夏の夜の風物詩
『夏の夜の風物詩』
「やっぱり海はいいわねー」
両足を肩幅に開き、両手を腰に当てて水平線の彼方を見据える真っ赤なビキニの後姿が、青い海と青い空と真っ白な砂浜を背景に目にまぶしすぎる。振り返った我らの団長様は、今日の太陽以上にさんさんと輝く笑顔で叫んだ。
「さぁ、行くわよ!」
猛然と海に突進しあっという間に小さくなって行くハルヒと、その後をゆっくりと駆けていく朝比奈さんの姿を追いながら、俺は隣でビーチパラソルの準備をしている古泉に話しかけた。
「見ているだけで疲れるな、あいかわらず」
「そうですか? むしろこちらまで元気になるような気がしますけどね」
「そう言うときも確かにあるが、毎日毎日あのテンション見せつけられたら、疲れることの方が多いと思うがね」
古泉は軽く肩をすくめると、三つ目のパラソルを砂浜に突き立て始めた。俺は、二つ目のビーチパラソルの下にレジャーシートを広げながら、すでに滴り始めた汗を軽くぬぐった。そして、ジュースやお茶と保冷剤のたっぷり入ったクーラーボックスをシートの隅に重石代わりに置き、ひとまずできたてのパラソルの影に腰を下ろした。
隣の一つ目のビーチパラソルの影では、すでにSOS団の読書マシーンが、夏の海辺には似合わないハードカバーを広げている。以前にもプールで見かけた水色のワンピースの水着姿の長門は、日陰でさえ三十度を越えるような炎天下でも、何一つ変わらない涼しげな表情で黙々とページを繰っている。クーラーの中の保冷剤よりよく冷えるんじゃないかね、あいつは。
そんな俺の視線を感じたのか、長門はゆっくりと頭を上げると俺の方向かって小さく首を傾けた。
「泳がないのか」
「あとで」
「じゃ、先に行くぞ」
気にしないで行って、と言う感じで一つ瞬きをした長門は、再び読書に戻った。
今日からはSOS団恒例となった夏合宿だ。去年の孤島とは異なり、今年は普通に海辺のペンションに泊まることになっている。もっとも、ほんの数日前にハルヒの思いつきで決まった合宿計画に追従して宿を確保できたのは、機関のおかげであることは言うまでもない。つまりは、機関の息のかかった施設なのであろう。
流石にプライベートビーチではないのでSOS団以外の海水浴客もいるが、砂浜の広さの割には人数がまばらなので、貸切に近いような状態だ。これならハルヒが少々大騒ぎしても、他の人たちに迷惑をかけることもあるまい。
俺は波打ち際でサンダルを脱ぐと、日差しを浴びて熱くなった体には少し冷たく感じられる海にそっと入って行った。少し先では、ハルヒが朝比奈さんに後ろから抱き着いて、朝比奈さんのはちきれそうな水着の胸をがばっとつかんでいる。
その朝比奈さんの水着は、ひらひらしたスカートの付いたピンクの花柄のワンピースで、背中が大きく開いていて首の後ろに大き目の結び目があるものだった。それにしてもどんなタイプの水着を着ていてもよくお似合いです、朝比奈さん。
「す、涼宮さーん、や、やめてくらさわぁーい」
「もう、みくるちゃんたら、毎年のように胸、成長してるんじゃない?」
「そ、そんなことないです。あっ、そこはやめて、水着がとれちゃいますぅ」
「キョン、いいところに来たわ、ちょっとみくるちゃんのこと押さえてよ。胸の大きさ確かめるから」
「えっ!」
「な、なにをバカなことを……、いい加減しろよな」
朝比奈さんの背後に張り付いているハルヒを引っぺがしていると、古泉がビーチボールを持ってやってきた。いいタイミングだ。
「いかがですか、ひと勝負」
その後少し遅れて参加した長門も含めて、ひとしきりビーチボールで遊んだ後、沖のブイまで競争したり、水中で魚を追いかけてみたりと夏の海を満喫した俺たちは、ビーチパラソルの下で休憩タイムとなった。
