長門有希とキス
「長門、今日おまえんち行っていいか?」いつも通りの二人きりの部活。俺は解放した気分でメガネをかけた長門に言う。わかってるんだ。断るはずなんてない、と。「……」沈黙の頬に赤みが差す。ハードカバーか俺の顔か、どちらを見ていたほうが自然なのか考えている風でもあり、しかし返答は俺も知ってのとおりだった。「来て」
下校から始まる長門のマンションに着くまでのシーンは今の俺には無意味であり、それゆえに飛ばした。あっという間に長門の部屋の玄関だ。別段、不思議ではない。「待ってて」俺を居間に通した長門は、いそいそと台所へお茶を淹れに行く。俺は面白がってその後をそっと追いかけ、緑茶をこぽこぽ入れる長門のすぐ後ろまで来た。俺に気づいたとき、びっくりしてお茶をこぼすだろうか?それとも、微笑を携えてゆっくり俺の胸にもたれかかってくるだろうか? 俺は迷った。どっちにしよう。「……あ」長門は増した影に気づき、俺に向かって振り向いた。また顔を赤くしていたが、お茶はこぼさなかった。
「ごめんな、びっくりさせて」長門はふりふりと首を横に振った。居間に落ち着いた俺達は、テーブルを挟んで向かい合っている。湯呑から立ち上る薄い湯気に、長門のカーディガンが少しだけ霞んでいる。俺はその裏にある小さな膨らみを想像し、そして切り捨てた。長門は俺と目を合わそうとしない。湯呑を覗くことに一所懸命だが、意識して俺の視線を避けていることは丸わかりだ。俺の長門はこうでなきゃいかん。「なぁ、なんで俺を見てくれないんだ?」
気持ちの悪い質問も、この長門なら大丈夫。はっとしたように湯呑から目を離し、ついに俺と視線がぶつかった。「俺のこと嫌いか? 長門と好きな本の話をしてる時だって、長門はあまり俺を見てくれない。なんでだ?」長門はなにかを言いかけてやめ、少し俯いたあと、「は……」その後に続く言葉が手に取るようにわかる。しかし俺はその言葉を、立ち上がる動作で遮った。怯えた長門の表情が愛らしい。俺が怒ってると思ったのかな? じゃあ、すぐにその誤解を解かないとな。
俺は無言でテーブルを回り、長門のそばにあぐらを掻いた。長門の正座を横から真摯に見つめるも、彼女の眼の先は湯呑と俺とを行き来している。「なに」ひざにちょこんと置かれた小さなこぶしが、彼女の吐く息とともに和らいだり固くなったりしている。俺はその手を半ば強引に掴んだ。「長門」ぐいっと引っ張ると、長門の体は三歳児の作ったバランスの悪い積み木のように、俺に向かって崩れた。なにが起きたか分からないでいる長門の顔が、俺の胸にある。俺は長門の男を酔わせるシャンプーの匂いを目一杯吸い込み、「好きだ」
ずれたメガネを直そうともせず、神秘の輝きを放つ彼女の瞳が俺を見つめた。距離にして15cm。いやもっとあるか。どっちでもいい。俺の頭はマッシロシロスケだ。今日こそは……。長門は何も言わず、ほんのりピンクに顔を染めた。普段と染まり方が違う。長門は黙って目を閉じて、全主導権を俺に預けた。彼女の唇が、もの欲しそうに俺に向かって差し出される。俺は迷わず、急いで、そこに自分の唇を近付けた――
朝、無音、自室にて。俺は目を覚ました。
「またあんな夢を」目をこすり、いったい何度目かという自己嫌悪と、あと少しだったのにという虚無感を同時に味わっていると、「おっはよ~う、あれ~起きてる~」妹型ミサイルが俺の基地に突っ込んできたが、不発に終わったらしい。シャミセンを抱えて部屋を出ていった。カーテンに阻まれた日光が、新たな一日の始まりを告げていた。
今朝のような夢を見始めてから、もう一か月以上になる。夢の中の俺はどこか傲慢でわかりきったような口調が目立つが、それも一か月というキャリアが成せる技なのだ。しかし、夢だというのをわかっているのに拒否しないというのは、一体全体脳の構造はどうなってやがるんだ。 俺は朝の身支度、食事にいたるまでをスムーズにこなし、余裕をもって家をでた。
