朝倉涼子の軌跡 ─絶体絶命─
『絶対絶命』季節は四季に含まれない梅雨の真っ只中にある。肌にまとわりつく湿気に、生温い風が頬を撫でる。外を眺めれば雨がしとしとと降り続けている。エアコン等の空調設備が整っていない北高では、この春と夏の節目の季節独特の倦怠感を緩和する事は叶わない。そんな状況が一つの懸案事項と重なり、キョンを憂鬱たらしめていた。懸案事項というのは、本日の登校時、下駄箱の中に一通の手紙が入っていた事が
起因している。内容は実に短絡的な物で、味も色気もあった物では無かった。だが、それ故に書かれた文面が際立っていたのだが。(「あなたに話がある。放課後1年5組にて待つ」)何処かで似たような文面を見た憶えがあるのは記憶違いではないはずだ。そう、長門有希が書いた栞に似ていた。彼女が書いたのは、要点のみを繋いだ短絡的なものであったが、直筆だろう、明朝体の完成されていた字体が整然と書かれていた。栞のそれに似ていたのだ。(こいつは……、新しい宇宙人の陰謀か……、はたまた謎組織現る!とか、異世界から人型を装った悪魔が……、あほらしい……)己の途方のない飛躍しすぎた思考に辟易とし、自嘲気味に口端を歪めた。それに、文体や字が似ているからというだけでは何も解決される訳ではない。パソコンやワープロを使えば整然とした字を作るのなんて造作もない事だ。というか、やっぱり長門よ。ワープロでも使ったのか?キョンは溜め息を洩らしながら天井を仰いだ。天井の節目をなぞる様に視線を巡らせ、深い溜め息と共に、がくりと肩を落とした。(まあ、考えすぎ……だろう)どうにも、最近立て続きに在った非現実的な人物の登場やら、"閉鎖空間"という涼宮ハルヒの造り出した――現実世界をトレースした位相空間――に連れ込まれる。などという、一生の内にするかしないか、という程の事象が立て続けに身の周りで起きていた為か、それが当たり前に存在するモノ、という認識を持ってしまった為……か。上半身をよじり、後ろを振り返る。湿気のせいで蒸し暑い教室。窓際も例外ではない。汗が滲んだ額と頬に艶な髪を張り付かせ、むくれっ面で頬杖を付いて外を眺めている少女、涼宮ハルヒを横目で見た。(よく解らんが、こいつが全ての元凶?何だよな……)怪訝な視線を向けるキョンに気付き、ハルヒが「何よ」と憮然とした態度で構える。「何でもないさ」「そっ」最近、ハルヒのキョンに対する態度が素っ気ないものになっていた。それは周知の事実になるのに、そう時間はかからなかった。話題性に事欠かないハルヒではあるが、最近は神妙な面持ちで窓を眺めている事が多い。SOS団兼文芸部部室に於いても、以前のバイタリティを遺憾なく発揮する事も無く、無為な時間を過ごすに至っていた。どうしたものか。だが、詮索する様な真似をする気は無いし、ハルヒが素直に答えるとは思えない。(俺の出来る事なんて……)何もないんだな。漠然としてはいたが、しかし唐突に理解した現実。それのなんと虚しき事か。自分がこれから先どうしたいのか。此処(SOS団)に居ていいのか。只の人間が、彼女を取り巻く異様な環境に関わっていいものなのか。正直、分からなくなってしまっていた。もう一度、ハルヒを見る。ハルヒはキョンの顔を訝しげに見つめ、「あんた」と口にし、区切る様に口を噤む。そこで彼女の言葉を遮る様に授業の終りを告げるチャイムが鳴る。ハルヒは二の句を告げる事が出来なかった。キョンが逃げる様に、教室を抜け出していたからだ。そんな、キョンの背中を見送り、授業中に振り向いた彼の顔を思い出し、胸が痛い程締め付けられた。(何て……顔してんのよ……)ハルヒは、見ていた。あれは、何かに迷っている人間の顔だ。以前の自分がそうであった様に。(でも、あたしは、あたしは……)結局、あいつに何もしてやれないんだから。だから、何も望んではいけない。そう、無理矢理自分に言い聞かせた。*放課後、一応は文芸部室に顔を出したキョンは、しかし長居はしなかった。相も変わらず、馴染みの席に付き、読書に励む長門有希が、「今日は誰もいない」と本日休部を告げる一言を聞いたからだった。朝比奈みくるはHRが終わるも早々に、文芸部室に来るのが既に習慣となってはいたが、長門有希と二人きりという状況に耐え切れなくて帰ってしまった。古泉一樹に至っては、"バイト"と称する閉鎖空間の鎮圧に赴いている。「あいつが部活を休む何てな……、珍しい事もあるもんだ」涼宮ハルヒ、SOS団団長である彼女は、退屈で居ても立っても居られなくなったり、不機嫌になって帰る、という事は何度かあったが、部活動を完全に休むという事は無かった。