海で泳いでいるわりにはポテチの塩味が美味しく感じられるのは、かなり汗をかいているからだろう。ハルヒはそんなポテチを口いっぱいに頬張りながら、
「晩御飯の後は肝試しよ」
「えぇー、肝試し、やっぱりやるんですかぁ……」
「何言ってるの、みくるちゃん。夏の夜は花火に肝試し、これは日本の大切な風物詩なのよ」
ううむ、確かに花火も肝試しも夏の風物詩で間違いはないが、どうせなら肝試しではなくて、夜店に盆踊りあたりにしておいて欲しいところだ。
「とにかく、今日は肝試しやるからね。後でペンションのオーナーに肝試しにいい場所がないか聞いてみるわ。夕飯前に少しロケハンしておきましょ」
スポーツドリンクを一気飲みしたハルヒは、再び海に向かって駆けていった。
四時過ぎまで海で遊び続けた後、ペンションに戻ってきたハルヒは、オーナーと何か話をすると、古泉と共に出かけていった。さっき言っていたように肝試しのロケハンと準備に行ったんだろう。
頼むぜ古泉、ハルヒが変な仕掛けをしないようにうまくやってくれよ。
夕食は、海の幸や山の幸の素材を生かした品々で、どれもこれもすこぶる美味かった。量的にもそこそこあったと思われるが、長門はともかく朝比奈さんも完食するぐらいだから、かなりのものだった。さすがにデザートの後、おなかをさすりながらポツリと「ダイエット……」とつぶやいていたけどね。
「ぷふぁー、すごーく美味しかったし、おなかもいっぱいになったわね」
ハルヒは、十分過ぎるほどの笑みを浮かべながら、チラッと壁にかけられたアンティークな時計を見上げた。
「じゃ、次は腹ごなしの肝試しね。三十分後にエントランス前に集合よ」
ごちそうさまっ、と言って朝比奈さんを引き連れて部屋に帰っていったハルヒを見送りながら、俺は古泉の方に振り向いた。
「なぁ、肝試し、大丈夫か?」
「少し先のほうに小さな祠がありましてね、そこまで行くことになりそうです。夕方に見た限りは、特に何もありませんでしたけど」
「今日は新月」
テーブルの上の水の入ったコップを見つめながら長門がポツリと言った。
「おそらく真っ暗闇の中を歩くことになる」
「……何かあったら頼むぜ、長門」
顔を上げた長門は、小さく肯いた。
「ちょっと、キョン、もっとしっかりガードしなさいよ」
「なんだよ、怖いのかよ」
「こ、怖くなんかないわ。ヒラの団員が団長のことをサポートするのは当然でしょ」
「はいはい」
長門が言っていたように、月明かりが無いため予想以上に周囲は暗かった。時折、風でも吹くのか木々のざわめきが聞こえるし、ジジジジという虫の声も不気味な感じを醸し出している。手に持っている小さなペンライトは、ほとんど足元しか照らしてくれず、目の前に広がる闇はどこまで行っても俺たち二人を包み込んで離さない。
いい加減、「夏の夜は花火に肝試し」というワンパターンな発想は卒業してもらいたいのだが、そんな切実な願いはハルヒには届かない。というわけでSOS団肝試し大会は予定通り始まってしまった。
ルールは単純。暗い夜道の先にある祠まで行くだけ。途中でお化けや幽霊の格好をした新川さんや森さんが飛び出してくることもないらしい。ただ暗いだけ。だが実はそれが一番怖かったりするんだな。闇は人間の五感を鋭くし、想像力と妄想力を高めてくれる。
いつもの爪楊枝による組み分け抽選で、俺はハルヒとのペアになった。まぁ、古泉と男二人にならなかっただけましか、と思ったが、今となっては男二人でも結構厳しい状況に陥っていたかもしれない。それほど、この闇の中には何かを感じさせるものがある。
