谷口探偵の事件簿 ~山間の村で~
俺の名は谷口。泣く子も黙る私立探偵だ。探偵だが今は休暇中なので、旅情の人となっている。休み中は家でごろごろと寝て過ごすことが多いのだが、今日は舎弟分の長門をつれて鈍行電車にゆられ、はるばる遠方の山村までお出かけしているところである。面倒くさいのでお出かけしたくはなかったのだが、50万のためだから仕方ない。 金のためだ金のためだと自分に言い聞かせ、俺は手提げ袋をもって家を出た。持参物は財布、タオル、そして上着とズボンが各1着。下着も上着も寝る時に洗って干しとけば翌日には乾いているから、本当は財布だけで十分だったんだが、長門が嫌そうな顔をしていたので、仕方なくタオルや上着も持参物に加えたという次第だ。こんなことで長門のご機嫌を損ねるわけにはいかないからな。 そうだ。これは単なる旅行なんかじゃない。接待なんだ。50万をかけた、お持て成しの旅なのだ。
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ススキの野原の中を無理矢理切り拓いたように敷かれたレールの上を、ごとごと走る電車にゆられること1時間。眠くて眠くてしかたなかったから、誰もいないガラガラの車輌の中で俺はしどけなくもシートの上に横たわっていた。 せっかく旅行に来たんだからもう少し粘って窓外の風景に目を向けてみよう、と最初のうちは思っていたが、行けども行けどもススキばかりで変わり映えのない山間風景に飽きてしまい、10分でまどろんでしまった俺を誰が責められよう。これでも長門より、3分長く起きていたんだぜ。
紺の制服に身をつつんだ車掌らしき人物に起こされて、目をこすりながら時計を見ると出発から1時間が経過していた。終点ですよと苦笑する車掌さんに社交辞令を一言のべて、どうもどうもと繰り返しつつ俺はまだ半分眠っている長門の背を押して電車を降りた。人の好さそうな初老の車掌さんに手を振って見送られ、俺たちは廃れかけた山間村の駅を後にした。山麓の平野に流れる空気は街中のそれと違い、コンクリートや車の排気ガス、鉄臭さがまったくない。直で草木をイメージさせる新鮮な土臭さがとても快い。四肢を思い切り伸ばしてビリビリ痺れるような感覚を感じながら、たまった疲れを一気に発散してようやく俺は旅行に来てよかったと思うのだった。 「………さむい」木枯らしの中、長門は上着の襟首を縮めてちいさく身震いした。このへんは近代的なビルや、ガスをぶりぶり放出する車も見かけない。ただ深々とした清澄な空気が流れているだけだ。そりゃ街中や締め切った電車の中に比べれば、ダンゼン寒いさ。 しかし実に清々しい気分じゃないか。寒さなんて忘れてしまうくらいにいい気分だ。見ろよ、あの山稜を。雄大な大自然そのものじゃないか。この鳥の鳴き声も、クラシック音楽の生演奏のように心地よい響きだと思わないか? まったく素晴らしい! いくら物質文化が進もうとも、こうして豊かな自然に直面してみれば、やはり人間はこういった草木や土や水とともにあってこそ生を満喫できるんだと実感させられるね! なあ、長門くんもそう思わないかい? 「………さむい」……そうだね。寒いね。
日に褪せた駅を出発して田舎道を歩いていると、ようやく長門も完全に目が覚めてきたようで、自分の荷物を俺におしつけて興味深そうに辺りをキョロキョロと観察していた。 俺はホテルのボーイじゃないんだぞと言って長門のリュックを放り投げたくなったが、そこは俺も大人だ。我慢だ、我慢。50万、50万。「………どこに行くの?」頭上をぐるぐる回っているトンビに目をやりながらつぶやく長門の言葉を聞いて、俺はまだこいつに目的地を告げていなかったことに気づいた。黙って俺についてこい!と事務所でタンカを切ったことは覚えているんだが。 こっから5,6km歩いたところにある、山の麓の村だよ。名前は、ええと何ていったっけ。市町村合併があって名前が変わったと聞いたのは覚えているんだが、忘れちまった。