隠喩と悪夢と……
あったかい。 痛い。 気持ちいい。 離れてく。 それは——。 気持ち悪い。 真っ先に感じたのは全身を包む湿り気だった。 胸が痛い。 心臓がその存在を誇示している。 脈打つそれは左の胸に、そんな当たり前を確認できるくらいに、早い。 そっと手を添える。 ……大丈夫、体の中で心臓が目立たなくなると、あたしはそう呟いて部屋を見渡した。 机の上の写真立て。見なくても目に浮かぶ、誰かさんの。 本棚。あー……、昨日の読みかけはどこにしまったかしら。 タンス。今日は学校だから、ちょっとくらいだらしない格好でも良いわよね。 枕元の携帯。あたしにしては可愛らしいハート型のストラップ。 雨音。不規則にゆったりと、大粒の雨が窓をノックしてるみたい。 あたし。 ……そう、何かとても酷い、でも悦ばしい夢を見ていたはず。 何だっけ、何だったのかしら。「あぁ、もうっ!」 寝癖頭をかきむしる。思い出せないのが腹立たしいじゃないの。 例えそれが悪夢でも夢泥棒は許しがたいわ。警察につき出してやるっ! と、ファンシーに意気込んだところで何の解決にもならないのよ、分かってるわ。 だからといって。「……ダメダメ、駄目よ、あたし」 知らず知らずの内に発信履歴の中からキョンの名前を探し出していた自分を抑える。 無理難題をあいつに押し付けて八つ当たっても、後で自己嫌悪に陥るだけなんだから。 溜め息を部屋に響かせて携帯を閉じて、それを脇において——。「っ!?」 誰よっ、心臓止まるかと思ったじゃないのっ! だから電話はかける方がいいのよっ! 怒りまかせに手に取った携帯のディスプレイには「キョン」と表示されていた。「あの、バカ……」 電話出たら早々に怒鳴る事になりそうね、これは。 あたしは息を深く吸ってから、「……あれ?」 指が動かない。「なんで」 指だけじゃない。全身が、それこそ金縛りにあったかのように。「ちょっと、なによ」 怖い。 脳裏をよぎったのは、そんな一語。 違う、動かないのは恐怖のせいじゃない。 ……違う、……違わない、……理解できない。 そして沈黙が訪れた。「……」 あたしは呆然としていた。 自然と体が震えて、ようやく自由を取り戻す。 ——今のはなに? 落ち着いて思い返すと、何てことはないだけに不可解な理由。 あたしはキョンの電話にただならぬ想いを勝手に抱いていた。 精神が極限まで張り詰めて、体もそれにつられちゃったみたい。あがってる、とかそういうの。 ……でも、それってものすごく、馬鹿馬鹿しくて、「腹立つんだけど」 躊躇うほどの間を空けた再度の電話に自然体——要するに不機嫌——で出られたのは馬鹿馬鹿しさへの憤りのお陰ね。「何よ」『あー、……起こした、か?』「さあね。自分で考えたら」『すまん』 キョンはすんなり謝った。「ふん。で、何のよう? 下らない事だ——」『いや、大事な話だ』 あたしにみなまで言わせず、キョンは断言したけど途端に口を濁し、『ただ、電話じゃ話しづらくてな。悪いとは思うが、今から学校来れるか?』「いま?」 慌てて時計を探す。「まだ五時じゃないの」『……』 黙るな、何か言いなさいよ、そう思うあたしも口を閉じたまま。 張り付くような雨音はいつしか聞こえなくなっていた。 普段は意識なんかしない時計の針の音、それが大きく、ゆっくり耳に響く。時を刻むこと、ほんの十回ほど。『待ってる』「あ、こら! 待ちなさい、キョン! キョン!? ……切りやがったわね」 直ぐにかけ直したんだけど、『……現在、電話に出ることが……』「やってくれるじゃないの」 これで下らない用事だったら、人としての尊厳を最後の一欠片まで剥ぎ取ってやるわ。 小気味良い音をたてて携帯がたたまれる。 制服に身を包み、暴れている髪を急いで整え、鞄を手に取り、 書き置きを人気のない食事に残し、食パンを一枚台所から失敬して、あたしは家を飛び出した。 朝方の雨が水溜まりと、ウザったい空気を置き土産に残していた。 