古泉一樹の誤算 二 章
二 章
俺はその晩、砂漠を越えてアカバ要塞に戦いを挑む前夜のアラビアのロレンスのようにまったく寝付けなかった。 考えてみりゃハルヒがジョンスミスを探していたのは当然のことで、真夏の夜にどこからともなくふっと現れ、宇宙人や未来人がいるなどと吹聴した挙句、影も形もなくふつと姿を消したりすればあいつでなくても追いかけてみたくなるってもんだ。ことハルヒにかかれば奇妙な存在というものに対する執着心は尋常じゃない。 それがどこをどう間違って憧れの彼なんかになっちまったのか、やっぱあれかな、揺れるつり橋の上で心拍数が上がるのを惚れたと勘違いする、血中のアドレナリンとホルモンを混同してしまうのと同じ現象か。最初の未来人との遭遇が俺だってだけでそこまで決意を固めてしまう理由が理解できん。俺?俺の場合は……まあ朝比奈さんには一目ぼれした……かもな。けど八年もずっと想いつづけるなんて、俺がいくらモラトリアムな人生でもたいがいに待ちくたびれるってもんだぜ。 これでハルヒがジョンスミスの面影を墓場まで持っていくなんてことになった日にゃあ、古泉は閉鎖空間の始末に追われ、朝比奈さんは時間振動にオロオロし、長門は俺たちの知らないところで後始末に駆けずり回る、終世それが続くだろう。古泉は俺を涼宮大魔神の生贄に捧げようとするし、朝比奈さんはまた白雪姫の話を持ち出すかもしれない。長門は、もしかしたらすべてなかったことにしてしまうかもしれない。 夜明け前、吹き付ける砂塵に向かって立ち上がるロレンスよろしく俺は拳を握った。これはやるしかない。まったく、俺らしくないセリフだが。 「そんなの、絶対だめです!無理です!却下です!」朝比奈さんは判事バリにテーブルをドンと叩いて叫んだ。木槌があったら頭を小突かれていたかもしれない。怒っているこの人はかわいい。喫茶店の客が全員こっちを見ている。それに気がついて顔を真っ赤にしている朝比奈さんも、実にかわいい。 「朝比奈さん、もしも、です。もしも。計算上、歴史を改変する内容を最小限にして、古泉と俺が入れ替わったらどうなるか、なんです」「だめです!いくらキョンくんの頼みでも既定事項を変更するのは禁止ですよ!」ここまですごい剣幕で怒る朝比奈さんははじめてだ。いつか、グーで殴られたときより迫力がある。「長門さんもですよ。前にあなたが改変した歴史がどうなったかご存知でしょう?」今度は長門が赤くなってうつむいた。「二度も未来から介入した挙句、キョンくんが朝倉さんにナイフで刺されたことを忘れたんですか!」忘れやしません。傷はありませんけど、あの痛みは今も心に深く残ってます。「あの……申し訳ありませんがお客様……」ウェイトレスがおずおずと寄ってきた。困った顔で口に人差し指をあてている。「ご、ごめんなさい」朝比奈さんが謝った。朝比奈さんは冷めたコーヒーをがぶりと飲み干した。血圧が上がって喉が渇いたようだ。 朝比奈さんは腕組みをして二人をじっと睨んだ。ちょっと作戦変更だ。俺はテーブルに肘をついてうつむき加減に言った。「この十年を、ハルヒに帰してやりたいんですよね……」しみじみと泣き落としてみる。「……待つのは、つらい」長門もまねをしてうつむきながら言う。いいぞ、長門。お前が言えば説得力ある。「あいつ、きっとこの先何十年も待ちつづけますよね……」「……このままいけば、彼はいまわの際に告白することになる」スバラシイ、なんと泣かせるセリフだ。シェイクスピアになれるよ長門。「もう、しょうがない人達ね」朝比奈さんは、だだをこねる子供を見るようなまなざしで俺たちを見た。 その前に、未来に帰ったはずの朝比奈さんがなんでここにいるのか説明せねばまるまい。俺は出社前に古泉を呼び出した。「まさか、そんなことできるわけありませんよ」「簡単な話だろ。過去に行って、お前がジョンスミスだという既成事実を作ればいいんだ」「そうはいってもですね。いったい何者なんですかジョンスミスって」「ええとだな、あれはハルヒの想像上の白馬の王子様らしい」「そうだったんですか。涼宮さんも女の子ですね。ロマンチックだなぁ」この話のどこらへんにロマンスを感じるんだ。「十一年前の七夕に、ハルヒはジョンスミスと運命的な出会いをした、ということになってるんだが」「奇遇ですね。