未来の過去の話 最終話
お題「あ し た」 どんなに暗い夜でも、いずれ必ず朝が来る。 だから辛い事があっても、決して希望を捨ててはいけないのだと父さんは言っていた。 どんなに暗い夜でも、いずれ必ず朝が来るのなら……私には希望は残されていない。 私は、すでに過ぎてしまった朝を待っているのだから。 未来の過去の話 最終話 もしもこの校舎のコンセプトが「明治浪漫」でなかったとしたら、それだけで苦情を入れられそうであり、明治村から移築してきたと言われても抵抗無く受け入れらてしまいそうな時代錯誤な建物の中を私は歩いていた。 建物にあわせて制服が作られたのか、それともその逆なのか。 ともかくこの学園の制服として指定され、機能性を捨てて格式を選んだとしか思えないこのメイド服同然の制服を着る事にいつの間にか抵抗が無くなっている自分が居る。 古泉に連れられてこの学園に入園して……もう10年になるのか――なるほど、慣れもするわけだな。 今は授業時間なので、薄暗い廊下には誰の姿も無い。 黙々と歩いていた私が廊下の窓の横を通り過ぎた時、自分の足音に混じって蝉が奏でる求愛の声が聞こえてきた。 産まれてからずっと地中で過ごし、そして一生の終わりに次の世代を残そうと叫ぶ――騒音。 いつの間にか窓際で立ち止まっていた足を再び動かす。 程なくして廊下の端にある教員室の前に辿り着いた私は、扉の横にある小さな鏡に目をやった。 身だしなみを確認する為に取り付けられた小さな鏡の中には、年齢を重ねるにつれて母さんに似ていく自分の顔が写っている。 そういえば……髪を後ろでまとめてから随分経ったな。 顔を横に向けてみると、後頭部にまとめられた髪はかなりの量になっていた。 もしかしたら、もう目標だった長さに届いているかもしれない。 そう思った途端、不機嫌そうに歪んだ自分の顔を暫く見つめた後、私は木製の厚い扉をノックした。 ――こじんまりとした個室の中に居る優しげな青年、幼少の頃からの知り合いでもある古泉は、部屋の入口に立つ私の姿を見て目を細め、「お元気そうですね、貴女の噂は毎日の様に聞いていますよ。さ、どうぞ座ってください」 机の横にあった椅子を取り出し、私に座るように促した。「失礼します」 軽く一礼し、まず校則通りに入口の扉を廊下に大きく開けて固定してから私は部屋の中に入る。 ……この行為にどれ程の意味があるのか誰か教えて欲しい。 木製の固い椅子に座った私に困った笑みを浮かべながら、古泉は聞いてきた。「今日、僕が貴女を呼んだ理由は分かっていますか?」 わかりません。 そう言って首を振る私を見て、「……つい先程、昨日行われた学力テストの採点が行われました」 古泉の声が残念そうだった事が寂しかった。「その事ですか」 椅子に座りなおし、真剣な眼差しで私を見て――古泉は責める様な声で話し出す。「園生さん。何故貴女は名前だけを書き、白紙のままテストを提出したんですか? 常に学年上位で頑張ってきた貴女を知っているだけに、皆さん困惑しています」 ――いけない。「お話はそれだけですか?」 話を無視しして椅子から立ち上がった私は、そのまま古泉から視線を外した。 次は頑張ります、ご心配おかけしました。失礼します。 そう言い訳を残して会釈をし、私は逃げるような足取りで古泉の部屋を後にした。 「お帰りなさい、園」 ただいま。 いつも愛想のいいルームメイトへの挨拶も適当に、私は自分のベットに倒れこんだ。 女子寮の中は対面を繕う必要が無くていい……だが、このまま寝ていたら服が皺になるな……。 そう頭では分かっていたのだが、体はベットに沈んだまま動こうとしない。「古泉先生の呼び出しって何だったの?」 詮索するのではなく、ただ心配するような彼女の声。 本当はそっとしておいて欲しかったのだけれど、恵まれたルームメイトとの関係を壊したくなかった事もあり、私は重い口を開いた。 昨日のテストの事を聞かれた。「テスト?」 そう、テスト。「もしかして……また学年一位になったとかかしら?」 ない。 というよりも、それはありえてはいけない事。 ふてくされる私の背後に、彼女が座ってくる気配がする。 