俺たちの少し後からは、古泉と朝比奈さんと長門がやってきているはずだ。たぶん朝比奈さんはスタート早々に腰が抜けて、古泉の背中におんぶされているのかもしれない。まぁ、長門がいれば、本当に魑魅魍魎が出てきても何も気にすることはないだろう。
もう少し行けばゴールの祠があるはずで、そこにお賽銭を上げることができれば終了だ。祠の後ろ側には、明るいうちに準備しておいたでっかい懐中電灯があり、その先にしばらく行けば、街灯のある普通の道路につながっているので、もう暗い夜道を歩く必要はない。
「あ、あと少しだな」
「キョン、あんたも声が震えてるじゃないの……」
「そんなことは、な、ないぞ。それにそんなに巻きつくな、歩きにくいじゃないか」
「何よ、あたしみたいな女の子に密着されてうれしいんじゃないの?」
「ふん」
確かに、俺の左腕にしっかりと巻きついているハルヒのやわらかさと暖かさは感じるんだが、それを堪能する余裕はこれっぽっちもない。今はただ闇に向かって進んでいくしかない。
「これだけ暗いと、何か出てきてもわからないな」
「ちょっ、キョ、キョン、変なこと言わないでよ! ホントに出てきたら困るじゃないの……」
「お前、この世の不思議に出会いたいんじゃなかったのか?」
「それはそうだけど、今は遠慮しておくわ」
頼むぜ、お前のトンデモパワーでへんなもの呼び出さないでくれよ。
俺はスタートしてからずっーと心の中で念じている願いをあらためて思い起こしながら、一歩一歩と進んでいった。
遠くに祠のろうそくの灯りが見えたような気がしたその時だった。突然、生暖かい風がビュワンと吹いて、周囲の木々が大きく揺れた。
「きゃ、な、な、何?」
驚いたハルヒは、俺の腰にしがみついてきた。俺も思わずハルヒの肩を右手で包み込んだ。
「た、ただの風だろ……」
「…………うん」
風が止むと再び静寂と漆黒の闇が舞い降りてきた。
俺たち二人は軽く抱き合った状態であり、こんな状況はあの閉鎖空間での出来事以来なのかもしれないが、もうそんなことをあれこれ考えているどころではなくなった。今は、祠のところにすこしでも早くたどり着いてこの暗闇から抜け出したい。
「ハルヒ! 走るぞ!!」
「う、うん!」
腰に巻きついたハルヒの肩をしっかりと支えつつ、俺たちは、祠があるはずの方向に走り出した。
「足元に気をつけろよ」
「あんたもね」
暗いので全力疾走はできないが、それでも遠くの祠の灯りが少しずつ近づいてくるのがわかる。そうだ、もう少しだ……。
走るにつれて、その灯りがぐんぐんと大きくなってくる、そう、俺たちが近づく速さ以上の勢いで……。
な、な、な、何―!?
あっという間にソフトボールサイズにまで丸く大きくなったその灯りは、オレンジ色に輝きながら目の前に飛んできたかと思うと、ハルヒの背中に吸い込まれるように消えていった。
ほんの一瞬の出来事だった。
俺は茫然自失のままでその場で立ち止まり、左側の腰に巻きついているハルヒの方に視線を向けた。
「ハ、ハルヒ、大丈夫か……」
「キョン、あ、あ、あたし……い、今……何が……何かが……」
かすかなペンライトの灯りの先に、驚いた表情のハルヒが浮かび上がっている。
「どうした?」
「キョン!」
ハルヒは俺の正面に回りこむと、胸元に飛び込んできた。そのまま押し倒されそうな勢いを何とか押しとどめつつ、俺はハルヒを抱きしめた。
「ハルヒ、ちょ、ちょっと待て、どうした?」
「…………」
「ハルヒ? ハルヒー!」
俺の胸の中でハルヒの力がすぅーっと抜けていき、一気に体重が感じられるようになった。俺の腕にもたれかかるようして目を閉じているハルヒは気を失っているようだ。それも、とても幸せそうな表情で、優しい笑顔のままで。
どういうことだ? 何があったんだ? 今のはいったい?