僕の能力が生まれたのも実はその日ですよ」「まあ、その日にはいろいろアクシデントが重なったからな」「朝比奈さんの言う、時間の歪みもその日でしたよね」そういえばそうだ。俺が連れて行かれたのも二度、長門が俺にはじめて会ったのもその日だ。 「お前がその日に戻ってハルヒに会い、自分はジョンスミスだと言えばいい。それだけのことなんだ」「会うだけでいいんですか」「そうだ」「まあ、会うだけならさして問題もないでしょうが。どうやって過去に行けばいいんですか?」「朝比奈さんに頼んで連れて行ってもらう」「どうやって朝比奈さんを呼ぶんです?」朝比奈さんは未来に、自分のいた時代に戻ったままだ。たまに里帰りみたいにして戻ってはくるのだが。「朝比奈さんがいるのがいつの時代かは分からんが、手紙でも書くか」「またタイムカプセル方式ですか」そう、それだ。過去に送ることはできないが、未来に送ることはできる。「もし数十年の未来だとしたら、手紙そのものが風化してしまいそうですが」「じゃあ石にでも刻もう」三百年は持ってもらわないと困るからな。 事務所に入ると、いつもより濃い香水の匂いをさせたハルヒが社長椅子に座っていた。メイクもいつもより濃い。「おはようございます、社長」「おはよう、古泉イツキくん」なんなんだその妙によそよそしい社交辞令的朝のあいさつは。あからさまに二人の間になにかありましたってのが見え見えだぞ。「今日の予定はどうなってるかしら、古泉イツキくん」「十一時から顧客とメンテ費値上げについての折衝、午後は開発部の進捗ミーティングです、社長」 俺と長門は部屋に漂うただならぬ空気に窒息しそうな勢いで二人の顔を交互に見ている。なんだか見えない火花が走ってるような、気のせいか。「この部屋なんだか空気が濁ってるわ。窓開けてくれない?」この部屋はビルのダクトでクリーンな空気が循環してるし、そもそも空気がおかしい原因はお前自身なのだが。 ハルヒはとうとういたたまれなくなったらしく、部長氏と打ち合わせの打ち合わせをしてくると言って席を立った。古泉は冷や汗を垂らしながら笑顔でいってらっしゃいませと言った。嵐が過ぎ去るのを待ってるっていうより机の下で地震が終わるのを待ってるように見えるんだが。 ハルヒがいない間に俺と古泉は石材店に行った。今度はただのメッセージなので、長持ちしそうな御影石の板に文字を彫ってもらうことにした。「文面はどうしよう。彫れるとしても二十文字程度だろうな」「宛名と日付だけでいいんじゃないでしょうか。来れば分かるということで」「そうだな」入れる文字は、“朝比奈さんへ”と、今日の日付と夕方の時間を入れてもらった。それから俺と古泉の連名で。金槌とタガでコツコツと手彫りするのかと思ったが、今はパソコンで文字をデザインしてレーザーみたいな機械で彫るらしい。三十分で出来上がった墓石を会社に持って帰り、入り口の脇に置いた。個人宛てのメッセージだが、ちょっと見には定礎の石みたいだ。 「これで無事伝わるといいがな」「とすると、この石碑は朝比奈さんが生まれるずっと前から存在することになりますね」そういうことになるよな。あれ、俺たち社屋を引っ越すとか言ってなかったっけ。 そして就業時間を終えた午後六時、長門と喫茶店でお茶をしていると朝比奈さんが現れた。「キョンくんと長門さん、こんにちわ」「朝比奈さんお久しぶりです」「もう、キョンくんったら。古風な呼び出し方をするんだから」「すいません。これしか方法が見当たらなくて」「あの石碑、わたしの時代ではずっと謎だったんですよ」そうなんですか。古代人から伝わる謎の石碑に自分の名前が刻まれているなんて、ちょっとロマンがありますよね。「わたしが生まれる前からあったっていうし」「研究中のタイムマシンがなかなか進まなくてですね。手紙程度なら送れるんですが因果律的にいろいろと支障がありまして」「時間移動の理論も実験もなかなか難しいわ。それで、相談っていうのはなにかしら」俺は真顔で古泉をジョンスミスにしてしまう話を数分説明していたのだが、朝比奈さんの眉間に皺が寄り、だんだんと険しい顔つきになってきた。「そんなの、絶対だめです!無理です!」まあ即答でOKが出るとも思っていなかったが。 朝比奈さんは何度もため息をついた。「キョンくん、あなた既定事項の意味が分かってないでしょう」「ええ。