「大須」
文字サイズ小で上手く表示されると思います
『待機命令、解除』 そのメールを見たとき僕が感じたのは……なんでしょう、言葉になりませんね。 それは、機関における都市伝説の様なものだった。 毎夜毎晩、時間を問わず不規則に発生する閉鎖空間に対処する為、僕の様な能力者は交代制で待機任務につく。 そして待機が終われば……いえ、終わらないんです。 交代制とは名ばかりのもので、実際に機関が機能してからは常時待機中の身でした。閉鎖空間の発生率に対して能力者の数は
あまりに少なく、結果として常時フル稼働だったと言えます。 たまに涼宮さんの企画したイベントに参加する時だけが唯一の非番。いえ、その時こそが本当の意味での勤務時間なのでしょうね。 結果として、これまで一度たりとも待機命令が解除された事はありませんでした。 何度見直してもメールの文章は変わらない。 念のため、一度携帯の電源を切ってみたけれど変化はなかった。 もしも待機が解除されたらどうする? そんな会話は機関の中ではよくある話題でしたが……さて、実際にそうなってみると、どうやってこの時間を過ごせばしていいのか思い当たらなかったりする。 忙しい時期には、休みになったらこんな事をしようといつも考えていたような気もしますが……今となっては思い出せません。 特に行くあてがあった訳ではないけれどクローゼットを開けてみる。 そこには機関から支給された涼宮さんの精神面を安定させるであろう大量の服と、僅かなスペースにほんの少しだけ自分で
選んだ私服が並んでいる。 服まで気にする必要なんてない、そう殆どの人は感じるでしょうね。 でもまあ、無理もないんです。僕達機関にとって、この世界の存続はある意味至上命題なんですから。 子供が重病になった時、親は病的に心配するでしょう? そんなものです。 さて、非番という事になれば着る服も好きにしていいはず。となれば――
最初は抵抗があったこの服装も、着馴れてくると愛着が出てくるから不思議だ。 数分後。結局、いつもと同じ機関の服を着込んだ僕は目的もなく街を歩いていた。 今日は学校も休みだし、涼宮さんは朝比奈さんと買い物にでかけているはずですから、午前中くらいは呼び出される事はないでしょう。 となれば……さて困りましたね。 ただ、歩くだけの行為に疲れて足を止める。 出かければ、何か目的ができるだろうと思っていたけれどそれは間違いだったようだ。 このまま帰って、読みかけの小説でも読んでいようか? そう思って後ろを振り向くと、「古泉、急に振り向くと危ないぞ」 凄い無表情な美人がそこに居ました。 失礼しました、森さん。 今日は僕と同じように非番なのでしょう。任務の間は常に感じられた威圧感は今は無く、内容によって常に服装が違う森さんは、「ん、似合っていないか」 僕の視線を気にしてか自分が来ている服装を見直している。 いえ、お似合いですよ。 チャコール系色のタートルネックと原色のデニムに身を包んだ森さんは、男性であればつい視線を向けてしまっても仕方ない程の美人
だと思う。……ただ、任務の内容に必要無い限り、常に無表情で居る森さんに話しかける事ができる男性は少ないのだろうけれど。 森さんも非番ですか?「ああ」 どこかへお出かけですか?「そうだ。古泉、もしも時間を持て余しているのなら手を貸してほしいんだが」 構いませんよ。 家に戻って一人でいるより、荷物持ちでもしている方がずっといいです。 僕が頷くのを見て、森さんはほんの少し表情を和らげながら「そうか、助かる。実は下の子を保育所に引き取りに行かなければいかないんだが、買い物がまだなんだ」 ……え? い、今下の子って言いました? って事は上のお子さんもいらっしゃるって……ええっ?「それで頼みたい事なんだが、離乳食をいくつか買ってきてくれると助かる。頼めるか? 嫌なら断ってくれていい、私的な頼みだからな」 その、断る以前の問題というか。 呆然と固まっていた僕を不思議そうな顔で眺めた後、「……冗談だったんだが」 つまらなそうに森さんは呟いた。 お、驚かせないでくださいよ。 普段から冗談どころか私語すらしない森さんの言葉だっただけに、本気で信じかけてしまった。「なんだろうな。