ベットが彼女の自重で小さく軋む音を立てる中、「あ、でも今回に限って言えばそれは無いはずよね。園は白紙で答案を提出したんだから」 彼女はあっさりとそう言い切った。「何でその事を?」 思わず体を起こした私が見たのは――物静かな同級生、喜緑江美里が紅茶の入ったティーポットを片手に微笑んでいる姿だった。 同じ教室でテストを受けた以上、彼女が私の答案の内容を把握している事はそれ程疑問ではなかった。真っ白な答案用紙はそれだけで目立つ物なのだから。 むしろ気になったなのは、「白紙で答案用紙を出した理由を、何故その場で聞かなかったのって? ……そうね、園が白紙で出した理由を教えてくれたら、私も答えるわ」 なるほど、上手い逃げ方だ。 江美里の淹れてくれた紅茶を飲み干した後、ようやく自分が落ち着いてきた事を感じつつ私は一度席を立ってメイド服を脱ぎ始めた。 彼女はいつも優しい。 常に私を気遣い、そしてそっと見守っていてくれる。 まるで親子の様なこの関係は、学園の中等部で初めて彼女と出会ったその日から今でも続いていた。 ――彼女、喜緑江美里は私の「力」も何もかもを知った上で、私と付き合ってくれている。 ルームメイトになったその日、自分の秘密を打ち明けた私を彼女は自然に受け入れてくれた。 そんな江美里の事を、私は心から信頼している。「お菓子を焼いてみたんだけど、食べるかしら?」 食べる。 江美里の焼いたお菓子はとても美味しく、この女子寮の中でも好評だ。 後ろを向いたまま即答した私の背後で、江美里が声を殺して笑っている気配がする。 声を出して笑えばいいのに。 ようやく楽な格好になった私を待ち構えていた紅茶とお菓子によって、潤滑剤を吹きかけられたみたいに私の口は動き出していた。 今から話す事は絶対に秘密にして欲しい。「ええ、いいわ。誓います」 豊かな自分の胸に手を当てて、彼女は目を閉じて肯く。「ありがとう。……前にも話したけれど、私には願望を実現する力がある。その力は願望によって発動し、何者にも止める事はできない」 ――何も知らない人が聞けば妄想にしか聞こえない私の発言に、彼女は静かに肯いている。 彼女はもしかして機関の人間なのだろうか? ……そう疑った事もあったが、今となっては彼女の素性などどうでもよくなっていた。「証明する事はできないけれど、私はこれまでテストや試験でこの力を使った事はない。それは私の自己満足でしかないが、ある意味ルールでもあった。しかし、昨日のテストで私はこの力を使ってしまった」「力を使ったのに、どうしてテストは白紙だったの?」「答案用紙の上に回答が浮かんできたのを見て、私は記入するのを止めたから」「どうして?」「それが正しくない行為だと思うから」「……なるほどね。ねえ、どうして今回は力を使ってしまったの? たまたま? ……それとも、他に理由があるのかしら」 彼女の何気ない言葉に、驚くほど動揺してしまう自分が居る。 何故なら彼女の言った通り……今回のテストには特別な理由があったのだ。「……今回のテストで3位以内に入れた生徒は、学年に関係なく特進クラスへ編入される」「そういえば、前にそんな連絡がきてたわね」 特進クラスの講師は古泉。だから私は、このテストで3位以内に入りたかった。 すでに私の思い人が誰なのかを知っている彼女は、それで全てがわかったと言いたげに肯いた。 古泉の傍に居たくてこれまで必死に勉強してきたけれど……これでまた、振り出しか。 数ヶ月の努力が水の泡になったというのに、意外なほど気落ちしていない自分が居る。その理由は目の前に居てくれる彼女のおかげなのだと理解しつつも、私は交換条件の請求に取り掛かる事にした。 さあ、次は江美里の番。「私?」 そう。どうして私が白紙で提出しているのを見たのに、何も言わなかったのか。 普段の彼女なら、テストが終わってすぐに問い詰めてきそうな事なのに。 真面目な顔で尋ねる私を見て、「だって聞けないじゃない。私も白紙で答案を提出したんだもの」 彼女は笑いながらそう返答した。 学年一位を目指し、結果としてそれを逃した私に与えられたのは。「……これも貴女の力のせい?」 私の隣に立ち、意味深な視線を送ってくる江美里へ返す言葉も無い。 