信はないんだけど」 朝比奈さんは表情をやや曇らせて、「未来との交信がまったくできなくなってるんです。通信経路が途絶えました。未来からの指示や反応はないし、こちらからコンタクトを取ろうとしても未来に通じないんです。TPDDを使って未来に時間移動しようとしても、許可が下りてないから認証コードが解らないし、だから未来にも帰れないの……。朝に気づきました」 どういうことだろう。なぜ未来と通信できなくなってるんだ。「伝わる経路がごちゃごちゃになってて信号が届かないって言ったほうがいいかもしれません。ごちゃごちゃになってるっていうのは現在から先の未来が大量に発生してるから。数え切れないほど、それもまったく種類の異なる未来が大量に発生しているんです」 朝比奈さんのその声には、もはや諦めにも近い感がにじみ出ていた。 ううむ、未来との交信ができなくなったというと朝比奈さんにとっては青木ヶ原樹海で道しるべを見失ったようなもんか。なかなか致命的ではあるが、いまいち実感が持てないのは俺が過去人たるゆえんである。 しかし俺が怪しく思ったのはそこではない。未来が大量にできているという点だ。「どういうことなんですか? これから後の未来がいろいろに分岐してるってことですか?」「そうです。大量分岐している上に、しかも分岐点がこの時間帯に集中してるんです。どの道を選ぶかでどの未来に着くかも決定されると思うんだけど」「分岐を間違えると、まったく種類の違う未来に着く可能性もあるわけですか?」「はい」 恐ろしい話である。 朝比奈さんの言うまったく種類の違う未来というのが何を指しているのか、何となく解った。 おそらく、長門がいる未来と長門がいない未来である。 当然俺は長門のいる未来に行きたいが、その分岐はいつどこでやってくるか予測不能だし、長門のいる未来に行ける確率も解らん。間違いないのは長門のいる未来かいない未来かという分岐がこの時間帯にあるということで、そして俺は何があってもその選択を誤ってはならないということだ。動きに細心の注意を払わねばならんだろう。今ちょっと楽をしたために一生後悔するようなことはあってはならん。 「これからどうすればいいとか解らないんですか? こうすればハッピーエンドになるとか」「解りません。どの道を通るかで結果も変わってくるということしか」「言えないんじゃないんですか? あの、禁則事項ってやつで」「違うんです。禁則事項も強制暗示も全面解除されてます。その代わり未来からの干渉もないんだけど」 まあ、過去の人間にお前の未来は分岐してるぞなんて禁則事項が解除でもされてなければ言えるわけがないか。朝比奈さん(大)くらいの権力を持つ人だって答えを教えてくれたのはすべてが終わってからだったしな。八日後の朝比奈さんと俺がやったのは分岐を選択するためのことだった、と。「あ、でも」 朝比奈さんは何か希望を見いだしたのかパッと表情を明るくした。「長門さんなら何か解るかも……。未来が分岐してるってことも、ひょっとしたらこれからどうなるのかも教えてくれるかもしれません。ね、キョンくん?」 さて、それができたらどんなに楽をできるでしょう。たぶん、この状況下で長門を利用できたらそれは裏技でも反則の部類に入るものだと思いますがね。 俺はぽかんとして何も知らなかったらしい朝比奈さんにありのままを語ってやった。無理もない。彼女は未来のことだけで頭が一杯だったんだろうから。 今日になって突然、ハルヒやその他の連中が長門のことを知らないと言いだしやがったこと。長門のクラスに行ってみたが本当におらず、長門の席すらなくなっていたこと。ついでに古泉が学校を休んでいること。 朝比奈さんは俺の話を魂を抜かれたような感じで聞いていたが、途中から顔色をどんどんブルー方向に変えていき、俺が話し終わる頃には青を通り越して白くなりかけていた。「そんな……未来だけじゃなくてそんなことも起こってたなんて……」 ハルヒがいないと知らされたときの俺を鏡で見ているような感じである。仕方ない。朝比奈さんはもともと突拍子もない事象に対する耐性がいまだにゼロに等しい上に、誰かが消えていたりするようなことを経験するのは初めてなのだ。そんな経験ほど慣れたいものも少ないが、俺のほうが朝比奈さんよりも経験を積んでいるのは事実である。 そんなことを考えているととある提案を思いついたので、ちょっと口にしてみた。 