キョンの面影
「国木田、現国の教科書貸してくれないかしら」何の予告も無く教室に入ってきた彼女は、休み時間中ぼーっとしていた僕に、そう言って微笑みかけた。「え? ああ、いいよ」一瞬だけその微笑みに見とれた後、机の中から貸してくれと言われた教科書を取り出して彼女に手渡す。「うん、ありがとう」どこかで見たことのあるしぐさでお礼を言った後、彼女は足早に教室から去っていった。そんな彼女を見て、僕の胸にやるせない感情がこみ上げてくる。「涼宮の奴、最近綺麗になったと思わないか。昔は眼中に無かったが、いまのアイツとならつきあってもいいと思えてくるぜ」涼宮さんが教室から出て行く後姿を眺めていた谷口が、彼女の姿が見えなくなった後、僕に言っているのかそれとも独り言なのか分からない様子でつぶやいた。「綺麗になった」「大人になった」「落ち着いた」それが、かつての涼宮さんを知っていた者の、最近の彼女に対する感想だ。主に東中出身の生徒達だが、担任の園部教諭も含まれている。もちろん隣の席の谷口もその中の一人だ。そんな谷口を見ながら小さく溜息をついた。 目をつむり、教室のざわめきから耳を閉ざして、僕は過去の想い出へ思いを馳せる。 二年生の頃、涼宮さんは僕やキョンと同じクラスだった。二人は正式にはつきあっていなかったが、クラス中公認の仲だった。誰もがいつか二人はつきあうだろうと思っていた。 その頃の涼宮さんは、入学当初に比べれば落ち着いていたものの、どちらかというと話に聞く中学生の頃の彼女に近かったような気がする。ほぼ毎日のように、彼女は隣の席のキョンとあれこれと激しいやりとりをしていた。 そうやってキョンと話す涼宮さんの表情はとても明るく、初めて見た人でも彼女がキョンのことが好きなのだとはっきりと分かってしまうほどであった。その頃の涼宮さんは思ったことはすぐに口にしたし、自分の思い通りに行動した。誰に対しても遠慮はせず、おかしいと思ったことには迷わずおかしいと言い放った。だから、涼宮さんの周囲にはいつもトラブルが絶えなかったようだ。でも、キョンをはじめとするSOS団のメンバーが彼女をかばい、そして彼女も自分をかばってくれる彼らに感謝していた。 それでも、その当時の涼宮さんは、彼女を知っていた周囲の人間が言っていたように、傍若無人なだけの人ではなかったように思う。なぜなら、僕は何度も他人を傷つけて落ち込んでいる涼宮さんの姿を見たことがあるからだ。 たぶん、彼女を非難していた面々はそんな彼女の姿を気にも留めなかったのだろう。きっと彼女は周囲の人が思っているよりもずっと、もしかしたら北高で一番、感受性が強いのかもしれない。 そうやって落ち込んだ涼宮さんを、キョンは彼女が元気を取り戻すまでやさしく慰めていた。僕はそんなふたりを遠目に眺めているのが好きだった。ただ眺めるだけ、それだけで心が和む気がした。その頃の涼宮さんはとても幸せそうだったから。でも、幸せな日々は長くは続かなかった。ある日を境に、二人が会話をしている風景を見ることが徐々に減っていった。たまに二人が話すことがあっても、昔のように何でも言いあえる様子ではなく、どこか他人行儀でよそよそしい感じが一目瞭然で分かった。風の噂では、キョンが中学時代に仲の良かった佐々木さんとつきあい初めたのが原因らしいと聞いたが、本当なのかどうかは分からない。キョンと話さなくなった後、何人かの男子生徒と涼宮さんがつきあっているという噂も聞いたが、これも僕には確かめる術がなかった。まあ、それが本当だったとしても、どうやら長くは続かなかったようだ。 ただ、このころから涼宮さんは変わり始めた。昔のように明るい笑顔で笑うことはしなくなり、教室の中で大きな声で話すことも無くなった。思ったことをすぐ口にすることもなくなり、思いついたことをすぐ行動することもなくなった。多分納得していないであろうことであっても、文句を言うことが極端に少なくなった。 そんな彼女を周囲の人々は、担任の岡部教諭も含めて、「落ち着いた」「大人になった」「成長した」などと評価した。そして、三年に進級したいま、キョンと涼宮さんがいっしょにいる場面を見ることすらなくなった。 キョンとつきあっていた頃の涼宮さんは子供だった。わがままな面もたくさんあったけど、それでも僕はそんな彼女が好きだった。でも、いまの涼宮さんは、大半の人間がそうであるように、大人への階段を一歩登ったのだ。だから、昔のように人前で本音を晒すことはしなくなり、彼女の感情は幾重にも重ねられたペルソナに覆い隠されて、もはや僕が窺い知ることはできなくなってしまった。 周囲のみんなはいまの涼宮さんを評価するけれども、僕は決してそんな気にはなれない。いまの涼宮さんはキョンと話していた頃に比べてとても窮屈そう。その笑顔も、そのしぐさも、どこか偽物のように思えてしまう。まるで、北高という舞台の上で意に沿わぬ役を演じさせられているような感じさえ受ける。そんな涼宮さんを見ていると、僕の心の中には言い知れぬ切なさがこみ上げてくるのだ。 始業のチャイムが鳴り、ゆっくりと目を開けると、ちょうどキョンが教室へと入ってくる姿が見えた。「おい、キョン」「ん、なんだ」「さっき涼宮が来てたぞ」「……そうか」キョンはへらへらと笑っている谷口とは対照的に表情を曇らせてうつむいた。「最近アイツ綺麗になったと思わないか? なんて言うか……大人の女性になったと言うか、妙に落ち着いた気がする。なんでお前涼宮をふったんだよ。もったいない。いまからもう一回告白すれ……痛っ」 机の下から太ももを蹴ると、谷口は少し顔をしかめてこちらを向いた。「何すんだ! 国木田」「前! もう先生が来たよ」ぶつぶつと文句を言いながら、谷口は前を向き、キョンはちょっとだけほっとした表情で僕をチラリと見てから席に座った。キョンと涼宮さんの間に何があったのかは僕には分からない。それに二人の関係に口を挟む権利も僕には無い。ただ、二年生の頃は時間さえあれば二人を見ていたんだな、といまになって認識させられるだけだ。 授業が始まって五分くらい経った時、横から小さな声で僕を呼ぶキョンの声が聞こえた。「何?」「スマン、消しゴムを貸してくれ」持っていた消しゴムを二つに割って、片方をキョンに渡す。「恩に着る」キョンは、さっき涼宮さんが見せたのと同じしぐさで、僕にお礼を言った。このしぐさはキョンの中学時代からの癖だ。きっと知らず知らずの内に涼宮さんは好きだったキョンを真似てしまったのだろう。涼宮さんはそのことに気がついているのだろうか。きっと、気がついていないと思う。意識すらしてないと思う。彼女の表層心理にはもうキョンの姿は見えないから。キョンが黒板の数式をノートに取っているのを横目に見てから、僕は目を閉じてさっきの涼宮さんのしぐさを思い浮かべた。そのしぐさを。 彼女の中に残ったこのしぐさだけが、僕が好きだった涼宮さんが確かに存在したことを証明してくれているようであった。 ~終わり~
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