すでに起ったこと、くらいとしか」「既定事項というのは、絶対に動かしてはいけない事実の指定なの」「動かしたらどうなるんです?」「そこからの未来が変わってしまいます。時間移動を管理している役人がカンカンになって怒ります」「古泉が、自分がジョンスミスだと名乗るだけでも?」「涼宮さんの周辺には複雑に絡んだ既定事項が多いんです。未来でのわたしたちの存在そのものが彼女に関係してるから」そうなんですか。アフリカ起源の人類の祖先みたいなやつだったんですね。「TPDDが作られた頃には既定事項というものの重要性まだ知られていなくて、勝手に過去を書き換えることがよくあったの。その後、とんでもない未来が生まれたりして。わたしたちの現実があるのはその修復作業に明け暮れた結果なんです」 「今までにも未来が変わったことがあったんですか」「そう、何度もあったわ。わたしたちの仕事は計画的な過去の保全なの」朝比奈さんたちの活動主旨はそこにあるらしい。これは説得するのは無理かと思われたが、長門がひと言呟いた。「……未来から見れば、過去の住人が既定事項に介入するのもまた既定事項になり得る」朝比奈さんは言葉に詰まった。俺には分からん理屈だが、なんだか説得力のあるセリフだったらしい。「長門さん、それは屁理屈です。事態を複雑にするだけです」長門と話すのが苦手なはずの朝比奈さんが、真正面から身を乗り出して言った。「……わたしはTPDDの設計にも関与している。未来を書き換えることも、可能」これ、前にも古泉が言ったことがあったような。未来人など恐るるに足らんと。「そ、それはわたしたちへの脅しですか!」「……脅しではない。わたしはTPDDの完成を保証することができる。現在の二・五倍の精度向上も可能」「交換条件ってことかしら」「……そう理解しても、構わない」理屈では長門にはかなわないようだ。俺にはほとんど屁理屈こねる子供のように聞こえたが。
「一度上司に報告するわ」朝比奈さんは数分間黙って宙を見つめ、視線を俺たちに戻した。「綿密な改変計画書を提出、それから検討しますって。TPDDの精度向上に興味あるみたい」俺は心の中でニヤリと笑った。俺の知る限り、お役所なんて書類に不備がなければ実施にはなにも干渉しない。屁理屈だろうがなんだろうが、机上で帳尻が合っていればいいのだ。 「計画書はわたしが作ります。自分の進退がかかっていますから。失敗したらクビかもしれません」「ええ、それはまずいですよ」「なんちゃって、嘘ですよ。失敗してもわたしが後始末に追われるだけです」舌をペロリと出した。朝比奈さん、もしかして乗り気になってきましたか。 「じゃあ、わたしは一旦戻って審議会に出て、明日の同じ時間にまた来ますね」「お手数おかけします。よろしくお願いします」そこで朝比奈さんと別れて長門の部屋に寄った。 歴史改変の陰謀を阻みそうな、もうひとつ気になる勢力がある。時間も空間も意のままに扱える連中だ。「情報統合思念体は何か言ってるのか」「……絶対にやめろと警告している」「やっぱりそうか。だがあいつらはハルヒに死ぬまでジョンスミスを待たせるつもりなのか」「……おそらく、ほかの解決策もあるはず」「どんな?」長門は少しだけ考えて、「……分からない」「俺がジョンスミスだと明かしたところで、ハルヒがはいそうですかとあきらめるわけがない。俺とハルヒの二人だけの世界を、また作っちまうぞ」「……その可能性は、高い」「お前が消されるかもしれん」「……」「それは嫌だからな。だからどうしても俺以外の誰かがジョンスミスにならなくちゃいけない」「……少し、話してみる」長門の言う少しは、ほんの数秒だったが。「情報統合思念体の意見では、」意見と来たか。俺の意思が固まりつつあることを察したようだな。「まず、宇宙崩壊を招くような情報爆発はさせないこと。自律進化の膠着状態を打開するためのヒントが得られること。この二つが守られば、多少の改変には目をつぶると言っている」 やれやれ、都合のいいやつらだな。 「……ただし、条件がある」「なんだ」「失敗すれば、この時間を巻き戻し、全員の記憶を消す」「それは構わんだろう。失うものはないわけだしな」「そして、わたしとあなたの関係も解消される」「つまり、お前と別れろってことか」「……そう」俺は息を飲んだ。