「朝比奈さん、今日学校を早退できますかね? あいや、朝比奈さんは早退しなくてもいいんですけど俺にいくつか心当たりがあるんで、できればそれを確認したいんです」 「心当たり……?」「ええ。長門のことを知ってたりこの事態に気づいていそうな人間、まあ人間ですね。そんな奴らを少しばかり知ってるんで。もしかしたら助けてくれるかもしれません」 俺は即座に『機関』のメンバー、朝比奈さん(大)、喜緑さんの顔を思い浮かべた。 まずは『機関』である。古泉にもし電話が繋がれば、そこから『機関』にも繋がるはずだ。もちろん古泉に電話が繋がらなかったとしたら話は別だけどな。 次に朝比奈さん(大)と言ったが、未来がこじれているようでは彼女を全面的に頼ることはできん。長門がいない未来の朝比奈さん(大)が現れてその指示通りに動いてしまったら、それは間違いなくバッドエンドである。それでもやっぱり靴箱に手紙か何か入っていてくれれば安心できるわけだが。 喜緑さんに関しては難しい。長門と一緒に消えている可能性もあるし、いたとしても長門ほど頼り切れはしない。穏便派らしいが何を考えているのかいまいち理解できないからな。 と、ここまで来れば十二月十八日にはできなかったこともいくつかできる。一つぐらいヒットがあってもよさそうなものだ。「朝比奈さんも、この時間帯に一緒にいる未来人の知り合いとかいないんですか?」「知り合い、未来人のですか? いません、いえ、いるにはいるんですけど、そのぅ、ちょっとそれは……」 朝比奈さんは後込みしている様子だったが、その理由はすぐに解った。ヤツは俺の知り合いでもあるからな。 そいつはきっと男なんでしょう。そんでもって、ふてぶてしいを擬人化したような性格の持ち主で、こともあろうか朝比奈さんの誘拐騒動に一枚噛んでる野郎なんじゃないですか。あいつならお断りします。あんなのは知り合いの中にいれちゃいけません。「仕方ありませんよ。未来人の知り合いならちゃんとした未来にいてくれればいいんです。朝比奈さんが気に病むようなことじゃありません」「そう、ですか?」「そうです。悪いとしたら朝比奈さんの上司――いえ、その話はよしときましょう。大切なのは今ですからね。現状把握が第一です。っても俺が思いつくところを徘徊するだけなんですけど、朝比奈さん、一緒に来ますか?」 「もちろん行きます」 朝比奈さんは重大プロジェクトを自らの双肩に背負わされた新米プロデューサーのような顔になって、「キョンくんと一緒にいたほうが心強いですから」
* 起立礼の号令が上の階で響きわたった頃、俺と朝比奈さんは弁当を食い終わったら校門前で落ち合いましょうと約束してそれぞれのクラスに戻った。弁当を食い終わったらと指定したのは俺に少し時間が欲しかったからだ。この学校で喜緑さんを確認しておかないといけないし、あと一つ二つ確認すべきことがあったからな。 その次の休み時間、たかってくる谷口と国木田を軽くスルーして俺は廊下へ出た。部室棟へと向かいながら上着ポケットから携帯電話を取り出し、古泉にかけてみる。 呼び出し音が繰り返されていたが、俺がいい加減イライラしてくる頃になってようやく、電源が切っておられるか電波の届かないところにおられるか、とオペレーターの声がした。「ちっ」 舌打ちしてみるがそんなに悲観すべきことではない。むしろ確信を得られたと喜ぶべきことである。 冬に変わった世界でハルヒに電話してみたときは『この電話番号は現在使われておりません』となっていたが今は違う。単純に古泉が電話に出られない状況にあるだけだ。電波の届かないところってのは何だ、閉鎖空間のことだろうか。 ところで閉鎖空間内にいるときは圏外になるのだろうかと素晴らしくどうでもいいことを考えながら、俺は役立たずの携帯電話をポケットにしまった。黙々と旧館部室棟へと足を運ぶ。 頭の中はすでに白くなりかけている。早くも考えつかれたが、それでもSOS団部室には気がついたら到着しているのだからこれはもう慣れ以外の何者でもないだろうね。 かつての文芸部室、今はSOS団の管理下にある部屋。 ここに以前のように長門がいないのは解っているが俺には希望を捨てることはできん。長門がそこにちょこんと座っているのならばそれほど嬉しいこともないだろうが、そうでなくても手がかりがあるやもしれない。