チェリーブロッサム・レイン
ふと、空を見上げる。雲ひとつ無い空。太陽のポカポカとした陽気が心地よい。そして、満開の桜。
『チェリーブロッサム・レイン』
今日は土曜日。カップルが多い公園を一人で軽快なテンポで歩く少女がいた。長い栗毛の小柄な少女。彼女は頬についた桜の花びらを摘んで天使の様に微笑む。もう春なのね、と。かつて映画を撮ったこの公園の桜はあの時の様な満開だが、それは涼宮ハルヒの為せる技ではなく単に季節がそうさせただけだ。やはり桜は秋に見るより春に見た方がいい。 こんなポカポカとした陽気の中で見る桜は格別だ。
寒いかな、と思って羽織ったカーディガンも必要なかったみたい。そう思って朝比奈みくるはクリーム色のカーディガンを脱いだ。卸したてのシフォンワンピースの裾をひらめかせて、少し踵の高いミュールでリズムを刻む。うんっ、と少し背伸びをして太陽のシャワーを存分に浴びると心の中がスッキリと洗われる気がした。時折吹く南風が柔らかな栗毛を揺らした。
「キョンくん」みくるは急に立ち止まり、立ち並ぶ満開の桜の木々を見つめ、その名を呟いた。結局、本当の名前で呼ぶことは叶わなかった。たった一度も。ザアッと強い風が吹いて目の前の桜を散らしていく。まるで彼女の恋心を表しているかのように。困った様に眉を潜める彼の顔が浮かぶ。あの顔をしてくれることもなかった。自分に向けられていたのはいつも、笑顔。寂しさと虚しさがこみ上げて身体をぎゅっと抱きしめる。こうしていないと自分の心臓がどこかへ行ってしまいそうだった。
お茶、なんで煎れるのが好きになったと思いますか?宙に向かってそう問いかける。返ってくるはずないのに。言葉が風に乗って、消える。
「……あなたがおいしいって言ってくれたから」
「朝比奈さん」そう呼ばれて振り返る。「お久しぶりです」「古泉くん……」そこにはあの優しい微笑みを湛えた古泉一樹が立っていた。彼もまたこの桜並木に誘われて来たようだった。見慣れた制服姿ではなく少し洒落たジャケットを羽織っている。 「桜、満開ですね」「ええ」自然と頬が緩む。やはり散歩は一人より二人でするほうが楽しい。周りからは単なる一カップルにしか見えないのかな、と思うと少し気恥ずかしい気もした。「映画の時は秋でしたもんね」あの、自称涼宮ハルヒによる全世界のためのSOS団の映画を思い出す。あれには本当に困らせられた。異常に短いスカート丈を気にしつつコスプレ衣装で電車に乗った事でとてつもないトラウマを植え付けられた代わりに屈強な精神力をつけられたのは言うまでもない。
「綺麗、ですね」一樹は誰に言うでもなく呟く。その視線は桜よりもずっと向こうにある何かを捉えていた。手が届かなかった何かを。「…涼宮さんも綺麗になられました」みくるはそんな一樹の横顔を見つめ、言った。一樹は少し悲しそうな笑顔を投げ掛ける。「僕達の初恋はかなわずじまい、でしたね」「…はい」そしてこう付け加えた。「まあ、僕らの初恋が実のったら世界は大変なことになりますけどね」と。その苦笑まじりの笑顔をみくるから桜に移した。ザアアアッ再び強い風が吹く。風は更に多くの花びらを散らせていった。不思議と勿体無いとは思わない。「散っちゃいますね」「ええ」一樹は目を細めた。叶わなかった自分の恋の行方を見届けるかのように。 「キス、して下さい」散っていく花びらを見つめてみくるは言った。何かを決心したような目で。一樹は驚いたような目でみくるを見つめる。そしてすぐに微笑んだ。「ここで、ですか?」「ダメですか?」みくるは小首を傾げて一樹を見た。こんな愛らしい少女にお願いをされて断れる男はいないだろう。一樹は右手をみくるの肩に左手を腰に回して身体を密着させた。それに応じるかの様にみくるは一樹の背中に手を回す。どちらからとも無く顔が近づいていき、唇が触れた。しばらくそうしていると一度互いに顔を離しまた角度を変えて口付ける。一樹の舌がみくるの歯列をなぞり、中に入りたそうにする。みくるが恐る恐る口を開けるとその舌はすぐに侵入してみくるのそれを捕えた。いつか映画で見たような、そんな熱い口付け。その蕩けそうな感触に流されないように必死にしがみつく。顔が上気していくのが分かる。背中に回した手に力が籠る。
いつまでそうしていただろうか。物凄い長かった気もするしたった一瞬の事のような気もする。唇を名残惜しそうに離して視線を合わせる。お互いの潤んだ瞳を見て笑う。「古泉くん、泣きそうじゃないですか」「朝比奈さんこそ」そしてみくるは一樹の胸に身体を預けた。その温もりから彼の優しさが伝わる。なんでこの人を好きにならなかったのだろう。そうしたらこんな辛い思いはしなかったかもしれない。「それは僕も思いました」一樹は言う。「けれど、どちらにしても辛かったでしょうね」なぜ?と顔を上げたみくるの栗毛を撫でる。「もう行くんでしょう?」 みくるはびっくりしたように目を見開いてその笑顔を見つめた。どこか、寂しそうな笑顔。…初めて彼とキスをした時と同じ笑顔だった。誰もいない部室。あの時も桜が咲いていた。お互いに埋まることの無い寂しさと悲しみを埋めようとして重ねた唇と唇。そこに甘い感情なんて一切無くて、ただただ唇を重ねるごとに寂しさが募っていくだけだった。あの時と同じ、笑顔。みくるは、ふいと目線をそらした。逃げ出したいのに、腰を掴まれていて逃げることが出来ない。それ以上にこの笑顔が自分を捉えている。「どうして、それを」「では何故、僕がここにいるのでしょうか」それは桜に誘われて、じゃないの?そう首を傾げると、一樹は首を振った。「それもありますが…昨日、機関から連絡がありまして。涼宮ハルヒに関する全ての仕事が終了した、とね。もちろん僕もそれは分かっていました。急に力を失った気がしましたから。 いや、本当のことを言うと少しホッとしました。もう命を削らなくてもいいのかと思うとね。けれど、これで僕と涼宮さんとの関係も無くなってしまいましたね。彼女なら僕を一友人として今まで通りに接してくれると思いますけど。それと、彼とはまだまだ仲良くさせて頂くつもりです。こう言うと何ですが、友人として僕は彼のことが大好きなんです。長門さん側はまだ涼宮さんの観察を続けるようですし。多分、涼宮さんが亡くなられるまで一生お会いすることは可能でしょう。けれどあなたは」ここまで言って一息つく。その泣きそうな瞳はみくるのそれを捉えて離さない。「行ってしまうのでしょう?元の世界に」 一樹の手がみくるから離れる。みくるはそっと一樹の胸に手をおいて、トンッと軽く突き飛ばした。「…もしかしたら、わたしあなたにも恋をしていたかもしれません」二人も好きになるなんてずるいですね。と柔らかく微笑んだ。一樹がその笑顔に微笑み返す。「そんな事を言ったら僕も、です」「お互い様ですね」太陽のシャワーが二人に降り注ぐ。もう時間だ。行かなくちゃ。みくるは来た方向と逆の方に走り出した。「それでは」一樹が軽く手を上げる。みくるが振り返ってそれに答える。極上の笑顔で手を振って。
「さようなら」
その笑顔に一樹の心はドクンと波打った。FIN
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