身代がやたらでかい取引を持ちかけてきたな。この賭けは大きすぎる。成功すれば全員がうまくいくが、失敗すれば俺は長門を失う。「やっぱりやめよう。リスクが高すぎる。お前を失うわけにはいかないよ」「……涼宮ハルヒはずっとこのままになる」「うーん……」俺は唸った。情報統合思念体の言い分じゃ、まるで俺が長門を選んだからこうなったといわんばかりの展開じゃないか。 長門は俺の手を握った。「……わたしを信じて。もし解消しても、やり直せる」「お前との記憶はどうなる。病院で俺が言ったこと、お前を向こうの世界から連れ戻したこと、この世界を守るためにいっしょに戦ったこと。全部消えちまってもいいのか」 「わたしたちには未来がある。共有した時間はまた作ることができる。でも、涼宮ハルヒは過去に生きている」「あいつの人生は過去にあるのか……」「……十一年前の七月七日から、彼女の感情のある部分が停止している」その感情てのはたぶん、ときめきとか切なさとかいうやつだろうな。「……涼宮ハルヒに、未来をあげて」「お前、やさしいんだな」なぜだか長門の姿がにじんで見える。長門はここまで変わったのだ。「よし、分かった。涼宮ハルヒに未来を」俺は長門の手を握り返した。「未来を」長門はもうひとつの手を重ねた。 翌日、俺はハルヒ以外のSOS団全員に集合をかけた。場所は長門の部屋だ。先に朝比奈さんを喫茶店まで迎えに行ったが、表情が曇っていた。「ごめんなさいキョンくん。あまりに無謀だということで許可が降りなかったの」「それじゃあダメなんですか」予想はしていなかった。なんだかんだ言っても、朝比奈さんはすべてをうまくまとめてくれそうな気がしていた。「歴史に致命的な矛盾が起こった場合、修復する保証ができないっていうことらしいの」「そうですか……。仕方ないですね」「わたしたちの活動はTPDDに依存しているので、涼宮さんの人生が変わるとそれが存在しなくなるかもしれない。そうなるとわたし自身が存在できなくなってしまうから」 「すると、朝比奈さんが消えてしまうわけですか」「そうなるわ」「……保護フィールドを展開すれば、影響は受けない」「もういいよ長門。ゴリ押しでやったって意味はないし、満場一致の賛成じゃないとな」長門の部屋は、しばし無言に包まれた。 「長門の同位体に頼むことはできないか?」「……それは、もう無理。七年前、わたしは同期を断った」そうだったな。理由は、未来は自分で選択する、だったか。朝比奈さんがスクと立ち上がった。「もういいわ。キョンくん、わたしが独断専行します」手を握りしめ、決意のポーズだ。いつだったか同じ仕草を見たな。「そんな、朝比奈さんがクビになってしまいますよ」「いいの。こういうときくらい、みんなの役に立ちたいもの」「無茶ですよ。未来に帰れなくなってしまいませんか」「それでもいいわ。そのときは涼宮さんの会社で雇ってもらうから。わたしはもう、この時代に骨を埋めます」俺と長門は呆然と朝比奈さんを見つめた。未来人はあれやこれや規則が多くて、いつも上司のご機嫌を伺ってばかりいるように思っていた。俺たちがはじめて見る朝比奈さんの雄姿だった。無謀なだけかもしれんが。 「朝比奈さん、ほんとにいいんですか」「やると決めたらやります」「ほんとですか、やりましょう、必ず成功させましょう」三人は互いに手を握りうなずいた。「……あなたの骨は、必ず拾う」長門、それは戦場で言うセリフだ。 「やあ皆さん。遅くなって申し訳ありません、残業が長引いてしまいまして」古泉が今ごろのこのことやってきた。「古泉くん、わたしはこの時代に骨を埋める覚悟です」朝比奈さんのまなじりがキリキリッと上がった。「朝比奈さん、ご結婚されるんですか。それはめでたい」「そ、それもいいかもね……」朝比奈さんはまじで考え込む顔になった。婿候補に誰か心当たりを探してるようだ。「じゃあ、十年前に飛びますよ」「ええっ、いきなりですか」誰のために集まってると思ってんだ古泉。俺たちは輪になって手を繋いだ。「……着地点を、ドアの前に」「七月七日のこの部屋のドアの前ね。じゃあ、目を閉じてください。いきまーす」 俺、長門、朝比奈さん、そして古泉の四人は十年前に飛んだ。正確には十一年前の七月七日、長門の部屋のドアの前だった。