「世界の消失」直後からだった。事件解決、退院したその日の夜から、違う世界の長門との先述した夢が、これまで毎日続いている。夢は決まってキスする直前で終わり、さらに日がたつごとに、そのリアリティを増していく。長門のシャンプーの香りが分かったり、長門の手から伝わる緊張さえもつかみ取ってしまうのはなぜだろう。脳の錯覚? 誰かに説明してもらいたいところだが、あいにく内容が内容なので、聞けば一発というやつには言えないのだ。すなわち、現実の長門には。
「はて、それはどういうことでしょう」そんな時の古泉だ。授業をそれなりにこなした後の昼休み、俺は中庭に呼び出して相談を持ちかけた。もちろん夢の内容は省略しまくりだ。俺はただ、「毎日長門の夢を見て困る」という非常にアバウトな証言に留めておいた。具体的な内容を問われると、「いや、違う世界の長門の部屋で一緒にお茶飲んでるだけなんだが」と、またまた当たり障りのない事実だけを述べた。古泉は証拠物件の少ない事件を扱う警察官のような微笑みで(これも難しい表情だが、)「毎日出続けるというのは、やはり本人、ここでいうあなたの強い願望を表しているのではないでしょうか。 つまり、あなたは違う世界の長門さんになにかしら強く惹かれていた。 世界は元に戻ったが、たとえば、今いる長門さんより人間らしさのある彼女を忘れることができない、と」失礼なことを言うな。今の長門だって十分人間らしいさ。そりゃ、あの時の長門みたいに笑っ――「笑っ、なんです?」目の前を歩いて通り過ぎる大統領を目を丸くして見つめるテロリストのような顔をした古泉が、ここぞとばかりに俺のプライベートゾーンに頭から突っ込んできた。「なんでもない。聞き流せ」
しばらくの間、俺の仏頂面と古泉のフレッシュスマイルが火花を散らしていたが、古泉がとうとう両手を挙げて敗北を宣言した。「あなたには敵いません。わかりました。もう突っ込みません」わかればいい。「あなたがそんな悩みを抱えていたとは。しかし、それなら先日の事件も納得がいきますね。 一か月も同じ夢を見続けていたら、少しはリアルにも影響しますか」3日前の放課後、文芸部部室。古泉の先日という言葉で、俺はその時のことを光よりもはやいんじゃないかというスピードで脳に浮かべた。
3日前の放課後。俺は部室に入るなり、他のSOS団員がいるにも関わらず、大声で、「長門、今日おまえんち行っていいか?」などとたわけたことをぬかしてしまったのだ。
ハルヒはぴくぴくと顔中の部位を動かし、朝比奈さんは持っていた俺の湯呑をぱりんと落とし、古泉ですらがいつもの微笑みを忘れていた。そして、長門。窓際の定位置についていた長門は、本から顔を上げ、不思議そうな眼で(俺や他の団員にしかわからないだろうが)俺を見つめた後、「そう」とだけ呟き、また読書にふけり始めた。「あ……いや……」俺はすぐにまずいという雰囲気を感じ取った。ハルヒが噴火の5秒前だ。「堂々とぬけがけなんて、いい度胸じゃないっ!!」
あれから、いや正確にはその翌日から、ハルヒは俺と口をきいてくれない。俺に命令する時も、朝比奈さんや古泉を使っての間接的な接触しかしようとしないのだ。いつもの、撃つことを躊躇しない殺し屋から放たれた弾丸のように迫るハルヒがいないのは、さびしいことだった。そして、長門までがその日以降、ぷつんと学校に来なくなってしまった。これはまったくの予想外だった。言っておくが、叫んでしまったその日、もちろん長門の部屋には行かなかったからな。おそらくハルヒの徹底した無視ぶりの決め手は、長門の休みにあるだろうと俺は予測している。最近の女っこ三人は仲がいい。入学したてのころのハルヒは、長門のことをあんた呼ばわりしていたからな。それに比べるとすさまじい進歩ぶりだ。ハルヒにしては。
