想い出は、雪とともに 第二章
長門が俺の前から姿を消してから、四回目の春を迎えようとしていた。俺は大学に進学したものの、長門と別れて以来何もする気が起こらず、留年を繰り返していた。そして、暇さえあれば長門と別れたこの公園へ来て、ベンチに腰掛け、長門と過ごした日々を思い返している。最初のころは、谷口や国木田や古泉等が俺のことを心配して、ありきたりなアドバイスを色々してくれたが、やがてみんな諦めて俺の前から去って行った。ただ一人を除いては…… こうやって長門との思い出に浸り街を眺めていると、そのただ一人の例外が、高校生だったころと同じように坂道を登ってくる。そして、あの頃とおなじように笑顔で俺に声をかけるのだ。 「お待たせ!」「別にお前を待っていたわけじゃないぞ」俺もあの時と同じようにぶっきらぼうに答える。そんな俺の様子を見て、ハルヒはあきれたように両手を広げて首を左右に振った。「まあ、別にいいけどね」そう言いながら、ハルヒは俺の隣に腰掛けた。それは、ここ最近の見慣れた光景だった。ハルヒとこの公園で会うことが、俺の日常となっていたからだ。俺は、雨の日以外は、ほぼ毎日のようにこの公園へと足を運んでいたが、ハルヒは週に一日か二日、多いときは三日ぐらい俺に会うために坂道を登りこの公園へとやって来た。 「大学はいいのか?」「大丈夫よ。単位はとっくの昔に揃ってるし、後は卒論を書いて、就職活動をするぐらい。外資系の会社にエントリーしてるんだけど、地元に残るのもいいかもしれないわね。あんたはどう思う?」 「そうか……順調なら問題ない。俺には口を挟む資格もないしな……」得意気にそう語るハルヒの姿が眩しく思えた。高校時代に机を並べて同じ授業を受けていたことが、まるで夢のように思えるほどだ。まあ、そのときから俺とハルヒの成績には段違いの差があったのだが…… 「ふ~ん、口では無愛想でも、あたしのことを心配してくれてるんだあ~」ハルヒはニヤッと笑いながら、挑発するような目で俺を見た。その表情がなんとなく俺の心を見透かしているような感じがして、俺はハルヒから顔を背けた。「いいかげん、有希のことは忘れなさい。そうやってあんたがうじうじしている姿をみると、あたしまで情けなくなってくるわ」「お前には関係ない。これは俺と長門の問題だ」ハルヒはあきれたように小さくため息をつく。「あ~あ、どうしてこんな男に惚れたんだか……」独り言のようにつぶやいた後、ハルヒは空を仰ぎ見ながら、昔を思い返すように遠くのほうを見つめた。「あんたがそんな風にいつまでも有希のことを考えていたって、有希は喜ばないわよ。むしろ、不甲斐ないあんたの姿を見て悲しむと思うわ」ハルヒは空を見上げたまま、俺のほうを振り向こうとはしなかった。だが、ハルヒの言葉は俺の胸に突き刺さった。なぜなら、ハルヒの言ったことは、この四年間ずっと俺が考え、悩み続けてきたことだったからだ。 あの日、俺の目の前から消えていった長門の言葉が、そのときの情景とともに、頭の中に思い浮かぶ。『涼宮ハルヒも、わたしと同じように、あなたに好意を抱いている。だから、あなたがいままでわたしに注いでくれた愛を、今度は彼女に与えてあげて欲しい。そしてわたしのことはもう忘れて欲しい』 高校を卒業した日、俺がハルヒから告白を受けたときも、長門の言葉が俺の頭の中に思い浮かんだ。だが、俺は、長門の最後の願いだったにもかかわらず、ハルヒの想いを受け入れることができなかった。 ハルヒの告白は、俺が受け入れるかどうかの回答を保留にしたまま、なし崩し的に拒んだことになってしまった。それでもハルヒはいままでと同じように俺に接してくれた。 そしていまも、みんなに見放されてしまった俺に会うために、この公園へと足を運んでくれている。正直、ハルヒには感謝している。ハルヒが傍にいるからこそ、俺はかろうじて精神を安定させることができているのだと思う。もし、ハルヒが俺を見捨てていれば、俺はいまごろ廃人同然の人間になっていたかもしれない。 だが、ハルヒにとって、俺という存在は、自分の前途ある未来を毀損している疫病神にしか過ぎない。事実、周囲のいろいろな人から俺とつきあうのを止めるように忠告されたらしい。 ハルヒには幸せになって欲しいと思っている。にもかかわらず、俺という存在がハルヒの幸せの障害となってしまっている。