「ドアの外に出ただけのようですが、本当に十年前なんですか?」「そうよ、古泉くん。十一年前のちょうど午後八時」「信じられないならそのへんのコンビニで新聞でも買えばいい」「いえ、信じます。時間移動があまりに簡単だったものですから」「どんなタイムトラベルを期待してたんだ。机の引き出しに潜り込むとかか」「地球が猛スピードで逆回転するとか、映像が巻き戻し再生のように見えるとかを期待してたんですが」「うふふ。数時間程度の時間移動なら、そう見えることもあるわ」「それは素晴らしい。いつか見てみたいものです」古泉、ワクワクするのもたいがいにしとけ。俺はタイムトラベルのたびに吐きそうになってるんだからな。「古泉くんは時間酔いしないみたいね」「時間酔いってなんですか?」「人間の脳には時間の流れを感じる部分があって、思考速度とタイミングが合わなくて眩暈がしたり気分が悪くなったりするの」「ほうほう、なるほど興味深いですね」古泉はモルモットを観察する科学者のような視線で俺を見た。なんだそのふんぞり返った態度は、悪かったな時差ボケで。 「別にドアの外じゃなくてもよかったんじゃ?」「……部屋の中に突如現れると、同位体が敵性を判定しかねない」「それもそうか。いきなり詠唱くらいそうだな」長門はインターホンの呼び鈴を押した。「……」「……わたしだ」「……今、開ける」ゆっくりと開くドアの影には、十一年前の、今とはおよそ無表情に近い、メガネをかけた長門がいた。「……入って」この日に訪れるのは三度目のはずだが、まだ俺と朝比奈さん(小)は来ていないようだ。「長門さん、突然お邪魔してごめんなさい。後でわたしが来ると思うけど、その分もごめんね」「……いい」長門二人が同時に応えた。三人はちょっと戸惑った。どっちをどう呼べばいいんだろう。 三人は居間のテーブルの前に座った。二人の長門もほかの三人もずっと黙ったまま、無言の行を続けている。「長門」「……なに」二人が同時に振り向いた。ややこしい。ここは朝比奈さん命名方式で、この時代の長門を長門(小)と呼ぶことにしよう。「お前の記憶と一致しなくなるんじゃないか?」「……構わない。同期を断った時点ですでに一致していない」なるほど。「……何の用」長門(小)が聞いた。「……涼宮ハルヒに関する歴史改変を開始した」「……すでに連絡があった。協力するが、あなたのやっていることが理解できない」「……何も聞くな。禁則事項」「……分かった」長門(小)は、ちょっとムッとしてるようだぞ。 後で聞いたのだが、同位体は経験値の高いほうが上位同位体なのだそうだ。つまり先輩ってことか。
「そういうことなんだ。すまんがよろしく頼むわ。たぶんすぐ済む」「……分かった」帰り際、振り返って長門(小)を見た。やっぱり寂しそうな目で俺を見ている。こいつは三年間ずっと独りきりなんだよな。「なあ長門、中学生の俺を見かけたら仲良くしてやってくれないか。たぶんあいつも暇にしてるから」長門(小)はコクリとうなずいた。これが俺にできる精一杯のことだった。 東中に向かう途中、俺と古泉は歴史改変のおさらいをした。 まず校門前でハルヒに会う。呼びかけるのはなんとでも言えばいい。それからハルヒがグラウンドに地上絵を描くのを手伝う。終わったらたぶん、宇宙人やら未来人のことを聞かれるがうんうんと言っておけばよし。名前を聞かれたらジョンスミスを名乗る。一旦、門を出てから走って戻り、世界を大いに盛り上げるジョンスミスをよろしく、と叫ぶ。 「こんなところか」「分かりました。でもなぜ一度出て戻るんです?一回で済ませればいいんじゃないんですか?」「そのへんは俺にも分からん。いちおう既定の歴史をなぞったほうがいいと思うんだ」「そうですか」朝比奈さんだけがその理由を知っているようで、俺たちを見て微笑んでいる。 ハルヒに会う前に、ひとつだけやっておかなければならないことがある。かなり厄介なことだ。「朝比奈さん、そろそろですよね」「そのはずです」朝比奈さんは腕時計を確かめていた。俺は今回に備えて腕時計を二つはめている。右腕が俺のいた時間で左腕が現地時間だ、ややこしい。「じゃあ、俺が話し掛けます」光陽園駅前公園の藪で、俺たちは待ち構えていた。街灯のそばのベンチに二つの人影が見える。いや、厳密には三つだが、二つが重なっている。