大量に蓄積された本のどれかに栞が挟まっていて、裏に明朝体で文字が記されているかもしれないだろ? 俺はひとたび呼吸を整え、あえて何も考えないようにしてドアノブに手をかけ、扉を開いた――。 目を閉じて扉を開き、二秒くらい経ってから目を開けるなんてもっともらしいことをするつもりはない。したがって俺はすぐさまその光景を凝視した。「こりゃあ――」 人の姿はなかった。 隅々まで見ても、掃除ロッカーに隠れていたりしない限りこの部室には俺しかいない。長門はいなかった。 その代わり、見慣れた光景がそこにあった。 七夕の竹、朝比奈さんのコスプレセットがかかったハンガーラック、ボードゲーム各種、パソコン。中央の最新機種の隣には「団長」と書かれた三角錐。その他主にハルヒが持ち込んだ雑多な物品が狭い部室を飾っていた。 これだけは間違いない。ここは零細文芸部ではなくSOS団である。そうでなけりゃ、どこの文芸部員がこんなもんを持ち込むのだ。 ならば昨日見たままの光景か……、と一瞬思いそうになったが。「いや」 喜ぶのはまだ早かった。何の疑いもなく喜ぶと違ったときの落差のせいで余計にショックを受けるものだから俺はまだ喜ばなかった。それに、ここは何となく違った雰囲気がしていた。 違うのだ。この違和感。あるはずのものがないという、この違和感。 俺は再度目を走らせた。この部室に入っているものを答えろといわれたら、俺はカンペなしでも物理の試験以上の得点を取る自信がある。さあ、この違和感の正体は何なんだ。 朝比奈さんのコスプレ、古泉のボードゲーム、ハルヒの団長机。そして長門の……。 部屋の隅に設置されている本棚に歩み寄ると答えが解った。 本が圧倒的に少なかった。 本棚に収まりきらないほどあった長門のハードカバーが半分以下しかない。本棚はガラ空き状態である。おそらく最初から文芸部に備え付けられていたものしかないのだろう。俺だってそのくらいの推理はできる。ここでハードカバーを読むような人間は、ここには存在していなかったらしい。
脱力した。いろいろあるように見えて決定的に大事なものはない。 どこかに腰を降ろそうと見回すと、窓辺のパイプ椅子もないことに気づいた。長門の特等席であったはずの椅子もなくなっていた。あるのは長門以外の団員の所有物だけ。 いや、まだ何か残っているはずだ。昨日、まだ長門がいた部室で俺たちは何をやった。 二週間前倒しの七夕である。 俺はとっさに振り向いて竹を確認した。鶴屋さん印の竹には、いまだに団員分の願い事が吊してある。長門も昨日、このどこかに願い事を吊していたはずだ。 ――が。「……タチの悪い冗談だ」 俺はさらにうなだれた。 ハルヒ、朝比奈さん、俺、古泉の願い事は脳天気にも昨日吊した場所で夏の風にそよそよと揺られている。当然である。昨日あったんだから、よほど物好きな泥棒が盗まない限り今日もここにあるはずだ。 それなのに、長門の短冊だけが忽然と姿を消していた。 はっきり言って気味が悪い。 物好き泥棒説なら即座に放棄できる。そんなヤツはいない。谷口だってそんなマニアックな趣味はない。 それは、長門がSOS団で活動していなかった証拠だった。
* はたして、情報収集の結果はまったく芳しくないものであった。 休み時間終了間際になってようやく動く気力を得た俺は、とりあえず本棚に収まっていた本を片っ端からめくってみた。時々栞がはさまっている本があったものの栞をひっくり返してもはたいても透かしても文字などは一切見えてこず、いたずらにストレスを蓄積するだけの時間であった。 もちろんパソコンの電源も入れた。どのパソコンもごく普通に起動してくれ、いつぞやの閉鎖空間みたいな長門からの直接メッセージはなし。MIKURUフォルダやネット上を探せばSOS団サイトは存在していたもののディスプレイは画面を淡々と表示するだけで、ようするにあったから何だという話である。 そんなこんなで俺が二年五組の教室に駆け込んだのは教師が入室するのとほぼ同時であり、何も収穫がなかった割に肉体的精神的疲労だけがむやみに溜まったのだった。 午前の部の授業は俺が何かを考えていたり何も考えていなかったりするうちに終了した。 無論考えていたのは授業の内容ではない。