Put your hands up
今の俺の現状、
鉄仮面が外れかかり、間から困惑と恐れを覗かせる古泉、俺たちの前から忽然と姿を消した朝比奈さん、生まれて初めて非日常と不条理を前にして失神したハルヒ、
そして、肉体を持てなくなった長門。
一つでも収まりきらないような不安要素が無理矢理に押し込められたせいで、俺の部屋に漂っていた春先の柔らかい空気は圧縮され、重くのしかかった。
妹や両親が旅行中のこの家は、まるごと灰色空間に放り込まれたんじゃないだろうかと疑いたくなる。
「長門さん」静まり返った部屋で口を開いたのは古泉だった。「いったいどうなっているのか教えてはもらえないのですか?」古泉らしくない人に頼った発言だ。
「わからない」
壁に背中を預け、一人立ったままの古泉に一瞬目を向け、長門は申し訳無さそうにうつむいた。
「わからない?現に森さんと朝比奈さんの二人が行方不明になっているんですよ?」
いつになく語気が強くなる古泉に俺は、「長門を責めてもしょうがないだろ」と、言わざる終えなかった。
古泉もまた、俺を一瞬見て目を伏せた。再び沈黙が部屋を包み、俺は行き先の定まらない思考を無駄に繰り返していた。
「おそらく肉体からゴーストが切り離される際、衝撃で前後の記憶が欠落してしまった……のだと思う」
いつになく語気の弱い長門に目をやった。古泉も長門に視線をむけながら、言葉の意味を咀嚼している。
「つまり、記憶喪失ということですか?」「そう」ポツリと呟くように長門は言い、床をたどるように視線を滑らせ俺の方を見る。俺と長門の視線がぶつかる。制服のまま床に座る長門に今や肉体は無く、あるのは僅かな反発力だけを残した身体だけだ。
「いつから記憶が無いのでしょう?」「一昨日の午後十時四十分前後」「記憶が戻ったのは?」「昨日の午前六時前後」「気づいた時には彼の部屋に?」「そう」俺はそんな簡素な受け答えを眺めていた。
長門にしては曖昧な時間の把握の仕方だと少しひっかかったが、それよりも長門が部屋に現れたのが卒業式に向かうために俺が家を出た直後であったことが意外だった。
その日は、ハルヒが学校に六時半に集合をかけたので、五時五十分目覚めた俺は時計を意識しながら朝の支度を急がざるをえなかった。では、なぜそんな卒業式の、しかも早朝に集合しなければならなかったのか、これを語るには少々記憶を遡らなければならない。
※
今からちょうど一週間前、俺達の合格発表の日だ。俺達が無事に合格したのは、朝比奈さんと鶴屋さんが一年先に受かった大学であり、西の雄と言われるような超一流国立大学だった。そしてその帰り道、俺達は口々に大学に入ったらやりたいことをテーマに雑談していた。 「京都には平安からの双六があると聞きます。僕としては、ぜひとも手に入れたいものですね」これは我が団の誇る変態超能力者。「大学図書館には様々な蔵書がある」これは最近すっかり表情と口数の増えた元無口宇宙人。「そうだなぁ、俺はあんまり忙しくなければ何でもいいな」これは、団唯一の一般人にして良識人、俺である。「フフフ、あなたときたら」「怠惰」各々が俺に対するツッコミを口にしたが、一人だけ先ほどから腕を組んで、眉間に皺を寄せているやつがいる。それが、我が団の冒さざるべき団長にして、神にして、時間の歪みにして、進化の可能性である涼宮ハルヒであった。
「何だハルヒ、朝比奈さんが来れなかったことまだ怒ってるのか?」そう、朝比奈さんはご都合が悪いらしく、合格発表に参加できなかった。まあ本人の合格発表じゃないのだから参加せずとも良いのだが、あのハルヒがうれし泣きをしてるところを見れなかったのは残念なところではあるだろう。 「それも少しはある」「じゃあ一週間前、鶴屋さんちに行く予定だったのに、その道中に電話がかかってきて突然キャンセルになったことか?」「それもあるけど…みくるちゃんには三週間前に会ったばっかだし、鶴屋さんの家も無くなったりしないじゃない?それに二人ともこれからまた先輩としてお世話になるんだしね」 深夜のホラー映画に出てくるピエロみたいに嫌らしく笑うハルヒを見て、俺は、二人とも逃げてー、と心の中で叫んでみた。「そういうことじゃなくて、SOS団の新しい活動形態を模索中なのよ、あたしは」どうやらハルヒにはサークルに入ったり、彼氏を作ったり、リアルに充実した大学生活を送る気はないようである。やれやれ。「だって、みんな別々の学部でしょ?一緒に探検とかもしにくくなるじゃない」大学生にもなって『探検』とか言い出してしまうハルヒに苦笑いをするSOS団の面々だったが、あまり効果はないようである。しかしまあ、俺としては二言目には、うるさいわねっ、と会話をぶったぎってくれていたハルヒが俺達と一緒にいたいと言ってくれることにはさらさら悪い気はしないのだが。
