ボディーガード 第一章
◇第一章「おはようございます。準備が出来次第どうぞ声をお掛け下さい。僕の方はいつでも出れますので」朝が実によく似合う爽やかな笑顔の古泉君がレタスを上品に口元へと運びながら歯ブラシのCMに出演していた過去があってもちっとも驚かないような綺麗な白い歯を輝かせた。 「はあ……」彼と食卓を囲むようになった事の発端を思い出せばため息しか出てこない。古泉君があたしのボディーガードになるなんて夢にも思わなかった。そりゃあおかしな事件や普通じゃないことに憧れていたあたしだったけれど、今回のこれが望んでいたような日常なのかと言われると……ちょっと返答に困る。だって古泉君があたしのボディーガードとなることに利点どころか、意味も理由も全く無いのだから。キョン君も古泉君も一体全体何を考えているんだか。おかしな状況に突然放り込まれたあたしは戸惑いを隠せずに居た。
古泉君の爽やかさとは裏腹に、朝が似合わないことこの上ないあたしの兄と動揺を隠せず落ち着かないあたしの所為で、食卓は重苦しさで包まれていた。何でこんなことになっちゃったんだか。支度を終えて玄関から一歩踏み出した途端、あたしはその場に硬直してしまった。唖然とするのも無理はない。いかにも高級そうな黒塗りの外車が庶民的なあたしの家の前に止めてあるのだから。「こ、これ……古泉君の車?」「ええ、まあ」「こんな車で登校するの!?」「お気に召しませんか?」アホみたいに目の前の車に視線を奪われているあたしの横で古泉君が苦笑する。「だってこんなのが学校の前に止まってたらめちゃくちゃ目立つって!何か勘違いされそうだよ!?」「でしたら他の車を用意することにしましょう」そう言うと胸ポケットから携帯電話を取り出した。「い、今から!?ちょっと!いいっていいって!」「ご心配なく。学校には間に合うように手配しますから」「そうじゃなくって!」あたしが腕を掴んで制止すると古泉君はやんわりと目を細め「冗談です」と笑って見せた。なんなら古泉君、昨日聞かされた話についても冗談ですって言ってくれてもいいんだよ。ていうか冗談であって欲しい。既に願望だ。 「貴女が望むのでしたらいつだって用意しますよ。これは冗談などではありません」「古泉君……どうしてそこまでしてくれるの?」「貴女専属の便利屋ですから」昨日からね、と付け足してから助手席の扉を開きあたしをエスコートする。そんな胡散臭くてキザっぽい仕草でも様になっちゃうのが古泉君で、紳士的な対応にあたしは思わずドキッとしてしまった。ってコラあたし!ときめいてる場合じゃない!「そういえばさ、古泉君大学はどうしたの?」しつこく食いつくあたしに古泉君はエンジンをかけながら、「聞かれると思ってました。僕はもう単位を取得してしまっているのでね、別に行かなくてもいいんです」……大学ってそんな適当でいいものなの?「僕のことなどどうぞお気になさらず。大学生は意外と暇を持て余しているものなのですよ。貴女のお兄さんにはそんなに暇なら俺と変われ、ってよく八つ当たりされています」 「キョン君も大学に進学すればよかったのになー。まあ、あの頭じゃ行ける大学なんて無かっただろうけど?」あはは、と澄み切ったテノール声。「すぐにわかりますよ。彼がどうして就職を選んだのか」え?と聞き返しても古泉君はそれに答えず、ただ口元を緩めたまま前を見つめていた。もうすぐ学校が見えてくる。そんな時ふと、古泉君の運転が意外にも荒っぽいことに気が付いた。