高校生としてそれを無論と言っていいものなのかと思うが、俺に付属する修飾語に「一般」というこの上なく貴重な二文字が失われかかっているのだから、社会に出てから役に立つとも思えない微分積分の授業を聞いたかどうかなんてのはノミとダニの区別がつくかつかないかくらいに些末でおよそどうでもいい問題に過ぎないのだ。 時は順当に過ぎ、昼休みが巡ってきた。「おいキョン、どうしたんだそんな能面みたいなツラしやがってよ。暗いぞ」 谷口と国木田と席を寄せ合ってはいるが、それはまさしく形だけであって俺は一人猛スピードで弁当を胃の中に突っ込んでいた。「うん。僕も谷口に同感だよ。能面、ってのが暗いって意味で使われてるとしたらね。キョン、どうかしたのかい」「いや、さっきからどうも頭痛がひどくてな。ついでに喉が痛くて腹も痛くて吐き気もするし目眩もする。これはちっとまずいかもしれん」「ふうん。症状がそんなにたくさん現れるのは珍しいね。それに、吐き気がするのにそんなに早く弁当を食べられるのもすごい」 国木田が豆を一粒ずつ口に運びながら言った。「おう、どうも変な症状でな。今までにないパターンの風邪だな」 早退をクラスメイトにほのめかしておくのはそれなりに重要な作業だと思っているが、こんな演技で騙されてくれるとも思ってないしそもそもこの二人にほのめかしたところで効果があるとも思えん。 どうでもいいやとっととフケよう。 そう考え直してタイミングを見計らっていると谷口がバカにしたような表情で、「ああそうだな。てめーの病気の症状は涼宮にも聞かされたぜ。それはお前、風邪じゃなくて精神病なんじゃねえのか。涼宮もそう言ってやがった」 ハルヒが? 何で?「ああっと、いつだっけな。たぶん二時限目が終わったあたりの休み時間だと思ったがな。とにかく、お前が教室にいなかったときに涼宮がいきなり俺のところに来てよ、長門有希って誰だって訊いてきやがったんだ。訳わかんねーよな」 「あ、それ僕も同じことを訊かれたよ。長門有希って女子に心当たりはないかって」「何て答えたんだ。というか、お前らは長門有希を知ってるのか?」 朝比奈さんが正常の記憶を持っていたのだからと多少の期待をしていたものの、谷口と国木田の表情を見る限りでは期待したほうがバカだったと思わざるを得ない。 案の定、我が同窓生二人は俺の顔をまじまじ見ると同時に、「知らねー」「知らない」「そう言ったら涼宮が俺に向かってグチをたれてきたがったんだ。独り言のつもりだったのかもしれんが、俺にはちゃんと聞こえてたんだからグチでいいはずだよな」 俺は心の中で舌打ちを連続させながら谷口のセリフを聞いた。「すんげー不機嫌な顔して、彼女の自慢話かしらとか言ってやがったぜ。あるいは精神病だとも言ってた。俺は精神病の可能性を取るね。哀れにも涼宮と愉快な仲間たちの一員になっちまったお前が、今まで正気でいられたほうがおかしいくらいだぜ」 それは朝比奈さんがSOS団にいてくださったからという理由に尽きる。そうでなかったら去年の今頃、俺は投身自殺でも図っていたに違いないだろう。 まあ今は違うけどな。そんなのは考えてるヒマもないし、そうするには俺はちょっと深入りしすぎてしまったらしい。だったらすべてのオチがつくその日まで付き合ってやるよと俺が思うようになっているのは開き直りの一種なのかね。 俺は悟りの境地に達した仙人の思考をトレースしながら弁当箱を片手に立ち上がった。「突然だが谷口と国木田。俺は今日は早退させてもらいたいと思う。どうも調子がよくなくてな。この暑さでアフリカから遠征してきたハマダラ蚊に刺されでもしたのかもしれん。岡部にはどうにか弁解しておいてくれ」 「うん。でもねえキョン、何の理由があるか知らないけど、サボるつもりならもう少ししっかりした嘘をついたほうが僕はいいと思うな」 うるせえ。気づくのは勝手だが口に出すのはやめてくれ。「それとハルヒにも伝言を頼みたいんだ。すべてお前の誤解だって伝えてくれ。あれは彼女なんかじゃないとな。そのほうが何かと後のためになるような気がする。ついでに、今日の部活は休ませて欲しいと言っといてくれ」 「ああ?」 谷口のフヌケた声をバックに聞きながら俺は鞄をつかむと弁当箱とその他を押し込み、そそくさと教室外に逃亡した。 誤解は恐ろしいものさ。この意味不明な状態に加えてハルヒによる世界改変でも行われたらたまったもんじゃない。俺はあまり肯定したくはないが、俺たちの間にはそういう暗黙の認識らしきものがあるみたいだからな。それが何かってのは訊くなよ。ルール違反だ。