今にも崩れ落ちそうなハルヒを必死で抱きかかえたまま、俺は暗闇の中で立ち尽くすしかなかった。
それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。数秒かもしれないし数分だったかもしれない。やがて暗闇の向こうから、小さく小刻みな物音と共にかすかな灯りが近づいてきたのがわかった。
また、何か来たのか? 今度は何だ、もう勘弁してくれ。
「…………?」
「な、長門か?」
こんな時でも三点リーダで誰だかわかるのは、俺だけかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。ペンライトを持った長門の姿を見て、俺は大きくため息をついた。
これで助かる、もう怖いものはない。
「長門、助けてくれ、ハ、ハルヒが……」
「大丈夫。とにかく祠の向こうへ」
長門は、ぐったりしているハルヒを俺から受け取ると、お姫様抱っこをして静かに前方の暗がりに向かって歩き始めた。俺は、そのすぐ後をペンライトで足元を照らしながら追いかけた。
「古泉と朝比奈さんはどうした?」
「スタート後、一分二十三秒経過した地点で朝比奈みくるはその場から動けなくなった。そのため、古泉一樹は朝比奈みくるを連れてペンションに帰還した」
なんと、朝比奈さんはやっぱり腰を抜かした状態になってしまったのか。
「その後、私一人で肝試しを継続したが、前方の空間に異常な動きを検知したので駆けつけた」
「そうなんだ、突然何かがハルヒにとり憑いたような感じで……」
「今はまずペンションへ戻る」
やっと祠に到着したが、そこにはろうそくの灯りなんて最初からなかったようだ。ということは俺とハルヒが見たあの灯りは一体なんだったんだろうか。
俺は祠の後ろ側から懐中電灯を二つ取り上げ、両手に一個ずつ持って長門の隣を進んだ。長門に抱きかかえられたハルヒはまだ気を失ったままだった。
俺と長門はやっとのことでペンションに帰り着き、ハルヒをベッドに寝かしつけた。やはり穏やかな表情をしている。あれほどの恐怖にさらされた後に気を失ったとは考えられないほどの優しい笑顔だった。
「長門、助かった、すまんな」
「いい」
俺と長門が部屋に飛び込んだ後、古泉と朝比奈さんも驚いて駆けつけてきた。
「どうしたんですか、いったい」
「す、涼宮さん……」
今、ハルヒが眠っているベッドの周りを、先に帰った古泉と朝比奈さんも含めてSOS団のメンバが取り囲んでいた。俺は、あの暗闇の中で起こったこと、目にしたことをゆっくりと話し始めた。
「何か霊的なものでしょうか?」
話し終えた後の沈黙を破ったのは古泉だった。
「祠に祀られた、何がしかの霊的存在が涼宮さんに憑依した……」
「ひ、ひえぇーー」
また腰を抜かしそうな朝比奈さんだったが、今度は何とか耐えているようだった。
「霊ではない。何らかの情報生命体の一種」
背筋をピンと伸ばした有機アンドロイドは、眠っているハルヒにチラッと視線を送った後、話し始めた。
「祠周辺に存在し浮遊していた狭帯域宇宙存在の一種の情報生命体」
「な、なんだって?」
「狭帯域宇宙存在の一種の情報生命体」
「それはつまり……」
「簡単に言えば、以前阪中家のルソーに憑依した情報生命体に近い存在」
「また、ハルヒの力なのか?」
「涼宮ハルヒの力はきっかけの一つ」
どうして次から次へ、あれやこれやとよくわからん変なものを呼び寄せてくれるんだよ。おかげで俺たちは振り回されてばかりだ。そんな俺たちの苦労も知らずに、ハルヒは眠ったままだった。
俺はハルヒの寝顔を眺めながらポツリと言った。
「よくわからんが、結局は幽霊みたいなもんだろ、それがハルヒに取り憑いた……」
「違う、情報生命体」
「人類にとって理解しがたい存在は、幽霊みたいなもんだ」
「物理的に明確に存在するもの。ただ、人類が理解できるレベルに至っていないだけ」
「まぁまぁ、ここで科学と哲学の境界についての論争をしても仕方ないですよ」
古泉はあきれたような笑顔で俺と長門の間に割り込んできた。俺だってこんなことで長門と言い合いをするつもりはない。今は混乱しているだけだ。
