空と君とのあいだには/朝倉涼子の発現 第二話
さて。 空は陰鬱に曇り、反対に、気温の低さは絶好調。
なるほど、これは冬という季節である。
「ねえ、長門さん」
私はガタガタとせわしなく揺れる地面に足をとられないようにつり革に捕まりながら、すぐ隣で、腕を目一杯に伸ばし、細く白い指をつり革に絡めている少女に声をかけた。 少女は若干ハの字なのがデフォルトなのであろう眉毛をすこし上げ、眼鏡越しに私を見返してくる。私の左胸が改まって高鳴る。今は落ち着いてくれないものかしら。
「私、本当に大丈夫よ」
私がそう言うと、長門さんはすこし考えるように視線を泳がせた後、わずかに首を横に揺らした。
「あんな薄着で、夜の学校にいたりしたのだから……」
長門さんは言う。確かに私は、今朝、なんとなく頭が痛いような気はした。それはこれまでに感じたことのない不思議な痛みであったし、その痛みに不安になったりもしたのだが、私にはむしろ、医者などという、私がこれまでに接したことのない類の人間と顔をあわせなければならないということのほうが不安だった。 医者に行くべきだという長門さんに、思わず、一人では不安だ。などと返してしまったものだから、それから長門さんは、私を病院に送り届けてから学校に行くと言って聞いてくれないのだ。 ああ、イヤだ。こんなわけの分からない状況で、自分の体を誰かに診てもらうなんて、正直言って気が気でない。
「エラーだわ」 「?」
私がうわごとのように呟くと、長門さんは例の眉毛を余計にハの字に傾かせ、私の顔を奇妙そうに眺めた。 ……やっぱり、反応は示してくれないか。 この良く分からない世界の長門さんが、すべてを知った上で私の前でとぼけた演技を続けるような、感情が豊かなヒューマノイド・インターフェイスである。という可能性もゼロではない。 しかし、私のゴミ箱のような人間的直感が示す限りで……今、長門さんは、まったくもって一般的な、眼鏡の美少女学生でしかなかった。ああ。もし、今、彼女の口から、情報統合思念体だとか、涼宮ハルヒだとか、その手の私に聞きなじみのある言葉が飛び出してくれたら、私はどれだけ安心するだろうか。しかし。どれだけ粘っても、そんなどんでん返しはおきてくれそうにない。 それほどまでに、私の隣のこの少女は、拍子抜けするほどに普通の少女でしかなかった。 ……むしろ、この人は本当に長門さんなのだろうか? この、物静かそうであり、常に他人に気を使うそぶりを忘れずにいる、眼鏡の美少女が。 頭痛を訴えた私を病院に連れていってくれる、すこし過保護が過ぎるくらいの思いやりに満ちた少女が。 私の知る『長門有希』が、もし何らかの形で人間の感情を手に入れたとしても、これほどまでにまともで、素敵な少女へと変貌することがありえるだろうか?
「いつも面倒を見てくれるお礼」
長門さんはそういって、少しだけ唇の端を上げた。
やはりその少女は、何か、長門さんのような姿をした、私の知らない何かであると考えたほうが、よほどに納得が行くような気がする。 何しろ私は、長門さんの笑顔などというものを見たことが、此れまでにただの一度もなかったのだから。
彼女は私のことをよく知っていた。 私は彼女にとって、同じマンションに暮らしている同じ学年の学友であり、私は時として、彼女と夕食を共にしたりしていたのだという。 まあ、それは分かる。もしも私が、本当にただの女学生であり、同じマンション内に、ただの女学生である今の長門さんが暮らしていたとしたら。おまけに彼女が一人暮らしで、殺風景な部屋で本ばかり読んでおり、時には食事すら忘れてしまうとしたら。私は迷わずに、時としてといわず毎日毎晩、彼女の部屋を訪れ、夕食を作ってあげることだろう。 というか、むしろそれは私にとって、この世でもっともまともな夕食時のすごし方なのだから。
◆
この時点で言えること。それは、この長門さんが、私が消えてから、再び出現した昨日までの間に、人々と触れ合うことで感情を手に入れ、表情豊かで物静かな少女へと成長した長門さんなどではないと言うことだ。 なにしろ、彼女の記憶の中には、私が昨日出現する以前……つまり、私という個体が存在していなかったはずの期間の『私』が存在している。 そして、彼女は『ヒューマノイドインターフェース』のことも、ついでに『涼宮ハルヒ』も、『情報統合思念体』のことも、まったく知らないのだという。
ようするに私は、どの根から伸びたのかも分からない、謎の世界の真ん中に再構築されてしまったのだ。
……一体、何のために? 誰かの手によって構築されなければ、私が再び個体を取り戻すことはなかったはずだ。誰かが何らかの目的のために、私を駒として構築した。 その誰かとは……一体誰か?