「おい」俺は影に向かって呼びかけた。二つの影はビクリとしたようだった。「キョンくん!?」八年前の俺と朝比奈さん(大)だった。俺の記憶どおり朝比奈さん(小)は気絶している。「お前は俺か、じゃあ俺はいったい誰だ?」マヌケなこと言ってるんじゃない。「わけあってこの時代から十一年後から来ました。朝比奈さんもいます」「何があったの?」「ええと、ちょっと説明が長くなるんですが、ハルヒの地上絵の手伝いは俺たちにやらせてもらえませんか」「そんな既定事項はなかったはずだけど?」「正直に言うと、既定事項はなかったことにしてもらいたいんです」「なんですって!?」本来の朝比奈さんの眉毛がぴくりと持ち上がった。これはよくない兆しだ。 俺はハルヒのことを話した。ずっとジョンスミスを待ちつづけているので、俺たちが代役を用意しようとしている、と。「つまり、涼宮さんのために歴史改変?」「はい」「そんなことが許されると思ってるの?」「はあ、そこをなんとかお許しをいただけないかと」「そんな無茶な改変をしてどういう結果になるか分かってるの?」いかん、まじで怒られそうだ。俺は後ろを向いて、俺の朝比奈さんに助けを求めた。藪の中からモソモソと影が動いて出てきた。俺の朝比奈さんは、自分が出ないと事態が治まりそうにないと思ったのか、堂々と三人の前に立った。 「わたしもそうは思ったんだけど、涼宮さんのためなのよ」「あなたが付いていながら、どうして歴史改変なんてバカなまねができるのよ」「バカとはなによ!そもそもあなたが涼宮さんの気持ちを考えないで既定事項作りをしたからわたしが迷惑を被ってるんでしょ」「わたしがやったことはあなたもやったことでしょう!」すいません、聞いてて頭痛くなってきたんで、ギャラリーになりますね。俺はまったりと一服しそうな雰囲気でふんふんと朝比奈ツインズの突っ込み役しかいない漫才を眺めていた。煎餅が手元にあったらボリボリ食ってお茶をすすっているところだ。 「いくらキョンくんが好きだからってここまでやっていいわけないわ!」「あなただってキョンくんに甘すぎるのよ」「あの、朝比奈さん、今なんて」今確か、好きとか。「あなたは黙ってなさい!!」ス、スイマセン。すごい剣幕でステレオで怒られた。こんなのははじめてだ。「あ、キョンくん、あのね、いまのは、」「いまのはね、言葉のアヤなの」二人ともシドロモドロになっている。「ちょっと感情的になっただけなの」二人とも顔が真っ赤だ。ええと、じゃあ、聞かなかったことに。後ろで長門も見てることだし。「ともかく、わたしの考えでは、いつか涼宮さんがジョンスミスの正体を知ったとき、時間が経てば経つほど爆発したときのエネルギーが大きいってことなの」「涼宮さんってキョンくんと一緒になれないの?」「俺には長門がいますから」まかり間違ってもハルヒと一蓮托生なんてありえません。「まあ。いつからそんな流れになってしまったの?」「ええと、すいません。それは禁則事項なんです」あれは平行世界に行ったときくらいだったか。「もう。ジョンスミスを取られたと知ったら、閉鎖空間どころじゃ済まないわよ」「だから先手を打ってジョンスミスを小出しに明かしたほうが、長い目で見ると楽なのよ」俺の朝比奈さんが実に説得力のあることを言った。そうか、俺たちの秘密も小出しにすりゃいいのか。 「あの、ええっと。皆さん、俺はどうしたらいいんですか」若いほうの俺がオロオロしている。心配せんでいい、お前は蚊帳の外だ。というか、お前が今聞いたことはお前にとっちゃ禁則事項なんだが。まあそっちの朝比奈さんがなんとかするだろう。 「それより時間がないわ」俺の朝比奈さんが腕時計を見た。「仕方ないわね。じゃあ、そっちの流れでやってもらうわ」既定の朝比奈さんが言った。「最初からそのつもりよ」「ただし、このことは上層部に報告しておきますからね」「望むところよ。処分はあなたも受けるわけだし」「え……」既定の朝比奈さんは、それは困る、という顔をした。自分を脅すときに使える手だな。 俺の朝比奈さんの説得が功を奏したのか、あるいは半ば強引に、その後のフォローもこっちがやるということで引き取ってもらった。ということは若い俺と朝比奈さん(小)はハルヒに会わずに長門んちに行くことになるわけか。なにしに来たんだあいつら。 