部室棟と校舎を繋ぐ渡り廊下を抜ける際、いつの間にか雨が止み、雲の切れ間から光が差し始めたのに気付く。「雨……、止んだのか」しかし、雨は止んでも己の心に渦巻く鬱々とした気分は晴れる事は無かった。茜色の陽光が差し込む廊下を歩きながら、目的の場所へと向かう。「あれ、キョン君。どうしたのこんな所で?」「朝……倉……?」全く彼女の接近に気付かなかった。周りに注意を払えていない証拠だ。「どうしたの?酷く疲れた顔をしてるけど……」「いや……、何でもない。気にするな」朝倉涼子、彼女とは浅からぬ縁があるキョンは、数日前に二人で長門有希の私服を買いに行った事がある。その途中から、涼子は著しく様子がおかしくなった。以来、涼子は普段通りに接触はしてくるが、キョンは彼女に対して踏み込む事に億劫になり、一線を引いてしまっていた。「そう……。悩みあるなら、私で良ければいつでも聞くからね?」「あ、ああ……。すまない」「キョン君……、私ね……。私は……ね」涼子は、何かを伝え様としては止め、というのを繰り返す。その表情は切迫していた。その痛々しい姿を見据える事が出来ず、視線を外してしまう。「ごめん、朝倉。また今度な」そう言って、駆け出す。(また逃げ出すのか、俺は!)自分の情け無さに嫌気がさしてくる。しかし、今のキョンにはその選択しか無かった。「キョン君……私は……」人間じゃ無いんだ。涼子はそう、消え入る声で呟いた。やっと、真実を告げる勇気が出来たのに。どうして上手くやれないのだろう。唇を血が滲む程強く噛み締める。胸が締め付けられ、喉が詰まる様な異質な痛みに戸惑いながら、朝倉涼子は遠ざかるキョンの背中を多発する処理不可のエラー警報が忌々しく脳内で鳴り響く中、見えなくなるまで眺め続けた。*いざ、教室の前に立つと急に緊張が身体を萎縮させる。それが己のクラスであろうとも。喉は渇き張り付いているし、動悸も8ビートを刻んでいる。手紙の主がどんな人物か、やはり手紙だけでは推測が付かず、谷口辺りの悪戯である事を切に祈りながら引き戸に手をかけた。ガラッ、と戸を開き、人気の無い教室に足を踏み入れる。辺りに目線を泳がせるが、待ち人はおろかそこには誰も居なかった。「……何だ、結局は悪戯か」ほっと胸を撫で下ろす。 正直、緊張していた分得られた安堵感は以外にも大きかった。それと同時に拍子抜けしてしまったが。「……帰るか」踵を返し、教室を後にしようとする、が。「遅かったわね」唐突にそれは聴こえた。心臓が鷲掴みにされたかの様に縮小し、身体が跳ね上がる。身体中の鳥肌が総立ちし、怖気とはこの事を言うのか、と肌身で感じながら、恐る恐る振り返る。はたして、そこには北高のセーラー服を纏った栗色のツインテールの少女の後ろ姿が在った。言葉を失う。誰も居なかった空間に突如として人が現れたのだ。超常現象――少しは慣れ始めたのかも知れないが、それでも驚愕の一言に尽きる。「貴方がキョンさん?変わった綽名よね」少女は肩を揺らしながら、クスクスと薄気味悪い笑い声を上げる。「あなたに聞きたい事があるの」そう言って振り返った。茜色の陽光を背に少女の面立ちが露となる。気の強そうな双眸に整った目鼻立ちに、撫然とした態度。それは一応美の付いていい少女であった。毅然とした佇まいに思わず見惚れてしまいそうになり、慌ててかぶりを振った。「お、お前は……一体……」ようやっと、逃げ腰になりながらもそれだけを絞り出すと少女は、「私?私は橘。橘京子」微笑を口許に浮かべ、名を告げる。「俺は……」「自己紹介は不要よ。あなたの経歴、出生、全て調査済みです」「……何だって?」「しかし、良くまあ巧妙に存在を割り込ませたものですね。脱帽するわ」嘆息を洩らしながら、教台へとゆっくりとした足取りで歩を進めながら、橘京子は饒舌に喋り続ける。「何を……、言っている」「あなた、何処まで知ってるんですか?否、何処から"覚えて"るんです?」「言っている意味が解らないんだが」「へえ、シラを切るつもりですか?」何を言っているんだこの女は?まるで、自分が全てを知っている様に言う。それに、存在を割り込ませる?訳が解らない。少女が登場した時点で、超常現象に対する許容範囲は臨界点に突入している。既に思考回路はショート寸前。現実と幻想の狭間にある事実を直視する事は出来る訳が無い。キョンは眉間に皺を寄せ、両の拳を握り絞め、萎縮した身体を奮い起たせ口火を切る。「何が言いたいのか解らない。だが、俺は何も知らないのは事実だ!」ふうん。と橘京子は冷笑を張り付かせ、教壇の前に立ち、丈の短いスカートを翻し振り返る。「あなたが忘れているなら、呼び醒ませてあげますよ。