「しかしなあハルヒよ、学校外でもずっと一緒にいたいとは言っても、学徒の本望は学業にあると俺は思うぞ」俺はただ面倒くさくならないような返答をしたつもりだった。しかし運悪く世界で一番インスピレーションを与えてはいけない人物に、俺はインスピレーションを与えてしまったようなのである。 「ちょっとキョン、今何て言った?」学徒の本望は……「それじゃなくて……えぇっと……」それじゃないとすると……。ここで俺はハルヒの顔をチラリと見たのだが、うおっ!まぶしっ、と言いたくなるような笑顔がそこにあった。「キョン、良いこと思いついたわよ!!あんたもたまには役に立つじゃない!」そう言いながら困惑する俺の背中をバシバシと叩く満面の笑みのハルヒ、俺は困りかねて古泉と長門を見たが、古泉はいつもの外人みたいなゼスチャーをし、長門は明らかに目元と口元を緩ませて微笑んでいた。
先ほどハルヒの三年前との変化について述べたが、この三年間で一番変わったやつは長門かもしれない。長門は笑えるようになったし、明らかに不満を顔に出せるようになったし、数え上げればきりがないほどに人間らしくなっていた。俺としても、インチキをせずにみるみる人間らしくなっていく長門を見れることが素直に嬉しかった。 そんなことを考えながら、長門の微笑みと春風に揺れる前髪に見とれていた俺の背中がよりいっそう強く叩かれる。「じゃっ、みんなは部室に先に行ってて!あたしはちょっと寄るところができたからっ」そう言いながらハルヒはゆったりとした春風を追い越すように走り出し、俺達にドップラー効果を体験させた。
ハルヒの企みについて意見交換をしながら学校に着くと、教師達に囲まれた。それもそうだ、こんな片田舎の高校から去年二人、今年四人もあの大学に受かるなんて開校以来の珍事に違いない。
「珍事だなんて、あなたもそうとう素直じゃないですね」部室への廊下の途中で古泉にそう言われた。「今までハルヒの関わった事件は、あらかた珍事だろ」古泉は手で口を押さえながら、フフフッと笑った。「確かに。しかし涼宮さんは今や普通の少女です。ですから、愛すべき先輩の目からビームを出させたり、夏休みを終わらなくさせたり、なんて珍事は起こりえませんよ」 しかしだな、俺としては神の見えざる手に背中を押されている気がするんだ。「それはありえませんよ、今の涼宮さんに合格発表の改ざんなんてもってのほかですからね。神に愛されているなら否定はしませんけど」そう言いながらまたクスクスと笑い出す古泉、こいつはあまり変わらんな。「そんなことありませんよ。涼宮さんの力の減衰によって僕達も普通の人間に戻りつつありますから」素の状態でその態度とはやはり古泉もハルヒに愛される変人と言うべきか、言わないべきか。「フフフ、そんなこと言わないでくださいよ。そういえば、それを記念して『機関』の面々で祝賀会を開くのですが、あなたも参加しますか?」「なぜ俺なんだ?」「なぜって、涼宮さんはあなたの全力で挑戦する姿に胸打たれて、力を放棄するに至ったんですよ?これはノーベル平和賞なみの快挙ですよ」古泉はホントに嬉しそうで、俺は少し気圧されていた。「森さんには会いたいが、遠慮しとくよ」そう言って部室の鍵を開けた。部室は今日も少し埃っぽいけどなんだか懐かしい匂いが鼻腔を満たした。
「ジャジャ~ン」我々日常系非日常団体SOS団の面々はその後、思い思いにのんびりと久しぶりの放課後を過ごしていた。俺と古泉はボードゲームに興じていたし、長門は凶器になりそうな分厚い本をめくっていた。この場に卒業してしまった朝比奈さんがいらっしゃれば、美味いお茶が加わったのだが、それはしかたのないことで、京都で一緒に住んでいるという鶴屋さんともども早く顔を見たいところではあった。 「で、なんだって?」俺は訝しげにハルヒの笑顔を覗き込んでみる。だめだ、こいつがこんなすんげーいい笑顔の時はたいがい良くないことが起こると相場は決まっている。「ルームシェアするのよっ!」