九時五分を過ぎた。俺たちは東中に急いだ。走りに走って息切れがしている。日ごろ運動してないからな。「誰もいませんね」「間に合わなかったか」「まったくもう、わたしがあんなに強情だとは思わなかったわ。あ、わたしっていうのは向こうのわたしね」四人でこの時代にいるはずのハルヒを探した。「……まだ、近くにいるはず」「グラウンドにいるんじゃないか?」フェンス越しにグラウンドを見回したがそれらしき人影は見当たらない。「あんたたち、なに騒いでんのよ」後ろで耳慣れた声がした。全員がそっちを向いた。あのときのハルヒだった。うわ、かなりまずいところを見られたぞ。古泉だけならまだしも、俺に朝比奈さん、そして長門。 長門が緊急詠唱して不可視フィールドを張った。古泉だけ外に蹴り出した。「あ……あれ?今三人くらいいっしょじゃなかった?」ハルヒがポカンとした顔をしていた。「い、いえ、僕ひとりですが」「おっかしいわね」長門、グッジョブ。俺も朝比奈さんも冷や汗をかいていた。っていうか古泉、女子中学生に敬語かよ。 「あんた、暇でしょ。ちょっと手伝ってよ」古泉は見えない後ろの気配を気にしつつ、いそいそとハルヒについていった。 古泉は十三歳だか十四歳だかのハルヒの横顔をまじまじと見つめ、「涼宮さんかわいいですね」古泉、よけいなこと口走るんじゃない。「ちょっとあんた、なんであたしの名前知ってるの?変態?誘拐犯?怪しいわね」「あなたこそ、なにをしてるんです?」「決まってるじゃないの。不法侵入よ」「そうなんですか」古泉は爽やかに笑った。ここまで来てルックスのよさを見せつけなくてもいいって。「あんた、あたしの知り合いだっけ?」「ええ。お父さんの知り合いです」「誘拐犯ってよく身内の知り合いを名乗るのよね」「それもそうですね」「まあいいわ。手伝ってくれれば誘拐犯でも、泥棒でも」 ここで俺の記憶と少し食い違うのに気が付いた。「朝比奈さん、古泉はあなたを背負っていかなくていいんですかね?」「どうなのかしら。あのときのわたしはただの荷物にしかなってないから、いいんじゃないかしら」「確かに、あのときの朝比奈さんはずっと眠ってましたよね。長門に会うためだったんでしょうか」「分からないわ……どうかしら?」朝比奈さんは長門を見て疑問符を投げかけた。「……特に問題はない。あとで修復可能」長門がそう言うなら大丈夫だろう。あのときの朝比奈さん(小)はバックパックだと思えばいい。 気が付くと古泉とハルヒはいなくなっていた。門を越えてさっさと入っていったらしく、俺たちは後を追いかけた。 正門を入ってすぐグラウンドだ。ここに来るのはそう、三回、いや、谷川氏と来たのを合わせると四回目か。古泉は生石灰の袋が乗ったリヤカーを必死に引いていた。重みでタイヤが潰れている。 「生石灰でなにをするんです?」「地上絵を描くのよ。あたしの言うとおりに線を引いて。離れて見てるから」気のせいか、俺のときより少しおとなしいな。 古泉は汗まみれになりながら、ハルヒのあれやこれやの注文を聞きつつ、三十分ほどで地上絵を完成させた。「完璧ね。あんた、図形得意?」「幾何学ですか?多少の知識はあります」「ふーん。大学生なの?」「いちおう社会人です」ジョンスミスが北高の生徒だっていう既定事項が壊れてるな。俺は朝比奈さんと顔を見合わせた。朝比奈さんは、とりあえず成り行きを見ましょう、と言った。 グラウンドに小さな影が二つ座り込み、ぼそぼそと話していた。「あんた、なんの仕事してんの?」「秘密の組織で働いています」「CIAとかKGBみたいな?」「あはは。あんなのとは違います。もっと、平和に貢献するための組織です」「MIBみたいな?」「ああ、近いと言えば近いですね」「ふーん。ミステリーなのね」二十四歳のおじさんと、十三歳の少女がしみじみと話している。親が見たらあわてて連れ戻すかもしれんが。なんだか俺のときとはずいぶん雰囲気が違うな。まあ、これはこれでありなのかもしれん。 「あんた、宇宙人信じる?」「ええ。友達にいますよ」「へー、どんな?足が八本あるとか、耳がとんがってるとか?」「いたって普通の人ですよ。美人です。ちょっと変わってますが」古泉は笑った。「へー。じゃあ、じゃあ、未来人は?」「もちろんいます」古泉、あんまりハルヒの好奇心を刺激するな。