廊下の掲示板に張り出された学年テストの成績表の端、そこには赤い文字で私と彼女の名前があり、そしてその横に――そうか、白紙で出すとこうなるのか。『以下の2名については補習を実施する。日程 7月7日 場所 自習室 担当講師 古泉一樹』 「――それまで。2人とも、筆記具を片付けてください」 腕時計を見ていた古泉の言葉に合わせて、机の上に鉛筆が置かれる音が2つ響く。「お疲れ様でした。すぐに採点を済ませますので、このままこの教室で休憩していてください」 机の上から今度はちゃんと記入してある答案用紙を回収していく古泉をそっと見つめながら、私はほっと息をついた。 よかった……力は発動しなかった。 安堵する私の視界の端で、江美里がこちらを見ている。 大丈夫だった。 安心させようと口を動かした私を見て、彼女は胸に手を当てて大げさに息をついて見せた。 ここで待てと言われても……自習室の中に、眺めるだけで退屈せずに済む様な物がある訳が無い。だからと言って、教員の席で採点を続ける古泉の顔を見ているのも気恥ずかしいな。 とりあえず立ち上がった私は、特に目的も無く教室の中を歩き――窓際の席の椅子を1つ引いてそこに座った。 赤い夕陽が、ちょうど山の影に隠れてしまった所だったらしい。 窓の外は時を追うごとに薄暗さを増し、刻々とその姿を変えて夜の帳が降りていく。 ああ、そうか……今日は七夕だったな。 ふと見上げた空には、夏の夜空を照らす天の川が輝いていた。「……綺麗ね」 いつのまにか隣に来ていた江美里に肯きながらも、私はじっと天の川を見ている。 ただ、そこに綺麗な光が見えるからではなく……明確な意思を持って。「はい、どうぞ」 彼女の声と共に、小さな紙片が私の手元に差し出された。 どうやら、この紙片はノートの端を物差しで切って作った物のようだが。 これは? そう尋ねる私に、彼女は細長い紙片の上に何かを書き始める。 ……愛……と……平和?「短冊よ。今日は七夕でしょう?」 確かに暦ではそうだけれど。「ここには、短冊を吊るす笹が無い」 殺風景な教室を手で指し示す私に、「今日一日で大量の願いを聞いてる織姫と彦星だもの。大丈夫、笹まで気にする余裕はないわ」 恋人との再会に忙しいのが分かってるなら、そもそも願い事を書かなければいいと思う。 そんな私の反対意見に耳を貸すつもりはないのか、江美里は私の手に短冊――という名目のレポート用紙片――を押し付けてきた。 ……まったく。 何故かにこにこと微笑む彼女の笑顔に抵抗しきれずに、私は鞄の中から取り出したシャープペンシルをノックした。 願い事……か。 紙片――訂正、短冊を前にして思い浮かんだ願いは…………実は、何も思い浮かば無かった。 自分でも驚いた、まさか1つも思い浮かばないとは思っていなかったから。 暫く考え続けてみたけれど、出てくるのは願いではなく溜息だけ。 短冊を前に憂鬱そうに顔を振る私を見て、江美里は心配そうな顔をしていた。 深く考えるのはよそう、こんな事は適当に……そう、江美里と同じ内容にしておけば無難だ。 溜息混じりにシャープペンシルを持ち直した時、「そうしていると……本当にお母さんにそっくりですね」 背後から古泉の懐かしそうで優しい声が聞こえてきた。 ちょうど採点が終わった所だったのだろう。赤ペンを机に置いた古泉は軽くのびをしながら「僕がまだ高校生だった頃、園生さんのお母さんもそうやって机に向かって短冊に願い事を書いていたんですよ」 その時の事を思い出すように、私の姿を見ながら目を細めている。 古泉の話に、江美里が興味深そうに肯きながら「園のお母さんは、どんな願い事を書いたんですか?」「確か……そう『世界があたしを中心に回るようにせよ』と『地球の自転を逆回転にして欲しい』と書いていましたね」「ふふ……それって冗談ですよね」「いえ、本当です。書いていた彼女自身も本気だったと思いますよ」 母さんなら……確かに本気で書きそうな内容だ。「先生は何て書いたんですか?」「僕は『世界平和』と『家内安全』と書きました」「あの……そういえば何故、願い事が2つあるんですか?」 江美里がそう尋ねると、古泉は嬉しそうに笑った。