しん・せかいに君と
人払いを終えた、淀んだ茜色に染まった部室で、俺はある作業に勤しんでいた。パソコンのソフトを呼び出し、ディスクトレイに部長氏から託されたそれを乗せる。トレイがディスクを飲み込み、少し耳障りな音と共に読み込みが始まる。念のため、カーテンも閉めるべきだろうか。いや、外からは俺が見ようとしている物までは見えないはずだ。そんな事をしても、かえって怪しまれるだけだろう。「おっと」カバンからイヤホンを取り出し、パソコン背面の端子に接続して、画面上で適当な音量に調節する。危ないところだった。椅子に改めて座りなおすと同時に、ディスクに記録されていた動画が再生された。 俺が何を見ようとしているのか。考察する理由など微塵も無い。画面を一目見れば、俺がこうして臆病なまでに周到になっている理由がわかるはずだ。何のことは無い。ただのAVだ。前日の事である。部活動と言っても差し支えがありまくりのSOS団定例ミーティングを終えた俺は、下駄箱の前でコンピ研の部長氏に呼び止められた。「頼みがあるんだ」部長氏に頼まれるような事など、思い当たらない。想定外の人に想定外の事を言われ俺は、「はぁ、なんでしょう」と聞きようによっては「いいですとも」と取られかねない曖昧な返事しか取ることが出来なかった。承諾と受け取ったのか、部長氏は破顔して言った。「君ならわかってくれると思ったていたよ。嬉しいなあ。嬉しいなあ。では、約束のものは明日」「待ってください」まるでハルヒだ。部長氏は早口言い終えると、自分の靴箱の前に移動しかけた。「まだ話の『は』も聞いてないんですが。何ですか?」「あ、あ? あ、ああ、あーっ、ああ!! す、すまない……いや、その話というのは――」要約すると。・長門の写真が欲しい。・出来れば水着がいい。・欲を言えば、ポロリもあると嬉しい。・メイド服もいいなあ。・でも、一番は自然体なプライベートな写真だよね。仮に、俺がその要求に応えた場合相応の対価は払う、という事らしい。対価とは何か? と尋ねると「オージーメガ盛り」と一言。気付くと俺は、部長氏と固い握手を結んでいた。考えてみれば、今までの俺は間違っていたのかもしれない。MIKURUフォルダをはじめ、俺は朝比奈さんと長門を、どこか俺個人の所有物と見なしていた。それは、ハルヒの独善的な考えと同じではないか。自分だけの秘密、と言えば聞こえはいいが、所詮はただのエロフォルダである。HDDの片隅で、幽閉されているようなものだ。それでは、いけなかったのだ。なぜなら、画像とは見られるためにあるのだから。それはオージーメガ盛りだって一緒だ。数多くの人の目に触れてこそ、その画像も、ひいてはその被写体も真の意味で「活きる」のではないか。 俺は部長氏に感謝した。部長氏と出会わなければ、孤独な男として一生を終えていたのかもしれないのだから。そうと決まれば事は早いほうがいい。俺は職員室に忘れ物があったと部室の鍵を受け取りにいき、厳選NAGATOディスクの作成を行った。あえて、この場には部長氏を呼ぼうとは思わなかった。同じように部長氏は自宅でディスク作成に全精力を注ぐと言っていたし、何より無粋である。「こんなんどうよ、いいだろ」なんて会話を交わしながら画像を選ぶなど、楽しみを殺ぐだけだ。交換のときは明日の昼休み。2階の男子トイレ個室3番目にて。まずは、膨大な写真データから長門だけを探す作業から始まった。ハルヒが無節操に取った写真デの総容量はギガにして4.1俺は幸いに時系列にまとめられていたフォルダの中を一つ一つ探し、長門が写った写真だけを一時フォルダにコピーする。その作業だけで、すでに40分が経過していた。 次に、ボケたり長門の像が切れているのを省く。そうするだけでも、大分絞り込めてくるので後が楽だ。しかし、ここで俺は悩んだ。それでも、あまりにも数が多いのだ。残った画像は、とりあえずボケた長門は写ってはいない。しかし、数が多いという事は全体の質が下がるという事だ。全てをコピーして、そのまま渡すべきか。あるいは、ディレクターズカット版でお届けするべきか。熟考。