後が大変だぞ。「超能力者は?」「はっはは。どうでしょうね」「やっぱりいるんだ。あたしもね、ずっと前からいる気がしてたのよね」「なぜ、そう思われるんです?」「だってそのほうが面白いじゃない」そんな単純な理由で三人を呼び寄せたのか。デタラメだなまったく。「そうですね。人生には不思議があったほうが楽しいですよね」 「あとひとつ、異世界人は?」「異世界人っていうのはですね、この次元とは別の平行宇宙がないと存在できないんです。今のところそのような世界の存在は確認されていなくてなんとも言えませんね。理論上ではそういう宇宙があるんじゃないかという研究はされているようですが」 俺は異世界人を知ってるぞ。って女子中学生になに講釈垂れてんだよ古泉。「ふーん。マルチバースのこと?」「ええ。よく知ってますね」「あんたの組織ってどこにあるの?」「それは秘密です。地下組織ですから」「そう、そうよね……」ハルヒは黙り込んだ。「あんたの名前は?」「ジョンタイターです」「まっさか、ほんとに?」ハルヒは大声で笑い出した。「冗談です。本当はジョンスミスです」「ぷっ。まあいいわ、覚えとく」おいおい、俺のときはバカ呼ばわりしただろうが。 知らない誰かの名前が突然出てきて俺は朝比奈さんに尋ねた。「ジョンタイターって誰なんですか?」もしかして新たなる登場人物の兆しか、それともジョンスミスの息子かなにかか。「ええっと、彼は米軍の時間移動技術施設で勤務していた調査員だと思うわ。一度だけこの時代に現れたことがあるの。未来の情報を漏らしたので処分を受けたらしいけど」 そんな事実があったとは知らなかった。「じゃあタイムマシンを作ってる連中がほかにもいるってことですか」「ええ。時間移動をしているグループがいくつかあって。それぞれが勝手に歴史に介入しようとしているから、わたしたちのグループが阻止しているの」もしかしたら情報統合思念体とか機関のように、未来人にも派閥みたいなものがあるのかもしれない。 俺はグラウンドの二人に目を戻した。「ときに、この絵は何なんですか?」「これは宇宙へのメッセージよ」「ベガとアルタイル宛てですか」「よく分かったわね」「七夕ですからね。僕も似たようなことをやったことがあります」そこで古泉は腰を上げた。「じゃあ、僕はそろそろ帰らないと」「ね、ねえ、あんたにまた会える?」おっ?ちょっといい感じだな。「会えますよ。きっとね」古泉は親指を突きたてた。それから慌てて付け足して言った。「そうそう、会いたかったら北高に来るといいです。仲間がいますから」「そうなの。考えとくわ」これでたぶん、ハルヒは北高に入学してくるだろう。「じゃあ、お元気で」「うん。あんたもね」二人は名残おしげに手を振って別れた。
「なかなかいいシーンね」「……ほのぼの、いい」長門がうなずいた。「これでうまくいってくれるといいんだが」校門のあたりで古泉がうろうろしている。不可視フィールドにいるはずの俺たちを探しているようだ。「古泉、こっちだ」門の外に出て呼んだ。「あどうも、そちらでしたか」「なかなかいい感じじゃないか」「涼宮さんって若い頃からあんなだったんですね」「あれは天性のもんだな」「それにしてもかわいいですね」危ないこと言うなよ。PTAが聞いたら卒倒するぞ。「じゃあ、戻って最後のセリフを言ってきます」「おう。行ってこい」「古泉くん、待って」朝比奈さんが呼び止めた。「なんでしょうか」「これ、涼宮さんに渡して」朝比奈さんは自分の首からネックレスを外した。紫色の透き通った石が下がっている。「よろしいんですか?」「新しい既定事項には縁の品があったほうがいいと思うの」「なるほど。気が付きませんでした」「じゃあ、行ってきて」「ありがとうございます」古泉はグラウンドの真中にいる小さな影に向かって駆け出していった。「エニシの品って、何ですか?」「過去と未来を繋ぐ、絆みたいなものね」なるほど、ロマンチックではあるな。 ── 世界を……盛り上げる……よろしくお願いします遠くから古泉の声がボソボソと聞こえた。やれやれ。これで家内安全、SOS団もお家安泰だろう。これが古泉とハルヒの運命的な出会いだ。になる、はずだった。
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