学校では案の定注目の的となってしまった。そりゃあ坂で気を失ったその翌日外車で登校しているのだから無理もない。けれど視線の刃を浴びたのはあたしだけではなく律儀に下駄箱まで送ってくれた古泉君もまた同じで、すれ違う女の子たちは皆目をハートにして古泉君を眺めていたように見えた。 極め付けには、「ちょっと!今一緒に居た人誰!?まさか彼氏じゃないよねっ!?」下駄箱で上靴に履き替えているあたしに掴みかかってきたのは他でもない、あのミヨキチだった。「あ、ミヨキチ!何組だったの?あたしは5組だよー」「そんなことはどうでもいいの!それよりさっきの人は誰なの?めちゃくちゃカッコよかったけどっ!」あの大人しいミヨキチが語尾を跳ね上げている。珍しいこともあるもんだなあ、なんてことを呑気に考えていると、「ねえ、あなた昨日坂の途中で倒れてた人だよね?私も聞きたいな!」「さっきの人は彼氏?いいないいな!車で送り迎えだなんて素敵ね~!」「もしかして彼モデルとかやってる?スタイルもよかったよね~」聞き耳を立てていた女子が一斉にあたしの周りに群がってきた。「え、いや、あの……あはは」いやあ、やれやれ――ってこういう時に使う言葉だよね?キョン君。あ、そういえば自己紹介で「ただの人間には興味ありません!」って言うの忘れてた。
◇ ◇ ◇ ◇車で帰宅したあたしは部屋に一人篭って頭を悩ませていた。生理用品を切らしてしまった。考える必要など無く、本来ならば学校帰りに薬局に寄っていれば事なきを得ていたはずだったものが、昨日からあたしのボディーガードとなったらしい古泉君には勘ぐられてしまいそうな気がして言い出せなかったのだ。切らしてしまったのだから買いに行かない訳にもいかないけれど今から古泉君に車を出してもらうのも気が引ける。となったら選択肢は一つしかない。だけど……――外出の際はいかなる場合でも古泉と行動を共にしろ――昨日のキョン君の言葉が過ぎる。……いいよね?たった数分くらい一人で外に出たって。大体何でちょっとそこに出て行くだけなのにこんなに悩まなくちゃならないんだろう。よく考えたらものすごく馬鹿馬鹿しい。元はと言えば何もかもキョン君のせいじゃない。今日あたしが無駄な注目を浴びる羽目にあったのも全部!無性に腹が立ってきたあたしは適当に選んだ洋服に着替えると、財布と携帯を持ってそーっと家を出た。ドアを閉める前に、古泉君には心の中で謝っておいた。この時、あたしの考えは浅はかだったとものの数分後に"痛感"することになるだなんて誰が予想できただろう。突然だった。いつも利用している薬局へ向かい、帰り際には抜け道となる公園を通り抜けようとして――不意に後ろから口を塞がれたのだ。
「……大人しくして。私は貴女の敵ではありません」背後から聞き覚えの無い女性の声でハッと我に返る。何?あたし、どうして口を塞がれているの?完全に油断していた。いや、警戒の二文字など頭の片隅にも無かっただろう。今まで背後に人が居る気配など微塵も感じなかったし、物音一つだって聞こえなかったのだから。とりあえず手で覆われた口元が段々苦しくなってきたあたしは、後ろから伸びている腕を掴んだり殴ったりしてひたすら暴れた。「……抵抗しないで!こっちに来なさい!」女が声を荒げるともう片方の手で器用にあたしの両腕を掴み、あらぬ方向に捻じ曲げる。関節に激痛が走り視界がじわりと滲んだ。痛いわ苦しいわでもうどうしようもない。やけに強い力で草むらまで引きずられ仰向けに押し倒される。そこでようやく助けを呼ぶことを思い立ったのだが――声が出せない。いくら叫ぼうと腹筋に力を込めても、ヒューヒューと喉から息の虚しい音が漏れるだけだった。ジーンズの右ポケットに納められている携帯で助けを呼ぶことも考えたが声が出せないのでは意味が無い。手が自由に使えなければメールだって打てない。あたしは抵抗を諦めてあたしを拘束している女の姿を目に入れようと顔を上げたのだが、「じっとしてなさい!」今度は後頭部を掴まれそのまま地面に押さえつけられてしまった。地面に散らばった小石が頬に刺さり、ちくちくと痛い。「……もしもし。……ええ、××公園にて拘束しました。……はい……はい」女が誰かと電話で連絡を取っている。顔も手足も動かせず声も出すことができないあたしは、ただただ唇を噛み締めていた。 