ええと、なんだったっけ。おか……おかめ……おかま……そうだ、岡部村。岡部村だった。思い出した。 その岡部村で明日、新嘗の祭があるんだ。新嘗っていうのは、稲の収穫のことだな。ネット上で知ったんだがその祭で、一大ビックイベントが執り行われるんだとさ。「………ビックリイベント?」そうだ。ビックリするようなイベントだ。なんでもその祭の最中、村のご神体である山神の像が100年ぶりに、一般向けにご開帳されるんだと。100年に1度しか開帳されない神様の像というだけでも驚きなのに、その像は噂によると純金製だって言うじゃないか。純金だぞ、純金。すごくね? 「………やれやれ。何かと思えば、また金ですか。賞金とか生活費とか純金の神様像とか。最近兄貴が口にするのはどれもこれも、金、金、金」なんだよ。金に目がくらんで悪いのかよ。金、金、金と言ったって、別に俺はその金を不正な手段で得ようとしているわけじゃないんだぞ。ただただ不自由のない生活を送っていけるだけの金がほしい、と願っているだけなんだ。実にささやかであって、なおかつ慎ましやかな願望だろ。 生きることに情熱を燃やせるって、素晴らしいことじゃないか!「………金以外に、夢はないの?」夢なんて見ていられるのは、夢を見る余裕のあるうちだけだぞ。つまり今の俺は夢を見る余裕もない生活をしていてだな、当初の夢は金を手に入れることになっているのだ。そうだな、たとえば50万円くらいのまとまった金額だ。 わかるか? 夢=金なんだよ。ゲゲゲの鬼太郎の第二期エンディングテーマでも歌われているだろう。金がなきゃ夢もない、この町に暮らすおばけもつらい、と。「………すごく分かりやすい夢」だろ? 俺もそう思う。金を手に入れるのが当初の夢だが、夢も金で買える世の中だ。金さえあれば夢なんてどうとでもなるさ。夢は具体的であればあるほど現実に近づくのさ。 「………お金で夢は買えるかもしれないけど、夢のない話」
落ち葉の積もった獣道を歩き、太陽が西にかたむきかけた頃、ようやく深い木々のシルエットの合間から人里が見えてきた。「………よ、ようやく着いた。こんな山道に入り込んで、道に迷ったのかと思った」何を言う。地図だってちゃんと持ってきてるんだ。迷うはずがないじゃないか。黙って俺に着いてこいって言ったろ? あんまり深い森の奥に入りこんでしまったし、途中からまともな道もなくなったから、内心かなりドキドキしていたことは認めるが。それでも俺は、自分を信じ、自分の選んだ道を突き進んできてよかったと思っている。 「………私は、森の奥につれて行かれて50万円のために亡き者にされるのではないかと、別の意味でドキドキしていた」なるほど。その手があったか。
俺たちが艱難辛苦の末、ようやくたどり着いたこの岡部村は、山間に位置する寒村……といっても過疎にあえぐ廃村寸前の集落というわけではない。山間部を移動する際には便利な交通の要所でもあり、小さな町程度には整備された、割に大きな村落だった。 数年前に市町村合併したこともあり、地図上での扱いは村から町に昇格し、いろいろと行政の手がはいっているようだったが、今でもこの辺は旧地区名で岡部村と呼称されているようだ。 俺と長門は昭和の雰囲気漂う田舎町を疲れた足で見物して回った。朽ちかけた小さなネオンが路脇にひっそりと建っているあたりが、まったくもって昭和らしい。「………ねえ。町の見物は後回しにしない? 遭難寸前の慣れない山道で私は疲れた」俺の段取りが悪かったと暗にほのめかす口調で、トゲトゲしく長門がぼやいた。あれもちょっとしたレクリエーションだったと割り切ってくれよ。電話で聞いた話によれば、俺が予約している民宿はこの辺りにあるという。民宿の屋号は「おかべ」。村の名前をそのままつけただけの、実に分かりやすい安直な名の宿だ。 「………山間の村というから、見渡す限りの田園と丘陵に囲まれたゲゲゲの鬼太郎に出てきそうな村を想像していたけれど、そうでもないことに驚いた。老人しかいないと思っていたけれど、私と同い年くらいの子たちもいるようだし」 ママチャリで並列走行する女子高校生の一団とすれちがう。長門はずいぶん意外そうに、その後ろ姿を見送っていた。どんな先入観を持って来たんだよ。携帯電話やラジオの電波が届かない村とかならあるが、さすがにそんな村はないだろう。そこまでいくと村じゃなくて集落だろう。妖怪ポストでもあると思っていたのか。