そのことが俺にはやりきれなかった。それでもなお、俺がハルヒを必要としていることが情けなかった。 「じゃあ、あたし行くから! ここにいるのもほどほどにしなさいよね!」そういい残して、ハルヒは、先ほど駆け上ってきた坂道を、猛スピードで駆け下りて行った。おそらく、無理をして俺に会うための時間をつくったのだろう。そんなハルヒの優しさが嬉しかった。同時に切なくもあった。どうして、俺はハルヒを選ぶことができないでいるのだろうか。何度も何度も自分に問いかけるのだが、答えは見つからなかった。 やがて季節は巡り夏が訪れた。あっちこっちの木々から蝉の声が聞こえる中、夏休み中と思われる高校生の一団が公園の前の道を通り過ぎていく。その様子を、俺は公園のベンチに座ってぼんやりと眺めていた。 「俺にも高校生だった頃があったんだな」そんな思いが頭の中をよぎる。高校を卒業して四年しか経っていないのに、高校生だった頃が何十年も昔のことのように思える。ふと、坂道のほうに視線を移すと、見覚えのある人物が、汗をかきながら、坂道を登ってくる姿が目に映った。その光景を見て、いつも俺に会いに来てくれることへの嬉しさと、俺のためにハルヒが将来を棒に振るのではないかといった不安の入り混じったような感情を覚えた。「暑いのにご苦労だな」「それはこっちのセリフよ」いつものようにお互いが悪態をついた後、ハルヒはさも当然のように俺の隣に腰掛けた。今日、ハルヒにあることを伝えようと心に決めていた俺は、隣にいるハルヒが振ってくる他愛ない話を、心ここに在らずの状態で聞いていた。それはハルヒが俺に会いに来るという現状を壊してしまうかもしれない言葉だった。 俺は意を決して、ハルヒが俺に会いに来なくなってしまうかもしれないという不安と、このままではハルヒの将来が台無しになってしまうという罪悪感のせめぎあいの中で、ハルヒに忠告する。 「なあ、ハルヒ、俺につきあっていてもろくなことはないぞ。俺には将来性も何もないし……」ハルヒは、最初は何を言ったのかわからずキョトンとしていたが、やがて俺の言葉の意味を理解して、あきれたように笑いながら言った。「最初から、あんたなんかに期待してないわよ。そんな心配しなくても、あたしがあんたを養ってあげるわ」これはきっとハルヒの本心から出た言葉なのだろう。こんな言葉を自分に惚れてくれた女性に言わせてしまうことが惨めだった。俺は、ハルヒが笑い終わるのを待ってから、次の言葉を紡いだ。 「……多分、古泉はお前のことが……好きだと思うぞ……」「…………」不意をついたような俺の言葉に、ハルヒは咄嗟に反応することができないようだった。表情を曇らせた後、ハルヒは先ほどより少し声のトーンを落として俺の問いかけにぼそぼそとつぶやく。 「……あんたって、女心に鈍いのに、そういうところだけめざといのね。あたしだってそれぐらい気づいてるわよ」しばらく沈黙が訪れた後、ハルヒは俺を見ることなく、顔を背けたまま、ゆっくりと俺への不満を口にし始める。 「あんたさ、いつからそんな風に自分を卑下するようになったのよ。そりゃあ、いまのあんたの状況は誰が見たってほめられるようなもんじゃないわ。でも、そんな風に自分を卑下するばかりじゃ何にもならないわよ。 あたしだって、中学生の頃は色々と馬鹿なことばっかりして、鼻つまみ者だった。いまでこそ、一人前の大学生のように見えるけどね。一歩間違えたら、中学生の頃のまま、いまでも馬鹿なことをやってた可能性だってあるわ。 そんなあたしを更生させてくれたのはあんただと、あたしは思ってる。人生長いんだし、一度や二度の間違いは誰にだってあるわよ。むしろ間違いのない人生なんてつまんないわ。 あんたが有希のことを想ってるのは仕方がないと思うけど、自分をそんな風に卑下するのは止めなさい。聞いてるあたしまで哀しくなってくるんだから」「ハルヒ……」ハルヒは、顔を背けたまま、俺のほうを振り向かなかった。だからこのとき、ハルヒがどんな表情をしていたかは窺い知ることはできなかった。もしかしたら、ハルヒは泣いていたのかもしれない。そんなハルヒの言葉に、俺は胸が締め付けられるような思いがした。再び、ふたりの間に沈黙が訪れた後、突然、ハルヒが立ち上がり、俺をキッと睨みつけると、俺を指差して高らかと宣言した。