「ふむ……誤解を解こうにも、涼宮さんにそのまま話すのは懸命とはいえませんね。 もしかしたら、もっと状況が悪化するかもしれない。 このところ、バイトが大忙しでして」 正直、今回はすまない。「いえ、いいんですよ。それが僕たちの仕事ですから。 しかし、夢を見るのをやめさせるだけでは、涼宮さんのほうは解決しませんね。あなたがうっかりしていたばかりに」気にすんなと言っておいて結局ねちねちとうるさいやつだ。「すいません。でも、もしかしたら、長門さんが学校に来てくれれば――」あとの言葉は、あいつ特有の無言オーラにかき消された。ざわざわしていた風がとんと止んだような、そんな錯覚を受けるほどだった。いつの間にか制服姿の長門がそばに立っていて、俺を見つめている。「これ。読んで」差し出された手には、文庫サイズの本。俺は言われるがままに受け取る。「ボッコちゃん」と書かれていた。
長門がそのまま立ち去ろうとしたので、俺が止めに入る。「長門。来てたのか」座っている俺と古泉の頭とほとんど同じ高さにある後頭部は、微動だにしない。「こないだは本当にすまなかったよ。妄言も妄言、妄言甚だしい。部室に来いよ。みんな待ってる」チャイムが鳴り始めた。周囲の動きが慌ただしくなる中、長門だけが時を止めたように動かない。そして、なんとチャイムが鳴り終わるまで沈黙を守り続けた。「読んで」 やっと喋ったと思ったら、ぽつりとそれだけ。歩き始めた長門の背中に、俺はもう声をかけなかった。「……授業が始まります。行きましょう」古泉の声に押されて、俺は立ち上がった。
本には思ったとおり栞がはさまれていて、今日の放課後に当たる時間、いつもの公園にて待つという旨が書かれていた。数学教師の声はまったく届かず、俺のすべての関心は栞に向けられている。今日は部活を休まなければ。「なあ、ハルヒ。今日はちょっと用があってな。部室に行けないんだ」こそこそ振り返った俺を、太古からそうであったようなむっすり顔が出迎えた。ハルヒはあからさまに俺から視線を逸らし、包み隠さずのどでかい溜息をこれ見よがしに吐いた。さびしいことはさびしい。「なんで?」くらいは帰ってくる気がしてたので、その口実まで考えてあったのに。だが、今回に限って言えば、この反応はラッキーだ。「ごめんな」できるだけ申し訳なさそうに体を前に戻すと、小さな舌打ちが裏から聞こえた。
まったく、なんだってんだ。
夕日に染められたいくつもの歴史が交差した公園に、俺は書かれた予定時刻よりもずっと早い時間に着いて、例のベンチに座っていた。ハルヒを除く今日の文芸部室に直行するであろう二人には、あらかじめ事情を話しておいた。朝比奈さんは俺のどじっこ発言に少なからずショックを受けていたようだが、「心配してますから……はやく元のSOS団に戻りましょうね」ハルヒの不機嫌モードと長門の不登校モードに挟まれ心苦しいようで、一刻も早い問題改善を願ってくれた。古泉はにやけ面にすべてを覆い隠してなにを考えているのかわからなかったが、「長門さんの目的がつかめませんね」楽観的に疑問を述べた。「あ……」古泉の呟きを元にいろいろな予想をしていると、透明感のある声が聞こえた。……ん?どうした長門。お前は、現実の長門のはずだろ?コンビニ袋を提げた長門は、帰宅途中に偶然俺と出くわしたという表情で、なんと眼鏡をかけていた。