そうこうしていると、村の商店街の脇に『民宿おかべ』という古ぼけた看板を見つけた。こういっちゃなんだが、長門に指摘されるまで、俺はそれがただの駄菓子屋だと思っていた。それくらい小さな民宿だった。 確かに経費をおさえるために安い宿を選びはしたが、よもやこれほど小さいとは。せっかくの旅行なのに宿が気にいらないと長門がごねやしないかと心配していたが、意外にも長門はこの民宿を気にいったようだった。 「………これこそ寒村といった風情で、イメージにピッタリ。民宿はこうでないと」だから寒村じゃないって。こいつの感性もいまいち理解しがたい……。
民宿ののれんをくぐると、ガタイのいいスポーツマンタイプの男性が奥から現れた。小さい民宿だとばかり思っていたが、意外にも奥行きがある。もしかしたら、ここは長屋のように細長い家屋なのかもしれない。岡部と名乗った宿の主人は、熱血漢然とした顔を嬉しそうにほころばせ、俺たちを中に招き入れた。「実は私、ハンドボールの全国大会で優勝したことがあるんですよ」と人の好さそうに語る岡部さんの後について板目の廊下を歩いて行くと、障子に区切られた部屋に通された。どうやらこの2階の一室が、俺たちに割り振られた寝所らしい。一室といっても部屋の間は襖で仕切られているから旅の男女2人客にも安心だ。 部屋に荷物を置き、ブラインドを開けてみる。薄暗かった部屋にさっと明るい陽の光が差し込んだ。窓を引くとサッシのすれる音とともに肌寒い空気が流れ込んできた。 この界隈にはビルなんて無粋なコンクリートの塊はなく、見渡す限り1階か2階建ての木造建築ばかりだ。2階に位置する窓から外を見渡せば、商店街の有り様が一望できる。ささやかなジオラマ景観ではあるが、絶好のロケーションだ。 「お客さんたちも、あれですか。明日の新嘗祭の見物に来たクチですかね」物置から布団を担ぎ出しながら、主人の岡部さんがそう尋ねる。ここは観光要素などまったくない静かな山村だ。旅行客がくるとしたら、それが一番大きな理由なのだろう。 「………そう。黄金の像を見学にきた」ふんふんと鼻息をもらしながら長門はそう答えた。あまり興味なさそうに振る舞っていたくせに、やはり長門も100年に一度しか公開されない純金の像には好奇心をくすぐられていたらしい。 「100年に一度しか開帳されないから、地元の人間も神様を見たことがなくてね。いい年した中年たちも、明日の祭は楽しみなんですよ」長門の様子におかしくなったのか、白い歯をむき出しにして岡部さんは快活に笑った。そりゃ100年に一度しかお目にかかれないお偉いさんなんだ。当然誰も知らないだろうよ。110年くらい生きてるご老体がいたら話は別だが。けっこう宣伝もされてるみたいだし、さぞかし明日の新嘗祭は盛大なものになるんだろうな。今から楽しみだよ。あちこちからマスコミ関係者も集まってくるんじゃない? インスタントカメラの買い占めしておけば大もうけウハウハ間違いなしんじゃね? 「………またお金の話」辟易した長門の横目を無視していると、岡部さんが苦笑まじりにお茶菓子の入った盆を机の上に置いた。「村のご神体は撮影不許可なんだよ。記者が来て取材をする分には構わないが、カメラやビデオの類は持ち込みできないんだ」「………それでこそ未開の山村の神様。霊験あらたかでありがたみがある」神妙な顔をして長門がうなづいた。だから未開の地じゃないって。どういうイメージを持ってきたんだよ。アマゾンにでも来たつもりなのか?
