マスターの動揺
ラジオから昭和のメロディーが流れて、店内を包みます。今日は、いつもより三割程レトロな雰囲気を醸し出しています。「なあ、マスター」「はい、何でございましょう」「モテモテになれる秘訣って、何だと思う?」「モテモテ、ですか」「そう……、聞いてくれよマスター。昨日のあの女、ホイホイ付いてきて俺様に気がある素振りを見せておきながら、俺の告白を無下に断ってきやがったんだぜ! 信じられねえ! WAWAWA~」 「まことに女心というものは難しいもの、ですなあ」谷口くんは、まったくだと言わんばかりに頷いて大いに同意してくれました。ところでWAWAWAとは何でございましょう? 近頃の若者のブームメントなのでしょうか。いやいや、歳を取りますとすっかり流行というものに疎くなっていけませんな。まだまだ心身ともに若くありたいものですな。こんにちわ、私。喫茶店ドリームのマスターでございます。
◇ ◇ マスターの動揺 ◇ ◇
「女性というものは、まさしくコーヒーのようなもの。私の師匠からはそう教えられましたな」「コーヒーみたいなもの?」谷口くんは理解できないという目線を私に寄越します。「どんなに高級な豆でも挽き方を間違えれば拙くなり、逆に安い豆でも腕次第で最高のコーヒーになり得る」グラスを拭きながらそれに応えてみました。こうしていると私にイロハを教えてくださった師匠の姿が浮かんで、少しだけ懐かしい気分になります。「そうか。コーヒーねえ……」「そのために男は腕を磨く、女の気を挽く、などと言われましてね」「なんだか、妙にマスターらしい考えだな……」「それに、少しでもお湯の温度を間違えれば味はガラリと変わってしまいますからね。いやいや、難しいものですな」「あははは、それじゃあマスターの奥さんはロブスタ種だな」ロブスタ種は比較的安価で取引され、主にインスタント、あるいは廉価なレギュラーコーヒーに用いられています。その特徴は、どんな土地でも栽培できて病害や冷害にも強いと言われております。 ストレートで飲むと特有の「泥臭さ」が出てイマイチの味わいになってしまう反面、ブレンドとして使えば配合豆の引き立て役として充分な役割を果たす。いやいや、縁の下の力持ちとはまさにこの事ですな。一本取られたとばかりに思わず笑みがこぼれてしまいました。いやいや、ロブスタとは谷口くんもうまい事を言いますなあ。しかしこんな瞬間を嫁に一瞥されたとしたら、いったいどんな罰が私の身に降りかかるかと言う事を考え、ゾっとしてすぐにひっこめました。黒いワンピースに身を包んだウエイトレス姿の長門さんから意味ありげな目線が、先程からチクチクと頬に突き刺さっているのを感じましたが、おそらく私の気のせいなのでしょう。 「尻に敷かれるのも良いものですよ」こう言い返すのがやっとの私でございました。「俺はごめんだね」「はは」いつだったか、谷口くんの歌う姿もそこそこはサマになっていましたよ?「む。やはり」「やはり?」「俺って多才だから、どの方面で攻めようか迷ってたんだ……、そうか……歌か。歌で告白するってのもアリだな。サンキューマスター!」谷口くんは何かを納得された様子で店を後にされました。願わくば、谷口くんに幸あれ。
「先程の話」長門さんの言葉にドキリとしたのは歳のせいでない事を願うばかりです。「さっきの、でございますか?」コクリと頷く長門さん、同じ頷くでも谷口くんのそれとはいささか趣きが異なって見えるのは如何してでしょうか。「もう少し、聞かせて欲しい」……そんな目で見られたら断るという方が無理だというものです。私は降参だと言わんばかりに両手を挙げてその旨を伝えました。立派な花の油絵が誰かに微笑みかけた気がします。
あくる日。
時計は十二時を少し回ったところです。それはいつもならサラリーマンやOLのみなさんがランチを取りにいらっしゃる時間で、私も忙しくしている時間。いわゆる「書き入れ時」というものです。どうしてこの文字なのかと言うと、売買が成立した際にはそれを帳簿に記録する必要があるからです。私も初めて帳簿をつけた際は思わず頬が緩んだものです。その時の帳簿は大切にとってあります、三番目の引き出しにね。どうして三番目なのか、理由は簡単です、昔のオーナーもそこに大切に閉まってありましたから。苦しい時、それを見ては頑張ろうと思いました。私の思い出がアルバムならば、この店のアルバムはまさに帳簿そのものですから。いやいや、それにしても昔の人は上手く字を当てたものですな。この歳の私が昔の人などと言うのは些か可笑しいでしょうか?カツサンドとハムサンドをOLさん達のテーブルに運んだ、その時です。
カランコロン。