* 最初に向かったのは生徒会室である。ただし朝比奈さんと一緒ではなく、俺一人で。喜緑さんの正体を知らないだろう朝比奈さんと一緒に行っては何か不都合がありそうな気がするのでね。もっとも長門レベルのパワーを持っているのならそのくらいはどうにでもしてくれそうなものだが。 職員室の隣にある生徒会室には何のトラブルもなくすんなり到着した。 思い返してみると、ここに足を踏み入れるのは実はまだ二回目である。古泉の学園内陰謀モドキで文芸部冊子の作成を言い渡されたときが一回目であり、あの時は喜緑さんが生徒会室で議事録を広げていた。 無論、今回もまたいてくれるとは限らん。彼女が長門と一緒にどこかに行っちまってる可能性を否定することはできない。 しかし試すだけの価値はある、と俺は思っている。どうせ俺がアテにできる存在など数えるほどしかないのだ。シラミ潰しに回ったってそんなに時間もかからんし、それなのにわざわざ喜緑さんを避ける必要なんざどこにもないからな。 古泉によると喜緑さんは長門の目付役であり、宇宙意識の中では穏便派でSOS団の味方らしい。長門はいなかったが、彼女はいたり、あるいはいなくても何らかのメッセージを残してくれていることも考えられる。 俺は生徒会室の扉をノックし、入りたまえという声がするのを聞いてからドアノブに手をかけた。「む、何だキミか」 俺の耳は部屋に入るなり一番に白々しい声を察知し、俺の目は眼鏡をかけた男の姿を捉えた。 いたのは生徒会長だった。「と、振る舞う必要もねえな。どうも最近、猫を被っていると本当に猫になっちまいそうで困った。普段、この口調で喋ってもいい奴が少ないからな」 会長はダテ眼鏡をはずすと足をテーブルの上に投げ出した。俺は不良会長を無視して喜緑さんの姿を探すが、見あたらない。ただ、議事録だけが脇のテーブルに無造作に置かれていた。「お前、何の用で来たんだ? 用もないのにこんなところには来ないだろう。またあの騒がしい女のパシリか?」「あーいえ、用があるにはあるんですが、その前に一つお訊きしてもいいですかね」 会長は無言で促した。 俺は喜緑さんのつけていたはずの生徒会議事録を手にとってパラパラとめくりながら、「この生徒会の書記の人の名前って解りますか?」 訊くと、会長は露骨に面倒くさそうな顔をしていたが、一応といった感じで俺の訊いたことのない名前を言った。喜緑さんではなかった。「そいつがどうかしたのか? 何かお前の団で企んでるつもりならこっちにも詳細説明をくれよ。そうでなきゃ三文芝居にもなりゃしねえ。敵に回すのはお前んとこの団長とやらだけで充分だ。部室の永久管理を認めてくれとか、そういうのか?」 「別に何も企んでませんよ。文芸部室なら間借りで充分です」 しかし会長はまだ言い足りないといったふうに指でテーブルをコツコツ叩くと、「あんな部室はな、本当なら面倒だからとっとと引き渡してやりたいくらいなんだ。そもそも文芸部員なんか最初っからいなかったんだから被害者もいねえじゃねえか。それを何で俺が引っかき回すようなことをしなけりゃならねえんだ」 被害者なら長門こそが最初にして最大の被害者だが、この学校には長門がいなかったことになっているのだ。どうやらハルヒは一年の春に無人の文芸部室を乗っ取ったことになっているらしい。 「それなら古泉によく伝えておきますよ。で、申し訳ないんですがもう一個質問をさせてもらえますかね」「何だ」「喜緑江美里という女子を知ってますか? たぶん三年にいると思うんですが」「知らん」 会長はあっさりと答えた。 ダメだったか。 俺は再び深い谷底に落ちていくような感覚に襲われた。 長門と一緒に喜緑さんも消えている。そんな確信を持った。 会長が嘘をついているとか、単に同学年にいるけど喜緑さんを知らないだけとかいう可能性はかなり低い。だったらなぜ喜緑さんが生徒会にいないのか説明できないからな。全校生徒に長門や喜緑さんを知っているかと調査したところでおそらく誰もが首を横に振ることだろう。 俺は不審者を見るような会長の視線を受けながら焦燥と共に議事録のページを繰る。ここにヒントメッセージか何かがなければ、俺や朝比奈さんだけでできることなんざ相当限られてくる。 議事録を埋めているのはいずれも乱雑な筆致の文字ばかりだった。まれに読めないものもある。