さわやかな笑顔の似合う主人と世間話をしていると、下の階から引き戸の開く音とごめんくださいという控えめな男の声が聞こえた。「おっと。予約をされてたお客さんが到着したようです。お出迎えに行ってくるんで、それじゃ、ごゆっくり」慌てた様子で岡部さんは手をふり、部屋の障子を閉めて階段を下りていった。俺たち以外にも宿をとっていた旅行者がいたのか。俺が思った以上に、この村の収穫祭は有名なのかもしれないな。有名で規模の大きなお祭りなら、イヤでも気分は盛り上がるもんだ。これで長門がいい気分になってくれれば、俺も50万を手に入れられる。そうなれば長門もハッピー、俺もハッピーでいいことづくめ……って、さっきから長門が部屋の窓から外に向かって手を振っているようだが、なにしてるんだこいつ。村の小学生にでも呼びかけているんだろうか。精神年齢が近い分、共感するものがあってもおかしくはないだろうが。 「………ちがう。小学生ではない。あなたもよく知っている人がいる」俺もよく知っている人? はて。こんな辺鄙な村に知り合いなんていないが。誰だろうと思い、俺は長門の横から窓の外へ首を出す。民宿の表庭が見渡せる。そこには、見覚えのある人物が上を向いて笑顔で手をぱたぱたしていた。「長門さんがいたからもしかしたらと思ったら。やっぱり谷口くんもいたのね」あぜ道に咲いた一輪のチューリップのように華やかで美しい女性がそこに立っていた。朝比奈さんじゃないですか。こんな日本の隅っこみたいな場所で会えるなんて、奇遇ですねえ。いやあ、はっはっは。嬉しい偶然だな。いや、ちょっと待て好青年。朝比奈さんがいるのはいいが、この人がいるということは、まさかオプションであの男もいるということでは……。にわかに嫌な予感を感じる俺の背中を長門がつつく。後ろを向けという合図だろうか。天使のように微笑む朝比奈さんに挨拶して後ろを振り向くと部屋の入り口に、オレンジ味と思って飴を口に入れたらミント味だった子供みたいに苦々しい顔をしたキムチ男が立っていた。 「……なんでお前がいるんだよ」……なんでお前もいるんだよ。
以前海へ旅行に行った時に友情を固めた朝比奈さんと長門はこの思わぬ再会に喜び合い、部屋の真ん中できゃっきゃと楽しそうに話している。俺とキョンは畑の畝みたいに狭いベランダに出て、お通夜のようにぽつぽつと話し合っていた。朝比奈さんや長門から見れば、俺たちはベランダ際で肩を並べて外の風景を眺めつつ、静かに積もる話などを訥々と語り合っている友人同士に見えることだろう。 しかし今の俺たちの会話は、そんな朴訥なものではない。偶然にも出会ってしまった2組の旅行者の今後の対応策を模索する緊急シリアス臨時サミットなのだ。
「俺も朝比奈さんもさ、仕事の合間をぬってようやく楽しみにしてた旅行に来られたんだよ。そりゃ大勢でわいわい言いながら楽しむ旅行もいいけどさ、今回は2人きりでゆっくり過ごしたいと思うんだ。だからさ、あれだよ。なんて言うか、空気よんでくれない?」 山端にかかる積乱雲を眺めながらキョンが湯飲みをかたむけた。俺もかくかくしかじかなワケがあって、今回の旅はしくじれないんだよね。だから俺としても今回ばかりは慎重に行程を進めたいと思っていたところなんだ。だからさ、頼むよ。俺の顔を立てると思って手をひいてくれないかな。いや、マジで。 遠くの方で、祭の開催決行を告げる空砲の音がした。「利害が一致するなら、話は早いな。俺もお前も互いに干渉し合わないということで行こうじゃないか」ああ。その件については異存ない。
ある程度予想はしていたが、俺の意見もキョンの意見も基本的な部分ではまったく同じで共通していた。例の海の件といい夏祭の件といい、とにかくこいつがからんでくるとろくなことがない(それはキョンにとっても同意見なのだろうが)。穏便に丸く収まる事も、俺とキョンが関わり合うと化学反応をおこしたように腸捻転にねじれておかしくなってしまうのだ。 それが分かっているから、互いに干渉しあいたくないという点では俺もキョンも同意見なのである。同意見なのだから両者が協力し合ってスケジュールを円滑に運べるよううまく調節しよう、となればいいんだが、しかし積年のつらみがあって俺もキョンも相手に譲歩しようなんて殊勝な心根はないわけで。