「いらっしゃい」「……こんにちわあ、マスターさん」「おや、こんなお早い時間に」まさに美少女を体現したかのような彼女──制服姿の朝比奈さんは、フラフラとした足取りで席につくなりバタリと倒れこんでしまいました。カウンターに戻り、洗い物をしていた私が尋常ならぬ物音に慌てて駆け寄ると、そこには、眠ってしまった白雪姫がひとり。見とれて──いやいや、これは一大事です。我に返り朝比奈さんをかかえて部屋まで運び、布団を敷いて、冷水に浸したタオルを掛けてあげるのと時を同じくして嫁が血相変えて帰ってきました。嫁は私と違って流行ものを好んでいたので携帯電話を常日頃持ち歩いていましたから、これが今日はじめて役に立ちました。私は改めて文明の進歩に感謝すると嫁に朝比奈さんを任せて、店に戻りました。常連さんが心配そうな顔をしていましたが、もう大丈夫ですよと伝えると安心した様子でした。それにしてもどうしたのでしょうか。まさか最近全国で流行しているというあのストーカーなのでしょうか。いやいや、職業柄色々な人のお話を聞く機会がありますが、ここらでその様な無粋な輩が出ると言う噂を聞いた事はありませんし。倒れるほどの何かが朝比奈さんの身に……。外は朝比奈さんの顔色と対照的に、梅雨だと言うのが嘘の様に晴れ渡っています。青天の霹靂とはまさにこの事だと思いました。「お医者様に見てもらった方が良いのでは」と嫁に進言すると「貧血みたいだから今はそっと寝かせてあげた方がいい」と言われましたので、私は常温になってしまったタオルを新しいものに取り替えました。 こんな時医学の知識がある嫁に何度も助けられてきましたので、今回もそれに習う私でございました。ロブスタなどといってしまった事を心の中で懺悔する私でもございました。 幸いタオルはだけは店に沢山ありましたので、何、これくらい安いものです。ぐっすりと眠る朝比奈さんは、何かにうなされていました。ともすれば聞き逃してしまいそうな、本当に小さな声のうわ言が私の耳に届きました。「────、こいずみくん」触れれば壊れてしまいそうな、それはまるで薄い氷の様に思えました。私は細心の注意を払いつつ、ひんやりとしたタオルを白雪姫のおでこにそっと着氷させました。
「なにが、あったの?」ウエイトレス姿の長門さんは、眠る朝比奈さんを見て心配だと言う表情を浮かべていました。最近では、注視しなくても長門さんの表情の変化がわかる様になりました。私の思い違いでなければ、の話ですが。っと、今はそんな場合ではありませんでしたね。「詳しい事はわからないのですが──」「──そう」その表情は、短い言葉とは裏腹に。「長門さん」「なに?」「何か、あったのですか?」今度は同じニュアンスの質問を私が。「……わからない、でも」短い沈黙の後に、「思い当たる事がある、古泉一樹の事」
「……、ふええ……?」なんとも可愛らしい声が聞こえてきました。「あらあら、みくるちゃん。おはよう」「ふえ? マスターさんの奥さん?」「あはは、寝ぼけのみくるちゃんって可愛いわね。つい抱きしめたくなっちゃう」いやいや、一体病み上がりの人に何をするのですか。襲わないでください。傷でもつけたらどうするのですか。「いやね、冗談じゃない。あんた根が真面目なトコがいいけれど玉に瑕ね」なにやら嫁の視線に薄ら寒いものを感じた私でございました。「あ、あの……? えっと? ここは……?」玉に瑕と言われてショックを受け、少しばかり思考が停止していた私に代わって嫁が朝比奈さんにいきさつを説明していました。「ご、ごめんなさい。あの、その、迷惑をかけてしまって……」「構いやしないよ、こんな可愛い子をほっとけないって。ね? あんた」「さようでございます。ですからお気になさらず」
ひょっとしてロブスタと言った事が、聞こえていたのでしょうか? そんなまさか、ね。「あんた、今。何か言ったかい?」「いえ、何でも」「その目は隠し事している目だね」「隠し事など」「その目は嘘を言ってる目だね」「嘘など、決して」「知ってた? あんたが嘘を付く時、流し目になるのよ?」「いや、その、これは」「これは?」「……、すみませんでした」「わかればいいんだよ、わかれば」閑話休題でございます。
「みくるちゃん、今日は遅いし泊まっていきなよ」「ええ、そんな。そこまでしていただかなくても」「朝比奈さん、悪い事は言いません。ご両親には私から連絡いたしますので」「いえ、あの。そういう問題ではなく、……ええと。じゃあ、お願いします」「よし! 決まりだね」数秒考えた朝比奈さんは私達の提案を受け入れてくれました。
その日の晩御飯は少しばかり豪勢なものでございました。
嫁が鉄分が足りないと貧血になると言うので、何か栄養のあるものをと考えたら必然的にこうなってしまいました。レバー炒め、ほうれん草に、ひじきのおひたし。ブロッコリーをふんだんに使ったサラダと、鮪の刺身、目玉焼き。食後にバナナとココアを。
テーブルに所狭しと並んだソレラ。いやいや、我ながら作りすぎでございます。しかし、途中でストップがかからなかったのを見るところ、一緒に作っていた嫁もついついこの時間を楽しんでいたのだと思います。「なるべく食べて、でも残してもいいんだよ」と嫁は言いました、私も同意です。それでもおいしい、おいしいと言って全て食べてくださった朝比奈さんを見て私はある感情を抑えられずにいられませんでした。私達には、子供がおりません。時に運命とは、残酷なものであります。いま、この話はするべきではないのかもしれません。しかし、その事を考えないでいれる程、私はまだ大人になりきれていないのでした。「マスターさん?」「あ、いえ。何でございましょう」「あの、わたし何かしま……した、か?」慈愛に満ちたその目。
その目は今までに、何を見てきたのでしょうか?