「とにかく! 何度も言ったけど、あたしは22年間生きてきて、信念を持って『やる』と決めたことを、途中で諦めたことは一度もないわ! だから、きっとあんたを振り向かせて見せる!」 強情なところは初めて会ったときから変わってない。だが、それでこそ涼宮ハルヒだ。ほんの一瞬だけ高校時代の懐かしさのようなものに触れることができたような気がした。 さらに季節は巡り秋が訪れた。この頃になると、卒業後に進む道も決まっているようで、心なしかハルヒの表情にも余裕があるように思われた。だが、俺の中の時間は相変わらずあの日から止まったままだ。 ハルヒは転落防止用の柵に手をかけて街並みを眺め、俺はその後ろからハルヒを眺めていた。ハルヒがこちらのほうを振り向いて、昔の思い出を尋ねてくる。「ねえキョン、覚えてる、あたしがこの風景を油絵に描いていた時のこと」「ああ、覚えてるぞ」「あれからたった四年しか経っていないのに、ずいぶんここから見る景色も変わったと思わない?」「そうだな……、あの時と比べて時間が経つのが早くなった感じがするよ」「ぷっー、何よそれ、おじいさんみたいなこと言わないでよ」ハルヒは無邪気に笑いながら、再び街の風景へを眺めだした。ハルヒの言葉を聞いて、俺の頭の中に高校生だった頃の風景が走馬灯のように蘇ってきた。思えば、あの頃は古泉や長門もここにいた。長門は俺にもたれかかって本を読み、俺は古泉とボードゲームをしてたっけ……ハルヒは一人で黙々とこの街の風景画を描いていたな。後ろから覗き見て随分上手いなと思ったのを覚えている。こいつは何でも人並み以上にできるから、たいして驚きもしなかったけど。 「キョン」不意に声をかけられ、俺は思い出の中の世界から現実の世界へと引き戻された。「いま、過去の空想に浸ってたでしょ」そう言ったハルヒの表情はどこか寂しげに感じた。ハルヒは後ろ手に手を組みながら、少しうつむき加減で、俺の座るベンチの周りをくるくると歩き始めた。 「あんたがさ、どんな風に思ってるか知らないけど、あたしはいまの生活に結構満足してるのよ。ここに来ればあんたに会えるし、あたしはこの街全体があたし達の家だと思ってるんだから」 ハルヒは転落防止用の柵にもたれて、街を指差しながら、学校の先生が子供に教えるように説明しだした。「あんたの家があんたの寝室。もちろんあたしの家はあたしの寝室ね。大学はさしずめ台所といったところかな。今のあたしの職場みたいなものだから。そう言えば『男子厨房に入らず』って言うわよね。だからキョンは大学に来ないのね。頑固な昔の男だから。そしてこの公園はあたし達ふたりが憩うためのリビングルーム」 ハルヒは嬉しそうに俺の座っているベンチを指差してそう言った。「随分と殺風景なリビングルームだな。まあ、それも悪くないか。だが、会うのがリビングルームだけってことは、俺達は家庭内別居をしているってことになるな」少しはにかみながらそう答えた俺に、ハルヒは少し頬を赤く染めながら次の言葉を紡いだ。「キョンが望むのなら、寝室をいっしょにしてあげてもいいのよ。周囲の反対なんか、あたしが蹴散らしてあげるから!」おどけた風にそう言っているが、これはハルヒ流の二度目の告白だった。嬉しかった。胸に熱いものがこみ上げ、涙が溢れてきた。だが、それと同時にどう答えていいかわからなかった。 ハルヒの愛情の深さをひしひしと感じる。だが、俺は長門のことを諦めて、ハルヒとつきあうことができるのだろうか。中途半端な気持ちでハルヒとつきあうことは、ハルヒに対しても長門に対しても失礼だ。 俺の本当の気持ちはどちらに向けられているのだろうか。高校卒業のあの日に、告げることのできなかったハルヒからの告白のこたえを、四年の猶予を経て、いま求められているような気がする。 俺が口を開こうとしたとき、突然、周囲の景色が回転し始めた。「ハル……ヒ……?」何が起こったか咄嗟に理解できず、俺は立ち上がろうとしたが、上手く立ち上がれずに、その場に倒れこんだ。「キョン!!」ハルヒが俺を呼ぶ声を最後に、俺はそのまま意識を失った。 白い壁、そしてなにやら発光体のようなものが、目の前にあるのがぼんやりとわかった。だんだん意識がはっきりしてようやくそれが天井と蛍光灯であることが認識できた。 「キョン!」