「なあ谷口。この向こうの国道沿いにビジネスホテルがあるらしいぞ。こんな小さな民宿より、そっちの方がいいんじゃないか? きっとここより便利だと思うぞ。宿を変えてみたらどうだ?」 いやいや。俺はお前とちがって貧乏だからさ、予算的にも、ちょっとね。それに貧乏性だからさ。こういうこじんまりとした宿の方が落ち着くんだよ。うん。お前のマンションって立派なところだよな。住み慣れたマンションに比べて、こんなボロい民宿じゃ居心地悪いんじゃない? ビジネスホテルの大きい部屋ならまだマシなんじゃね? そっちに移ったら? 「いやいやいや。こういう和風で情緒ある宿っていうのもたまにはいいじゃないか。手狭でも、自宅とまったく違う環境だと新鮮で楽しいもんだよ。お前がビジネスホテル行けよ」 お前はよくてもさ、朝比奈さんがかわいそうだよ。お前は川原で寝袋かぶって寝ても平気かもしれないけどさ。朝比奈さんも慣れない田舎旅で疲れてるだろうし、広い部屋でのびのびしたい気分なんじゃない? 彼女のためにも、お前が行けよ。 「朝比奈さんが、たまにはこういう民宿もいいだろうって言ったんだよ。つまり俺たちがここにいるのは朝比奈さんの希望なんだ。お前こそ、長門さんのためにも上等なところに宿を移すべきなんじゃないのか。彼女、見たところ運動とか苦手そうだし。ゆったりできるホテルで休ませてやるのが年長者としての義務なんじゃないのか。出てけ」 心配無用だ。あいつはああ見えて、一人でほいほいデスバレーに出かけて行くくらい神経の太いやつなんだ。富士の樹海に分け入っても平気な顔して出てくるだけのタフさはあるんだぜ。お前だけ出てけ。 「ほんと、マジで。マジだから。300円やるから出てってくれよ」300円で宿かえるって、どんだけだよ。せっかくだからお前、人生の後学のためにもここらで野宿でもしろよ。もう、マジで。「マジで?」マジで。
清水寺の舞台上から眼下を眺める観光客のようにしんみりしていた俺とキョンは、障子を開けて入ってきた岡部主人の遠慮がちな声でふり返った。お休み中すいません、と言って部屋の入り口で困ったふうな笑顔で笑っている岡部主人の手には、黒い布製の背負い袋が握られていた。「あれ? それ、キョンくんのバック……?」ああ、やっぱりそうでしたか、と呟きながら岡部さんはキョンの物らしい背負い袋を畳の上に置いた。「他のお客さんが似たようなバックを持っていてですね。どうやら朝比奈さんが、そのお客さんのバックをご自分の物と間違われて持って行ってしまったみたいなんですよ」 岡部さんから受け取ったバックの中身を確認し、ああ!と素っ頓狂な声をあげる朝比奈さん。なんだかよく事情が飲み込めなかった俺だったが、目の前の状況を見ていて、なんとなく分かってきたぞ。 おそらく、朝比奈さんが間違って見ず知らずの人のバックを持ってきてしまったということなのだろう。なるほど。そこにある2つのバックを見比べてみれば、まったく同じ物としか思えないほどそっくりだ。これじゃ朝比奈が間違えるのも無理はない。 「ごごごめんなさい! キョンくんのと間違えて見ず知らずの人のバックを持ってきちゃうなんて……」顔を真っ赤にしてぺこぺこ頭を下げながら、朝比奈さんは岡部さんに脇に置いてあったバックを差し出した。「私ったら、なんてことを……」誰にでも間違いはあるものですよ、朝比奈さん。気に病むことはありません。むしろ、朝比奈さんに自分の袋を持たせたこの男に非があるのです。そう、悪いのは全てこのキムチ男です。 「違うの、谷口くん。キョンくんが岡部さんと話をしている時に、私が勝手に床に置いてあったバックを持ってきちゃったの。だから、私が悪いのよ」大げさなほど手をふってキョン悪人説を否定する朝比奈さんの前に、真剣な顔つきでキョンが膝をつく。「違うんです、朝比奈さん。俺も朝比奈さんが背負い袋を持って行くのを知っていたけれど、それが自分の物だと勘違いしていたから敢えて口にせず任せていたんです。だからやはり俺にも責任があるんです」 「ううん。それでもやっぱり、バックを間違えた私が悪いの。ろくに確認もしなかったんですもの」「いえ、紛らわしいところに袋を置いた俺が悪いんですよ」なんだこの2人。俺たちの目の前で、俺が悪い私が悪いとエンドレスに自責を続けるバカップル。なんかもう相手をするのも疲れてきたのだが、何故こうもバカップルはところかまわずイチャイチャイヤンモードに突入できるものなのか。今に始まったことじゃないとはいえ、モラリストであるところの俺には理解しかねるね。