「す、すまんな。……それで俺たちはどうすればいいんだ?」
「涼宮ハルヒをここまで運んでくる間に、わたしは情報生命体とのコンタクトに成功した」
長門は、しばらく目を閉じて考えを整理した後、ゆっくりと話し始めた。
その長門の話を簡単に整理するとこうだ。
いつの頃かはわからないが、一組の生命体が地球にやってきた。
便宜的に彼と彼女といっておくが、二人は仕事上のパートナーであり、誕生して間もない地球で発生するさまざまな出来事の観察という仕事を行っていた。
やがて、彼女は彼に対してほのかな恋心を抱くようになった。その想いは日に日に大きくなっていき、彼にその想いを告げようとしたとき、なんらかかのトラブルに巻き込まれてしまった。彼女は命を落とし、彼の方も瀕死の怪我を負った。
その事故の後、彼は任を解かれ、地球を去ったのだが、彼への強い想いを断ち切れないまま彼女の思念は地球上に残り、長い長い年月を経て、やがて物理的な実体を持たない情報生命体として地球上で独自の進化を遂げたということだ。
朝比奈さんは大きな瞳を潤ませて両手を口にあてた状態で固まっている。古泉は軽く腕組みをして遠い目をして天井の方を眺めていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「彼への想いを伝えられないまま命を落としてしまい、離れ離れになってしまった。その伝えたかった想い、伝えられなかった想いがあまりに大きく、強かったために、時間を越えて彼女は情報生命体として……、いわば、霊的存在として残り続けた。いつの日か想いを遂げて成仏することができるまで……」
「地球における通俗的な表現方法に従うなら、ほぼその通りで間違いない」
そこまで聞いた古泉は、右手の人差し指をスッと立てて、すべてを理解したように話し始めた。
「おそらくは、涼宮さんとあなたが仲睦まじく暗闇を歩いてくる姿を見て昔の記憶が蘇った情報生命体の彼女は、彼との日々を思い起こして思わず涼宮さんと一体化した……」
「そう。しかしながら、一般的な人類の一員である涼宮ハルヒは、情報生命体との共生に耐えることができなかった。そのため、時を待たずして気を失ってしまった」
「一瞬とはいえ、涼宮さんはあなたの胸の中に飛び込み、あなたに包み込まれるように気を失った。その涼宮さんと一体化した情報生命体としても、彼に優しく抱きしめらたと感じていた。だから、涼宮さんはこれほど幸せな表情だったわけですね」
古泉の解説を聴きながら、俺は眠っているハルヒの表情を眺めていた。確かにこれほど落ちついた柔らかい表情のハルヒを見た記憶はほとんどなかった。幸せに満ち足りた笑顔に見える。俺は長門に話しかけた。
「すると、その情報生命体とやらは、もう十分満足したのか? もう成仏したのか?」
「残念ながら、まだ、情報生命体は涼宮ハルヒの中に存在する」
長門は黒い瞳を俺のほうに向けた。
「わたしなら情報生命体と安全に共生することができる。あとはわたしが引き継ぐ」
長門はベッドに近づくと、ハルヒのこめかみに手を当て少し長めの呪文を唱えた。
しばらくして、静かに手を戻した長門は、俺のほうを見上げて、ゆっくりと口を開いた。
「こんばんは」
そして長門は、小さく首をかしげながら微笑みを浮かべた。
「な、長門、おまえ……」
驚いた俺が声をかけようとすると、長門は少し頭を下げつつ、
「この度は、あなたや、特にハルヒさんには大変な迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
そういって、ベッドのハルヒの方に振り返った。
「今、わたしは長門さんの体を借りてこうしてお話しています。長門さん、人間ではなかったんですね……」
なんとなく苦笑いをする長門を見つめながら、俺は自分で自分のことを『長門さん』と呼ぶ長門に少しばかり違和感を持たざるを得なかった。今、長門はハルヒに憑依していた情報生命体と一体化しているらしい。
本来の長門はどうなっているんだろう。共生とか言っていたが、大丈夫なのだろうか?
