橘の香り 第四話「病気進行柑橘類型」
それは年の明けた一月の初旬。「古泉、橘はどうなんだ?」いつものスマイルはどこへ行ったのか。そう思わせられる程に古泉の顔からは笑顔が消失していた。その代わりにあるのは、歯軋り。「新年早々で大変言い難いのですが・・・・・・・彼女の命は四月までには・・・・・・・・・・・・・」四月には・・・何だ? なぁ、なんでそこで止めるんだ。まさか。そんなわけないよな・・・だって昨日も笑ってたんだ。そうだ。今日だって苦しんだりしていたがすぐにけろっとした顔で笑ってたじゃないか。「何でだ。何でだよ・・・何でだよッ!?」「っ!」俺は古泉の胸倉を掴んで壁に押し付けていた。「どうにかしろよ! どうにかしてくれよ!!」・・・解ってる。今年中にはの後に続く言葉が。だけど、それを認めたくは無い。だって・・・認めたら笑顔すら見れなくなってしまうだろう。辛くなってしまうから。「・・・これはずっと前から、決まっていた運命です。・・・もう彼女は、助かりません・・・」古泉は暗い顔でそう呟いた。俺はその顔を見て、そして、何とも言えない気持ちに陥る。あの古泉が、泣いていたからだ。「くそっ・・・くそぉっ!!」俺はそれを見てただ叫ぶことしか出来なかった。どうして・・・どうして・・・・・・・。 橘の香り 第四話「病気進行柑橘類型」 甘い日々に侵食していくどうしようもない酸っぱさ。それは柑橘類の味のように混ざっていて、引き剥がせない。きっとそのうち、甘さすら無くなっていくのだろう。古泉にはっきりと言われて以来続く日々。橘の笑顔を見て帰り、嗚咽を漏らす度に甘さが失せていく日々。それでも、「あ、キョンくんお帰りなさい。古泉さんのお話はなんでしたか?」病室に戻れば橘は笑っている。相手は笑顔なんだから、俺も笑わなきゃいけない。「ただいま、橘。何でも無かったよ」橘に近づいて俺はそっとその華奢な体を抱きしめる。もともと華奢ではあったが、前より細くなったと思う。長くは耐えられない。こいつは耐えられない。そう考えないようにしようとしても、無理だ。だけど、泣いたら駄目だ。泣いたら何かあったと思われる。心配させてしまう。でも、どうして・・・どうしても・・・・・。「キョンくん、泣いてるの?」どうしても泣いてしまうんだろう。俺には、駄目だった。無理だった。堪えられなかったんだ。解っている。自分が泣かないわけがない事をずっと解っていた。ずっとな。だって俺なんだから。「すまない、橘・・・しばらくこのままで居て欲しい」そして俺は橘の優しさに縋る。抱きしめてくれる温かさに縋る。だけど、「・・・私、持たないんですか?」もう縋れない。気付かれてしまったんだから。「っ!?」「その反応・・・やっぱりそうなんですね・・・・・」「・・・気付いて、いたのか」「キョンくんは優しいから、たまに泣いてくれる。それが私の為なんだって解った時から何となく気付いてました。それに私の体ですから」隠せていたつもりなのに・・・隠せていなかったんだな。俺、駄目だな。きゅうに心を締め付けられたような気分になった。だってまだ笑っているんだから。作り笑いじゃない本当の笑顔で見られて、平常心でいられようか? いや、いられないな。「橘・・・うおっ!?」離れようとして、少し体を離すと、不意にぎゅっと抱きしめられた。「私は優しくないですから死んでなんかやりません。キョンくんを離してやりませんし、キョンくんから離れてやりません」「あぁ・・・そうだな。俺も優しくないから、橘から離れてやらないし離してやらない。死んでもな」「私が死んだらついてくるって事ですか? 尚更死ねませんね」「どこまでもべったりだからな。死んだらついていくぞ」「駄目ですよ、死んだら。あ、でもキョンくんが死んだら私は死にますけどね」「それこそ駄目だろ。逆はありだ」「無しです」お互いにそこでじっと睨みあう。だが、堪え切れなくて「ぷっ・・・くくっ、あはははははは!」「ふふっ」そこで俺はようやく笑えた。やっとその日初めて本当に笑えた。他の何でもない橘のおかげで笑えた。俺は絶望なんかせずに常に希望を見つめていこう、と思う。信じたら夢は叶うって言うしな。何だったら俺が医者になって治すって手もありだな。うん。今から勉強でもしようかね。・・・今からで間に合うのかどうかはさておき。なんて事を考えていると、 ガラガラッ と扉が開いて見慣れた二人がやってきた。「やぁ、橘さん。お見舞いに来たよ。