手に手をとりあう2人の男女を前に、果たして俺たちは今どういう行動を起こすべきなのかを考えあぐねていると、何者かがドカドカと階段を上がってくる足音がきこえてきた。 階段を登ってきた足音は俺たちの部屋に近づいてくると、岡部さんの後ろにまでやって来た。やたらあわただしい様子に、さしものバカップルもウッフンヘヴンから現実世界に還ってきたようだ。 「あんたらか、俺のバックを勝手に持って行きやがったのは」不機嫌そうな口調で、目つきの悪い男が岡部さんを押しのけて部屋の中に入ってきた。悪そうな面だが、強盗というわけではなさそうだ。もしかして、この男が例のバックの持ち主なのだろうか。 「藤原さん、橘さん」岡部さんが手に持っていた黒い背負い袋を、藤原と呼ばれた目つきの鋭い男はふんと鼻を鳴らして奪い取った。どうやらこの男性、悪いのは目つきだけでなく機嫌も相当に悪いようだ。大事なバックを勝手に持ってかれたわけだからご機嫌斜めなのも分からないではないが、それほど怒ることもないだろう、と思う。 藤原という男の横には、同じくあまり機嫌がよくなさそうな面持ちの女性が腕をくんで並んでいた。この人が岡部さんの言っていた、橘さんなのだろう。「俺たちはあんたらみたいな呑気な観光客じゃなくて、仕事でここに来ているんだ。大事な商売道具の入った袋を勝手に持って行かないでもらいたいもんだな」「ごめんなさい、私たちのバックと似てたものだから、つい間違えてしまって……」おろおろと応じる朝比奈さんに、男は眉をひそめて背をむける。「ふん。そっちの都合で迷惑を被らされた俺の身にもなってほしいもんだ」気をつけろよと荒い語気で言い放ち、目つきの悪い男と女性は階下へ降りて行った。残された俺たちは、一言も言葉を発することなく、ただ呆然とそれを見送っていた。なんだあの言い草は? いくら被害者だからって、もうちょっと言い方ってもんがあるだろうに。朝比奈さんだってわざと袋を間違えたわけじゃないんだから、そこも分かってやれよ。という気持ちが憤懣と頭の片隅にくすぶっていた。 うつむいて落ち込んでいる朝比奈さんの肩に手をかけ、キョンが慰めの言葉をかけているようだった。自分の間違いに反省して謝罪しているのに、あんな態度をとられたら、そりゃ落ち込みもするよな。
はたから見ればバックを取り間違えることくらい、大した問題じゃないから落ち込む必要もないと思うんだが、心優しい朝比奈さんのことだ。あの2人連れの機嫌の悪い気色に圧されて、必要以上に罪悪感を感じてしまっているのだろう。かわいそうに。 だが、いくら言い方が厳しいからって、あの藤原さん橘さんに非があるわけじゃない。あの2人を悪者にするわけにもいかない。朝比奈さんには自分で立ち直ってもらうしかないな。 それにしてもあの2人連れ、どこかで見たことがあるような顔だったが……思い出せない。気のせいか。
少しあわてた様子で民宿おかべの一階の部屋に戻ってきた藤原と橘は、勢いよく障子戸を閉め、滑稽なほどそわそわと畳の上に座り込んだ。「もう、どういうことよ!? ちゃんと管理しておきなさいって言っておいたでしょ!?」「んなことは分かってるよ。俺だけのせいかよ? お前が小銭を落として見つからないから俺にも探すの手伝えって言ったから、仕方なく手伝ってやってた間のことだろ」 「それでもちゃんとしてくれないと困るわよ。目立たないように、わざわざこんな地味でボロい民宿にまで泊まってるんだから」黒い背負い袋をはさみ、2人の男女は早口で互いに不満をまくしたて合っていた。その様子からは、仲の良い友人や恋人、肉親関係者とは思えない雰囲気が感じられる。少なくとも、2人は良好な関係にある者同士ではないようだ。ならば、何かの目的を一にする利害関係者というところだろうか。 