外はもう日が沈み、藍色が支配しようとしている。もう帰らなくてはいけない。結局、俺は決断には至らなかった。そこまで俺は大人になってはいなかったという事だ。俺は2枚のディスクを焼き終えると、部室を後にした。今日の昼休み。約束の地にして、交わされた盟約を果たすと俺と部長氏はただのお隣さん同士に戻った。そして、俺はその後の幾多の障害を乗り越え、この時この場所でオージーメガ盛りを堪能するに至ったのである。ディスプレイに躍るオージーメガ盛り無修正。この状況で何を我慢する事があろうか、ここで本能に従うことこそが、真の意味で部長氏に報いることになるはずだ。ああ、そ、そんなふうになってたのか!興奮のあまり、手が震えベルトが上手く外せない。いや、ここでこそ落ち着くべきだ。レッツ深呼吸。ゴーツーへヴン。くっそ、興奮が冷めやらねぇ。このままいっちまうのも手か。いいや、そんな勢いじゃない、手なんか必要ないくらいだ。「ふえ、ふぇ、ふぇっ、フェッフェフェ、フケ、フケケケケケケケケケケケ」ガチガチと歯がなり、声帯が痙攣を起こしている。すごいよ、このオージーメガ盛り! ありがとう、部長氏!さぁここからが本番だ。という所で背後から声がかかった。「大丈夫?」えっ。心臓が止まったかと思われた。部室には鍵をかけておいたはずだ、誰も入れないはず、なのに、どうして俺以外の人間が……?ビデオを一時停止し、イヤホンを外す。居る。右後方に居る。振り向かなくても、この先どんな展開が俺を待ち受けているか、俺にはわかっている。一緒なのだ。振り向いても振り向かなくても、同じだ。なのに、どうして俺は硬直したまま振り向くことが出来ないのだろう。「いいわよ、そのままで」ありがたい。出来ればそのまま退出してくれればありがたいのだが、などと言う度胸は俺には無い。「昨日、帰った後でも部室に電気がついてるのが気になったのよ。ほら、昨日は順番的に有希、あたし、古泉君、キョン、みくるちゃんだったじゃない。有希と古泉君が先に帰ってるのは自分の目で確認してたから、居るのはあんたかみくるちゃんに限られるでしょ。みくるちゃんが嫌らしいことでもされてないかと思って、気になって待ってたのよ。でも、暗くなってから出てきたのはあんた一人だったから。だからね、今日もなんか様子がおかしかったから、帰った振りしてロッカーに隠れてたのよ。そしたらあんた、変な声で呻きだすから…………」いくばくかの沈黙の後、ディスプレイを染めていた夕日が陰る。「へぇ」そう吐き捨て、ハルヒは部室から出て行った。画面には、静止状態で映し出されているジョイント部分。部長氏に報いることは、出来なかった。後始末を終え、校門を出ると既に辺りは暗がりに包まれていた。カバンの中に、一応ディスクは入ってはいるが、自宅で見直す余裕は残されていなかった。明日からどうしよう、とか、よく考えれば部室の様子は古泉の機関にも筒抜けだっただろうな、と言った後悔ばかりが俺を責め立てていた。部長氏は無事に、事を終えられたのだろうか。それも、一つの気掛かりだった。人気の全く無い長い坂をくだり、家路を歩く。身から出た錆なだけに、今回は立ち直るのに時間がかかりそうだ。……、俯いていても仕方無い。せめて前を見て歩こうではないか。そうだ、コンビニで何か甘いものでも買っていこう。少しは、気分がまぎれる筈だ。通りに面したコンビニに入り込むと、イカとアワビが接客していた。いや、イカではない。見慣れたそれだ。アワビでもない、さっき見たあれだ。入り口で立ち尽くす俺を、アワビが訝しげに伺う。アワビ、いや、ま、アワビが、ニチャリと水音を立て、喋った。「いらっしゃいませ……?」速攻回れ右でコンビニを出ると、あたりの様子が少し違っている事に気付いた。道行く影が全て、人型ではなく、棒状かバレーボール状になっている。短い棒。長い棒。太い棒。毛に包まれた……もう直視は出来ん。なんだ、コスプレか? 今日は仮装大会か?横を、グチョグチョと音を立てながら二つのアワビが通る。「つか、うちのテレビまだ現役だしね」「売り場で見るより、うちの大きいのが綺麗に見えるよね」「だよねー。