そう言いながらハルヒは鞄から電話帳みたいな厚さの紙の束を人数分引きずり出した。「さっここからみんなで住む物件を探しましょ、有希、古泉君、何か希望はある?」ちょっ、ちょっとまてよ。何おまえコンビニでアイス買うぐらいのノリでそんなこと言いだしてんだよ。つか、家賃とかいろいろ難しいことがあるんじゃないのか?俺が突っ込めるところを片っ端から突っ込んでいくと、ハルヒは「そこんところ抜かりはないわっ」と、俺の分の紙束を押し付けた。「読んでみなさい!」駅徒歩六分……「そこじゃなくて!」築十年、リフォーム……「もっと下よ!」俺はさらに視線を下にずらし、そこで見覚えのある特徴的な名前を見つけた。「鶴屋不動産レジデンス……まさか!」「そう!ここに載ってる建物、全部入居者がいないから自由に使っても良いそうなの」太っ腹というかなんというか、鶴屋さん、あなたってやっぱり何者?「キョン、あんたもう住むとこ決まってんの?まさか京都まで電車通学する気じゃ無いわよね?」確かに。誰しも俺があの大学に受かると思っていなかったので、通学をどうするとかいう話は我が家では一ミリも進展はしてはいない。さらに、俺は重大なことに気づいた。 「もしかして今の時期、よくあるワンルームとかって入居しにくいのか?」古泉と長門がコクコクと頷く。「じゃあ決まりねっ!」じゃあ決まりってあんた……。
そんなこんなで、俺達は新居探しを始めたのだが、早々に古泉がこのルームシェアに参加しないことを表明した。古泉曰わく、もしもの時には万全を期したいとのことだが、ずいぶんと仕事熱心というか、仲間思いのやつだ。 「それもあるのですが、実は今後の人類のためにも、『機関』は宇宙人の親玉さんとの連携を模索中でしてね」耳元でそうささやく古泉の目が爛々と輝いているのを見て、俺はため息をつく。ハルヒは少し口を尖らせていたが、強制は出来ないだとかで何やら納得していた。「てことは三人だから、3DKは最低でも必要ね。あーあと、桧風呂と、シャンデリアもほしいわ」いったいコイツはどんな家に住むのだろうか、間違っても家をシマシマに塗って近隣住民の景観を害するようなまねだけはよしてもらいたいものだ。「なんでよ」どうやら、唯我独尊の化身であるハルヒには俺のごく平凡な意見は不満らしく、机をバンバン叩きながら持論をぶちまけ始めた。やれやれ、困ったもんだ、俺はハルヒから視線をずらし、おもむろに長門を見た。そして、そこで思わず視線をとめてしまう。 なんと長門は両の瞼をつむり、手を額にあてがい、口で『やれやれ』と呟きながら、フルフルと頭を振っていたのだ。そのあまりにも不釣り合いで愛らしい仕草に、俺はつい吹き出してしまう。その音で、はっ、と目を開けた長門と目が合う。長門はサッと手を引っ込めたが、時すでに遅し、俺は脳内ブルーレイに超高画質でその模様を録画させていただいた。しかし長門的には恥ずかしかったようで、頬を染めもじもじとしていた。それを見て、俺は心の中で何度も何度もガッツポーズをしていた。
だが、それを面白く思っていない輩が一人いて、そいつはバカにされたと思っているらしい。「なによー人の話は最後まで聞きなさいよ!このバカキョン!バカユキぃ!」そう喚き、俺、続いて長門の頭に丸められた紙を投げつける。俺が頭を掻きながら投擲者をにらむと、そいつは人差し指を下瞼に添え舌を突き出してきた。ほほう、アッカンベーとな。俺はそれを挑発と受け取り、投げられたボールを投げ返してやった。しかし、ハルヒのやつは容易くとそれをかわしてしまう。だめだ、俺一人ではヤツには勝てん。 「長門、お前もやっちまえ!」俺の提案にコクりと頷いた長門は手のひらにボールをのっけた。あのモーションは…、脳裏に一年の時の野球大会の最後の場面が再生される。あの時、長門が投げたボールはハルヒのグローブを弾き飛ばし、勢いを失わずにバックネットからセンターの古泉のところまでミサイルみたいに飛んでいった。俺は全身の産毛が逆立つような感覚を覚える。いくらなんでもこんな至近距離であれに直撃したら、部室備え付けの救急箱ではことたりなくなることは目に見えているからだ。 「やめろ長門!」俺は思わず叫んでいた。だが、言うのが零コンマ数秒遅かった。その紙で出来たボールは無慈悲にも投げられた後であったのだ。そして、そのボールはみるみる加速し、ハルヒの柔肌にえぐり込むようにーーーーなんてことはなく、俺の大声に驚いたハルヒの頭に緩い放物線を描きながら命中した。 