ごきげんよう、キョン」「――・・・・・・うぃーっす―――」「こんにちは、佐々木さん、九曜さん」「おう、お前らか」ってかそんなキャラだったか、九曜よ。その後WAWAWAって続くかと一瞬思ったぞ。「おや、キョン。目が腫れているが何かあったのかな?」興味津々という表情で佐々木が俺の顔を覗き込んでくる。おのれぇ、どうでも良い事に気付きやがって。「何でもないとも。なぁ、橘?」「は、はい! その通りです!」何かあったのバレバレだな。だが、佐々木なら大丈夫だろう。「・・・まぁ、何があったかは詮索しないでおくよ。逆の立場なら僕としても迷惑だからね」ほらな。こいつは無駄な詮索はしないのさ。そういう奴だ。人の嫌がる事はしないのは助かるな。こういう奴が周りに居て欲しかった。あぁ、本当にな。まったくもってハルヒには見習っていただきたい限りだ。本人に言ったらスーパー稲妻キックの直撃をくらいそうだからいえないけどな。「ところで―――・・・古泉一樹は居る?―――」いきなりどうした九曜よ。古泉に用事があるなんて物凄く珍しいじゃないか。「なんだ? 古泉に惚れたか?」「・・・そうかも―――ね」おいおい。冗談で言ったのにマァジですか? まぁ、古泉と九曜が付き合ったら良い笑い話にはなるから手伝ってやろうか。あの男、色々と悩むが良いわ。くっくっくっ・・・ってこれは俺のキャラクターとかなり外れてるぞ。ほら見ろ。橘と佐々木もビックリしてるじゃないか。「今呼びにいくから待ってろ」多分、まだ古泉は俺と先ほど会話を交わした部屋に居るだろう。あれから時間も経ってないし担当医と話があると言っていたからな。案の定、すぐ近くにあるその部屋を開ければ古泉と橘の担当医が居た。何故かりんごジュースを片手に。子供かよ。「九曜が話があるから来てくれだと」「周防さんが? 解りました。ちょっと席を外しますね」「あぁ、行って来い。もてる男はつらいな、古泉」茶化しに見送られて古泉はやや恥ずかしそうにはにかみながら席を立った。そして俺の横に並び、二人同時に歩き出す。「連れてきたぞ」「・・・ありがとう―――じゃあ、私と古泉一樹はちょっと・・・・・・・・別の場所―――で話そう・・・・・・・・・」九曜はそそくさと立ち上がるとスッと近づき、古泉の腕を取ってどこかへと連行した。「面白そうだな・・・俺ちょっと見てくる」「こらこら、野暮なことはしちゃいけないよ、キョン」「何を言ってやがる。お前だって立ち上がろうとしていたじゃないか」「おっと。鈍感なキョンに気付かれるとは僕もまだまだだね」くっくっ、と暗鬱に、しかし面白そうに佐々木は笑った。「では行ってきたまえ、キョン。僕らの代わりに状況を見てくるのだ」「畏まりました、佐々木様。じゃあ、橘。少しの間佐々木に相手してもらってくれ」「はい。・・・早く帰ってきて下さいよ?」・・・あぁ、もう。カワイイ奴だな。 ・・・・・・・・。 「・・・・ません」「・・・・・・・―――・・・・・・はず。・・・・・・なら・・・・・」近付くと二人の会話が聞こえてきた。俺は見つからないようにこっそりと様子を伺う。「―――貴方達は卑怯。利益を生み出そうとしている手段―――・・・・・どれだけ彼が悲しみ・・・・上手くいかないか・・・―――・・・・解ってるはず」「しかし、いずれにせよ現代医学では彼女の延命にも限界があります。世の中には無駄な事もあるのです」バシンッ。乾いた音が響いた。古泉が頬を押さえている。九曜が平手打ちをしたからだ。これには某婦警のノリで流石のお兄さんもビックリだー。お酒飲んで車ぶっ飛ばそうか、赤城あたりでも。まぁ、車の免許は無いけどな。「―――ふざけないで・・・何の努力もしてないくせに・・・―――許せない―――私は・・・貴方達が憎い・・・・・・・・・・!!」さて、そんな俺の心の呟きが不似合いなくらい九曜が怒っていた。別に表情は何も変わっていない。だが、明らかにその雰囲気を醸し出していた。何と言うか非常に怖いです、九曜さん。止めようのない激情が溢れている。そんな怒気だ。普段は無の境地に立っている九曜からそれは発せられていた。少なくとも俺が知っている範囲内でこんな奴じゃない。俺が聞いてない部分の会話で何があったのか。あぁ、歯痒い。しばらく俯き、黙っていた古泉。だが肩を震わせたかと思えば、顔を上げて、「僕だって・・・僕だって、好きでこんな事しているんじゃないんです! 何で、何でこんな事にならなきゃいけないんですか!?」と嗚咽混じりに嘆き叫んだ。そんな古泉をそっと九曜が抱きしめてしまっているねぇ。