必死だよねー」声の感じからして、中学生か高校生だろうか。通り過ぎた後に、まとわりつくような匂いが鼻についた。少なくとも、着ぐるみや仮装じゃあんな質感は出来ないだろう。という事は……?自宅で俺を迎えたのは、まっさらなドラ焼きだった。そのドラ焼きは甲高い声で「キョンくん、おかえり」と言っている事から、妹だと推測できる。ここまでの道のり、見かけた動くものは全てイカかアワビ(ドリルかドラ焼き)だった。それらは人間のように会話をしていたり、車を運転したりしていた。別のコンビニで見た雑誌の写真も全て、イカかアワビ(グラビアは特にドス黒かった)で、どうやら人間がその姿に変わってしまっているらしかった。しかし、ガラスに映った俺の姿だけはなぜ、元のまま。これは仮説だが、人がイカやアワビ(ゲイラカイトやタワシ)に見えるのは、俺だけなのではないか。他人には恐らく、俺は普通の人間に見えているはずだ。見えていないならこっぱずかしいことこの上ない。 こんな事を出来るのは決まってる。ハルヒだ。大方、俺が無修正のオージーメガ盛りを見ていたことに腹を立て「そんなに無修正のアソコが見たいなら好きなだけ見ればいいじゃない!」とでも思ったんだろう。馬鹿野郎め。俺は今モザイクの素晴らしさを噛み締めている最中だ。しかし、どうしたらいいのだろうか。俺は母親から目を逸らしての、食べにくい夕食を取りながらこの先の事を考えていた。学校に向かう事はおろか、ベッドから起き上がることさえ非常に億劫な朝だった。あれから一晩、一睡もせずに本気出して考えてみたものの、具体的な解決策は一つも出ないままだった。長門や古泉に助けを請うのも、どこか癪に思い躊躇われた。そうさ、余計な借りを作る必要も無い。こうして、朝を迎えた俺であった。ベットから抜け出しても尚、幾度も「休んでしまおうか」という誘惑が俺を襲った。歯を磨き、頭を覚醒させようとするが、鏡に映る自分が、誘いかける。「見ろよ、こんなになっちまってんだぜ。ハルヒだけじゃなくみんなが」横には、歯ブラシを突っ込んでヌシュヌシュと音を立てている妹がいた。思春期手前の妹でさえ、口(という比喩表現を使わざるをえない所)を開くと生々しい臭いが周囲に広がり、その度に俺は妹が『女性』である事を再確認するのだった。 妹だけではない、母親だってそうである。昨日は結局一度も目を合わせないままだったが、今朝は気を抜いていて、正面からバッチリ見てしまった。学校に行けば、きっとこんなものではない。否が応でも顔を突き合せねば成らないのだ。……この度は逃げてもいいんじゃないだろうか。そんな、甘い誘惑。だが、それでいいのかと俺を奮い立たせようとする俺もまた、目の前にいるのだった。「見たかったんだろ」単純な物事ではない。見たいから、はいどうぞ、なんてのはどうかと思う。こんな四六時中出しっぱなしでは、希少価値が無くなってしまう。いや、事実俺は既に価値を見出せなくなっていた。それは頭だけではなく、身体も同様のようである。打ちひしがれて絶望感。ひしひしと骨身に伝わると、あきらめの様な気分になってきた。水を吐き出し、鏡を改めて見つめると、そこには青い顔の俺が映っている。歯を食いしばってみるものの、出来たのは苦渋の表情を浮かべることだけだった。家を出る間際に母親は「青い顔をしている」と心配してくれたが、家に居ても事が解決する訳ではない。昨日の事が原因で休んだとハルヒに思われても面白くない、機関ら傍目にもそのように思われるだろう。そんなのは嫌だ。マスクをはめて出来るだけ人から目を逸らし、さながら不審者のように海鮮地獄の町を歩き、学校へと辿り着いた。奮起してここまで来たとは言え、いざ教室に入るとなると足がすくんだ。ハルヒがいたら、どういう目で見ればいいのか。だが、いずれはハルヒだけじゃなく朝比奈さんや長門、そして忌まわしい事に古泉も見なければいけない事を考えればハードルは最初が高いほうがいい。踏み込んだ足が、震えた。臭いというものは、マスクをしていてもこんなにするものなのか。あの長い坂をのぼれば汗も滲むだろう、その臭いと、それ自身が持つ臭いが、ここに混ざって充満している。 