藤原は軽く舌打ちして背負い袋のチャックを開き、中の荷物に変わりがないかを入念にチェックする。バレーボールが2つは入りそうな深さの武骨なバックの中には、ちょっとした器物の修繕に使えそうな工具が金物箱にごっそり詰まっていた。「まさか、見られてないわよね……」「大丈夫だって。素人目にはただの工具にしか見えないんだ。もし見られてたって、ただの仕事道具くらいにしか思われていないだろうよ」袋の中身を確認し終えた藤原は乱暴にチャックを閉めなおし、バックを部屋の隅に転がした。「でも、少しでも警戒されるようなことは慎まないと」「だから分かってるって。もうこんなヘマはしねえよ。純金の像を盗み出して高飛びするまではな」分かってるのならいいのよ、と言って橘はため息を漏らした。それ以上彼女は何も言わなかったが、その口はまだまだ藤原に対する不満が噴出しそうに、むずむずと小刻みに震えていた。 しばらく部屋の中にはよどんだ重い空気が漂っていたが、そんな沈黙に耐えかねたのか、藤原は最高に不機嫌な表情で机に置いてあった財布を手に取ると黙って部屋から出て行った。
俺とキョンとの、表通りのビジネスホテルへ移る移らない協議は、朝比奈さんと長門の介入のため一時中断される運びとなった。廊下をはさんで向かいの部屋同士、互いに干渉しない、冷戦もやむなしという妥協案を採用し、一応の決着としたのだった。 今回は互いにフィフティーフィフティーの妥協案で手を打ち引き分けのノーコンテストとなったわけだ。が。しかし、俺の中ではどうにも煮え切らない沸点の高い不満がゆるゆると揺らめいていた。俺は脇で黙々と本を読む長門に目をやる。あっち側には朝比奈さん。こっち側には長門有希。この差は一体なんなのか。表には絶対出さないが、心の中でこう感じていることは否定できない。なんか俺、負けてない?
朝比奈さんと長門有希を比べて、どちらが人間的に上位であるのかなんて言うつもりはないよ。同じ人間に順位なんてつけられるわけがない。法律に門地や出自で人間を差別してはいけないと決められているからNGと言っているわけじゃない。どんなに社会的地位や生活環境に違いがあっても、人間は人間。同じ体組織、同じ哺乳類、同じ生物。その存在に差異などあるはずもない。 って、なんかものすごく詭弁っぽい言い訳をこねてしまったな。理屈なんて必要ない。同じ人間に順位なんてない。まして、一介の私立探偵ごときに人の価値を絶対的に決められるわけもない。だから俺と長門有希がこっち側で、キョンと朝比奈さんがあっち側であったとしても、それを勝ち負けなどで考えること自体がナンセンスなバカバカしいことなんだよ。アーユーオーケー? アイムオッケー! イヤー! とは言ったものの。それでもやはり……ねえ。俺の価値観の中だけで通用する絶対的ランキングで言うならば、長門よりも朝比奈さんの方が上位にランクインしているという事実もまた………
いやいやいや、負けていない! 絶対に俺はキョンごときに負けてはいないはずだ!そうだよ。俺はキョンなんかに負けちゃいないんだ。俺的ランキングで長門有希が朝比奈さんより下? そんなはずはない。ほら、よく考えてみろよ。長門は長門でいい所もたくさんあるじゃないか。長門の長所は、あれだよ。 ええと、ほら……。アレだよ。ええと……家が金持ち! いや、それは長門本人の長所じゃないか。そうだな。思いやりがあるところとか。そう、思いやりがあっていい子だよな、長門は! よくうちの手伝いもしてくれるし、そういう意味では朝比奈さんと勝るとも劣らない長所じゃないか。そう。そうだよ。長門は思いやりがあるんだよ。 自分の脳内で二転三転する議論討論の末、自己暗示チックな屁理屈で無理に自分にそう言い聞かせると、俺はうんうんと頷きながら本に熱中する長門の顔を眺めた。そう考えると、こいつも健気でかわいらしい淑女に思えてくるから不思議なもんだ。
ひとりで腕を組んでうんうんと頷いていると、不意に長門が顔をあげて俺を見返した。「………兄貴、お茶いれて」………。ご、50万のためだ。50万のため……。俺よ、我慢するんだ。
~つづく~
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