「長門さんのことなら大丈夫です。今はわたしに制御権を譲ってくれています」
再び振り返った長門は、俺や古泉を見渡しながら、申し訳なさそうに話した。
「ほんとうに、わたしのわがままのためにご迷惑をおかけしてしまいました。でも、どうしても最後の望みを、わたしの希望を叶えたくて……」
「詳細は長門さんから聞いています」
古泉は、口元に小さく笑みを浮かべながら、
「僕たちはどうすればいいのでしょうか」
「すみません、本当に……」
そう言った長門は俺の目をじっと見つめながら、
「少しの間だけ、わたしと一緒にいてください。それだけで結構です」
「お、俺、なんですか? 俺でいいんですか? なぜ?」
「それは、涼宮さんも長門さんも……、い、いえ……」
そこで一瞬言葉に詰まったが、やがてにっこりと微笑んだ長門は、はっきりとした口調で言った。
「わたし自身としても、ぜひあなたと最後の時間をすごしたく思います」
「最後の時間って、そんな……」
「いいんです、気にしないでください。通俗的な表現方法で言うところの成仏させてください」
うーん、にっこり笑って『成仏させてください』といわれても戸惑ってしまうんだが……。しかも、姿かたちは長門なんだから……。
その後、古泉と朝比奈さんにはハルヒのそばについていてもらって、俺と情報生命体が共生している長門は、ペンションを出て海岸へ向かった。
相変わらず外は暗いが、さっきの肝試しの小道とは違って、ところどころに明かりがあるため足元はよく見えている。しばらく歩くと、俺たち以外は誰もいない砂浜にたどりついた。多くの星が輝く夜空の下で、ゆったりとした波の音が響いている。
その波の音を聞きながら俺は長門と並んで歩いていた。ただし今はいつもの俺の知っている長門ではなく、情報生命体とやらにその小さな体をレンタルしているらしい。妙に人間くさい話し方や抑揚のある表情を見ると、こんな長門もありかな、と思ってしまう。
しばらく、二人とも無言だったが、ふと立ち止まると長門は俺の方を振り返り、微笑みかけてくれた。俺はその微笑に返答した。
「静かですね」
「はい」
「ずっと、ここにいたんですか?」
「ええ、ずっと、一人で……」
長門は砂の上に腰を下ろした。俺もその隣に並んで座った。わずかに吹いてくる海からの風を受けて長門のショートカットの髪がかすかに揺れている。
沖の方に見える小さな明かりは漁船だろうか、波の音だけが響く静かな夜だった。長門は遠く水平線らしき方向をじっと見つめていた。
「創世期の地球はすごい状態でした。あちこちで火山が噴火して、暗い夜空にさまざまな色とりどりの火花が上がり、空にはいつも火の粉が舞っていました。それは、遠くから眺める限りはとてもきれいで幻想的な光景でした」
俺の隣で座っている長門は、手を後ろにつき、暗い夜空を眺めていた。
「そんな中、わたしたち二人はいつも一緒に、お互い助け合いながら地球の観察を続けていました。時にはわたしが彼の命を救ったこともありました。そんな彼はいつも私のことを気にかけてくれて、じっと見守ってくれているようでした」
「幸せ、だったんですね……」
「えぇ」
振り向いた長門は目を細めて軽く首を傾けた。今にも消え入りそうな切ない微笑みだった。
「そうだ、ちょっと待っててください」
「えっ?」
そういって俺はペンションに向かって走り出そうとしたが、長門が俺の腕を取って引き止めた。
「待って、一人にしないで、一緒にいて……」
長門は寂しそうな瞳で俺を見つめている。そうか、もう一人きりにはなりたくないんだな、ほんのわずかでも……。
「……すみません、じゃちょっと一緒に来てください」
俺と長門はいったんペンションに戻った。そして、明日の夜にやるつもりだった花火が山ほど入った袋からいくつか取り出すと、再び海岸にやってきた。
俺は、自分たちの周りにドラゴンと呼ばれるタイプの吹き上げ型の花火を並べると、順々に火をつけて回った。
それらは、ひとつずつ激しく火花を噴き上げ始めた。やがて俺たちは赤や青の火の粉を巻き上げて白く輝く光の柱に取り囲まれて立っていた。
