聖ヴァレンティヌスに乾杯
「ねえ、バレンタインデーの起源を知ってる?」ハルヒが実にタイムリーな話題を振ってきたのは、学校中が甘い香りで満たされる日の朝のことだった。「ん?何だって?」「だから、バレンタインデーが始まった理由を知ってるかって聞いてるのよ!」ふっ。聞いた相手が悪かったな。倫理の時間は寝てても、フロイト全集を網羅している俺に聞くとは。「ローマ時代に殉教した司教を記念して始まったんだろ。戦争好きのバカ皇帝が強い兵士に妻はいらんと言って結婚を禁止する法律を作って、それを破って愛し合う男女を結婚させていたのが我らが聖ヴァレンティヌスだ。けっきょく皇帝にバレて処刑されちまったが、その涙ぐましい偉業を記念してできたのがバレンタインデーってわけだ」 俺が自慢げに知識を披露すると、ハルヒは残念そうなカオの総天然色見本みたいな顔をした。「なーんだ。つまんない。せっかくキョンの頭を叩きながら教えてあげようと思ってたのに。まあいいわ。ここ、テストに出るから覚えておくように」謎めいた言葉を残して、ハルヒは窓の方を向いた。俺が慌てて問い詰めようとすると、岡部が教室に入ってきちまった。「今日は巷で噂のバレンタインデーであるが、こんなもの菓子会社の陰謀であること甚だしい。こんな金の無駄遣いに引っかかるのは中学生までである。ソンナコスルンダッタラ、ハンドボールヤロウゼ!」 ってな感じの、チョコレートをもらえない哀れな男臭がぷんぷんする迷演説でどっちらけのホームルームは締めくくられた。それで午前の授業が始まったのだが、ぶっちゃけて言おう、先生方のありがたい言葉はまったく耳に入らなかった。世の青春まっしぐらな男子生徒と同じく、今年は女子からチョコレートもらえるかな~などと甘っちょろい妄想をしていたわけではない、と言ったら嘘になる。俺はチョコレートのことばかり考えていた。その最もたる原因は言わずもがな、ハルヒだ。 去年はニヤケやろうと鶴屋家の裏山を掘り返しただけで良かったが・・・・・・全然良くなかったと筋肉が猛烈な抗議をしているが忘れよう。とにかく、あの北高暴走特急は何をするか分かったもんじゃない。アメリカ軍から爆撃機を強奪してきて、
「キョン~たんとお食べ~」
と俺の頭に三十トンほどチョコレート爆弾を落とすことだって平気でやらかすだろう。ああ恐ろしや。今年のキーワードは聖ウァレンティヌス。これは間違いないだろう。あいつから言ってきたからな。しかしながら、午前中全てを費やしても答えは出てこなかった。まったく思いつかん。 休み時間にハルヒに話しかけても、
「うっさい」
「放課後まで待ってなさい」
「しつこい」
「・・・・・・そんなに聖バレンタインデーの虐殺を再現して欲しいの?」
と取り付く島がなかった。どうなっちまうんだろうな、俺。チョコレートと一緒に煮られて公開釜茹での刑にでもされるのか?普段より元気二十%ダウンで迎えた昼飯は、本命チョコと今日のオールバックに関する話を延々とする谷口のせいで、お袋の手作りコロッケの味すら分からなくなってしまった。谷口よ。お前はどんなに頑張っても義理チョコどまりな男臭がぷんぷんするぜ。 例によって午後の授業も身が入らず、あっという間に放課後を迎えてしまった。「諸君はチョコレートを渡すなどという青少年にあるまじき行為をしないように。ソンナコスルンダッタラ、ハンドボールヤロウゼ!あと、先生は下校時間まで職員室にいるからな~質問や悩みがあったら軽い気持ちで来るんだぞ~いいな~?」 クウェート行き決定のハンドボールバカが教室から出て行くと、望外なことにクラスの女子一同から男子全員にチョコレートが配られた。これ考えたやつ頭いいな。女子は安上がりに義理チョコを配れて、男子はとりあえずみんな幸せになれる。本命さんには後でゆっくりと、って寸法だ。じゃんけんに負けて岡部にチョコレートを渡しに行った阪中は少し涙ぐんでたが・・・・・・ 「こんな偽物はいらない。俺は真の愛が詰まった一品だけを求めるのさっ!」この大バカ者の名をあえて晒す必要があるだろうか?女子がドン引きしてるぞ。「やれやれ」俺はありがたい義理チョコをしばし堪能すると、クラスの中から一人だけ姿を消していた誰かさんの待つであろう文芸部室へと足を向けた。習性ってやつは恐ろしいね。 SOS団の根城になっている部屋の前に来ると、俺はまずドアに異常がないかチェックした。雑巾も挟まっていなかったし、対人地雷も仕掛けられていなかった。