激臭。劇臭。異臭。どれにも当てはまらない。浮かんだのは、魔という一字。魔臭である。醜悪たるもの最たる悪魔、それが臭いとして具現したとさえ錯覚した。きゅうと、喉の奥が狭まる。身体が、その臭いを体内に取り込むことを嫌がっている。窓を開けなければ。チカチカと目の前が煌めく。鼻に炭酸を突っ込まれたような衝撃の後に、平衡感覚が逆転した。グラつく足元に力を込めるが、見当違いの方向に力が働く。生物としての俺という存在が、この教室は危険だと頭痛という形で知らせている。だが、遅すぎた。そもそも校舎に入った時点で気付かねばならなかったのだ。きっと鼻はある程度麻痺していただけで、脳はずっとダメージを受け続けていたはずだ。それが教室という空間に入った事で、表面化した。バクン、と心臓が鼓動を打つ。そのたびに、視界が狭まっていくのに比例して、粘りつくような不快感と共に苦痛が全身に広がった。意識が遮断に向かっている事を救いのように思い、俺は身体に全てを委ねた。目覚めた先にあるものは見知らぬ、天井。なんて事はなく、以前何度か足の運んだことのある保健室。幸い、俺の意識は鮮明だった。あのまま全身の力が抜け、倒れこみ顔面を激突させた所までは覚えている。節々が妙に痛むところから、だいぶ眠っていたと思われる。痛みに耐えつつ、首を曲げた先にはアワビがちょこんと椅子に座っていた。全体としては小ぶりだが、肉厚でぷっくりとした肌とサーモンピンクがまぶしい。てっぺんにちょろりと栗色の毛が生えているのが愛らしい。 俺の視線に気付き、アワビが、ぬわりと口をあけた。食われる。「キョンくん……おはよう」この声、朝比奈さんか。朝比奈さんが心配そうな眼差し(っぽい雰囲気で)俺を見つめている(と思われる)。身を起こし「……おはようございます」「キョンくん、教室で倒れたんだって。覚えている? 痛いところはない?」「えぇ、しっかり覚えてます。痛い所は、特にありませんよ」実際の所、モロにぶつけた鼻がジンジンと痛んでいた。あの臭いのせいかもわからんが。「……良かったぁ。クラスの人がいうには、教室に入った瞬間から具合が悪そうだったって。今も顔色が凄く悪くみえるわ」「寝不足が祟ったのかもしれません。心配をかけたようで、すみません」そんな事よりも、「朝比奈さん、どうしてここに?」クニョリと形が歪む。この形はどうやら微笑んでいるらしい。「涼宮さんがね、キョンくんが倒れたって、大騒ぎしてたんですよ。その話がわたしにも聞こえてきて……」「そうだったんですか。ハルヒは?」「涼宮さんは授業中。私の学年はキョンくんの学年より一つ早く終わったの。だから涼宮さんの変わりにわたしが。キョンくん、よっぽど眠かったんですね」これは不覚。1限が終わった頃だと思っていたが、昼をとうに過ぎていたとは。俺は頭を抱えた。朝比奈さんが、湿った自身を俺に摺り寄せる。「ねぇ、キョンくん……」くっせぇ。うわ、くっせぇ。「喧嘩したでしょ? 涼宮さんと」声をひりだす度に、声とかけ離れた臭いが俺の敏感になっている鼻腔を突き刺す。その刺激に涙が滲んだ。それをどう勘違いしたのかはわからないが、朝比奈さんがより体を近づけてくる。俺は顔を背けた。「やっぱり……そう。キョンくんの寝不足も、それが原因ね」俺は手のひらで顔を覆い、伏せた。「いっぱい、悩んだのね。気付いてあげられなくて、ごめんなさい。……でも、きっと涼宮さんだって悩んでいるはずよ」朝比奈さんが俺の肩をずっぽりと包んだ。じんわりと背中が湿る。「やめてくださいよ……」「ねぇ、キョンくん、こっちを向いて、わたしの目を見て」いやです。くさいです。大体どこが目ですか。俺はそんな朝比奈さんはみたくない。「泣いているのはきっと、後悔している事があるからよ。わたしには何も出来ないかもしれないけど」「そうですよ! 朝比奈さんには何も出来ないんですよ! 俺の苦痛なんかわかるわけないんです、いいんです、今はほっといてください。ええそうです、俺にだって原因はありますよ。でも、だからって、なんで俺がこんな仕打ちを受けなきゃ成らないんだ! いい加減にしてくれ!」