そしてこれから、何を見ていくのでしょうか?
みくる──未来──という名の、少女。 涙が流れているのを止められない、本当に、私は大馬鹿者です。本当に、何をしているのでしょうか。「ったく、いい歳して何やってるんだか。みくるちゃん、気にしないでね、この人、時々こうなるのよ」思いやりの欠片も感じられぬほどの力で私の背中をバシバシと叩く嫁。「すみませんでした、朝比奈さん。気になさらないでくださいね」ニコリと笑いかけると、朝比奈さんも理解したのでしょうか。あの油絵の──そう、睡蓮の花の様に微笑みました。「ほらほら、男はさっさと行きな。これからは女の時間だから」したり顔で頷く嫁と、ポカンと「?」マークを浮かべる朝比奈さんを残して、私は二階へと上がりました。
翌朝、トントントンという小気味良い音と、お味噌汁の香りで目覚めました。私が一階へ降りていくと、そこにはもう朝比奈さんと嫁がおりました。「マスターさん、奥さん。お二人とも本当にありがとうございました。この通りすっかり元気になりました」ぐっと、細い腕でガッツポーズをとりながら朝比奈さん。その笑顔はまるで、天使のようでございました。いやいや、元気になって何よりでございます。何かお返しがしたいと朝比奈さん。私はそんな事はいいですよと申しましたが、どうしてもと仰いますので。それにしてもさきほどのエプロン姿と言い、いまのウエイトレス姿と言い妙にしっくりと馴染んでいるのは、なぜなのでしょうか?
「あ。この歌、何て言うんでしたっけ?」ラジオから流れてくるメロディー、それはそれは懐かしい昭和の匂いでございました。選抜高校野球大会の入場行進テーマにもなった曲です。「365歩のマーチ、ですね」昨日は言いそびれてしまいましたが。『歩みを止めずに夢みよう』『千里の道も一歩から』『始まることを信じよう』今日は、言わなければいけません。「朝比奈さん」私は覚悟して口を開いたのでした。
一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。一生幸せでいたいなら、正直でいることだ。
これは西欧の諺だそうです。朝比奈さん。なにか、心に思い残しがあるのなら、自分に正直になるべきでございます。例え、傷ついても。自分に嘘をついて生きていく事は、だめだと私は思います。真っ直ぐに、そして、正直に。歩いて歩いて歩いていけば、見える明日もあるのではないでしょうか?ままならない事もあるかもしれません。三歩進めば二歩下がる毎日かもしれません。理屈で考えても、答えがでない事もあるかもしれません。理不尽だと思う事も、時にはあるでしょう。人生には、自分の力だけでは、どうにもならない事も、あります。……私と嫁が、そうであるように、ね。人生とは往々にしてそうでございます。時に運命とは、時間とは残酷なもので。それでも、私達は歩いていくしかないと思います。明日の明日はまた明日でございます。同じ、明日を迎えるのであれば、笑顔である事に越した事はありません。朝比奈さん。どうかご自分の気持ちに、嘘はつかないでください。
「マスターさん……」「すみません、朝比奈さん。つい、熱くなってしまいました。答えはでないかもしれません、しかし──」「マスターさん」「はい」「ありがとうございます……、わたし。わたし、こんなわたしだけど、頑張ってみようと思います」
その答えは、朝比奈さんの表情を見ればわかりそうな気がしました。
きっと、朝比奈さんが書いた足跡には、それはそれは綺麗な花が咲く事だと思います。
喫茶店ドリーム。
夢の続きで、今日も未だ見ぬあなたを、お待ちしております。
おわり。
喫茶店ドリーム
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