古泉一樹の休日
カーテンの隙間から漏れる日差しで目を覚ましぼんやりした思考で時刻を確認すればもう16時を回っていた。また休日を無駄にしてしまったようだ。いや、仕方が無い。昨夜の会議の後発生した閉鎖空間の所為で帰宅したのが深夜だったのだから。寝癖で爆発した頭を掻きながら起き上がると、書類やら雑誌やらプリントやらを踏みつけながら台所へと赴く。朝も昼もすっ飛ばして眠っていたのだ、腹が減って仕方が無かった。冷蔵庫を開けてみる。―――何も無し、すっからかん。冷凍食品ですら皆無だ。舌打ちをし冷蔵庫の扉を足で閉める。仕方が無い、コンビニにでも買いに行こう。空になったカップ麺のゴミだとかまだ少しだけ中身の残ったペットボトルなんかを掻き分けて愛用の銀縁眼鏡を発掘し、ジャージのまま玄関の扉を開けたその瞬間、
―――いってらっしゃい。母の懐かしい声が聞こえた気がして僕は、誰も居ない部屋に向かって「行ってきます」と呟いた。
――古泉一樹の休日――
もう5年になるだろうか。僕に超能力としか思えない力が備わったあの日から、両親とは会っていない。機関の人間に手を引かれ連れて行かれたあの日―――両親が僕に向けていた瞳は、まるで化け物を見るかのようだった。訳もわからず泣き喚く僕を引きとめようともせず、頑張ってくるのよと声を掛けるでもなく、ただただ玄関で立ち尽くし、僕を乗せた車がその場を去るまでそうしていた。 その当時幼かった僕でもその視線の意味くらい瞬時に理解した。両親は僕を見放したのだ、と。その証拠に、両親からの連絡は今まで一度だって無かった。今の僕には"機関"によって保障された生活があるために、家族が居ないが故に困ることなど何も無い。それでも、例えば―――散らかりきった部屋を見渡した時、冷めたコンビニ弁当を口にしている時、部屋に干しっぱなしの洗濯物を手にした時…………世話焼きの母親、小厳しい父親の事を思い出してしまう事がある。僕の暮らしていた環境などごく有触れていて、特別な事なんて何もなかったけれど。"家庭"と呼べる物がかつての僕には存在していたのだなと……ふと感傷に浸ったりする事もあるのだ。
「ありがとうございましたー」コンビニ店員の気の抜けた謝礼を聞き流しながら外へ出ると、提げたレジ袋から購入したばかりのおにぎりを取り出した。このコンビニから自宅までは徒歩で少々距離がある。往復で20分くらいかかるだろうか。既に僕の空腹はだいぶ深刻で、家にたどり着くまでにエレルギー切れしてしまいそうだった。決して行儀の良い事では無いが、まあおにぎりくらいいいよな―――なんて事を考えていたのが、甘かった。「……古泉君?」声を掛けられたその瞬間、時が止まってしまったかのように足が凍りついた。鏡を持ち合わせていなかったために今自分がどういった表情を浮かべているのか確認できないが、"古泉一樹"らしからぬ間抜け面で突っ立っているだろう事は明確である。 僕の目の前に立ち尽くす"彼女"は、意志の強そうな大きな瞳に困惑の色を漂わせていた。……僕はとんでもない失態をしてしまったようだ。よりにもよって、一番こんな姿を見られてはならない人と遭遇してしまったのだ。「……奇遇ですね、涼宮さん……」
未だかつて体感した事の無いような重苦しい沈黙を破ったのは涼宮さんだった。「……古泉君の家って、この辺だったのね」僕はせめてもの悪足掻きにといつもの微笑を顔に貼り付け、平然を装って答える。「ええ、そうなんです。涼宮さんはよくこの辺に来られるのですか?」「ううん……今日はたまたまこっちに用事があって」彼女は難しい顔をして酷い格好の僕を舐め回すように見つめている。まるで拷問のようだ。予想もしていなかった緊急事態に僕の思考回路はショート寸前である。もう白旗でも挙げてしまいたい気分だ。誰に挙げたらいいのだろう?「それ……伊達眼鏡じゃないわよね。普段、コンタクトだったの?」「ええ、実は」「ふーん」僕の返事をさらっと受け流し、「そのジャージは?」視姦の次は質問攻め。もう無理。
「中学のジャージでしょ」涼宮さんが僕の胸元の"古泉"という刺繍を指差した。「あー、ええと……お恥かしい事に」「へーえ。寝巻きにしてるの?」「……はい」足りない裾を膝まで折り曲げている年季の入ったえんじ色のジャージ。膝や肘なんて擦り切れている。こんな物を好き好んで外出様に使用する物など居る訳が無い。涼宮さんはしばらく「ふーん」だの「へーえ」だの言いながら考え事をしているようだったが、