「あなたが見た火山の噴火ほどではないでしょうけどね」
長門は両手を胸に当て、周りの花火をじっと見つめていた。白い頬が光の洪水の中でより白く輝いていた。その輝きがピークに達したとき、長門は俺のことを見上げるとそっとつぶやいた。
「ありがとう」
俺は、目の前で微笑む小さくて華奢な有機アンドロイドを、その中にいるはずの情報生命体もろともそっと包み込むように抱きしめた。俺の背中に回された長門の手に、少しずつ力が入っていく様に感じられた。
やがて、白い火柱はひとつずつ小さくなって消えていき、最後のひとつが消えて、あたりが再び闇に包まれるまで、俺は長門のことを抱きしめていた。
しばらくすると、長門は俺から少し離れて立ち、夜空を見上げてゆっくりと言った。
「……情報生命体は、今、わたしの中から消えていった」
いつもの無表情に戻った長門は、俺の目をじっと見つめながら、
「あなたに、『感謝している』、と伝えるように託されている」
「そうか……、無事に成仏できたんだな」
「そう」
俺は、俺を見つめる長門の瞳を見つめ返した。漆黒の瞳の奥に何か暖かいぬくもりが残されているような感じがした。
「まもなく涼宮ハルヒが目を覚ますだろう」
「その時、そばにいてあげて欲しい。行って、わたしは大丈夫だから」
「そうか、わかった」
俺はペンションに向かって走り出した。途中で振り返ると、長門は海を見つめてじっと立っているようだった。
部屋に飛び込むと、古泉と朝比奈さんが心配そうに立ち上がった。
「長門さんは、情報生命体は?」
「うん、大丈夫。どうやら無事に成仏してくれたみたいだ」
「よかったですぅ」
「ハルヒは?」
「先ほどから少し体を動かし始めたので、そろそろ目を覚ましそうですね」
そういう古泉の横を通り抜け、俺はベッドの枕元にしゃがみこむと、ハルヒの寝顔を覗き込んだ。口元がぴくぴくと動いている。
じっと覗き込んでいると、ハルヒは静かに目を覚ました。
「キョ、キョン?」
「ハルヒ、大丈夫か?」
「あたし、どうして? 肝試しの途中で何かが……」
「祠に向かって走っている途中でこけてしまって頭でも打ったようだ。今まで眠っていたんだ」
「そ、そうなの……、あれは、夢だったの?」
とっさの言い訳で、どこまでハルヒが納得したのかはわからない。うーん、といいながらゆっくりとベッドから上半身を起こしたハルヒは、少しうつむき加減で続けた。
「今も変な夢を見ていたわ。なんか原始時代みたいなところで、火山がいっぱい噴火してて……」
そこで俺や古泉の方に振り向いて、
「誰だかわからないけど、隣に立っている人としっかりと手をつなぎながらその景色をじっと見ていた……、怖かったけど、きれいだった……なんか、すっごく心の中が暖かかった……」
「ハルヒ……」
ハルヒは夢の中の景色を思い出しているかのようにしばらく目を閉じていたが、やがてパッチリと目を開くと、百ワットの笑顔で声を上げた。
「うーん、なんか知らないけど、眠っていたから元気回復したわ」
そしてベッドから飛び降りると、右手でグッとこぶしを握り締め、
「花火、しましょ!」
「何?」
「夢の火山に負けないぐらいにド派手に行くわよ!」
「今から?」
「当たり前じゃない、善は急げ、よ」
あっけにとられる俺たちを残して部屋を横切ったハルヒが扉を開けると、ちょうど長門が帰ってきたところだった。
「あ、有希、花火、行くわよ!」
そう言い残してハルヒは廊下に飛び出していった。
「……?」
何がなんだかわからない、という感じで二ミリほど首をかしげて俺を見つめる長門に向かって、
「そういうことだ、行くぜ、花火だ!」
と言って俺も部屋を飛び出した。
古泉と朝比奈さんと長門がついてくる気配を感じながら、俺はハルヒの後を追った。
SOS団の夏合宿はまだ始まったばかりだ。
Fin.
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