口をぽかんと開けた長門に、俺は世界改変後の彼女の姿を想起せざるを得ない。なにがどうなってる。お~い。「な、長門?」俺はなぜか遠慮がちに言う。ベンチに座る俺との距離は3メートルほどだろうか。見えないベルリンの壁があるかのように、両者は止まった位置から動こうとしない。「なに」普通の長門も、同じことを言われたらこう言うかもしれない。しかし、今俺の目の前にいる長門は、直感でわかる。偶然の出会いに驚いたらしい“違う”長門の抑揚のない声には、確かに、嬉しさの感情がこもっていた。
「なぜここにいるの」俺がしどろもどろしているうちに、長門は乾き始めた雑巾から無理やり搾り取られた水分のような、か細い声をだした。どう答えよう。この短い一言から察するに、この長門は俺をここに呼び出したことを知らないらしい。長門が世界に二人いる?俺はそんなことを思ったりしたが、理由がわからない。いやいや。もしかしたら、長門がイメチェンを希望しているのだろう。男受けしそうな宇宙人になってやろう、と。あほか。断固保証する。長門はそんなことしない。勘だが、自信はありあまる。「あぁ~。よく来るんだ。うん。落ち着くしな」結局俺は、昼休みの長門を信じることにした。つまり、流されるままになってやろうというのだ。
「そういう長門だって、なんでここにいるんだ?ここ通ったら家まで遠回りじゃないか」言ったあと、しまったと思った。「今日は偶然」しかし、長門は俺の予想したlook at ザ・ストーカーな顔をせず、淡々と答えた。どうやら、俺は長門の自宅の所在を知っていてもいいようだ。「そうか……それは、夕飯か?」俺は座っていたことを思い出して立ち上がった際、コンビニ袋を指差した。「そう」俺の顔をじっと見つめてきたので、俺もそれに倣う。途中までずっとそうしていたが、スタートの合図のなかったにらめっこ対決は俺に軍配が上がり、長門は夢のなかのそれと一寸違わぬ赤みを見せてくれ、視線をそらした。
長門はもじもじと、俺の足の辺りを見つめている。これがたまらなく可愛いのだが、すべてを文に起こそうとすると朝比奈さんのそれと同じくらい行数を取ってしまうため、割愛させてもらう。「あぁ~……」それで俺は、どうしたらいいんだ。帰ったほうがいいのか。「ひ、暇だな、長門」とりあえず言ってみただけなのだが、これがいいほうに命中した。もし俺が自宅に帰るのが昼休みの長門の狙いなら、この長門は「そう」とか言ってここで別れようとするはずであり、それとは逆に、長門と俺がマンションの一室に行くことがシナリオなら、長門は「そう」といった後、「来る?」などと誘ってくれるはずだ。それ以外にもパターンはいくらでもあるだろうが、あとはもう、なるようになれだ。そして、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドなんたらかんたらの出した返答は――
「そう」長門は意を決したように俺を見た。「来る?」
「おなか、減ってる?」「ん?あ、ああ、減ってる。食べてっていいのか?」「いい」「悪いな」「いい」「メニューはなんだ?」「カレー」「そうか」「そう」これがエレベータでの会話の全記録である。俺に背を向けて立つ長門の小さな体は、こんな密室にあったら男にどんな妄想を掻き立てさせるかわからないほど繊細に見えた。チンという音ともに両開きのドアが開き、長門はとてとてと今では見慣れた玄関に向かう。鍵を取り出すのに袋が邪魔していたので、俺がそれを持ってやった。「あ……」この長門は緊張しっぱなしだ。顔も俺が見るときはいつだって赤い。「礼ならいいさ。早く開けてくれ」「あ」の続きが言えないでいる長門に俺はにっこり微笑み、彼女の表情に癒しを得た。
夢の中の別人のような俺に、なにか共感できるものを感じた瞬間だ。