「短冊に書く織姫と彦星への願い事がベガとアルタイルへ届くまでに16年ないし25年の歳月が必要。園生さんのお母さんはそう考えたんです。ですから願い事は2つ、16年後と25年後にそれぞれ叶えて欲しい内容を書きました」 楽しそうに話す古泉を無視して、私は短冊に『母さんの願いはキャンセルでお願いします』と書き記した。 よし、これでいい。 書き終えた短冊を江美里に渡すと、引き換えに白紙の短冊がもう一枚差し出された。「はい。もう1つ」 邪気の欠片も無い笑顔を向ける友人は、否定的な眼差しを向ける私の意図を汲み取るつもりはないようだ。私の手元に再び短冊を置き、さっそく自分の2つ目の願いを書き始めている。 再び目の前に現れた白紙の短冊へ、私は苦笑いを浮かべていた。「願い事を書きながらで結構ですので聞いて下さい。貴方達の補習に使ったテストは別の学校で使われた学力テストの物です。結果はお2人とも満点……そろそろ教えてくれませんか? どうして白紙のまま答案用紙を出したのか」 古泉の声は、私達を責める物ではなく単純な疑問に聞こえた。 ――素直に言ってしまってもいいんだろうか? お前の事が好きで、勝手に力が発動してしまったからだ、と。 短冊から顔を上げた私の視線の先で、古泉は静かにこちらを見守っている。 穏やかなその微笑みは確かに私へと向けられているのに――胸が痛い。 表情に出さないまま、締め付けるような胸の痛みに耐えていた私の横で、江美里が口を開いた。「古泉先生。今回のテストで上位3位に入った生徒は特進クラスへ編入されるんですよね?」「はい」「それだと困るんです」「困る?」「ええ」 目を閉じて肯いた江美里は私を見て、「先生? 上位3位に入るには勉強するしかないと思います。では、園生さんと一緒のクラスで居続ける為にはどうすればいいと思いますか?」 突然そんな事を言い始めた。 何の事かわからない私を見て、大丈夫とでも言いたげに手を振り江美里は話を続ける。「私も園生さんも、お互い本気で頑張れば3位以内に入れたのかもしれません。でも、2人で頑張って特進クラスへ行くよりも、確実に今のまま一緒のクラスに居られる方法がありますよね?」「なるほど、3人の中の2人になるよりも確実な方法。だからあえて白紙のままにした」「その通りです」 優等生を形にした様な会釈をしながら、江美里はそっと口を動かし『私はそうです』と無言で付け加えていた。「わかりました。……お2人が何か学園に不満があるのではないか? と、心配していたんですが、どうやら杞憂だったようですね」 学園には何の不満もない。 心を許せる友が居て、好きな人も居る。繰り返される毎日を私は本当に楽しいと思っている。 ただ……。ただ、私が我侭なだけなんだ。 自然と手が動き出し、16年後でも25年後でも叶わない願い事を私は短冊に書いていった。 一年に一度だけ会える恋人達に頼むには、あまりに自分勝手な願い事を。「あの、その短冊には何が描いてあるんですか?」 古泉が私の短冊を見て不思議そうな顔をするのも無理はない。 私の短冊に書かれた文字は日本語ではなく……そもそも文字と呼ぶよりも幾何学模様と呼んだ方がいい絵でしかなかったのだから。 不思議そうに尋ねる古泉に無言で短冊を押し付け、私は一人教室から出て行った。 暗い廊下を走るような勢いで歩く私の足音が響く。 窓から差す僅かな夜明かりを頼りに進む私は……私は何故か泣いていた。 私はどうしてしまったんだろう? 何故、こんなにも悲しいのだろう? 古泉は私に優しくしてくれる。 初めてあった頃よりもずっと親しくもなった。 一緒に出かける事もあるし、今年の夏は海に行こうと誘われてもいる。 ……なのに、何故私は苦しい……苦しいよ……。 暗い校舎を抜け出し、グランドに辿り着いた私が見たのは大空を埋める様な満点の星空だった。 教室の中に居た時は、照明で遮られ見ることが出来なかった星達を加え、眩しい程に輝く星の海を見て――私は……私は! 大きく目を開けた私の視界が、突然大きく揺れた。 その瞬間、自分の体を通して不可視の波が世界に解き放たれるのが解る。 