次に朝比奈さんの着替え対策に軽くノックをする。「入っていいわよ」一番聞きたかった気もするし、一番聞きたくなかった気もする声がした。俺は呼吸を整えてから一声かけて中に入る。「入るぞ」一瞬目を疑ったね。ついでに心臓も一回転した。いつもは俺が座っているパイプ椅子に足を組んで座っていたハルヒは、それはそれは魅力的だったのだ。俺が小説家だったらハルヒの美しさを表す表現が二十通りくらい湧き出てたね。何でだろう、出ているオーラが違うというか。これでポニーテールだったら最高だったんだが・・・・・・って俺は何を考えてるんだ。 「みくるちゃんたちには帰ってもらったわ。はい、これあげる」すくっと立ち上がったハルヒは一直線に俺の前に来て、丁寧に包装された箱を突きつけた。「これを・・・・・・俺に?」「そうよ。感謝しなさい。団長であるこのあたしが、しがない雑用係のために作ってきたんだから」ハルヒは俺から視線をそらして答えた。ほんのわずかに頬が赤くなって上気しているからだろうか。「おい、ハルヒ」「何よ?」「この箱と聖バレンタインはどんな関係があるんだ?」「はあ?」「空けようとしたら箱が爆発して俺がチョコまみれになって公開・・・」やってくれたな、俺の口よ。見事に期待を裏切ってくれるなんて。いや、口のせいにするのは良くない。全ては俺のヘタレ根性が原因だよな。はあ、なんでこんな態度でしかハルヒに接することができないんだよ。このやり取りが一瞬でできたことにも嫌悪感を感じるぜ。 「・・・・・・っ!もう!」ハルヒはマッハを超えたかと錯覚するくらいの素早さで後ろを向いた。遅れて風が俺の顔面をしたたかに打つ。「チョコを渡したのがあたしで助かったわね。普通の女の子なら呆れ果てるか泣いてるところよ!」表情をうかがうことはできないが、口調から察するにハルヒは怒っている。当然だよな・・・・・・俺は何も言えずに、ただハルヒの後頭部を見つめていた。ハルヒの髪ってこんなに綺麗だったんだな。 「あたしはSOS団の団長スズミヤ・ハルヒ様よ!常に不思議なことを捜し続けているから、恋なんていう病気にかかってる暇はないの!」ハルヒの声が窓で反射して入り口のところに立っている俺に突き刺さる。「でもね・・・・・・でもね、たまにはあたしを一人の女の子と見て欲しい。あんたにそれを望むのは贅沢かしら?」おい、こんなハルヒ・・・・・・もう反則としか言いようがないぞ。俺は無意識のうちに最良と思われる行動を取っていた。「ごめん。ハルヒ」「悪いと思ったなら、何をするべきか考える!」「分かった。チョコ、ありが・・・のわっ!?」「ぷっ・・・あはははは!!」箱の上面に触れた瞬間、黒い物体が飛び出してきて、俺は思わずしりもちをついてしまった。ハルヒの笑い声が哀れな俺に追い討ちをかける。やられた・・・・・・ハルヒから渡されたのは、ばねで仕掛けが飛び出すびっくり箱だったのだ。ご丁寧に飛び出したばねの先っぽにチョコレートの塊が刺してある。「キョン、あんた最高だわ!あはははは!こんな・・・くくっ・・・こんな簡単な手に引っかかるなんて!」不思議と怒る気にはなれなかった。既に毒気を抜かれてしまっていたし、大声で笑い続けるハルヒに罵声を浴びせることなんかできなかったからな。しかし、俺は悟りを開いた人間じゃなかったし、ましてや頬をぶたれたら反対側の頬も出してやれ、なんてのたまったキリストでもない。怒りはしないが、何か仕返しをしたくなる。俺は床に倒れた状態でできる最善の方法を取った。 「このっ!」喰らえっ!必殺足払い!「きゃっ」見事にハルヒの足をすくった、までは良かった。後悔後先に立たず。「あ・・・・・・」倒れたハルヒは床にダイブすることは避けたものの、なんと、俺に覆いかぶさる体勢になってしまったのだ。ほのかな甘いシャンプーの匂いが降ってくる。いかん。理性が、息子が・・・・・・ 二人の間にしばし沈黙が流れた。バレンラインデーなのに、けなげにグラウンドで練習している野球部の連中の叫んび声が良く聞こえる。「おい、ハ・・・」正気を回復した俺が声を出した刹那、誰も来るはずのない文芸部室のドアが開かれた。「うい~っす。WAWAWA忘れ物~♪・・・・・・のわっ!?」はい、質問。今の俺たちを谷口のようなアホが見たらどう思うだろうか?答え、十中八九抱き合って愛を確かめている最中だと勘違いするだろうな。とっても簡単♪「すまん。ごゆっく・・・うげふっ」「あんたは今、何を見たの?」