彼女の真っ直ぐな視線が僕を射抜いた。嫌な汗が僕のこめかみを伝う。―――ここはどう返答するべきなのだろうか。下手に嘘を付いて後々問い詰められるような事態は避けたい。避けたいのだが、本当の事を言ってしまうのも気が引ける。いや……どちらにしても涼宮さんには嘘を付かなければいけない事には変わりない。畜生、僕は馬鹿だ。こういった事態に陥った場合の対処法くらい考えておくべきだった。プライベートで遭遇する事ぐらい予想できただろうに。「……やっぱり、そうなのね?」僕の沈黙を肯定と取ったのか涼宮さんが深く頷いた。まずい。やばい。さあどうする。とりあえず何か言わなければ。話題を変えるか?いや、このタイミングでの切り替えは不自然だ。かといってこれ以上沈黙している訳にもいかな――――「―――あっはっはっはっ!!」僕が必死に検討していた矢先、涼宮さんが突然腹を抱えて笑い出した。「あはっ、もう我慢できない!古泉君、普段とのギャップあり過ぎよ!可愛いわっ!」涼宮さんがあんまり大きい声でケラケラ笑うから、道行く人々の視線を一斉に浴びている。……もうやめてくれ。泣きそうだ。そんな僕の心情も知らずに、涼宮さんは僕の肩をバシバシと叩きながら爆笑している。「あははっ……ごめんごめん。ちょっと笑いすぎたわね。ひーっ、涙出てきた」彼女は目尻をゴシゴシとこすりながら、「さすがは謎の転校生、古泉君ね。安心して!深く言及するような事はしないから。団員のプライバシーは尊重しなきゃね。言えない事の一つや二つはあって当然よ」「ははは……恐縮です」思わず溜息が漏れる。「よし。じゃ、ちょっと付き合って」「え」ほっとしたのも束の間、涼宮さんが普段彼にしているように僕の腕を取り、彼女が歩いてきた方向へと引っ張り出した。その華奢な腕の一体どこにこんな力があるのだろうか。されるがままに引きずられた僕がたどり着いたそこは、普段からよく利用しているスーパーマーケットだった。「さーってと。じゃんじゃん買うわよ!」涼宮さんは楽しそうに鼻歌を歌いながら積み上げられた買い物カゴを一つ掴み上げ、僕に押し付ける。「古泉君、何食べたい?」「……はい?」「何でもいいわよ。どーんと任せなさい!あ、でもあんまり沢山は作れないわよ。生憎今日は持ち合わせが少なくって」「あの……涼宮さん」「何よ?」「これは……一体?」困惑を隠せずにいる挙動不審な僕に向かって、涼宮さんは眉を片方だけ吊り上げて言った。「……団長様の手料理が食べられないって言うの?」
◇ ◇ ◇ ◇
コンコン、と規則的な音と、得意げな鼻歌が聞こえてくる。「これでよしっと!あとは煮込むだけだから、すぐできるわよ!古泉君」「はあ……」箪笥の奥底から引っ張り出した僕の――男物であるからサイズは大きめである――エプロンをした涼宮さんが実にいい笑顔で台所から戻ってきた。「それにしても……きったない部屋ね」彼女が僕の部屋に足を踏み入れてから何度目になるかわからない言葉を呟く。……それについては返す言葉が無い。片付けなければとは常々思うのだが、今日のように予定の無い休日は大抵寝潰してしまうために、もう部屋の掃除など随分とご無沙汰だ。 積み上がるプリント、雑誌の山。洗濯物は常にかけっぱなしだし、インスタント食品のゴミも散乱している。生活感に溢れた部屋とでもいえば少しは聞こえがいいだろうか。 「古泉君。こういうチラシとかプリントとかは、要らないと思った瞬間捨てちゃいなさい。そうでないと溜まっていく一方よ」いや、でもプリント類は結構メモ変わりとかになりますし……。「ほら、この辺も捨てちゃっていいんでしょ?片付けるわよ!」「あっ!ちょ、ちょっと待ってください!」「面倒くさがってたら駄目でしょ、もう!」じゃなくて、そっちの方には"機関"絡みの書類とかが……。「あーっ!エロ本発見!」なにッ!?「へえー、古泉君もやっぱりこういうの読むのね……あ、DVDも出てきた!やらしーっ」紙の山の中からいつ買ったかも思い出せないそれらがホイホイ掘り出されていく。「うわー、すごいわねコレ。SM物?顔に似合わず過激な趣味してるわ」それ以上言わないでくれ。もうほんと泣きたい……。「……す、涼宮さ……それ以上は、ほんと……」「なあに、恥ずかしがらなくていいわよ。男子として当然の事じゃない?それにあたし、古泉君ってひょっとしてガチなゲイなんじゃーって疑ってた事もあったし、ちゃんとノーマルなんだって知れてよかったわ」健全健全~なんて言いながらエロ本をまじまじと眺めだす涼宮さん。しにたい。