「ちょっ、え?あんた投げろって言ったり投げるなって言ったり、頭大丈夫?」あ、あれ?俺自身、何がやりたかったのか分からなくなってくる。長門はというと自分が大変な事をしたんじゃないかと、俺の方を見て、チラチラオドオド。い、いかんっ、俺は玉虫色の脳みそをフル回転させて、この空気を持ち直す方法を2秒で考えた。「フェイントだよっ」ボサっとしていたハルヒの鼻っ柱に向けてボールをぶつけてやった。ハルヒは「ふぎゃ」と、奇声を発し、ニヤリと笑い「よっくも、団長を騙してくれたわね!蜂の巣にしてやるんだから」と、投げ返してくる。テーブルを挟んだ戦争の始まりである。古泉は自分の分の紙束を抱えると、窓際に席を移動し、微笑みの傍観者となっていた。
投げられたボールを掴むか避けるかし、新しいボールを投げる。初めはそうやってただ投げ合いをしていたが、ハルヒのボールは当たると普通に痛い。思わず身をテーブルの下にかくそうとした俺は、そこで先客に出会った、長門だ。長門は床に座り込むと、ボールが当たらないように身をかがめ、紙束から紙をバラしては一生懸命ボールを作っていた。小さな手で作るその姿は小動物のようで、俺は目を奪われてしまっていた。俺の視線に気づいたのか、吸い込まれそうなロシアンブルーの瞳の持ち主は、恥ずかしそうに一度目を伏せ、ボールを手渡してくれた。ありがとな、そう言い俺は全力でハルヒに立ち向かったうのだった。力のハルヒ、物量の俺と長門、勝負が長期戦の様相を呈してきた。その時だった。
申し訳なさそうに部室のドアがノックされる。「何よっ!?」「ひっ、阪中なのね。涼宮さん、入ってもいいの?」そう言いながら、阪中がこれまた申し訳なさそうにドアから顔を覗かせる。「別にいいけど、依頼だったらあとにしてくれない?ちょっと今立て込んでるの」「あ、依頼じゃないの。岡部先生が涼宮さんと古泉君を呼んでるのね」そりゃまたどうしてだ、俺が投球フォームを中断し、そう問いかけると阪中はキョロキョロと部室を眺めるのを止め、こっちを見た。「卒業式の、女子の卒業生代表が涼宮さんで、男子の代表が古泉君にさっきの職員会議で決まったのね」「なるほどね。そういうことなら仕方ないわ」もう半分ほどとなった紙束をクリップでとめ直し、ハルヒは一つ咳払いをして、溌剌とした笑顔で言い放つのだった。「しょうがないわ、この学校であたしより目立っていた人間はいないからねっ」一同は大きく頷いた。
阪中がハルヒと古泉を連れて行くのを見送くると、部室にはブーメランみたいに静寂が戻ってくる。この部室で俺と長門以外に、存在感を主張するのは春の柔らかい日差しと風だけだった。俺は不思議と穏やかな気持ちになっていたのだが、長門は調子にのって撒きすぎた白い紙屑の上で途方に暮れているようだ。 「たくさんある」長門は紙屑を踏まないようにつま先立ちで、跳ねるように部室を歩き回っていた。紙屑で埋もれていないところから、埋もれていないところへ、跳躍に合わせ揺れるスカートと、そこから伸びる白い頼りない細さの脚を俺はしばらく眺めていた。 「雪みたい。」長門が言った。たしかに、床一面に広がった紙屑は積もった雪のようだった。「雪好き、綺麗」そうか、その話は初耳だな。「うん」やはり、3年間通して長門はかなり変わった。初めはセリフは一行を越えないし、本以外に興味をしめさない、ましてやハルヒと仲良くなるなんて想像も出来ないようなやつだったのに、今となっては、ハルヒと長門は誰が見ても羨ましくなるほどの親友である。例えば、ハルヒが行くところ長門は付いていくし、ハルヒだって長門の言うことを誰の話よりも真剣に聞いていた。もちろん先ほどのようにじゃれあったりだってしている。 「長門、おまえ変わったな。」俺は思っている事がつい口をついてでてしまう。言われた張本人は恥ずかしそうに微笑んでしばらくもじもじしていたが「あなたが、いたから…」と一言一言をとても大事そうに言葉を選んで言った。
その全てを優しく包み込むかのようなはにかみを見ていると、
俺の胸はなせだかひどく痛んだ。
そして、そういうあたたかい時間の中でさえ、長門が肉体をなくす卒業式の前日へと時間は静かに確実に近づいていることに、この時の俺が気づいているはずなどあるわけがなかった。
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