言葉にできない
「私には正しさが必要なのよ」
朝倉涼子は、たびたびその言葉を口にしていた。
「それはあやふやであり、感情的であり、我々には不要なもの」
そのたびに長門有希はそう返答した。朝倉は長門の顔を恨めしそうに見つめたあとで
「長門さんには分からないことなのよ」
そう、恨み言のように呟く。 それは彼女たちの間で幾度となく繰り返された、儀式のようなやりとりだった。 その短いやり取りを繰り返すことが、二人が二人であることを忘れずに有り続けるために 絶対に欠かしてはならない、おまじないのようなものだったのだ。
朝倉涼子は、毎日決まった時間に買い物に行き、毎日決まった時間に台所に立ち 毎日決まった時間に、長門有希を食卓に呼んだ。 それは世界が二人を必要とした
「私にはこれが必要なことなのよ」
長門には朝倉の言う『必要』であるということが、どういったものなのか、長い間理解することが出来なかった。
「そうね、あなたには必要のないものかもしれないわね」 「何故?」 「あなたと私には、与えられたものが違うからよ」
はるか情報統合思念体が長門に与えなかった何かを、朝倉涼子は所持している。
「そうよ。だから私は、こんな無駄なことをしてしまうの」 「あなたはそれを必要なことだと言ったはず」 「でも、それはあなたにとっては無駄なことなのでしょう?」 「無駄であるとも、必要であるとも言っていない」 「そうね」
長門は用事もなく部屋を出ることはなかった。閉ざされた部屋の中で、長門はただ時間が過ぎるのを眺めていた。 朝倉は決まった時間に食事の用意をし、時間が来ると、自分の部屋へと戻って行った。
二人はただただ、その決まりきった日常を繰り返し続けた。 あるいは、それが二人にとって、朝倉の示すところの『正しさ』だったのかもしれない。
◆
「あの扉の向こうには、きっと、長門さんにとっての正しさがあるのね」
朝倉は時折、閉ざされたままの引き戸に視線を送り、そんな事を呟くことがあった。 長門は、その扉の向こうに誰が居るのかを知っている。 朝倉涼子がこの世に生まれるより前。長門の住むこの部屋をたずねてきた少年と少女が 止まった時間の塊とともに、眠り続けているのだ。
「私が彼らを起こしたら」
朝倉は言った。
「長門さんは怒るかしら?」 「望ましいことではない。それに、あなたでは不可能」 「そうね」
朝倉は無感情の現れであるかのような、冷め切った声色で、呟いた。
「私は劣っているもの。長門さんよりもずっと」
劣る。それが単純な機能面においてのみの意味合いでないことが、長門にはなんとなくわかった。
朝倉涼子は、長門にはかけているものを持っている。 それだというのに、朝倉涼子は長門よりも劣る存在である。 それが長門にとっては不思議なことだった。
朝倉は『正しさ』を手にできるはずがなかったのだ。と、長門は思った。 それを感じたのがいつであったかは分からない。長門にとって、時間とは、そこにあるようでないものなのだ。 長門と朝倉は、この世界が犯してしまったのかもしれない『過ち』に干渉するために生まれた。 二人が『正しさ』にたどり着く事があるとしたら、それは同時に 二人の存在が、一切の価値を失うということなのだ。
「長門さん。私、たまに思うのよ。世界にとっての過ちとは、私たちのほうなのかもしれないわ」 「理解できない」 「だって、世界は私たちのものじゃあないもの」
時々、朝倉は涙を流した。 朝倉や長門こそが、この世の過ち。 それが正しいのか、間違いなのか。長門には分からなかった。
「長門さん、私をしっかりと見ていてね」
朝倉涼子が長門有希によって、情報連結を解除される前の晩。朝倉は長門にそう告げた。
「私はもう、私ではなくなってしまったの。いうなれば、私はあなたと同じになってしまったの。 私は正しさを求めることさえ出来なくなってしまったわ」
朝倉は涙を流すことはなかった。 けれど、朝倉が言葉を放つたび、声を上げるたびに 長門は朝倉の全身から滲み出てくる『過ち』を感じていた。 それは長門には与えられず、かつて朝倉が持っていたもの。
「長門さん。あなたが私のことを、好きだと思ってくれた事が、一度でもあってくれたのなら、きっと私はとても喜んだと思うわ」 「そう」
翌日の夕暮れ、朝倉は長門の手によって、情報連結を解除された。
「キョン君のこと好きなんでしょ? 分かってるって」
今わの際に、朝倉は長門にそう告げた。 そうかもしれない。 長門は、それを否定するだけの材料も持っていなかった。 長門はその夜、朝倉と出会ってから初めての、夕食を摂らずに過ごす夜を迎えた。
「何を歌ってるんだ?」 「古い歌」 「それは分かるさ」 「貴方も歌って」 「少ししか歌詞を知らん」 「一言だけが分かればいい。あとは、私が歌うから」
もしも朝倉涼子が、長門有希とまったく同じものしか所持していなかったとしたら。 朝倉は、長門の前から消えずに済んだのだろうか
「それは意味がないわよ」
長門の中で、朝倉が笑う。
「そんな私じゃあ、長門さんと一緒にいたいと思わなかったもの」
長門は朝倉とともにありながら、朝倉が食事を用意してはくれない日常を思い浮かべてみた しかし、長門の胸に芽生えたその不思議な空白が、一体何であるのか。長門には分からなかった。 長門には欠けているものが多すぎたのだ。
「夢がある」 「どんな夢だ?」 「涙を流してみたい」 「そうすると、どうなるんだ?」 「私にも、理解できるかもしれない」 「何をだ?」 「彼女が私とともに居てくれた理由を。」 「そうか」
長門には求めるものがあった。 それが一体何なのか、長門には分からなかった。 けれど、だからこそ長門は
「あなたは私に、好きといわれたい?」 「当たり前よ」
「私は長門さんが好きなの。必要としてるの」 「私が存在しない場合、あなたが存在する意味はない」 「そうね」
朝倉はすこしさびしそうに眉を顰め
「たったそれだけのことなのかもね」
そういって、笑ったあとで、長門に触れられながら、わずかに涙を流した。
「あなたに会えてよかったわ」 「それは、あなたが存在する理由以上の理由で?」 「わからないわ。でも、うれしいの」
朝倉は笑った。 長門には、朝倉涼子が、過ちで生まれたものであるようには、どうしても思えなかった。
長門はこれから先、自分が引き起こすであろう過ちのことを思った。 それは果たして、過ちなのだろうか。
「私には、正しさが必要なのよ」
長門は正しさを求めているのだろうか。
「長門さん、好きよ」 「あなたに会えて、よかった」
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