走っていると水溜まりに突っ込み、跳ねた水滴が足につく。追い討ちのように靴下が水を吸って張り付くあの不快感。「あぁ、腹立つ。どいつもこいつもっ!」と、叫んで。 ピッチを上げる。緩んだ唇を結ぶ。空いた手を頭へ。一つにまとめたあたしの——。「ふん、だ」 頭を左右に振る。雑念には消えて貰わなくちゃね。「着いたわ」 自己最短記録を更新した自信と確信が全身に満ちてる。だって、普段はこんな急がないし。 ついでに。 遅刻する、とか言ってセコセコ走ってる奴見てるとイライラするのよね。 取っ捕まえて、説教したくなるわ。いっそ堂々と遅刻ぐらいしてみなさいってね。 まだ開いていない正門を当然のように乗り越え、ご丁寧に一つだけ鍵の掛かっていない扉を開けて下駄箱の前に立つ。「あら」 開けると上靴の他に一つの箱と封筒が入っていた。 濃い赤色の、自分の握り拳より二周りほど大きくて、少しあったかい——人のぬくもりを思い浮かべて——箱。 それとキョンの手書きの封筒。中にはたったの一行。『プレゼント』 何度も消した後が見えるのが、なんだか、嬉しくて。 でも。 と、心中でキョンに語りかけつつ、上履きを地面に放り投げる、気の抜けた着地音。 一体何のプレゼントなのかしらね、あたしの誕生日は今日じゃないわよ。 勘違いしてたら、表面は怒り、内面は凹みよ。 静かな校舎に足音が響く。まるで世界中にあたししかいないみたい、でもそれは錯覚。 あたしの手のうちの箱、それが、この校舎内のキョンの存在を証明することになる。 継ぎ目のない、形として完璧で、仕組みとしては不良品で、 なぜか時々脈動しているようなそれは、覚えのない記憶であたしを不安にさせる。 あの廊下の曲がり角から突然にこの世の物ならざる物が出てくる、そんな妄想を浮かべながら一歩づつ進んで、 教室が近付くにつれて、心臓が高鳴る。あいつは一体なにを企んでいるのかしら。 宇宙人でも捕まえたの? タイムトラベルでもする気? 超能力者に透視でもさせようっての? 教室の扉がベルリンの壁か万里の長城に思える。全く別な二つの世界の境目。 そして、そのあたしの感想は——。「なに?」 ツンと鼻をつく鉄の臭い。 真っ赤な内装。 屋内なのにある水溜まり。 教室中央の奇怪なオブジェ。 二つの世界の境目、そのあたしの感想は——正しかった。 明確に分け隔てられていたのは、あたし——生者——と、キョン——死者——との世界。 そう、鼻をつく鉄の臭いはキョンの血の臭い。 壁を染め上げたのもそう。 床上のあれは血溜まり。 そして奇怪なオブジェは、「うそ、……よね」 あたしは「それ」と一歩距離を縮める。「ねえ……」 「それ」は微動だにしない。「冗談なんでしょ」 「それ」は、……人型の「それ」は。「怒る、わよ?」 キョンだった。「ねえ、キョン……」 傍観者に徹している自分の中のどこかが無駄だよ、と告げている。 それくらい分かってる。 あたしにだって分かる。 キョンの左胸に、ちょうど拳大の穴があいている事くらい。それは多分、心臓をえぐり出された痕跡。 込み上げる、吐き気、おぞましさ、恐怖。 死。 死。 意識はホームビデオのように間のシーンを完全に欠落させていた。 ここは文芸部室、SOS団の本拠地。 団長席であたしは膝を抱えて震えていた。 さきの光景が信じられなかった、からじゃない。信じちゃったから。 だから震える。「うっ——」 体が、空っぽの胃からさらに絞り出そうとする。でも何も出ない。嗚咽と涙以外は。 どれくらいそうしてたか。長くはないと思うのよ。全く騒ぎになる様子もないから。 あたしの耳が足音を聞いたのはそんな時だった。「……ああ」 こんな朝から部室棟に用がある人間なんてそうはいない。 朝練みたいにまともに部活しちゃってるとこは専用の部室があるし、忘れ物を取りに来るには早すぎる。 多分、教師の見回りでもないでしょう。 だとしたら。 不意に確証なしに確信する。——ヒトゴロシ 苦い笑みが溢れる。——キョンを 息を殺してそいつを待つ。