「待ってて」夢の中と同じセリフをはいた長門がキッチンへ消えていく。ただ違うのは、消えた理由がお茶くみだけではなく、カレーの準備というところだ。おそらくレトルトだろうが、それでも常人の作るものと長門の作るものでは、心の差が大きい。。やがて長門が盆に載せた二つの湯呑をもって現れた。「……」テーブルを挟んでの対峙。出どころのはっきりしたデジャヴに、俺はいささか緊張する。「すぐできるから」「あぁ」夢とまったく同じくして、湯呑を盾に視線を避ける長門を見ていた俺は、どこか頭のねじが外れていたんだろう。
夢の続きをしたい。そう、思ってしまったのだから。
俺は景気づけにお茶を一気飲みしようとした。ぶはっぶへっ。あ、熱すぎだ。俺の口を発射口とした緑茶がテーブルと床、及び俺のズボンなどにかかる。「悪い、悪い、いやほんと――」長門がすぐに俺のそばに駆けつけて正座し、テーブルに置いてあった布巾でこぼれた個所をふき始めた。少しびっくりして見ていると、長門はそれに気づき、上目づかいで俺を見上げたあと、また作業に取り掛かる。 彼女の呼吸が聞こえる。少し荒れていて、それはもう、俺の理性の半壊に油を注ぐだけだった。気づくと俺は、濡れたズボンを拭きにかかった彼女の腕をつかんでいた。
「長門」長門の体が、俺がつかんだ瞬間びくんと振動するのがわかった。布巾が彼女の手からこぼれ落ちる。長門は目を丸くして、俺のつかんだ箇所をみている。「長門」もう一度俺は名を呼ぶ。長門は今度は、すぐそこまで迫る俺の顔を見つめた。少しだけ自分のほうに引き寄せてみた。長門が抵抗すれば振りはらえるような、本当にわずかな力で。そして彼女の体は、いとも簡単に俺の胸に吸い寄せられた。抵抗など、ミジンコほども感じなかった。
こんなことしていいんだろうか。残った理性が俺に訴えかける。しかしそんなものは、制服越しに伝わってくる長門の熱い息に吹き飛ばされてしまう。俺はたまらず長門を抱きしめ、態勢が不安定な彼女の体をさらに引き寄せる。「んっ……」抱き寄せられた反動で出た長門の声。俺の胸に押しつけられているため、それは少しくぐもって聞こえた。無理に力を入れすぎていたんだろう。長門がくぐもった声のまま、「苦しい」それで俺は力を緩め、少しうるんだ瞳をした長門を自分から引き離した。「すまん」
長門は俺に何も言わず、少し息を整えていたかと思うと、なんと片方の腕を俺の首に絡めてきた。首からぶら下がった長門の細っこい体を支える俺はまさに、お姫様だっこ現在進行形王子だろう。持ち上げてはいないが。頬は紅潮しているのに、長門は俺から目を離さない。変なところで積極的だった、あの長門とそっくり、いや、そのものだ。「……」長門が無言で訴えかけてくる。ああ、ああ、わかってるとも。俺はもう止まらないぜ。これは夢じゃない、現実の出来事だ。現実から覚めるなんて妙な日本語あるわけがない。俺はごくりと唾を飲み込み、長門は静かに目を閉じた。二つの唇が、少しずつ、少しずつ接近していって――
そして、重なった。
唇だけでは我慢できなかった俺は、すぐに長門のマシュマロ唇の中に舌を入れる。それだけで脳味噌がトロけちまいそうだ、まったく。長門の前歯をなぞると、俺の腕を掴む彼女の手に力が加わり、そして一瞬で緩む。この緩急がたまらん。舌同士も絡めたが、長門の舌はなぜか消極的で、自ら絡めてくるようなことはなかった。おかげで俺はずいずいと長門の口の奥まで進んでしまい、キスの激しさは増していく。どちらのともつかぬよだれが、互いの口の隙間から溢れた。俺は長門の熱い唾液を吸い、飲み込む。彼女の鼻息が不安定なリズムで俺の顔にかかる。長門の興奮が伝わってきて、俺はそれよりもっと興奮した。今の俺に赤い布を振って生きていられる闘牛士はいないだろうと、そう断言できるほどの興奮ぶり。いやほんと。そして俺は、それ以上を求めて、彼女の胸をまさぐろうと、手を伸ばした――
「自己改変プログラム解除。問題の修正を確認」
……なんですと?