絶対的な力の波は瞬く間にこの世界中に広がっていき、心の中にある衝動を次々と具現化させていく。疎らに散らばる青白い光が、自分の破壊欲を満たそうと人の形へと変わっていく。産声を上げたモノクロの世界に――「消えろっ!!!」 私の声が響くと同時。 ほぼ十年ぶりに発生した閉鎖空間は、僅か数秒で消滅した。 私が寮の部屋に戻った時、そこに江美里の姿はなかった。 ……少し、話したかったな。 明日の授業の事でも、お菓子作りの話でも……返答に困るが七夕の願いの話でもいい。 他愛の無い話を彼女としたかった。 無人になっている彼女のベットをしばらくの間見つめた後、私は手早く着替えを済ませ自分のベットへと潜り込んだ。 体を包む柔らかな感触を感じ、そのまま思考を閉じる。 無音の時間が流れるにつれて緩慢に緩んでいく意識の中、私はただ泣いていた。 ――子供の頃の様に、ただ明日を期待していられればよかった。 きょうはとってもたのしかった。 あしたはもっとたのしいはず。 はやく古泉に会いたい。 幼かった頃、私にとってそれは全てだった―― 古泉が自分の傍に居てくれる事も、母さんから受け継いだこの力も、世界の命運も関係ない。 ただ……明日が楽しみでしかたなかった。 幼い自分を見る、今よりも少し若く見える古泉の微笑みは優しい――そう、優しかったんだ。 ただ、盲目的に好きでいられればよかった。 現実なんて知りたくはなかった。 歳を重ねるにつれて見えてくる事実、古泉の笑顔の先にある物。 耐え切れない現実を前に夢の中で目を閉じた時――部屋の扉を開ける音が聞こえてきた。 誰かがそっと部屋に入り、扉が閉められる。いつまで経っても電気がつかない事を不審に思った私は、ベットから体を起こしその人影に呼びかけてみた。 江美里? 人影は何も答えないまま、私のベットへと歩み寄ってくる。 やがて、その姿は窓から差す夜空の光で照らし出され……そこに居たのは、ぎこちない笑顔を浮かべた古泉だった。「……驚かせてしまってすみません。江美里さんには事情を話し、しばらく外に出ていてくれるように頼んであります」 驚いたな……まさかこんな時間に、古泉が男子禁制の女子寮に来るなんて。「何かあったのか?」 そう尋ねる私を無視して、古泉はそのまま歩み寄ってくる。 いつもと様子が違う事に不安を覚える私の元までやってきた古泉は、ゆっくりと私が座っているベットへと腰を下ろした。 ……薄暗い部屋の中、吐息が感じられそうな程近くに古泉の顔がある。 自分を見つめる切なげな視線、私の手に添えられた古泉の大きな手。 これは夢……それとも、私の力が暴走している? 現状を把握できないでいた私の顔に古泉の顔が近づき――まるで幼児をあやす様な動きで、古泉の唇が私の頬にそっと触れた。 一度離れた古泉の顔が、再び近づいてくる。 古泉の唇が自分の唇に触れた時、眩暈のような感情の波と共に感じたのは――古泉の悲しみだった。「そうゆう事か」「……園生さん?」 思わず呟いていた私に、古泉は戸惑っている。 この現実が悲しいのは、いったいどちらなのだろう? 私か? それとも古泉なのか?「考えてみればわかる事だ。お前は私の保護者なんだからな」 小さく笑いながら――涙を流す私を、ただ古泉は見守っている。 短時間だったとはいえ、久しぶりに閉鎖空間が発生したんだ。この事態に機関が何も行動しない訳が無い。私の様子を伺い、できればなだめてくるよう命令があった。違うか? 私の言葉に古泉は……肯いてしまった。 古泉。お前がどんな命令を受けたのか知らないが、お前はお前の仕事をしているだけだ。何も気にしなくていい。お前が悲しむ必要なんてない。 そう言って首を横に振る私の肩に、古泉の手が伸びる。 両手で肩をそっと押さえ、、「園生さん。僕が機関から受けた指示は……貴女を抱く事です」 私の目を見て古泉はそう言った。 なるほど。機関の能力者にかかれば、私にプライバシーなどあるわけが無いか……。まさか、そこまで知られているとはショックだったが。 確かに、古泉に抱かれれば私は強く安定するのだろう。 そう考えれば、私に機関の考えを責める権利は無い。 機関はただ、世界の事を第一に考えているだけなんだ。 私が、自分の事を第一に考えているように。