俺はずいぶんと朝比奈さんに酷い事を言ったのに気付き、呆然を顔をあげた。朝比奈さんはビクビクと体を揺らし、グシャグシャに体を濡らしていた。ビクンと大きく揺れる度に、ピチョリと床に糸が引く。嗚咽、しているのだろう。律動するたびに、穴から出る空気が「ブビッ」と音を立てている「ごめんなさい」力無く言い、床を濡らしながら朝比奈さんは保健室を出て行った。彼女にかける事が出来た言葉など、俺は持ち合わせては居ない。それが悔しくて、情けなくて、俺という人間の限界を浮き彫りにしていた。あんな姿とは言え、朝比奈さんを傷付けてしまった事は疑いようもない。もう、意地は張れない。長門に、会いに行こう。部室の前に着くと、丁度長門が出てきた所だった。傍らには本と弁当箱を抱えている。俺は駆け寄って、本を抱えている手(と思われる部位)を掴んだ。「ん」ピクリと反応を返す、長門。「聞いてくれ長門、お前の助けが必要なんだ」長門の手(と推測される部位)は冷たい。思わず、手に力が入る。すると掴んだ長門の手(と思わしき部位)が指の間からグニョリとはみ出した。ゴムのような粘着質な質感を持つそれは、よく見れば成型されたゴムのようだった。引っ張ろうと思えば、どこまでも伸びそうな。しかし、今はそれどころではない。俺はこれまでのあらましを包み隠さず語った。その間、長門は黙って俺の胸の辺りと見つめていた。「自業自得というのはわかる。でも、このままじゃ普通の生活すらも危うい。頼む、どうにか出来ないか」目(と比喩するほかない突起)をあげると、長門は言った。「あなたが我慢すればいいだけ。私の任務はあくまで涼宮ハルヒの観察。あなたの尻拭いをするのが仕事ではない。情報統合思念体もこの問題に関しては、情報統合思念体自体が検知できていない以上、関与のしようがないという見解を示している。それには私も同意見。自分の責任は自らを持って取るべきというのが、私自身の見解でもある。そもそも、これがあなたの狂言という可能性もないとは限らない」いつも以上に素っ気無い長門。しかし、狂言は言いすぎだろう。「そんな事を言わずに、頼む。お前だけが頼みの綱なんだ」「そう?」「ああ、そうだ。頼む長門」「あなたには、私以外にも頼るべき人間がいるはず」「古泉か? 言っちゃ悪いが、今回あいつは役立たずだと思うぞ」お隣さんを指差し、「コンピュータ研には頼もしい先輩がいる」意味を噛み砕いて咀嚼して飲み下すのに、5秒くらい時間を要しただろうか。「なぁ、長門」「なに」「実は解決法知ってるんだろ?」「でも私は教えない」怒ってる。完全に怒っている。ああ、因果応報とはまさにこの事なのだろう。無味乾燥を体言している長門は、もはや俺の叫びなど聞こえていないようだった。突起をまさぐってみるも、無視。ビラビラを引っつかんでも、無言。腕を突っ込んでも、無反応。 どうやら、俺を完全に居ない者として認識しているようだ。完全に見捨てられたらしい。おしまいだ。下半身の赴くままに、俺はかけだした。学校から逃げ出し、坂を下って町に入り、商店街を駆け抜けた。頼みの綱が切れた今、俺に居場所など無かった。校内に居れば、嫌が応でも魔臭に晒され、様々なイカとアワビを見る事を余儀なくされる。校内を出る途中も、目の端には数々のイカとアワビがすれ違った。皮が弛み、全身が覆われているイカ。血を噴出しているアワビや、紐の垂れたアワビ。それらの本来の姿を想像した時、せめて俺の見知った人間ではないでくれ。そう願っていた。 どこか遠くへ行きたい。その一心で辿り着いた場所は駅だった。見知った人間が一人もいない場所へ。電車で京都にでも行こうか。しかし、改札の手前で財布諸共を学校に置き忘れていたことを思い出した。 どうしようか。戻ろうか。いや改札なんか乗り越えて、いや、それは犯罪だ。でも無修正だって犯罪じゃないか、じゃあ俺は大変じゃないか。大変な俺に見えるのは大変な猥褻物だ。おいおい、誰か逮捕しろよ。って、逮捕する人たちも猥褻物じゃあ、逮捕できないなあ。あ、そう見えてるのは俺だけだったな! はっはっは。 