「ハルヒ? こ、ここはいったい……」ハルヒのほうを見て、俺は自分がベッドに横になっていることに気づく。周囲を見回し、だんだんと思考力が回復してきて、ここが病院であることにようやく理解が追いついた。 「まったく! びっくりするじゃない。急に倒れるなんて……」ハルヒは目を涙で滲ませながら、震えた声でそう言った。「お前、一人か?」「さっきまであんたの家族が来てたわ。妹ちゃんならそこで寝てるけど……あんた家族を泣かすようなことをしちゃ駄目じゃない! みんなあんたのこと心配してたのよ! 古泉くんや谷口や国木田までお見舞いに来て…… あんたの命はあんただけのものじゃないのよ! 家族や周囲の人に支えられてあんたは生きてるんだからね! そこのところをよく覚えておきなさい!」ハルヒは途中で語気を強めてそう言うと、プイッと俺から顔を背けた。いままでずっと一人で生きているような錯覚に陥っていたが、こんな状況になって、ようやく俺は大切なことに気がついたような気がした。 だが、俺がそのことに気づいたときには、もうすでに手遅れだった。 翌日、主治医の診断結果を聞いて病室に入ってきた家族の様子から、なんとなくだが俺は気がついてしまったのだ。俺に残された時間がもうそれほど長くはないということに…… やがて季節は冬へと移り変わった。俺は病院に入院して以来、一度もあの公園へと行っていなかった。ただ、ぼんやりと病室の窓から外の景色を眺めるだけの日々が続く。以前は、将来のことについて口うるさく俺のことを叱咤してくれていた両親も、このころにはもう何も言わなくなっていた。あの当時はうんざりしたものだが、いまとなっては両親も妹さえもが、俺のことを心から心配してくれていたのだということにようやく気づくことができた。家族だけではない。古泉や国木田、谷口といったクラスメートや鶴屋さんやあの生徒会長までもが、俺のことを心配してくれていたことを知り、いままでの俺がいかに自分勝手に生きてきたかを痛感させられた。 「お邪魔します」まるで当然のことのように、ハルヒが今日も俺のところへとやって来た。最近は、忙しい俺の両親に代わって、ハルヒが俺の身の回りの世話をしてくれているのが現状だ。 それは嬉しいのだが、いくらなんでも申し訳なく感じる。現時点では俺達は高校時代のクラスメートにしか過ぎないのだから。「な、なあ、ハルヒ、お前、就職の準備とかで忙しいはずじゃないのか? こんなことをしている暇はないはずだろ?」ハルヒは悠然と俺のほうを振り返る。「あんたがそんな心配することないわよ! 前にも言ったけど、団員の心配をするのは団長の務めなんだから! 申し訳なく思うんだったら、早く元気になりなさい! それに……」 「告白の答えも聞いてないしね」と聞こえないぐらい小さくつぶやいた後、「ううん、何でもない」と顔を真っ赤にしながら、「花瓶の水を換えてくるわ」と言って、病室から出て行った。 病室の窓から空を見上げると、どんよりとした雪雲が広がり、昼だというのに薄暗い天気だった。古泉に呼び出され、長門と別れた日も、ちょうどこんな雪の降りそうな日だったことを思い出した。 よく考えてみれば、今日は長門と別れてちょうど四年目になる。四年前の今日12時に、長門は俺の前から去っていったのだ。「長門……」空を見上げて小さく呼びかけても、当然のごとく答えは返ってこなかった。ただ自分の心の中に虚しさがこみ上げてくるだけだった。ガチャドアの開く音がして、ハルヒが花瓶を持って病室に入ってくる。俺は、意を決して、聞こうと心に決めていたことをハルヒに問いかけた。「ハルヒ」「何?」「俺……あとどれくらい生きられるんだ?」一瞬、ハルヒの顔が強張った。それを誤魔化すように笑顔をつくったが、さすがのハルヒも戸惑いまでは隠せないようだった。「な、な、何言ってるのよ。そ、そん、そんなこと、ある、あるわけないじゃない」「ハルヒ!」 俺がじっとハルヒの目を見つめると、ハルヒは観念したようにうつむいて黙ってしまった。「ハルヒ! 教えてくれ! 俺はあとどれくらい生きられるんだ? このまま何も知らされないまま最期のときを迎えるのは耐えられないんだ。頼む!」「わからない……」ハルヒは俺と目を合わせることなく、うつむいたまま小さな声でつぶやく。「妹ちゃんに聞いたんだけど、医者にも原因がわからないんだって言ってた。