この後あたしはどこに連れて行かれるのだろう。この人はあたしを拘束してどうするつもりなんだろう。誘拐?監禁?殺人?……どうしてこんなことに?おかしな事件に巻き込まれてみたいと、そう考えていた過去の自分を思い出す。これがあたしの望んでいた状況なの?いや、違う。あたしはこんな事望んでない。そう、あたしは―――「……貴女を傷つけたくてこんなことをやっているわけではないんです」いつのまにか連絡を取り終えていた女が落ち着いた声で言う。「お願いだから抵抗しないでください。こっちだって手荒な真似はしたくな―――」そこまで言うとハッと息を飲む音が聞こえ、それきり女は何も喋らなくなった。何?何が起きたの?やっとの思いで顔を上げ後ろを向くとそこには―――
「古泉君……?」女に向かって"黒い何か"を突きつけている古泉君の顔に、いつもの笑顔は無かった。「……手荒な真似を避けたいのはこちらも同じです」聞いたこともないような低く冷たい声で言う。「橘京子、今すぐ彼女を離してください」「くっ……」「聞こえなかったのですか?離しなさいと言ったのです」「…………」「今すぐに」暗がりでよく見えない。ただ、たった今タチバナキョウコと呼ばれた女が突きつけられている"黒い何か"がカチャリ、と音を鳴らすと、女は小さく悲鳴を上げてあたしから飛び引いた。 あれは……銃?嘘でしょ?銃を構えているのは古泉君?古泉君なの?「甘いのよ、貴方たちの『機関』は……!貴方一人で守り切れるとでも思うの?閉鎖空間でなければ何もできない貴方が」「……僕が何も出来ないと?」古泉君がハハッ、と冷たく嘲笑う。口元だけを緩め目は鋭く女を睨みつけたまま、「本当にそう思うのですか?では今ここで、僕が引き金を引けばどうなるでしょう」「…………!」「早急にここを立ち去りなさい。僕だって貴女を殺したくなどない」
「早く」、と念を押され、女はこの場を走り去っていった。何……何なのこれ?一体どういうことなの?
「……お怪我はありませんか?」古泉君が普段と変わらない甘いテノール声で言いながらあたしに手を差し伸べた。おずおずとその手を取ると優しい力で引っ張られ、あたしの服の汚れを払ってくれる。「今後はいかなる用事でも僕に隠れて外出したりしないでください。お願いです」彼は最後に泥や砂利まみれとなった頬を撫でると口端を緩め、少し困った風に眉を下げながら微笑んだ。今目の前に居るこの人は古泉君に相違ない。暗がりでだってわかる。優しい声色も、心地よいオーデコロンも、暖かい体温も、爽やかな微笑も、顔を近づけすぎる癖も……全てあたしの知っている古泉君の物だ。それなら先程の"彼"は一体何者だったの?古泉君はいつも優しくて、決して微笑を絶やさない。あたしはあんな古泉君を知らない。あの"彼"は一体誰だったの?銃を構え、冷たく怒りを露にし、鋭い眼光で女を睨みつけていた"彼"は……?
「さっきのは……ど、どういうことなの?あの、あの女の人は……」先程起きたことを思い出しただけなのに、身体がビクリと震えた。脳が回想を拒否している。声が揺れたのとほぼ同時に、身体も震えだした。「古泉君、あたし……あ、あたし……」古泉君が赤子をあやすようにあたしの頭を撫でてくれる。心地良い。今はその確かなぬくもりだけがあたしを安心させた。「もう大丈夫ですよ。僕が居ますから。もう二度と怖い目に遭わせたりしませんから……」彼の胸に寄りかかると、胸ポケットに硬い"何か"が納められていることに気が付いた。まさか古泉君はこうなることを予想して――あたしを守るために――いつもここに銃を所持していたのだろうか。古泉君、一体何者なの?今一体何が起きているというの?これからあたしに何が起きようとしているの……?
――第二章へ続く
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