気付けば、人々が俺の方を向いている。冷静になってみると、俺は上履きも履き替えないで学校を飛び出してきたのだ。その上、汗だくでブツブツと訳の分からない事を呟いている。誰がどう見ても今時のおかしい学生である。 周囲が俺の視線を避けて、さざなみのように引いていく。「ち、違うんですよ。親がね、危篤なので電車に乗って病院に行くんですよ。でもね、学校に靴とカバンを置き忘れて、ビックリしてたんですよね。あー、定期ないなあ、お財布ないなあって。そしたらカバンと靴もないんです。ねぇ。うわーって思ったんですね」 人間、本当に焦ったときはどうしようもない事を口走るものだ。頭では「ダメ、絶対」とわかっている言い訳でも、口が勝手に喋ってしまう。結果。俺は事務室へと連行された。「財布やカード忘れたって人はあ、よくいるよお。でもお、ちょーっと不味かったなあ。普通はああならないよねえ」だらりとくたびれたイカだった。イカの場合、かむっていない限りは表面が乾燥しているので、臭いはそうしない。男性は俺に麦茶を飲ませ、少しかん高い声で優しく語りかけてくれる。「親御さんが危篤っていうけどお、本当なのう? その制服は北高だよねえ。何にせよお、一応確認は取らなきゃいけないからあ、名前だけ教えてくれないかなあ」不味い。ここで白を切り続けていても、北高の生徒が問題が起こしたということは連絡がすぐ行くだろう。そうなれば、俺の素性がばれるのは時間の問題である。悪手ではあるが、逃げ出すのも手かと思い腰を浮かした瞬間、「あいや待たれよ!」事務室のドアが音を立てて開き、3本のイカがなかに入ってきた。その中で一段と逞しいイカが「後はなんとかしますゆえ」と俺の耳元で囁くと椅子から立ち上がらせ、他のイカが俺を外へと連れ出した。事務室から離れ駐車場まで連れて行かれると、これと言って特徴の無いイカが、俺にカバンと靴を差し出た。「いやぁ、連絡を受けたときは飛び込み自殺でも企てたのかと焦りましたよ。学校の方は問題ありませんのでご心配なく。後も新川さんに任せましょう」古泉か。この場に置いては、知った相手がいることほど心強いことはない。では、もう1本は多丸兄弟のどちらかか、俺の知らない機関の一員だろうか。傘が広く、細身なところから、実際は華奢な体つきだろう事が伺われる。駅から出ると「積もる話は車の中で」と車に乗せられた。運転席に細身なイカが乗り、俺の隣には古泉が。2本とも剥けているとは居え、密閉空間では流石にすえた臭いがする。 「すみません。窓、開けてもらえますか」「はい」驚いた事に、返って来たのは女性の声だった。聞き間違いでなければ、それは――「では、森さん。適当に走らせてください」車が低いエンジン音を立て動き出す。いや、それより、「……森さん?」「? ご無沙汰にしております」運転席に座っているのは、間違いなくイカである。どこをどう使ってハンドルを握っているのか。見えないし見るつもりもないが、間違いなく後ろからはイカに見える。 イカである。落ち着いた、とばかりに古泉が口を開いた。「昨日の事はプライベートな問題なので、我々機関としては生暖かい目で見守る姿勢でいたのですが。こうも問題を起こしてもらってはそうも行きませんからね」ああちくしょう。わかってたけどさ。「気を落とすのは分かりますよ。僕も同じ男ですからね」――運転席に目をやり――「まぁ、話しづらい話題だとは思います。二人だけで話せる場所の方がいいでしょう、あなたも。森さん、お願いします」 沁み入る気遣いをありがとう、古泉。程なくして、人気の無い公園に車は止まった。自然公園と言ったほうがいいかもしれない。遊具はなく、あるのは屋根のついたベンチがいくつかと自動販売機くらいだ。 休日ならある程度の家族連れで賑わっているのだろう。こんな所、今まで知らなかったな。そんな事を考えながら、俺は公園の奥に設置されていたベンチに腰を落とした。「何から尋ねればいいんでしょうね」隣に座る古泉が、自嘲的な口調で言う。「さぁな、俺もわからん」俺は先ほどの衝撃から立ち直れずに俯いてばかりだったが、反面古泉はどこか楽しそうな雰囲気さえ醸し出している。