その身体に刻み困れた殺戮の鼓動を。血塗られた運命を!」嗜虐的な笑みを浮かべ、口汚く吐かれた言葉。殺戮?血塗られた運命?ナンダソレハ。そう呟いた、刹那。橘恭子の周囲の空間が凝縮される様に歪み、ドンッ!と腹の底に響く破裂音と共に、不可視の何かが机やら椅子を薙ぎ倒しながら眼前に迫る。それが圧縮し解放された空気の壁だと理解した時には、身体中を強かに打ちつけ吹き飛ばされる。「かはッ!」背中を壁に強かに打ち、激しい痛みと困難になった呼吸のせいか、涙が滲み出てくる。(何だよ……、何々だよこれは!)心の中で叫び、しかし直ぐに状況を理解する。眼前に立つのは一人の少女のはず。だが、今目の前に居るのは何だ?「あれ、もう終わりですか?張り合いないなぁ。もう少し楽しませて下さいよ」嗜虐的な微笑を浮かべ、首の骨を鳴らし、ゆっくりと、一歩、一歩と近付いて来る。殺られる。己の本能が激しく警告音を、心拍数という形で表している。逃げなくては。朦朧とする意識の中、震えておぼつかない足取りで教室の出入口に向かう、が。引き戸を幾ら引いてもビクともしない。鍵は掛っていないはず。なら何故開かない!「無駄ですよ」「な……に……?」「気付いていないんですか?私が此処を、異層空間にしたのが。ああ、あなたが理解出来る様に言えば、ここは閉鎖空間です」「……何だって?」閉鎖空間――涼宮ハルヒが溜った鬱憤を晴らす為に造った空間ではなかったのか?辺りに目線を巡らせる。確かに、教室内は茜色ではなく、琥珀色の不思議な空間だった。壁や天井一面に発行した琥珀色の紋様が浮かび上がっている。「此処は私達の神様の心の映し世。あなたは何処にも逃げられない。でも、安心して?殺さない様にするから。でも、万が一死んだらごめんなさいね」疑念と困惑が満ちる。恐る恐る、振り返ると少しは離れた位置で、情けない男の転末を嘲笑う様に「ウフフ……」と不気味な笑い声を洩らし、その手に持つ白銀の光を放つ細剣――白銀の光の粒子が圧縮され、刺突剣の形状をしている物――を掲げ、右半身を前に、右足をすり足で前に踏み出し、真っ直ぐにキョンの方向へと切っ先を向ける。その流美な動作と同時に、踏み出した勢いで足元のタイルを穿ち、寸分の狂い無く突き出された細剣が疾風の如く迫る。これは、死んだか?そう、諦めかけたその時、心臓が強く脈を打った。(……な、……なんだ?)橘京子の動きがスローモーションに見えた。そこで人が窮地に陥った時、脳のリミッターが解除され、抑制されていた五感や身体能力が完全に解放されるという。それを瞬間的に理解し、同時に唐突に己の死を理解する。だが、こんな所で訳も分からずに死ぬ訳にはいかない。気付いたら身体が勝手に動き、身体を右に流れる様に深く沈ませる、が、猛然と突き出された細剣の切っ先が肩口の肉を抉り、血渋きと共に痛烈な痛みが傷から身体中に走る。「ぐっ!」衝撃を殺し切れず、机や椅子を薙ぎ倒しながら床の上を猛然と転がる。「う……ぐ……」後頭部を強かに打ち付けたのか、視界が霞み揺れる。しかし、このまま床に伏せていては、ただ死を待つだけではないか。それでいいのか?キョンは己に言い聞かせる。「いい訳ないだろう……ッ!」何も出来ないなら、出来ないなりに抗って見せるとも。「へえ、今の突きを躱せる何てね。大した反射神経と動体視力ね。でも、次は外さない」橘京子は再び細剣を構え、くるりと手首を回し、殺気の篭った双眸を見開き、腰を深く落とした。それだけで、床に伏せた身体は地に根を張った様にビクともせず、完全に萎縮してしまっていた。次は躱せない。脳裏を絶望が霞める。「こんなに呆気ないんじゃ、宛ては外れたって事ですかね?まあ、いいです。じゃあ、死んで下さい」再び、踏み出した足がタイルを穿ち、驚異的な速度で迫り来る細剣を、視界で捉える事は出来たがそれまでの事。終わったな。呆気なかった己の人生を振り返ろうとしたが、明瞭な過去の記憶は浮かび上がらず、ただ一人の少女の笑顔が浮かんだ。朝倉涼子。静かに瞼を閉じようとした、刹那。蒼黒の髪を翻し、一人の少女が二人の間に飛込んだ。はたして、少女は見事細剣の刀身を片手で受け止めたが、殺され無かった勢いが少女の掌の肉を削り、心の臓を貫ぬかんとする寸前で、ピタリと細剣は止まった。「朝……倉……?」「ごめんね、キョン君。遅くなっちゃって……。でも、もう大丈夫だから」その姿は、まるで天使が舞い降りたかの様にキョンの瞳に映った。──朝倉涼子の軌跡 絶体絶命 END──
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