「……そうか」 切なげな視線を向ける古泉に、私が言えたのはそれだけだった。 ――古泉一樹。 機関の為なら自分を偽る事もできるが、私には嘘をつけない不器用な男。 古泉は今、自分の中で葛藤しているのだろうな……ここで私を抱く事は私を傷つけるだけではないのか? と。 何故なら、古泉が愛しているのは……私ではなく母さんなんだから。 優しすぎるこの男は父さんを裏切る事もできず、かといって母さんを忘れてしまえる程弱くもない。 ……そうだな。今の私が古泉にできるのは……これだけだ。 私の肩に手を置いたままじっと動かない古泉を前に、私は自分の首の後ろに手を回し、そっと髪留めを解いた。 拘束が無くなった私の髪は流れるように広がり、そして1つの形になって止まる。 古泉の前でこの姿を見せるのは何年振りだろう? ――私が大好きで……大嫌いなこの姿を。「……」 古泉の目が大きく開かれ、止まる。 両手を添えて、目立たない様に左右に避けていた長い睫毛を本来の方向へ戻し、瞼を大きくあけて古泉を見つめる。普段は力ない口元を固く引き結び、その端を小さく上げた。 長い髪の感触を背中に感じ、すっと背筋が伸びていく。 古泉が無言になるのも無理は無いのだろう。 かつて、涼宮ハルヒと呼ばれていた少女に生き写しな女が目の前に居るのだから。 口を開けたまま固まる古泉の体をわざと乱暴に抱きしめ、目を閉じてその胸の感触を感じた。 ……まったく、どうしようもないな。 認めるしかない。 今、古泉に浮かんでいる感情は戸惑いと……歓喜だ。 止まっていた涙がまた溢れるのを感じながら……私は名残惜しげに古泉の体を引き離した。「……驚いたか?」「は、はい」 これでいい。お前は誰も裏切っていない。 私も……母さんも。 視界がぼやけて、目の前に居る古泉がどんな顔をしているのか……私にはわからなかった。「古泉、帰って任務を完了したと報告しろ」 私はずっと掴んでいた古泉の腕を離し、目を伏せて俯いた。 それからしばらくして、古泉は静かに部屋を出て行った。 去り際に一言、「すみませんでした」 そう謝る古泉へ返す言葉も無い。 これまで見ないようにしていた現実が、自分の前に形になっていく。 静かな痛みが体を包み、息が苦しくなる。 丁寧に切り取って、ずっとずっと気づかない振りをしてきたのに。「園」 優しい声が響き、私の頬を流れ続ける涙を冷たい手がそっと拭いてくれた。「江美里」 いつの間にか私の傍に居た江美里を見て、張り詰めていた糸が切れてしまう。 再び流れ出した涙と言葉は、自分ではもう止める事はできそうになかった。「……私はどうして私なんだろう?」 静かに私を抱いてくれている江美里の手がなければ、まるで自分がどこかに落ちてしまいそうな感覚に私は脅えていた。「私は……私は古泉が好きだ。古泉が愛しているのが母さんだと知っていても、この気持ちに嘘をつけない。……でも、私が歳を重ねる事に母さんに似ていき、そんな私を見る古泉の目が優しい事に耐えられないんだ……」 その事に気づいてから、私は髪をまとめ、メイクを施し、声を変えてこれまで過ごしてきた。 それが何の解決にもならない事を知った上で。 江美里の体をそっと手で押し返し、彼女の顔から視線を外して……私は、打ち明けた。「私は、ここにいる。ここにいるんだ! 母さんじゃない、私がここに居るのに……どうして古泉は私を見てくれない? 何故、私を通して母さんを見るんだ! 私は……私は……。私は、自分のこの気持ちをどうすればいい? 私が生まれてくる前から古泉は母さんを愛していた、そして今もそれは変わらない。母さんの代わりでもいいと思った事もある……でも、でもそれは苦しくて……」 締め付ける胸の痛みも、流れる涙も私を救ってはくれない。 この夜には、どれだけ時間が過ぎても朝は来ない。 私には願望を実現する能力がある。 無意味で悲しい……古泉と私の間にある、ただ1つの繋がり。 私を好きになって欲しい、でもそれは絶対に願えない事。 願望を実現する力がある私には、人の心を求める事は許されないんだ……。 途方も無い孤独が広がる中、「園、泣かないで? 