非番と言われても嬉しくないはずなんだが、どうやら私は今浮ついているらしい」 相変わらず無表情で言う森さんだが、その表情の端に嬉しそうな雰囲気を見つける事ができた。「あ」 すぐ近くから聞こえてきた聞き覚えのある声、「古泉、それと……森さんですよね」 振り向いた先には、穏やかな笑顔を浮かべる見慣れた彼の顔と――「お久しぶりです。合宿の際は、企画の為とはいえ皆様を騙す様な事をしてしまい申し訳ありませんでした」 まるで、熱湯をかけたキャベツの様に活き活きとした表情で喋る森さんの姿があった。「そんな、こっちは楽しませてもらったんですから気にしないでください」「そう言って貰えると助かります」 柔和な笑顔で頭を下げるその仕草は、先ほどまでは多少感じられていた彼の警戒を完全に解いてしまっている。 見習うべきかどうかは迷う所ですけどね。 僕と森さんをしばらく見比べた後、「じゃあ俺はここで。古泉、また部室でな」 ええ、また部室で。 軽く手を挙げて立ち去っていく彼は擦れ違い様に「お前も男だったんだな」 と楽しそうな声で囁いて行くのでした。 え? あ、あの何か誤解していませんか? と僕が呼び止めても彼は後ろを向いたまま手を振るだけで……まあ、いいですけどね。 小さく肩を落とす僕の隣では、再び森さんから表情が消えていた。 森さん、私的な事を聞いてもいいですか?「何だ」 ……仕事上で愛想よく振舞う貴女と、今の貴女。どちらが本当の森さんなんですか? 僕の質問を聞いた森さんは、何か呆れた様な顔をしている。「古泉」 はい。「本当の自分とはなんだろうな」 森さんの手が伸びて、少し乱れていた僕の上着の位置を手早く修正していく。「例えば、だ。人前では笑顔が常に絶えない男が居るとしよう。その男を見た殆どの人間は、その姿から感じる感想をその男の本性だと考える。しかし、実はその男は自分の本意で笑顔でいた訳ではなかった。この場合、その男の本当の自分とはなんだ?」 僕の返事を待っていた訳ではないのだろう、森さんは上着の修正をしながら話続ける「例え本意ではなくとも、笑顔で居続ける努力をするその行為を選んでいるのはその男自身だと私は思う。だからその男は笑顔が常に絶えないのが本当の姿だと私は考える。お前が見ている私が仕事の上でしか愛想がないと思うのなら、それが本当の私なのだろう……
この服、少しサイズが合わないようだな。機関に申請しておく」 どこまでも、自分の中で完結している人。 僕の足元から髪型まで確認している森さんの姿を見て、そんな事を思いました。「古泉。さっき私が言った言葉の中で一つだけ本当の事がある。時間を持て余しているのなら手を貸してほしいんだが」
数時間後、森さんの車で連れてこられたのは愛知県は名古屋市中区、通称「大須」 移動の間、何故大須へ行くのか何度か聞いてみたけれど、「いずれ話す」「秘密だ」と言葉を濁すばかりで教えてもらえませんでした。「こっちだ」 車を降りた後、迷うことなく歩いて行く森さんの後ろをついていく。 機関の仕事以外で県外に出たのって何年ぶりなんだろう? そんな事を考えていると、「お好み焼きだな」 森さんが立ち止まり、そう無感情な声で言った。彼女の言うように、通りの角に小さなお好み焼きのお店が見えている。 そうですね。 ……そう言ったきり続けて何かを言う訳でもなく、森さんは立ち止っている。 えっと、お好み焼きを食べたいんですか?「いや。食べたいのではないが、ここを通ると買わなくてはいけない気になるんだ」 ――沈黙。 食べたいんですね?「いや、食べたいのではない」 頑なに否定するものの、一向に動こうとしない彼女になんとなく部室で読書に勤しむ同級生の姿がだぶって見える。 浮かんでくる笑みを抑えるのに苦心しながら、 あの、僕はここのお好み焼きを食べてみたいんですが一人で食べるの恥ずかしいので、よければ一緒に食べ「いいだろう」 回転率を考えての事なのでしょう、数枚の硬貨と引き換えにアルミホイルに包まれたお好み焼きを二枚受取り、その一枚をうずうずしている森さんへと渡す。 即答する程食べたいのなら、素直に……いえ、何でもないですよ。「ん」 口の端にソースをつけた森さんは、ついに笑いがこぼれ始めた僕を見て不思議そうな顔をしていた。