何も喋りそうにない俺を見かねてか、単に話したいだけなのか古泉が語りだした。「涼宮さんは、とても魅力的な人だと思います。性格は少々人を選びますが、あの美貌を嫌だと言う男性はそう居ないでしょう。涼宮さん自身も、ある程度はその事を自覚しているのだと僕は思います。ナルシストという意味ではなく、少なくとも外に出ても恥ずかしくないレベルだとは思っているはずです。 さて、あなたの行為を見て、彼女はどう思ったでしょうね。汚らわしいと思ったか、それとも。それは彼女自身にしかわからない事ではありますが、こういう気持ちもあったのではないでしょうか? 『なぜ自分ではないのか』部室のパソコンには、SOS団の画像データが詰まっています。その中には、思わず催してしまう画像も少なくなかったように思います。もちろん、涼宮さんの水着姿なんてのもね。 そういったものがあるはずなのに、よりにもよってあくの強い洋物のAVですよ。せめて朝比奈さんか長門さん、そういう気持ちもあったでしょう。そして彼女はこう結論付けた。『裏切られた』多くの女性の場合、男性のオナニーを浮気と受け取る傾向が強いそうです、それは彼女も例外ではなかった。さて、ここで問題になってくるのが、あなたの位置づけです。 あなたは現段階では涼宮さんの彼氏ではありません、浮気と言うのは苦しい。ですが、人には人に対する理想のようなものがあります。涼宮さんがあなたにどんな理想を抱いていたのかはわかりません。ですが、仮にあなたがオナニーをしない人間だと涼宮さんが少しでも思っていたら、それは理想の崩壊でしかありません。 オナニーのしない男性はほぼ皆無と言っていいでしょう。それも彼女は理解しているはずです。ですが、どこかで希望の様なものが残っていたら……。あなたも辛いが、きっと彼女も辛かったはずだ。……ですが、今回に関しては、僕は完全に味方だと思っていただきたいですね。機関の男性陣も理解を示しています。森さんのような女性はわかりませんが。男が男である以上は仕方の無い事だと思いますよ。女性には理解しがたい衝動でしょう、僕らには本能に深く刻み込まれた衝動というものがある。しかも、あなたはその衝動の最も強いとされている思春期です。誰が責められるでしょうか。気を落とすなとは言いません。ですが、僕らは機関としてではなく、男としてそのフォローをするつもりでいます。僕が言えることは、それだけです。長々とすいません」顔をあげると涙が頬を伝って、初めて泣いていたことに気が付いた。くだらねえ……。そんな事思っちゃいねーぞあいつは。そう嘆くと共に、古泉が精一杯の気持ちで俺を慰めようとしている事に心が響いていた。話してもいいかもしれない、そう俺は思っていた。解決法が無いとしても、古泉に言えば多少状況が改善するかもしれない。そんな一縷の希望とも言うべき下心をもって、俺は全てを古泉に告げた。気が付いたら辺りがイカとアワビが化け出たような状態だと、朝比奈さんを泣かせてしまった事、長門はお見通しだと、俺にはお前がイカに見えると。古泉は初め、冗談を聞いているような顔をしていたが、次第に強張った表情になったかと思えば、おかしそうに笑い出した。「冗談みたいだが、冗談じゃないんだ」滑稽にも抗弁するが、古泉は笑いが止まらない。目じりには涙さえ滲んでいる。「ええ、ええ、わかってます。ええ、そうですか、そうでしたか」古泉は涙を拭くと、諦めたような口調で言った。「実は、僕も同じなんですよ。ちょっとミスりましてね、僕にはあなたが、全ての人がアナルに見えるんですよ」俺は今朝以上に複雑な気分で自宅の床についていた。古泉の告白はまぎれも無く、真実だった。証拠として古泉は、俺のケツの穴の下にあるイボの存在を言い当てて見せた。その状態になったのは、一年の夏休みらしい。何が理由でそうなったかは口を閉ざしていたが、ろくでもない理由だと思う。一年の夏休みから、ずっと古泉は尻の穴だけを見続けてきた。考えようによっては、俺より辛いのかもしれない。古泉の話では、やっと最近穴の特徴だけで人が見分けられるようになったという。