俺がこの場を急いで去ろうとした谷口に声をかける暇もなく、ハルヒがやつの首に手をかけていた。目測だが、今のスピードは確実にカール・ルイスを超えていたぞ・・・・・・ 「な・・・何って・・・・・・お前たちがあがががががががが」「あんたは今、何を見たの?」あの~ハルヒさん。少し手の力を緩めないと谷口が極楽浄土へ旅に出ちまいそうですよ。ところで、人の顔ってこんなに青くなるんだな。あっ緑になってきた。「見て・・・はがっ・・・・・・見てないっ!・・・何も見てない!だから・・・・・・」「そう。それでいいのよ」ハルヒが森さんの妖絶な微笑に匹敵するほどの笑顔をして、ようやく手を離した。俺は悟った。この女を本気で怒らせてはならない。神に誓います・・・・・・神はこいつだったか。 「まったく。どうしてSOS団の本拠地にあんたが来るのよ」のた打ち回っていた谷口がとたんに、手違いで砂漠に連れてこられて死に掛けていたトノサマガエルに水をかけたかのように生き返った。「そうそう。そのことなんだけどな!俺、長門さんが部室に本を忘れ・・・ぐぎゃっ」「有希が何であんたに忘れ物を取りに行くよう頼むのよ」悪い、谷口。俺にはこいつを止める勇気がない。しかし、何故長門が谷口に?「長門・・・・・・さんが俺・・・に・・・チョコをくれ・・・て・・・」「おい、長門は今どこにいるんだ?」冷静沈着なヒューマノイド・インターフェイスがこのアホにチョコを?ありえん。「渡り・・・廊下に・・・・・・あべしっ」「キョン!確かめに行くわよ!」「おう!」谷口を放り投げると、ハルヒと俺は一目散に走り出していた。やわらかいものがつぶれる音がしたが、かまいやしない。「有希!!」「長門!!」谷口の供述通り、長門は渡り廊下の真ん中に立っていた。そして、俺たちが質問の山を投げかける前に、頭を下げて謝ってきた。「ごめんなさい。わたしは明日本をとりに行くと言ったが、彼を止めることができなかった。結果としてあなたたちの楽しみを中断させてしまった」「あたしたちのことはどうでも・・・・・・良くはないけど。そんなことより有希!谷口にチョコをあげたって本当なの?」ハルヒが長門の両肩をつかんで尋問を始めた。おい、ゆすりすぎだ。長門がエラーを起こしちまう。「本当」「どうして!?」「彼はユニーク」俺の長門レーダーは、長門がわずかにむきになったのを探知した。どうやら長門は本気のようだな。「でもあんなアホに・・・」「止めとけ。ハルヒ」俺はハルヒの肩に手を置いた。「長門の好きなようにさせてやれよ。それに、他人の恋愛に手を出すつもりはないって言ってただろ」「うぐっ・・・・・・それは・・・そうだけど」ハルヒは黙ってくれた。お前が長門のことを心配してるのは分かるよ。だがな、変な気を起こした俺は谷口を信用しても良いと思っているのさ。さて、自分の子供に対してノータッチを決め込んでいる長門の保護者に代わって、俺が少しだけ保護者面をしてやるか。「長門が本気なら俺はただ、一つだけ聞いておくぞ。長門にとって谷口は何だ?」この二年間で飛躍的に感情が豊かになった長門なら答えることができるはずだろ。長門は液体ヘリウムを溶かし込んだような目を二回まばたかせてから答えた。「彼は・・・・・・わたしのペット」渡り廊下の空気が全て宇宙空間へ吸い出された。あはは。情報伝達時の齟齬だと信じたいが、そう真顔で言われるとなぁ。隣を向くと、ハルヒも目が点になってる。「よしっ、ハルヒ、部室に戻るぞ!!」「そっそうね、キョン!じゃ、じゃあね、有希!!」俺はハルヒの手をとって全速力で走り出した。途中で天に舞い上がりそうな調子で本を持ちながらスキップしてた谷口とすれ違った。頑張れ谷口。骨くらいは拾ってやる。残ってたらの話だが。 「ちょっと待って、キョン」文芸部室まで十メートルほどになってハルヒが両足でブレーキをかけた。「もっと手、しっかり握りなさい」「・・・・・・はいよ」知らない間にハルヒとはこんな間柄になってたのか。驚天動地だ。まあいい。俺がびっくり箱を開く前に遭遇したハルヒの心情はどうやら本物のようだったからな。俺はどこまでも付いていってやるよ。神でもなくSOS団の団長でもない。涼宮ハルヒという目の離せないおっかない女にな。ついでに、これに気づくきっかけを作ってくれた聖ヴァレンティヌスにも感謝してやってもいい。サンキュー、バレンタインデー。
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