でも、キョンの体力とか考えると、来年の春を迎えるのは難しいかもって……」「そうか……」「でも……でも……原因がわからないってことは、死ぬって決まったわけじゃないのよ。だから……だから……諦めないで……あたしが……できることなら何でもするから……」 顔を上げて、懇願するように話しかけてくるハルヒの目からはポロポロと大粒の涙がこぼれていた。言葉が出なかった。最期の時を、こんな形で迎えることになるなんて思ってもいなかったからだ。 不意に、ハルヒの携帯のアラーム音が鳴り響く。ハルヒは携帯をポケットから取り出し、携帯の画面を確認してから、俺のほうをキッと睨みつけた。「いい! 絶っ対に自暴自棄になっちゃ駄目よ! 最期の最期まで希望を忘れないで! いいわね!」そういい残して、ハルヒは病室から出て行った。ふと、枕元にある置時計を確認すると、11時を少し回ったところだった。
気がつくと俺は公園へと続く坂道を登っていた。長門と別れたあの日も、俺はふたりでこの坂道を登り、公園へと歩いていた。そのことがまるで昨日のことのように思い出される。 だが、いまは俺の隣に長門の姿はない。ただひとりで、重い身体を引きずるように、俺は坂道を登り、公園のベンチへとたどり着いた。ベンチに座り街並みを眺めると、ハルヒが言ったとおり、長門と別れたあの頃に比べて、ずいぶんとここから見える景色が変わっていることに気づかされた。刻一刻と時間は過ぎ去っていく。ただ、長門と別れたこの公園だけが、世界から取り残された俺を、変わらずあのときのままで迎えてくれているようだった。俺はベンチに座り、いままでの人生を振り返る。走馬灯のように過去の出来事が頭の中を駆け巡る。入学式の日にハルヒが突拍子もない自己紹介をして度肝を抜かれたこと。長門や朝比奈さん、古泉に自己紹介をされて、半信半疑ながらもその証拠を見せ付けられ、驚愕したこと。けったいな虫を退治したり、離れ小島の孤島で偽物の殺人事件に遭遇したり、朝比奈さんを主演に映画を撮ったこともあったっけ。思えば、普通の一般人よりも波乱に富んだ人生だった気がする。 そして、長門への淡い恋心に気づいたこと。長門と過ごした一年。別れの日。あの日、長門はいったい何を思っていたのだろうか。逃れることのできない運命のような別れが迫ってくるのを、どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。ハルヒとつきあうように促した長門は、どんな感情を抱いていたのだろうか。 もう、いまとなってはそれを知る術はない。思い出に浸っていると、突然、ポケットに入れてあった携帯がけたたましく鳴り響き、俺を現実の世界へと引き戻す。「キョン!! あんたどこにいるのよ! 突然いなくなって、みんな心配してるのよ!」「ハルヒか? すまん、いま例の公園にいる」「バカ!! あんた何考えてるのよ! いますぐ行くから、絶対そこで待ってなさい! いいわね!!」俺が返事をする間もなく、電話は切れてしまった。その携帯を眺めていると、また少しだけ過去の情景が頭に思い浮かんだ。 入学当初はハルヒの我侭に振り回されてうんざりしたこともあったが、いまは俺が我侭を言ってハルヒを振り回している。あの当時の俺だったら、絶対にこんなことは想像もしなかっただろう。 そのことを考えると、ハルヒには申し訳ないのだが、少しだけ懐かしさのような、言葉では言い表せないような、そんな感情がこみ上げてきた。俺は携帯をポケットにしまい、ベンチに座ったまま目を閉じた。真っ暗な闇の中、かさかさと枯葉が風に舞う音だけが聞こえる。まるで、この世界に俺ひとりだけが存在していると錯覚してしまいそうなぐらい静かだった。 しばらくそうしていると、頬に何か冷たいものが触れたような感触がして、俺は目を開ける。「雪……か……」思えば、長門と別れたあの日も、こんな風に雪が舞っていた。ベンチに座ったまま空を見上げ、後から後から舞い降りてくる白い結晶を眺めていると、背後から人が近づいてくる気配を感じた。 きっとハルヒが来たのだろう。俺はそう信じて疑わなかった。「すまん、ハルヒ」そう言いながら、俺が振り返るとそこには…………
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