“普通の”長門が、自然に俺との口づけを剥がしたかと思うと、眼鏡を外しながらそんなことを言い出しやがった。頬に赤みなんてどこにもない。マグロ一匹持ってこいと言いたくなるほど、長門の肌を染める色などなかった。長門は口についたよだれを袖で拭きながら、ちょこんと正坐した。「この三日間、情報統合思念体はあなたの言動に対する調査及び問題の確認、その解決策の準備に追われていた。 私はその実行役。あなたの脳内に残ったウィルスを、ワクチンを送り込むことによって消去、状況を改善した」うむ、相変わらずなにを言っているのかわからない。もう少し詳しく聞いてみようじゃないか。今のおれは、夢のときなどとは比べ物にならないほどの虚無感と、そして新しく羞恥心が満ちているが、だからと言って何もする気が起きないでいるわけではない。やはりすべては長門の思惑だったのだ。そういうことにしておかないと身が持たない。
「その、だな。言動、っていうのは、三日前の部室のときの、あれか?」「そう」よく無表情でいられると、失礼ながら思ってしまうね。ほんの秒前までキスしてたのに。そこから長門の説明が始まった。できるだけわかりやすいように言ってくれと、念を込めたうえで。「我々はまず、あなたの夢の観察を行った。その結果、あなたの脳に、私が改変した世界のデータが一部残っていたことがわかった」それは、記憶のことじゃないのか?あの数日間のことならいくらでも覚えてる。それからやっぱり、長門には言わずとも事の成り行きがわかっていたらしい。あの夢を見られていたか。……。「記憶とは違う。世界、そのもの」長門は慎重に言葉を選んでいるようだった。区別の説明が難しいのだろうか。「それはあなたの中で生き、増殖を続けていた。そのままにしておくと、夢を媒体として、改変されたデータが世界に出回ってしまう可能性があった。 あなたの発言は、その予兆ともいうべきもの」夢。増していくリアリティ。現実と夢の狭間。「最終的には、世界が終るかもしれなかった?長門が異変に気づかなければ?」長門はこくんと頷いた。そして、「すまない」ぽつりと言った。
おいおいおいおい。お前が謝ることなんてなにもないぞ。むしろ、責められるべきは俺だ。俺があの世界に未練がなかったと言えばウソになるからな。そんな心のわだかまりが、そのデータをホイホイしちゃったんじゃないのか?「原因は不明。ただの偶然かもしれない」長門が落ちていた布巾を取り、俺のほうに差し出した。「拭いて」淡々という長門に、今度は俺が赤面する番だった。おずおずと受け取った俺は、口周りを拭く。苦し紛れに会話を切り出した。「ウィルスってのは、じゃあその改変データのことか?」こくんと長門。なにもウィルスと呼称することもないだろうに。「じゃあ、ワクチンは?」長門はゆっくりと、自分の唇に人差し指を当てる。その仕草にぞくりとくる俺。こんなにも長門が魅力的に見える日もないだろう。「ワクチンは液状」それだけ言って、膝の上に手を戻す。なるほどね。あんなワクチンだったら毎日でも注入されたいぜ。
「ただ注入するだけでは効果はあまり期待できない。できるだけあなたの見ている夢の状況に合わせる必要があった。 結果、うまくデータをおびき寄せることに成功」あまり似てなかったけどな。放課後の部室から始めなくてよかったのか?「重要なのは、あなたの願望が一番顕著になっているシーン」恥ずかしいことをびしばし言ってくれるな、この長門は。いや、いつも通りだからいいんだよ。うん。「う~ん。それじゃ、それらの準備に大忙しで、学校に来られなかったのか?」長門はここで少し黙った。飄々とした物腰で俺を見つめるのはやめてくれ。赤面長門の気持がわかるってもんだ。「問題の確認とワクチンの作成に時間はかからなかった。 一番の原因は、自己改変プログラムの作成」
自己改変プログラム。その響きだけでそれがどういうもんか分かる気がするが、そんなに時間をかけるものなのか。長門なら、どんなギネス記録でも三秒で塗り替えられる気がするんだがな。「自分を変えるのは難しい」長門は単調に言う。「作成手順の問題ではなく、わたしがどのような人物になればよいのかわからなかった。あなたの夢のなかの私を見て研究したが、それでも学校に行く余裕がなかった」ゆっくりやればよかったじゃないか。みんな心配してたんだぜ。そんなすぐに改変データが出回ることはないんだろ?「私のまいた種だから」 長門はそれだけ言って、台所へ向かった。