「涼宮ハルヒ」
腕に刺さった針の違和感に軽いめまいを覚えながら、私は恨めしきその名前を呟いた。 情報統合思念体が私を構築した可能性は低い。となれば。私の知る限りで、私を出したり消したりできるような人物は、一人しか居ない。 涼宮ハルヒの持つ、世界を改変する能力。 この世でわけのわからないことが起きたとしたら、それは大体、彼女のせいにしてしまえば丸く収まってしまうのだ。 彼女は長門さんを感情の豊かな女の子にし、私から記憶をそのままに、インターフェースとしての力を奪った。 ……あれ? それじゃ、涼宮さんは、長門さんや私がただの人間でないということに、気づいてしまったというのかしら? ありえない話ではない。彼女が長門さんの正体に気づいた。そして彼女は、長門さんが得体の知れない宇宙人などでなく、ただの感情豊かな少女であることを願った。 ……しかし、だとしたら、長門さんが涼宮ハルヒのことを記憶していない理由が分からない。 それどころか、彼女は涼宮ハルヒという生徒が存在していることも知らないのだという。
涼宮ハルヒはこの世界に存在して居ないのだろうか? 涼宮ハルヒがそれを望んだというのだろうか?
「そろそろいいですねー」
いい加減、私の血圧が上がり始めたころ、先ほど私の腕に針を突き刺したのと同じナースがやってきて、先ほどとまったく逆回しに、私の腕から細く短い針を引き抜いた。 黄緑色のロングヘアーをした、それなりに美しいナースだった。きっと情報統合思念体の好みのルックスだろう。私や長門さんの次にインターフェースが生み出されていたとしたら、彼女のようなルックスのインターフェースが生まれていたかもしれない。
「はい、もう大丈夫ですからね」 「ありがとうございます」
ナースは、腕の傷口に小さなガーゼを貼り付けると、野花をいつくしむような笑顔で、私にかばんを返してくれた。 かばん。 そうだ。とりあえず、学校に行こう。
電車に揺られながら、私は自分の手帳と携帯電話を確認し、一つの結論にたどり着いた。 少なくとも、この世界において、私や長門さんが学生生活を送る上で接触し得る範囲に、涼宮ハルヒという個体は、存在して居ないのだ。 クラスメイトの名前と連絡先を記した一覧の中に、涼宮という苗字は存在して居ないし、ついでに、どうやら文化祭で撮影したらしい、私たちのクラスの集合写真の中にも、涼宮さんの姿は映っていなかった。多分、クラスの友人たちに、涼宮ハルヒという少女について訊ねても、有力な情報は得られないだろう。
「涼宮ハルヒの居ない世界、かあ」
人気のない車内で、誰にも聞こえないくらいに小さな音量で、私は呟いてみた。 私はその世界で、一体何をすればいいというのだろう。 ふと、私の携帯電話が振動する。メールが来たのだ。
『調子はどう?』
メールの送信者は、長門さんだった。
わたしはこの世界で、私が以前夢を見たような、永遠に続く長門さんとの日々を生きつづければいいのだろうか? ……それも悪くないかな。
学校に着くと、丁度構内は昼休みの真っ最中だった。 そこでとりあえず私は一つ、自分が奇妙な世界に来てしまったということを思い知らされることになる。
先生、九組がありません。
思わず、通りかかった音楽教師に、そんな声をかけてしまいたくなった。 まあ、この程度なら驚かない。情報操作で教室を一つ消すぐらいなら、私にも出来たことだと思うから。しかし、『一年九組のない北高』を当たり前のこととして、全校生徒たちの意識を改変するところまでは、ちょっと、私の能力だと大変だったかもしれない。 まあ、どっちにしろ、今の私には何の力もないのだから、そんなことはどうでもいいことだろう。力のあるどこかの誰かが、なんとなく気まぐれで九組を消してしまったのだ。そしてついでに、あまった力で、私をこの世界に再構築してくれたんだろう。もう、それならそれでもいいかもしれない。なんとなく産み出されたというなら、なんとなく生きてやろうとすら思えてきた。 考えても見れば。長門さんと日々を過ごし続けるということは、以前私が望んだことなのだ。学校に通わなければならないという新要素は追加されているものの、それも日常と受け入れられれば、いっそ普通の女学生になってしまうのも、悪くないじゃないか。まあ、それにしても、そのうちは卒業などもしなければならないだろうし、長門さんが普通の人間になってしまっているというなら、彼女はいつまでも今の姿であることもないかもしれない。 いつかは前に進まなければならないだろう。しかし、当面は幸せをかみ締めることが出来る。長門さんの変化にも、まあ慣れる事はできるだろう。 何しろ今の長門さんは可愛いし。 前の冷たい感じも好きだったけどね。
……ああ、でも。 ある種の現実逃避を始めた私の前に、この男が現れてしまったのだ。 私の願いを邪魔する、この男が。 私の希望的観測を土足で踏み荒らす、この寝ぼけた男が。
―――十二月十八日の昼休み。 私は始まりのドアを開いてしまった。
つづく
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