例えば、ハルヒは皺のキメが細かいとか、朝比奈さんには三日月の形をしたホクロがあるなど、どうでも良い事を教えてくれた。 俺も一生このままで、古泉のように性器の特徴だけで人を見分けられる人間になってしまうのだろうか。絶望感を抱えて、自宅に送られた俺は親の言葉を無視して部屋に閉じこもった。携帯には時折着信が来るが、開く気力も無い。目を瞑り、無理矢理眠ろうとするも昼に十分寝たせいで眠りに落ちることができない。精神だけが疲労に包まれていく。携帯が、また着信を告げる。恐らく、古泉か。……もう、ほっといてくれよ。諦めてゆるゆると腕を伸ばし携帯を開くと、画面には【佐々木】と表示されていた。反射的に通話キーを押すと、スピーカーから佐々木の声が流れてくる。『久しぶりだね。近いうちにまた同窓会を計画してるんだが、今いいかな?』その瞬間、俺は閃く物を見た。「ああ。なぁ佐々木、どうせなら会って話さないか?」佐々木は簡単に食いついてきた。俺が佐々木の自宅に赴くと言ったが、それは流石に嫌らしく、お互いの中間点で落ち合うこととなった。待ち合わせ場所に着くと、すでに佐々木が――少し紅潮した、瑞々しいアワビが――居た。「悪い、待たせたな」「待たされた。今回は君のおごりを期待してもいいのかな」「構わんが、程ほどで堪忍してくれ」笑いあうと、ちくりと心が痛んだ。俺と佐々木は適当なファミレスに入ると、雑談交じりに同窓会の計画を話し始めた。「では、北高の窓口は再び君に頼むという事で、いいかな」「参加するのは多分、前回よりは少なくなるだろうから問題ない。任せてくれ」一段落すると、佐々木は「頭を使った後は十分に補給が必要だ」と甘そうなコーヒーゼリーを注文したので、俺も同じものを頼んで、一緒に食べた。それからはほぼ雑談に時間を費やした。流れるような会話の中で、迷いは生じたものの、俺は途中で流れをせき止めた。「少し、外で話がしたいんだが、いいか?」「なんだい。ここで話せない様な事となると、大体の察しは着くが……いいよ。甘い物を食べたから少しは歩かないとな」会計を済ませ、店を出ると外はすでに夜の帳に包まれていた。。着かず離れずの微妙な距離で、並んで歩く二人。店内はやはり、独特の臭いが染み付いて物を食べるのも辛いぐらいだったが、不思議と佐々木からは嫌な臭いはしなかった。ブルーベリーのような、甘さと酸っぱさがまじりあったような、どこか懐かしい香りがしていた。 佐々木は俺が口を開くのを、じっと待っていた。しかも、その間さえも楽しんでいるような余裕を感じる。俺は佐々木の手を握ろうと、手を求めて佐々木の体をまさぐる。「きょ、キョン?」距離を開き、上ずった声で非難の声をあげる。どこを触ってしまったのだろうか。「な、何だ君は! こういう事がしたくて僕を誘ったのか!」決意を込め、「そうだ」「……」言葉を失い、硬直する佐々木。やるなら、今だ。「僕は、あっ」俺は佐々木を組み伏せ、路上に無理矢理押し倒した。そして、穴を両手で広げ頭をあてがう。最後の覚悟を決め、体ごと押し入れると、佐々木が小さく呟いた。「嬉しかったのに」いま、外からはどんな風に見えているのだろう。もう、関係ないか。ごめん、佐々木。親友を利用するなんて、最低だな。不思議な確信があった。ハルヒに類するとされる能力を持つ佐々木のなかに入れば、あの空間に行ける。そのために俺は佐々木と会った。全身がずっぽりと入ると、暖かい、波の様な快感が俺を包み、世界が暗転する。そして、俺の望みどおりの空間が現れた。辺りを見回そうとすると、俺は抱っこされている事に気が付いた。顔をあげると、佐々木その人が、母のような微笑で俺を見つめて、子守唄を口ずさんでいる。胸を時折含ませ、また子守唄を口ずさむ。クリーム色の世界で、俺はただただ感謝していた。あんな仕打ちをしたのに、佐々木の心は俺を受け入れて、守ろうとしてくれている。「ママ」そう言うと、ママは笑って俺をゆらゆらと揺らす。安心感に浸り、俺は目を閉じた。
おわり
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