ルーがすべてを覆い尽くした長門家特製レトルトカレーは、居間に運ばれたとたん俺の空腹感を呼び覚ました。「食べて」言われずもがな。一種のやけ食いのような心持でカレーにかぶりつく俺を、長門はじっと見ていた。食わないのか?「キスしていた最中のことは覚えていない。安心して」ぶはっと俺は口に含んでいたカレーを皿に吐き出した。もう放っておいてほしいことをずけずけ言いやがるやつめ。「今回の改変プログラムは記憶の受け継ぎができないように設定してある」ああ、そうかい。でも、最後のほうは覚えてるだろ。「そう」長門はやっとスプーンを持った。「では、それも覚えていないことにする」パクリと一口目。「あなたと涼宮ハルヒの関係の修復を希望する」その日の夜は、それでおしまいだった。そして、とうとう夢を見ることもなかった。問題は修正されたのだ。
「おめでとうございます。それでは、長門さんの特製カレーワクチンで、改変世界のデータの消去に成功したのですね」昨日の夜のいろいろな出来事を混ぜ合わせ、結果としてねつ造という聞こえの悪くなった我が告白に騙された古泉が、のほほんと微笑んでいる。「カレーの中に含まれるいくつかの香辛料との調和が、ヒューマノイドインターフェイスでも難しいとされるワクチン製造の秘訣だったとは。 驚く限りです」本当に信じているのだろうか。まぁ、いい。こいつはこれ以上踏み込んでこないだろう。長門ワクチン注入から翌日、ハルヒに置いてけぼりにされた放課後、俺は部室へ行く途中で一緒になった古泉と肩を並べて歩いている。「昨日、夢は?」見てない。「よかったですね。リアルに影響が及んだかも、ですか。そういえば最近、僕もいやにリアルな夢を……」気のせいだ。間違っても長門に相談なんかするんじゃないぞ。「冗談ですよ」すれ違った二年生が振り返るほどの微笑を携えたこの男は、それ以上はしゃべらなかった。
部室のドアを慎重に開け、朝比奈さん印のお着替えシーンが行われていないかチェックする。朝比奈さんはすでにメイド服だった。「こんにちは、朝比奈さん」「あ……こんにちは、キョンくん」どこか遠慮がちだが、それは俺がまだ彼女に事件の真相を伝えていないからであり、それを話せば俺は再び朝比奈さんの屈託のない笑顔を拝むことができるのだ。そうであってほしい。「よう、長門」たった三日休んだだけなのに、この姿が窓際の椅子に飾られていると、迫りくる新鮮さが半端じゃない。メガネはもちろん外している。俺をちらっと見ただけで本に視線を落とした長門は、やはり元の世界の長門だった。「ハルヒ」かちかちとパソコンをいじっていたハルヒが、ぶすっとした顔でこっちを見る。「なによ」なんと、無視しないではないか。長門が来たからであろうか。
「有希にショック受けさせて三日も休ませた男がな~にすっとぼけた顔でいんのよ。 結局勘違いだったって昨日電話で有希から言われたけど、あたしは許さないんだからねっ」オッケー長門、打ち合わせ通りだ。「悪かったよ。この通り。あの時は頭がぼんやりしててな。あれ、実はお前に言おうとしてたんだ」俺は昨日の夜から温めておいた無謀すぎるプランを実行に移す。失敗したら、そんときゃそん時だ。「あたしに……?」不信感が目からあふれている。この一言だけでなんとかなるなんて思っちゃいない。決め手は次だ。「悲しいかな、俺は、自分の学業成績がどんぞこに落ちていく夢を、ここ一か月毎日見ていたんだ。 母親からの塾への催促、担任岡部の「こんままじゃやばいぞ」、谷口の「お前も俺と同じだな」、 さまざまなプレッシャーが俺を襲った結果、心身ともに疲弊しきった俺は、部室に入るなりお前と長門を見間違えたってわけさ。ついでに名前も」ハルヒの目つきは変わらなかったが、奥のほうで瞳が和らいでいるような気がした。
「確かにあんた、成績は落ち込んでるわよね。それで、なんであたしの家に来るって結論になるわけ?」窓際の長門が、本を読む手を休め俺を見ていた。「勉強を教えてくれよ。中間まで一週間きってるんだ。つきっきりで頼む」手を合わせ頭も下げた俺に、ハルヒはどう答えるだろう。こんなことで、関係の改善はできるだろうか。俺がなにもかもに疑心暗鬼になっていると、ハルヒの声が下げた頭に降り注ぐ。「部室じゃだめなの?」だめだ。マンツーマンだかワンツーマンじゃないと。それに、俺がおまえんちに行ってみたいってのもある。あらゆる神々に祈りを捧げる俺をみて、とうとうハルヒは観念したようだった。
「まあ、いいわ。そんなに来たいっていうなら来させてあげる。ただし、夜食のお菓子は全部あんた持ちだからねっ!」
泊まらせる気か、こいつは。
end
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