——何で あたしはどうしてなのかなんて気にもとめなかった。——知りたくもない ただ、こんなちっぽけな物でも命は奪えるんだ、と白けた感動を覚えただけ。——一つだけ そうよ、全く不思議に思わなかったの。——思念を埋め尽くすの 予定調和のようにあたしの手に収まっていた。——うん その鈍く輝く、ナイフは。——殺シテヤル 足音が止まる。 ノックがふたつ。 無音を返すわ。 ノブが軽く回る。 いらっしゃい。 姿を表したのは。 あり得ない人。「よう、ハルヒ」 嘘でしょ?「キョン——」「なの?」 ナイフが手から滑り落ちて、硬質の音が響く。「……どうした、死人を見たみたいに真っ青じゃないか」 どの口がそんな低級ジョークをかましてんのよ! あんたはさっき血まみれで——。 ……でも今は。 確かにキョンの体に外傷は無いのよ。 ポッカリと空いていたはずの左胸の穴は言うまでもなく、かすり傷一つさえ。 血の痕さえない。いたっていつも通りの、冴えないキョン。「幻覚かしら」 そんなのってありなの?「……ねえ、キョン。あんたこんなに早くから何してんの」 あたしの問いに、キョンは一拍おいて苦笑し、答えた。「おいおい、ハルヒ。呆けるにはちょっと早すぎるぞ」「うっさい、呆けてなんかない」「そうかい」「そうよ。……何でも良いから答えなさい」 両の肩をすくめて定型文。「お前が呼んだんだろ。で、今度は何を企んでるんだ?」「……ないわよ」「ん?」「呼んでないって、言ってんのよ。むしろ呼び出したのはあんたの方でしょ!?」「新手の冗談か、それは。俺はお前に叩き起こされて朝早くから教室にいたんだぞ」「知らないわよ、そんなの。からかってるわけ?」「……待て。本当に知らないのか」「そうよ」「じゃあ、あいつは他人の空似か?」「知らないっての」 投げやりに返して腰掛ける。「そうか。うーん、……ここに来れば返して貰えると思ったんだが、甘かったか。まさか偽者とはね」 一人ごちながら徘徊し始めるキョン。「困ったな、アレがないと……。なあ、ハルヒ」「な、なに?」「俺の心臓を知らないか」 血の臭いが鼻を突いた。「お前が持ってった、俺の心臓を知らないか」 キョンの手が何かを——心臓を——求めて伸ばされる。「来るな!」 咄嗟に払った手は氷のようで。『何なのよっ! 夢なら醒めてよっ!』 醒めるはずもなく。 狂乱に見舞われたあたしは、あっと言う間に隅に追い詰められた。「なあ、持ってるんだろ?」「持ってない!」 悲しみを湛えて、そいつはあたしの言葉を否定する。「そんなはずはないんだ。分かるんだよ、俺には」「知らないっていってるじゃないの!」「深紅の箱」 ……え?「その中だ」 あの箱なの。あの中に?「箱は持ってるんだな。貸してくれ」「確かに持ってるけど……」 あたしが取り出したそれには、取り出す口はない。そいつも落胆の様子を示して、「これじゃ、ダメだな。……仕方ない、これはお前に返すよ」「いらない。あんたのなんでしょ」「そう言うなよ。一度取られたもんだ」 肩に大きく冷たい、そいつの手がかけられる。「なあ、ハルヒ。やっぱり似合ってるぞ」 抵抗する間もない、冷たい口付け。でも、今度は続きがあった。 そいつは笑った。「だから、今度はお前の心臓をくれよ」 紅が世界を覆い尽くす。 あったかい。 痛い。 気持ちいい。 離れてく。 それはあたしの。 心臓。 薄れ行く意識の中で最後に見たのは愛しそうに心臓を掲げるキョンの顔。 バカキョン——。 目を開く。「……ゆめ?」 本当に? 左の胸に手を当てる。 動いてる、……ここにある。「それも、そうよね」 溜め息を吐き、体を起こしたとき。 着信を告げるメロディ。 キョンから。 あたしはこれに応えるべきなのかしら。 戸惑うあたしと、携帯電話と。 いつまでも、いつまでも。 途切れる事はなく。FIN.
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