「―――ごめんなさい・・・解っていながら貴方を追い詰めてしまった・・・・・・・・・―――悪くない。悪いのは・・・・違う・・・・・・・・・」古泉が顔を上げると、九曜はただやっぱり無表情でそれを見つめている。「九曜さん・・・?」「貴方は―――自分を隠しすぎてる・・・大丈夫。開放しても――――大丈夫・・・・・・・・―――今まで溜まった分だけ―――泣けば・・・・・・・・・良い」「すいません・・・ねぇ・・・うぅ・・・あ゙ぁぁぁああああああああああぁああ!!」あぁ、くそ。途中から見たせいでよく解らん。ただ、何となく解るのは古泉が大声で号泣しているという事だった。ハンディカムが欲しいな、クソッ。録画して体育館で思いっきり放映してやりたいところだ、マジで。んー。ここ病院内だし少しは静かにしたらどうなんだろうか。・・・さて、俺は空気を呼んで病室に帰るとしようか。何と言うか、見てて心が痛い。俺は病室に戻る為に広い病院内を歩いた。ここに通いだしてからずいぶん長い。もう随分と見慣れた光景だ。ふと部屋に近付くにつれて騒がしい事に気付いた。どこかの部屋だろうか。そう思った俺の目に映る光景。橘の病室を医者や看護士が出入りしている。・・・まさか、「橘ッ!?」俺は病室へと慌てて飛び込んだ。「キョン! 橘さんが・・・」白衣を着た白い影の隙間から見えるその姿。とても苦しそうに皮脂を浮かばせて、呼吸を乱していた。見たこともないぐらい、痛々しい橘がそこに居た。「・・・キョンくん。ちょっと良いかな」ふと肩を叩いて橘の主治医が俺を呼んだ。俺は佐々木に目をやると、佐々木は何も言わずに頷いた。 ・・・・・・・。 「君には言わないようにと彼女から言われていたんだが・・・実は最近、ずっとあの状態なんだ」「え?」いきなりの言葉に俺は病院の屋上でただ驚くしかなかった。「数日前からだな。君が帰ってから来るまでの間にあのような状態になるようになってな」目の前で淡々と語られる事実。あまりにも単調に言われるものだから嘘だと思えるぐらいに軽かった。だけど、目の前で語る人間はあまりにも真剣な顔をしていて、現実を見せてくる。「・・・橘・・・」「きっと体もダルいだろう。それでも君には、笑顔を見せてやりたいんだな、彼女は」「・・・・・・・・」今日も笑顔を見せてくれた橘。その笑顔は紛れも無い本物だ。本物だけど、あいつは無理して笑ってる。笑いたくても笑えないぐらい辛い筈なのに。「彼女は今、肺の機能が急激に弱り始めてる。・・・そのうち、人工呼吸器無しでは生きられなくなるだろう」「・・・・・・・・」「君はそんな橘京子の姿を見ても、大丈夫かな?」「・・・俺は一生涯かけて彼女と共に生きます。たとえどんな最後が待っていても・・・そう誓ったんです・・・」「そうか・・・。なら止めはしない。古泉にも、伝えておく・・・」「・・・はい・・・」その言葉を背負って遠ざかっていく背中。ふと立ち止まり不憫な者を見るような目で俺を一瞥すると、「・・・同情、させてもらうよ」と小さく顰めた顔で呟き立ち去っていった。「・・・同情、か・・・」俺は一人残された屋上で夕日が沈みそうな空を見上げる事にした。そう言えば、七夕にこの屋上にあった笹に橘と共に願いを込めた短冊を吊るしたっけ。今では随分と昔のように思えるけど、結構時間って経つの早いな・・・。もう次の七夕まで半年も無い三月になっちまったし・・・もうあれから半年以上経過してるって事だろ。本当に、遅いようで早い。本当に、早いようで遅い。思えばあいつと俺が出会った頃、あれから考えると不思議だな・・・この現状。まさかこうなるなんて思ってもなかったしな。本当に不思議だ。 ―――ガチャッ。 「・・・ん」ふと屋上の扉が開いた。そこに立っていたのは、橘だった。「ここに居たんですか。結構探したんですよ?」「橘・・・もう体は大丈夫なのか?」「えぇ、ちょっと落ち着きました。えっと・・・もしかして話、聞いちゃいました?」「あぁ・・・。いつもあんなに苦しんでるだなんて初めて知ったよ」俺がそう答えると橘はやや泣きそうな顔で、はにかむように、そして涙を堪えるように笑った。少しの間の沈黙。やがて、小さな口を開いた。「そうですか・・・なら、話は早いんで、好都合ですね」「は?」何だろうか。俺は背中に嫌な汗がじわっと噴出すのを感じた。「私と・・・別れて下さい」そして、その嫌な予感は当たってしまった。その瞬間、時間が停止するかと思われた程。 つづく
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