私は貴女の傍にずっと居るから」 優しい江美里の言葉と、そっと抱きしめてくれている彼女の腕の感触だけが、私がここに居ていいと言ってくれている気がした。 ――それは、夜更けの事だった。 泣きつかれた私は江美里と一緒にベットで眠っていたのに、不思議な感覚を感じた私は何故か目を覚ましてしまった。 ……誰かに、呼ばれた気がしたんだが。 隣では静かに江美里が寝息を立てていて、部屋の中には物音1つしない。 何故、自分が目を覚ましてしまったのかわからないまま、私はそっとベットから抜け出した。 ……私は何をするつもりなんだろう。 冷たい床の上を裸足のまま目的も無く歩いていると、机の上に置いていた携帯電話が目に入った。 しばらく物言わぬ携帯電話を見つめていたが、誰からも電話がかかってくるわけでもない。 何となく手に取ってみた私は……そのまま自然に電話を掛けていた。 こんな深夜に電話をかけた相手とは――その選択に深い意味はなかったのだけれど。「もしもし。園、どうした?」 ――心配性で不器用。「おい、園?」 ――私の扱い方を知らない、優しい男。「大丈夫か? なあ、返事をしてくれって」 聞いています。 そう答える自分の声に、元気が戻っていた事に驚いた。 ……まったく意味がわからない。 この男の声を聞くと、私は何故こんなに落ち着くのだろうな? 「なあ……本当は何かあったんだろ?」 いえ、別に。「何も無かったら正月にも電話してこないのにか?」 母さんにはしています。 割と頻繁に。「……それはそれでショックだけどな……。まあ久しぶりに声が聞けてよかったよ」 ――ええ、私もです。「ん? 声が急に小さくなったんだが」 電波のせいだと思います。「そっか、最近はどうだ? 元気にしてるか?」 普通です。「……園。そろそろ家族に敬語ってなんとか」 なりません。「……そうかい。まったく、お前の頑固な所はハルヒに似たのかね?」 それは私にとって辛い言葉のはずなのに、父さんに言われると不思議と気にならなかった。 母さんは昔は頑固だったんですか?「そうさ。初めて会った時から今でもずっとな……多分、俺と会う前からそうだったんだろう。自分の考えが絶対って顔で、周りの意見なんか完全無視だ」 ……私には、母さんがそれ程頑固な人だとは思えませんが。「そうか? ……ん~まあ、確かに少しは柔らかくなってきたのかもしれないかな……。俺が言うのも何だが、あれから少し変わった気がする」 あれ、ですか?「ああ。ハルヒは高校に入学した当初、自分が気に入る部活が無いって嘆いてたんだよ。そもそもだ、あいつが気に入る部活なんてのはこの世のどこにも存在しないんだ。だから諦めろって意味で俺は凡人の人生を送る上での現実ってのを教えようとしたんだが……あいつはそうは思わなかったんだよ」 電話の向こうから溜息が聞こえる。「ハルヒはこう思ったんだ、無いんだったら自分で作ればいい……ってな」 その言葉を聞いた時、私の頭の中で何かが騒ぎはじめた。 無いのなら……作ればいい……? そうか! 何故気づかなかったんだ? 私にはあるじゃないか、自分で作る為の力が! 言いようの無い感覚を前に、私はまだ何か聞こえていた携帯電話を切って机に放り投げる。 江美里! 深夜だろうが構わない、私はまだ眠ったままのルームメイトの名前を呼んでクローゼットの扉を開いた。 私服は…………今は時間が惜しい。 ずらりと並んだメイド服を掴み、一着を残して学校指定の鞄の中へと押し込む。 残しておいたメイド服に着替え手早く身支度を終えた私が振り向いた時、目を覚ました江美里は驚いた様子もなく、私を見て微笑んでいた。 江美里にだけは、自分が居なくなる事を伝えようと思っていたのだけれど……。 思わず私が立ち尽くしていると、彼女は静かに微笑んだまま私の元へと歩いてきた。 彼女は呆然とする私の手を取り、人差し指で手の甲にそっと触れる。 ……これは……え、座標軸? 江美里の指が触れた瞬間、突然脳内に浮かんできた情報に――その情報の意味がわかる事に戸惑っていると、「今、園が感じている情報は貴女が望む時間と場所へと導いてくれます。今はまだ、この言葉の意味はわからないでしょうけど……ごめんね、ここで全てを話さない事も規定事項なの」 規定事項? 