できたわ!と威勢のいい声と共に運ばれてきたおいしそうな料理に、思わずうわあ、と感嘆の声を上げてしまった。「いっぱいあるからね、じゃんっじゃんおかわりしていいわよ!」僕の希望した料理はクリームシチュー。涼宮さんは「そんなに簡単でいいの?もっと手の込んだ物でもいいのよ」と口を尖らせていたけれど、実はシチューが大好物であった僕は、是が非でもそれをお願いしたいともはや懇願状態だった。 「いただきます」シチューから出る湯気に眼鏡を曇らせながら、それをスプーンですくい口まで運ぶ。が、「あ、あつっ!!」「もう、馬鹿ね」「でも……美味しい!すごく美味しいです、これ!」一口目を飲み込めば熱さなど気にならなくなり、僕は冷ます事もせずに二口目を口に入れた。今まで食べたシチューの中で一番美味しいかもしれない……大袈裟かもしれないが、そう思った。「ふん。あたしが作ったんだから、美味しいに決まってるわ。そんな当たり前の感想じゃなくてもっと捻りの利いた事言ってみなさいよ」涼宮さんは怒ったような顔でそう言った。僕は知っている。この顔を作る時は大抵照れているのだ。「そうですね……暖かいです、すごく」「はあ?それも出来立てなんだから当たり前じゃない」「暖かくて美味しいです」「…………馬鹿ね、古泉君」何年ぶりだろうか。こうして自宅で、誰かの手料理を食べる事なんて。何だろう……すごく懐かしい味がする。懐かしくて、胸が暖かくなる……そんな味。それから僕は無我夢中でシチューに食いついた。本来なら、涼宮さんの前では"古泉一樹"らしく、上品に食事しなければいけないのだが、もうそんな事はとうに忘れ――もう手遅れだった事もあるけれど――僕はひたすら味わう事だけに集中していた。 あっという間に一杯目を食べ終わると、「おかわり」と反射的な言葉が漏れる。涼宮さんはその言葉を待っていたかのように優しく微笑んで僕に応えた。
「さてと。じゃああたし、そろそろ帰るわね」三杯目に入った頃、涼宮さんが携帯を片手に立ち上がった。「お送りします」玄関に向かう彼女の後を追うように慌てて立ち上がると、「ううん、大丈夫。近くまで親が車で迎えに来てるから」スニーカーのつま先をトントンと鳴らしている彼女に僕は言う。「涼宮さん……今日は有り難うございました。 シチュー、本当に美味しかったです」「あんなんでいいならいつでも作るわ」そう言って笑った彼女は不意に僕の背後の洗面所へと目を向けると、「あー。古泉君、洗濯物まで溜まってるじゃない」「ああ……忘れてました。これから洗濯機を回すとします」「乾いたらちゃんと畳んでしまうのよ。干したのそのまま着ちゃ駄目だからね?」「はい」「それと、あたしが次に来るまでに部屋も片付けておきなさい」「……善処します」「せめて食べたゴミくらいは捨てる事」「わかりました」「コンビニ弁当ばっかり食べてるのも駄目よ。たまには自炊して栄養取りなさい」「頑張ります」「それから……えっちぃ物が見られたくなければ、せいぜい隠しておくことね?」「……そうします」彼女はニカッといたずらっぽく笑うと、ドアノブに手をかけた。「あー……古泉君?」「何でしょう」僕に背を向けたまま、彼女がポツリと呟く。
「あたし……眼鏡でジャージ姿の古泉君も素敵だと思うわ。今日は色んな古泉君が知れてよかった」
涼宮さんは振り返ると、眉尻を下げた穏やかな微笑を僕に向けた。
「無理なんてしなくていいじゃない。もっとあたし達に頼ったら?SOS団はさ…………家族なんだから」―――バタン。アパートのドアが重い音を立てて閉じる。僕は静かになった部屋で、食べかけのシチューを再び口へと運んだ。もう冷めてしまったそれは、やはり暖かくて、何故だかしょっぱい味がした。
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