喜緑さんがどんな字を書くのかは知らないが、さすがに彼女のものとは思えないような雑字だった。「これ書いたの、全部書記の人ですよね」「そうだな。そりゃいいが、お前ここに何しに来たのかとっとと答えやがれ。場合によっては叩き出すぞ」 別に俺は構わん。こんなタバコの煙が充満したような部屋にいたがために将来ガンにかかって死んだなんてことにはなりたくないのでね。せっかくだから議事録と一緒に叩き出してくれ。「議事録に目的があるのか? 変な野郎だ。言っとくけどよ、中身を見てもてんで真面目なことしか書いてないと思うぜ。そんなもんいくらでもコピーを撮ってやるから早いとこ出てけ。こちとら気分よくフカせねえだろ」 会長はタバコを片手に俺の肩越しに議事録をのぞき込んだ。挑発するようにタバコの煙を吹きかけてくる。 しかし本当に何にも面白くないことしか書かれていない議事録だ。議題なんて大仰に書いてあるが、本当に議論したかどうかも怪しいね。 そうこうしているうちに議事録の残りページは減っていった。「さあ、もういいだろう。昼休み中こんなことして過ごすつもりか?」「いえ、こっちにも約束があるので昼休み中ずっとというわけにはいきませんよ。なんなら、本当にコピーでも撮らせてもらいます」 会長はふんと鼻を鳴らして馬鹿らしいと言い、椅子に腰を降ろして二本目のタバコに火をつけた。「どうでもいいが、あのバカ女だけは呼び寄せるなよ。タバコなんかやってるところを見られでもしたら古泉の取りはからいも一切なくなっちまう」 ならやめればいいのだ。タバコは身体に毒ですよってよく言うじゃな――。 俺は息をのんだ。議事録を持っている手ががくがくと震えだし、眼球が釘付けになった。 筆跡が急にきれいになっているページ、いや、一文を見つけたのだ。議事録の最後のページ。そこだけがしっかりと読める文字だった。「どうした?」 俺は驚愕を隠せていなかったのだろう、会長が怪訝そうに訊いてくるが今は無視だ。脳の全勢力を文字の解読に傾ける。 きれいな文字――喜緑さんであろう筆跡のそのページには、たった一文こう書かれていた。
『password・すべての始まりを記せ』
一字一字丁寧に書かれていた。愛の告白でもするかのような、優しくて柔らかい字で。 パスワード。 間違いない。イタズラ書きでも何でもなく、これは俺にあてたメッセージだ。おそらく喜緑さんが書き留めてくれたのだろう。そのはずだ。こんなのは議事録に記すような内容ではない。 パスワード、すべての始まりを記せ。 しかし、波が退いていくように俺の頭から興奮の感情が収まっていくと、そこにはさながら波が運んできたクラゲの死体のように、ただもやもやとした疑念が残った。 長門だけの特徴かと思っていたら、何だろう、宇宙人にはメッセージを短くする趣味でもあるのだろうか。はっきり言ってこれだけでは解らん。 何だってんだ。 パスワード。すべての始まり。記せ。 パスワードってのは何だ。どこのロックを解除するためのパスワードなんだ。 それにすべての始まりとは何なんだ。何の始まりなんだ。 記せ? どこに記せばいい。この議事録か、それともどこか別の場所か。 それに期限はないのか? 冬のときのように二日後までにしなければならないとかいう制約が。 全然ダメだ。文の量の少なさを呪うわけではないが、ロックをはずすための情報が不足しているのは事実である。これでは何一つとして解らない。「会長さん、これちょっとお借りしますよ」 とりあえず、俺はうわずった声で会長に告げて議事録を閉じた。マジでコピーを撮っておく必要がある。「ああ? 何だ、本当に面白いモンでも見つけたのか?」 ええ、見つけてしまいましたよ。あいにくあなたには何の面白みもないでしょうが。 すっかりシラけきったような顔をして俺を見る会長の視線を背中に感じながら、俺は議事録を手に生徒会室を出た。 どこのパスワードなのかはさっぱり解らんし、これといって見当がついているわけでもない。 しかしこれは大きな一歩に違いないのだ。 これがどんな意味を持っているにしろ、これを辿っていけば何か確かな手応えに突き当たるはずである。冬のときは鍵で、今回はパスワードか。
いるんだよな長門、このメッセージの先には、宇宙人の力を持つお前が。
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