疑問を浮かべる私にただ江美里は微笑み、「今はただ、貴女のしたいようにしていい。それも規定事項の一つなんだから。でも……これだけは忘れないでね? 私は、貴女の傍にずっと居る。どこに行っても、どんな事になってもずっと」 質問には何も答えないままそっと私の体を抱きしめ、江美里はそれ以上何も言わなくていいと首を横に振った。「私、園にずっと秘密にしてた事があるの。でも、もうすぐそれは秘密じゃなくなるから」 彼女の言葉の意味は私には何一つわからなかったけれど……それでも、信じる事はできる。 小さく震える彼女の体を、私はしっかりと抱きしめた。「……絶対、戻ってくるから」 たとえどんな結果になっても、絶対に。「うん。待ってる」 彼女は涙声で答え、私の耳元に口を寄せ――囁くような声で私の名前を呼んだ。 彼女が初めて私に会った時に聞いた、私の名前を。 ――気がついた時、私は何故か見覚えの無い学校のグランドに一人で立っていた。 今は真夜中なのか真っ暗で、周りには人影もなく声も聞こえない。 どうやら季節は夏らしい、真夜中にしては暖かく遠くから蝉の声も聞こえている。 殆ど何も見えない真っ暗な視界の中、私の目に見えたのは空には満点の星空だった。その光は、グランドに立つ私を明るく照らしている。 そして暗闇に慣れてきた頃、照らされているのは私だけではない事に気づいた。 目を凝らして見ると、目の前に広がるグランドには石灰で書かれた白い線が広がっていて、それは何か巨大な絵になっているらしい。 これは何だろう? ここからでは何が描いてあるのかわからないが……。 グランドを見回していた私に、「私は、ここにいる。この文字にはそんなメッセージが篭められています」 突然聞こえてきた私の心を読んだ様な声。 声のした方向へ振り向いた私が見たのは――馬鹿な……彼女がここに居るはずが「ようこそ、この時代へ。私は、この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。名前を、喜緑江美里といいます」 丁寧に頭を下げ、江美里はまるで初対面の相手を見ているような目で私を見ていた。 ヒューマノイド・インターフェース? ――聞いた事はないはずなのに、何故か知っているその単語。「はい。通俗的な名称に当てはめると、宇宙人と呼ばれる存在です。この度、統合思念体の指示により貴女をお迎えにあがりました」 私を? その……統合思念体というのは、いったい私に何の用があるんですか?「詳しい事は私ではわかりませんが……ただ、無期限で貴女をフォローするよう命じられています」 困ったように笑う彼女の笑顔は、私が知っている彼女とは少し違っている様に見える。 ……そうか、そうゆう事なのか。 ――学園で初めて会った時から、彼女が私に優しい理由。 どうして私の秘密をすぐに受け入れられたのか。 何故、時間遡行をした私の前に、彼女は変わらぬ姿のままで現れられたのか。 そして、この場所へ私を導いた理由。導けた理由―― ……あまりにも予想外な答えに、私は笑いを堪える事ができなかった。「よろしければ、貴女のお名前をお聞かせ願えませんか?」 彼女はそんな私を見て小首を傾げて聞いてくる。 どうやらここに居る江美里は、私の事を何も知らないらしい。 江美里は全てを知った上で、何も知らない振りをして私と付き合ってきてくれた。 ならば、今度は私がそうする番なのだろう。 今ここで私が答えるべき名前は1つしか思いつかない――母が私にくれた大好きな名前に、彼女が教えてくれた「この世界で使う事になる仮の苗字」を加えたこの名前を。 返事を待つ彼女へ、これまで彼女と共に学んできた礼儀作法に従って丁寧に御辞儀をしてから私は自分の名前を告げた。 「はじめまして、江美里さん。私は森園生といいます。……どうぞよろしく」 未来の過去の話 ~終わり~ 関連SS一覧 ミッション・イン・ハロウィン 森さんと古泉の話 涼宮ハルヒの愛惜 5話~ その他の作品
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