「古泉、あれを見てどう思う」 そう言って森さんが指差したのは、交差点の中央上空に設置された信号機だった。しかし、信号機と言うにはそれはあまりに奇抜なデザインで、正方形の枠の裏表全面に所狭しと信号が敷き詰められている。 あれは……信号、なんですよね?「そうらしい、聞いた話によれば世界でここにしかないデザインだそうだ」 でしょうね。もしもこの信号が町中に溢れていたら、僕は涼宮さんの能力で世界の常識が書き換えられた可能性を考えます。「同感だ」
シルバーアクセサリーとかお好きなんですか? 通りに面した雑貨屋で足を止めた森さんは、いやに熱心にシルバーのリングを手にとって見ている。 シンプルというか、私服を見る限り装飾品を身につける習慣がないらしい森さんにしては珍しい事だ。「古泉」 はい。 視線をリングから僕へと移動させ、「スチールのコーヒー缶を持つと、つい握りつぶしてみたくならないか?」 妙な笑顔を浮かべて彼女は呟いた。 アルミ缶なら同意します。 僕の返事を聞いて、再びリングへと視線を戻すと「いま、そんな気分なんだ」 本気の声で、彼女は言った。 も、森さん? それ、結構値段が高いので止めてくださいね? それとなく後ろから止めに入る僕を見て小さく首を横に振ったあと。彼女は突然悲しそうな顔をしてそっと商品を棚に戻した。 そんな寂しそうな顔してもダメです。「安心しろ。我慢する」 お願いしますね。 「時に古泉、男性は贈り物でこういったアクセサリーを女性に贈るものだと伝え聞いた事があるが」 握りつぶさないならプレゼントしますよ。 わかっていないとでも言いたげに、彼女は首を振る。「残念だ。楽しみ方というものは人それぞれだろうに」
「ここが目的地だ。少し待っていてくれ、すぐに戻る」 はい。 僕が森さんに連れてこられたのは大須観音でした。 平日の中途半端な時間帯のせいなのか通りを歩く人も少なく、境内にも寺の中にも誰も居ない。 そんな不思議な空間を、何故か焦るようにして森さんは早足で歩いて行き、小さな小屋の扉を開けて手慣れた手つきで何やら小皿を取り出している。小皿と引き換えに硬貨を何枚か置いた後、ゆっくりとした足取りで彼女は戻ってきた。「まずはこれだ。この皿を持ってくれ」 はあ。 言われるままに受け取ったのは小さな皿だった。 それは特に変哲のない皿で、中には小さなお米の様な物が入っている。「古泉、それを持ったままそこの広い場所へ行ってくれないか?」 そう言って指示された場所はただの砂利が敷き詰められた空間で、特に何かあるようには見えない。 わかりました。 ともかく、言われるままにしてみよう。 小皿からお米をこぼさないようにそっと歩いて行き、指示された場所へと到着する。「私がいいと言ったら、足元にその皿を置いてじっとしているんだ。いいな?」 わかりました。 僕が歩いている間に準備していたのだろう、いつの間にか携帯サイズのハンディビデオを構えた森さんはこちらを見て真剣な顔をしている。「……よし、いいぞ」 いったい何をするつもりなんだろう? そう思いつつも言われた通り地面に皿を置いた瞬間、 うおわ! 何かが僕の背中をついばんで?! え、これなんですか?! 森さん?! 静寂に満ちていた境内は、その一瞬で羽ばたく何かで埋め尽くされていた。飛び散る羽毛と、我先にと皿へと飛び込んでくる……こ、これは鳩? って事は僕の背中に感じるこの複数の安定感の悪い重みも鳩なんですか? この場を逃げ出したくても、足の踏み場もない程の数の鳩がまとわりついてきていてそれもできない。 なすすべもなくこの騒乱が落ち着くのをじっと待っていると、ようやく餌が尽きたらしく自然と鳩の群れは飛び去って行った。 残されたのは羽毛と鳩の足跡まみれで呆然とする僕と、足元で空になった小皿だけ。「古泉! 古泉! 素晴らしい動画が撮れたぞ。協力に感謝する」 任務の中ですら見た事が無い程の笑顔で飛び込んでくる森さんに抱きつかれる僕を、屋根の上に並んだ鳩達は無感情な目で見降ろしていたのでした。 森さん、僕の目に写る今の貴女はとても楽しそうに見えます。 そんな笑顔で笑う貴女が本当の貴女であって欲しい――なんて、思っていてはいけませんか?
「大須」 終わり
「お地蔵さん」へ続く
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